2020年8月10日月曜日

【時習26回3−7の会 0824】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第42回/第401句~411句〕」「【2637の会】blogから【クラス会全14回の記念写真集〔2006~19年〕】と【07月の想い出】[追補]2012年」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第12回〕『象潟2』」「08月09日:『孫たちとの暫しの再会』『小生の手料理/豆腐 spaghetti』」

 
 
 
 
■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0824】号をお届けします。
 
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第42回/巻之四~第401句~410句〕」をご紹介する。

   暮秋

401 なにとなく植(うゑ)しが菊(きく)の白(しろ)き哉(かな)  巴丈(1)

【意】例年の習慣で春に植えた菊の苗が、秋になり、今、清楚な白い菊の花を咲かせている / 美しい白さだ
【解説】季語:菊=三秋 /
(注1)巴丈(はじょう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 支考の門人 /『あら野』『続猿
蓑』等に入句

402 しら菊(ぎく)のちらぬぞ少(すこし)(くち)(=)しき  昌碧(1)

【意】白菊をはじめ菊花は桜花の様には散らず、枯死する / 白菊の美しさに何の不満もないが、此の散らずに色褪()せて枯れるのが惜しい処だ
【解説】季語:しら菊=三秋 /
(1)昌碧(しょうへき(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 貞亨0411月『笈の小文』の旅の折、蕉門に入る /『あら野』等に入句

403 山路(やまぢ)のきく野菊(のぎく)とも又(また)ちがひけり  越人(1)

【意】清楚な野菊もいいが、山路の菊はまた違った趣がある / 凛然として世俗から超越した仙人を想像させる
【解説】季語:野菊=仲秋、菊=三秋 /
(1)越智越人(おち えつじん(1656-?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸迄同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 / 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜國を尋ねた際も越人が同行

 404 一色(ひといろ)や作(つく)らぬ菊(きく)のはなざかり  暁鼯(1)

【意】路傍に咲いた野菊の群生(=叢菊(むらぎく)) / 一本/\の菊花は痩せて貧相かもしれないが、一斉に花開いた叢(むら)の姿はいいものだ / 人為の庭の菊花より矢張り優れているヨ
【解説】季語:菊のはなざかり=秋 /
(1)暁鼯(ぎょうご(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』に二句入集

荷兮が室(しつ)に旅ねする夜()、草臥(くたびれ)なを(=)せとて、

(はく)つけたる土器(かはらけ)(いで)されければ

【前詞解説】
 其角は、上方への旅の途次、917日に鳴海の地足亭着、同夜は名古屋の荷兮邸に宿泊 / 前詞は其の事を述べている

405 かはらけ(1)の手()ぎは見()せばや菊(きく)の花  其角(2)

【意】旅の疲れをとる様にと、主人の心遣いで、金箔を置いた土器に酒をなみなみとついで出された / では頂戴して、確り飲み干し、美しい土器の菊花の様な輝きを人文に拝見しよう
【解説】季語:菊の花=三秋 /
(1)かはらけ:「土器」だが此処では陶器 / 菊の花またはそれに似た文様が描かれていたのであろう

(2)宝井其角(たからい きかく(寛文元年0717(1661.08.11)~宝永040229(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝

406 (きく)のつゆ凋(しをる)る人(ひと)や鬢帽子(びんぼうし)(1)  同

【意】菊の露に濡れた風情には、清らかさと諸事意に任せぬものの、凛とした矜持を感じさせるものがある
【解説】季語:菊のつゆ=秋 / 其角の句には、こうした含蓄ある句が少なくない
(1) 鬢帽子(びんぼうし):鉢巻をして結んだ端を鬢の所へ垂らしたもの

407 けふになりて菊(きく)(つくら)(=)とおもひけり  二水(1)

【意】いま、周囲は菊の満開の時期 / その美しさを見るにつけ、今改めて菊を作りたくなった
【解説】季語:菊=三秋 /
(1)(にすい(生没年不詳)):人物については詳細不詳

408 かなぐりて蔦(つた)さへ霜(しも)の塩木(しほき)(1)(かな)  伊豫 千閣(2)

【意】塩木の材に巻き付いていた蔦をひきむしろうとすると、一面に降りた霜の為に、すっかり凍りついていて、手も氷るばかりである
【解説】季語:蔦=三秋、霜=三冬 /

(1)塩木(しほき):塩を作る為の塩竃に焚く木のこと
(2)千閣(せんかく(生没年不詳)):伊予国の人 /『あら野』等に入句

409 (さび)しさは橿(かし)の實()(おつ)るね覺(ざめ)(かな)  濃州 蘆夕(1)

【意】樫の実は晩秋に熟れて落ちる / 其の橿の実の落ちる音に目を覚ました / 冬近きことを感じ、老境の寂しさを実感する
【解説】季語:橿(かし)の實()=晩秋 /
(1)蘆夕(ろせき):美濃国の人という以外に不明

410 残る葉()ものこらずちれや梅(うめ)もどき(1)  加生(2)

【意】梅もどきの木に葉が散り残っていることが、行く秋を惜しむ我が心を掻き立て、晩秋の趣を深めている
【解説】季語:梅擬(うめもどき)=晩秋 /
(1)梅もどき(ウメモドキ):梅によく似た葉をつける落葉の矮性樹木 / 秋になって小さな赤い実をつける /紅葉が美しい

