2022年5月31日火曜日

【時習26回3−7の会 0908】~「05月07日:JR長浜駅→長浜城歴史博物館→JR彦根駅を歩いて」・「今は少し昔の物語から「茨木のり子『わたしが一番きれいだったとき』・堀口大學『夕ぐれの時はよい時』・伊東静雄『わがひとに與ふる哀歌』・三木露風『赤とんぼ』・北原白秋『この道』・「中原中也と小林秀雄」・「安保徹『50歳からの病気にならない生き方革命』」「05月14日 : JR彦根駅→彦根城→JR河瀬駅間の琵琶湖畔をwalking して」

皆さん、今日も【時習26回37の会 0908号をお届けす

. 今日お届けする話題は盛り沢山なので、松尾芭蕉『ひさご』はお休みする

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. 今日は、先ず20220507日に青空フリー切符を活用して、米原から長浜へ、長浜から彦根迄続き、彦根から米原経由でwalking して来たことについてお伝えする

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【拙宅→JR豊橋駅】

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03時30分 起床→腹筋2,000回

04時15分 2.5kgの木刀素振り50分

05時10分 入浴→仕度→

05時40分 拙宅発→徒歩→

06時04分 競輪場前発→豊鉄東田本線→

06時35分 JR豊橋駅発→東海道本線 特別快速→

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[01][左上]豊鉄競輪場前発→JR長浜駅迄の時刻表

[右上]豊橋市と長浜市の天候と気温

[左下]拙宅玄関前にて

[中下]豊鉄競輪場前に入線する路面電車

[右下]JR豊橋駅 platform にて

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【JR豊橋駅→長浜城歴史博物館】

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【前書】今年の「立夏」は5月5日、爽やかな風が心地よい

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. 長浜城 浮き立つ様に 風薫る  悟空

. 鳰湖(にほのうみ) 長浜の地に 夏は来ぬ  悟空

. 爽やかな 淡海の初夏や 長浜城  悟空

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[02][左上]豊橋米原、米原→長浜、彦根→米原のtickets 

[右上]東海道本線JR米原駅 platform にて

[左下]琵琶湖線JR米原駅 platform にて

[中下]琵琶湖線JR長浜駅 platform にて

[右下]JR長浜駅西口concourseから長浜城遠望

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09時20分 長浜城歴史博物館入口着

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【長浜城歴史博物館】

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【前書】天下取り秀吉が初めて城持ち大名になりし今浜城

. 信長の長を拝借して長浜城に改名したと云ふ

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. 秀吉の 出世城にて 夏を知る  悟空

. 新緑が 映ゆる長浜 美しき   悟空

. 青春の 想ひ再び 風薫る    悟空

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[03][左上]JR長浜駅前にて

[右上]長浜城歴史博物館を back に

. 秀吉の瓢箪を模した枠内に見える長浜城歴史博物館

[左下]JR長浜駅前にて長浜城歴史博物館を back に

[中下]長浜城歴史博物館を back に1

[右下]同上2

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【長浜城歴史博物館】1

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[04][左上]長浜城解説板横にて

[左下]長浜城歴史博物館 同前にて

[右上]同 最上階展望台から西方、湖北遠望1

[右中]同 最上階展望台から湖北遠望を back に

[右下]同 最上階展望台から湖南遠望を back に

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[05][左上]長浜城歴史博物館 最上階展望台から湖北遠望2

. 写真中央やや右、半島の先端の様に見えるのが竹生島

[右上]同 最上階展望台から東方、伊吹山遠望

[左下]長浜城天守閣跡にて1

[中下]同上2

[右下]長浜城「御城印」「戦国大名浅井氏と小谷城」leaflets

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10時30分 長浜城歴史博物館発→

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【長浜城歴史博物館→JR彦根駅】

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[06][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔長浜市朝日町〕風景1

[右上]同〔同市平方町〕同上2

[左下]同〔同市同町〕同上 3

[中下]同〔同市同町〕同上 4を back に

[右下]同〔同市同町〕同上 5

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[07][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔長浜市平方町〕風景6

[右上]同〔米原市長沢〕同上7

[左下]同〔同市同〕同上8

[中下]同〔同市同〕同上9

. 写真やや右下の山は「山本山」

[右下]同〔同市同〕同上10

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[08][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市世継〕風景11

[右上]同〔同市同〕同上12を back に

[左下]同〔同市同〕同上13

[中下]同〔同市同〕同上14

[右下]同〔同市同〕同上15を back に

.

[09][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市世継〕風景16

[左下]同〔同市同〕同上17

[右上]同〔同市同〕同上18を back に

[右中]同〔同市同〕同上19を back に

[右下]同〔同市同〕同上20

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[10][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市世継〕風景21

[右上]同〔同市同〕同上22

[左下]同〔同市同〕同上23をbackに

[中下]同〔同市同〕同上24

[右下]同〔同市同〕同上25をbackに

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12時40分 米原市朝妻筑摩着

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[11][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市朝妻筑摩〕風景26をbackに

[右上]同〔同市同〕同上27をbackに

. 朝妻港趾碑前にて

[左下]同〔同市同〕同上28

[中下]同〔同市同〕同上29

[右下]同〔同市同〕同上30を backに

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[12][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市朝妻筑摩〕風景31

[右上]同〔同市同〕同上32

[左下]同〔同市同〕同上33を back に 

[中下]同〔同市同〕同上34

[右下]同〔同市同〕同上35を back に

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13時34分 米原市磯着

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.  鳰の海 君への想ひ 胸に秘め 熱き想ひの 叶う日夢む  悟空

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[13][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市朝妻筑摩〕風景36

[右上]同〔同市同〕同上37

[左下]同〔同市同〕同上38

[中下]同〔同市同〕同上39を back に

[右下]同〔同市磯〕同上40を back に

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[14][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市磯〕風景41をback に

[右上]同〔同市同〕同上42

[左下]同〔同市同〕同上43

[中下]同〔同市同〕同上44

[右下]同〔同市同〕同上45を back に

.

[15][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市磯〕風景46をbackに

[右上]同〔同市同〕同上47

[左下]同〔同市同〕同上48

[中下]同〔同市松原町〕同上49

[右下]同〔同市同町〕同上50を back に

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14時51分「彦根市金亀公園」着

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[16][左上]琵琶湖畔からの琵琶湖〔米原市松原町〕風景51

[右上]Google 航空 map:彦根港よりJR彦根駅への経路図

[左下]琵琶湖畔〔彦根市馬場〕風景

[中下]彦根城天守閣遠望〔彦根市金亀公園〕

[右下]彦根城天守閣を back に〔同市同公園〕

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[17][左上]彦根城下風景〔彦根市元町〕彦根城・彦根駅道標前にて

[右上]【国宝】「彦根城」解説板〔同市同町〕

[左下]【国宝】「彦根城」解説板横〔同市同町〕にて

[中下]JR彦根駅側から彦根城天守閣遠望〔彦根市元町〕

[右下]同〔同市同町〕同所にて

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15時23分 JR彦根駅着

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【JR彦根駅前→JR米原駅】

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[18][左上]JR彦根駅前の井伊直正像前にて

[右上]JR彦根駅前にて

[左下]JR琵琶湖線彦根駅 platform にて

[中下]「JR彦根駅→豊鉄競輪場前」迄の時刻表

[右下]JR琵琶湖線米原駅 platform にて

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19時18分 帰宅

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【JR米原駅→帰宅】

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[19][左上]JR東海道本線米原駅 platform にて

[右上]JR東海道本線大垣駅 platform にて1

. 大垣駅終点の電車を降りた後で

[左下]同上2

. 大垣発豊橋駅ゆき新快速に乗る前

[中下]JR豊橋駅のうどん・そば壷屋にて注文した月見そば

. 小生、此の壺屋の醬油味の「月見そば」が大好きだ!

[右下]今日の歩行距離23.4km / 歩行歩数30.630歩

.

【小生 comment】

. 今日も充実した一日を過ごすことが出来、満足である

. 来週は、JR彦根駅→JR河瀬駅の2駅間だが、琵琶湖畔と両駅はソコソコ離れているので、十数キロはある

. 琵琶湖の風景は美しいので、次回も又新しい発見があることを期待している〔了〕

.

続いては、久しぶりに、現代女流詩人茨木のり子(1926-2006)の名詩「わたしが一番きれいだったとき」が浮かんだ

.

[20]若き頃の茨木のり子

.

.   ロシアとウクライナの戦争ニュースを目のあたりにしていたら、茨木のり子が詠んだ第二次世界大戦直後の詩の時代と今が不思議と重なり合う感じがしたからだ!

