2020年3月30日月曜日

【時習26回3−7の会 0803】~「03月27日:【時習26回/四人会】開催報告」「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第21回/第191句~200句〕」「03月20日:『長男の36歳の誕生日祝い』&03月21日:『孫たちとののんほいパーク』&03月22日:『孫たちとサンテパルクたはら』にて」「杜牧『江南春』・杜甫『曲江』~二首~其二」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0803】号をお届けします。
 今日最初の話題は、0327日に開催した【時習26回/四人会】についてである。
 其の日は、仕事を終え、一度帰宅した後、駅前の居酒屋にて【時習26回の四人会】を開催した。
 コロナ禍を意識したが、「逆説的にきっと来客数も少ないだろう」と思った通り、来客数は我々四人以外は、隣の女性四人組と男性一人だった。
 だから安心して楽しい同期生との二時間を過ごすことが出来た。
 花金でこんなに少ない客入りだから、飲食店は大変だろうなぁ‥
 
[01]林さん【3-7】と宮下君【3-4

[02]中嶋君【3-2】と小生
                  
[03]四人で乾杯1

[04]同上2
                  
[05]がらんとした居酒屋の店内

[06]閉会時に4人で店内にて記念撮影1
                  
[07]同上2

■続いての話題は、毎回お送りしている松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第21回/第191句~200句〕」をご紹介する。

191 さし柳(やなぎ)(1)たゞ直(すぐ)なるもおもしろし  一笑(2)

【意】柳の枝を一本地面に挿して挿し木をしている / 此の挿し木の柳は、嫋(たお)やかな柳と違い、無骨に突っ立っているだけだ / 其れが逆説的で面白い
【解説】季語:=柳=晩春 /
(1)さし柳:挿木の柳のこと
(2)小杉一笑(こすぎ いっしょう(1652-88.12.28(元禄01.12.06(享年36))):加賀国金沢の人 / 小杉味頼 / 通称:茶屋新七 / 貞門から1687(貞亨04)年頃より蕉門に入門 /『奥の細道』の途次、芭蕉は一笑の死を知り、金沢で追善句会を開催し、「塚も動け我が泣く声は秋の風」と彼の死を悼んだ

192 (しゃく)ばかりはやたは(=)みぬる(1)(やなぎ)(かな)  小春(2)

【意】柳が小枝を伸ばして、一尺ばかりになると、早くも撓(たわ)んでいる / 流石、柳は嫋(たお)やかだ
【解説】季語:柳=晩春 /
(1)たはみぬる:正しくは「撓(たわ)みぬる」/ 撓(たわ)んでいる
(2)亀田小春(かめだ しょうしゅん(?-元文05(1740)0204)):加賀国金沢の蕉門 / 薬種商人・宮竹屋 亀田伊右衛門 /『奥の細道』の旅で金沢を通過した折、芭蕉の門人となる

193 すがれすがれ柳(やなぎ)は風にとりつかむ  一笑

【意】さぁ、柳の枝にすがりついてみよう / そうすれば、其の儘風を掴まえることが出来るぞ
【解説】季語:柳=晩春 /

194 とりつきて筏(いかだ)をとむる柳(やなぎ)哉  昌碧(1)

【意】枝葉を沢山付けた柳の木が、其の枝先を水面すれすれ迄垂れている / 此れでは、川上から下って来た筏(いかだ)が水路の視界を遮(さえぎ)られた為止めざるを得ない / 恰も柳の枝葉が筏に纏い付いて筏を止めて仕舞ったかの様だ
【解説】季語:柳=晩春 /
(1)昌碧(しょうへき(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 貞享0411月『笈の小文』の旅の折、蕉門に入門 /『あら野』等に入句

195 (さは)れども髪(かみ)のゆがまぬ柳(やなぎ)哉  杏雨(1)

