2017年6月30日金曜日

【時習26回3−7の会 0659】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第5回〕【筑紫高良山の僧正は‥いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる】」「06月24日:メナード美術館『所蔵企画展 花』」「同左:桑山美術館『自然を写す 心を映す』展」「同左:愛知県芸術劇場 concert hall /『ミヒャエル・ザンデルリンク指揮 ドレスデンP. O.演奏会』を聴いて」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0659】をお送りします。
 先ず最初は、『幻住庵記』の今日はその〔第5回〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
  『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
  『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介する‥

貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
               「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
         0825日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
               「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
               「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す 明石夜泊
               「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
               ‥『笈の小文』は此処で終わる
         0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         0816日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         0930日 元禄に改元
元禄02(1689) 0327 (46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
             千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
         0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
         0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
         0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
         0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
         0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
         0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
         0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わ
              「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
         0913日 伊勢神宮内宮参拝
         0922日 伊賀上野へ帰郷
         1122日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
         秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
         12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690) (47) 0103日 膳所から伊賀上野へ帰郷
         03月中旬迄 伊賀上野に滞在
         0401日 石山寺 参詣
     【 ☆ 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
     【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 0619日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 0723日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 0815日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
         0927日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
         1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
         03月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
         03月末 奈良から大津へ移動
         0418日〜0504日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】
《原文》
 さるを(1)、筑紫高良山(かうらさん)の僧正(2)は、賀茂の甲斐何某(なにがし)が厳子(げんし)(3)にて、このたび洛にのぼりいまぞかりけるを(4)、ある人をして額を乞()(5)
 いとやす/\と筆を染めて、幻住庵 の三字を贈らる。
 頓(やが)て草庵の記念(かたみ)となしぬ。
 すべて、山居といひ旅寝といひ、さる器(うつは)たくはふべくもなし(6)
 木曾の檜笠、越の菅蓑(すがみの)(7)ばかり、枕の上の柱に懸()けたり。
 昼は稀々(まれまれ)(とぶら)ふ人々に心を動かし、或(ある)は宮守の翁(おきな)(8)、里の男(をのこ)ども入り來(きた)りて、「猪(ゐのしゝ)の稲(いね)食ひ荒し、兎の豆畑(まめばた)に通ふ」など、我()が聞き知らぬ農談(9)、日既(すで)に山の端()にかかれば、夜座(やざ)(10)静かに月を待ちては影を伴()ひ、燈(ともしび)を取つては罔両(もうりょう)に是非をこらす(11)

 《現代語訳》
 そうではあるのだが、筑紫高良山(こうらさん)の僧正は、賀茂の神官甲斐某の実子で、この度京都に上がって来ていらっしゃる処を、知人を介して(庵の)額を書いてほしいと頼んだ。
 (すると、僧正は) 大変快く引き受けてくれ、「幻住庵」の三文字を贈って下さった。
 直ぐにこの額を草庵の記念とした。
 全て、山の住まいといい、旅寝といい、立派な器など持つ必要は無い。
 木曾産の檜笠と北越産の菅蓑だけ、枕の上の柱に掛けた。
 昼は稀に訪ねて来る人々に心を動かし、或いは八幡神社の宮守の老人や里の男たちが庵に遣って来て、「猪が稲を食い荒し、兎が豆畑に遣って来る」等、私が聞いたことのない農民たちの話を聞いたりして、陽()が既に山の端に掛かれば、夜遅く迄寝ずに座っていると、月を待っては自分の影を伴い、灯火を取っては自分の影法師を相手に物事の善悪について思い巡らせる。

《語句》
(1) さるを:然るを / 動詞「然り」の連体形+接続助詞「を」/ さる→さある→そうある→そうではあるが
(2) 筑紫高良山の僧正:筑後高良山月光院(天台宗)の座主 寂源一如 僧正 /「筑紫高良山」は現・福岡県久留米市にある山
(3) 賀茂の甲斐某が厳子:寂源僧正は賀茂社祠官 藤木甲斐守敦直の次男 /「厳子」は実子の意味の造語
   甲斐守敦直は大師流の書家で、その流派を加茂流 又は 甲斐流という
(4) 洛にのぼりいまぞかりける:京都に上ってきていらっしゃるのを
(5) ある人をして額を乞う:知人を介して幻住庵の額を揮毫してくれる様に頼んだ
(6) さる器たくはふべくもなし:さる器=立派な器 / たくはふ(=蓄(たくは)ふ)=蓄える / 立派な器などは持つ必要はない
(7) 木曾の檜笠、越の菅蓑:木曾産の檜(ひのき)製の笠、北陸産の菅(すげ)の葉を干して作った蓑
(8) 宮守の翁:八幡宮の宮守をしている老人
(9) 農談:農民たちの話
(10) 夜座:やざ / 夜遅く迄寝ずに座っていること
(11) 罔両に是非をこらす:「罔両」は魍魎とも /「荘子/齊物論」拠り / 罔両は景(=)に伴う影 /
   芭蕉は「自分を景」に、「自分の影法師を罔両」に見立て、両者を対峙させ物事の善悪に思いを巡らせている