 

.      ※     ※     ※     ※     ※

 

.      わたしが一番きれいだったとき

.                                                         茨木のり子

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   街々はがらがら崩れていって

.   とんでもないところから

.   青空なんかが見えたりした

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   まわりの人達が沢山死んだ

.   工場で 海で 名もない島で

.   わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった

.   男たちは挙手の礼しか知らなくて

.   きれいな眼差だけを残して皆発っていった

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   わたしの頭はからっぽで

.   わたしの心はかたくなで 

.   手足ばかりが栗色に光った

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   わたしの国は戦争で負けた

.   そんな馬鹿なことってあるものか

.   ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   ラジオからはジャズが溢れた

.   禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

.   わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

.   わたしが一番きれいだったとき

.   わたしはとてもふしあわせ

.   わたしはとてもとんちんかん

.   わたしはめっぽうさびしかった

 

.   だから決めた できれば長生きすることに

.   年とってから凄く美しい絵を描いた

.   フランスのルオー爺さんのように

.                  ね

.

茨木のり子の作品に続いて、三好達治(1900.08.23-1964.04.05)著「詩を読む人のために」から「堀口大學(1892.01.08-1981.03.15)」をご紹介する

. まぁ、coffee break の感じで読んで下さい

.

[21][上]夕暮れ時の窓辺

[左下]小鳥は翼の間に頭(こうべ)をうづめる‥

[中下]堀口大學

. 典型的な慶應ボーイ

[右下]三好達治『詩を読む人のために』

.

. 小生、堀口大学については、三好達治が紹介する『夕ぐれの時はよい時』を読み、彼の作品が大変好きになりました

.  『夕ぐれの時はよい時』は、平易で読み易く、頭にスーッと入っていく感じがとてもいい‥

. かつ気品もあり大変素晴らしい詩であると思います

. 三好達治の解説も成程と感心しました

. 同氏は、堀口大学のもう一つの作品『彼等』も紹介していますが、これは6行と大変短い詩でありながら「これ程含蓄があるのか‥?!」というくらい深い解釈をしています

. 小生には、とてもこんな解釈はできません

. が、「こういうものが『詩』なのだ」と教えてくれただけでも収穫でした

.  『夕ぐれの時はよい時』と『彼等』の解説を一緒に読むと堀口大学の詩の素晴らしさがよく解かると思い、少々長めの文章となりますが、ご紹介させて頂きます

.

. 因みに「詩を読む人のために」の解説者杉本秀太郎(敬称略)(1931年生)もその「解説」で次のように述べ、賞賛しています

.

.  『夕ぐれの時はよい時』は萩原朔太郎とは全く違った詩的経歴をもち、れっきとした西洋的教養を身につけた堀口大学を論じて、両極端を押さえる恰好の一対をこの二篇は形成しております〔中略〕

. 堀口さんが(中略)大正八年に出した詩集『月光とピエロ』所収の二篇を例に、堀口大学の詩の特色、魅力を、三好達治はあざやかに、したしみをこめて、そしていくぶんの羨望を包み隠さずに語っております

. 私は『詩を読む人のために』一冊のなかで、特にこの一文を好むものです

.

【筆者comment】

. 大正八年の作なんですね

. でも、少しも色褪せていない、いい作品です

. では、さっそく、三好達治の解説『夕ぐれの時はよい時』をご紹介しましょう

.

. 詩集『月とピエロ』(大正八年)の中の一篇

. 私どもも高等学校の生徒じぶんに甚だ愛誦(あいしょう)したものです

. 今日また久しぶりに一読して、やはり新鮮で歯ぎれのいい、仕立おろしの洋服のようにさっぱりとした、後味のたのしい感銘を受けました〔中略〕

.

.   夕ぐれの時はよい時

.

. 夕ぐれの時はよい時

. かぎりなくやさしいひと時

.

. それは季節にかかはらぬ、

. 冬になれば煖炉のかたはら、

. 夏になれば大樹の木かげ、

. それはいつも神秘に満ち、

. それはいつも人の心を誘ふ、

. それは人の心が、

. ときに、しばしば、

. 静寂を愛することを、

. 知つてゐるものの様に、

. 小声にささやき、小声にかたる‥‥‥‥

.

. 夕ぐれの時はよい時

. かぎりなくやさしいひと時

.

. 若さににほふ人々の為(た)めには、

. それは愛撫に満ちたひと時、

. それはやさしさに溢れたひと時、

. それは希望でいつぱいなひと時、

. また青春の夢とほく

. 失ひはてた人々の為めには、

. それはやさしい思ひ出のひと時、

. それは過ぎ去つた夢の酩酊、

. それは今日の心には痛いけれど

. しかも全く忘れかねた

. その上(かみ)の日のなつかしい移り香

.

. 夕ぐれの時はよい時

. かぎりなくやさしいひと時

.

. 夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?

. だれもそれを知らぬ!

. (おお! だれが何を知つてゐるものか?)

. それは夜とともに密度を増し、

. 人をより強き夢幻へみちびく‥‥‥‥

.

. 夕ぐれの時はよい時

. かぎりなくやさしいひと時

.

. 夕ぐれ時、

. 自然は人に安息をすすめる様だ

. 風は落ち、

. ものの響は絶え、

. 人は花の呼吸をきき得(う)るやうな気がする、

. 今まで風にゆられてゐた草の葉も

. たちまちに静まりかへり、

. 小鳥は翼の間に頭(こうべ)をうづめる‥‥‥‥

.

. 夕ぐれの時はよい時

. かぎりなくやさしいひと時

.

. ごらんの如き作品です

. まず用語の平易にしてこだわりのない、まったく口語調にちかい暢達(ちょうたつ(【筆者注】のびのびとしていること))な使いぶりが眼につきます

. 私たちの日用語を自由にとりいれ駆使していて、かえってそのためにさっぱりとした瀟洒な気品を見せています

. 俗ではありません

. 俗に入って俗を出でる、そこの呼吸がこの詩人の得意の擅場(せんじょう(【筆者注】その人だけが思う儘に活躍できるところ / ひとり舞台 / 独擅場))で、一種危うきに遊ぶという意識も、勿論詩人の意識の一部分に働いていることが察せられます〔中略〕

. 印象的とか象徴的とかという、漠然とした、綜合的な効果の醸し出し方ではなく、反対に解析的に、分解的に、一作品の効果を、部分において逐次に明確にしながら進行してゆく、そういうやり方で、この『ゆうぐれの時はよい時』は進んでゆきます

. このやり方は日本の現代詩としては、当時としては勿論、今日においてもなお充分眼新しく、注目に価する特殊な手法かと思われます

.

.   夕ぐれの時はよい時、

.   かぎりなくやさしいひと時

.

. この二行は、まず冒頭に現れて、この詩中に五度くりかえされる畳句ですが、この単純な二行の中にも、既に解析的な手法が顔を見せています

.  「夕ぐれの時はよい時」とまず大づかみな概念的なことをいっておいて、その「よい時」を、さらに「かぎりなくやさしいひと時」と限定的に、絞りにしぼって、追っかけるようにたしかめています

.  「よい時」のよさを「やさしい」と畳みかけて限定した上に、それがほんの短い「ひと時」にすぎない時間だと、こまかく追及してゆくやりかた、それを心理的とも、解析的とも、いま私は呼んでいるのであります〔中略〕

.  「夕ぐれの時はよい時」の畳句がくりかえされて、(中略)ともすれば単調に傾きそうな危険が感じられないでもありません

. 勿論作者はそれを敏感に感じています

. そこで次の発想は、ぐんと局面をかえています

.

.   夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのであらうか?

.   だれもそれを知らぬ!

. 言葉の調子もすっかり変って、前の一段の

.   しかも全く忘れかねた

.   その上の日のなつかしい移り香

.

. というようなのとは、格段に調子を変えています

. ほとんど唐突の感があります

.  〔中略〕このような唐突な不意打ちは、近代詩歌の一つの新らしい魅力といっていいでしょう

. 言葉の調子がそうであるのみならず、ここでは思想も不意打ちです

.

.   だれもそれを知らぬ!

.   (おお! だれが何を知つてゐるものか?)

. と作者は何の前置もなしに、突然なことをいいだします

. 読者は眼を見はらずにはいられません

. そうして作者の胸中に鬱積していたものを、ここではじめて、じかに直接に手渡されたような感をうけます

. この詩の頂点は、まずこの辺のところにあります

. 私ならそう解釈します〔中略〕

.

.   夕ぐれ時、

.   自然は人に安息をすすめる様だ

.   風は落ち、

.   ものの響は絶え、

. と自然な調子で終息にむかい、さらに

.

   人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、

.   今まで風にゆられてゐた草の葉も

.   たちまちに静まりかへり、

.   小鳥は翼の間に頭をうづめる‥‥‥‥

. とつづいて、この最後のところにきて特に気転の利いた洒落た一行、―― 丁度ここまでつづいてきたこの詩のここで終息するのにあたかもふさわしい表象(イマジュ)の鮮やかな句を以て結んでいる

. そうして畳句がそれにもう一度すべてをひっくるめた印象に念を押すように順応してこの詩は終るのであります

. 読後の印象ははじめにもいったように極めて鮮明で、瀟洒としていて、軽々として、どこにも晦渋(かいじゅう(【筆者注】言語・文章などが難しくて意味の解かりにくいこと))陳腐のあとがありません〔中略〕

. 安心をして読めます

. これがこの詩の本物である証拠であって、ここらの消息もちょっと説明には困難なので、読者で自得して納得されるより外はありますまい

.

