2020年8月19日水曜日

【時習26回3−7の会 0825】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之五〔第43回/第412句~420句〕」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第13回〕『越後路』」「【08月の想い出】集」

 
 

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0825】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第43回/巻之五~第412句~420句〕」をご紹介する。

  
曠野集 巻之五

   初冬

412 あめつちのはなしとだゆる時雨(しぐれ)(かな)  湖春(1)

【意】風が天地の言語ならば、急に雨を降らして過ぎ去っていく「時雨」は、話声の途切れた間になるのだな / そして、其の自ずから降り来る「時雨」に暫し感興を催し、言葉もなく寂しい音に聞き入る風雅人の面影が浮かび上がって来る

【解説】季語:時雨=初冬 / この句の原典は『いつを昔』/ 【前書】「風声ハ天地ノ語ナリとあるを」=【意】風の音は天地自然が人間に何かを伝えようとするもの/ 典型的な「談林俳句」

(1)北村湖春(きたむら こしゅん(1648-97(元禄100115)):北村季吟の子の北村季重 / 通称:休太郎 /『続山井』編者

 

(きやう)なる人に申(まうし)(つかは)しける

413 一夜(いちや)きて三井寺(みゐでら) (1)うたへ初(はつ)しぐれ  尚白(2)

 

【意】初時雨に感動して京の友人に手紙を書いた / 是非私を訪ねて下さり、謡曲『三井寺』を一曲謡って貰いたいものだ / 其の『三井寺』に「妾(わらは)をいつも問ひ慰むる人の候 / あはれ来り候へかし、語らばやと思ひ候」とある様に‥

【解説】季語:初しぐれ=初冬 /

(1)三井寺:謡曲『三井寺』のこと

(2)江佐尚白(えさ しょうはく(?-1722(享保070719)):江左氏 / 千那の親友で貞亨02年以来の膳所蕉門の一人 / 医者 / 句集に『忘梅』/ 最後には、この書物の出版を巡り師弟間が事実上崩壊した

 

414 はつしぐれ何(なに)おもひ出()すこの夕(ゆふべ)  湍水(1)

 

【意】冬の到来を告げる初時雨 / 此の一年の様々思いが胸に去来したが、どれ一つ思い定める間もなく、時雨は足早に降り過ぎ去って行って仕舞った

【解説】季語:はつしぐれ=初冬 /
(
1)湍水(たんすい(生没年不詳)):尾張国の人 /『あら野』等に入句

 

万句興行(1)

 

(1)万句興行:は多勢で開く句会 / 一日や短時日の間に百韻俳諧を百巻を制作したというが、実態は不明

 

415 ()しり逢()ふ人(ひと)のやどりの時雨(しぐれ)(かな)  荷兮(1)

 

【意】互いに顔見知りではあるが、こんな一時(いちどき)に一箇所に集まることは珍しいことだ /「万句興行」の場は恰も「初しぐれ」の雨宿りをしている様だ。

【解説】季語:時雨=初冬 /

(1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 1693(元禄06)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある

 

人を待(まち)うくる日に(1)

 

(1)人を待(まち)うくる日に:丹羽蕉笠の書留に拠れば「翁来り給ふ日に時雨して」の【前書】がある / 1687(貞享041125)、名古屋桑名町の荷兮亭で、芭蕉を待ち乍ら詠んだもの

 

416 今朝(けさ)は猶(なほ)そらばかり見るしぐれ哉(かな)  落梧(1)

 

【意】時雨模様の此の頃ではあるが、今朝は特に空模様が気にかかり、何度も空を眺めている / 時雨は、天候の定まらない処を昔から詠まれて来たが、其れが特に待ち人のある時は気になるのだ

【解説】季語:しぐれ=初冬 /

(1)安川落梧(やすかわ らくご(1652(?)-1691(元禄0405(享年40)))1688(貞亨05)年以来の美濃国の門人 / 通称:助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』等に入集 /『瓜畠集』を編集するも病魔に倒て未完 / 長良川近くの稲場山城山陰に別邸を持ち、芭蕉が『笈の小文』の旅の途次此処に立ち寄った / 芭蕉は、「奥の細道」に出立する直前の1689.05.12(元禄020323)に落梧宛に紙一束受贈の礼状を書き、此れが「奥の細道」出発日付確定の根拠となった

 

417 (つり)がねの下(した)(ふり)のこすしぐれ哉(かな)  炊玉(1)

 

【意】時雨が足早に降り過ぎて行った / だから釣鐘堂に振り込むことはなく、釣鐘の下は乾(かわ)いた儘残っている

【解説】季語:しぐれ=初冬 /

(1)炊玉(すいぎょく(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に2句入句

 

418 (わた)し守(もり)ばかり簔(みの)()るしぐれ哉(かな)  傘下(1)

 

【意】時雨が渡し舟の上に降って来た / 見れば客は誰も雨具を付けていないが、船頭だけ確り蓑を着て時雨対策が為されている

【解説】季語:しぐれ=初冬

(1) 藤傘下(かとう さんか)(生没年不詳):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』、『曠野後集』等に入句

 

419 こがらしに二日(ふつか)の月(つき)のふきちるか  荷兮

 

【意】強烈な凩が吹いている / 三日月に至らぬか細い二日月は、其の凩に吹き落とされて仕舞うのではなかろうか

【解説】季語:こがらし()=初冬 / 此の句については、『去来抄』にあり、芭蕉は「二日の月」に頼っただけのものと評したという / しかし、この句は人口に膾炙し、荷兮の名を有名にした

(1)

 

420 一葉(ひとは)づつ柿(かき)の葉()みなに成(なり)にけり  一髪(1)

 

【意】柿の葉は、紅葉の進捗具合や落葉する時期が実にばらばらだ / 其れでいて何時の間にか葉も無くなり、枯れ木になっている

【解説】季語:柿落葉=初冬 /

(1)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明

 

【小生 comment 】

 次回は、俳諧七部集『あら野』から 巻之五〔第44回/第421句~430句〕をご紹介する。お楽しみに!

