2020年9月27日日曜日

【時習26回3−7の会 0831】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之六〔第49回/第473句~480句〕」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第19回〕【敦賀】【色の浜(=種の浜)】「09月19~20日:帰省してくれた子供&孫たちと」「旧行時代の想い出から(1)2004/04/08【旧行最後の勤務先田原支店時代の想い出から】& (2)2006/03/04【同期会『53の会』ゴルフコンペat 明世CC】」「時習26回生卒業40周年記念懇親会に向けて~『第4回東三河の酒蔵を知る会』の想い出」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0831】号をお届けします。

 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第49回/巻之六~第473句~480句〕」をご紹介する。

  野集 巻之六

   雑

  年中行事(1)内十二句            荷兮(2) 

  供屠蘇(とそ)白散(びゃくさん)(注3)

 

(1)年中行事:此の句から484「おはれてや‥」迄の句で、475「沓音も‥」と477「おも痩て‥」の2句を除いた10句は、貞治05(1366)年の年中行事歌合・百題の中から隔月一題を選び詠んだもの / 同書は、慶安02(1649)年、万治02(1659)年、延宝04(1676)年の刊本がある

(2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある

(注3)屠蘇白散(とそびゃくさん):年始に宮中「清涼殿」にて屠蘇・白散(びゃくさん(=屠蘇(とそ)の一種):山椒(さんしよう)・防風(ぼうふう)・肉桂(につけい)・桔梗(ききよう)・細辛(さいしん)等を刻んだもの)を飲み、無病息災を祈る行事

 

473 いはけなや(1)とそななめ初(そむ)る人(ひと)次第(しだい)

 

【意】宮中の定めではお屠蘇を飲む順序は幼児からだという / しかし「幼い者から順に屠蘇を飲む」定めこそ「稚ない」ことではないのか、と私は思うヨ

【解説】季語:とそ(屠蘇)=新年 /

(1) 「いはけない(=(いわけ)ない)」とは、あどけない、幼いこと

 

春日祭(1)

 

(1)春日祭:二月上の申の日に行われた奈良春日大社の祭礼

 

474 としごとに鳥居(とりゐ)の藤(ふぢ)のつぼみ哉(かな)

 

【意】例年のこと乍ら、此の祭の時には藤の花は蕾(つぼみ)の儘だ / しかし、其れが春日大社を氏神とする藤原氏の行末の繁栄を指し示す様で目出度いことだ

【解説】季語:藤=晩春 /

 

石清水(いはしみづ)臨時祭(りんじのまつり)(1)

 

(1)石清水臨時祭:石清水八幡宮の三月の申の日に行われた祭礼 / ただ、永享04(1432)~文化10(1813)年迄は中絶されていた為、荷兮が詠んだのは歌書や俳書に拠る空想の世界の産物である

 

475 沓音(くつおと)もしづかにかざすさくら哉(かな)

 

【意】冠に桜花を挿して歩むという勅使・舞人等の一行は、流石に大宮人であることから、桜が散らない様に静かにしずしずと歩むことであろう

【解説】季語:さくら()=晩春 /

 

潅佛(くわんぶつ)

 

476 けふの日()やついでに洗(あら)ふ佛達(ほとけたち)

 

(1)灌仏会(かんぶつえ)48日の釈迦の降誕を祝る祭 / 花で飾った小堂(花御堂(はなみどう))を作り、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶(正しくは五色の水)を釈尊像の頭上に注ぎ、又、持ち帰って飲む / 我国では、606年元興寺で催されたのが最初と伝わる

 

【意】今日(きょう)の灌仏会の日に因み、諸方の寺院では、花堂を飾り、釈尊誕生仏に水拭(ぬぐ)いするのであるが、本堂などにある他の仏像の煤払いも一緒にするので、諸仏が釈尊の余禄を蒙(こうむ)る様だ

【解説】季語:洗ふ仏(=灌佛会)=晩春 /

 

端午(1)

 

(1)端午:端午の節句の旧暦五月五日のこと / 宮中に節会(せちゑ)がある

 