. 次にもう一つ同じ作者の短い詩を詠んでみましょう

.  (【筆者注】‥‥と、三好達治は、続けて『彼等』の解説を始めます)

.

.   彼等

.

. 彼等よく知る、

. よろこびに

. 果(はて)あることのかなしさを、

.

. 彼等は知らず、

. かなしみに

. 果あることのかなしさを

.

【筆者注】この解説は、小生には難しかったです

. じっくりと読んでみて下さい

. 含蓄ある素晴らしい解説だと思います

. では、どうぞ‥‥‥

.

. 胸中の鬱積と鋭い機智との結びついた詩です

.

. よろこびに果しがあり、歓楽の早くつきて哀愁の永く来ることは何人もよく知っています

. それは世間の如何なる俗人もよく承知しています

. けれども世間の凡(おおよ)その歓楽に望みを絶ち、あるいは世間の人々のよろこびとするところをよろこびとすることのできなくなった人々、――勿論この詩の作者もその側の一人であるところのそれらの人々にとっては、かえって哀しみこそはせめてもの心の糧であり、日々の心をみたすところのかけがえのない何ものかであるかもしれません

. これだけのことを、この詩を読む以前に、この詩に対(むか)う以前に、読者がすでに自分のものとして不断の心にもっていなければ、この詩感は、響のものに応ずるようにぴんとひびいてこないでしょう

. 詩人はこの場合特に、極度に説明をさけています

. 説明を経て理解されることをさけています

. 解る人に解ってもらえば、解りかねる人には解っていただくに及ばないという態度です

. その態度、語気が、この詩の思想をかげから押し出しています

.  『彼等』という一語にも、見給え、この一語にも隠約(=【筆者注】ことばは簡単で意味の奥深いこと~)のひびきがあります

. その一語はこの詩の題になっています

.  「かなしみに/果あることのかなしさ」 

. ―― せめてもの心の糧であった、かけがえのないそのかなしみも、いつまでも心の空虚をみたすものとして残っているとは限らないので、時がたつとそれさえも雲散霧消して跡かたもなくなる、そのあとの空虚と倦怠、それこそは先のかなしみにもまさっていっそう耐えがたいかなしみ、―― この悲哀の意識は『彼等』と同じ水準にはいない一層高度な精神のものだ、というのがこの詩の、平たく説いた意味でしょう

. 詩人の誇りがかげになって、そこには対立の意識があります

. 私(【筆者注】三好達治)が先に、胸中の鬱積といったのは、詩人をして「彼等は知らず」と叫ばしめた、その対立の意識をもふくめて、この詩の語気の手きびしさをさしていったのです

. 堀口さんの詩には、いつもこの詩人の誇りが、世俗に対立した意識の手きびしさが、かげに強く働いています

. その影の働きが、この詩人の詩を、つねにある高貴なものと感じさせます

. 

. 先にかかげた『夕ぐれの時はよい時』のようなやさしく甘い詩にも、甘ったれてはきこえず、一種「悲哀に誇る」といった風の、誇りかなひびきをもってきこえるのは、これもやはり、この『彼等』の場合と同じかくれたかげの意識が、語感の末にゆき渡っているからのことと思われます

. 詩人の稟質(ひんしつ【筆者注】生まれつきの性質 / 資質)は一語の末にも現れます

.  『彼等』は僅々六行の詩ですが、詩人の稟質は、遺憾なくその間に溢れています

. 私が先に平俗に説いたところは、いわば全部が蛇足ですが、この短い詩を説くとなると、さらにもっとたくさんの言葉を要することかもしれません

. そうしてそれでも、原詩の寸鉄人を刺す趣は、説き得ないかもしれません

.  『彼等』は機智をかった詩です

. 機智は鋭く成功しました

. そうして言外の意味が長くなります

―― だから私の解説などはもうこの辺で筆をおかねばなりません

.

【筆者comment】

. 如何ですか?

. どのように感じられましたか‥‥‥

. 一作目の『夕ぐれの時はよい時』は、大変解り易い解説でしたが、二作目の『彼等』についてのそれは、小生、最初この解説を一読した時は何が書いてあるのかよく解りませんでした

. が、読み返していくうちに三好達治の言わんとするところが理解できるようになりました

.  「やっぱり詩を読むことは難しい

. でも、それが詩を読む醍醐味‥‥」というのが、今日の詩の特に二作目の解説を読んで感じた正直な感想です‥‥‥〔了〕

.

次は、詩人『伊東静雄』(1906.12.10 - 1953.3.12没)をご紹介したいと思う

.

[22][左]伊東静雄

[右]逢坂山から琵琶湖遠望

.

. 彼は昭和28年46歳の若さで亡くなった

. 小生、折に触れ、従前より『四季派』の詩人を幾人か紹介して来たが、今日ご紹介する伊東静雄も『四季派』を代表する詩人で、今日ご紹介する「わがひとに與ふる哀歌」は、詠めば詠むほど味が出て、素晴らしさが実感できる傑作であると思う

. それではまず、詩を詠んで頂きたい

.

   「わがひとに與ふる哀歌」

.

. 太陽は美しく輝き

.

. あるひは 太陽の美しく輝くことを希(ねが)ひ

. 手をかたくくみあはせ

. しづかに私たちは歩いていった

.

. かく誘ふものの何であらうとも

. 私たちの内の

. 誘はるる清らかさを私は信ずる

. 無縁の人はたとへ

. 鳥々は恒(つね)に変わらず鳴き

. 草木の囁(ささや)きは時を分かたずとするとも

. いま私たちは聽く

. 私たちの意志の姿勢で

. それらの無邊な広大な讃歌を

.

. あゝ わがひと

. 輝くこの日光の中に忍びこんでゐる

. 音なき空虚を

. 歴然と見わくる目の發明の

. 何になろう

.

. 如かない 人氣(ひとけ)ない山に上り

. 切に希われた太陽をして

. 殆ど死した湖の一面に遍照(へんじょう)さするのに

.

【筆者comment】

. 一読しただけだと、なんか堅苦しい詩で、女性のことを歌っているんだろうが、何を言いたいのか良く解らないかもしれない

. しかし、この詩を「 作者が頭の中で、理想の彼女(「その人」)と二人で、慎ましやかに、琵琶湖近くの山上(『逢坂山』辺り)に上っていく。太陽や鳥たち、草木の森羅万象が二人を祝福する様に存在する

.  「二人の愛もこうあって欲しい」と願いつつ、(作者は)「その人」の面影を胸に抱き、幸福を実感しつつもかすかな将来の不吉を予感しながら、琵琶湖の見える方に歩いて行った。

. これも若かりし昔日のこと‥‥ 」と想像してみると、状況が目に浮かびこの詩の素晴らしさが段々と解ってきませんか?

.

【訳】

(その時、山上に)

太陽は美しく輝いて (― いた。いや)

あるいは太陽の美しく輝くことを願って (― いたため、)

太陽が美しく輝いていた様に

(思い出されるかもしれない)

(何ものかに祈りたい様な慎ましい心になって)

(幻のあなたと)

手を固く組み合わせ (― 湖の見える方へ)

静かに私たちは歩いていった。 (そういう時)

.

この様に誘うものが何であろうとも

私たちの心の中から (― 自然と)

誘い出される清らかなものを私は信ずる

(清らかな愛は生かされなければならない。)

(ものがあるべき様にあるということは何と好ましいことだろう。)

(全てに満たされて心に痛みを感じない人、こうした祈る様な願いに)

関わりを持たない人は、例え、― 太陽が美しく輝き色々な鳥が絶えず鳴いており、

そよ風に草木が囁き交わしていても、

(何とも思いはしないだろう。)

(彼等は例えそうであっても、ままならぬ。)

(私たちにはそれが稀有のことに思われるのだ)

それらを広大無辺な自然の賛歌として

私たちは心から耳を傾けて聞こうとする。

.

ああ わが人 (― 永遠の女性よ。)

輝くこの日光を (― 分析して、)

その中から (― 結局は何の反響もない)

空虚に過ぎないものを、

ありありと検出して見せたところ何になろう。

.

それよりも人気(ひとけ)のない山に上り 

(― あなたと唯二人その姿の現れることを)

心から願っていた太陽に、 (― 自分たちの行く手にかげって暗く沈み、)

ほとんど死んでいた様になっていた湖面を一面、

(明るく生き生きと、まるで蘇った様に)

隈なく照らして貰うのが、何よりなのだ。

(太陽は本来、美しく輝くべきなのだ。)

(その様に清らかな愛は生かさるべきなのだ。)

(ああ 切にねがわれた太陽よ、わが愛よ、若かりし日よ。)

.