 

■さて、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第13回目についてである

 20150814()付【時習26回3-7の会 0561】~〔前略〕「『奥の細道』第13回‥【越後路】」〔後略〕

  ↓ ↓ ↓

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/26-056126371013.html

 

[01]「荒海や佐渡によこ(=)たふ天河(あまのがは)」のimage写真

 

 〔 北陸道:元禄二年六月二十五日から七月十二日 〕

 〔 因みに、今日新暦0814日は、331年前は旧暦六月二十九日で、芭蕉と曾良が酒田を発って4日目に当たる〕

 

 前回の第12回は、象潟から帰って来た芭蕉と曽良が元禄二年六月十八~二十四日(新暦080309)にかけて、玄順亭(=伊東玄庵=淵庵不玉)(推定)7泊した処迄お伝えした

 今回は、元禄二年六月二十五日から七月十二日(新暦0810日~0826)の処迄ご紹介したい

 六月二十五日(新暦0810)、芭蕉と曾良は酒田・淵庵不玉の許を発って北陸道を南進、加賀国・金沢を目指した

 

 六月二十五日(新暦0810) 大山 / 丸屋義左衛門宅泊 / 天気吉(よし)、夜雨降る

 同 二十六日(新暦0811) 温海(あつみ) / 鈴木所左衛門宅泊 / 晴、未刻少し前(午後一時頃)より少雨す、暮に及び大雨、夜中(じゅう)止まず

 同 二十七日(新暦0812) 中村(現・北中) / 宿記載なし / 雨止む、のち折々小雨す

 同 二十八~二十九日(新暦081314) 村上 / 大和屋久左衛門宅泊 /〔13日:朝晴、のち甚だ雨降る、追付止む / 14日:天気吉(よし)

 七月一日(新暦0815) 築地(ついじ)村/次市郎宅泊 / 折々小雨降る、昼過ぎ大雨、即刻止む、申上刻(午後三時半頃)雨降り出す、夜甚だ強雨す

 同 二日(新暦0816) 新潟 / 大工源七宅泊 / 朝雨止み曇、昼時分より晴、アイ風出る

同 三日(新暦0817) 弥彦 / 宿記載なし / 快晴、風

 同 四日(新暦0818) 出雲崎 / 宿記載なし / 快晴、風、夜中雨強く降る

 同 五日(新暦0819) 鉢崎 / 俵屋六郎兵衛宅泊 / 朝迄雨降る、辰上刻(午前七時半頃)止む、間もなく雨降る、のち小雨折々降る

 同 六日(新暦0820) 今町(直江津) / 古川市左衛門宅泊 / 雨晴る、午後雨降り出す

 同 七日(新暦0821) 今町(直江津) / 佐藤元仙(右雪)宅泊 / 雨やまず、昼暫くの内雨止む、夜中風雨甚だし

 同 八~十日(新暦082224) 高田 / 池田六左衛門宅泊

 〔新暦22日:雨止む/新暦23日:折々少雨す/ 新暦24日:折々少雨、夕方より晴〕

 同 十一日(新暦0825) 能生(のう) / 玉屋五郎兵衛宅泊 / 快晴、暑甚だし、月晴

 同 十二日(新暦0826) 市振〔午後4時頃到着〕/ 宿記載なし / 雨降らんとして晴れ、暑気甚だし

 

【越後路(えちごじ)

 

《原文》

 

 酒田の余波(なごり)(1)日を重(かさね)て、北陸道(ほくろくだう)(2)の雲に望(のぞむ)(3)

 遥々(えうえう)のおもひ(4)胸をいたましめて、加賀の府(5)まで百卅(=三十)(6)と聞(きく)

 鼠(ねず)の関(7)をこゆれば、越後(ゑちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶり(=市振:いちぶり)の関(8)に到る

 此間(このかん)九日(9)、暑湿(しよしつ)の労(10)に神(しん)をなやまし(11)、病(やまひ)おこりて(12)事をしるさず

 

  文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜()には似ず

 

  荒海や佐渡によこ(=)たふ天河(あまのがは)

 

《現代語訳》

 

 酒田の人々と名残り(1)を惜しんで、滞在の日数(ひかず)を重ねていたが、愈々是から発つべき北陸道(2)の空を多く眺めやる(3)

 前途遥かな道程(みちのり)を思う(4)と心が痛み、聞けば加賀の国府(5)金沢迄は百三十里(6)という

 奥羽三関の一つ「鼠の関(7)」を越えると、越後の地に歩みを進め、更に越中の国「市振の関」(8)に到った

 その所要日数は九日(9)で、暑さと雨降りの辛労(10)で気分が優れず(11)、病に悩まされた(12)為、道中の事は書き記さなかった

 

【意】今宵七月六日の夜は、普段の夜とは違い、何となく華やいだ気持ちになるヨ

   何故なら、今宵は、牽牛と織女の二星が天の川を渡って年に一回の逢瀬を楽しむ七夕の前夜であるから

 

【意】荒波が立ち騒ぐ日本海を眺めやると、天の川が遥か彼方にある佐渡島迄横たえる様に架かっている

   正に雄大な景色だ

 

【解説】

「荒海や佐渡によこたふ天河」の句について、山本健吉氏は次の様に述べている

 「荒海や」の有名な句は何処で詠まれたのか、いまでも出雲崎と直江津とで争っている〔中略〕

 芭蕉が書いた「銀河の序」には、はっきり出雲崎と書いてある

 出雲崎に泊まったのは七月四日

 翌日は、柏崎で断られて鉢崎に泊まった

 六日は今町(=直江津)の聴信寺で宿を断られたので、憤然として行きかけると、石井善次郎という男が芭蕉の名を知っていたのか、再三人を遣って、戻るよう懇願したので、折節雨も降って来たし、これ幸いと立てた腹を収めて引き返した

 雨の為八日迄居たが、不快の気持ちが消えた訳ではない

 六日の夜徘席が開かれ、「文月や 六日も常の 夜には似ず」の句を披露したが、この日「七夕」と題して、「荒海や」の句も発表したらしい

 出雲崎で作って直江津で披露したと言えば、一応理屈に合う

 だが、私(=山本)は、出雲崎で想を得、直江津に着く迄に形が纏まったのだと考えるのが、一層合理的だと思う〔中略〕

 芭蕉が佐渡と言った時、それはただの島ではなく、古来の有名無名の流された人たちのことが頭にあった

 その歴史的回想のかなしさが、冒頭に「荒海や」と強く置いた芭蕉の主題の色でもあった〔後略〕

 〔‥山本健吉『奥の細道』【越後路】拠り引用‥〕

 

(1)酒田の余波(なごり):余波=名残 / 芭蕉と曾良は、象潟へ向かう前2日と戻ってからの7日間、酒田(不玉の許(推定))滞在

(2)北陸道(ほくろくどう):七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)の一つ

 日本海沿岸の中部地方の七ヶ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡) / 又、これ等の諸国を通過する街道のこと

(3)雲に望む:是から向かう北陸道の旅路の空を遠く眺め、旅路の辛さを思う心境を述べている

(4)遥々(えうえう)のおもひ:「はるばる」と同じ

 曾良本に「遙-ゝ」と朱筆の符号入りで見えることから「えうえう=ようよう」と読むのが通説

(5)加賀の国府:「府」は都 / 加賀藩の城下町・金沢を指す

(6)百卅(=三十)里:『奥の細道』の【出立=旅立ち】の章の「前途三千里のおもひ‥」に対応した叙述

 《会報》【0550http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/26055020528conc.html 参照

