2019年11月29日金曜日

【時習26回3−7の会 0785】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』~〔第04回/第21句~30句」「11月09日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第3回】上野の森美術館『ゴッホ』展→パナソニック汐留美術館『ラウル・デュフィ』展を巡って」「11月23日:松坂屋美術館『再興 第104回 院展』→名都美術館『鏑木清方【後期】』展→三井住友会場しらかわホール『バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会』を巡って見て・聴いて」「俳人『四T』前の二人~〔第1回〕竹下しづの女」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0785】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第04回/第21句~30句〕」をご紹介する。

21 あらけなや風車(かざぐるま)(うる)花のとき  薄芝(1)
 
【意】なんと無風流な人だ! 桜花の季節と言えば、風なんか吹いて欲しくない筈なのに、風を必要とする風車を売るという無神経なことヨ
【解説】季語:花=春 /「あらけな」は荒削り、粗野、粗雑、不神経などを表わす
(1) 薄芝(はくし):詳細不詳
 
22 花にきてうつくしく成(なる)(こころ)(かな)  たつ(1)

【意】花の美しさに惹かれて見に来た処、やがて我が心迄もが、花の美しさ其の儘に美しく染められて仕舞った
【解説】季語:花=春 /
(1)たつ:三河の人
 
23 (やま)あひのはなを夕日(ゆふひ)に見()(いだ)したり  心苗(1)
 
【意】山間の薄暗い奥山の桜は普段目立たない / しかし、夕暮の一瞬、其処が夕陽が射して明るくなった
【解説】季語:はな=春 /
(1)心苗:詳細不詳
 
24 おもしろや理窟(りくつ)はなしに花の雲  越人
 
【意】古来、桜花を雲と見紛える話は多いが、実際花見に来てみれば、山を被う雲の様に咲く一面の桜花は理屈抜きに面白い
【解説】季語:花の雲=春 /
 
25 なりあひやはつ花よりの物わすれ  野水
 
【意】桜が初めて咲いてからというもの、万事が手に付かずいい加減になって仕舞い、諸事につけて物忘れの多いことだ
【解説】季語:はつ花=春 /
 
26 (ひとり)()て友(とも)(えら)びけり花のやま  冬松(1)
 
【意】一人で遣って来た花見で、同好の花好きの友達が沢山できた / これぞ桜花の優しさなのだ
【解説】季語:花のやま=春 /
(1)冬松(とうしょう):詳細不詳
 
27 花鳥(はなとり)とこけら葺(ふき)ゐる尾上(をのへ)かな  冬文(1)

【意】桜花や鳥の声は、山頂を杮(こけら)葺きの屋根に見立てたか
【解説】季語:花鳥=春 /「こけら」は屋根を葺くときの板のこと / 此の句は、古来、意味不明とされて来た句
(1)冬文(とうぶん):詳細不詳
 
28 (くび)()して岡(をか)の花見(はなみ)よ蚫(あはび)とり  荷兮
 
【意】アワビ採りの海士が海面に首を出したり潜ったりしている其の背景には、岡の彼方には満開の桜花が映っている
【解説】季語:岡の花=春 /
 
  酒のみ居()たる人の繪()
 
29 月花(つきはな)もなくて酒のむひとり哉  芭蕉
 
【意】独り酒を呑んでいる御仁、月を楽しむでも桜を愛でるでもない様だ / 淋しさを癒すべく呑んでいるのか
【解説】季語:花=春 / 元禄02年春 / 芭蕉は自身の姿を絵の中に置いて詠んだか
 
  ある人の山家(さんか)にいたりて
 
30 橿(かし)の木のはなにかまはぬすがた哉  同

【意】山中に隠者然と暮らす人を訪ねる / 其処には樫の大樹があった / 樫木の花はひっそりと咲くので、古歌に「山中に隠棲する人物の感慨を詠ま」れたが、樫木にとってはそんなことはどうでもいい(=構わい)ことだ / 此の山家に住む人物と此の堂々とした此の樫木が重なってみえる
【解説】季語:橿(かし)の木のはな=「春」‥橿(=)木の花は春深くなってから咲く
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第05回/第31句~40句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いての話題は、「1109日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第3回】上野の森美術館『ゴッホ』展→パナソニック汐留美術館『ラウル・デュフィ』展を巡って・見て」をお届けする。