. 伊東静雄の代表作「わがひとに與ふる哀歌」は、色々なところで紹介されている

. そこで、これからこの歌の【解説】から幾つかご紹介したいと思う

.

. まず、保坂弘司・海野哲次郎共著「声で読む入門現代詩」から‥‥

.

【解説】〔出典と年代〕第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年刊)

. 詩集の題名となった作品。

. 昭和9年(29歳)「コギト」11月号に発表。伊東は大阪府立住吉中学校の国語教師として堺市に在住

.  「わがひと」とは、この詩集を出版した時に「私の詩はいろんな事実を隠して書いておりますので、他人は詠みにくいと存じますが、百合子さんは詠みにくくない筈です

. あなたにもわからなかったら、もう私の詩もおしまいです」(昭和10年1月2日書翰)と書かれているその人で、「その人」の中に「永遠の女性」を見ている

. 作者は幾度か逢坂山を越えて琵琶湖に降りたことがあり、その回想と「わが人」に対する幻想とが錯綜してこの作品を生んだ

.  〔感動の中心〕「太陽は美しく輝」くべきであり、「鳥々は恒に変わらず鳴き」、清らかな愛は自然に結ばれるべきである

.  「ものが本来あるべき様にある」ことはなんと美しく、願わしいことだろう

. その時、太陽はあるべき様に美しく輝き、鳥々はあるべき様に鳴いていた。その山上を「二人の『愛』もかくあらむことを切に願いつつ」、「その人」の面影を胸に抱いて、その限りない幸福の行く手に幽(かす)かな不吉を予感しながら、(琵琶)湖の見える方に歩いて行った若かりし日よ

.

. 続いては、中西進著「詩をよむ歓び」から‥‥

.

. この作者の詩は、つねに敬虔な心を内包した強い意志によって書かれます

. 詩はどこまでも静かで、読む者に生きる力をあたえてくれます

. この詩もそうした詩群の一つです

. 主人公のまわりには太陽が美しく輝き、また輝くことが期待される太陽があります

. これと呼応する最終行も御覧下さい

. 人気に毒されていない山上で湖に遍照する太陽を二人は希っています

. 一編は対立するものを否定しつつ、自らを肯定する形をとります

. たとえば誘うものよりも誘われる清らかさを信ずるとか、鳥や草木は無縁の人には平凡に映るだろうが、われわれには広大無辺の賛歌と聞こえるとかです

. 日光の中の空虚を見るより遍照の光を見たいというのも、その一つです

. ですから一編には強く意志が貫いています

. その中で固く手をくみ合わせた二人の歩みがあります。

. 他人の一人とは「わが人」です

. ですから「わがひとに与ふる哀歌」といいながら、けっして悲哀の歌ではありません

. 本当の、物の真実を知ることの悲しみでしょうか

. 清らかさといい、広大無辺といい(これはよく仏の慈眼についていわれます)、遍照といい(これも仏徳の特徴です)、宗教的な厳粛さも漂っています

. 私はこよなく、この虔(つつま)しい光への希求を尊びます

. そのような意志をもって、宇宙に対していきたいものです

.

. 次は、高橋順子編著「日本の現代詩101」から‥‥

.

. 最初の7行はいましも厳かな婚礼の式を挙げ、「手をかたくくみあはせ」たカップルの様だ

. だが8行目「無縁のひとはたとへ」という謎めいて孤立した一行が幸福感に水を差す

. この一行は「無縁のひとはたとへ信ぜずとも」と動詞を補ってみてはどうだろう

. 詩人はそう記すのが堪えがたく、言葉がつまってしまったのではないか

.  「私たち」というのは「無縁のひと」と私ということである

.  「私たち」とは言いながら、実際には詩人は一人で、いや別れた恋人の面影と一緒に歩いていったのである

. 伊東の佐賀高校以来の思慕の対象は、同郷の英文学教授の令嬢(【筆者注】酒井百合子)だったが、1932年、負債付きの家督を相続したことから恋を断念することになる

. 伊東は負債返済に協力することを約束してくれた女学校教師と結婚し、家長としての義務を果たしたのだった

. このことが伊東の詩に悲哀感と、特異な受動態の使われ方、禁欲的な骨格を与えたものと言われる

. この詩には第一行から太陽が輝いている。鳥たちは鳴き、草木は囁き、「無辺な広大の讃歌」をうたっている

. しかし詩人の心は楽しまず、「無縁のひと」を側に感じている

. 太陽の光は熱くない

.  「輝くこの日光の中に忍び込んでゐる

. 音なき空虚」とは、太陽の光を喜ばぬ、虚無感の様なものが自分の中にあるということだろうか

. 自分の目ははっきりと見分けてしまうが、それが何になろう、と嘆くのである

. 最終三行、「如かない‥‥‥

. ‥‥‥太陽をして

. ‥‥‥遍照さするのに」という語法は変わっている

. 漢詩文調であり、翻訳調である

. 意味は、太陽をあまねく照らさせるにこしたことはない、ということだが、もちろん自分が太陽をどうにかできるとは考えていない

. むしろ太陽があまねく照りわたしますように、という祈りがこめられている

. 詩人は山上で「殆ど死した湖の一面に」日が差すのを待っている

. 終末論的風景であるが、美しい。

.

.  「近代詩から現代詩へ」の著者鮎川信夫(1920.08.23-1986.10.17)は次の様に言っている

.

.  『わがひとに與ふる哀歌』に、まず絶大の賛辞を贈ったのは萩原朔太郎であった

. 彼は、「伊東君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない

. たしかにそこには、藤村氏を思はせる様な若さとリリシズムが流れてゐる

. だがその<若さ>は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に固く踏みつけられ、ねじ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである」と述べ、伊東の詩の発想の特異さにふれている

.

【年譜】

. 伊東静雄の略歴をごく簡単に記す

明治39(1906)年 12月10日 長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)船越名427番地に生まれる

大正08(1919)年 (12歳) 4月 長崎県立大村中学校入学

大正12(1923)年 (16歳) 3月 大村中学校4年終了 / 4月佐賀高等学校文科乙類入学

大正15(1925)年 (19歳)) 4月 京都帝国大学文学部国文学科入学 / 7月帰省の際、姫路の酒井家を訪問 / 次女酒井百合子17歳

昭和04(1929)年 (22歳) 3月 卒業論文「子規の俳論」首席通過 / 4月 大阪府立住吉中学校に就職

昭和07(1932)年 (25歳) 2月 父惣吉死去 / 約1万円の父の負債と共々家督相続 / 3月 保田與重郎、田中克己ら「コギト」創刊 / 4月山本花子と結婚

昭和09(1934)年 (27歳) 10月 堀、三次ら「四季」創刊 / 11月「コギト」に発表した「わがひとに與ふる哀歌」に萩原朔太郎が賞賛の手紙をよせる

昭和10(1935)年 (28歳) 10月『わがひとに與ふる哀歌』をコギト発行所より300部刊行 / 11月 東京新宿で出版記念会開催 / 散会後、中原中也宅に一泊して帰阪

昭和11(1936)年 (29歳) 3月『わがひとに與ふる哀歌』第二回文芸汎論賞受賞

昭和14(1939)年 (32竿) 3月 下旬上京 / 萩原朔太郎を訪問 / この上京中、立原道造の死に会う

昭和16(1941)年 (34歳) 1月「四季」同人となる

昭和19(1944)年 (37歳) 5月 三島由紀夫、伊東を住吉中学校に訪問 /「花ざかりの森」をめぐって歓談

昭和24(1949)年 (42歳) 6月 肺結核を発病 / 10月 入院

昭和28(1953)年 (46歳) 2月 突然大喀血、急遽衰弱し、3月12日午後7時42分永眠 / 諫早の広福寺に葬る

.

続いては、山田耕筰と日本の童謡の傑作沢山創作した三木露風の作品から、ほとんど全てと言って過言でないほど日本人に「日本人」である誇りと郷愁を呼び起こさせる作品「赤とんぼ」をご紹介する

.

[23][左上][右下]三木露風

[右上][左下]夕焼け小焼けの赤とんぼ

.

. 三木露風(1889.06.23- 1964.12.29)は兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市現在のたつの市)出身の詩人

. 本名は三木操(みき みさお)

. 早稲田・慶応の文科をともに中退した

. 相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成

. 詩集『誌園』が、北原白秋の『邪宗門』と並び称され「白露時代」を現出

. 童謡は「赤とんぼ」のほか、「かっこう」「十五夜」「春が来た」などがある

.

. * * * * *

.

.  「赤とんぼ」 (三木露風作詞、山田耕筰作曲)

.

. 夕焼小焼の赤とんぼ

. 負われて見たのは、いつの日か

.

. 山の畑の桑の実を

. 小籠に摘んだは まぼろしか

.

. 十五で姐やは、嫁に行き

. お里のたよりも、絶えはてた

.