【意】柳の枝葉先が、そよ風に吹かれて軽やかに揺れている / 其の柳の枝葉先は柔いので、結ったばかりの女性の髪に触っても、其の髪形を壊すことはない
【解説】季語:柳=晩春 / 柳の枝は女性の髪に譬えられる
(1)杏雨(きょうう):美濃国岐阜の人 / 生没年不詳 /「あら野」に入句

196 みじかくて垣(かき)にのがるゝ柳(やなぎ)哉  此橋(1)

【意】路傍の垣の向こう側にある柳の木の枝葉が、垣根越しに道路側へ垂れている / 其の枝を一枝を折り取ろうと手を伸ばしたら、柳枝の丈が少し短いので、風に靡(なび)いて垣根の内側に入って仕舞った
【解説】季語:柳=晩春 /
(1)此橋(しきょう):詳細不詳

197 ふくかぜに牛(うし)のわきむく柳(やなぎ)哉  杏雨

【意】一陣の風に柳の枝が揺れて、柳の木の下にいる(or柳の木の下を歩いてゆく)牛の顔を撫()でる / 牛は鬱陶しそうに顔を背(そむ)けた
【解説】季語:柳=晩春 /「わきむく」という言葉に牛の鈍重さが感じられる

198 (ふく)風に鷹(たか)かたよするやなぎ哉  松芳(1)

【意】柳の下に繋(つな)がれた鷹か、柳の下にいる人(=鷹匠(?))の腕で羽を休めている鷹だろうか / さっと風が吹き、柳の枝が鷹の近くを横切ろうとするや否や、鷹はキッと身構えた / 流石に鷹だ、其の俊敏なこと!
【解説】季語:やなぎ=晩春 / 前句の牛の鈍重さとの対照性を強調して並べた
(1)松芳(しょうほう(生没年不詳)):尾張国の人 /『阿羅野』に7句入句

199 かぜふかぬ日()はわがなりの柳(やなぎ)哉  挍遊(1)

【意】風のない穏やかな春の日 / 柳は枝を垂れて微動だにしない / 風が吹くと融通無碍に風の吹かれる儘に枝を靡(なび)かせる時の柳の木とのギャップの大きさを、改めて感じた
【解説】季語:柳=晩春 /
(1)挍遊:詳細不詳

200 いそがしき野鍛冶(のかじ)をしらぬ柳(やなぎ)哉  荷兮(1)

【意】三国時代の魏の文人で、竹林の七賢人の一人、嵆康(けいこう(224-62(63))は、夏には柳の木陰で鍛治をしたと云う / 此の(句に登場する)田舎鍛冶屋は、そんな故事は知るまいが、柳の下で忙しそうに野鍛治をしている / 柳も、男の忙しさ等素知らぬ顔で悠然と風に揺れている
【解説】季語:柳=晩春 /
(1)山本荷兮(やまもと かけい((?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第22回/第201句~210句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いての話題である。
 0320()は、一宮市に住んでいる長男家族と横浜市緑区長津田に住んでいる長女家族が遊びに遣って来て、長男36歳の誕生日を祝った。
 残念乍ら、次男坊は仕事の都合で来れなかった。

[08]拙宅での家族写真
                  
[09]長男の嫁と長男の次男坊

 翌0321()は、長男家族・長女家族と一緒に、豊橋市二川にあるのんほパークに行って来た。

[10]のんほいパークにて1
                  
[11]同上2

[12]同上3
                  
[13]0321()拙宅にて:長女の処の2人の孫

[14]同上 長男の次男1
                  
[15]同上2

 翌々日0322()は、同じく長男家族・長女家族と、田原市にあるサンテパルクたはらに行って来た

[16]田原市/白谷海浜公園にて:長女の長男()と次男坊を抱く長男()
                  
[17]サンテパルクたはら monumentにて

[18]同上 長男夫婦と孫たち(長女の長女も一緒に‥)
                  