(2)野沢凡兆・加生(のざわ ぼんちょう・かせい)(1640(?)-1714)):加賀国金沢の出身と伝わるも詳細不祥 / 元禄元(1688)年『笈の小文』の旅を終え在京の芭蕉会い、妻とめ(後、剃髪し羽紅尼)と共に蕉門に入門 / 元禄04(1691)年 芭蕉の命で向井去来と共に『猿蓑』の共撰者に / 俳号は、はじめ加生(かせい)、元禄4年頃より凡兆を名乗る / 越智越人が「洛の凡兆は剛毅なれば」(『猪の早太』)と評する如く、自我意識強い人物だった様で、既に元禄04年頃より芭蕉と距離を置き、終には離れた / 各務支考の『削かけの返事』に拠れば、岡田野水、越智越人が、凡兆を語らって芭蕉に八十村路通を讒訴し、芭蕉の不興を買ったとされる / 此の後、凡兆は罪に問われて投獄され、零落した晩年を過ごし、正徳04(1714)年春、大坂にて没したと伝わる / 写生派俳人として、現代俳句を確立した正岡子規や「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した高濱虚子は凡兆の俳句を高く評価している

411 (あし)の穂()やまねく哀(あは)れよりちるあはれ  路通(1)

【意】芦の穂が風に靡(なび)く様は哀れ深いものだが、更に芦の穂が終に散っていく様は一層哀れを感ずる
【解説】季語:芦の穂=晩秋 /
(1)八十村路通(やそむら ろつう)(?-1738)(享年90)):八十村氏 / 別称:露通 / 近江大津の人 / 三井寺に生まれ、古典や仏典に精通 / 放浪行脚の乞食僧侶で詩人でもあった / 後年に還俗 / 貞亨2年春に蕉門に入門 / 貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したらしい /『奥の細道』 では、当初芭蕉の同行者の予定であったが、曾良に変更されたが、理由は不明 / 代わりに、路通は敦賀で芭蕉を出迎え大垣まで同道、その後も芭蕉に同行を続け、元禄313日迄、京・大坂で生活を共にする / 芭蕉は陸奥へ旅立つ路通に「草枕まことの華見しても来よ」と説教をした餞の句を詠んでいる

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から 巻之五〔第43回/第412句~420句〕をご紹介する。お楽しみに!


■続いては、此れ迄の【2637の会】blogから【クラス会全14回の記念写真集[200619年〕】」と【07月の想い出】[追補]2012年 をお届けする

【時習26回3-7の会《クラス会》】

[01]2006年0812


[02]2007
0811


[03]2008
0816


[04]20090815

 

[05]20100815


[06]20110813


 

[07]20120812


[08]20130811


 

[09]20140817

 

[10]20150815

 

[11]20160820


[12]20170812

 


[13]2018
0812


[14]2019
0811

 

 

07月の想い出】[追補]2012

 日付は08月になったが、まだ2012年の【07月の想い出】をご紹介していなかったのでご紹介したい

 時習26回生のミニミニ【1-4】のクラス会の模様についてである

 2012714()【時習26回3-7の会 0402】~〔前略〕「0707日:『時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで‥』開催報告」

 ↓ ↓ ↓

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/07/26-0402262012-p.html

 【時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで】

■〔前略〕『時習26回【1-4】ミニミニクラス会‥故・山田H君を偲んで‥』についてである

 本《クラス会》は、掲題・副題にある様に『故・山田H君を偲んで』開催したものである

 本会に至る経緯(いきさつ)を述べると以下の通り‥

 実は小生、(2012)06月初旬夜09時過ぎだったと思う

 私用で名古屋へ行った帰途上、JR東海・名古屋駅改札口で「おいっ、悟君!」と first name で小生の名前を呼ぶ、何処かで聞き覚えのある声が聞こえて来た

 (誰だろう?)と思い、声がした方を振り向くと、実に懐かしいではないか! / 宮田T(時習26回【3-2】)が立っていたのだ

 再会した時間から言って‥、勿論、彼は仕事の帰りだという

 彼とは時習26回の同期で、旧【1-4】と【2-8】で classmate

 更に、大学法学部まで同窓同期の間柄にある

 彼とは、毎年年賀状の遣り取りをしているので音信はあるのだが、もう十何年会っていない

 実を言うと、この宮田T【3-2】君に、安形S君&故山田H君【3-1】、飯田H君【3-2】、水藤T君【3-6】、そして小生を合わせた6人組が、全員、時習26回【1-4】の classmates