【小生comment
 松尾芭蕉の『幻住庵記』も、あと残す処1回になって仕舞った。
 この『幻住庵記』を読み進めて来たら、芭蕉の筆致は軽やかで、充実した毎日を過ごしていることが自然に読み手に伝わって来る。
 小生、この作品が『奥の細道』に次いで好きな作品になった。

■さて今日は、0624()に毎月1回歯の検診に行っている名古屋東区の歯科医院へ寄ったついでに、2つの美術館と愛知県芸術劇場concert hallでの演奏会の模様を順次ご紹介する。
 先ず最初に立ち寄ったのは、小牧市にあるメナード美術館『花』展である。
 本展は、当館所蔵の「花」を表現した作品65点が展示されている。
 今日は、その中からの幾つかをご紹介する。

[01]本展leaflet [左上]4つの赤い花を描いた絵は、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol(1928-87))『花(Flowers)1964(今回初公開collection)

[02]Maurice Vlaminck(1876-1958)『花瓶の花(Vase of Flowers)1905-06年頃(今回初公開collection)
                  
[03]Moise Kisling(1891-1953)『花束(Bouquet)1918

[04]熊谷守一(1880-1977)『小菊(Small Chrysanthemum)1956
                  
[05]同『扶桑(Hibiscus)1964

[06]安井曾太郎(1888-1955)『薔薇(Roses)1933
                  
[07]奥村土牛(1889-1990)『牡丹(Peony)1975 or 76

【小生comment
 いずれの作品も画家の個性がよく表れていて、見る者を魅了してやまない。
 Vlaminckも、Kislingも、熊谷守一も、安井曾太郎、奥村土牛も、み~んないい!

■つづいて訪れたのは、名古屋市昭和区山中町にある桑山美術館である。
 企画展『自然を写す こころを映す / 日本画から一句』展が開催されていた。
 本展は、桑山美術館所蔵の日本画の名画の中から、四季折々の自然風景や人々の営み、更に花や鳥といった季語を用いた画題や季語を主題とした作品を紹介してくれる。
 俳人で歌人でもある正岡子規(1967-1902)が俳誌『ホトトギス』で提唱した写生に拠る新しい俳句は、日本画とよく調和する。
 展示作品全30点には近世から現代にかけての俳句の傑作が一句ずつ添えられていた。

[08]桑山美術館入口
                  
[09]当館創始者 桑山清一 氏胸像

[10]本展leaflet
                  
[11]木村武山(1876-1942)『寒牡丹』制作年不詳

[12]川合玉堂(1873-1957)『嶋之春』1937
                  
[13]菱田春草(1874-1911)『曉霧』1902年頃

[14]川合玉堂『松山懸瀑図』1928年頃
                  
[15]入江波光(1887-1948)『若竹と小雀』1945年頃

[16]奥村土牛(1889-1990)『蓮』1958年頃
                  
[17]徳岡神泉(1896-1972)『西瓜』1940年頃

[18]前田青邨(1895-1977)『春暖』1973
                  
[19]上村敦之(1933- )『秋汀』1985

 【小生comment
 日本画は、日本人の琴線に触れるものがある。
 いずれの展示作品にも、名句が添えられていてその句を口ずさみ乍ら名画を見ていると、何とも言えない良い気分になる。
 人口に膾炙した近世から現代にかけての日本画家と俳人の作品である名画をじっくりと眺め、名句を口ずさんだひとときであった。
 僅か30分程度の時間であったが、至福の時間を過ごすことが出来、嬉しかった。

■続いては、0624()最後の訪問地、愛知県芸術劇場concert hallにて開催された、ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ドレスデンP. O. 演奏会を聴いて来たのでその模様をお伝えする。

《ミヒャエル・ザンデルリンク(Michael Sanderling) 略歴》
 1967年 ドイツ・Berlinに生まれる
 1987 (20) クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウスO. cellistとしてdebut
 1994 (27) 2006(39)迄 ベルリン放送響でcellistを務める傍ら、soloistとしてBoston S. O. Paris O. 他多くの管弦楽団と客演
 2000 (33) ベルリン室内O. concert で初めて指揮台に立つ
 2006 (39) ポツダム・カンマ―アカデミーの芸術監督兼首席指揮者に就任
 2011 (44) ドレスデン・フィルハーモニー(Dresdner Philharmonie)主席指揮者就任(~現任)
 2013 (46) ドイツ弦楽フィルハーモニーの首席指揮者就任(2013年迄)