1120分 上野の森美術館着
 
【上野の森美術館『ゴッホ』展】
 
 本企画展について、主催者に拠る《ごあいさつ》から引用してご紹介する。
 
「〔前略〕Van Gogh(1853-90)の画業は僅か10年に過ぎませんが、現在知られている独自のstyleを確立する迄には多くの試行錯誤がありました。聖職者への道を閉ざされ画家を志した1880年以降には〔中略〕Maris兄弟といったHague(=The Hague School)の作家との出会いから、日々を生きる農民の姿を丁寧に描写し、自然の人々のありの儘を写し取ることを学びました。Parisに出た1886年頃からは、印象派のPissarroMonet、或いは後にVan Goghと共にPost-印象派(=Impressionists)と呼ばれることになるGauguinや、Signacといった画家たちと親しく交流しました。其の中で取り入れることになった原色を対比させる明るい色濃いと筆触を明確に残す描画方法は、Van Goghstyleを決定づけることになったのです。
 本展では、こうした19世紀後半にHollandで活躍した「Hague派」と、Franceで新たに興った「印象派」の二つの芸術家 groupとの出会いと交流から、Van Goghの画風の変化と発展を紐解いて行きます。〔後略〕」
 
[01]上野の森美術館本企画展看板前にて1

[02]同上2
                  
[03]Van Gogh『農婦の頭部』1885

[04]同『器と洋梨のある静物』1885
                  
[05]Camille Pissarro(1830-1903)『エラニ―の牛を追う娘』1884

[06]Paul Cézanne(1839-1906)『オワーズ河畔の風景』1873-74
                  
[07]Van Gogh『麦畑とPoppies1888

[08]同『麦畑』18886
                  
[09]同『男の肖像』188810月末から12月中旬

[10]同『糸杉(Cypresses)18896(サン・レミ(Saint-Remy))
                  
[11]同『夕暮れの松の木』18896(サン・レミ(Saint-Remy))

[12]同『薔薇』18905(サン・レミ(Saint-Remy))
                  

【小生comment
 Hague(=The Hague School)は、19世紀後半Hollandの都市Hagueを拠点に活躍した画家、ヤコブ、マティス、ウィレムのMaris三兄弟やマウフェ、ウェイセンブルフ等が中心となったgroupのこと。
 Van Goghは、彼等との直接的な交流は1885年頃には途絶した。
 が、Goghが此の時期に彼等から教わった画材の扱い方や眼前のmotifを直向きに観察する姿勢は、彼の画家としての土台を形成した。
 1886228Van Goghは、弟テオが住むFrance ParisMontmartreのアパートに同居を始めた。
 本企画展では、Van Goghの他、添付写真[05][06]にある様に、PissarroCézanneの他、Sisley(1839-99)Monet(1840-1926)Renoir(1841-1919)Gauguin(1848-1903)Signac(1863-1935)の絵も見ることが出来、嬉しかった。
 
1200分 上野の森美術館発→徒歩→
1203分 上野公園『西郷隆盛像』着
 
[13]西郷隆盛像

[14]西郷隆盛像の前にて1
                  
[15]同上2


1207分 同所発→上野駅→東京メトロ銀座線→
1238分 銀座駅着→徒歩16分→
1254分 パナソニック汐留美術館着
 
パナソニック汐留美術館『ラウル・デュフィ』展】
 
 華やかで明るい色彩と軽妙な筆致の作品で、現代でも多くの人々を引き付ける画家ラウル・デュフィ(1877-1953)。本展では、modernで優美な絵画と、〔中略〕デュフィのtextile design関連作品を一堂に展示する。陽光溢れる穏やかな南仏の海と活気ある室内を描いた『ニースの窓辺』を始め、音楽や社交をthemeにした油彩画等、生きる喜びに満ちた作品を描いたデュフィ‥〔後略〕〔本企画展leafletより引用〕
 