[19]花壇をbackに・長女の長女

[20]花壇をbackに・小生
                  
[21]美しい花壇の花々1

[22]同上2
                  
[23]同上3

【小生 comment
 長男は一宮市、長女は横浜市に住んでいるので、なかなか会えないので、5人の孫の相手は大変だったが、ジィジの役目は果たせたかな?()

【後記】今日は、春に因んだ唐詩を二句ご紹介して締め括ることにする。

【杜牧『江南春』】

 此の処、前号で杜牧の『清明』、李白の『黄鶴楼送孟浩然之広陵』と唐詩の傑作をご紹介している。
 今日も、同じ杜牧の傑作『江南春』をご紹介する。
 この詩は、先日お伝えした通り、李白の『黄鶴楼送孟浩然之広陵』と共に高校の漢詩の授業で習った。

[24]杜牧『江南春』を image した画像
                  
(01)起句前半「千里鶯啼‥」を image した画像
(02)起句後半「‥緑映紅」&承句前半「水村山郭‥」を image した画像
(03)承句後半「‥酒旗風」を image した画像
(04)転句「南朝四百八十寺」を image した画像
(05)結句「多少楼台煙雨中」を image した画像
  ↑↑(01)から時計回りに(02)(03)(04)(05)の順

  江南春   杜牧(803-852)

 千里鶯啼緑映紅
 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺
 多少楼台煙雨中

 千里鶯啼いて 緑 紅に映ず
 水村山郭 酒旗の風
 南朝 四百八十寺(はっしんじ)
 多少の楼台 煙雨の中(うち)

【意】
 広々と連なる平野を遥かに見渡すと、あちこちから鶯の啼き声が聞こえ、草木の新緑は紅の花に映える
 水辺の村や山沿いの村には酒屋の幟(のぼり)が春風に揺れている
 かつて栄えた南朝の古都である此処 金陵 には多くの寺院が建ち並んでいた
 今も残るその楼台が煙る様に降る春雨の中に霞んで見える

【杜甫(712-70)『曲江(1)』~二首~其二】

 杜甫の詩「曲江二首」より其二をお送りする

  曲江     二首 / 其二

 朝囘日日典春衣 / 毎日江頭尽醉帰
 酒債尋常行處有 / 人生七十【古】来【稀】
 穿花蛺蝶深深見 / 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 / 暫時相賞莫相違

[25]杜甫『曲江』を image した画像

(01)「毎日江頭尽醉帰」を image した画像
(02)「人生七十古来稀」を image した画像
(03)「穿花蛺蝶深深見」を image した画像
(04)「點水蜻蜓款款飛」を image した画像
(05)「傳語風光共流轉」を image した画像
   ↑↑写真は、左上[01]から時計回りに(02)(03)(04)(05)の順

 朝(2)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣(しゅんい)を典(てん)(3)し / 毎日 江頭(こうとう)(4)に酔(よい)を尽(つく)して帰る
 酒債(しゅさい)(5)は尋常(じんじょう) ()く処(ところ)に有り / 人生(じんせい)七十(しちじゅう)古来(こらい)(まれ)なり
 花を穿(うが)(6)蛺蝶(きょうちょう)(7) 深深(しんしん)(9)として見()え / 水に点ずる蜻蜓(せいてい) (10) 款款(かんかん) (11)として飛ぶ
 伝語(でんご)す 風光 共に流転(るてん)して / 暫時 相賞(あいしょう)して相違(あいたが)うこと莫(なか)れと

《意》
 朝廷の勤めを終えると毎日/\春の衣服を質に入れ / 曲江の畔の酒屋で酔ってから帰る
 酒代のツケは、普段行く処、あちこちの店に溜まっている / どうせ昔から七十歳迄生きた者はめったにいないのだ
 花の蜜を吸うアゲハ蝶は奥深い処に見え / 水面に尾をつけているトンボは緩(ゆる)やか飛んでいる
 移い行く此の風景に言づけよう、私と共に流れて行こうと!/ 暫くの間お互いに賞して、互いに背き合うことがないように、と