 ついでに言うと、飯田・水藤・宮田・山田・小生の5人は【2-8】でも classmates

 この六人組は、不思議と馬が合った仲間であった

 其処で僅かな時間の立ち話乍ら、久し振りに『全員集合』することで意見が一致 / 5人全員の日程調整をして0707日の《ミニミニクラス会》となった訳である

 こうなると、此処でも幹事役を引き受けた小生、「折角だから女性陣がいた方が《クラス会》が華やいでいいよな」という思いに至った

 其処で、同じ【1-4】の classmate の林K子さんにお願いして都合をつけて頂き、計06人の集いとなったという次第である

 添付写真[01]がその【1-4】の全体写真である

 安形・飯田・石川・市川・今泉()(今泉)T(今泉)F / 岩瀬・岩田・梅田・太田・大矢・越智・河崎 / 相楽・白井・杉浦・水藤・(鈴木)K(鈴木)T(鈴木)H / (鈴木)Y・中嶋・波田野・花井・藤川・星野 / 前田・南谷・宮田・村田・森・山田 / 山本・渡辺・伊藤(Ky)(伊藤)Ke・小笠原・河合(S) //(河合)M・内藤・林・細沢・本田・渡辺

 小生、入学当時の【1-4】の模様を鮮明に覚えている

 此れは、高校卒業後の10年余りに亘り、【1-4】の幹事を引き受け、同クラス会開催をずっと coordinate してくれていた岩瀬君【3-4】の貢献が大きい!

 だからか、小生【1-4】の45人の classmates の名前を今でも諳んじることが出来る

 因みに、入学直後の席順は上記名簿順だった / 具体的には、南(職員室)側から北(校庭)側へ、西(教壇)に向かって縦07人×03列、次いで縦06人×04列の計07列が並んだ / 上記名簿の[/]が縦01列の句切れである

 でも【1-4】の classmates は、この 45人のうち、河崎・(鈴木)T彦・村田・山田の4(20200731日現在では、岩田君も加えて5人!)が、全体写真に写っている副担任・内藤KM(愛称:ポケット)先生と共にもう彼岸に行って仕舞っている / 更に言えば、最近は広田先生とも音信不通だ / 41(20200731日現在では49)の歳月はやはり隔世の感がある

 更に余談である‥

 故・山H君を含めたこの我等06人の仲間は、主に高校卒業後も数年間の付き合いがあった / 中でも高校卒業後3年連続で一緒に国内旅行をしたことが、今ではとても楽しく懐かしい貴重な思い出になっている / 3つの旅行とは以下の通りである

 1. 昭和49081114日:【萩・津和野旅行】(参加者:安形・飯田・水藤・山田・小生)

 2. 昭和5008月?~?日:【四国旅行(松山道後温泉・足摺岬他)(同上:安形・水藤・宮田・山田・小生)

 3. 昭和52031422日:【九州旅行(長崎市街・平戸・島原・熊本城・阿蘇山・大分市・小倉・鹿児島市(鶴丸城・桜島))・宮崎(青島)(同上:安形・飯田・水藤・宮田・小生)

 最初の2つの旅行について、小生は記念写真を貼ったalbumをかなり以前から見失っている / 思うに、銀行員時代、十数回転勤・転居を繰り返しているうちに紛失して仕舞った様だ / 其処で本稿では、飯田・水藤両氏に確認出来たことを加えて記している /以上、余談

 三回の旅行の中でも、最後の89日の【九州旅行】は半分が車中泊の強行軍で、内容も極めて maniac で豊富であった

 其れは、故・山田&水藤両君がかなりの鉄道maniaであった為、彼等の collaboration に拠る綿密な()計画により、【九州旅行】の移動手段である汽車・列車や路線の随所に「こだわり」が施してあったのである

 例えば、「阿蘇から大分を経由して日豊本線で鹿児島」へ行く処、大分からわざわざ日豊本線を北上して「小倉」まで戻って「小倉からまた大分を通って鹿児島」へ行った具合に‥ / まぁ、鉄道に関心の薄いあとの4人にとっては極めて不可解な旅でもあった訳だが‥()

 今だから改めて思うことなのだが、故・山田&水藤両君に心から感謝している

 其れは、もう一生で二度とない様な貴重な経験をさせて頂いたからだ

 具体的には、「肥薩線の大畑(おこば)の『ループ線&スイッチバック式』」と「豊肥本線の立野の『スイッチバック式』」を経験出来たこと等である

 勿論、乗っていた時は、「『ループ線』はただトンネルの中を通っているだけ」であったし、「『スイッチバック式』では「ちょっと前進しては今度はちょっとbackする」‥此の繰り返し」で、「だからどうしたっていうの?」って感じではあったが‥()

 ただ、この楽しかった【九州旅行】で一つ大変残念だったことがある

 其れは、この旅行を計画を立案して一番楽しみにしていた故・山田君当人が(その理由は忘れたが)、参加していないということだ

 天国でもきっと「あの時無理してもみんなと行っときゃ良かった」とボヤいているかも‥()

 添付写真の《ミニミニクラス会》会場で再会した6人はご覧の様に大変若々しく至って元気!