[16]パナソニック汐留美術館入口の本企画展看板前にて
                  
[17]同館本企画展leaflet

[18]Raoul Dufy(1877-1953)『花(4色展開のdesign原画の1)1913-23年頃
                  

[20]同『Mozartに捧ぐ』1915
                  
[21]同『公式Reception1942

[22]同『赤いViolin1946
                  
[23]同『Concert1948

[24]同『Console1949年頃
                  

【小生comment
 小生、ラウル・デュフィを知った約四半世紀前から、彼の原色を使った奇抜で鮮やかな色彩感覚と、サヽヽっと書き付けた様な軽妙で洗練された筆致が大好きで、拙宅の廊下に数点 postcardをミニ額縁に入れて飾っている。
 上記添付写真[19][24]の絵を見乍ら、beerwineを飲むと一寸いい気分になる。
 
1320分 パナソニック汐留美術館発→徒歩2分→
1322分 旧新橋停車場〔初代新橋駅〕=鉄道歴史展示室=日本の鉄道発祥の地
 
 1872(明治05)年 我国初の鉄道が「新橋~横浜」間に開通。
 当時の新橋停車場は、現在の新橋駅からは東へ350m程の汐留地区にあったものを2003年に復元。
 
[25]旧新橋停車場外観1

[26]同上2
                  
[27]同上3

[28]同上4
                  
[29]旧新橋停車場解説

[30]鉄道歴史展示室案内看板
                  

1327分 旧新橋停車場発→徒歩→新橋駅→東京メトロ銀座線→日本橋→東京メトロ東西線→竹橋→
1404分 東京国立近代美術館着
 
【小生comment
 復元された旧新橋停車場は、なかなか立派な建物である。
 此処が、鉄道唱歌第一番「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山(1)に入り残る 月を旅路の友として」と唄われた初代の新橋駅である。
 (1)愛宕山(あたごやま):東京都港区愛宕にある丘陵 / 標高25.7m / 天然の山としては東京23区内最高峰

 次回は、「1109日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第4回】東京国立近代美術館『鏑木清方~幻の《築地明石町》特別公開』展→郷さくら美術館東京『現代日本画の精華』展を巡って・見て」をお届けする。お楽しみに!
 
■続いての話題は、1123日:松坂屋美術館『再興 第104回 院展』→名都美術館『鏑木清方【後期】』展→三井住友会場しらかわホール『バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会』を巡って見て・聴いて来たことについてお伝えする。

其の日は、休日なのでいつもより少し遅く起きた。
 
0500分 起床→腹筋2000回→
0600 2.5kgの 木刀の素振り→
0715分 入浴→朝食→
0835分 拙宅発→自転車→
0902分 豊橋発→名鉄快速特急→0947分 金山0955分→地下鉄名城線→
1010分 松坂屋美術館着
 
【松坂屋美術館『再興 第104回 院展』】1
 
[31]松坂屋美術館入口『再興 第104回 院展』看板横にて

[32]松坂屋美術館8階会場入口『再興 第104回 院展』看板横にて
                  
[33]本企画展leaflet/絵は 村上裕二『月のブルース』2019

[34]松村公嗣『函館夜景』2019
                  
[35]田渕俊夫『明日香心象 橘寺夕陽』2019

[36]那波多目功一『黎明』2019
                  
[37]小田野尚之『遠ざかる音』2019

[38]大野逸男『鳴門の渦潮』2019
                  
[39]大矢紀『令和の赤富士』2019

[40]齋藤満栄『管菊(くだぎく)2019
                  
[41]高橋天山『星逢(ほしあ)ひ』2019

[42]清水達三『飛雪の滝』2019
                  
[43]下田義寛『優艶のとき』2019
 

【小生comment
 再興 院展は、現在の日本画の最前線で活躍している同人35人を中心に、春の院展と年2回 愛知県では此処松坂屋美術館で9日間見ることが出来る。
 添付写真の絵をご覧頂ければ、其の出来栄えの素晴らしさを納得して頂けると思う。
 
1055分 松坂屋美術館発→地下鉄名城線→栄→同東山線→1132分 藤が丘着→1139分 藤が丘発→愛知高速交通リニモ→1144分 入ヶ池公園着
1153分 名都美術館着