 乃ち、芭蕉は、この【越後路】から『奥の細道』の後編が始まる‥と捉えている

(7)鼠の関:「念珠が関」とも言う / 出羽国から越後国へ越える国境の、海岸近くにあった関所

 現・山形県西田川郡温海町に属し、羽後線「鼠が関」駅の北1kmの所に関跡の碑がある

(8)越中の国一ぶり(=市振:いちぶり)の関:「市振」と書く / あと1里足らずで越中だが、正確にはまだ越後国

(9)此間(このかん)九日:「此間」とは「鼠が関」と「市振関」、乃ち「越後路」を指している

 芭蕉と曾良は、六月二十七日(新暦0812)に「鼠が関」を越え、7月十二日(新暦0826) 市振に到着している

 従って、実際の所要日数は14日間であったが、当時、同区間は九日で踏破可能だったのであろう

(10)暑湿(しよしつ)の労:「暑湿」=暑さと湿気(=)に拠る疲労

(11)(しん)をなやまし:「神」は心・魂

(12)(やまひ)おこりて:【飯塚(=飯塚温泉)】の章でも述べたが、芭蕉には、疝気(さんき(胆石症が‥))と痔疾の持病があった /「癪」即ち、胃痙攣という説もある

 《会報》【0553http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/260553263750613.html 参照

 

【小生comment

 芭蕉の『奥の細道』も、【酒田】【象潟1&2】【越後路】と来て、文脈に何処かうら寂しさを感じるのは小生だけだろうか?

 出羽・越後・佐渡という旧国名から「裏日本」→「うら寂しさ」が伝わって来るのは、日本人の文化なのかもしれない

 象潟から帰って7日間酒田に滞在し、その後更に14日間かけて「市振」に至る迄の行程350km(≒九十里)

 この間で『奥の細道』に収録されている俳句は【越後路】の章にある「文月や」と「荒海や」に二句だけである

 この道中に歌枕や史跡・名勝が少ないことも、「うら寂しさ」に繋がっているものとみられる

 

■今日最後の話題は、【時習26回3-7の会】の【08月の想い出】を中心に7月末~08月半ばにかけて Facebook up した記事から幾つかご紹介する。

 一つひとつをご紹介すると大変長文になるので、URLを添付するので、其処を click して詳細は原典をご笑覧願いたい。

 

2020/07/31【中国酒泉の『夜光杯』と『江戸切子』ぐい呑み】

 

[02][]「『夜光杯』と『江戸切子』ぐい呑み」を前にして

[右上]江戸切子ぐい呑み

[右中]中国酒泉 夜光杯

[右下]ぐい呑みに日本酒を()、夜光杯に葡萄酒()

 

 今日、Amazonとヤフオクで注文していた、「江戸切子の『ぐい吞み』」と、「中国酒泉の『夜光杯』」が同時に届いた

 夜光杯というと、盛唐の詩人王翰の「涼州詞」が直ぐに浮かんで来る

 

涼州詞  王翰(おうかん(687-726))

葡萄美酒夜光杯 / 欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑 / 古来征戦幾人回

 

葡萄の美酒 夜光の杯 / 飲まんと欲すれば琵琶 馬上に催す

酔うて沙場に臥すとも 君笑うこと莫れ / 古来征戦 幾人か回る

 

【現代語訳】

葡萄の美酒を(夜星の光でも光るという)夜光杯で飲む

飲もうとすると馬上からは琵琶の音色が聞こえて来る

酔い潰れて砂漠に倒れ伏して仕舞った私を笑ってくれるなよ

古来、辺地に出征し無事生還した者がどれ程いるだろうか

 

 一方、日本酒は、「江戸紫()」の此の「江戸切子」で飲むと格別である

 ご覧の様に、早速葡萄の美酒を夜光杯に、日本酒を江戸切子のぐい吞みに入れて飲んでみた

 チョー美味しかったヨッ!

 

 日付は08月になったが、まだ2012年の【07月の想い出】をご紹介していなかったのでご紹介したい

 

 時習26回生のミニミニ【1-4】のクラス会の模様についてである

 

 2012714()【時習26回3-7の会 0402】~〔前略〕「0707日:『時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで‥』開催報告」

 ↓ ↓ ↓

http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/26-0402262012-p.html 

 

2020/08/01【時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで】1

 

〔前略〕『時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで‥』についてである

 本《クラス会》は、掲題・副題にある様に『故・山田H君を偲んで』開催したものである

 本会に至る経緯(いきさつ)を述べると以下の通り‥

 実は小生、(2012)06月初旬夜09時過ぎだったと思う

 私用で名古屋へ行った帰途上、JR東海・名古屋駅改札口で「おいっ、悟君!」と first name で小生の名前を呼ぶ、何処かで聞き覚えのある声が聞こえて来た

 (誰だろう?)と思い、声がした方を振り向くと、実に懐かしいではないか! / 宮田T(時習26回【3-2】)が立っていたのだ

 再会した時間から言って‥、勿論、彼は仕事の帰りだという

 彼とは時習26回の同期で、旧【1-4】と【2-8】で classmate

 更に、大学法学部まで同窓同期の間柄にある

 彼とは、毎年年賀状の遣り取りをしているので音信はあるのだが、もう十何年会っていない

 実を言うと、この宮田T【3-2】君に、安形S君&故山田H君【3-1】、飯田H君【3-2】、水藤T君【3-6】、そして小生を合わせた6人組が、全員、時習26回【1-4】の classmates

 ついでに言うと、飯田・水藤・宮田・山田・小生の5人は【2-8】でも classmates

 この六人組は、不思議と馬が合った仲間であった

 其処で僅かな時間の立ち話乍ら、久し振りに『全員集合』することで意見が一致 / 5人全員の日程調整をして0707日の《ミニミニクラス会》となった訳である

 こうなると、此処でも幹事役を引き受けた小生、「折角だから女性陣がいた方が《クラス会》が華やいでいいよな」という思いに至った

 其処で、同じ【1-4】の classmate の林K子さんにお願いして都合をつけて頂き、計06人の集いとなったという次第である

 添付写真[02][左上]がその【1-4】の全体写真である

 

 安形・飯田・石川・市川・今泉()(今泉)T(今泉)F / 岩瀬・岩田・梅田・太田・大矢・越智・河崎 / 相楽・白井・杉浦・水藤・(鈴木)K(鈴木)T(鈴木)H / (鈴木)Y・中嶋・波田野・花井・藤川・星野 / 前田・南谷・宮田・村田・森・山田 / 山本・渡辺・伊藤(Ky)(伊藤)Ke・小笠原・河合(S) //(河合)M・内藤・林・細沢・本田・渡辺

 小生、入学当時の【1-4】の模様を鮮明に覚えている

 此れは、高校卒業後の10年余りに亘り、【1-4】の幹事を引き受け、同クラス会開催をずっと coordinate してくれていた岩瀬君【3-4】の貢献が大きい!

