2021年5月24日月曜日

【時習26回3−7の会 0863】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から員外〔第81回/員外~第791句~800句〕」「05月14日:旧東海道五十三次「JR金谷駅」→「金谷一里塚跡」「柏屋本陣跡」「佐塚屋本陣跡」「川越し場跡」「大井川橋」「大善寺」「大井神社」「JR六合駅」を巡って」「2008/05/03名古屋市美術館『モディリアーニ展』&愛知県美『杉本健吉展』」「2009/11/13ブリヂストン美『安井曾太郎の肖像画展』」「2012/05/20「梅原龍三郎『花と名峰』展」「2014/10/25稲沢市荻須記念美『小磯良平(1903-1988)』展」「大女優 高峰秀子と梅原龍三郎」「小磯良平『T嬢の像』誕生の逸話」「高峰秀子『おいしい人間 ふしぎの国のオギス』」「松坂屋美『荻須高徳展』」


■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0863】号をお届けします。

. 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第81回/員外~第791句~800句〕」をご紹介する。
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791 (むかう)まで突(つき)やるほどの小()ぶねにて  荷兮
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【意】対岸で土を小舟に積んで貰って、此方に手で押し遣ると軽く届く程の短い距離 / 簡単な作業 / 水利権問題なら大問題だが、田の畔を補修する現在は、兎も角心安く付き合うのである‥
【解説】《名残表三》《雑》/
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792  垢離(こり)かく(1)(ひと)の着(きる)ものの番(ばん)  昌碧
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【意】水垢離をする人の脱いだ着物を預かり番をしている / 着物の持ち主が声を掛けると、其処へ向けて着物を載せて小舟を押し遣る
【解説】《名残表四》《雑》/
(1)垢離(こり)かく:神仏に祈願する為、冷水や海水を浴びて清めること
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793 配所(はいしょ)にて干魚(ひうを)の加減(かげん)(おぼ)えつゝ  釣雪
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【意】〔‥前句の「垢離かく人」を赦免されて本国へ帰る時のものと見て‥〕いま水垢離をしている人は、許されて赦免となって帰国するのであろう / 生きて行く為に、此処の配所で、魚の干物を作る技迄習得した
【解説】《名残表五》《雑》/
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794  歌(うた)うたふ(=)たる聲(こゑ)のほそぼそ  舟泉
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【意】〔‥高貴な流人の様‥〕干魚を作り乍ら歌謡などを口ずさむのだが、流石に声はか細い
【解説】《名残表六》《雑》/
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795 むく起(おき)(1)に物(もの)いひつけて亦(また)(ねむ)り  野水
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【意】前句の歌を歌っていたのは下僕 / 主人はというと、むっくと起きて雑用を言いつけたと思ったら又眠り込んで仕舞った
【解説】《名残表七》《雑》/
(1)むく起:急に起き上がること
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796  門(かど)を過(すぎ)(ゆく)茄子(なすび)よびこむ  荷兮
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【意】前句の下僕が主人に言われたのは茄子を買っておくことだった / 折から遣って来た茄子(なすび)売りを呼び込んだ
【解説】《名残表八》《夏》:茄子 /
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797 いりこみて足軽(あしがる)(まち)の藪(やぶ)(ふか)し  亀洞
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【意】此の下僕の住む足軽街は入り組んだ所にあり周りは藪だらけ / だから茄子売りを呼び込むだけでも苦労する
【解説】《名残表九》《雑》/
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798  おもひ逢(あひ)たり(1)どれも高田派(たかだは)(2)  釣雪
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【意】此の足軽街の住人は皆高田派の念仏門徒だから、質素な中にもお互い思い遣り深く助け合って生きている
【解説】《名残表十》《雑》/
(1)おもひ逢(あひ)たり:互いに労り合い助け合っている
(2)高田派:伊勢国一身田の専修寺を本山とする浄土真宗高田派
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799 (さかづき)もわするばかりの(1)下戸(げこ)の月(つき)  昌碧
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【意】此の足軽街の住人が集まって月見の宴を張っているのだが、残念乍ら誰も下戸なので、月を愛でてばかりいて杯の方はちっとも進まない
【解説】《名残表十一》《秋》:月 /
(1)わするばかりの:和歌の言い回しを真似た措辞(=言葉の使い方)
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800  やゝはつ秋(あき)のやみあがりなる  野水
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【意】〔‥前句の下戸は、病後故として‥〕日増しに初秋の気配が深まっていくと共に、病状も回復したところである / だから未だ酒は遠慮させて頂いている訳だ
【解説】《名残表十二》《秋》:はつ秋 /「やゝはつ秋の」は、前句の「わするばかりの」に応じた古風な表現
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【小生 comment
. 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔82回 / 員外~第801句~810〕をご紹介する。お楽しみに!
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今日続いての話題は、0514()に実施した、旧東海道五十三次「金谷宿」「大井川渡河」についてである
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0514())は、週一回の平日公休日
. 旧東海道五十三次 JR金谷駅」→「金谷一里塚跡」→「金谷宿/柏屋本陣(一番本陣)跡」→「同/佐塚屋本陣跡」→「同/川越し場跡」→「大井川橋」→「大善寺」→「大井神社」→「JR六合駅」を踏破したことについてお伝えする
. 踏破距離15㎞、歩数19,637歩だった
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0430分 起床→腹筋2,000
0520 2.5kgの木刀素振り50
0620分 入浴→朝食
0702分 拙宅発→一般道2時間22 85km〔駐車料金:500/日〕→
0924 JR金谷駅近隣駐車場着
0837分 同所発屋→徒歩→
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JR金谷駅→旧東海道「金谷一里塚跡」】1
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[01][左上]Google 航空 mapJR金谷駅」→「金谷一里塚跡」→「金谷柏屋本陣跡」への経路図
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右上]JR金谷駅南側近隣駐車場にて
[左下]同 同駐車場からJR金谷駅 platform を望む
[中下]同 同駐車場近隣・旧東海道の路傍に咲く「フランスギク」同所にて
[右下]同 同上「同」1
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0952分 道標着
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JR金谷駅→旧東海道「金谷一里塚跡」】2
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[02][左上] 金谷駅南側近隣駐車場 / 近隣・旧東海道の路傍に咲く「フランスギク」2
.
[
右上]同 / 同「同」3
[左下]同 / 同「同」4
[中下]同 / 金谷駅周辺風景
[右下]同 / 金谷一里塚跡付近の道標
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0953分 道標発
0954分「金谷一里塚跡」着
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【旧東海道「金谷一里塚跡」】
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[03][左上]旧東海道「金谷一里塚跡」にて1
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[
右上]同「同」東側近隣「東海道金谷宿案内絵図」同所にて1
[左下]同「同」同「同」
[中下]同「同」同「同」同所から旧東海道の西方を望む
[右下]同「同」同「同」同所から旧東海道の東方を望む
.