《ドレスデン・フィルハーモニー》
 ザクセン州の州都ドレスデンのorchestra
 1870年 創立 / 当初は当時の演奏会場を冠してゲヴェルベハウス管弦楽団(Gewerbehausorchester)と呼ばれた。
 1915年 現在の名称となる / 歴代指揮者にクルト・マズア、ギュンター・ヘルビッヒ、ヘルベルト・ケーゲル等がいる
 2004年 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが首席指揮者兼芸術監督に就任
 2011年 ミヒャエル・ザンデルリングが首席指揮者に就任(=現任)

 演奏曲目は、J. Brahms(1833-97)の交響曲第4番 ホ短調 Op.98 と 同第1番 ハ短調 Op.68 2
 Encore曲は、同じくBrahmsHungary舞曲第5番 嬰ヘ短調
 1700分 本場ドイツのBrahmsの交響曲の4番に始まり1番で締め、Hungary舞曲第5番をオマケにしたBrahms Zyklus(チクルス)soiree(ソワレ)
 20分間の休憩を挟み、1900分に終演となった。

[20]愛知県芸術劇場concert hall入口にて
                  
[21]本演奏会leaflet

[22]ドレスデン・フィルハーモニー(本演奏会program)
                  
【小生comment
 指揮者ミヒャエル・ザンデルリンクの父親は、旧東ドイツの名指揮者 クルト・ザンデルリンク(1912-2011)
 小生は、学生時代からクルト・ザンデルリンクのBrahmsLP(→最近はCD)の交響曲全集が大好きで是迄に何十回も聴いている。
 本演奏会では、第1番の終楽章のclimaxは、本当に感動的で痺れて仕舞った。

 【後記】日本棋院の最年少プロ棋士、藤井聡太君(2002.07.19- )1410か月(今日現在))が、プロdebut後負けなしの29連勝という偉業を達成した。
 本当に凄い記録である。
 藤井君のプロとしての戦歴は以下の通り。
 20161001日 プロ棋士である四段に昇進 / 加藤一二三九段が1954年に樹立した[1]「プロ棋士最年少記録」147か月を62年ぶりに更新
 20161224日 プロdebut戦となる加藤一二三九段との竜王戦6組ランキング戦で対局し初戦発勝利を挙げる
 20170414 11連勝(無敗)[2]「デビュー後連勝記録」を20年ぶりに更新
 20170626[3]「連勝記録29(無敗)」とし、神谷広志八段(1961- )19870817日に樹立した28連勝を約30年ぶりに更新
 若干14歳の中学生棋士が[1] [2] [3]の日本棋院の記録更新するという大記録を樹立した。
 実は、0624()は、昼食を先日0602日付【時習26回3-7の会 0655】にてご紹介した陣屋〔ラーメン屋(名古屋市北区大曽根2丁目)〕で食した。
 その陣屋のカウンター席に座り正面の壁を見て吃驚した。
 其処にはラーメン屋のご主人と女将さんに挟まれて藤井聡太君が写った写真が飾ってあり、その上に、藤井君の自署で超難易度の27手詰将棋の碁盤が書かれた色紙が彼の署名入りで飾ってあったのだ。
 女将さんにその経緯(いきさつ)を尋ねてみた。
 上の詰将棋の色紙は、藤井君がプロdebut戦を加藤一二三九段と対局した昨(2016)12月と同じ月に作成して貰ったもの。
 そして、3人のthree shotの写真は、プロ入り11連勝(無敗)を記録した半月後の今(2017)0429日に撮影したものだそうだ。
 名鉄森下駅近くに道場があって、藤井君はよく来ているそうで、麺類好きの彼は陣屋(ラーメン)の常連客であるというのが事の次第であった。
 お陰で、陣屋の人気は従来にも増していて、来客は店の外に立って並ぶ程の盛況ぶり。
 24日は、結局小生もラーメンにありつける迄約1時間待ちの状態であった。

[23]0626 29連勝を達成した直後の藤井聡太君

 では、また‥〔了〕

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2017年6月24日土曜日

【時習26回3−7の会 0658】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第4回〕【小竹生が嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり】」「06月16日:ホテルグランコート名古屋『伊藤元重講演会/日本経済の展望と今後の企業経営』」「同左:古川美術館『山本眞輔/彫刻60年の軌跡』展」「同左:松坂屋美術館『近現代 日本絵画』展」「06月17日:愛知県芸術劇場 大hall /Palermo マッシモ劇場/Puccini作曲:歌劇『トスカ』」「06月18日:ライフポートとよはし『豊橋交響楽団 第120回記念定期演奏会』を聴いて」


■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0658】をお送りします。
 先ず最初にお届けするのは、前々々号に開始した『幻住庵記』の今日はその〔第4〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介する‥
 