《語句》
(1)曲江:長安市中にある池 / (2)朝:朝廷 / (3)典:質入れする
(4)江頭:曲江の畔(ほとり) (5)酒債:酒代のツケ
(6)花を穿(うが)つ:花の間に入り込む / (7)蛺蝶(きょうちょう):アゲハ蝶
(8)水に点ずる:水に尾をつける / (9)深深:奥深い様
(10)蜻蜓(せいてい):トンボ / (11)款款(かんかん):ゆるやかな様子

【小生 comment
 758(乾元元)年 杜甫47歳の作 / 左拾遺(さしゅうい:唐代に於いて、位は高くないが、皇帝に直言して失政を諫める職掌)だった杜甫は、皇帝粛宗を諫言した房琯(ぼうかん)を弁護した為、粛宗から疎まれ、此の詩を作った後暫くして左遷された / 其の後、杜甫は成都に落ち着く迄の数年間、流浪の旅に出ることになる。
 杜甫は、此の詩を作成した時は、粛宗に諫言した後で、皇帝から疎まれ、鬱々とした毎日を酒で癒し、「どうせ70歳迄は生きられない人生だ」と decadence な雰囲気であったことが読み取れる。
 頸聯の2句「穿花蛺蝶深深見 / 點水蜻蜓款款飛」は、晩春の情景が深い味わいを醸し出していて、とてもいい。
 「深々と花の間に体を埋め蜜を吸うアゲハチョウ」と「ゆるやかに飛びゆく蜻蛉(トンボ)」は、「時の流れの表象」である。
 だから杜甫は、「風光共流轉(私と共に流れて行こう)」と呼び掛けているのだ。
 因みに、【古稀】の語は、此の「人生七十【古】来【稀】〔人生七十 古来 稀(まれ)なり〕」に由来することは皆さんもよくご存知だと思う。

 では、また‥〔了〕
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2020年3月23日月曜日

【時習26回3−7の会 0802】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第20回/第181句~190句〕」「03月15日:「豊川市桜ケ丘ミュージアム『2003年3月の企画展図録/心に映る さくら展』から」→「円福山豊川閣妙厳寺『豊川稲荷』」→『五社稲荷社』→『羽田八幡宮』→『吉田神社・金柑丸稲荷社』→『安久美神戸神明社』を巡って」「李白(701-62)『黄鶴楼送孟浩然之広陵』」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0802】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第20回/第181句~190句〕」をご紹介する。

181 立臼(たてうす)(1)に若草(わかくさ)見たる明屋(あきや)(かな)  十一歳 龜助(2)

【意】空き家の中に捨て置かれた立臼が一つ、湿気で腐りかけた処から若草が生えて来た
【解説】季語:若草=晩春 /
(1)立臼(たてうす):大木を輪切りにして凹みをつけた臼で、米を搗()いて精米する時等に使う
(2)龜助(かめすけ)11歳という年齢から天才少年であったろうが、人物については詳細不詳

182 すごすごと親子(おやこ)(つみ)けりつくづくし(1)  舟泉(2)

【意】親子連れが土筆を摘んでいる /「熱心ではないが、黙々と‥」といった雰囲気で‥
【解説】季語:つくづくし=仲春(ちゅうしゅん:春半ばの一カ月=陰暦二月) / 土筆摘みは、愉しむでも、古来からの年中行事でもなく、風流さもない /「すごすごと」には、「あまり熱心ではないが、ただ黙々と‥」といった雰囲気がある
(1)つくづくし:土筆(つくし)
(2)永田舟泉(ながた しゅうせん( -1737(元文02).10.27)(享年84)):三河挙母(ころも)(現豊田市挙母町)生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称は六兵衛 / 貞亨04年に蕉門入門 /『あら野』・『曠野後集』等に入句

183 すごすごと摘(つむ)やつまずや土筆(つくづくし)  其角(1)