1000分 旧東海道「金谷一里塚跡」発
1013分 同「金谷宿柏屋本陣(一番本陣)跡」着
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JR金谷駅→旧東海道「金谷一里塚跡」→「柏屋本陣跡」】
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[04][左上]旧東海道「金谷一里塚跡」にて2
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[
右上]Google 航空 map「金谷一里塚跡」→「金谷宿柏屋本陣跡」への経路図
[左下]旧東海道「柏屋本陣跡」解説板
[中下]同「同」同所にて1
[右下]同「同」同上2
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1039分 旧東海道「柏屋本陣跡」発
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【旧東海道「柏屋本陣跡」・旧東海道街並〔島田市金谷中町〕風景1
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[05][左上]旧東海道「柏屋本陣跡」にて3
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[
右上]同「同」同所のバス停ベンチに座っていた八十路近い男性と
[左下]旧東海道街並〔島田市金谷中町〕風景1
[中下]同〔島田市金谷扇町〕路傍の花1「アイビー・ゼラニウム」
[右下]同〔同〕同2「同」
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【旧東海道街並〔島田市金谷扇町〕風景2
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[06][左上]旧東海道街並〔島田市金谷扇町〕風景1 清水橋から清水川起点を望む1
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右上]同〔同〕風景2 同上2
[左下]同〔同〕風景3 清水橋欄干
[中下]同〔同〕風景4
[右下]同〔同〕路傍の花3「パンジー」
.
【旧東海道街並〔島田市金谷扇町・金谷本町〕風景3
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[07][左上]旧東海道街並〔島田市金谷扇町〕路傍の花「オウシュウマンネングサ」
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右上]同〔同〕同「オウシュウマンネングサと野いちご」
[左下]同〔同〕宿「佐塚屋本陣跡」にて1
[中下]同〔同〕同「同」同所にて2
[右下]同〔同〕同「同」解説板
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11 26分「おうかんばし」着
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【旧東海道街並〔島田市金谷扇町・金谷泉町〕風景4
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[08][
左上]旧東海道街並〔島田市金谷扇町〕風景5「おうかんばし」にて1
.
[
右上]同〔同〕風景6「同」にて2
[左下]同〔同〕風景7「同」
[中下]同〔同〕風景8「同」同所から南方遠望
. 日本の故郷の原風景が広がっていた
[右下]同〔島田市金谷泉町〕風景1 同所にて
.
【旧東海道街並〔島田市金谷東2丁目〕大井川鉄道大井川本線「新金谷」駅 風景4
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[09][左上]Google 航空map「新金谷」駅→「大井川橋」への経路図
.
[
右上]旧東海道街並〔島田市金谷東・大井川鉄道「新金谷」駅〕風景1「新金谷」駅北側にて
[左下]同〔同〕風景2「同」1
[中下]同〔同〕風景3「同」2
[右下]同〔島田市金谷東〕風景4 路傍の花
.
1202分 旧東海道「金谷宿/川越し場跡」着
1212分 同所発
.
【東海道「金谷宿/川越し場跡」】
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[10][左上]旧東海道街並〔島田市金谷東〕風景5「八軒屋橋」同所にて1
.
[
右上]同〔同〕風景6「同」同所にて2
[左下]同〔同〕風景7「同」
[中下]同〔同〕風景8「金谷宿/川越し場跡」解説板
[右下]同〔同〕風景9「同」同所にて
.
1220分 大井川西岸着
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【東海道「金谷宿/川越し場跡」→大井川西岸】
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[11][左上]旧東海道街並〔島田市金谷東〕風景10「金谷宿」石碑にて
.
[
右上]同〔同〕風景11「東海道金谷宿大井川川越之図」解説
[左下]同〔同〕風景12「同」同所にて
[中下]同〔大井川緑地公園〕風景1「大井川西岸:かなや大井川緑地」同所にて
[右下]同〔同〕風景2「同」1
.
1227分 大井川橋渡河開始
1247分 大井川橋渡河終了
.
【大井川畔→大井川橋】
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[12][左上]旧東海道街並〔大井川緑地公園〕風景3「かなや大井川緑地」から「大井川橋」遠望
.
[
右上]同〔大井川橋〕風景1「大井川橋」記念碑
. 橋長:1026.4m / 建設期間:大正13年~昭和3(1924-28)と記されてあった
[左下]同〔同〕風景2「大井川橋」西詰欄干
[中下]同〔同〕風景3「大井川風景」1
[右下]同〔同〕風景4「同」2
.
【「大井川橋」から「大井川」河口方面遠望】
.
[13][左上]旧東海道〔大井川橋〕風景5「大井川風景」3
.
[右上]同〔同〕風景6「同」4
[左下]同〔同〕風景7「同」5
[中下]同〔同〕風景8「大井川橋」解説板
[右下]同〔同〕風景9「同」同所にて
.
1406分 大善寺着
1427分 同所発
.
【旧東海道街並〔島田市向島町「大善寺」〕風景】
.
[14][左上]旧東海道街並〔島田市向島町「大善寺」〕「大善寺の梵鐘」解説板
.
[
右上]同〔同〕閻魔大王像(正面奥)&御朱印(正面手前)
[左下]同〔同〕風景1「本堂」前にて
[中下]同〔同〕風景2 本堂にて
[右下]同〔同〕風景3 境内にて
.
1447分 大井神社着
1500分 同所発
.
【旧東海道街並〔島田市本通「大井神社」〕風景】
.
[15][左上]旧東海道街並〔島田市本通「大井神社」〕風景1「鳥居」
.
[
右上]同〔同〕風景2「御由緒」解説板
[左下]同〔同〕風景3 参道にて
[中下]同〔同〕風景4「島田の帯祭大奴像」
. 日本三奇祭の一つに数えられ、寅巳申亥三年に一度大祭が執り行われ、大名行列と共に25人の大奴が供奉(ぐぶ)する
[右下]同〔同〕拝殿(本殿)前にて
.
1511分 塚本如舟邸跡着
1515分 同所発
1527分 甘露の井戸水着
.
【塚本如舟邸跡】
.
. 此の石碑は、静岡銀行島田支店前にあった
.
[16][左上]旧東海道街並〔島田市本通「塚本如舟邸跡」〕風景1「塚本如舟邸跡」解説板
. 塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄九(1696)年、初代の川庄屋を代官から任命され〔中略〕代々宿(しゅく)役人の要職を務めた〔中略〕
. 三代目孫兵衛は、「如舟(じょしゅう)」と号して俳諧を嗜み、〔中略〕元禄七(1694)年芭蕉は江戸から郷里の伊賀上野へ向かう途中、再び如舟宅を訪れ、川留めの為四泊五日滞在している〔攻略〕
. 〔以上は解説板より引用〕
.
[
右上]同〔同〕風景2「同」解説碑
. 石碑と石碑下の銅板解説には以下の通り書かれていた
. 石碑「俳聖芭蕉遺跡/塚本如舟邸趾
.    やハらかにたけよことしの手作麦 如舟
.    田植とゝもにたひの朝起     はせを
.       元禄七 五月雨に
.       降こめられてあるしの
.       もてなしに心うこきて
.       聊(いささか)筆とることになん」
. 銅板「塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった
.    芭蕉翁は元禄四年十月東下の際初めて如舟を訪れて
.    宿かりて名を名のらする時雨かな
.    馬方はしらじ時雨の大井川
.    などの句を残したが越えて元禄七年五月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅となったが再び如舟邸を訪れ偶々大井川の川止めにあい4日間滞在して
.       さみだれの雲吹きおこせ大井川
.       ちさはまた青葉ながらになすび汁
.    などと詠じ更に興に乗じて田植の連句
.       やはらかにたけよことしの手作麦
.    如舟の発句に翁は
.       田植とともに旅の朝起き
.    と附句し且
.    元禄年 五月雨に降りこめられて あるじのもてなしに心動きて聊か筆とる事になん
.    と後書迄添えた真跡が260年趾の今日迄そのまゝ塚本家に傳えられたことは何ともあり難い事である
.    この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである〔後略〕」
[左下]同〔同〕「同」同所にて1
[中下]同〔同〕「同」同所にて2〔静岡銀行島田支店前にて〕
[右下]同〔島田市本通〕風景1「甘露の井戸水」にて
.