 だからか、小生【1-4】の45人の classmates の名前を今でも諳んじることが出来る

 因みに、入学直後の席順は上記名簿順だった / 具体的には、南(職員室)側から北(校庭)側へ、西(教壇)に向かって縦07人×03列、次いで縦06人×04列の計07列が並んだ / 上記名簿の[/]が縦01列の句切れである

 でも【1-4】の classmates は、この 45人のうち、河崎・(鈴木)T彦・村田・山田の4(20200731日現在では、岩田君も加えて5人!)が、全体写真に写っている副担任・内藤KM(愛称:ポケット)先生と共にもう彼岸に行って仕舞っている / 更に言えば、最近は広田先生とも音信不通だ / 41(20200731日現在では49)の歳月はやはり隔世の感がある

 更に余談である‥

 故・山H君を含めたこの我等06人の仲間は、主に高校卒業後も数年間の付き合いがあった / 中でも高校卒業後3年連続で一緒に国内旅行をしたことが、今ではとても楽しく懐かしい貴重な思い出になっている / 3つの旅行とは以下の通りである

 

1. 昭和49081114日:【萩・津和野旅行】(参加者:安形・飯田・水藤・山田・小生)

2. 昭和5008月?~?日:【四国旅行(松山道後温泉・足摺岬他)(同上:安形・水藤・宮田・山田・小生)

3. 昭和52031422日:【九州旅行(長崎市街・平戸・島原・熊本城・阿蘇山・大分市・小倉・鹿児島市(鶴丸城・桜島))・宮崎(青島)(同上:安形・飯田・水藤・宮田・小生)

 

〔中略〕 三回の旅行の中でも、最後の89日の【九州旅行】は半分が車中泊の強行軍で、内容も極めて maniac で豊富であった

 其れは、故・山田&水藤両君がかなりの鉄道maniaであった為、彼等の collaboration に拠る綿密な()計画により、【九州旅行】の移動手段である汽車・列車や路線の随所に「こだわり」が施してあったのである

 例えば、「阿蘇から大分を経由して日豊本線で鹿児島」へ行く処、大分からわざわざ日豊本線を北上して「小倉」まで戻って「小倉からまた大分を通って鹿児島」へ行った具合に‥

まぁ、鉄道に関心の薄いあとの4人にとっては極めて不可解な旅でもあった訳だが‥()

 今だから改めて思うことなのだが、故・山田&水藤両君に心から感謝している

 其れは、もう一生で二度とない様な貴重な経験をさせて頂いたからだ

 具体的には、「肥薩線の大畑(おこば)の『ループ線&スイッチバック式』」と「豊肥本線の立野の『スイッチバック式』」を経験出来たこと等である

 勿論、乗っていた時は、「『ループ線』はただトンネルの中を通っているだけ」であったし、「『スイッチバック式』では「ちょっと前進しては今度はちょっとbackする」‥此の繰り返し」で、「だからどうしたっていうの?」って感じではあったが‥()

 ただ、この楽しかった【九州旅行】で一つ大変残念だったことがある

 其れは、この旅行を計画を立案して一番楽しみにしていた故・山田君当人が(その理由は忘れたが)、参加していないということだ

 天国でもきっと「あの時無理してもみんなと行っときゃ良かった」とボヤいているかも‥()

 添付写真の《ミニミニクラス会》会場で再会した6人はご覧の様に大変若々しく至って元気!

 無茶苦茶楽しい4時間(18:00-22:05)を過ごすことが出来た

 此れが《ミニミニクラス会》最後の余談‥

 週明けに宮田君から《クラス会》幹事の小生宛にお礼のmailが届いた

 宮田君に了解を頂戴していないが、とてもいい文章なので、文脈がズレない程度に一部省略修正してご紹介する

 

「どうもご苦労様でした

 相変わらず、我々の毒舌にもよく耐えて頂いて感謝、感謝です

 恐らく、天国では、山田君が若干の怒りを吐きながらも、聞いていたのではないでしょうか

 〔中略〕土曜日(=開催した【1-4】ミニミニクラス会=)の様に、屈託なく笑い合えるという〔中略〕、大変楽しいというか、違った世界で飲むことができて、悟君に感謝してます

 どうも、ありがとうございました」

 

【小生comment

 こういう慰労の言葉を頂戴すると、万年幹事をやっている甲斐があります!(^-')b/

 前《会報》で、姜尚中氏が「第八章 なぜ死んではいけないか‥何が生きる力になるのか」の中で言っていた以下の言葉と通じる処がある

『「人は一人では生きられない」とよく言います

 〔中略〕自我を保持していく為には、やはり他者との繋がりが必要なのです

 相互承認の中でしか、人は生きられません

 相互承認に拠ってしか、自我は有り得ないのです。』

 小生にとって、【2637の会】membersの皆さんをはじめとする時習26回の同期の仲間達が頼りです

 

[03][左上]時習26回【1-4】全体写真〔197104月撮影〕

  

 [右上]同【2-8】同〔197204月撮影〕

[左下]同【1-4】お別れ会での故・山田H君〔於:豊橋動植物公園(197203)

[中下]【九州旅行~『島原外港⇒三角へのフェリー甲板にて安形君()と小生』】197703

[右下]【九州旅行~『阿蘇山河口付近での4(宮田・飯田・水藤・安形)】同上

 

[04][左上]【九州旅行~『鹿児島城山公園の西郷高盛像の前にて(飯田・小生・水藤・安形)』】同上

[右上]【九州旅行~『同上(飯田・水藤・安形・宮田)』】同上

[左下]時習26回【1-4】ミニミニクラス会での全体写真〔その1〕20120707

[右下]同上〔その2〕同上

 

《クラス会》をimageしてつくった拙歌を二首‥

 

  憧れのひとのその後を聞きしかば 心ときめく我が幼さよ  悟空

  盂蘭盆に口角沫を飛ばし合ふ 友と場のある幸(さち)を噛み締む  悟空

 

2020/08/0708月の想い出】から2018年の第一弾!