. 夕焼小焼の赤とんぼ

. とまっているよ、竿(さお)の先

.

【解説】

. 母と祖父、露風はこの二人から大きな影響を受け成長していく

. 母が家を出て行ったのは、露風が7歳の時

. 原因は父が仕事をせずにだらしがない生活

. 両親は離婚し,露風は祖父の家に引き取られる

. この出来事は、生涯、露風のトラウマとなった

.  「母」への想いはつのるばかりだったが、母は二度と帰っては来なかった

. 赤とんぼは、そんな露風のさびしい幼年時代を歌った詞だ

. 見霽(みは)るかす平野に無数の赤とんぼが飛ぶ夕暮れ

. 母が去った後、露風をかわいがってくれた姐や

. この歌はこうした実体験から生まれたものであった

.

.  「赤とんぼの思ひ出」で三木露風は、次の様に、述懐している‥‥

.

. * * * * *

.

. 私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた

. それは童話の題材として適当であると思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである

. その私の思ひ出は、実に深いものである

. ふりかへって見て、幼い時の自己をいとほしむといふ気持であった

. まことに真実であり、感情を含めたものであった

. 思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう

. 幼年の時故郷にいない者は稀である

. 幼年と故郷、それは結合している

. であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである

. 私は多くの思ひ出を持っている

.  「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった

.  「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである

. 私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた

. その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである

.  「赤とんぼ」を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である

. さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすることである

. それらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである

.  (日本童謡全集 昭和12年 日本蓄音器商会より)

.

. 三木露風というと、小生、もう一つ、いつもこの詩が思い起こされる

. 青春の淡く儚い、甘酸っぱい想い出

. 今となっては遠い、昔日の懐かしい想い出

. きっと皆さんも、夫々に懐かしい想い出がおありのことと思います

. それでは、三木露風の「ふるさとの」をご紹介する‥‥

.

.   「ふるさとの」  三木露風

.

. ふるさとの

. 小野の木立に

. 笛の音の

. うるむ月夜や

.

. 少女子(おとめご)は

. 熱きこころに

. そをば聞き

. 涙ながしき

.

. 十年(ととせ)經ぬ

. おなじ心に

. 君泣くや

. 母となりても

.

【解説】

. 二人の初々しい恋は実らず、十年の歳月が過ぎ去って行った‥‥

. 少女子は人妻となり、母となった

. 少年は風の便りにそのことを知った

. 歳月は、「方丈記」に出て来る川の流れのごとく、人間の感傷を流し去っていく

. 少女子が妻となり母となることを彼女自身拒むことはできなかった

. 笛の音は、少年と少女子の心の片隅に、十年、二十年となり続けているであろう

. 就中(なかん)ずく、それを響かせ続けるのが故郷(ふるさと)である〔了〕

.

次は、詩人北原白秋(1885(明治18)0125-1942(昭和17)112))についてである

. 彼は、福岡県沖端(おきのはた)村生まれ

. 早稲田大学で若山牧水、土岐善麿らと親交

.  「明星」に短歌を発表。さらに「スバル」に参加し、詩や短歌を発表

.  『桐の花』で高い評価を得る

. 以下に白秋の弟鉄雄が、兄白秋について、彼が早稲田大学に入学する際のエピソードを回想しているのでご紹介する

.

[24][左上(どくだみ)の花

[右上]山査子(さんざし)の花

[左下]北原白秋

[中下]1904年10月「早稲田の三水(北原白秋(左)・中村蘇水(中)・若山牧水(右))」

[右下]1915年1月13日 萩原朔太郎(左の招きに応じて前橋市を訪れた北原白秋(中)

.

.  * * * * *

.

. 殆んど学校へは行かず、家で詩や歌ばかり作つてゐるので父の心配は大きかつた

. そして早稲田の文科へ入学するといつてがんばるので、父は酒屋の息子が文学をやつたんでは酒はだれが作るかといつて、どうしても希望をゆるしてくれなかつた

. そのうち中学のある先生と衝突して、卒業試験を目の前にひかへて、突然退学届を出して中学をやめてしまつたのである

. さうして、どうしても早稲田へ行くといつて暴れる、父はどうしても駄目だといつて怒る、そんな修羅場がつゞいたのである

. 母と私は何んとかして兄の希望通りにしてやりたくて、いろいろ仲に立つて苦労したのであるが、どうしても父は頑として許してくれないので、遂にひそかに蒲団夜具衣類や書物などを荷作りして、一足先きに番頭へいひふくめて駅にもたせてやり、兄の家出を成功さしてしまつた

. その代り私は父にひどく叱られたのであるが、全くの泣訴哀願で父の心も祈れ、兄の遊学が正式に認められることになつた

. 兄は上京後間もなく、早稲田学報に「全都覚醒賦」を出して一等当選の栄誉をかち得て、私たちを狂喜させたのである

. 兄の詩の生活はこれより開けていつたのである

. ・・・ 北原鉄雄「上京前後」 昭和18年6月

.

. 次に、白秋の短歌で、少々艶っぽい秀作を一つご紹介します。

.

.  どくだみの 花のにほひを 思ふとき  

.   青みて迫る 君がまなざし 

.                (『桐の花』明治45年07月)

.

【解説】

.  「どくだみ」は別名十薬。独特の強い匂いを持つ

. 蒼白なまなざしが、切羽詰った恋愛の場面を思わせる

. 一旦恋人と別れて木挽町へ転居した頃の作品

. 回想の中にも、不穏な官能的な雰囲気がある

. この後、俊子が白秋のもとへ走って、二人は姦通罪で告訴され、収監される‥‥

.

. 小生、此の妖艶な歌にいつも心秘かに惹かれる(^^;;

.

.  ※  ※   ※  ※   ※

.

. また、白秋というと、山田耕筰との童謡に数多くの名曲を残している

. 今日は、その中から「この道」をご紹介する

. 郷愁を感じる名詩・名歌である

.

.  「この道」(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)

.

. この道はいつか來た道

. ああ、さうだよ

. あかしやの花が咲いてる

.

. あの丘はいつか見た丘

. ああ、さうだよ

. 白い時計臺だよ

.

. この道はいつか來た道

. ああ、さうだよ。

. お母さまと馬車で行ったよ。

.

. あの雲もいつか見た雲

. ああ、さうだよ。

. 山査子(サンザシ)の枝も垂れてる

.

〔了〕

.

続いては、「中原中也( 1907-1937 )」についてである

. 破天荒な生き方で人生30年を駆け抜けた中原中也は小説以上に面白い

. 話題性と言えば、なかでも小林秀雄(1902-1983)と中原との関係が有名で、その事実を知ったとき、小生は、ちょっとした衝撃を受けた

. とともに、「堅物だと思っていた小林秀雄も、若いときはいろいろあったんだ、結構やるね」と、不思議な安堵感を覚えた

.

[25][左]中原中也(1907-1937)

[右上]同上2

[右中]小林秀雄(1903-83)

[右下]クレタ・ガルボ

.

. 今、小生の手許に「小林秀雄全作品(第六次小林秀雄全集)」全32巻があるが、そのうち中原中也を取り上げているのは「Xへの手紙」の「X」を中原中也とすると7巻10 itemにも及ぶ〔←・後で調べたら、実は「X」は河上徹太郎(1902-1980)である由〕

. 小林の人生の前半の重要な一時期を中原中也との関係が占めていることが分かる

. 小林の人生において、特別な人物であった中原中也

. 小林が23歳のとき、中原と同棲中であった長谷川泰子を小林は奪い取った

. 即ち、両者は三角関係の当事者であった

.  「Xへの手紙」に登場する「あの女」が小林と同棲した長谷川泰子とされる

. 小林秀雄が書いた中原中也の作品については、次の機会にてご紹介させて頂く

. 小林秀雄(1902.4.11.- 1983.3.1.)が中原中也を取り上げた作品の題名を以下に列挙してみた 

.  【小林秀雄】(巻頭の数字は「小林秀雄全作品」の巻数)

.  4. Xへの手紙~Xへの手紙(昭和7年)

.  5.「罪と罰」について~中原中也の「骨」(昭和9年)

.  6. 私小説論~中原中也の「山羊の歌」(昭和10年)

. 10. 中原中也~中原中也訳「ランボオ詩集」(昭和12年)

. 10. 同~「死んだ中原」(昭和12年)

. 10. 同~「中原の遺稿」(昭和12年)

. 10. 同~「中原中也」(昭和12年)

. 17. 私の人生観~「中原中也の思い出」(昭和24年)

. 19. 真贋~「『中原中也全集』に寄せる」(昭和26年)

. 26. 信ずることと知ること~「中原の詩」(昭和42年)

.

. 今日は、嵐山光三郎の「『追悼の達人』(新潮文庫)~中原中也((昭和)12年10月22日)‥‥‥追悼なんてくそくらえ」の行(くだり)をご紹介する

. ご覧下さい

.