1530分 旧東海道「島田一里塚跡」着
1610分 栃山橋着
.
【旧東海道街並〔島田市本通・御仮屋(おかりや)町・阿知ヶ谷(あちがや)〕風景】
.
[17][左上]旧東海道街並〔島田市本通〕風景2「島田一里塚跡」にて
.
[
右上]同〔同〕風景3「同」解説板
[左下]同〔島田市御仮屋町〕風景1 栃山橋より大津谷(おおつや)川を望む
[中下]同〔同市阿知ヶ谷町〕風景2 栃山橋東交差点付近の東海道
. 写真右手の脇道が旧東海道
[右下]同〔同〕風景3 同所にて
.
1636 JR六合駅着
1653分 同駅発→東海道本線→「JR金谷駅」(運賃:200)
1700 JR金谷駅着
1707 JR金谷駅近隣駐車場着
.
【旧東海道街並〔JR六合駅〕】
.
[18][左上]旧東海道街並〔JR六合駅〕駅前にて
.
[右上]旧東海道街並〔JR六合駅〕駅前にて
[左下]同〔同〕同 platform にてGoogle 航空 map「島田一里塚跡」→「JR六合駅」への経路図
[中下]御朱印「大井神社()」&「大善寺()
[右下]此の日の踏破距離:15㎞ / 歩行歩数:19,637
.
17
10 JR金谷駅近隣駐車場発→一般道〔2時間20 85km
1930分 拙宅着〔走行距離計170㎞〕
.
【小生 commemt
. 此の日も天候に恵まれた、爽快な15㎞ 弱を walking 出来た
. 今回、小生生まれて初めて大井川を歩いて渡った
. 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の大井川「大井川橋」という長さ1,026.4mの橋を歩いて渡ること20
. 時々歩みを止め、川の景色を眺め、写真撮影しつつの渡河だったが、毎時3㎞の速さで渡河したことになる
. 江戸時代、大井川には橋が架けられず、渡り船もなかったので、旅人は難渋したことだろう
. 小生、此れ迄の旧東海道の walking で、豊川、矢作川、木曽川・長良川・揖斐川の木曾三川、天龍川に今回の大井川という大河の橋を歩いて渡って、一寸した満足感に浸ることが出来た
.
. 現在、コロナ禍で悩ましい毎日が続くが、人気(ひとけ)の少ない旧東海道の一人旅は、折々に現れる史跡や美しい景色に巡り合えて心底癒されていい
. 歴史ロマンワクワクする旧東海道五十三次の旅が続く‥
.
【前書】風薫る清々しき大井川を渡り切ると、夏が眼前に見えて来た様に感じられ一句…
.
.  大井川 歩き渡りて 夏が来ぬ 悟空
.
. では、また‥〔了〕
.
続いての話題である
. 今日は、今から丁度13年前の2008/05/05の小生の blog「【時習26回3-7の会 0172】~「55日は『立夏』」「名古屋の美術館巡り〔愛知県美術館『杉本健吉展』〕〔名古屋市美術館『モディリアーニ展』〕」「養老孟司『養老訓』」」から、名古屋市美術館『モディリアーニ展』の作品を幾つか紹介してみたい
.
. 今(2008)年の『立夏』は今日(2021)と同じ55)
. 新緑の若葉もその碧さを日を追うごとに増し、「薫風」というに相応しい初夏の清々しい風、明るく輝く陽光に、夏の到来を実感する
. そして、朝夕の爽快な気分は実に過ごし易い
. 此処で、此の初夏の時節に相応しい會津八一の短歌をご紹介する(「南京新唱」より)
.
.  はつなつの かぜとなりぬと みほとけは
.   をゆびのうれに ほのしらすらし
.                    會津八一
.
【注】初夏の風となりぬと御仏は 指のうれにほの知らすらし /「うれ」:末、指先
. 天地も全て初夏の季節になったのだな、とみ仏は指先でほのかにお感じになっていらっしゃる様だ
. 季節は初夏
. 新緑の天地を風となって流れる大気を捉え、仏像と季節感を一体化した世界を表現した秀歌である
.
名古屋市美術館『モディリアーニ展』
.
[19][左上]名古屋市美術館『モディリアーニ展』
.
[
右上]17歳の時のモディリアーニ
[左下][中下][右下] モディリアーニの肖像画3
.
[20]モディリアーニの肖像画4
.
.
[21]
同上
.
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. 小生、一昨日(2008/05/03)新緑と陽光が眩しい名古屋へ、親父(2015/02/21)を連れて「杉本健吉」展と「モディリアーニ」展を観て来た
. Modigliani 展は(2008 )44日に東京新美術館でも観て来たが、名古屋市美術館とは掲示物も違い、良かった
. ブリヂストン美術館(当時)で見た『若い農夫』と名古屋市美術館で再会したのは嬉しい偶然で良かった
.
. 展示作品としては、国立新美術館の作品群に優るとも劣らない傑作が多く展示されていた
. 小生は、彼の作品が大好きである
. 「何度見てもいいものはいい!」
. 憂い顔の女性の肖像画の幾つかは、彼の内縁の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの悲劇性を連想させ、小生にはいつ見ても輝いて見える
. 名画は、ホント素晴らしい! (^^
.
【愛知県美術館『杉本健吉展』】
.
. 今日のは、先刻ご紹介した13年前の2008/05/05の小生の blog「【時習26回3-7の会 0172】~「名古屋の美術館巡りのもう一つ、愛知県美術館『杉本健吉展』の作品を幾つか紹介して締め括りたい
.
. 杉浦健吉については、
.
1905 920日名古屋市矢場町生まれ
. 20歳の時上京し岸田劉生に弟子入り / 岸田の死後、梅原龍三郎に私淑
. 杉本健吉の作品は、両大家の画風の影響を受けつつ成長していった
. 特に、添付写真の『宇治川』『東大寺大仏殿遠望』『平等院』などは明らかに梅原龍三郎の影響受けた作品群である、と思う
. 故にかどうか‥、梅原の作品同様、時として稚拙に思える作品もなくはないが、成程と呻らせる傑作が多いのは流石である
. 今日はその幾つかをご紹介する
.
[22][左上]杉本健吉1
.
[右上]同上2
[左下]同「韓国風景〔秘苑〕」1973年頃
[中下]同「同」1973年頃
[右下]同「宇治川」1973
.
[23][左上]杉本健吉「東大寺大殿遠望」1975
.
[右上]同「平等院」1978年頃
[左下]同「シエナ」1980
[中下]同「コブレンツにて」1977
[右下]同「運河」1977
.
[24][左上]杉本健吉「セビリアにて」1978年頃
.
[右上]同「セビリア」1980
[左下]同「トレドにて」1980
[中下]同「
[右下]同「グラダナにて」1980
.