 

20180826()【時習26回3-7の会 0719】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之五〔第19回〕』」「0818日:名古屋ボストン美術館→古川美術館→三菱UFJ銀行貨幣資料館→碧南市藤井達吉現代美術館を巡って~〔第1回〕」「0819日:深川不動堂→富岡八幡宮→日本道路元標→東京都美術館→ホテルオークラ美術館→山種美術館→郷さくら美術館東京→東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館→三鷹市美術galleryを巡って~〔第1回〕」

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http://si8864.blogspot.com/2018/08/26-0719-190818ufj10819gallery1.html

 

〔後略〕(‥以下の caption の頭の[ ]内の数字は、原典blog掲載の添付写真番号(以下、同じ))

 

[05][左上][08]Scott Prior(スコット・プライア(1949- ))Nanny & Rose1983

 [右上][29]富岡八幡宮 鳥居前にて

[左下][20]富岡八幡宮 境内 横綱力士碑前にて1

[右下][34]日本橋/日本道路元標にて1

 

 201831()付【時習26回3-7の会 0720】~〔前略〕「0811日:旧東海道「御油」宿から「赤坂」宿迄を歩いて」

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 http://si8864.blogspot.com/2018/08/26-0720-2008110818ufj20819gallery2082531.html

 

[06][左上][07]関川神社内の芭蕉の句碑の横にて
 

[右上][12]古川美術館『特別展「ジュディ・オング倩玉/木版画の世界/~作家ジュディ・オング倩玉の魅力~」』展 leaflet

[左下][25]東京都美術館『藤田嗣治』展 館内入口の混雑ぶり

[右下][42]細川御前田城址石碑にて3

 

 此処では、以下の4点がポイント!

(1) 句碑「夏の月 御油より出()でて 赤坂や / 桃青〔松尾芭蕉〕」がある関川神社

(2) 古川美術館『女優・歌手・木版画家のジュディ・オング倩玉の木版画傑作』展

(3) 東京都美術館『藤田嗣治』展で、彼の人気の高さを改めて実感

(4) 細川・肥後国熊本藩54万石のrootsは岡崎市内の「細川御前田城址」!

 

201899()付【時習26回3-7の会 0721】~〔前略〕「0819日:〔前略〕→富岡八幡宮→日本道路元標→〔後略〕

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http://si8864.blogspot.com/2018/09/26-0721-210818ufj30819gallery3082532083_9.html

 

[07][左上][16]虎ノ門 金刀比羅宮 社殿前にて2

[右上][21]浅井忠(1856-1907)『牛追い』1906

[左下][32]成道山 大樹寺 三門前横の石碑の傍らにて

[右下][47]アクトシティ浜松『Broadway Musical A has CHORUS LINE』会場のホワイエにて3

 

2020/08/09【名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』】

 

 本展は、日本を代表する著名画家14人‥横山大観・藤田嗣治・恩地孝四郎・北河民次・岡鹿之助・福沢一郎・北脇昇・福田豊四郎・吉原治良・宮本三郎・吉岡堅二・山口薫・香月泰男・松本竣介‥の戦前・戦中・戦後の作品を紹介している〔中略〕

 

  20150808()付【時習26回3-7の会 0560】~〔前略〕】」「0801日:名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』展を見て」〔後略〕

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/26-056026379120.html

 

[08][左上][08]本展leaflet/絵は、松本竣介『立てる像』1942

[右上][10]藤田嗣治(1886-1968)『血戦ガダルカナル』1944

[左下][19]宮本三郎(1906-1974)『山下、パーシバル両司令官会見図』1942

[右下][21]吉岡堅ニ(1906-1990)『雨中急追』1941

 

 藤田嗣治は、戦争画については、添付写真[06]『血戦ガダルカナル』(1944)の様にある意味熱狂的に描いた作品が少なくない

 又、宮本三郎も、添付写真[15]『山下、パーシバル両司令官会見図』(1942)の様に報道写真を参考にしたとみられる記録的な作品が有名である

 

2020/08/0908月の想い出】2015年〔其の1〕

 

 08071900分より、吾妻屋ボレロにて0718日に開催した時習26回生還暦祝打上花火 project 実行委員会 members に拠る「御苦労さん会」が開催された

 小生は、実行委員会のmemberではないが、当日の二次会の写真班を勝手に担当して写真の提供をしたこともあり、参加させて貰った

 参加者は、杉浦委員長【3-8】、井垣副委員長【3-3】以下、鈴木、平田【3-5】、今泉、大谷【3-6】、平井【3-7】、長坂、安井【3-9】、杉原【3-9】に小生を加えた11

 委員長の杉浦君【3-8】が制作した記念の「DVD」の試写会も兼ねた慰労会であった

 暫しの今第の後、杉浦君制作のDVDを鑑賞した

 

[09][]参加者全体写真1

 [左下]同上2

 [右下]杉浦君制作のDVD

 

2020/08/0908月の想い出】2015年〔其の1〕

 

  20150814()【時習26回3-7の会 0561】~〔前略〕「DVD『ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)』を見て」

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http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/26-056126371013.html  

映画のDVD『ハンナ・アーレント』についてである

 

 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は、19061014日 ハノーファーに生まれた

 社会民主主義者のユダヤ人家庭に育つ

 14歳の時に読んでいたカントとヤスパースをきっかけに、哲学を学ぶことを決意

 マールブルク(Marburg)大学でハイデガーに哲学を師事するが、一時期は既婚者のハイデガーと不倫関係にあった

 その後、フライブルグ(Freiburg)大学でフッサールに、ハイデルベルク(Heidelberg)大学でヤスパースに夫々哲学を師事

 博士論文は、ヤスパースの指導に拠る「アウグスティヌスの愛の概念」(1928)

 1929年 ギュンター・シュテルンと結婚

 1933年 ゲシュタポに短期間拘束された後、Parisに亡命

 ユダヤ人青少年の Palestina 移住を支援する組織「ユース・アーリヤー(Youth Aliyah)」の資金調達活動に携わる

 1937年 マルクス主義者ハインリッヒ・ブリュッヒャーと出会い、シュテルンと離婚後、1940年ブリュッヒャーと再婚

 同年 France のギュルス(グール)強制収容所に連行されるが脱出

 1941年 母マルタと夫を連れ米国へ亡命、

 その後、ユダヤ系ドイツ語新聞「アウフバウ(Aufbau)」に column を執筆し乍ら生計を立てる

 1944年 欧州ユダヤ文化復興機関で働き始める(‥のち、専任秘書)

 1951年 米国国籍を取得、同年に英語に拠る「全体主義の起源」を出版、

 プリンストン(Princeton)大学、ハーヴァード(Harvard)大学の客員教授を経て‥

 1959年 プリンストン大学初の女性専任教授に就任

 1961年 カール・アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴する為イスラエルに渡航

 1963年 アイヒマン裁判の report をザ・ニューヨーカー誌に連載し、全米で激しい論争を巻き起こす

同年「イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告」を単行本として出版

 同書はホロコースト(=holocaust)研究の最重要文献の一つとなった

 1963年 シカゴ(Chicago)大学教授に就任

 1968 New School for Social Research 教授に就任

 19751204日 心臓麻痺に拠り New York にて死去(享年69)