 無茶苦茶楽しい4時間(18:00-22:05)を過ごすことが出来た

 此れが《ミニミニクラス会》最後の余談‥

 週明けに宮田君から《クラス会》幹事の小生宛にお礼のmailが届いた

 宮田君に了解を頂戴していないが、とてもいい文章なので、文脈がズレない程度に一部省略修正してご紹介する

「どうもご苦労様でした

 相変わらず、我々の毒舌にもよく耐えて頂いて感謝、感謝です

 恐らく、天国では、山田君が若干の怒りを吐きながらも、聞いていたのではないでしょうか

 〔中略〕土曜日(=開催した【1-4】ミニミニクラス会=)の様に、屈託なく笑い合えるという〔中略〕、大変楽しいというか、違った世界で飲むことができて、悟君に感謝してます

 どうも、ありがとうございました」

【小生comment

 こういう慰労の言葉を頂戴すると、万年幹事をやっている甲斐があります!(^-')b/

 前《会報》で、姜尚中氏が「第八章 なぜ死んではいけないか‥何が生きる力になるのか」の中で言っていた以下の言葉と通じる処がある

 『「人は一人では生きられない」とよく言います

 〔中略〕自我を保持していく為には、やはり他者との繋がりが必要なのです

 相互承認の中でしか、人は生きられません

 相互承認に拠ってしか、自我は有り得ないのです。』

 小生にとって、【2637の会】membersの皆さんをはじめとする時習26回の同期の仲間達が頼りです

[15][左上]時習26回【1-4】全体写真〔197104月撮影〕


 [右上]同【2-8】同〔197204月撮影〕

 [左下]同【1-4】お別れ会での故・山田H君〔於:豊橋動植物公園(197203)

 [中下]【九州旅行~『島原外港⇒三角へのフェリー甲板にて安形君()と小生』】197703

 [右下]【九州旅行~『阿蘇山河口付近での4(宮田・飯田・水藤・安形)】同上


[16][
左上]【九州旅行~『鹿児島城山公園の西郷高盛像の前にて(飯田・小生・水藤・安形)』】同上

 [右上]【九州旅行~『同上(飯田・水藤・安形・宮田)』】同上

 [左下]時習26回【1-4】ミニミニクラス会での全体写真〔その1〕20120707

 [右下]同上〔その2〕同上

【後記】今日のお別れは《クラス会》をimageしてつくった拙歌を二首お届けします

  憧れのひとのその後を聞きしかば 心ときめく我が幼さよ  悟空

  盂蘭盆に口角沫を飛ばし合ふ 友と場のある幸(さち)を噛み締む  悟空

【宮田君からの Facebook comment

 詳細な経過説明と本人も忘れているメールの引用、ありがとうございます

 クラスの写真や山田くんの写真を見ると感無量です

 旅行の写真は、当方も有りました

 そうそう、先日来、古い我が家の改築をしていたら、大学時代に悟くんから借りたノートのコピーが出てきました

 その節は大変お世話になりました

 私が卒業できたのも貴方のお陰です!

 それと岩田さんも亡くなられたのですか?知りませんでした(合掌)

 

■今日最後の話題は、0720日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第12回〕をご覧頂きたい

 今日は、昨日お伝えした2018年から3年遡って20150808()付【時習26回3-7の会 0560】から、先ず「松尾芭蕉『奥の細道』第12回‥【象潟2】」についてお伝えする

 20150808()付【時習26回3-7の会 0560】~〔前略〕「『奥の細道』第12回‥【象潟2】」〔後略〕

  ↓ ↓ ↓

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com//08/26-056026379120.html

■さて、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第12回目についてである

 先ず、芭蕉と曽良の行程を前回と少し重複させてお示しする

 六月十三~十四日(新暦072930)と酒田の淵庵不玉の玄順亭〔=推定〕に連泊した後、象潟を目指して北上、吹浦へ

 〔新暦0729日:少し雨降りて止む/新暦0730日:暑甚だし〕

 六月十五日(新暦0731) 吹浦(ふく())、宿記載なし〔朝より小雨、昼前より雨甚だし〕

 六月十六日(新暦0801) 塩越、能登谷佐々木孫左衛門宅に翌十七日(新暦0802)2泊す

 〔新暦0801日:雨降り出る、雨強く甚だ濡る/新暦0802日:朝小雨、昼より止みて日照る〕

 六月十八~二十四日(新暦080309)【象潟2】から帰って来た‥→玄順亭(=伊東玄庵=淵庵不玉)(推定)7泊す

 〔新暦0803日:快晴、アイ風吹く/新暦0804日&05日:快晴/新暦0806日:快晴、夕方曇、夜に入り村雨して止む/新暦0807日:曇、夕方晴/新暦0808日:晴/新暦0809日:朝晴、夕より夜半迄雨降る〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 前回の【象潟1】では、芭蕉と曽良が六月十五日(新暦0731)に「酒田」を出発して象潟へ向かうこと10

 具体的な宿泊地名は記していないが、雨が降る中、「酒田」を出発した其日の夕方には象潟近く迄来た様に『奥の細道』では記している

 そして、その象潟近くの蜑の苫屋に宿泊して翌日、象潟が晴れ上がるのを待った、となっている

 処が、実際には、「酒田」を出発してその日は「吹浦」に泊し、翌日は更に北上して象潟近く「塩越」の能登谷佐々木孫左衛門宅に泊した

 その翌日が、今回お届けする【象潟2】である

 芭蕉にとって「象潟」は、「松嶋」と対極を成す『奥の細道』における待望の目的地

 文面も、漢詩・和歌・故事等を踏まえ、対句的表現を多用して、かなり力の入ったものとなっている

 今回は、「象潟」の名場面を名句と共にジックリとお楽しみ下さい

 ※ ※ ※ ※ ※

【象潟2】1

[17][]『象潟』九十九島


 [
左下]合歓の花1

 [中下]西施

 [右下]合歓の花2

《原文》

 其朝(そのあした)天能(よく)(はれ)て、朝日花やかにさし出(いづ)る程に、象潟(1)に舟をうかぶ

 先(まづ)能因島(のういんじま)(2)に舟をよせて、三年幽居(3)の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ(4)」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす

 江上(こうしょう)に御陵(みささぎ)あり

 神功皇宮(じんぐうこうぐう)(5)の御墓と云(いふ)

 寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)(6)と云(いふ)

 此処(このところ)に行幸(みゆき=ぎょうこう)(7)ありし事いまだ聞(きか)

 いかなる事にや

 此寺の方丈に座して簾を捲(まけ)(8)、風景一眼の中(うち)に尽(つき)て、南(9)に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江()にあり

 西はむやゝゝの関(10)、路(みち)をかぎり、東に堤を築(きづき)て、秋田(11)にかよふ道遙(はるか)に、海(うみ)北にかまえて、浪打入(うちい)る所を汐こし(12)と云(いふ)

 江の縦横一里ばかり(13)、俤(おもかげ)(14)松島にかよひて、又異(こと)なり

 松島は笑ふが如く(15)、象潟はうらむがごとし(16)

 寂しさに悲しみをくはえて、地勢(ちせい)魂をなやます(17)に似たり

  象潟や雨に西施(18)がねぶの花(19)

《現代語訳》

 次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟(1)に舟に乗って出た

 まず能因法師縁(ゆかり)の能因島(2)に舟を寄せ、法師が三年間静かに隠れ住んだという庵(3)の跡を訪ねた

 それからその向こう岸に舟をつけて島に上がり、「花の上こぐ(4)」と詠まれた桜の老木が西行法師の記念を残している

 水辺に御陵がある

 神功后宮(5)の墓ということだ

 寺の名前を干満珠寺(6)という

 しかし神功后宮がこの地に行幸(7)したという話は今迄聞いたことがない

 どういうことだろうか?

 この寺にて表座敷に座り、簾(すだれ)を巻き上げて(8)眺めると、風景が一眼の許に見渡せ、南(9)には鳥海山が天を支える様に聳(そび)えており、その影を象潟の入江に映している

 西に見えるはむやむやの関(10)があり道を遮っており、東には堤防が築かれていて、秋田(11)迄続く道が遥かに続き、海が北に構え、波が入江に入り込む辺りを汐越(12)と言う

 入江の広さは縦横夫々一里程(13)で、その景色(14)は松島に似ているが、又全く違う処もある

 例えるならば、「松島」は美人が微笑んでいる様である(15)し、「象潟」は(美人が)深く憂いて沈んでいる様(16)である

 寂しさの上に悲しみ迄加わり、その土地の様子は、深い憂いを湛えた美人の面影に何処か似ている(17)

【意】雨に煙る「象潟」は、悩める美女「西施」を想わせる「合歓の花(19)」の風情と通い合い、美しくも寂しさ深めている

 季語:「ねぶの花」‥夏

 合歓木(ネムノキ)は、落葉高木/葉は羽状複葉で、夜になると閉じて垂れることからこの名がある / 7月頃より開花する

 芭蕉は、象潟の雨に煙る景色の中に濡れそぼつ「合歓花」を見て、眉を顰め目を閉じて憂い沈んでいる「西施」を連想した

 「西施」が「ねぶ(=(ねむ))」る‥「ねぶ(=合歓(ねむ))」の花‥が掛け言葉であることは言う迄もない

 因みに、この句の初案は、「象潟の雨や西施がねむの花」であった

 芭蕉も、名歌だからこそか、色々推敲していると見え、「象潟や雨に西施がねぶの花」が最終形になった

(1)象潟:『奥の細道』の旅のうち、最北の地/現秋田県由利郡象潟町

 酒田の東北約50kmに位置する/歌枕

 松島、平泉と並んで『奥の細道』の旅の主要な目的地の一つ

 鳥海山の北西に広がっていた入江状の多島潟であったが1804(文化元)年 地震で湖底が隆起して陸地となった

 現在は畑の中に転々と地面が隆起し、当時の面影を残している

(2)能因島:能因法師が三年間隠栖したという潟中の島/蚶満寺の南約500mにある

 『奥の細道』では「白河の関」で能因の歌が引用され、「武隈の松」で能因の陸奥に旅した時のepisodeが語られている

(3)三年幽居:能因法師が象潟に隠棲したことは事実とみていいが、3年幽居したという確証はない

(4)花の上こぐ:「象潟の桜は波に埋(うずも)れて花の上漕ぐ蜑(あま)のつり舟」(伝 西行歌/淵庵不玉『継尾集』)

 しかし、西行が象潟を訪れたことも、この歌が西行のものであるかも、確証がない

 又、越前丸岡 蓑笠庵梨一撰『奥細道菅菰抄』に拠ると、

 「花のうへこぐと詠まれし桜は、干満寺の境内、地蔵堂の前の汀(みぎわ=水際)に、水面へさし出てあり

 古木は枯て、今は若木なり/西行の歌に、きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟/(後略)」とある

(5)神功后宮:神功皇后。第14代仲哀天皇の皇后/息長帯比売(おきながたらしひめ/古事記)