.

続いては、今から丁度11年半前の 20091113日に見て来たブリヂストン美術館【安井曾太郎の肖像画展】についてご紹介する
.
【ブリヂストン美術館『安井曾太郎の肖像画展』】
.
[25][左上]ブリヂストン美術館「安井曾太郎の肖像画展」看板
.
[右上]安井曾太郎 (1888.05.17-1955.12.14)
[左下]同『坐像』
[中下]同『女の顔』
[右下]同『玉蟲先生像』
.
[26][左上]安井曾太郎『金蓉』
. 左の写真は、モデルの小田切峯子
.
[右上]同『横山大観像』
[左下]同『大内兵衛像』
[右下]同『大原總一郎像』
.
. 安井自身「肖像画」の表し方について次の様に語っている
.
. 「自分はあるものを、あるが儘に現したい
. 迫真的なものを描きたい
. 本当の自然そのものをカンヴァスにはりつけたい〔中略〕
. 人ならば、話、動き、生活する人を描きたい
. その人の性格、場合によって職業までも充分現したい」
. 〔安井曾太郎『私のレアリズム』(19331)
.
. 素朴なリアリズム観ともいうことができるが〔中略〕一方で安井は、肖像画を描く際のデフォルメ(【小生注】対象や素材となる自然の形を表現者の主観によって変えて表現する技法をデフォルマシオンといい、この技法により自然の形を表現すること)、省略、強調、単純化についても、繰り返し述べている〔中略〕例えば、こんな具合だ
.
. 「肖像画は、どうしてもその肖像画が画面に現されていなければいけないので、それが「他人であってはいけない」というところに、他の人物画とは違う束縛がありますし、面白さがあると思います
. ですから、肖像画を描くのは、充分なデッサンの力が必要なのは勿論ですが、描くにあたっては、何よりもまず、その肖像主をよく観察して、その性格を充分に写しとらなくてはなりません
. その方法としては、その人の特徴をよく見出して、それを写しとる、ということや、その人の習慣的なポーズを見つけるということも大切だと思いますし、またその人の部屋で写すということも、その人の生活の自然さなども現し得るので、一つの方法でしょう
. しかし、それは色つき写真であってはならないのです
. それは充分絵画的美しさを持たねばならないのです
. 絵画的画面構成のうちに、必要なものだけを現すことが大切なのです
. つまり、最も単化された形のよい組み立てや色のよい配置のうちに肖像主を現すことなのです」
.
【小生comment
. 安井曾太郎の人物画は、写真の様に実物そっくりな絵ではない
. 彼自身がいみじくも述べている「それは色つき写真であってはならないのです」
. だから、安井曾太郎の人物画は、「絵画的美しさを持たねばならない」のであって、観る者を絵の中引き込む魅力を持っているのだと思う
. 私事、余談であるが、西洋絵画が好きだった小生の亡父は、この安井曾太郎の人物画が一番好きだと常々言っていた
. 勿論、小生も大好きな日本人洋画家である
. 名画って、ホント素晴らしいですネェ!
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■続いての話題である
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【梅原龍三郎『花と名峰展』】
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. 此の日(20120520())に、車の日帰りで、 tulip の産地として有名な富山県砺波(となみ)市にある砺波市美術館にて開催されていた『梅原龍三郎 花と名峰』展の作品から幾つかをご紹介する
. 安井曾太郎 (1888.05.17-1955.12.14)とくれば、梅原龍三郎 (1888.03.09-1986.01.16)をご紹介しない訳にはいかない
. 小生、日本人洋画家の巨匠の中では、此の2人と、彼等より半世代若い小磯良平 (1903.07.25-1988.12.16)3人が大好きだからだ
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[27][左上] 砺波市美術館
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[右上]同美術館入口『梅原龍三郎 花と名峰展』看板と小生
[左下]梅原龍三郎 (1888.03.09-1986.01.16)
[中下]Paris時代の梅原1912
[右下]梅原龍三郎『薔薇図』1940年 油彩/岩絵具/紙〔東京国立近代美術館蔵〕
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[28][左上] 梅原龍三郎『牡丹』1965年 油彩 / canvas
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[
右上]同『アネモネ』1965年 油彩 / canvas
[左下]同『薔薇』1966年 油彩 / canvas
[中下]同『ひまわり』1975年 油彩 / canvas
[右下]同『チューリップ』1976年 油彩 / canvas
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[29][左上]梅原龍三郎『白椿』1976年 油彩 / canvas
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[
右上]同『牡丹』1978年 油彩/金板
[左下]同『薔薇』lithograph
[中下]同『富士山図』1945年 デトランプ /
[右下]同『噴煙』1950-53年 デトランプ / 紙〔東京国立近代美術館蔵〕
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[30][左上]梅原龍三郎『大仁富士』1982 silk screen
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[右上]同『浅間』1983 silk screen
[左下]同『パリスの審判』1978年 油彩/canvas
[中下]同『裸婦』lithograph
[右下]同『自画像』1976年 油彩 / 金板
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. 梅原龍三郎(1888.03.09-1986.01.16)は、1908年、渡仏して Renoir の知遇を得てその指導を受け、その画風を日本に齎した
.
. まず、梅原龍三郎氏の略歴から‥
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《略歴》
1888(明治21)年 0309日 京都府京都市下京区に生まれる 生家は染物問屋
1903(明治36)年 京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)中退
.           伊藤快彦の画塾「鍾美会」で学んだ後、浅井忠主催の「聖護院洋画研究所(現・関西美術院)」入る
.           此処で同時期に安井曾太郎も学ぶ
1908(明治41)年 田中喜作(後に美術史家)と共に渡仏留学。Parisに滞在しAcademy Julianに通う
1909(
明治42)年 Renoirを師とし、彼の指導を受ける
1913(大正02)年 帰国 東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社主催で開催
.           此処で白樺社同人、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等との知遇を得る
1914(大正03)年 二科会の設立に関わる
1920(大正09)年 再び渡仏
1922(大正11)年 春陽会の設立に参加
1935(昭和10)年 帝国美術院会員
1937(昭和12)年 帝国芸術院(現・日本芸術院)会員となる
1944(昭和19)年 帝室技芸員、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授就任
1952(昭和27)年 東京芸術大学教授を辞任 渡欧しVenezia biennaleの国際審査員を務める 文化勲章受章
1953(昭和28)年 軽井沢にatelierを設ける
1957(昭和32)年 日本芸術院会員辞任~安井曽太郎と共に洋画界の頂点を極める~
1986(昭和61)年 死去 享年97
.
. 梅原龍三郎の曾孫にあたる嶋田華子氏は、同氏の編著『梅原龍三郎とルノワール』の《はじめに》で、「『華麗な色彩と剛放な筆捌き』で独自の画境を拓いた」と評している
. 「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補ふことが出来るものだが、色彩はタンぺラマン(= temp(e)rament【仏】:気質)に拠るものだ、それのあるのが甚だいヽ」
. 此の言葉は、初めて梅原の作品を見た時の Renoir の言葉である
. この師の言葉を胸に、梅原は画業に専心し、生涯 Renoir への尊敬の念を抱いていた〔以上、前掲『梅原龍三郎とルノワール』より〕
. 小生思うに、絵画は、①デッサン(dessin)、②構図(composition)、③色彩(color)、の三要素が不可欠であるが、上記の様に、巨匠 Renoir が梅原の天性の「色彩」感覚を褒めている
. 確かに、色彩の妙は天性のもので、印象派の彼の巨匠が梅原の色彩感覚について其の天賦(てんぷ)の才を褒めていることは特筆に値する
. 添付写真の絵では、matiere の詳細までは解らないと思いますが、彼の絵をご覧になって皆さんはどの様に感じられましたか
.