477 おも痩(やせ)て葵(あふひ)(つけ)たる髪(かみ)(うす)

 

【意】端午の節句(=五月五日)の日に見ると、颯爽として加茂社の葵祭(旧暦四月の中の酉の日に執り行われる)の時には葵を髪飾りに付け、凛々しい姿で行列に参加していた大宮人も、夏痩せしたのか、顔が痩せこけ、髪の毛も薄くなって仕舞ったことだヨ

【解説】季語:葵(あふひ)=仲夏 / 虚弱な宮廷人の夏痩せを空想して作句した作品

 

施米(1)

 

(1)施米(せまい):平安時代、毎年6月に朝廷から京中の貧僧に米・塩を施したこと

 

478 うち明(あけ)てほどこす米(こめ)ぞ虫(むし)(くさ)

 

【意】施米の時期(6)は、暑い時期だけに虫が発生し易い時期での為、俵の口を開けると先ず米につく虫の匂いがする

【解説】季語:ほどこす米(=施米):晩夏

 

乞巧奠(1)

(1)乞巧奠(きっこうでん):陰暦七月七日の行事 / 牽牛(けんぎゆう)・織女の二星を祭り、手芸・芸能の上達を祈願する / 中国から伝わった行事で、日本では奈良時代から宮中で行われ、のち七夕として民間にも普及した / 此の句はあまり乞巧奠のことと関係ない


 

479 わか菜()より七夕草(たなばたぐさ)ぞ覺(おぼ)えよき

 

【意】若菜(=春の七草)より七夕草(=秋の七草)の方が解り易く覚え易い

【解説】季語:七夕草=初秋 /

(1)七夕草とは、秋の七草のこと。若菜は、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの春の七草だが、その若菜とは何かよく分からない / 因みに、秋の七草は、「萩、朝顔(=桔梗)、葛、女郎花、藤袴、尾花((すすき))、撫子」を言う

 

駒迎(1)

 

(1)駒迎(こまむかえ):「駒牽((こまひき)=平安時代、御牧(みまき)から貢進した馬を、天皇が御覧になって、御料馬(ごりょうば)天覧の儀式で、毎年815(のち16)に催された」の際、諸国からの貢馬を、官人が近江の逢坂関迄出迎えること

 

480 爪髪(つめかみ)も旅(たび)のすがたやこまむかへ

 

【意】駒迎えの日の駒を牽いて来た人達は、疲れ果てて爪も髪の毛も伸び放題だ

【解説】季語:こまむかへ(駒迎へ)=仲秋 /

 

【小生 comment

 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第50回/巻之六~第481句~490句〕をご紹介する。お楽しみに!

 

■続いては、「松尾芭蕉『奥の細道』の第19回目である。

 愈々『奥の細道』も、climaxが近づいて来た。

 今回の【敦賀】【色の浜(=種の濱)】をお届けすると、次回が最終回【大垣】である。

 今から331年前の元禄二年弥生二十七日(新暦0516)と正に同じ時期にstart

 芭蕉の歩調に合わせて一緒に旅をして来たが、早いもので丸4箇月が経過した。

 

 さて、今回の【敦賀】【色の浜(=種の濱)】の処に於ける芭蕉の足跡を久富哲雄著『おくのほそ道』全訳注 に従い記す。

 「十四日の夕ぐれ」「十五日」と日付を追って、現実的叙述にかわり、敦賀での待宵(まつよい)・雨名月の記事が、宿のあるじを中心に書かれている。

 本文の記述に拠ると、芭蕉と等栽は、福井を朝出発し、その日(十四日)の夕方敦賀に着いた様に思われるが、実は十三日(新暦0926)朝の出発で、鯖江・府中を経て湯尾峠を越え、今庄で一泊したと考えられる。「燧(ひうち)が城/義仲の寝覚(ねざめ)の山か月かなし」(『荊口(けいこう)句帳』芭蕉翁月一夜十五句)がその証左である。(前掲『おくのほそ道』P.317-18)