 伝説的な人物で実在は定かではない

 淵庵不玉著『継尾集』に神宮皇后と干満珠寺の関係についての云い伝えを次の様に記している

 「抑ゝ(そもそも)神宮皇后百済国(くだらのくに)の夷(ゑびす)をしがたへ、

 日の本(もと)に軍(いくさ)をかへしおはしますとき、

 波風にはなたれたまひ、此(この)島に暫くうつろひたまひぬとかや

 其後(そののち)、其処には八幡宮を安置し、今に神ゝし奉りけるなり

 然るに、皇后尋常御肌にいだかせ給ふ干満(かんまん)のニ珠によそへ、皇后山干満珠寺とはつたへ侍るとかや

 いつのころよりかの虷の字になし侍りけむ、いといぶかし

 しかし、此潟に虷(キサ)といふ貝あまた侍れば、かくいえりけるにや」

 この伝説では、「御陵=御墓」ではなく、「八幡宮」(‥を安置し‥)とある

 芭蕉は、この後『奥の細道』では「敦賀」の章で仲哀天皇を祭る気比明神を訪ねている

(6)干満珠寺(かんまんじゅじ):現・秋田県由利郡蚶満寺(かんまんじ)/現・羽越線「象潟」駅の北方1,5kmに位置する

 前掲『継尾集』に次の様に記されている

 「水に臨(のぞめ)る一宇(いちう)の禅刹は皇后山虷満種寺と額(がく)し侍るなり」

 象潟島にあった皇宮山虷満寺/仁寿03(853)年 慈覚大師の再興

 はじめ天台宗/後、北条時頼の時、曹洞宗の寺となった

(7)行幸(みゆき=ぎょうこう):天皇の外出されること/皇后の場合、正しくは「御幸(みゆき)

(8)簾を捲(まけ)ば:「垂れ下げてある簾を巻き上げる」意

 淵庵不玉『継尾集』の不玉の文中に「月のあかき夜方丈に簾をあぐれば、巫山(ふざん)の十二峯底に望み‥」とある

 芭蕉は、この『継尾集』から引用したという説

 又、初唐の詩人 王勃『滕王閣』の頷聯第二句「【珠簾暮捲西山雨】珠簾(しゅれん)暮に捲く 西山の雨」に拠ると言う説

 更に、枕草子にも引用されている白居易の著名な七言律詩『香炉峯下新卜山居草堂初成偶題東壁』の頷聯第二句「【香炉峰雪撥簾看】香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」に拠ると言う説、等がある

[18]滕王閣

  滕王閣     王勃(おうぼつ)(649?-676?)

 滕王高閣臨江渚 滕王の高閣 江渚(こうしょ)に臨み

 佩玉鳴鸞罷歌舞 佩玉鳴鸞(はいぎょくめいらん)歌舞(かぶ)()

 畫棟朝飛南浦雲 画棟(がとう)(あした)に飛ぶ 南浦(なんぽ)の雲

【珠簾暮捲西山雨】珠簾(しゅれん)暮に捲く 西山の雨

 閑雲潭影日悠悠 閑雲潭影(かんうんたんえい)日に悠悠

 物換星移幾度秋 物換(かわ)り星移りて 幾度(いくたび)の秋ぞ

 閣中帝子今何在 閣中の帝子 今何(いず)くにか在る

 檻外長江空自流 檻外(かんがい)の長江 空しく自ら流る

【意】滕王の楼閣は渚の辺(ほとり)に建てられ

 其処で佩玉(=腰に下げる玉)や鸞(=車につける鈴)を鳴らして貴族たちが歌い踊ったのも今は昔のこととなった

 毎朝美しく色づけられた柱の間から南浦の雲が浮かぶのが見え

【夕方には朱色の簾(すだれ)を巻き上げて西山に降る雨を眺めることが出来た】

 静かに流れる雲や、悠久の水を湛えた深い淵に映える光は日々ゆっくりと流れてゆき

 万物は移ろい幾多の星霜を経て何度の秋が過ぎていったことだろうか

 この楼閣にいた滕王は今は何処へ逝って仕舞ったのか?

 ただ手摺りの向こうに見える長江だけが空しく流れる続けるばかりである

 ※ ※ ※ ※ ※

  香炉峯下新卜山居草堂初成偶題東壁  白居易(772-846)

   香炉峯下 新に卜して山居の草堂初めて成り 偶(たまたま)東壁に題す

 日高睡足猶慵起 日高く睡り足りて猶お起くるに慵(ものう)