貞享02(1685)年 12月 (42歳)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686)年 01月 (43歳) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
                「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687)年 01月 (44歳) 幕府「生類憐みの令」発布
         08月25日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         10月25日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         11月12日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
               「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688)年 04月08日 (45歳) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
               「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         04月20日 須磨・明石を廻って須磨に泊す 明石夜泊
               「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
               ‥『笈の小文』は此処で終わる
         08月11日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         08月15日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         08月16日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         09月30日 元禄に改元
元禄02(1689)年 03月27日 (46歳) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
              千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
         05月13日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
         05月27日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
         06月03日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
         06月16日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
         07月12日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
         07月25日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
         09月06日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わる
              「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
         09月13日 伊勢神宮内宮参拝
         09月22日 伊賀上野へ帰郷
         11月22日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
         秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
         12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690)年 (47歳) 01月03日 膳所から伊賀上野へ帰郷
         03月中旬迄 伊賀上野に滞在
         04月01日 石山寺 参詣
     【 ☆ 04月06日 愛弟子の杜国死去(03月20日)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
     【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 06月19日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 07月23日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 08月15日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
         09月27日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
         12月23日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691)年 (48歳) 01月06日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
         03月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
         03月末 奈良から大津へ移動
         04月18日〜05月04日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】
《原文》
 小竹生が嶽(さゝほがたけ)(注1)・千丈が峰(注2)・袴腰(注3)といふ山あり。
 黒津の里(注4)はいとくろう茂りて、網代守(も)るにぞ」と詠みけん『萬葉集』の姿(注5)なりけり。
 猶眺望(てうばう)くまなからん(注6)と、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座(えんざ)を敷きて、猿の腰掛と名付く。
 彼(か)の海棠に巣を営(いとな)び、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(おうをう)・徐栓(じょせん)が徒にはあらず(注7)。
 ただ睡癖(すいへき)山民(注8)と成って、孱顔(さんがん)(注9)に足を投げ出(い)だし、空山(注10)に虱を捫(ひねつ)て坐す。
 たま/\心まめなる時(注11)は、谷の清水を汲みて自(みづか)ら炊(かし)ぐ(注12)。
 とくとくの雫(しずく)を侘びて(注13)、一爐(いちろ)の備へいとかろし。
 はた、昔住みけん(注14)人の、殊(こと)に心高く住みなし侍(はべ)りて、たくみ置ける物ずきもなし(注15)。
 持仏一間を隔てて(注16)、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。

《現代語訳》
 (周りには)竹生(ささほ)が嶽(たけ)・千丈が峰・袴腰という山がある。
 黒津の里は黒々と草木が繁茂していて、「田上の黒津の庄の痩男は網代を守っているから(肌の色が黒いのだ)」と『萬葉集』に詠まれている、その姿である。
 もっと景色を隈なく見てやろうと、後ろの峰に登って、松の枝に人が座れる棚を作り、其処に円座(=丸い座布団)を敷き、猿の腰掛と名づけた。
 (しかし、私は北宋の詩人黄庭堅の詩「潜峯閣に題す」で述べられている) 海棠に巣を営み、主簿峰に庵を結んだ王道人・徐佺(=人偏に全)の類ではない。
 ただ寝てばかりいる怠けた田舎者となって、険しい山の斜面に足を投げ出し、人気の無い山で虱を捻(ひね)り乍ら座っている。
 偶(たま)に気が向いた時には、谷の清水を汲んで自炊する。
 (あの西行法師が吉野の山中に結んだ庵の傍に湧く)とくとくの清水の侘び住まいさ乍らに、(幻住庵の)炊事場の有様はとても簡素なものだ。
 又、その昔此処に住んでいた人(=菅沼曲水の伯父 菅沼定知)が、大変心気高く住まわれていて、手の込んだ趣向も施されていない。
 一間隔てた所に仏間があり、寝具を納める所等が一寸設(しつら)え(=設け整え)てある。