. 一見稚拙に見える程 déformer された梅原の絵は、じっと見ていると、綿密に計算された(と思われる)絶妙な「構図」と、見る者を魅了する素晴らしい「色彩」、そして太く豪放な筆捌きで風景画・静物画・人物画いずれも見る者を唸らせる「デッサン(dessin)」、此等絵画の三要素いずれもが卓越した力量で傑作に仕上げられている
. また、1911(明治44)年、志賀直哉(1883-1971)や武者小路実篤(1885-1976)らの同人誌『白樺』に参加した梅原の友人で()作家・評論家の長與善郎(1888-1861)は梅原の画風を「何でもふんだんに、豊かに、温かく、豪華であることを人一倍好むことがその作品の上に色となり、形となり、線となり、コクとなつて出てゐる」と評している
. 言い得て妙である
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【小生 comments
. 名画は「素晴らしい」の一言である
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【稲沢市荻須記念美術館『小磯良平展』
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 小磯良平(1903-1988)氏の経歴をご紹介する
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【経歴】
1903(明治36)年725日兵庫県神戸市生まれ
1917(大正06)年 兵庫県立第二神戸中学校(現県立兵庫高校)入学
1922(大正11)年 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科入学
. 猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らが同期
1923(大正12)年「藤島武二教室」に入る
1925(大正14)年『兄妹』が第6回帝展入選
1926(大正15)年『T嬢の像』が第6回帝展特選
1927(昭和02)年 東京美術学校西洋画科を首席で卒業
1928(昭和03)年 留学の為渡仏
1936(昭和11)年「新制作派協会(現新制作協会)」の結成に加わる
1938(昭和13)年 この年から1年間藤田嗣治らと共に陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国上海に渡る
. 帰国後戦争画を製作
1941(昭和16)年 群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を発表
1943(昭和18)年 東京美術学校非常勤講師就任
1950(昭和25)年 東京藝術大学油画科講師就任
1953(昭和28)年 同大学同科教授就任
1973(昭和48)年 迎賓館(赤坂)大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作
1983(昭和58)年 文化勲章受賞
1988(昭和63)年 肺炎のため死去。享年85
.
【筆者comment
. 小磯良平氏は、小生が大好きな日本人洋画家である
. 氏の絵は上手いの一言で、女性像はピカ一である
. 氏は、「藤島教室」で学んだ
. 冨安昌也先生の先輩に当たる
. 経歴のところで紹介している通り、氏は「群像」表現を得意としている
. 東京美術学校西洋画科を首席で卒業するだけあり、練達した技量については、「正二十四面体をコンパスや定規なしで正確に描いた」という「小磯教室」卒業生からの証言がその証左
.
. 2014/10/25-12/07 開催「小磯良平展」主催者〔稲沢市荻須記念美術館〕の「ごあいさつ」では、小磯良平について次の様に紹介している
.
. 「小磯は東京美術学校入学試験時から、他の受験生が瞠目するdessinの才能を持ち、「欧州の古典的な技法を歴史の浅い日本の洋画に根付かせる」という、最も困難な日本近代洋画の一つの課題に取り組みました
. そして、「academismを貫きつつ独自性を出していきたい」という言葉通り、西洋絵画研究の上に成り立った清新な表現を、生涯のmotifとした女性の姿を通じて作品化していきました
. 確かなdessin力で描かれた女性像は、人の中にある美しさと強さとは何かを提示しています
. 本展では、小磯良平の魅力を、美術学校時代から晩年迄の画風を辿る油彩画32点に、素描4点、版画6点を加えた42点により紹介します」
.
[31][左上]小磯良平「T嬢の像」1926
.
[右上]同「斉唱」1941
[左下]同「裁縫女」1939
[中下]同「少女(読書)1939
[右下]同「八千草薫像」
.
[32][]小磯良平「踊り子」1940年頃
.
[右上]同「婦人像」1969
[右中]同「白川女」1968
[右下]小磯良平 1973
.
. 添付写真「T嬢の像」「斉唱」をはじめ、小磯良平記念室の展示作品の約半数は、武田薬品工業創業家6代目武田長兵衛氏の奥様繁子さんが寄贈している
. [31]
[左下]『裁縫女』は2回目の帝展[特選]であるが、彼の1回目の帝展[特選]が、東京美術学校在学時代に描いた「T嬢の像」である

. 彼の卓越した画才の一端を窺い知ることが出来るであろう
.
. 小磯良平と東京美術学校の同期生には、《会報》【0521】号にてご紹介した猪熊弦一郎(1902-93)と、荻須高徳がいる
. 《会報》【0521】号は、此処↓をclick願います
. http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/260521101113111.html
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【小生 comment
. 小磯良平の女性画像は本当に美しい
. だから美しいものが大好きな小生、日本人の洋画家では、この小磯良平が大好きなのである
. 以前にも《会報》でご紹介したことがある添付写真[01][左上]T嬢の像」と同[右上]「斉唱」の2点をいつも小生は座右に飾ってある
.
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大女優 高峰秀子と梅原龍三郎
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. 今日は、大好きな画家梅原龍三郎 (1888.03.09-1986.01.16)が懇意にしていた銀幕の大女優、高峰秀子について、昔、小生の blog up したことがあるので、其れをご紹介してみたい
. 【時習26回3-7の会 0383】~「『高峰秀子』大特集その1」「0223日:山種美術館『和のよそおい―松園・清方・深水―』展から」2012/03/03 である
.
. http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-06c4.html
.
さて今日は、今週の週刊現代を読んだ。その中に、【週現スペシャル】いまいてほしい「12人の誇れる日本人」として、渥美清・伊東正義・向田邦子・千石正一・盛田昭夫・遠藤周作・高峰秀子・松本清張・河合隼雄・猫田勝敏・岡本太郎・立川談志の著名人のepisodeが関係者の想い出のessayという形で紹介されていた。そして小生、その中の一人、高峰秀子氏の記事に目が止まった
. 当該記事は、古美術鑑定家、中島誠之助(1938.03.05)氏による高峰秀子氏の想い出で、次の様に書かれていた‥
.
【日本人が失った美しい所作の人、高峰秀子】‥〔中島誠之助〕
.
.