. 中原は小学校時代はほとんど全甲で「神童」の評判があったという

. 大きな医院の子で裕福に育った少年は「いい子」である反面、だれにも知られぬ自意識の魔物を飼っていく

. その魔物は中也を食いちぎり、生活不能者としての中也が歩きまわる

. 

小林秀雄と会ったのは十八歳のときで、小林は二十三歳であった

. 中也以上に自意識が強い小林に会ったのが運のつきであった

 

. 小林秀雄と会ったとき、中也はグレタ・ガルボ(添付写真ご参照)に似た長谷川泰子と同棲していた

. 泰子は中也より三歳年上で、劇団「表現座」女優であった

. 泰子は中也を捨てて小林のもとへ走った

. 中也と泰子との同棲は一年半で終った

. 小林と泰子の同棲も二年半で終るが、兄と慕う小林に泰子を持っていかれた口惜しさは終生、中也につきまとった

. 小林は「死んだ中原」と題した追悼詩で‥‥

.

.  あゝ、死んだ中原!

.  僕にどんなお別れの言葉が言えようか

.  君に取返しのつかぬ事をして了(しま)ったあの日から

.  僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

.

.  あゝ、死んだ中原

.  例えばあの赤茶けた雲に乗って行け

.  何の不思議な事があるものか

.  僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

.

.  と絶唱した

.

. 中也の死後に発見された草稿のなかで、このことに関して「女に逃げられるや、一日々々と日が経てば経つほど、私はただもう口惜しくなるのだった。――このことは今になってようやく分かるのだが、そのために私は嘗(かつ)ての日の自己統一の平和を、失ったのであった‥‥‥‥とにかく私は自己を失った!

. 而も私は自己を失ったとはその時分かっていなかったのである!

. 私はただもう口惜しかった」と独白している

. 中也は、泰子が家を出るとき「女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵(かたき)の男が借りて待っている家まで届けてやったりした」(「我が生活」)とも書いている

. 「敵の男」とは小林のことである

. 小林のランボオ論とボードレール論は泰子との同棲生活の中で書かれた

. では中也は小林と義絶したかというと、そういうわけではなく、小林の紹介により大岡昇平を知り、小林が「文学界」の編集責任者となると執筆陣に入れてもらい、死ぬまで小林の世話になった

. 中也の詩が世に出たのは、ひとえに小林の尽力による

. 葬儀の日の様子を、青山二郎は「枕元には懐中手をして突立った、小林のしみじみとしと見下ろした姿があった」と報告している〔以下略〕

.

. 中原中也の破天荒な行動のepisodeを一つ(嵐山光三郎「『文人悪食』~『中原中也』」「同『文人暴食』~『草野心平(1903-1988 )』」)

.  〔前略〕宿酔(ふつかよいをくりかえし、自分の酒癖の悪さは充分に知りながら、それでも人恋しくて酒場に行かずにはいられない

. 太宰治にもからんだ

. そのことは壇一雄(1912-1976)が克明に回想している(【筆者注】壇一雄は女優壇ふみの父)

.  〔中略〕さしもの太宰治も、あの凄絶な中原の酒席のからみには耐えられなかった

. 最初は、中也と草野心平が壇一雄の家にやってきて、居あわせた太宰と一緒に「おかめ」に飲みにいった(【筆者注】ここで乱闘になるのだが、その当事者草野心平は以下の様に記憶している)

. (草野)心平と壇一雄は、かつて、東中野の「おかめ」で太宰治、中原中也と一緒に飲み、つかみあいの乱闘になったことがる

. 心平、中也組と太宰、壇組で、文壇武勇伝では、壇が中也を投げ飛ばしたことになっているが、心平の記憶によると、心平が壇を投げ飛ばしたという

. その乱闘以来、心平は壇と親しくなり、壇より貰った犬をダン(壇)と名づけていた(【筆者注】以上は余談(笑))

.

. 一方、三好達治の「詩を読む人のために」(岩波文庫)では、「数人の詩人について」の中で「中原中也」を取り上げ、「老いたるものをして(『在りし日の歌』から)」「夕照(『山羊の歌』から)」「港市(みなとまち)の秋(同前)」「正午(『在りし日の歌』から 丸ビル風景)」の四篇を紹介している

.

. 中原中也の作品が今日評価されているのは、小林秀雄の尽力に負うところが大きい、と小生も思う

.

[26][左]中原中也詩集

[右]中原中也全集

.

. 以下、【小林が中原について書いた文章】の essence を幾つかご紹介して行く

.

. 昭和9(1934)年8月『文學界』 中原中也の「骨」

.  「紀元」六月号に載っていた中原中也の詩、近頃感服した詩であった

. 友達に聞いたが読んでいた人が一人もなかったのでここにうつして置こうと思う

.

.  「『骨』// ホラホラ、これが僕の骨だ、/ 生きていた時の苦労にみちた / あのけがらわしい肉を破って、/ しらじらと雨に洗われ、/ ヌックと出た、骨の尖(さき) // それは光沢もない、/ただいたずらにしらじらと、/ 雨を吸収する、/風に吹かれる、/幾分空を反映する /(中略)/故郷(ふるさと)の小川のへりに、/ 半ばは枯れた草に立って / 見ているのは、――僕? / 恰度(ちょうど)立札ほどの高さに、/ 骨はしらじらととんがっている

.

. こういう詩は古いという人もあるかもしれないが、僕は中原君のいままでの仕事、そこでは所謂新しい詩の技法というものが非常な才能をもって氾濫していた、そのことを知っているので古いとは思わない〔以下略〕

.

. 昭和10(1935)年1月『文學界』 中原中也の「山羊の歌」

. 中原中也の詩集が、こんど文圃堂から出版されることに決まった

. なにか広告文めいたものでも書けたら書けと彼が言った

. 言われなくても喜んで推薦の辞を書くのである

. 中原はずい分ふるくからの友達で、廿歳前から彼の真似もしないいい詩を書いていたので、もういいかげん詩集も出ていて、有名になっていていい男なのだが、根が怠け者で人づき合いが並みはずれて不器用且つ不気味であったが為に、やっと今日その処女詩集が出るという始末である

. やれやれと思って僕は大変嬉しい

【筆者注】‥‥と、辛口の批評が真骨頂の小林が、中也にはすごく甘い

. まさに中也の応援団長って感じである‥‥

. さらに小林の中也賞賛(いや絶賛と言ってもいい)は続く‥‥

. 彼の詩は見事である、というよりも彼の詩心は見事である

. 現代のように言葉が混乱した時に時代の感覚から逃亡せず純粋な詩心を失わぬという事は至難な事だ

. 中原はそれをやっている詩人だ、努めてやっているというより、そうしなければ生きて行けない様に生れついたのでそうやっている

. 稀有な光景だと思っている〔中略〕

. ともあれ中原の詩は傷ついた抒情精神というものを大胆率直に歌っているという点で稀有なものである

.

.  「『汚れちまった悲しみに‥‥』// 汚れちまった悲しみに / 今日も小雪の降りかかる / 汚れちまった悲しみに / 今日も風さえ吹きすぎる /〔以下略〕

.

. 中原の詩はいつもこういう場所から歌われている

. 彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも

. 逃げられなく生れついた苦しみがそのまま歌になっている

. 語法は乱れていて、屡々(しばしば)ぎこちない

. 併し影像は飽くまでも詩的である、又影像は屡々不純だが飽くまでも生活的である

. 僕はそういう詩を好むのだ

. 彼には殆んど審美的な何かが欠けているのではないかと思われるくらい、彼の詩は生ま生ましい生活感情にあふれている

.  〔中略〕彼は言葉の秩序を全く軽蔑しながら、その表現は愛情或は悔恨そのものが元来精妙であるが如き精妙さに達している点、僕は驚嘆している

. まあこんな事をいくら書いたって実物を読まぬ人には通じようがない

. 嘘だと思ったら詩集を買って読んでごらん

. 彼が当代稀有の詩人である事がわかるだろう

【筆者注】‥‥とまぁ、こんな具合である‥‥

小林秀雄の作品をもう一つご紹介する

.