 小閣重衾不怕寒 小閣に衾(しとね=きん=ふすま)を重ねて寒さを怕(おそ)れず

 遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き

【香炉峰雪撥簾看】香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る

 匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便ち是れ名を逃のがるるの地

 司馬仍為送老官 司馬は仍()お老を送るの官たり

 心泰身寧是帰処 心泰く身寧きは是れ帰する処

 故郷可獨在長安 故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや

【意】日が高く上る迄十分眠ったというのに、それでも起きるのがけだるい

 小さな部屋ではあるが、掛け布団(=)を重ねているので寒さは大したことはない

 遺愛寺の鐘の音を、聞くともなく聞いている

【香炉峰に降る雪は、簾(すだれ)を一寸上げて見てみる】

 思えば、廬山は煩わしい俗世間の名声・名誉から逃れるには持って来いの地だ

 現在の司馬という官職は、老後を送るには相応しい職である

 心が落ち着き、体も安らかになる、それこそ自分が落ち着くべき土地なのでる

 故郷というものは、何も長安だけにあるのではない

(9)南:南→実際の方角は東南/以下、西→南西、東→北東、北→西に当たる

(10)むやゝゝ(=むやむや=うやむや)の関:歌枕/「むやむやの関」は有耶無耶(うやむや)の関ともいう

 一般には、福島・米沢間の笹谷峠にあった関をいう

 しかし、此処では『曽良旅日記』六月十六日の条に、小砂川・塩越間に「関ト云(いふ)村有(あり)

 ウヤムヤノ関成(なり)ト云(いふ)」にある

 即ち、象潟の南約4kmにあった現・象潟町字関を指している

(11)秋田:現・秋田市/久保田藩(=秋田藩)

 初代:佐竹義宣(1570-1633)2代:義隆(1609-72)3代:義処(よしずみ)(1637-1703)

 新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流/武田氏に代表される甲斐源氏と同族

 関ヶ原の戦では中立/戦後、常陸国54万石→1602年 出羽国(秋田・仙北)へ移封(=当初は石高を未明示の儘)

 寛文4(1664)42日付で205,800(→後、実高40万石へ)と決定

 芭蕉が当地を訪れた時は、久保田藩第3代藩主佐竹義処の時代

(12)汐こし:象潟の西、日本海の海水が象潟の入江に流れ込んでいた所で、当時の村名

(13)江の縦横一里ばかり:入江は東西20余町(2㎞強)、南北30余町(3km)の広さだったという / 松島の章の「江の内三里」に対応する

(14)(おもかげ):象潟の風景を擬人法で記している

(15)松嶋は笑ふが如く:太平洋岸の風景の明るい感じの擬人法的叙述

(16)象潟はうらむがごとし:「うらむ」は、悲しむ、憂える、裏日本一帯の一種沈鬱な趣ある風景の擬人法的叙述

(17)地勢(ちせい)魂をなやますに似たり:「地勢(=土地の様子)」を「人」に例え、

 その「人」が「魂をなやますに似たり」と御述べたもの

 此処でいう「人」とは「松島」の章の「其気色、窅然(えうぜん)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ」に対応する

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com//06/260554263760613.html〔←《会報》【0554】〕ご参照

(18)西施:中国春秋時代の越国の伝説的な美女

 越王勾践(?-465B.C.)が呉王夫差(?-473B.C.)に敗れた時、呉王夫差の許に送られた

 呉王夫差は西施の美しさに国政が疎かとなり、国が弱体化し滅亡へ向かった

 心に病み、顔を顰めた様が美しかった為国中の女達がそれに倣い「西施の顰(ひそみ)」という言葉故事が生まれた

(19)合歓(ネム)の花:合歓木(ネムノキ)/淡紅色の花をつける(添付写真[03]参照)

 美女西施が「ねむる」に掛けて、悩ましい感じを出している

【象潟2】2

[19][]ミサゴ

 [右上]獲物の魚を目掛けて水の中に飛び込む瞬間のミサゴ

 [右下]獲物の魚を捕まえた直後のミサゴ

《原文》

  汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 祭礼(20)

  象潟や料理なにくふ神祭り 曾良

  蜑(あま)の家()や戸板(といた)を敷(しき)て夕涼(ゆふすずみ)
                       
 みのの国の商人 低耳(ていじ)(21)

  岩上に雎鳩(みさご)(22)の巣を見る

 

  波こえぬ契(ちぎり)(23)ありてやみさごの巣 曾良

《現代語訳》

【意】汐越の浅瀬に舞い降りて餌をあさる鶴の長い脚(=(すね))が海水に濡れて、如何にも涼しげだ

 衣が短く脛(すね)が長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、当に本家本元の「鶴はぎ」だヨと感心した

 季語:「涼し」‥夏六月

 本句は、本文の「海北にかまえて浪(なみ)打ち入る所を汐こしと云(いふ)」を受けたもの

 初案は「腰長汐(こしたけしほ)/ 腰たけや鶴脛(はぎ)ぬれて海涼し」であった

 恐らく『奥の細道』執筆時に、本文との関連性を高めるべく「汐越や‥」に改めたとみられる

 丁度、熊野権現のお祭り(20)に出くわした。

【意】汐越の熊野権現の祭には魚を食べぬそうだ

 折角の祭に一体何を食べるのだろうか   曽良

 季語:「神祭」で夏四月

 芭蕉と曽良は、丁度汐越村の鎮守熊野神社の「祭礼」の日に来合わせ、本句を残した

 淵庵不玉『継尾集』に「神事の日まいりあひけれバ/

 虷(きさ)潟や幾世になりぬ神祭り 曽良」とあるので、これが初案の様である

 この初案は、能因法師の「あめにます『豊をか姫』にこととハむ いく世になりぬ きさかたの神

 『歌枕名寄』『松葉集』」を本歌としている

 そして、本歌が「いく世となりぬ」と「『豊岡姫』に『こととふ(=尋ねる)』」=質問していることを踏まえ、

 芭蕉が次の様に改めたものとみられる

 即ち、初案の中七が「いく世になりぬ」が本歌と全く同じであったので、

 『料理何(なに)くふ』と質問した形に改作した

 更に云えば、『豊岡(=をか)姫』は「食物を司る神」である為『料理何喰う』と

 「食物に関する質問」に言い換えたとみたい

 芭蕉という一流の俳人としての腕前の凄さは、

 極めて高い教養に裏打ちされた事柄が幾重にも僅か十七文字に摺り込む様に詠み込まれている奥深さにある

【意】象潟の漁村(=漁師達の家々)では、海辺に戸板を敷き並べて夕涼みをしている

 これも風流なことだ  低耳(21)