《語句》
(注1) 小竹生が嶽:笹間が岳 / 田上山の南 / 幻住庵の東
(注2) 千丈が峰:幻住庵の西南にある山
(注3) 袴腰:幻住庵の南にある山 / 小竹生が嶽・千丈が峰・袴腰の山々は幻住庵から見ることが出来る
(注4) 黒津の里:大津市田上 / 幻住庵の東南に位置する
(注5)「網代守るにぞ」と詠みけん『萬葉集』の姿:『萬葉集』ではなく『近江與地志略』に古歌としてある
   「田上(たなかみ)や黒津の庄の痩男(やせをとこ)あじろ※1守(も)るとて色の黒さよ」
   ※1「網代(あじろ)」:川の瀬に竹や木で編んだものを網を引く形にして、その端に簀(す)※2を当てて魚を捕るための仕掛け
   ※2 簀(す):篠竹・葦・割竹で粗く編んだ筵(むしろ)
(注6) 猶眺望(ちょうぼう)くま(=隈)なからん:もっと景色を隈無く(=隅々迄)見よう
(注7) 主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず:黄庭堅(黄山谷)の詩『山谷(さんこく)集』「潜峯閣に題す」による /
    「徐老は海棠の巣の上、王翁は主簿峰の庵」に「「徐佺は道を楽しみ薬肆中に隠る、家に海棠数株あり、巣を其の上に結び、時に客と其の間に飲む /
   又王道人は四方に参禅し、帰りて屋を主簿峰上に結ぶ / 嘗て毛人あり、其の間に至りて道を問ふ」とある
   ※ 黄庭堅(1045-1105)は中国北宋の詩人・書家で、23歳で進士 / 北京の国子監教授となり蘇軾と親交を結ぶ /
党争に巻き込まれ浮沈の多い官僚生活を送り、左遷先の宜州で没 /
   蘇軾(1036-1101)の門下として「蘇門四学士」、又、師の蘇軾から友人として遇され、共に「蘇黄」と並称された /
   古人の詩句や詩境を借り活用する技法や、禅語を駆使し技巧を凝らした難解な句も少なくない /
   「蘇・黄」に王安石が北宋を代表する文人とされる /
   黄庭堅の詩風を宗とする北宋・南宋時代の詩壇の一派を彼の出身地に因んで「江西詩派」と呼ばれた /
   書家としては、蘇軾、米芾(べいふつ(1051-1107))、蔡襄(さいじょう(1012-67))と共に「宋の四大家」に数えられる
(注8) 睡癖山民:寝てばかりいる怠惰な田舎者
(注9) 孱顔:険しい山の斜面
(注10) 空山:人気の無い山
(注11) 心まめなる時:気が向いた時
(注12) 炊ぐ:炊事をする
(注13) とくとくの雫を侘びて:庵のそばにある「とくとくの清水」/ 吉野山の西行庵傍にある「とくとくの清水」の侘びしい住居の境地を慕って
(注14) 昔住みけん人:菅沼曲水の伯父菅沼定知
(注15) たくみ置ける物ずきもなし:手の込んだ趣向も無い
(注16) 持仏一間を隔てて:仏間は離れに一室ある

【小生comment】
 芭蕉がこの幻住庵を大変気に入っている様子が、今回のphraseからも確り読み取れる。
 芭蕉の喜ぶ様子を垣間見ると、小生も久しぶりに訪れて見たくなって来た。

■さて次の話題は、06月16日(金) 名古屋へ行き、ホテルグランコート名古屋にて開催された『伊藤元重講演会/日本経済の展望と今後の企業経営』を聴いて来たので、その概要をお伝えする。
 講演内容を筆記したものを以下に記すが、一部聞き取り難かった処は推察して記した為、内容に不正確さがあること、飽く迄参考程度のものであることをご承知置き頂きたい。〔為念〕