【名都美術館『鏑木清方【後期】展』】
 
[44]名都美術館入口にて1
                  
[45]鏑木清方 (1878-1972)『金色夜叉』1905

[46]同『嫁ぐ人』1907
                  
[47]同『春の淡雪』1938年頃

[48]同『(樋口)一葉』1940
                  
[49]同『道成寺道行』1956


【小生comment
 去る1026日に見た【前期】展に続き今回は【後期】展だ。
 西の(上村)松園 (1875.04.23-1949.08.27)、東の(鏑木)清方 (1878.08.31-1972.03.02)と評された日本画美人画の巨匠の絵は流石に素晴らしい。

1225分 名都美術館発→徒歩→
1232分 入ヶ池公園発→愛知高速交通リニモ→1237分 藤が丘着
1245分 松屋にて昼食
1315分 藤が丘発→地下鉄東山線→
1340分 伏見着→徒歩 11分→
1352分 三井住友海上しらかわホール着
 
【三井住友海上しらかわホール『バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会』】
 
[50]三井住友海上しらかわホール入口にて
                  
[51]本演奏会leaflet

[52]本演奏会program〜演奏曲目
                  
[53]演奏会前の しらかわホール1

[54]同上2
                  
[55]本演奏会 ticket


【小生comment
 演奏曲目は、名曲 J. S. Bach 作曲 ブランデンブルク協奏曲No.1No.6 6曲で、以下の順に演奏された。
 
 No.1 : 12人+指揮・cembalo 1=13
 No.6 : 6人+指揮・cembalo 1=7
 No.2 : 9人+指揮・cembalo 1=10
 〔休憩20分〕
 No.4 : 8人+指揮・cembalo 1=9
 上記8人の内訳 : recorder2 violin3 viola1 violoncello1 violonce(Contrabass)1
 No.5 : 6人+指揮・cembalo 1=7
 上記6人の内訳 : violin2 flute1 viola1 violoncello1 violonce(Contrabass)1
 No.3 : 10人+指揮・cembalo 1=11
 上記10人の内訳 : violin3 viola3 violoncello3 violonce(Contrabass)1
 〔上記人数は、演奏者数〕
 
 演奏者一人ひとりの技量も高く、気品に満ちた素晴らしい演奏だった。
 至福の matinée のひとときを過ごすことが出来た。
 
1740分 三井住友海上しらかわホール発→
1940分 帰宅〔了〕
 
■さて今日最後の話題は、前号迄に「四T」をご紹介したが、彼女等4人の前に忘れてはならない二人の女流俳人がいるのでご紹介させて頂く。今回は、其の【第1回】竹下しづの女(1887-1951)についてである。
 
 竹下しづの女(本名:静廼(シズノ))の略歴は以下の通り。

1887(明治20) 0319日 竹下宝吉・フジの長女として福岡県京都郡稗田村(現・行橋市)に生まれる
1903(明治36)年 福岡女子師範学校(後の福岡教育大学)入学
1906(明治39)年 福岡女子師範卒業(京都郡久保小学校訓導となり1908(明治41)年 稗田小学校に転任
        女子師範在学中に末松房泰に小説と「漢詩」の指導を受ける
1911(明治44)年 小倉師範学校助教諭 / 音楽国語担当
1912(大正元)年 水口伴蔵(福岡県立福岡農学校教諭)と結婚 / 23女を儲ける
        育児の傍ら本格的に句作を始め、吉岡禅寺洞(1889-1961)・高浜虚子(1874-1959)に師事
1920(大正09) 08月【「短夜や乳ぜり啼く児を須可捨焉乎」】3が「ホトトギス」の巻頭句に
        中央の俳壇でも認められるようになり、杉田久女・長谷川かな女と共に大正期の女流黄金時代を創出
1928(昭和03)年 高濱虚子と会い俳句再開 / 同人に推挙
1931(昭和06)年 夫 伴蔵が粕屋農学校校長に
1933(昭和08)年 夫 伴蔵が48歳で急逝 / 福岡県立図書館に司書として勤務
1935(昭和10) 09月【緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的】4が再び「ホトトギス」の巻頭を飾った
1937(昭和12)年 機関紙「成層圏」を指導
1949(昭和24)年 九大俳句会の指導を始める
1951(昭和26) 0803日 賢臓病で逝去(享年64)
 