 僕(中島)と高峰秀子さんは、有楽町にある新国際ビルで「ピッコロモンド」なる骨董屋を4年程一緒に開いたことがありました。
. 1970年頃だったと思いますが、私の麻布の店に高峰さんがjaguarで乗り付け、「手伝って」と言われたんです。〔中略〕
. そう言えば一度、客が間違った講釈を垂れて来たから、僕が色をなして怒ったことがあった。客が帰った後に言われましたよ。
「誠(セイ)ちゃん、あんた顔がすうっと青くなったろ。ああいう時はね、いいこと教えて頂きました、と言っておけばいい。まだまだ修行が足りないね」
. 高峰さんの言葉は straight なんだけど、後に引かないんだよ。僕らが言ったらケンカになる様なことでも smart に言える。そこが高峰さんの魅力だったね。
. 人に渾名を付けるのが好きで、それがまた上手いんだ()。仲代達矢さん=大名時計、森光子=タコ唐草、越路吹雪=Bohemian glass といった具合で。〔中略〕
. 60代で「人生の店じまい」について essay を書き、簡素な家に住んで、夫婦が使う食器だけを残して飾り家具やtrophyなんかも全部処分した。僕も手伝ったけど、その潔さったら、如何にもアネさんらしい。今の日本人が忘れかけている慎ましさを見ました。()
.
. 小生が今丁度読んでいる本の著者が彼女であったからでもあるが、当面の《会報》の話題を決めた、「ヨシ! これから暫くは高峰秀子 series で行こう」と。
.
[33][左上]24歳頃の高峰秀子1950年頃
.
[右上]1956(32)頃の高峰秀子
[左下]中島誠之助氏
[中下]芸術新潮201112月号「没後一周年特集~『高峰秀子の旅と本棚』」高峰秀子著『にんげん住所録』『人情話 川口松太郎』『おいしい人間』『コットンが好き』
[右下]高峰秀子氏の著書「わたしの渡世日記()()」「私の梅原龍三郎」「にんげんのおへそ」「台所のオーケストラ」/【写真】は、梅原夫妻と松山・高峰夫妻 伊・ストレーザにて1958(昭和33)(?)
.
[34][左上]谷崎潤一郎と
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[右上]志賀直哉と1950
[左下]梅原龍三郎『高峰秀子嬢〔カニ〕』1950
[中下]「カニ」の model を務めた高峰秀子
[右下] 高峰秀子『私のご贔屓・松竹梅』原稿
.
. 実は小生、芸術新潮201112月号で、=没後一周年特集=「高峰秀子の旅と本棚」を読み、彼女の美貌と賢さに好感を持ち、随筆家としてもwitに富み、読み易く小気味いい文章に惹かれてずっと彼女の作品を読み継いで来たのである
. そこで今日から【2637の会】《会報》にて複数回に分けてご紹介させて頂きたいと思う
. 彼女の略歴は以下の通り
《略歴》
1924(大正13)0327日生れ
. 夫は脚本家・映画監督の松山善三(1925.04.03- )
. 実父・養父を幼少時に亡くし、3人目の父が東海林太郎
1929年 映画『母』の子役で debut / 爾来、戦前・戦後を通じて日本映画界の大star
. 
愛称「デコちゃん」
1979年 女優引退 / 其の後 essayist としても活動
2010年 1228日に肺癌にて死去
.
. 本人曰く「学歴は文化学院中退」と卑下しているが、読み易く機知に富んだ彼女のessayを読むと、高い知性を感じる
. 単に美人の大女優に留まらないのである
. 父の様に慕い、夫婦で我が子の様に可愛がってくれた梅原龍三郎夫妻
. 渡仏すれば藤田嗣治をして「ボクの名前、これからヘチャプリでいいや、ボクも君たちをお善〔夫君松山善三氏のこと〕、お秀って呼ぶから」と言わしめる
. 文豪の谷崎潤一郎や志賀直哉にも可愛がられた
. 高峰の「わたしの渡世日記 鯛の目玉」には次の様にある
. 谷崎潤一郎と志賀直哉は、「谷やん、志賀やん」と呼び合う間柄だった
. 谷崎家へ行けば「志賀やんに」とことづてを頼まれ、志賀家へ行けば「谷やんに」と品物を託された
. 私は格好な messenger girl だったらしい
. 今日回は、『高峰秀子』大特集その1として、彼女の著書「私の梅原龍三郎」をご紹介したい
. 才気溢れる彼女の話を体感できるものと思う
. まずは「はじめに」から‥
.
. 今回、文春文庫から再販されることになった「私の梅原龍三郎」を、あらためて読み直した私はビックリ仰天した
. かんじんかなめ、著書のオヘソともいうべき「なぜ、この本を作ったのか」という理由と目的がポロリと抜け落ちていたからである
. この本を書いたのは、梅原画伯が亡くなった昭和61年からまだ一年も経たなかった時だったから、画伯への諸々の思いがこみあげる儘に、つい筆が突っ走ってしまったのかもしれないが、そんなことは言い訳にもならない
. つまり、私のアタマが抜けていた、ということである
. この本の冒頭にある様に、私たち夫婦は大きかった家を、老人向き、三間こっきりの家に建て直した
. 家中に溢れていた家具調度の整理処分も面倒だったが、いちばん困ったのは、長い間に溜りに溜った写真の始末だった〔中略〕
. あれやこれやと思案投首、取り敢えず一枚ずつ眺める内に、梅原画伯と写っている snap 写真がめっぽう多いのに気がついた
. それもその筈、梅原画伯とは、昭和23年から、画伯が亡くなった昭和61年迄の、40年近いお付き合いで、私が一緒に暮らした親や夫との年月より長い
. どの snap も、梅原画伯の招集を受けて同行させられた個展会場、party 会場、restaurant や料亭等に於けるもので、camera を向けられる chance が多かったせいだろうか、兎に角その枚数はハンパなものではない
. それらの写真を年代順に並べてみると、昔は黒々としていた画伯の頭髪が徐々に薄くなり、恰幅のよかった体躯が一回り小さくなって、と、さながら画伯の生きた歴史を見る様で、私はこれ等の貴重な写真がうやむやのうちに散じて仕舞うのが、堪らなく淋しく、残念になった〔中略〕
. いっそ、これ等の写真に短い caption をつけて、一冊の本に仕立ててみようかしら?
. そう思いついた途端に、早くも私は、原稿用紙と鉛筆を持ち出して机に向かっていた
. それが「私の梅原龍三郎」誕生の発端だった〔後略〕199708
.
. 続いて、高峰秀子氏の言う「カニ」こと『高峰秀子嬢』誕生についての episode についてである
.
. 【カニ】
. 私が最初に梅原先生の model になったのは、昭和25年の夏だった
. 日本最初の color 映画、木下恵介監督演出の「カルメン故郷に帰る」の長期 location 撮影で、私は軽井沢千ヶ滝の宿に滞在していたが、梅原先生も夏の浅間山をお描きになる為に軽井沢にいらしていた〔中略〕
. 先生の、ただでも鋭い眼がカッと見開かれ、鉛筆が素早く動いて、あッと言う間に最初のdessinが出来上がった〔中略〕
. また来てくれますか? が何回か続いて、ついに完成した絵を見て、私は仰天した
. 黒くふちどられた眼窩(がんか)から目玉がはみ出していたからである
. 真っ赤な上衣を来て眼の飛び出した私は、今迄私の見たことのない私だった
「なんだか‥‥カニみたいだな」
「ふふーん、カニねぇ、そういや、カニみたいだ‥‥」
. 以来、梅原先生と私は、この絵を「カニ」と呼ぶ様になった〔中略〕
. 私はそれから5回の引越しをしたけれど、どんな家でも「カニ」のお陰で見栄えがし、私本人よりも「カニ」のほうが主人の様なものであった
. その後、25年経って、私は私の最も大切な「カニ」を、東京国立近代美術館に寄贈した
. 「カニ」は現在、近代美術館の梅原龍三郎cornerに収まっている()
.