【意】誰かが土筆を摘んでいる / あまり熱心ではないが、只管(ひたすら)淡々と摘んでいる
【解説】季語:土筆(つくづくし)=仲春 / 土筆摘みの淡々たる情景を詠んだもの
(1)宝井其角(たからい きかく(寛文元年0717(1661.08.11)~宝永040229(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝

184 すごすごと案山子(かか(=))のけけり土筆(つくづくし)  蕉笠(1)

【意】土筆摘みをしている者が案山子を無造作に押しのけた / 昨秋役立った案山子も土筆摘みには関係ないので‥
【解説】季語:土筆=仲春 / 此の句の「すごすごと(=案山子を無造作に‥)」も、前の2句の「すごすごと(=熱心ではないが黙々と‥)(=只管淡々と‥)」の雰囲気に通じる
(1)蕉笠(しょうりつ(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に入句

185 土橋(つちはし)やよこにはへ(=)たるつくづくし  塩車(1)

【意】土橋の脇には土筆が生えている / 腕白坊主様な顔をして‥
【解説】季語:つくづくし=仲春 /
(1)塩車(えんしゃ(生没年不詳)):人物については詳細不明 /『あら野』に3句入句

186 川舟(かはぶね)や手をのべてつむ土筆(つくづくし)  冬文(1)

【意】川舟に乗って岸辺に頭をのぞかせて生えている土筆を採る / 此れも舟遊びの興の一つだ
【解説】季語:土筆=仲春 /
(1)(山本) 冬文((やまもと) とうぶん(生没年不詳)):一説に荷兮の弟と伝えられるが確かでない / 尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句

187 つくづくし頭巾(づきん)にたまるひとつより  青江(1)

【意】野遊びの興として、一つひとつと土筆を摘んでいったら、いつの間にか頭巾一杯になって仕舞った
【解説】季語:つくづくし=仲春 /
(1)青江(せいこう(生没年不詳)):人物について詳細は不明 /『あら野』に2句入句

  蘭亭(らんてい)の主人(1)池に鵞()を愛(あい)されしは筆意(ひつい)(2)有故(あるゆゑ)(なり)

(1)蘭亭の主人:中国・東晋(317-420)の書家王羲之(おうぎし(303-61))のこと / 楷・行・草の書体を芸術的な地位に迄高めた、中国第一の「書聖」と称される / 文章も、「蘭亭序」「十七帖」等を著した / 彼は、池に鵞鳥飼っていた / 其れは鵞鳥の動きの中に運筆の基本が入っていたからと云う /
(2)筆意:鵞鳥の動きに運筆の趣があること

188 池に鵞()なし假名書(かなかき)習ふ柳陰(やなぎかげ)  素堂(1)

【意】此の池には鵞鳥の姿はない / ただ水辺の柳が、葉先を水面に垂れて、風が吹く度に仮名文字の稽古をしているだけだ
【解説】季語:柳=晩春 / 漢学の素養のある山口素堂らしい句
(1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人() / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等 / 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表

189 風の吹(ふく)(かた)を後(うしろ)のやなぎ哉(かな)  野水(1)

【意】柳の木には正面も裏面も決まっている訳ではない / 風の吹く儘に靡き、風が吹いて来る方角が仮の裏面になる
【解説】季語:やなぎ=晩春 / 風に任せ切るものの自在・柔軟さを詠む
(1)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった

190 何事(なにごと)もなしと過行(すぎゆく)(やなぎ)(かな)  越人(1)

【意】「風の吹く儘に静かに靡く柳‥」/ 此れ全て「無事」の姿 / 自分も柳の様に「何事も無し=『無事』」に自然に生きていこう、という心持で柳の木の許を立ち去るのだ
【解説】季語:柳=晩春 / 前句が「任運無作」に対し、本句は「無事」、いずれも禅的境地を表す
(1)越智越人(おち えつじん(1656-?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸迄同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 / 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜國を尋ねた際も越人が同行