. 昭和24(1949)年8月『文藝』中原中也の思い出

.  〔前略〕大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ

. 尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ

. 中原と会って間もなく、私は彼の情人(【筆者注】長谷川泰子のこと)に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した

. この忌わしい出来事は、私と中原の間を目茶々々にした

. 言うまでもなく、中原に対する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない

. 驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない

. ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は「口惜(くや)しい男」という数枚の断片を見付けただけであった〔中略〕

. 中原の心の中には、実に深い哀しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている

. 彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なずけるに足りなかった

. 彼はそれを「三つの時に見た、稚厠(おかわ)の浅瀬を動く蛔虫(むし)」と言ってみたり、「十二の冬に見た港の汽笛の湯気」と言ってみたり、果ては、「ホラホラ、これが僕の骨だ」と突き付けてみたりしたが駄目だった

. 言いようのない悲しみが果しなくあった

. 私はそんな風に思う〔中略〕

. 彼の詩は、彼の生活に密着していた

. 痛ましい程

. 笑おうとして彼の笑いが歪んだそのままの形で、歌おうとして詩は歪んだ

. これは詩人が創り出した調和ではない

. 中原は、言わば人生に衝突するように、詩にも衝突した〔中略〕

. 彼も亦(また)叙事(【筆者注】事実をありのままにのべること)性の欠如という近代詩人の毒を充分に呑んでいた

. 彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる

. 彼は悲し気に放心の歌を歌う。 川原が見える、蝶々が見える

. だが、中原は首をふる

. いや、いや、これは「一つのメルヘン」だと

. 私には、彼の最も美しい遺品に思われるのだが(【筆者注】小林が以下に紹介した詩は「在りし日の歌」から『一つのメルヘン』全文である)

.

.  秋の夜は、はるかの彼方に

.  小石ばかりの、河原があって、

.  それに陽(ひ)は、さらさらと、

.  さらさらと射(さ)しているのでありました

.

.  陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、

.  非常な固体の粉末のようで、

.  さればこそ、さらさらと

.  かすかな音を立ててもいるのでした

.

.  さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

.  淡い、それでいてくっきりとした

.  影を落としているのでした。

.

.  やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

.  今迄流れてもいなかった川床に、水は

.  さらさらと、さらさらと流れているのでありました‥‥‥‥

.

. 小生は、前【0095】号で、三好達治著「詩を読む人のために」から「『数人の詩人について』~『中原中也』」をご紹介することをお約束しましたが、中原の最も近しい友小林秀雄の上記の comment には、流石の三好達治の解説も霞んでしまうと思うので取り止める

. 変わりに彼の遺作詩集『在りし日の歌』から「後記」の最後の行(くだり)をご紹介する 

. 彼は「後記」を書いた一ヵ月後の10月22日結核性脳膜炎で亡くなった〔享年30歳〕

. ダダイスト『中原中也』‥‥皆さんはどのように感じられましたか‥‥

.

. 私(【筆者注】=中原中也)は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである

. 別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つている

. 扨(さて)、此の後どうなることか‥‥‥それを思へば茫洋(【筆者注】果てしなく広く、目当てのつかないさま)とする

. さらば東京!

. さらば青春!〔1937.9.23〕〔了〕

.

続いては、0514() JR彦根駅→彦根城→JR河瀬駅間の琵琶湖畔をwalking して来たことについてである

.

【拙宅→JR豊橋駅へ】

.

03時00分 起床→腹筋2,000回

03時50分 2.5kg木刀素振り60分

04時55分 入浴→仕度

05時30分 拙宅発→徒歩→

50時49分 競輪場前発→豊鉄東田本線→

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[27][左上]豊鉄競輪場前→JR彦根駅迄の時刻表

[右上]豊橋市&彦根市の今日の天気&気温

[左下]豊鉄東田本線競輪場前に入線する路面電車

[中下]拙宅玄関前にて

[右下]Google 航空 map:JR彦根駅→JR河瀬駅への経路図

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【小生 comments】

.

. 今日は、昼前から雨は上るそうだ

. 晴れ男「今泉」を証明したいネ

.

【JR豊橋駅にて】

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[28][左]JR豊橋駅に入線する米原行き特別快速電車

[右上]JR豊橋駅 platform にて1

[右中]同上2

[右下]青空フリー切符「JR豊橋駅⇄ JR米原駅」「JR米原駅→ JR彦根駅」「JR河瀬駅→ JR米原駅」切符

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【JR米原駅→JR彦根駅→彦根城へ】

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[29][左上]JR米原駅 platform にて

[右上]JR琵琶湖線彦根駅 platform にて

[左下]JR彦根駅前 井伊直政公銅像前にて

[中下]滋賀銀行前にて

[右下]旧彦根町解説板前にて

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【JR彦根駅前→彦根城へ】

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[30][左上]【国宝】彦根城&彦根城主井伊家 解説板前にて

[右上]彦根城のお堀前にて1

[左下]同上2

[中下]井伊直弼歌碑 同前にて

[右下]同

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【彦根城】

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[31][左上]彦根城お堀

[右上]二の丸佐和口多門櫓

[左下]開国記念館を back に

. 此の開国記念館にて「彦根城 御城印」を買った

[中下]琵琶湖八景「月明 彦根の古城」碑前にて

[右下]開国記念館にて入手した「彦根城 御城印」を手に

. 井伊の「赤備え」を模して、赤色の「御城印」だ!

.

[31-1]:「美濃国 金山城跡」御城印


. 小生この「金の山」の名前が気に入って、令和2年7月12日に同所を訪れた際、麓の記念館で購入し、ご覧の様に此の御城印だけ「御朱印帳」に収めた

. 当時は、御城印は集める気持ちはなかったのである

[31-2] :「小田原城」「賤ケ岳〔七本槍〕」「長浜城」「彦根城」各御城印


. しかし、昨年末の令和3年12月04日、「箱根峠」から旧東海道五十三次「小田原宿」→JR二宮駅への walking の途上、立ち寄った「小田原城」の御城印が気に入って購入

. 今回の琵琶湖周遊開始後の04月23日、JR木ノ本駅の売店にて「賤ケ岳〔七本槍〕」の御城印が気に入り購入

. 先週の05月07日、長浜城の御城印も「秀吉が初めて城持ち大名になった」出世城として縁起の良い御城印として購入

. 今回も【国宝】「彦根城」だから‥と思い御城印を購入、全部で5枚となった為、彦根城天守閣近くの売店で「御城印帳」を購入した

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[32][左上]彦根城「天守閣」へと向かう1

[右上]同上2‥彦根城の入城券を手に

[左下]彦根城【重文】「太鼓門櫓」

[中下]同【同】「同」同所より彦根城下遠望

[右下]同「天守閣」へと向かう2

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[33][左上]彦根城「天守閣」へと向かう3 

[右上]同【重文】「太鼓門櫓」前にて

[左下]同「天守閣」前にて1

[中下]同「同」1

[右下]同「同」2

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10時12分 彦根城「天守閣」着

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[34][左上]彦根城「天守閣」前にて1

[右上]同「同」同上2

[左下]同「同」内部の階段1

[中下]同「同」同上2

[右下]同「同」同上3

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[35][左上]彦根城「天守閣」最上階より城下遠望1

[右上]同「同」同上2

[左下]同「同」同上3

[中下]同「同」同上4

[右下]同「同」を出て大手門へ向かう

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10時48分「大手門橋」着

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[36][左上]Google 航空 map:「天守閣」→「大手門」→琵琶湖畔への経路図

[右上]「彦根城」を back に

[左下]「同」お堀を back に

[中下]「同」同上2

[右下]「同」「大手門橋」

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[37][左上]「彦根城」「大手門橋」にて

[右上]「同」お堀風景1

[左下]「同」同上2

[中下]「同」同所にて

[右下]「同」お堀風景2

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【彦根城→北野神社→琵琶湖畔へ】

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[38][左上]滋賀大学門前にて

[右上]「北野神社〔北野天満宮〕」鳥居前にて

[左下]「同」「神牛舎」にて

[中下]「同」「社殿」前にて1

[右下]「同」「同」同上2

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【琵琶湖畔→JR河瀬駅へ】1

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[39][左上]彦根城から西進した琵琶湖畔〔彦根市馬場〕の路傍の「ハマヒルガオ」の花

[右上]同「ノイバラ」の花の横にて

[左下]琵琶湖畔にて1

[中下]琵琶湖畔を南進する道〔彦根市長曽根町〕

[右下]同所にて

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12時47分「下芹橋」着

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[40][左上]琵琶湖上を飛翔する2羽の鳶

[右上]同上1羽の鳶

[左下]琵琶湖畔「下芹橋」欄干にて

[中下]同「同」同所にて

[右下]同「同」同所より琵琶湖を望む

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[41][左上]琵琶湖畔「下芹橋」より琵琶湖を back に

[右上]同「同」同所より琵琶湖を望む

[左下]同「同」同所にて1

[中下]同「神明橋」欄干にて

[右下]同「同」同所より琵琶湖遠望

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[42][左上]琵琶湖畔より琵琶湖遠望1

[右上]同所にて琵琶湖を back に1

[左下]同上2

[中下]同所より琵琶湖遠望2

[右下]同上3

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[43][左上]琶湖畔より琵琶湖遠望4

[右上]同 同所て1

[左下]同 同上2

[中下]同〔彦根市大藪町〕琵琶湖を望む1

[右下]同〔同〕同上2

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13時33分「大藪橋」着

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[44][左上]琵琶湖畔〔彦根市大藪町〕琵琶湖を back に1