[56]竹下しづの女(左上)・【「短夜や乳ぜり啼く児を須可捨焉乎」】(右上)
                  
【「緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的」】(左下)・《昭和55年 大学弓道部OB射会で的を狙う小生(左端)(右下)

[57]【「痩せて男肥えて女や走馬灯」】(左上)・【「鶲来て母は毎日不在なり」】(右上)

【「苺ジャム男子はこれを食ふ可らず」(左下)】・【「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」】をimageした画像(右下)
 
 以下に、竹下しづの女の代表作を、小生がimageした画像と共に6句ご紹介する。
 
 第1句目は‥
 
  短夜や乳ぜり啼く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)  竹下しづの女
 
      大正09年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収
 
 師範学校を出て、小説を書くことを志したこともあるしづの女は、当時二女二男の母親として多忙の中にあった。其の様な中での思いが書き留められた此の句は、「母親失格」「鬼の様な母親」「万葉仮名を使用した知識のひけらかし」等と、主として男性作家からの攻撃の矢を浴びた。此れ等〔中略〕いわれなき非難に対して、「瞬時の叫び」である、としづの女は書いている。「捨てっちまおか・否捨てられない」という思いの一句なのだ、と。しづの女の代表作となった。〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」(角川学芸出版)より引用〕
 
[58]【「短夜や乳ぜり啼く児を須可捨焉乎」】をimageした画像
                  

【小生comment
 漢籍の素養があった竹下しづの女らしい一句。
 「ホトトギス」に投稿して数か月で同誌の「巻頭」を飾る才能は流石である。
 
 第2句目は‥
 
  緑蔭や矢を獲()ては鳴る白き的  竹下しづの女

      昭和10年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収

 緑世界の中に立った真っ白な的。其の的に矢が命中した瞬時を描き切って見事な一句である。〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」」(角川学芸出版)より引用〕 
 暗い緑陰に据えられた真新しい白い的にひょうと射られた矢は見事に命中した。其の快音を活写した作であるが、的中した瞬間、パシッと鳴る快音が、再び其の的を被うている緑陰に弾ね返っている点に注意したい。〔中略〕此の句の場合、的其のものを擬人的に扱っている効果も見逃すことは出来ない。〔楠本憲吉『昭和秀句Ⅰ』(春秋社)より引用〕

[59]【緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的】をimageした画像


【小生comment
 小生、学生時代に弓道をやっていたので、此の句が大好きだ。
 緑陰と白い的の色彩や、静寂の中で矢が的に中る音、弓を射る人物の勇姿が3次元空間に存在する balance の妙が、凄く知的にそして爽やかに詠み手に迫って来る名句である。
 
 第3句目は‥
 
  痩せて男肥えて女や走馬灯  竹下しづの女
 
      昭和10年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収
 
 此の一句の「肥えて女や」に、多くの苦労を背負い乍らも丸顔でふっくらしたしづの女の容姿を重ねる。ゆったりと寛いだ着物姿。「痩せた男」は現実の男というよりも、今は亡き夫かと思われるのは「走馬燈」の力によろう。追っても追っても辿り着けぬ姿‥。〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」」(角川学芸出版)より引用〕
 
[60]【痩せて男肥えて女や走馬灯】をimageした画像
                  

【小生 comment
 「痩せた男」と「走馬燈」‥ / しづの女の脳裏には、もう二度と戻って来ない嘗て共に暮らした昔日の夫の面影が過(よぎ)った瞬間を「走馬燈」で表している処が此の句の妙‥
 
 第4句目は‥
 
  鶲(ひたき)来て母は毎日不在なり  竹下しづの女

      昭和10年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収

 此の句の前に「母帰るや否や鶲が来しといふ」がある。次男健次郎は16歳、三女淑子はまだ14歳、自身の疲れより何より、待ちかねて「鶲」のことを伝える子の寂しさに心を痛めているしづの女。〔中略〕其の「鶲」を(一緒に)並んで眺めたならば、という思い。叶わぬ願いを籠めた一句であるが、確りと、子の思いを受け止めた一句でもある。〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」」(角川学芸出版)より引用〕