 

[10][]映画DVD『ハンナ・アーレント』

[]若き日のハンナ・アーレント

 

20150823()【時習26回3-7の会 0562】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告』を読んで」

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続いては、ハンナ・アーレント(1906.10.14-75.12.04)の著書『イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告』についてである

 このお盆休みの一週間の空いた時間を使って一冊を読了した

 久し振りに重苦しくなる力作を読ませて貰ったというのが正直な感想である

 本書を半分位を読みかけた時の感想は大凡以下の通りであった

 

 「法治国家」とは何ぞや?‥という疑問と官僚組織に於ける「責任の所在」の不確かさ〔←「国家行為」という概念と「上からの命令に拠る」行為という概念〕が巨悪の事象を具現化するという恐ろしさ

 これが「イェルサレムのアイヒマン」を読んでいる途中での小生の率直な感想である〔中略〕

アイヒマンは決して狂人的な極悪人ではなく、Nazis 政権下の官僚機構の平凡な小心者の中間管理職〔=小役人〕に過ぎなかったが故にユダヤ人の移送担当として、大量殺戮に〔積極的とは言わない迄も少なくとも、消極的でなく〕荷担したという巨悪をある意味淡々と執行したのだと述べている〔後略〕

 

【小生comment

 彼女は一般大衆たるユダヤ人ではなかった〔中略〕

 彼女の大著『全体主義の起源』の第1部「反ユダヤ主義」に於いて、何故、欧州で「反ユダヤ主義」が醸成されていったのかを検証しているが、彼女は、その「反ユダヤ主義」の延長線上に「ナチに拠るユダヤ人の最終的解決〔=殺戮〕」あることを、冷徹に述べている

 ドイツの実存哲学の創始者で、彼女の師でもあるカール・ヤスパース(1883-1969)が彼女についてこう述べている

 「自分は哲学者ではないと彼女(=アーレント)は言明している

 哲学者であることはもうとっくの昔に諦めていると言うのです〔中略〕

 彼女は、何かを思い着く、そしていつも何か新しいことを思い着かねば生きていけない、そういう type の人間ではない

 欲しい儘に漂う知性とは又違った種類のあの独立性に拠って彼女は生きている〔中略〕

 この独立性には根無草の空しさもない〔中略〕

 彼女がそれに拠って生きる根本のものは、真理への意志、真の意味に於ける人間的存在、幼年時代に迄見られる限りない誠実、そして又、逮捕(1933)と旅券なしの国外移住の時に味わった極度の孤独の経験です〔後略〕」〔‥バーゼル放送局より19650224日放送の対談から‥〕〔後略〕

 

[11][左上]本書執筆当時のハンナ・アーレント

[右上]ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』

[左下]Karl Adolf Otto Eichmann SS中佐(1906.03.19-1962.05.31)

[右下]イスラエルに逮捕された後の Eichmann

 

20150823()【時習26回3-7の会 0562】~〔前略〕」「0822日:三重県立美術館『戦後70年記念/20世紀日本美術再見 1940年代』を見て」〔後略〕

 

 本展は、主催者「あいさつ」で以下の様に開催の趣旨を述べている

 「本展覧会では、1940年代に制作された絵画、彫刻、工芸、写真、建築など各分野の作品と資料とを通じて、戦争の大きな影響を受けて揺れ動いた1940年代の日本美術の諸相と特質を検証します

 戦後70年という10年間の美術史を今此処で再考し、20世紀の日本美術を見直す契機としたいと思います」

 

[12][左上][10]梅原龍三郎『北京秋天』1942

[右上][12]新海覚雄『貯蓄報国』1943

[左下][16]松本竣介『自画像』1941

[中下][19]靉蜜光『梢のある自画像』1943

[右下][25]山口薫『葬送』1944

 

20150829日【東京・押上『東京スカイツリ―』→浅草『浅草寺』】

 20150906()付【時習26回3-7の会0564】~「東京・押上『東京スカイツリ―』→浅草『浅草寺』」〔後略〕

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260564150829-ci.html

 

[13][左上]Ticket Center へ向かう道すがら雨雲に展望台が隠れている『東京スカイツリ―』を見上げる

 [右上]東京スカイツリ― 展望デッキ内部

 [左下]絵葉書の東京スカイツリー

 [中下]浅草寺「雷門」

 [右下]同「本堂」前にて

 

 20150906()【時習26回3-7の会0564】~〔前略〕「同左:国立西洋美術館『ボルドー』展&『常設』展を見て」〔後略〕

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260564150829-ci.html

 

20150824日【国立西洋美術館『ボルドー』展&『常設』展】

 

 本展は、福岡市と姉妹都市32年となるFrance Bordeaux市の全面的な協力に拠り、福岡市と東京にて開催される企画展である

 展示作品は、『角を持つヴィーナス』等の考古資料から、絵画・工芸・家具等と多方面に及ぶ

 

[14][左上][10]国立西洋美術館入口

[右上][16]アルベール・マルケ(Pierre-Albert Marquet)『ボルドーの港』1924

《常設展》

[左下][18]Claude Monet『雪のアルジャントゥイユ』1875

[中下][19]Vincent van Gogh『ばら』1889

[右下][21]Kees van Dongen『カジノのHall1920

 

 20150906()付【時習26回3-7の会0564】~〔前略〕「同左:サントリー美術館『〔藤田美術館の至宝〕国宝 曜変天目茶碗 と日本の美』展を見て」〔後略〕

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http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260564150829-ci.html

 

【サントリー美術館『〔藤田美術館の至宝〕国宝 曜変天目茶碗 と日本の美』展】

 

 本展は、世界で三椀しか現存しないとされる【国宝】曜変天目茶碗 をはじめ、日本屈指の東洋・日本美術 collection を誇る藤田美術館の四方を初めて一堂に公開する待望の企画展である(本店「ごあんさつ」より引用)

 藤田美術館は、明治時代に活躍した藤田傅三郎(1841-1912)と、長男平太郎、次男徳次郎、の23氏に拠って収集された東洋・日本美術を所蔵する我国 top class の美術館である

 藤田美術館が所蔵する曜変天目茶碗は、徳川家康→水戸徳川家→藤田傅三郎→藤田美術館 所蔵となった

 因みに、あと2つの曜変天目茶碗は、徳川家光→春日局→淀藩稲葉家→三菱 岩崎小弥太→三菱 静嘉堂文庫 所蔵

 そして、今井宗久→京都 大徳寺塔頭 龍光院 所蔵〔←現在・非公開〕

 小生は、三菱 静嘉堂文庫所蔵の曜変天目茶碗を、今から丁度5年前(20120902)、三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展にて見たことがあるが大変素晴らしかった         