※ 日本の名目GDPは1997年MAX530兆円から2012年には▲80兆円迄減り続けた ←・これは生産性は若干上昇したが、物価と賃金が下落したから
※ 恐らく「アベノミクス(2014→2017年)」がなければ日本経済は破綻していただろう →・名目GDPは、2016年に過去最高年の1997年の水準に戻った
※ 日経平均株価も2012年の8,800円→2017年06月16日現在、2万円の大台直前に迄上昇〔←・筆者注:06月19日13時30分現在:20,065円と2万円の大台に乗る〕
※ 2016年夏頃から欧米先進国の景気は好調に、中国経済も持ち直している(←・但し、中国の場合、不良債権は増え続けているが‥)
※ フィリピンは、ドゥテルテ大統領に拠る麻薬撲滅への強権発動〔麻薬犯5,000人殺害、麻薬犯投降者120万人を留置拘禁〕が奏功し、犯罪が激減している
※ 原油価格を中心に資源価格が下落 →・新興諸国や資源国の景気が後退する一方、欧米先進諸国の景気が好転、米国はトランプ効果〔←・法人税減税他〕で経済が続伸
※ 本日お話したいことは、【1. 財政】【2. 労働市場】【3. 企業のおカネ(=手元流動性)】の3点
【1.財政】
 ・日本政府の借金は1,000兆円あるが、0.9%という超低金利の恩恵を受けている
  年間の支払利息は9兆円、足元2017年の日本の対GDP比基礎的財政収支は3%台に縮小
 ・米欧の主要先進国と比較しても、日本の財政赤字は少ない水準になっている
  ←・日本の場合、景気回復により税収が増え、プライマリーバランスも3%に迄縮小
【2. 労働市場】
 ・企業経営者にとって重要なのは「労働市場」の問題である
 ・労働市場は、来年以降現状よりもっと厳しい状況になっていると予想される
 ・確かに、日本の労働者市場は、女性の就労者数の増加が顕著で、シニア層の就労者数共に増えている
 ・政府は、就労者の流動化と賃金上昇に注力   →・解雇規制緩和する一方、就労者の賃金上昇を目指す
   ←・アベノミクスのGDP2% up 実現には賃上げ3%が必要
 ・企業経営者側からすれば、賃金は抑制したい
   →・ex. 東京山手線沿線のコンビニのアルバイト時給1,500円でも集まらない
   →・中国・東南アジアの研修生募集へ
 ・安倍内閣は、最低賃金を上げた →・今秋以降、賃金上昇するか要注目
   →・同一労働同一賃金を目指す
 ・このことは、労働賃金抑制に拠る企業収益確保した時代の終焉を意味する
  →・この3%賃料 up を達成しつつ企業は生き残っていく為に、企業収益力も3%以上 up が必要
 ・これは、企業経営者にとっては結構辛い経営課題となる →・でも、その解決策はある
 ・日本は、過剰サービス →・これを変えることは可能
   →・ex. SS(ガソリンスタンド)やデパートのサービス
 ・労働生産性向上策の具体策として、
 ・ex. 宅配便を中心とする物流は工夫により大幅改善余地がある
   →・ウーバー(Uber)、シェアリング、デリバリーを工夫活用する
 ・ex. レストランがウーバーに登録するだけで、配達車は主婦のアルバイトが担当する
   →・人手不足を上手く解消することで新たなビジネスモデル構築出来る時代が到来
 ・ex. 調剤薬局向け音声認識薬歴作成支援システム
   →・薬剤師が問診する間に薬歴資料を(=音声入力等に拠り)自動作成し、費用の大幅削減を実現
 ・ex. 色々な知りたいノウハウをInternetで検索すると、知りたいジャンルの回答者を紹介される
   →・自社社員だけを使って仕事する時代の終焉 →・兼職を奨励
 ・ex. 兼職を奨励 →・クラウドを使って新しい労働者を調達する
【3. 企業のおカネ(=手元流動性)】
 ・日本の企業は手元流動性の有効活用が今後最大のポイント!
   →・この手許資金が動かなかったので是迄の日本経済は停滞していたのである
 ・経済産業省の新産業構造部会が、この程370頁に及ぶ報告書を纏めた
   →・最近見た一番良い AI&IOTに関する報告書だ
 ・本報告書は、大企業よりもむしろ中小企業に有利なヒントが盛り沢山書かれている
 ・日本のこれから遣って来る本格的な人口減少社会を踏まえ近未来を考えると、進むべき先が自ずと絞られて来る
 ・2050年の近未来社会を展望すると
   →・CO2は現在比80%削減された社会になっている →・車は全て、EVか燃料電池車
   →・AIは大躍進している ←・AIは現在自己学習を凄い進度でレベルアップを遂げつつある
   →・AIの目まぐるしい進歩・進化で、通常の頭脳労働者の仕事はかなりAIに取って代わる
   →・語学の翻訳の精度も現在凄いスピードで進んでいる
   →・通常の通訳が不要な時代の到来を予見
 ・IOTは、グーグルの先をいく「プリファード・ネットワークス」が台頭しつつある
   ←・「プリファード‥」とは機械同士が賢く繋がる世界で、人間以上に複雑なタスクをこなす
 ・AIやIOTの進歩は、各段に速まっており、情報処理能力が日々増大している
 ・フィンテック(Fintech)も、AIとIOTの活用で金融領域が大変貌を遂げている
 ・情報の進化により、流通業界も激変!
   →・サブスクリプション・サービス(subscription service)により今後のビジネスモデルそのものが大変貌する可能性が大きい
   →・サブスクリプション・サービスとは、提供する商品やサービスの「数」ではなく、「利用期間に応じて対価を支払うこと」で、多くの場合、「定額制」と同義で用いられる

[01]本講演会leaflet


【小生comment】
 情報処理の急速が進歩が、PC上の世界での話ではなく、物流をはじめと実世界、延いては我々の日常世界をも大きく変えつつある。
 日々情報収集に努め、時代に即応できるノウハウの蓄積と体制構築の必要性を感じた。

■続いては、講演会の後、古川美術館『山本眞輔/彫刻60年の軌跡』展を見て来たので、その模様についてお伝えする。
 本展について、図録に掲載されていた古川美術館学芸員 小柳津綾子著「山本眞輔 彫刻60年の軌跡」から引用してご紹介する。

※ 彫刻は美しくなければならない。人生は楽しくなければならない。私の信条である。 
  「美」は「愛」と同じ様に、その存在は誰でも知っている。
 あることは確実だけれど目には見えない。
 この「目」には見えないものを目に見える「かたち」に置き換えることが彫刻家の仕事でる。 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥―― 山本眞輔