[61]【鶲来て母は毎日不在なり】をimageした画像
 

【小生 comment
 可愛らしい「鶲」を見たことを帰宅した母に伝えようとする我が子の健気さが堪らなくいじらしく感じられる句‥
 
 第5句目は‥
 
  苺ジャム男子はこれを食ふ可らず  竹下しづの女
 
      昭和10年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収

 「女子専門学校父兄会に出席して」の【前書】の「苺ジャム」三句。〔中略〕此の【前書】を知ると、女子専門学校という空気感や、若い女生徒と共にいる楽しさの様なものも伝わって来る。〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」」(角川学芸出版)より引用〕

[62]【苺ジャム男子はこれを食ふ可らず】をimageした画像
                  

【小生 comment
 漢籍や万葉仮名を駆使するしづの女とは別の女性らしさの一面を知る一句で、なかなかいい。
 
 第6句目は‥
 
  女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く  竹下しづの女
 
      昭和13年作 句集『颯』(昭和1510月刊行)所収
 
 此の年8月、橋本多佳子の北九州小倉の櫓山荘で、多佳子一家が此の地を離れる別れの宴が開かれた。〔中略〕此の宴に招かれたしづの女は多佳子の一回り上の亥年。夫を亡くしたという同じ境涯で、多佳子を慮ったであろう。「女人高邁」という賛辞は、多佳子への、そして「女人は斯くありたきもの」というしづ女自身の思いであろう。〔中略〕「芝青きゆゑ蟹は紅く」は、漢詩にも強いしづの女の自然な発語であろうが、緑の中に紅を見せる命。強く鮮やかな対比が、「女人高邁」を更に引き締めたものにしている。〔後略〕〔鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~「激しく瞬時を生きて〔寺井谷子(1944- )〕」」(角川学芸出版)より引用〕
 
[63]【女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く】をimageした画像


【小生 comment
 橋本多佳子と竹下しづの女が此処で結び付いている。
 橋本多佳子は、「ホトトギス」先ず杉田久女に師事したが、彼女と通して、「四T」の先駆けとなる、竹下しづの女と杉田久女(1892-1946)が繋がる。〔了〕
 
【後記】最後に、前《会報》にてお届けした「四T」三橋鷹女の名句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の「鞦韆」についてのこぼれ話を一つお届けしてお別れする。
 
【「鞦韆」の由来 〜「春宵一刻直千金」】
 
 三橋鷹女の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の句は、一度朗誦すると其の記憶がなかなか頭から離れない。
 其の時 upした image写真の様な美しい女性に此の句の様に思われてみたいものだ()
 
  鞦韆に価値千金の恋を知る  悟空
 
[64]【鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし】をimageした画像〔再掲〕
                  

 此処で、「鞦韆」について余談を一つ‥
 「鞦韆」は「春」の季語である。
 何故、春なのかというと、中国・唐宋八大家の一人、北宋の政治家で詩人の蘇軾(=蘇東坡(1037-1101))が詠んだ七言絶句『春夜』に登場する「鞦韆」に由来する。
 
 春宵一刻直千金 
 花有清香月有陰
 歌管楼台声細細
 鞦韆院落夜沈沈
 
 春宵(しゅんせう) 一刻 直(=(あたひ))千金(せんきん)
 花に清香(せいこう)有り 月に陰(かげ)有り
 歌管(かかん)(1) 楼台(2) 声細細(こゑさいさい)
 鞦韆(しうせん)(3) 院落(いんらく)(4) 夜沈沈(よるちんちん)
 
(1)歌管:歌声と笛の音 (2)楼台:高層な建物
(3)鞦韆:ブランコ (4)院落:邸内の中庭
 
【訳】春の夜は、ひとときが千金に値する
 花は香り、月は朧夜で霞んで見える
 高殿の歌声や管弦の音も静かになり
 中庭のブランコは静寂(しじま)の中、夜は深々と更けてゆく
 
【小生comment
 蘇東坡の『春夜』の起句「春宵一刻直千金」は、知らない人はいないくらい人口に膾炙した名句だ。
 漢詩『春夜』を image した写真を up してみた〔了〕
 
[65] 蘇東坡『春夜』の結句「【鞦韆】院落夜沈沈」をimageした画像

 
  では、また‥〔了〕

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