 芭蕉は、八月十六日(新暦0929)の夜は【色の浜】の本隆寺に宿泊したものと思われる。

 敦賀に帰着したのが十七日(新暦0930)として、路通(ろつう)が出迎えに来たのも同日とすれば、敦賀発は十八日(新暦1001)朝と推察される。

 敦賀での宿が「出雲屋弥市良」方であったことは、『曽良旅日記』八月十日の条に、「出船前、出雲や弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼、預置也」と見えることに拠って判明する。(前掲 同 P.317-18)

 因みに、「『荊口句帳』所収/「芭蕉翁月一夜十五句」の路通序の日付が、「元禄己巳(つちのとみ)中秋廿一日以来大垣庄株瀬川辺」とある。

 故に、芭蕉は八月二十一日(新暦1004)には【大垣】に在ったことが分かっている。(前掲 同 P.327-28)

 

 八月十~十二日(新暦092325) 「福井/神戸洞哉宅」

 八月十三日(新暦0926)「今庄/宿不明」

 八月十四~十五日(新暦092728)「敦賀/出雲屋」

 八月十六日(新暦0929)「色の浜(=種の濱)/本隆寺」

 八月十七日(新暦0930)「敦賀/出雲屋」

 八月十八日or十九日(新暦1001or 02)朝「敦賀/出雲屋」発

 〔八月十八~二十日(新暦100103)「所在/宿不詳」〕

 八月ニ十一日(新暦1004)「大垣」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

【敦賀】

《原文》

 漸(やうやう)白根(しらね)が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)(1)あらはる。

 あさむづの橋(2)をわたりて、玉江(たまえ)の蘆(あし)(3)は穂に出(いで)にけり。

 鶯(うぐひす)の関(4)を過(すぎ)て、湯尾(ゆのを)(5)を越れば、燧(ひうち)が城(じやう)(6)、かへるやま(7)に初雁(はつかり)(8)を聞(きき)て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。

 

 その夜、月殊(ことに)(はれ)たり。

 「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしぢ)の習ひ、猶(なほ)明夜(めいや)の陰晴(いんせい)(9)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神(みやうじん)(10)に夜参(やさん)す。

 仲哀天皇(11)の御廟(ごべう)也。

 社頭(しやとう)(かみ)さびて(12)、松の木()の間()に月のもり入(いり)たる(13)、おまへの白砂(はくさ)霜を敷るがごとし。

 往昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世(にせ)の上人(しやうにん)(14)、大願発起(たいぐわんほつき)(15)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来(わうらい)の煩(わづらひ)なし。

 古例(これい)今にたえず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。

 これを「遊行の砂持(すなもち)(16)と申(まうし)侍る」と、亭主のかたりける。

 

  月清し遊行のもてる砂の上

 

 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)

 

  名月や北国日和(ほつこくびより)(さだめ)なき

 

《現代語訳》

 行く程に漸く白根が嶽が見えなくなり、代わって比那(ひな)が嶽(1)が姿を現した。

 浅水(あさむづ)の橋(2)を渡るり、玉江の畔に来ると、古歌に詠まれた玉江の蘆(3)は穂を実らせていた。

 鶯の関(4)を過ぎて湯尾峠(ゆのお)(5)を越えると、木曽義仲所縁の燧(ひうち)が城(じょう)(6)・帰山(かえるやま)(7)に初雁の鳴き声(8)を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。

 

 その夜、月は特に見事だった。

 「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見られるだろうか」と言うと、「(天候の変わり易い)越路では明晩の天気が晴れるかどうか(9)は、予測が出来かねます」と宿の主人に酒を勧められ、気比(けい)神社(10)に夜参した。

 仲哀天皇(11)の御廟である。

 境内は、社殿の辺りは神々しい雰囲気に包まれ(12)、松の梢の間から月光が漏れて来て(13)、神前の白砂は霜を敷いた様である。

 昔、遊行二世 他阿上人(14)が、大願を思い立ち(15)、自ら草を刈り、土石を運び入れ、泥沼を乾し整備された為、参詣往来が不便でなくなったのである。

 この先例が今に続き、代々の遊行上人が神前に砂をお運びになっておいでなのである。

 「これを遊行の砂持ち(16)と申します」と宿の亭主は語った。

 