. 添付写真[34][右下]は、高峰秀子『私のご贔屓・松竹梅』原稿である
.
【小生comment
. 谷崎潤一郎や志賀直哉という日本文学会の泰斗でも、気品ある美貌溢れる高峰秀子(通称:デコちゃん)の前では、緊張気味で品行方正さを一所懸命表そうとしている様に見える()
.
. 高峰秀子氏については「私の渡世日記」を読むといい
. 5歳の子役debutから松山氏との結婚迄の波瀾万丈の半生を知ることが出来る
. 彼女は、外面的な美しさは言うに及ばず、内面的にも人格的に優れていたのであろう
. 各界の大御所と言われる多くの人々から可愛がられた
. そんな魅力ある高峰秀子氏の episode を彼女の沢山ある essay 集から選り選ってお届けして行きたいと考えている / お楽しみに!
.
.
小磯良平『T嬢の像』誕生の逸話
.
[35][]小磯良平『T嬢の像』(部分)
.
[
右上][右中][右下] 小磯良平の故郷神戸市の image 写真
.
. 今日は、小磯良平の『T嬢の像』に関連して、彼の画文集『絵のように 永遠に 美しく』の中から、彼の二女嘉納邦子氏が、essay 『父・小磯良平の思い出』で次の様に、彼とT嬢との episode を紹介しているのでご覧に入れる
.
 T嬢の像》が描かれるまで
.
. 良平と「T嬢」(敏子)は三つ違いのまたいとこの関係であった
. 幼い頃は両方の家が敬虔なクリスチャンであったため、日曜学校や教会で顔を合わせ、クリスマスと新年は祖父母の家で一緒に過ごした
. 月日が経ち、二人は若者に成長する
.須磨で偶然、再会し、良平は美しくなった敏子を見初めた
. ピアノ教師であった敏子にピアノのレッスンを受けたり、彼女の兄を交えて音楽会に行ったりしても、二人きりで出かけることはなかった
. 「敏ちゃんは心の美しさが顔に出ている」と、良平は敏子をモデルに絵を描くようになった(中略)
. その後、良平の家の応接間で描かれたのが《T嬢の像》である
「お迎えに参りました」という良平の名刺を持った人力車が毎日、敏子を迎えに来た
. 良平は敏子に自ら選んだ白地の着物を纏わせ、そして「ドボルザークの『新世界』をかけた敏ちゃんの顔が綺麗になる」と言って、必ずレコードをかけて制作にとりかかった
T嬢の像》のモデルは目線を窓の方に向けている。仕上げの段階で、良平は、窓の外を飛ぶ蜂に敏子が目をやった瞬間を描いた
. 良平はこの絵を帝展に出品し、それが特選となる。そして展覧会ではこの絵の前に大勢の人が群がり、昭和天皇も鑑賞なさった。良平は「敏ちゃんをこの場に連れて来たかった」と思った
. 養母の反対に逢い、二人は結婚を許されなかった
. 良平は傷心のままフランスに旅立ち、両家の付き合いは途絶えた(中略)
.
【小生 comments
. 今までこの絵にはどうしてこれほどの優しい空間が感じられ、豊かな時間が流れているのかと不思議に思っていたが、敏子さんのお嬢さん、吉国寿美子さんにお母様の思い出として、良平とT嬢にまつわるエピソードを聞かせて頂き、納得した次第である(20063)
. 矢張り、「名作に恋愛あり」かな‥
. 人は「ときめき」を感じると何でも意欲的になる
. Inspiration が湧き、創作意欲がかきたてられる
「ときめき」はいくつになっても大切にしたいものである‥‥ホント!()
.
おいしい人間 ふしぎの国のオギス
.
. さて今日も『高峰秀子』特集をお届けする
.
.  ※  ※  ※  ※  ※
.
. 私(=高峰秀子)が初めて荻須さんに会ったのは昭和25年だったから、昭和15年に Paris から一旦帰国した荻須さんが再渡仏をして間もなくの頃である
. 敗戦後、初めて東洋人の女優として「Venice 映画祭」に招待されたものの、派手なお祭り騒ぎや Party の苦手な私は、映画祭には出席せずに、7ヵ月程 Paris の学生街に下宿をして気ままな毎日を送っていた
. あるお天気の良い日、太陽の光に誘われて外に出た私が、ルクサンブ―ル公園( Le jardin du Luxembourg )の辺りをブラついていると、向こうから、小さな女の子の手を引いた背の高い男性と小柄な日本女性が歩いて来た
. 当時の Paris には、まだ日本人観光客の入国は許されていなかったから、街で日本人を見かける、ということは殆どなかった
. 「もしかしたら、荻須高徳さんでは‥」と、私が足をとめると同時に、彼等の顔にパッと笑みが浮かんで、真っ直ぐに私に向かって近づいて来た。やはり、荻須さんだった
. 初対面ではあったが、お互いに自己紹介だけではなんとなく別れにくく、私たちは道の真ん中でとりとめのない立ち話を続けた〔中略〕
. 荻須さんと奥さんも明るい笑顔で声を弾ませた〔中略〕
. 「あ、今晩スキヤキでもしましょうよ、うちで〔中略〕ねえ、高峰さんいらして!」
. 天井の高い、ガランとした atelier の真ん中の table を囲んで、スキヤキの夕食が始まった
. 他人の家にノコノコと入り込んで、しかも初対面の人にスキヤキを御馳走になるなどということは、人見知りをする私には絶対になかったことなのに、その夜ばかりは荻須家の一員の様な顔をして relax している自分が不思議だった
. 日本人恋しさ、というばかりではなく、荻須さんの、それこそ古武士の様に毅然とした風格と、明るく優しい美代子夫人の人柄のお陰だったのだろう〔中略〕
. 荻須画伯は通産60年もの間、Parisに腰を据えて、只管 Paris を描き続けたことになる
. 一口に60年と言うが、芸術の修羅場と言われる Paris で、画業一筋に徹し切った毎日の積み重ねの60年である。「オギスは人の五倍は働く」と言われたことでも分かる様に、並大抵の努力ではなかったであろう
. その間に〔中略〕仏政府からは「レジオン・ドヌ―ル勲章」を、Paris 市から「メダイユ・ド・ベルメイユ勲章」を受け、(昭和)53年には Paris 市の主催で滞仏50年展も開催されて、Paris や欧州での「オギス」の名声はすっかり定着した
. けれど、荻須画伯が心の底から望んでいたものは、異国から与えられる勲章や名声ではなく、生まれた国、日本国からの評価だったのではないかしら?と、私は思う
. 荻須画伯は、昭和6110月、84歳で亡くなった
. 亡くなって仕舞った後で、日本からどんなに立派な勲章を頂いてみたところで、それがいったい何になるというのだろう
. 文化勲章の受章の知らせを、「モンマルトルの墓地へ行って荻須に報告しました。当人が生きていた時だったら、どんなに喜んだことでしょう」という美代子夫人の談話を、他人の私でさえ、地団太を踏みたい程腹立たしく思った
. 日本という国は、ふしぎな国なのだ
. ケチで、間抜けで、とんちんかんで、何ともふしぎな国なのだ
. 「ふしぎな国のオギスですか?」と、細い目を和ませて苦笑いをしている荻須画伯の表情が彷彿とする様である()
.