2637の会 0307http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/26-030709112640.html ←ご参照

 

[15][45]国宝‐曜変天目[稲葉天目]

[16][左上][23]本展leaflet

[右上][24]サントリー美術館入口にて

[左下][25]【国宝】『曜変天目茶碗』〔上から撮影〕

[右下][26]同上〔横から撮影〕

 

 20150906()付【時習26回3-7の会0564】~〔前略〕「同左:『東京ふろう会/暑気払い』に参加して」〔後略〕

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com//09/260564150829-ci.html

 

【権八 西麻布店『東京ふろう会/暑気払い』】

 

 「東京ふろう会 暑気払い」は、渡辺博司君【39】が当番幹事

 彼の企画である

 粋な感じがする和風建築で、料理も美味しかった

 当初予定の終了時間を若干過ぎた、18時半近く迄談笑が続いた

 

[17][30]全体写真01

[18][][30]全体写真02

[左下][28]権八内部の1scene

 [右下][31]六本木ヒルズの下から上を見上げる

 

【ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』】

 

[19]ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』

本書の解説は、以下のURLをご笑覧下さい

 

 20150906()付【時習26回3-7の会0564】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』を読んで」【後記】

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260564150829-ci.html?fbclid=IwAR34QRi_L2McXIvX5kErhFlsDE2keqritKnDtQlbxdVU4EpOi2fc_LtE_8U

 

【後記】昨夜(20150905)遅くに小生の一番下の息子(次男)が、大学1年の時から現3年次迄ずっと一緒のclassmates3人を連れて拙宅に泊まりに来た

昨日~今日にかけて、ラグーナ蒲郡で開催中の音楽フェス「TREASURE05X -rising force!-」の第2弾の初日を聞き、今日の二日目を見る為に立ち寄ったという

昨日23時過ぎに、愚息が連れて来た旧友3人を玄関で迎えたが、その3人が皆んなイケメンなのには吃驚した

3人は、名古屋市出身 旭丘高、群馬県高崎市 高崎高校、岐阜県 加納高、各出身の若者達である

機械工学科なので、【2637の会】では、中山君の後輩になる

拙宅に就いて、風呂で汗を流した後、愚息を含めて4人での記念撮影をしたのが添付写真である

高崎市出身の子が、「豊橋の雰囲気が高崎市内と何処となく似ていて気に入りました」と言ってくれた

こう言う一言を聞くだけでも気分が明るくなっていい

 

[20][36]愚息(向かって左端)と彼のclassmates 3人 

 

0808()に、2018年の【08月の想い出】から2018831日付【時習26回3-7の会 0720】と201899()付【時習26回3-7の会 0721】を up したのに続き、今日は、2018915()付【時習26回3-7の会 0722】をご紹介する

 

 2018915()付【時習26回3-7の会 0722】~〔前略〕〕』」「0818日:〔前略〕→碧南市藤井達吉現代美術館を巡って~〔第4回〕」〔中略〕「0901日:旧行『秘書室OB会』に参加して」

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 http://si8864.blogspot.com/2018/09/26-0722-220818ufj40819gallery4082533090.html  

 

[21][左上][01]碧南市藤井達吉現代美術館内1F入口にて

 

[右上][40]旧行秘書室OB会 参加者の全体写真1

[左下][42]同 平成04年~07年仕事を一緒にした女子秘書室員の皆さんらと

[右下][44]同 旧行同期の横江君らと

 

2020/08/1108月の想い出】2019

 

旧行秘書室勤務時代から5年後、即ち東京の国分寺支店、名古屋瑞穂区にある2回目の堀田支店の2カ店の営業店勤務を経た2000701日~20026月末迄の2年間、業務出向したホテルグランコート名古屋(当時の名称)の「開業20周年記念/ホテルグランコート名古屋OB会」に参加した時の模様についてお伝えする

 

 20190816()付【時習26回37の会 0770】~〔前略〕「0804日:開業20周年記念 ホテルグランコート名古屋OB会に参加して」〔後略〕

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 http://si8864.blogspot.com/2019/08/26-07708080420-ob0811081426.html

 

[22][左上][01]ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋(現在) 外観

 

[右上][03]同 ホテルグランコート名古屋勤務時代の社員証とname plate、社員章(バッジ(写真))

[左下][04]同「開業20周年記念/ホテルグランコート名古屋OB会」1

[右下][05]同 同上2

 

 当時の役員、同僚の部長の皆さんに再会出来たことや、支配人以下の部下たちが立派にホテルの幹部になっていたことがとても嬉しかった

 因みに、東京全日空ホテルから出向していた同ホテルの小職の前任者は、現・添付写真[04]最上段右から2つ目の写真の小生の右隣)である

  

 今日は、ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ【反ユダヤ主義】』をご紹介する

 

 20150913()【時習26回3-7の会0565】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ【反ユダヤ主義】』を読んで」

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260565160830090.html  

 

 20150918()付【時習26回3-7の会0566】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ【帝国主義】』を読んで」

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260566170905col.html

 

[23][左上]牧野雅彦著「精読 アレント『全体主義の起源』」

[右上][29]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義』

 [左下]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ/帝国主義』

 [右下]ハンナ・アーレント

 

〔解説 / 省略〕

 

【小生 comment

 人種差別( Racism )は、既得権層であった者達が没落した際、嘗て彼等が蔑んだ少数者(=民族( minorities ))が恵まれた境遇に存在するに至り、没落した既得権層が彼等に強い妬みと反感を抱くのは歴史的必然だったのである

 金利を取って金を貸すことを下賤で忌み嫌うべき罪悪とみたキリスト教徒たちが、祖国を失った(ディアスポラ( Diaspora )= 民族離散)ユダヤ人を蔑んで来たことは歴史的事実であり、其のユダヤ人たちが、自分たちより恵まれた境遇にあることは嘗ての既得権層にとっては堪え難いことだったのである

 18世記中葉以降、身分制度の崩壊と経済成長に拠る経済に秀でたユダヤ人への反感は欧州社会全体に広く形成されて行った

 全体主義者たちは、此の社会的風潮を上手く利用して政権を合法的に奪取したのである

 

 昔の写真を見ていたら、今から29年前の平成030102日に開催された時習26回生同期会で【3-7】の全体写真ほか、が見つかり、凄く懐かしかったので up させて頂く

 

[24]平成030102日開催「時習26回生同期会」での【3-7】の全体写真


 

 此の時は、【時習26回3-7の会】《クラス会》でお見受けしない、classmates が沢山参加していた

 特筆すべきは、10人しかいない女子が 6(下浦(原田)・林・伊庭・今井(土方)・渡辺・山中(高木)(以上、敬称略))も参加していることだ

因みに、女性は全部で8人写っているが、2人は二橋君と故・淳司君の奥様〕

 