【意】折から待宵(まつよひ(=小望月(こもちづき)))の月が輝いている

 その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂‥

 その白砂の上に月が輝いている

 実に清らかな眺めであることだ

 季語「月」=秋八月

【解説】「気比のみや/ なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」が初案

「月清し 遊行のもてる 砂の露」が再案

 

 十五日(=『中秋の名月』の日)は、亭主の言葉に違(たが)わず雨が降った。

 

【意】今夜は敦賀の湊の『中秋の名月』を期待していたのに、生憎の雨になって仕舞った

 本当に北国(=北陸地方)の天気は変わり易いものなのだナァ

 季語「明月」=秋八月

【解説】本文中の宿の主人の「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」という言葉に照応する俳句

「定めなき」は、空模様が一定していない様をいうが、「体言止め」で「詠嘆」を表現している

 

(1)比那が嵩:現・福井県武生(たけふ)市南東約5kmにある山(海抜795m)/日野山、日永嶽ともいう

(2)あつむづの橋:浅水の橋/現・福井市清水町の麻生津川に架かる橋/「歌枕」「橋は、浅むづの橋」(『枕草子』)

 芭蕉は、此処で「あさむづ」を「朝六つ」にかけて、早朝に出発したことも表している

(3)玉江の蘆:現・福井市花堂(はなんどう)町虚空蔵川に玉江の橋が架かっている

 その辺りに自生する芦を「玉江の芦」という/「歌枕」

「夏かりのあしのかりねのあはれなり玉江の月の明け方の空 藤原俊成(新古今集)

 正しい道順は、「福井→玉江→あさむづの橋」となる

(4)鶯の関:現・南条郡南条町関ケ鼻/「歌枕」/「鶯の啼つる声にしきられて行きもやられぬ関の原哉 (方角抄)

【歌の意】春先に鶯の啼く声の為に関を越せなかった

 此処では、今季節は秋、だから鶯も啼かないので無事関を越せた、の含意がある‥とするのは深読み過ぎるかナ?(^^; 

(5)湯尾峠:現・南条郡今庄町湯尾の南/湯尾tunnelの上/木曽義仲の陣があったことで知られる

(6)燧が城:現・南条郡今庄町、藤倉山東端の城/寿永02(1182)年 木曽義仲軍6千余騎が籠った城があった

 平家物語『火打合戦』/「義仲の寝覚めの山か月かなし 芭蕉」

(7)かへるやま:「枕詞」/「たちわたる霞へだてて帰山来てもとまらぬ春のかりがね /二品親王性助(続後遺集)

 木曽義仲は味方の斉明威儀師(さいめい いぎし)の裏切りにより燧が城を落とされる

「帰山(かへるやま)」は、「裏切る」という意の「かへる」という含意がある

(8)初雁:秋に北方から初めて渡って来る雁

(9)明夜の陰晴:これは、北宋の孫明復(992-1057)の詩『八月十四夜』第4句からの引用されている

  八月十四夜  孫明復(9921057)〔宋〕

 銀漢無聲露暗垂 銀漢声無くして露(つゆ)(やみ)に垂()

 玉蟾初上欲圓時 玉蟾初めて上げて円(まどか)ならんと欲する時

 清樽素瑟宜先賞 清樽素瑟(せいそんそしつ)宜しく先()づ賞すべし

【明夜陰晴未可知】【『明夜(めいや)の陰晴(いんせい)』未(いま)だ知る可()からず】

※ 銀漢(ぎんかん):天の川、銀河

※ 玉蟾(ぎょくせん):月の異称(←「蟾」は蟇蛙/月に蟇蛙が住んでいる言われることから)