 季語:「有涼」‥夏六月

 「象潟や 蜑(あま)の戸を敷(しく) 礒涼(いそすずみ) 美濃岐阜弥三郎 低耳」が初案

 下五を「夕すゞミ」『継尾集』とする句形が再案

 「戸板」は雨戸のこと/素朴な、夏の夕暮れ時の漁村の情景に興趣を覚えての作品

 岩の上に雎鳩(ミサゴ)(22)が巣を作っているのを見て‥

【意】ミサゴは雌雄仲睦まじい水鳥と言われている

 だから、「末の松山 波こさじ」と清原元輔が詠んだ古歌の通り、

 波が越えないとの約束(23)でもあって夫婦はそれを信じ合っているのだろうか?

 今にも波が飛びかかってきそうな岩の上にミサゴの巣がある‥  曽良

 季語:「みさごの巣」‥夏五月

 ミサゴは、添付写真[19]にある通りだが、大きさ・色彩は鳶に似ているが頭は白色、急降下して魚を捉える

 魚鷹(ウオタカ)の別名を持つ

 雌雄仲睦まじい鳥として知られる

「波こえぬ契」の本歌は、(22)ご参照

 本句の初案は「雎鳩巌/ 波こさぬ契(ちぎり)やかけし雎鳩(みさご)の巣 曽良『継尾集』」

 「波こさぬちぎりありてや鵃(みさご)の巣 楚良『一字幽蘭集(元禄05年刊)』」が再案と言われる

(20)祭礼:芭蕉が象潟を訪れた617日は当地熊野権現の夏祭りだった

(21)低耳:本名宮部弥三郎/美濃国長良の商人/池西言水系の俳人

 芭蕉は、以後の北陸道の宿泊先を低耳の紹介状に拠って続けた模様

(22)みさご:海辺に住み魚を捕食する/『詩経』以来夫婦仲がよい鳥とされる

(23)波こえぬ契り‥:

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは

                      清原元輔『後拾遺集』〔恋四 770

【意】互いに袖の涙を絞り乍ら約束しましたね

 末の松山に浪を越させまい、決して心変わりはするまい、と

  君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ

                      東歌『古今集』巻第二十 1093

【意】あなたを差し置いて、他の人に心を移す様なことがもしあったとしたら

 末の松山をさえ波が越すでしょう

 〔←決して波は末の松山を越えません だから私の心も決して変わりません〕

()あだし心=異心、浮気心

【小生comment

 西行法師の作と伝えられる「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐ蜑の釣舟」の作者について、山本健吉は「宗祇(1421-1502)(名所方角抄)」の作で「芭蕉は西行法師の歌と思いこんでいた」と紹介しているが、今の処、他に山本氏と同じ説は見当たらない

【後記】0809日久しぶりに長男家族が僅かな時間だが訪れてくれた

 其の時に撮影した孫との写真と、其の日の夕方作った「豆腐 spaghetti 」をご紹介して今日は締め括る

其の日は、一宮市在住の長男一家が、11ヶ月になった孫息子が確り歩ける様になったと見せに来てくれた

 コロナウィルス禍の中なので、普通は二、三日は夏休みで拙宅に泊まっていくのだが、たった【2時間】程滞在してそそくさと帰って行った

 現状から致し方ないことで寂しさを感じたが、再会した最初に泣いていた孫息子が、別れに笑顔になってくれて嬉しかった

[20][左上]孫娘と孫息子と一緒に

 孫娘は、習字が上手く成績もオール◎の賢い小学二年生

 [右上]同上2

 [左下]帰り際にご機嫌になった孫息子1

 [中下04]同上2

 [右下]同上3

【小生の手料理:『豆腐 spaghetti 』】

 孫たちが帰った日の夕方つくった、小生唯一料理出来る「豆腐spaghetti (tomato puree)」をご紹介しよう!

[21][左上]材料一式:キノコはマイタケ・シメジ・シイタケ・エリンギ・エノキダケの5種類

 調味料は、olive oil・ごま油・醤油・みりん・天然塩・チキンコンソメ・鷹の爪・ニンニク・(隠し味:ソース・マヨネーズ)

 [右上]具として、キノコ類・ホウレン草・茄子・green asparagus・ベーコン等を入れた後に、木綿豆腐を入れる

 [左下]具が煮立った処で、今回は、tomato puree を入れる〔←入れない場合も其れは其れで美味しい!〕

 [中下]完成

 [右下]いただきま~す!

では、また‥〔了〕

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