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第21回/第191句~200句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いての話題である。
 0315()は、豊川市桜ケ丘ミュージアムと豊川稲荷、五社稲荷社、羽田八幡宮、吉田神社、安久美神戸神明社と、5つの神社にお参りに行って来た。
 実は、其の日の前日(0314())は、コロナ禍が此れ程 pandemic になっていなければ、高速夜行 bus を利用して、東京の6つの美術館巡りをして来る予定であったものだ。
 上京するのは、0404()に順延し、しかも夜行 bus という密室は裂け、新幹線で日帰りすることにしたが、0314日に見ることが出来た美術館企画展のうち、東京都美術館『ハマスホイとデンマーク絵画』展と国立新美術館『ブルガリア』展は、終了して仕舞っている。
 更に、現状だと0404日時点では、東京の美術館の営業再開も疑わしい。
 ま、成り行きに任せるしかないが‥
 そう言うこともあって、0314()は、日中雨天であったこともあり、家にて日頃やっていなかった雑事を片付けた。
 そして0315()は、急遽思い立ち、地元の5つの著名な神社を巡り、コロナ禍という邪気を祓うべくお参りに行くことにした。
 其の日は、以下の通り行動した。

0500分 起床→腹筋2,000
0600 2.5kg木刀素振り60
0705分 入浴→朝食→
0855分 拙宅発→一般道33 14.7km
0928分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム着

【豊川市桜ヶ丘ミュージアム】

[01]豊川市桜ヶ丘ミュージアム前にて

[02]山本眞輔『街の朝』1994年~像の前にて
                  
[03]豊川市桜ヶ丘ミュージアム入口にて

 当ミュージアムは、先月0208()に現在開催中の『さくら、はな』展を見たことは既にお伝えしている。
 20200212日付【時習26回3-7の会 0796】ご参照
 https://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmDCAkkoKTJy_mmKfIGRHSJtZQC7KI2-7cd7TwhGl0G5OGNCY3_5oB_RTFBE1MpFBML-q0LWnNN2oUz89fWeT8pPuaarJ7pNO2QNnKStAllhWBGgYRrErYuSxctT-dV5kGrUpDZW&postId=6548261117654439681&type=POST
 
 其の日は、絵画展の展示室にて、今から丁度17年前の2003(平成15)0321日~0413日迄開催された、豊川市制60周年記念事業『心に映る さくら展』の図録を見つけ眺めてみた。
 其の秀逸で美しい展示作品の素晴らしさに感動した小生、back number が@1,000円で売られていたので早速購入した。
 其の図録の中から、気に入った作品を幾つかご紹介したい。

[04]豊川市桜ヶ丘ミュージアム『心に映る さくら展』図録表紙
                  
[05]藤島武二『桜の美人(桜狩下絵)1892-93年頃〔石水博物館蔵〕

[06]横山大観『春朝』1939年頃〔山種美術館蔵〕
                  
[07]上村松園『小町の図』1929-30年頃

[08]松林桂月『春宵花影図』1939年〔東京国立近代美術館蔵〕
                  
[09]須田国太郎『夜桜』1941年〔京都国立近代美術館蔵〕

[10]堂本印象『櫻花』1950年〔京都府立堂本印象美術館蔵〕
                  
[11]堂本印象『櫻の丘』1962年〔同上〕

 堂本印象は、ピカソと同様、生涯のうち、画風の変遷が激しい画家だ
 添付写真の絵[10][11]12年間で此れ程画風が変わるのも興味深い

[12]加藤栄三『桜』制作年不詳〔加藤栄三・東一記念美術館蔵〕
                  
[13]奥田元宋『満園春色』制作年不詳〔古川美術館蔵〕

[14]守屋多々志『聴花(式子内親王)1980年〔山種美術館蔵〕
                  
[15]稗田一穂『春深き夜』1997年〔岐阜県大野郡宮村蔵〕

[16]石田武『吉野』2000年〔山種美術館蔵〕
                  
 此の山種美術館蔵の石田武『吉野』を見る度に、20120415日に日帰りbus旅行で吉野の絶景の千本桜を見に行った日のことを思い出す
 20120426日付【時習26回3-7の会 0390】ご参照
  http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/index.html