明日の夜の空が曇るか晴れるかは予測し難い、の意

(10)けい(気比)の明神:正しくは「けひ」/福井県敦賀市曙町の気比神宮

 祭神は、伊奢沙別命(()さわけのみこと(=気比大神))を主祭神

 仲哀天皇・神宮皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命(たまひめのみこと)・武内宿禰命(たけのういちのすくねのみこと)も祭神として合祀されている

 北陸道の総鎮守として著名で、越前国の一宮である

(11)仲哀天皇:第14第天皇/日本武尊の第二皇子/皇后は、神功皇后

(12)社頭神さびて:「社頭」は社前、社殿の辺り/「神さびて〔→神さぶ〕」は神々しい、荘厳である、の意

(13)月のもり入たる:「月の洩り入りたる」で洩れ指し込んでいる、の意

(14)遊行二世の上人:「遊行」とは時宗の開祖「一遍上人」/躍り念仏で有名/各地を渡り歩いたので遊行上人とよばれる

「遊行二世の上人」は、一遍の高弟「他阿(たあ)上人」/諱は真教/出身・家系は不明

 もとは浄土宗の僧であったが建治3(1277)年、九州を遊行中に一遍の教えを受けて感化され、以後一遍とともに遊行した

 正応02(1289)年、一遍が入寂すると時宗は解散の危機に瀕したが人々に推されて他阿が後継者となった

 元応元(1319)年没(享年83)

(15)大願発起:「大願」は、仏が衆生を救おうとする願い

(16)遊行の砂持:遊行二世の事跡を記念する為に、代々の遊行上人が法位を継ぎ敦賀に来ると駿河湾の砂浜から砂を気比明神まで運んだ、その儀式のこと

 

[01][左上]芭蕉が辿った【山中】→【色浜(種の濱)】迄の推定 route

[右上]気比神社の航空map

[左下]気比神社

[右下]待宵月(=小望月)

 

【色の浜(=(いろ)の濱)

《原文》

 十六日、空霽(はれ)たれば、ますほ(=)の小貝(1)ひろはんと、種(いろ)の浜(2)に舟を走す。

 海上(かいしやう)七里(しちり)(3)あり。

 天屋何某(てんやなにがし)(4)と云(いふ)もの、破籠(わりご)(5)・小竹筒(ささえ)(6)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風(おひかぜ)時のまに(7)吹着(ふきつき)ぬ。

 濱はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)にて、侘しき法花寺(ほつけでら)(8)あり。

 爰(ここ)に茶を飲(のみ)、酒をあたゝめて(9)、夕ぐれのさびしさ(10)、感に堪(たへ)たり(11)

 

  寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

  波の間()や小貝にまじる萩の塵(ちり)

 

 其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。

 

《現代語訳》

 十六日、空が晴れたので西行法師所縁の歌にある「ますほの小貝(1)」を拾おうと、色の浜(2)を目指した。

 (‥色の浜は、敦賀の港から‥)海上七里(3)の距離にある。

 天屋(てんや)何某(なにがし)(4)という者がわりごの弁当箱(5)や酒の入った竹筒(6)を心細かに用意してくれ、召使いを多く舟に乗せて出発したのだが、 追い風を受けて(7)、僅かの時間で到着した。

 浜には僅かに漁師の小家があるだけの所で、他に寂れた法華寺(8)があるだけである。

 その寺で茶を飲み、酒を温め(9)酌み交わしたりしたが、折から秋の夕暮れ時の寂しさ(10)は格別心に迫るものがあり感動的(11)だった。

 

【意】〔‥(前行の)「夕ぐれのさびしさ」を受けて‥〕夕暮れ時の何と寂しいことであることか!