 街角で出会う山本眞輔の女性彫像は美しい。
 日本彫刻界を代表する山本の彫刻は、駅や公園、百貨店等200を超えるpublic spaceに設置されている。
 名古屋の街中でも、名古屋駅、市政資料館、地下鉄入口、愛知県立図書館、大学、公園等、慣れ親しんだ場所でよく出逢う。
 そして、その清らかな女性像は人生を謳歌する様に輝き、自然と共鳴し合い希望ややすらぎを人々の心に届けている。〔後略〕

《略歴》
1939(昭和14)年 01月08日 愛知県幡豆郡一色町(現西尾市一色町)に生まれる
1954(昭和29)年 (15歳) 愛知県立西尾高校普通科入学
1957(昭和32)年 (18歳) 同校卒業、愛知学芸大学美術科入学〔‥担当教官から「彫刻家」の素質を認められ、同大学中退〕
1958(昭和33)年 (19歳) 東京教育大学(現筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻入学
1962(昭和37)年 (23歳) 同大学教育学専攻科(筑波大学大学院)彫塑専攻進学
1963(昭和38)年 (24歳) 同専攻科終了 / 名古屋市立保育短期大学奉職(1968年助教授/76年教授~95年迄)
1966(昭和41)年 (27歳) 日本彫塑会(現日本彫刻会)会員推挙
1968(昭和43)年 (29歳) 近藤澄江と結婚 / 伊政府給費留学生としてローマ美術学校彫刻科に留学(1969年迄)
1972(昭和47)年 (33歳) 改組第4回日展にて「生きがい」特選受賞
1980(昭和55)年 (41歳) 同第12回日展にて「ひたむき」特選受賞
1984(昭和59)年 (45歳) 文部省派遣在外研究員として伊留学(1985年迄)
1985(昭和60)年 (46歳) 日彫展審査員(以後8回選任) / 日展審査員(以後8回選任)
1986(昭和61)年 (47歳) 日展会員就任
1996(平成08)年 (57歳) 日展評議員就任 / 名古屋市立大学芸術工学部教授就任
1999(平成11)年 (60歳) 第31回日展にて「森からの声」(添付写真[04])が内閣総理大臣賞受賞
2002(平成14)年 (63歳) 名古屋市立大学芸術工学部大学院芸術工学研究科教授就任
2004(平成16)年 (65歳) 同大学名誉教授就任 / 第35回日展出品作「生生流転」が第60日本藝術院賞受賞 / 日展理事・日彫刻会理事就任
2008(平成20)年 (69歳) 日本藝術院会員就任
2014(平成26)年 (75歳) 日本彫刻会理事長就任

[02]古川美術館入口
                  
[03]本展leaflet/写真の彫像は、山本眞輔『心の旅―まほろばへの道―』2010年

[04]山本眞輔『森からの声』1999年
                  
[05]同『祈り 細川ガラシャ夫人像』2013年

[06]同『旅立ちの勢至丸さま』2008年
                  
[07]同『心の旅―祈りの道―』2006年

[08]同『心の旅―アジャンタI―』2005年
                  
[09]同『タオルミーナ』2006年

[10]同『心の旅―メテオラの祈り―』2009年
                  
[11]同『心の旅―ポルトの丘―』20年


【小生comment】
 「彫刻は美しくなければならない。人生は楽しくなければならない。私の信条である」という山本氏の信条は、小生、全く同感である。
 山本氏の清楚な女性の彫像を眺めていると個々の底から癒される。
 そして、嘗て佐川美術館で見た佐藤忠良の女性像が頭に浮かんだ。
 ご覧になってどの様な感想を持たれましたか?

■続いて訪れたのは、松坂屋美術館。其処で企画展『近現代 日本絵画』展を見た。
 本展は、松坂屋美術館独自の企画展で、開催の趣旨の『ごあいさつ』から引用してご紹介する。

 当館では「近現代 日本絵画展 ~明治から受け継がれてきたもの、未来へ受け継いでいくもの~」を開催する。
 日本の近代の美術は、西欧からの美術を積極的に受け入れ乍ら、一方では、今迄の日本独自の美術を守りつつ更に新たな地平を拓こうとする二つの潮流が交差し乍ら独自の発展を遂げて来た。
 それが今日迄日常的に使われている「洋画」「日本画」という二つのgenreの成り立ちにも深く関係している。
 本展は、日本画からは、橋本雅邦、上村松園、片岡球子、東山魁夷、加山又造、平山郁夫らを、洋画は、岡田三郎助、梅原龍三郎、安井曾太郎、小磯良平、森本草介など、近現代美術史を華麗に彩った作家たちと、今日の俊英作家に拠る秀作60余点に拠り、日本美術の近現代そして未来を展望する。〔後略〕