 其の時詠んだ小生の拙い恋歌が此れ‥

  満開のさくら花咲く吉野山 溢るる色馨に霞む山際  悟空

[17]平川敏夫『春秋』1975年〔メナード美術館蔵〕

[18]同『三河八景・菅生川春宵』1994年〔豊川市(旧小坂井町)蔵〕
                  
[19]中根寛『瀬戸春景』1988年〔蒲郡信用金庫蔵〕

[20]同『春の堤(三河)1991
                  
[21]後藤純男『淡墨桜』1987年〔刈谷市美術館蔵〕

[22]田渕俊夫『春ざれ』1993
                  
[23]木村圭吾『滝桜』1990年頃

[24]中島千波『夢殿の枝垂桜』1992
                  
[25]千住博『夜桜』2001年〔山種美術館蔵〕

【小生comment
 今から17年前に開催された企画展だが、傑作揃いだった。

0940分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム発→徒歩12 1km
0952分 円福山豊川閣妙厳寺「豊川稲荷」着

【円福山豊川閣妙厳寺「豊川稲荷」】

[26]豊川稲荷本殿 参道前の鳥居にて
                  
[27]同 二の鳥居にて

[28]同 本殿前の参道にて
                  
[29]同 本殿近くの「境内参拝案内図」

[30]同 本殿前にて
                  
[31]円福山豊川閣妙厳寺「豊川稲荷」本殿

[32]同 本殿脇の「豊川稲荷大本殿」解説板
                  
【小生 comment
 お参りの際、案内にあった様に「オンシラバッタニリウンソワカ」と7回唱えて、新型コロナウィルスが退散してくれることを祈った。

1000分 豊川稲荷発→徒歩12 1㎞→
1012分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム発→一般道17 5.6km/20.3km
1029分 五社稲荷社着

【五社稲荷社】

[33]五社稲荷社 鳥居前にて

[34]同 参道にて
                  
[35]同 参道から本殿を望む

[36]同 本殿前にて
                  
[37]五社稲荷古墳解説板

[38]五社稲荷社 朱印&五社稲荷社 略記表紙
                  
[39]同 御由緒


【小生 comment
 五社稲荷社は、明暦年間(1656年頃)に、此処、弥生中後期の住居遺跡跡に五穀豊穣を祈る為「保食神(うけもちのかみ)」を斎祀したのが始まりと伝わる。
 五社稲荷社でも、コロナ禍が退散してくれることを祈った。

1044分 五社稲荷社発→一般道20 5.4km/25.7km
1104分 羽田八幡宮着

【羽田八幡宮】

[40]羽田八幡宮 本殿前にて1
                  
[41]同上2

[42]羽田八幡宮 朱印
                  
[43]同 いわれ

【小生 comment
 宇佐八幡宮の分霊社で白鳳年間の創立と社伝にある。
 慶安02年 将軍徳川家光は社領10石並びに神主屋敷共に寄進の朱印状を寄せ、以後、継目朱印状が明治維新迄続いた。
 羽田八幡宮でも、コロナ禍が退散してくれることを祈った。

1114分 羽田八幡宮発→一般道10 2.4km/28.1㎞→
1123分 吉田神社着

【吉田神社・金柑丸稲荷社】

[44]吉田神社鳥居前にて
                  
[45]歌川広重「吉田」宿の看板前にて

[46]吉田神社 本殿前にて
                  
[47]同 本殿前の吉田神社解説板にて

[48]吉田神社・金柑丸稲荷社 朱印
                  
[49]吉田神社 御由緒

[50]金柑丸稲荷社について他
                  
[51]手筒花火発祥の地碑横にて

 此の石碑にある様に、吉田神社が手筒花火発祥の地とされている

[52]影降石(ようごうせき)
                  