『源氏物語』以来よく語られている「須磨の秋の寂しさ」拠り増して、此の地『色の浜』は遥かに物寂しいことであるヨ

 季語は「秋」

【解説】「須磨」は現・神戸市須磨区にある海岸/「歌枕」/「かちたる」=勝((まさ)=)っている、の意

『源氏物語』「須磨」の巻‥「須磨にはいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かゝる所の秋なりけり」を受けて、

 芭蕉は‥『笈(おい)の小文(こぶみ)』の旅で、貞享05(1687)0420日兵庫を発ち明石へ向かう途中「須磨」を訪れ、現光寺・風月庵にて一泊して、須磨の感想を次の様に‥

「かゝる処の秋なりけりとかや。此(この)浦の実(まこと)は秋を宗(むね)とするなるべし。悲しさ淋しさ言はむかたなく、秋なりせばいささか心のはしをも、云出(いひいづ)べき物をと思ふぞ、我心匠(しんしよう)の拙(つたな)きをしらぬに似たり」と述べて、体験的に「秋の悲しさ寂しさ」は「須磨」拠り「色の浜」の方が優っていると言っているのである。

 

【意】色の浜に寄せては返す細(さざ)波の絶え間の砂浜をよく見ると、美しい【ますほの小貝】が散らばっている

 その美しい【ますほの小貝】の間には、浜辺に咲いた赤い萩の花が塵の様に交じっている

 季語「萩」=秋七月

【解説】西行法師は【ますほの小貝】を 「潮(しほ)染むる【ますほの小貝】拾ふとて 色の浜とは言ふにやあるらむ/山家集」と詠んだ。

 この句「小貝」とは【ますほの小貝】のこと、又、「萩の塵」は「散り零れた萩の花」のことである。

 芭蕉が、貝拾いに興じている様が目に浮かぶ。

 本隆寺には、等栽筆の懐紙に載る「小萩散れ【ますほの小貝】小盃(こさかずき)」がある。

【ますほの小貝】とはどんな貝なのか調べてみた。

 確証は掴めないが、添付写真[01]が【ますほの小貝】の様だ。

【ますほの小貝】は、確かに「桜貝」に似ている(‥添付写真[02])が、色はずっと地味である。

 この「波の間や‥」の句の本歌とみられる西行の「潮染まる‥」の歌にある様に、その昔、西行も【ますほの小貝】の貝拾いに興じていたのか‥と思うと微笑ましく感じる。

 西行の感性は矢張り凄い!(^^;

 

[02][左上]色浜(種の濱)

 

[右上]色浜(種の濱)の航空map

[左下]「色の浜」の【ますほの小貝】の貝殻

[右下]【ますほの小貝】に似ている「桜貝」の絵画等

 

(1)【ますほの小貝】:色の浜の名物で、淡紅色や茶褐色をした小さな貝/大人の小指程の大きさ

「ますほ」は「真赭(まそお)」と書く/赤色の意/「ますお」よ読む

(2)種の浜(=色の浜):現・福井県敦賀市色ヶ浜/敦賀湾西北部の海岸/西行の詠に拠る「歌枕」

(3)海上七里:「曽良旅日記」には「海上四リ」とあるが、実際は二里に満たない距離

(4)天屋何某と云もの:天屋五郎右衛門/室氏/敦賀蓬莱町の廻船問屋/俳号「水魚」→のち「玄流()

(5)破籠(わりご):破子(わりこ)/薄い檜の白木で作った折箱で、中を幾つかに区切った弁当箱

(6)小竹筒:ささえ/携帯用の小さな酒入れ/青竹を切って作り、口に栓をして、紙で頭を包んで携行した

(7)追風時のまに:「追風」=順風/「時のまに」=ほんの僅かの間に/

 『源氏物語』「須磨」‥「日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申(さる)の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ」を下敷きにした叙述

 ・→「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」の句の伏線になっている

(8)法花寺:法華宗(日蓮宗)の寺/現・法華宗本隆寺/応永33(1426)年、曹洞宗金泉寺から法華宗に改宗し「本隆寺」と改称した

(9)酒をあたゝめて:出典は、『和漢朗詠集・秋興/白楽天/林間に酒を煖めて紅葉を焼く』

その原典は以下の『送王十八帰山寄題仙遊寺〔 白氏文集巻十四 〕』に拠る

 送王十八帰山寄題仙遊寺〔 白氏文集巻十四 〕

 王十八の山に帰るを送り、仙遊寺寄題す  白居易

 曾於太白峯前住  曽(かつ)て太白峰前(たいはくほうぜん)に住まひ

 數到仙遊寺裏來  数(しばし)ば仙遊寺(せんゆうじ)()に到りて来たる

 黒水澄時潭底出  黒水(こくすい)澄める時 潭底(たんてい)()