[25][左上][右上 昭和55年当時の小生の弓を弾く姿

 [左下][右下]平成05年/旧行秘書室時代に中日ドラゴンズ激励会に参加して

 

 平成05年に旧行秘書室時代に中日ドラゴンズ激励会に参加した時の高木守道監督と小生の two-shot と、川俣選手・中村選手らとの snap-shot、最後の2枚は、昭和55年に遡るが、小生がまだ弓道参段の実力を有していた(?)頃の大学弓道場での小生

 

 此の暑い時期、緑陰と弓に因んだ竹下しづの女の名句が思い出される‥

 

  緑蔭や矢を獲()ては鳴る白き的  『颯(はやて)

 

 先ずは、2013年の話‥

 

[26][]20090117日 朋友の中嶋君【3-2】、岩瀬君【3-4】、金子君【3-5】と名古屋で一献

 [左下]20130425日 光生会病院の金子T君と一献【3-4】

 [右下]金子君を紹介してくれた中嶋君【3-2】と林K子さん【3-4】でミニミニ時習26回同期会を Try Again にて開催

 因みに、岩瀬・中嶋両氏とは小生、【1-4】の classmate . 金子君とは、高校時代一度もクラスが一緒にならなかったが、中嶋君の紹介で懇意になった

 其のご縁で、201412月に金子君が院長を務める光生会病院で、彼に10時間に及ぶ小生の大腸がん手術を立ち会って貰い、今日迄の 6年間、小生の主治医を務めてくれている

 こういうこともあり、小生、本当に「持つべきものは友である」と実感した

 有名な吉田兼好の「徒然草」でも、「よき友三つあり」として次の様に述べられている

 

 よき友三つあり

  一つには、物くるる友

  二つには、医師(くすし)

  三つには、知恵ある友

       (徒然草 第百十七段)

 

花井くん【3-5】が、澤田さんの白老を買って来たという記事を、彼のFacebook up したので、拝借して不老荘掲示板に勝手乍ら掲載する!

花井くんへ

(2019)0907日の秋の蔵出しの時、行って来て、時習26回生同期である奥様【3-4】にも会って来たゾン!

美味しい白老も買って来たゾン

 

[27][左上] 花井君がFacebook up した「澤田醸造/白老」の記事

 [右上]20190907日 澤田醸造の秋の蔵出しに入館するところ

 [左下]澤田醸造の館内にて

 [中下]銘酒「白老」

 [右下]澤田醸造の澤田(丸山)郁子【3-4】さんと

 

 今日(2020年08月01日)は、天気晴朗につき、美濃国にある「明知(白鷹)城跡」→「明智(長山)城跡」→「今城跡」を巡って来たのでご紹介する

 そして、以下の通り行動した

 

0400分 起床→腹筋2,000回→

0500 2.5kg木刀素振り60分→

0605分 入浴→朝食→

0720分 拙宅発→一般道→音羽蒲郡IC→東名→東海環状→豊田藤岡IC(休日料金 1,080)→一般道101 97㎞→

0901分 日本大正村〔明知城跡麓〕

 

[28]航空map[左上]大正村浪漫亭

 [右上]明知城跡

 [左下]明智(長山)城跡

 [右下]今城跡 

 

【日本大正村】

 

[29][左上]日本大正村駐車場にて

[右上]大正村「浪漫亭」の前にて

[左下]大正路地にて1

[右下]同上2

 

0950分 日本大正村駐車場発→一般道10 4km/101km

1000分 明知(白鷹)城跡入口駐車場着

 

【明知(白鷹)城跡】

 

 明知(白鷹)城の歴史は、以下の通り

 

1247年 遠山景重、白鷹城築城と伝えられる

1574年 武田勝頼、東農に侵攻、白鷹城落城

1583年 森長可(ながよし)、苗木城を攻略 / 白鷹城主の遠山一行、城を脱出し徳川家康の助けを受ける

1583年 小牧長久手の戦いで、遠山一行、白鷹城を奪還するも、戦後、東農は森領とされ、一行は退去

1600年 遠山利景・方景親子、白鷹城を奪還

1601年 遠山利景、白鷹城へ入城

1615年 遠山方景、江戸に屋敷を与えられる / 此の頃、白鷹城は廃城になったとみられる

 

[30][左上]明知(白鷹)城跡 入口にて

[右上]同 本丸 明知城縄張り図横にて

[左下]同 本丸にて1

 [右下]同 同上2

 

1040分 明知(白鷹)城跡駐車場発→一般道→恵那IC→中央自→土岐IC→土岐JCT→東海環状→可児御嵩IC(休日料金440)68 42km/143km

1148分 明智(長山)城跡 近隣着

1155分 明智(長山)城跡 大手口着

 

【明智(長山)城跡】

 

1345年 美濃源氏 土岐下野守頼兼が苗字を「明智」に改姓し、初代明智家棟梁となり、当地に明智城を築城

1556年 斉藤義龍に攻められ落城 / 最後の城主 明智光秀は城を脱出し、明智家を再興したが当地には戻らなかった / 光秀死後も、当地に城は築城されることなく明治維新を迎えた

 

[31][左上]明智(長山)城跡 大手門にて

[右上]同 本丸にて1

 [左下]同 同上2

 [右下]同 同 明智光秀像前にて

 

1245分 明智(長山)城跡 近隣発→一般道25 8km/151km

1310分 今城跡 近隣公民館駐車場着

 

【今(いま)城跡】

 

 今城は、天文年間(1532-55)に、小池家継(いえつぐ)が築城したと云われる

比較的規模の小さい山城で、土塁に囲まれた曲輪(くるわ)が殆ど破壊されずに残っている

 1565年 中濃を平定した織田信長は、森可成(よしなり)を美濃金山城主とし、東濃の旗頭とした

 小池氏は、現在の可児市南西部を支配していた当地の豪族であったが、此の時期にに信長に帰順し、森氏の家臣となった

 1582年 信長が本能寺の変で斃れると、其れ迄森氏に従っていた東濃の武将等がこぞって反旗を翻し、小池氏も同様に反抗したが、直ぐに森長可に鎮圧され、森長可の命に拠り今城を退去し、帰農したと云われている

 

[32][左上]今城跡 大手門(入口)

 

[右上]同 大手門にて

[左下]同 本丸 今城跡解説板

[右下]同 本丸にて

 

1350分 今城跡 近隣公民館駐車場発→一般道→せと品野IC→東海環状→東名→音羽蒲郡IC(休日料金1,350)→一般道100 90km/241km

1530分 帰宅(走行距離計 241km)〔了〕

 

では、また‥〔了〕

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