[53]同上 解説

【小生 comment
 吉田神社でも、コロナ禍が一日も早く退散してくれることを祈った。

1148分 吉田神社発→一般道 2 900m/29.0km
1150分 安久美神戸(あくみかんべ)神明社着

【安久美神戸神明社】

[54]安久美神戸神明社 鳥居前にて
                  
[55]同 鬼祭りの赤鬼

[56]同 同上の前にて
                  
[57]同 本殿前にて1

[58]同 本殿前にて2
                  
[59]同 安久美神戸神明社由緒解説板

[60]同 伊勢神宮遥拝所にて
                  
[61]同 朱印

[62]同 安久美神戸神明社御由緒
                  
【小生 comment

 此処でも、赤鬼の応援を貰い乍ら、コロナ禍が早く退散してくれることを祈った。

1205分 安久美神戸神明社発→一般道13 2.5km/31.5km
1218分 帰宅〔了〕走行距離計31.5km

【後記】今日も、春に因んだ唐詩を一句ご紹介して締め括ることにする。

【李白(701-62)『黄鶴楼送孟浩然之広陵』】
 此の名句は、高校の漢文の授業でも習い、不思議と暗誦も容易に出来たことを覚えている。
 高二か高三だったか、記憶が定がではなくなったが、此れを習った昭和4748年と言えば、日中国交正常化(昭和47)がされた直後であった。
 だから、其の当時、中国はまだ解放前で、まだ渡航制限が厳しい時代だったので、殆どの日本人がまだ中国には行ってなかった。
 其れでも、其の行ったこともない広大な長江にポツンと孟浩然が乗った帆舟が浮かび、消えていく情景がスーッと小生の頭に浮かんで来た。
 更に余談だが、小生、漢文の授業で習った此の句と、杜牧の「江南の春」の2つの名詩で漢文・漢詩が好きな科目となったと言っても過言ではない。
 皆さんも、以下の書き下し文を口ずさんでみて下さい。
 詠み易く、理解し易い名詩だと思われませんか?

[63]李白(701-62)『黄鶴楼送孟浩然之広陵』を image した画像

↑↑上記添付写真は、左上(01)から時計回りに(02)(03)(04)の順
(01)「故人西辞黄鶴楼」を image した画像
(02)「煙花三月下揚州」を image した画像
(03)「孤帆遠影碧空尽」を image した画像
(04)「惟見長江天際流」を image した画像
 
  黄鶴楼送孟浩然之広陵 李白(701-62)

 故人西辞黄鶴楼
 煙花三月下揚州
 孤帆遠影碧空尽
 惟見長江天際流

  黄鶴楼にて孟浩然(689-740)の広陵(こうりょう)(1)に之()くを送る

 故人(こじん)西の方(かた) 黄鶴楼(こうかくろう)(2)を辞し
 煙花(えんか)(3)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下る
 孤帆(こはん)の遠影(えんえい) 碧空(へきくう)に尽()
 惟()だ見る長江の天際(てんさい)に流るるを

(1)広陵:江蘇省揚州
(2)黄鶴楼:湖北省武昌の西南 / 長江を見下ろす高台にある楼閣 / 崔顥「黄鶴楼」が著名
(3)烟花:春霞

《意》
 我が親友、孟浩然は、此の西の黄鶴楼に別れを告げ
 春霞の三月に揚州へ舟で下って行く
 (黄鶴)楼上から長江を眺め遣ると、ポツンと(孟浩然が乗った)小さな帆舟が見えていたが、段々と青い空に吸い込まれる様に消えて行った
 後にはただ長江の流れが天の果てへと流れてゆくばかりだ

 では、また‥〔了〕

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