 白雲破處洞門開  白雲(はくうん)破るる処 洞門(どうもん)開く

【林間煖酒燒紅葉】 【林間に『酒を煖(あたた)めて』紅葉(こうえふ)を焼()き】

 石上題詩掃緑苔  石上(せきじやう)に詩を題(しる)して緑苔(りよくたい)を掃(はら)

 惆悵旧遊無復到  惆悵(ちうちやう)す 旧遊(きういう)(また)到る無きを

 菊花時節羨君廻  菊花(きくか)の時節 君が廻(かへ)るを羨(うらや)

 

【意】

 かつて太白峰の麓に住み

 しばしば仙遊寺迄出掛けて行ったものだった

 黒水が澄んでいる時は潭(ふち)の底まで見え

 白雲の切れ目に洞穴の門が開いていた

【林の中で紅葉を焼いて『酒を暖め』】

 石の上に緑の苔を掃って詩を題(しる)した

 嘆かわしいのは、あの旧遊の地を再び踏めないことだ

 菊の咲くこの時節、山に帰る君が羨ましいヨ

 ()・王十八:王質夫(おうしつぷ)、白居易の旧友

 ・太白峰:長安西郊の山/・仙遊寺:長安西郊にある寺‥白居易は元和元(806)年地方事務官時代にこの寺でよく遊んだという

 ・黒水:渭水に流れ込む川/洞門:洞窟の入口。

 ※ 故郷へ帰り隠棲する旧友の王質夫見送り、昔一緒に遊んだ仙遊寺に寄せて作った詩

 ※ 翰林学士として長安在住の頃の作と伝わる

(10)夕ぐれのさびしさ:『枕草子』に「秋は、夕暮」と書かれて以来の、『秋の夕暮』の情緒を重視する文学的伝統を踏まえた言葉

 因みに『秋の夕暮れ』と言えば、寂蓮・西行・藤原定家に拠る古今集『三夕の歌』が著名

 ※ さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 / 寂蓮

 ※ 心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ / 西行

 ※ 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮 / 藤原定家

(11)感に堪たり:「感に堪えず」を更に強めた言い方

 

【小生comment

『名月』や北国日和(ほつこくびより)定めなき  芭蕉

『名月』や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

 一週間余り前の0926日が旧暦八月十四日で、十四夜、これを『待宵(まつよひ)』と言う

0927日が旧暦八月十五日で、十五夜、即ち『(中秋の)名月』

更にその翌日0928(=旧暦八月十六日)が『十六夜(いざよひ)

 ついで言えば、更にその翌日0929(=旧暦八月十七日)を『十七夜(じゅうしちや(=『立ち待ち月』))』と呼ぶ

 旧暦八月十八日『居待(いま)ち月』、同八月十九日『寝待(なま)ち月』、同八月二十日『更待(さらま)ち月』

 この次となると、同八月二十三日『二十三夜』=「下弦の月」となる

十四夜、十五夜、十六夜は毎月ある

 が、我国では古来、旧暦八月の十四~十六日の三夜を『待宵(まつよひ)』『名月』『十六夜(いざよひ)』と呼んで来た

 改めて『秋』を愛でる日本人の豊かな感性に感心すると共に強く共感する‥

『名月』は上掲したので『待宵』と『十六夜』の名句を探してみた‥‥

『待宵』はまだいそがしき月見かな  支考

雲間にも『いざよふ』月となりにけり  稲畑汀子

『十六夜(いざよひ)』はわづかに闇の初かな  芭蕉

 

 Virtual realな世界で拙句を一句‥(^^;;

 

 『十六夜(いざよひ)』に君への想ひいざよひぬ  悟空

 