【小生comment
. ここの場面を、最近復刊した高峰氏が27歳の独身時代に書いた『巴里ひとりある記』〔蚤と裸と名画〕では次の様に書いている
.
[36][左上復刻版 高峰秀子『巴里ひとりある記』の cover
.
[右上] Louvre 美術館・モナリザの前での高峰秀子
[左下]Parisの下宿の terrace での高峰秀子
[中下]シャンゼリゼ・ボアでの高峰秀子
[右下]高峰秀子(27歳当時)に会った頃の荻須高徳((1901-86)50歳当時)
.
. Paris に来て、初めて Louvre へ行きました
. 余りに大きくて、絵のところだけみたら、クタクタに疲れて仕舞いました。あの有名なモナ・リザは、大きな壁を占領していて、真ン中に収まっていました
. 全てが打ち込まれている一枚一枚の絵
. ここも矢張り作った人たちの力みたいなものが、この大きな Louvre 中に押し合いへし合い競い合っている様な、何にか圧迫を感じます
. 先頃、荻須高徳さんの atelier で、スキヤキを御馳走になりました
. 日本食は久し振り
. Paris に来てアキラメていたせいか、別に食べたいとも思わないけれど、いざ食べてみると、美味しくって美味しくって吃驚(びっく)
. 塗りのお箸や、チーンと美しい音を立てる茶碗なども懐かしくって嬉しい()
.
【小生comment
. 余談だが、以前にもお話した様に、荻須氏の享年は84歳、藤田嗣治82歳、梅原龍三郎97歳‥ 、画家は総じて長命だ
.
■続いて
の話題である
. 20110625()に毎年《クラス会》定例開催場所にさせて頂いている「トライアゲイン」にて『時習26会ミニ同期会』を開催した模様についてである
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[37][左上]時習26回ミニ同期会20110625 at Try Again
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[右上]スパッラを弾くシギスヴァルト・クイケン〔超特大の viola という感じ()
[左下]荻須高徳展 leaflet
[中下]荻須高徳『果物屋』1930
[右下]同『サン・マルタンの裏町』1949
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2637の会】classmate の林さんと、中嶋君【3-2】に声をかけて開催したのだが、ま、早い話、丁度この日は、林さんの誕生日と、会場「トライアゲイン」の開店三周年記念日でもあった訳だ
. 実は、此の『時習26会ミニ同期会』開催の前に中嶋君と、同日昼過ぎから名古屋の愛知県芸術劇場 concert hall にて開催された「クイケンとラ・プティット・バンド~バッハ・コレクション(Sigiswald Kuijken & La Petite Bande Bach Collection)」を一緒に聴く機会に恵まれ、名古屋からの帰りに「トライアゲイン」に立ち寄ったという次第!
. 因みに、演奏曲目は、All J.S.Bach で、ブランデンブルク協奏曲第2番・3版・5番・6番 & 管弦楽組曲第2番という masterpieces ばかりで至福の2時間を過ごすことが出来た
. この concert で、小生、「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(=肩掛け小型チェロ:別名 viola pomposaとも )という18世紀後半には使われなくなった楽器演奏を初めて聞くことが出来たが、此れも古楽アンサンブル(ensemble)を聴く楽しみの一つ!
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. 同日名古屋での concert が終了したのが15時半過ぎ
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[38][左上]荻須高徳『リオ・デ・レ・ベカリエ[Venice]1935
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[右上]同『赤い家の魚市場[Venice]1972
[左下]同『大運河の眺望』1972
[中下]同『モーリス・ベナ―ル(Maurice Benard)1933
[右下]同『黄色い壺のリラ(Lilas)1976
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. 18時のミニ同期会まで十分に時間があったので、0611日~0703日迄松坂屋美術館にて開催中の『生誕110周年記念~荻須高徳(1901.11.30-1986.10.14)展~憧れのパリ、煌めきのベネチア』を中嶋君と二人で見て来たのでご紹介する
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. 洋画家の文化勲章受賞者、荻須高徳の生誕110周年を記念し、彼の生涯の theme とも言える二つの古都、Paris Venezia(Venice)を描いた代表作を集めた回顧展である
. 荻須高徳氏は、1927年、東京美術学校(現 東京藝術大学)を卒業した年の秋に25歳で憧れの地、仏に渡る
. そして第二次世界大戦の一時期(1940-48)を除き、84歳で亡くなる迄 Paris に住み、歴史が染み込んだ裏町を描き続けた
. 彼が惚れ込んだ Paris Venezia という2つの街を theme にした展示作品だけあって、いずれの街の作品も煌びやかな輝きを放って見る者に強く訴えかけて来た
. 彼の絵は、素人の我々にも描けそうでかけない独特の『品格』を有している
. 同行した中嶋君がいみじくも呟いた言葉が印象的であった。「佐伯祐三とソックリじゃぁないか!」と
. 確かにその通りである
. 中でも1930年代半ば頃迄の作品は酷似している
. 展示作品総数は90
. 其のいずれもが masterpieces なのでどれをご紹介しようかとホント悩んだが、以下の7点をご紹介したいと思う
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【小生comment
. 荻須の風景画は当然素晴らしいが、肖像画や静物画もご覧の様に大変素晴らしい
. 油彩に嗜みがある中嶋君が展示作品を見乍ら、「(本展覧会に)もぅ一度見に来てもいいな‥」とも呟いていた
. 其れ程内容の充実した展覧会であった〔了〕
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【後記】
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【愛知県芸術芸術劇場concert hall 『若き巨匠たちの協演』】
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[39][左上]本演奏会 leaflet ticket
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[右上]今日乗った東海道新幹線こだま721号名古屋ゆき
[左下]名古屋駅前にて
[中下]愛知県芸術文化センターを back 1
[右下]同上2
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[40][左上]愛知県芸術芸術劇場 concert hall 入口
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[右上]同 ホワイエにて
[左下]本演奏会 program  1
[中下]愛知県芸術芸術劇場 concert hall 1
[右下]同上2
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[41][左上]愛知県芸術芸術劇場 concert hall 会場にて
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[右上]本演奏会 program  2
[左下]同上3
[中下]同上4
[右下]同上5
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. 愛知県も来週12日から31日迄、緊急事態宣言が発令される
. だから、小生、CBC主催の名古屋国際音楽祭の通年member で、今日の『若き巨匠たちの協演』開催を心配していたが、予定通り開催の運びとなった為、三密に充分気をつけて聴いて来た
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. ホント、素晴らしい協演だった
. 中でも、saxophone の上野耕平と、violoncello の佐藤晴真(はるま)の演奏は素晴らしかった
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. 演奏曲目は以下の通り
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[1]ドヴォルザーク/序曲『謝肉祭』Op.92
[2]吉松隆『サイバーバード協奏曲(Cyber Bird Concerto for saxophone and orchestra)Op.59
. 此の曲は、Classical music Jazz を融合させた様な曲で、上野が一発で好きになっただけのことはある傑作だ
[3] ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104
. 佐藤は、2019年のミュンヘン国際音楽祭チェロ部門で日本人初の優勝を飾った逸材で、今日も流石と納得させる立派な演奏だった
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【小生 comments
. ホント、名演奏は心が芯から癒される
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. では、また‥〔了〕

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