[右上]同〔同〕同上2

[左下]同〔同〕琵琶湖畔風景

[中下]同〔同〕琵琶湖を back に

[右下]同〔同〕「大藪橋」欄干にて

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14時08分 彦根市八坂町着

14時12分 犬上川〔彦根市八坂町〕着

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[45][左上]琵琶湖畔〔彦根市大藪町〕野瀬川に架かる「大藪橋」にて


[左下]琵琶湖畔から琵琶湖を望む

[右上]琵琶湖風景「犬上川」を back に1

[右中]同「同」同上2

[右下]同「同」同上3

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[46][左上]琵琶湖畔〔彦根市八坂町〕風景1


[右上]同〔同〕同上2

[左下]同〔同〕同上3

[中下]同〔同〕同所を back に

[右下]同〔同〕上場4

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14時55分 彦根市須越町着

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【琵琶湖畔→〔彦根市須越町→同市日夏町〕→JR河瀬駅へ】

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[47][左上]琵琶湖畔近くの田園風景を back に1


[右上]同上2

[左下]同上3

. 刈り取り間近の麦畑を back に

[中下]同上4

. 手前が田植え終了後の田圃、奥が刈り取り間近の麦畑

[右下]彦根市日夏町の家並み前を流れる用水路

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【JR河瀬駅】

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[48][左上]JR河瀬駅外観


[右上]同駅入口にて

[左下]同駅 concourse にて

[中下]同駅 platform にて

[右下]同駅→JR米原駅→JR豊橋駅→豊鉄競輪場前への時刻表

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【JR米原駅→拙宅へ】

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[49][左上]JR東海道本線「米原駅」platform にて


[右上]同「豊橋駅」platform にて

[左下]同「同」壺屋の「山かけ月見蕎麦」

[中下]同「同」同所にて「山かけ月見蕎麦」を食する小生

. 此の「山かけ月見蕎麦」が辛目の醤油出汁(だし)味が効いてホント美味いんだナァ!(^^;;

[右下]今日の歩行距離 22.9km / 歩行歩数 29,957歩

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【小生 comment】

. 雨が降ったのは、出発した豊橋だけで、米原駅以降は傘不要だった

. そして、今日も充実した 22.9km / 29,957歩を歩くことが出来た

. 次回は、JR河瀬駅→〔琵琶湖畔〕→JR能登川駅の20㎞を歩く予定である

. 距離は長くなるが、とても楽しみにしている〔了〕

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️2022/05/15 16:02時点での測定値

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[50]2022/05/15 16:02時点での測定値

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. 毎朝、腹筋と木刀素振りをしていて此の程度の数値だが、66歳6箇月で此れくらいならそんなに悪くないから、ま、いいか

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【年齢別体脂肪率】

. 男性は、女性と比べて筋肉量も体重も高い傾向にある

. そのため、体脂肪率の理想値も全体的に低め

. 男性体脂肪率の標準値(標準やや下の値)11%19%20%以上だと標準よりもやや上、10%以下だと低めと判定される

. 男性の場合は、体脂肪率が15%以下になると割れた腹筋が見えてくると言われていまる

. シックスパックがはっきり分かるようになるとされている数値は、体脂肪率10%以下

. ただし、前述したように体脂肪率が低すぎると健康に悪影響を及ぼす場合もあるので、10%がひとつの目安

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【2022/05/15/ 17:11 拙宅中庭の紫陽花の蕾】

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[51]拙宅中庭の紫陽花の蕾


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. 今年の拙宅の紫陽花の花数は少なく残念である

. でも、しっかり美しい姿を期待している

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■今日、お届けするのは、今は少し昔の物語から、【時習263-7の会 0125】〜 安保徹『50歳からの病気にならない生き方革命』である

. 今回もちょっと長文ですが、とても良いことが書いてあるので抜粋してご紹介致する

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[52]安保徹『50歳からの病気にならない生き方革命』


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【50歳以上の人は最初の破綻を切り抜けている】

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◆無理を重ねた人たちは50歳までたどり着けない

◆若さの力だけでは限界がある

◆五十歳をすぎたらこれまでの生活を振り返る

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.   (前略)誰でも50代を迎えたら、過去を振り返って、生活を改め、薬などに頼らない我が身を守る意識をもたないと危険です

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【50歳からこそ筋肉づくりが大切に】

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◆管理職になったら頑張りもほどほどに

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.   (前略)生活習慣病とは運動・食事だけでなく、働き方も含めなければ全てとは言えないのです(以下略)

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◆便利な生活でラクしている人も要注意

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.   (前略)いまの生活はほとんどが電化製品に囲まれていますので、身体の活動量は極めて少なくなっています

. そのため、怠けている訳ではないのに、筋肉を使う動作が極力抑えられているので、運動不足になる生活が普通になっています

. その結果、皮肉にも、便利さゆえに、ラクしすぎて病気になる時代なのです

.

. 筋肉がつけば骨も関節も丈夫になる

.   (前略)関節が悪い人は大抵筋肉も衰えています

. 多分一番多いのは変形性膝関節症でしょう

. 若い頃の運動不足は肥満を気にする程度で済むでしょうが、中年以降の運動不足は、身体を支える器官に障害を起こす原因になります

. 恐らく運動不足というよりも体重が重いと面倒くさいので歩かないのでしょう

. そのため、たまに歩くと、弱々しい筋肉と関節に負担がかかって、変形性膝関節症になるのです

. そうすると、ますます痛くて動けなくなります

. そうやって悪循環に入っていきます

.

. 今はさほど動かなくても生活できるようになっていますが、そういう生活に甘んじないで、意識して運動するようにしないと、身体の機能が衰えて、様々な障害が出てきます

. 筋肉と骨が弱ってくると、まずちゃんとした姿勢が保てなくなって、いろいろな歪みが出てくるのです

. その歪みが顔までくると、歯の噛み合わせが上手くいかなくなります

. 最後は噛む力までなくなってしまいます

.

◆寝たきりになると「死」に向かう

.

.   (前略)ことに高齢者は、筋肉を使わなくなると、「あっ、もう人生の幕引きだ」と身体、つまり自律神経がそう察知するので、身体を動かさなくなった時点であの世に向かって歩みを進めていきます

. しかし、ウォーキングや体操などの筋肉を使う努力を、80歳になっても、90歳になってもしていれば、まだ人生の幕引きは先だと思って、身体も動き続ける訳です

. 高齢者の寝たきりで注意しなければならないのが骨折です

. とうとう亡くなってしまいましたが、三浦敬三さん(【筆者注】プロスキーヤー三浦雄一郎の実父)は、90歳を超えてもヒマラヤスキーに挑戦したりして、老人らしくない老人でしたが、流石に骨折して寝たきりになると持ちこたえられませんでした

.   (中略)鍛えているとはいえ、101歳の高齢でしたから、寝たきりになるとすぐに衰えたのだと思います(以下略)

.

◆意識して身体を動かさないと危険

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.   (前略)50代、60代になって身体を動かさなかったら、あっという間に機能が低下して、本当に動けなくなります

. 意識してこまめに身体を動かさないと危険です

. 定年退職する60歳から65歳頃を境目に、努めて身体を動かす努力をしないと、健康は保てません

. もう働くだけ働いたから少しラクさせて貰おうと思ったら、一気に老け込んでしまいます

. そうは考えずに、趣味でも何でもいいから見つけて、相変わらずこまめに動いている人は、65歳や75歳でも溌溂としています(中略)

. 高齢者にとって心配の種になっている骨粗鬆症と認知症は、身体と頭を使わない病気です

. 薬で治すのは無理でしょう(以下略)

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【筋肉からの発熱が活力を生む】

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◆筋肉からの発熱エネルギーが活力の素(もと)

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. 元気なお年寄りは活動が活発です

. 元気だから動き回っているのではありません

. 身体を動かしているから元気なのです

.

. 身体を動かして筋肉を使うと、代謝を高めて発熱します

. 活動も発熱を促しますが、大量の筋肉を身につけているだけで発熱します

. この発熱のエネルギーが活力の素なのです(以下略)

.

◆筋肉を使った活動には睡眠が大切

.

. 活動するためには睡眠が大切です(中略)

. 私たちは進化で得た筋肉を使ってやると、快い疲労が訪れ、本当の休憩に繋がって、夜ぐっすりと眠る世界に入っていきます

.   (中略)普段から運動している人は徐脈(脈がゆっくりになっている)です

. 真の安らぎの体調はこうして生まれるのです

.

. そのためには早寝早起きの習慣が大事です(以下略)

.

【著者紹介】

. 阿保徹氏は、昭和22年生まれ

. 東北大学医学部卒

.

【筆者comment】

. 我々の様に50歳を超えたら、仕事はなるべく無理をせず、身体は積極的に動かして体力を維持していくこと、これが健康で若々しく長生きしていく秘訣でしょうか

. 毎日少しでもいいから、コツコツ実践して行きたいですね(了)

.

【後記】此処迄ご紹介して、掲載したい記事の約半分だが、余りに長文になって仕舞うので、今回は此れにて締め括ることにする

.

. では、また‥(了)

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