■続いての話題である。

 2020091920日、小生の子供たちと孫たちが帰省してくれた模様についてである。

今日は、昨夜帰省してくれた長男家族と長女家族で今から、拙宅の中庭にて小生の65歳のプレ誕生会をやってくれるそうだ

 

[03]魔界()と越乃寒梅()

 

長男からは、日本酒の銘酒『越乃寒梅』、長女の旦那さんからは、芋焼酎の2019年日本grand prixの『魔界』をpresent され、もう気分は最高

拙宅中庭にての BBQ Party snap shots です

 

[04][左上]孫たちと

[右上]長女の partner と、長男の partner と孫たち

[左下]長男夫婦と孫たちと

[中下]孫たちと

[右下]長女と孫たち

 

[05]BBQ Party の後、長男()と長女の partner ()と『越乃寒梅』を小生は「江戸切子」で、長男と長女の partner は「酒泉 夜光杯」で乾杯〜ッ!

 

[06]「魔界」を長女の partner と乾杯!

芋焼酎『魔界』は、ホント最高に美味しい


[07][
左上]長女の孫娘の violin 演奏で Happy birthday to you!

[右上]長男の孫息子〔生後13箇月弱〕
[
左下]長女の孫たち1
[
中下]同上2

[右下]長女の伴奏で violin を演奏する孫娘

 今晩も子供達と孫たちが小生の誕生日を祝ってくれた


[08][
]孫娘たちと

[]次男と(
次男は20時過ぎに来てくれた


[09]長女の娘が violin を習い出した

曲目は、J.S.Bach Menuett

 

20:30 に漸く次男が遣って来て一族全員集合

 

【後記】今日は、【時習26回3-7の会】【09月の想い出】から「旧行時代の想い出から(1)2004/04/08【旧行最後の勤務先田原支店時代の想い出から】& (2)2006/03/04【同期会『53の会』ゴルフコンペat 明世CC】」「時習26回生卒業40周年記念懇親会に向けて~『第4回東三河の酒蔵を知る会』の想い出」をお届けして締め括りとする。

 

【旧行時代最後の田原支店時代の想い出】


 今日は、旧行時代の想い出を二つお届けする

 最初は、毎年4月と10月に上京して、全支店長・支社長会議に出席した時の想い出の写真で、此れは20040408日に東京フォーラムにて開催された際に、開会前に皇居御堀端、懇親会場、本店ビル前にての snap shots をご紹介する

 

[10]2004/04/08全支店長・支社長会議に出席した時の想い出の写真


 

【旧行53の会 at 明世CC の想い出 2006/03/04


 想い出のCD album を見ていたら、既に鬼籍に入った佐藤()君と細谷君が写っていたので、懐かしくなって up した

 お互い健康に気を付けて元気にPPKを迎えたいものだ

 

[11]明世CCでの記念写真と表彰式での1コマ


 

【『第4回東三河の酒蔵を知る会』にて 2013/03/17

 

[12][][]参加者8人の記念写真


 

 さて今日は、20130317()17時から再開発事業でもう今はない名豊ビル本館7hallにて開催された『第4回東三河の酒蔵を知る会』に参加した思い出についてお伝えする

 本会は、開催日の丁度一月前の0217日に「蔵開き」した『不老門』の「伊勢屋商店」に、『四海王』の「福井酒造」を加えた酒蔵2社が豊橋市を代表。この他『蓬莱泉』の「関谷醸造(設楽町)」と『朝日嶽』の「日野屋商店(新城市)」の2社を加えた4社が東三河代表、それに『孝の司』の「柴田酒造場(岡崎市)」と『神杉』の「神杉酒造(安城市)」の計6社の酒蔵が出品していた

 小生は、ご縁を頂き参加したが、本会には、時習26回生8人〔中嶋(2)、平田(5)、大谷(6)、今泉(7)、矢野(8)、酒井・杉原(9)、武野(10)(以上敬称略)〕が参加した

 此の懐かしい想い出も、もう7年半も昔の出来事になって仕舞った

 「光陰矢の如し」である

 

では、また‥〔了〕

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