[12]本展leaflet
                  
【日本画】
[13]堅山南風(1887-1980)『桃と冬瓜』制作年不詳

[14]小倉遊亀(1895-2000)『牡丹』1971年
                  
[15]平山郁夫(1930-2009)『唐招提寺の夜』制作年不詳

【洋画】
[16]浅井忠(1856-1907)『農夫帰路』1887年
                  
[17]梅原龍三郎(1888-1986)『軽井沢秋景』1974年

[18]岸田劉生(1891-1929)『椿花図』1922年
                  
[19]林武(1896-1975)『薔薇』制作年不詳

[20]小磯良平(1903-1988)『踊り子』1937年
                  
[21]森本草介(1937-2015)『布を纏う裸婦』1991年

[22]山本大貴(1982- )『離岸の唄』2015年
                  

【小生comment】
 本展は、日本の洋画・日本画の泰斗に拠る選りすぐりの傑作選なので、ご紹介したいものばかりであった。
 絵画や美しいモノが好きな方には必見の企画展である。
 07月09日(日)迄開催しているので、是非覗いてみて下さい。
 きっと満足されると思います。

■続いてお伝えするのは、06月17日(土)に愛知県芸術劇場 大hall にて17時00分に開演された、Palermo マッシモ劇場の演奏に拠るPuccini作曲:歌劇『トスカ』についてである。
 本演奏会は、本展leafletで紹介されていた通りの、名キャスト・名演出に拠る最高の『トスカ』であった。
 以下、引用してご紹介する。

 パレルモ・マッシモ劇場(Teatro Massimo di Palermo)は、1897年Verdiの「ファルスタッフ」でこけら落としが行われた、イタリア最大の規模を誇る歌劇場。
 2007年に初来日、シチリアゆかりの演目を上演して好評を博し、今回が10年ぶり2度目の来日となる。
 現代、屈指のトスカ歌いのチェドリンスを含め、一流歌劇場で大活躍中の主役人に拠る理想のcastingで贈るPucciniの最高傑作!〔中略〕
 Title role(主役)のチェドリンスは、1996年にパヴァロッティ国際コンクール優勝後、彼との競演でトスカを歌い、その後多くのrepertoryで、輝かしいcareerを積み上げて来た。〔中略〕
 現在、当代きってのトスカ歌いとして名を上げている。
 相手役のジョルダーニも、此処数年MET、Wien、Bayern両歌劇場等で、押しも押されぬカヴァラドッシ役として活躍を続けている。

[23]本展leaflet

[24]愛知県芸術劇場大ホール入口にて
                  
[25]同hallロビーにて

[26]トスカ役:フィオレンツァ・チェドリンス
                  
[27]カヴァラドッシ役:マルチェッロ・ジョルダーニ


【小生comment】
 いや~っ、本当に素晴らしい感動的な歌劇「トスカ」だった。
 現在、世界最高の「トスカ」と言われるチェドリンスは、本当に打って付け役で、彼女が歌うトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」は痺れる程素晴らしかった。
 カヴァラドッシのアリア「星は煌き」も「もう最高!」。
 Pucciniの有名なアリアの中でも「ラボエーム」の2曲と共に、最高傑作の2曲である、と小生は思っている。

■今日最後にお届けするのは、翌06月18日(日) ライフポートとよはしにて14時00分より開演された『豊橋交響楽団 第120回記念定期演奏会』を聴いたことについてである。
 06月18日(日) 14時00分からの開演で、曲目は以下の3曲。

1. ジョセフ=モ(ー)リス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel (1875-1937)):ラ・ヴァルス
2. ジャック・イベール(Jacques F. A. bert (1890-1962)):フルート協奏曲
3. エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz (1803-69)):幻想交響曲

[28]本展leaflet
                  

【小生comment】
 小生、急に野暮用が入り、3曲目のベルリオーズの幻想交響曲が聴けなかったのが残念だった。
 清水信貴氏のflute独奏に拠るイベールの協奏曲は、煌びやかな名曲で素晴らしかった。
 いつもこのconcertの件でお世話になっている、安形君(【時習26回 3-1】&【1-4】のclassmate)は、豊響の金管楽器のsection leaderで、hornのpart leaderで活躍中である。
 最初に演奏されたRavel のラ・ヴァルスを元気に演奏している彼の姿を見ることが出来たが、好きな楽器を思いっきり演奏出来る彼は素敵だと思う。
 楽器を上手く演奏できない小生は、聴く方に専念しようと思う。(笑)

【後記】06月17日(土)の歌劇『トスカ』は、17時00分に開演、2回の休憩を含め20時00分終演だった。
 その日は、銀行時代の朋友佐藤君とoperaが一緒だったので、帰りに名駅のうまいもん通りで一献傾けた。
 同じ『トスカ』を、東京では天下のprima donnaのアンジェラ・ゲオルギューが歌ったが、殊に「トスカ」に限ればチェドリンスに軍配が上がる、と二人の意見が一致した。

[29]Operaの後、旧行時代の同期で朋友の佐藤君と


  短夜に カヴァラドッシとトスカの愛 悟空

 では、また‥〔了〕

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