2019年8月29日木曜日

【時習26回3−7の会 0772】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第10回〕」「08月24日:『高天神城跡』→『横須賀城跡』→『法多山尊永寺』→『遠江国分寺後』→平野美術館『栗原幸彦』展を巡って見て」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0772】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第10回 / 追加 三月十九日舟泉亭(連句 全6句)〕をお届けする。
 
    追加
 
   三月十九日 舟泉(注1)亭
 
(注1)舟泉(しうせん):(-1737.10.27没(享年84歳))/三河国挙母(コロモ)(現・豊田市挙母町)生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛/1687(貞亨04)年 蕉門に /『あら野』『曠野後集』等に入句
 
01(109) 山吹(やまぶき)のあぶなき岨(そま)のくづれ哉(かな)  越人
 
【意】今にも崩れ落ちそうな柔らかい崖にしがみつく様に山吹の花が咲いている / 崩れかかった崖が、山吹の脆(もろ)さを誘い出すかの様だ   
【解説】発句 / 季語:山吹=春 /
 
02(110)  蝶(てふ)水(みづ)のみにおるゝ岩(いは)はし 舟泉
 
【意】岩場に小さな橋が架かっている / その傍を一羽の蝶が水を飲もうとひらひらと谷川に舞い降りていく
【解説】脇 / 季語:蝶=春 /「のみに」が通俗的表現だが、全体的に絵画的な構成になっている
 
03(111) きさらぎや餅(もち)洒(さら)すべき雪(ゆき)ありて 聴雪(注1)
   
【意】此の山中では二月でもまだ雪が残っている / 此処の住人はその雪の上に餅を晒し、黴(カビ)生えない様にしている
【解説】第三 / 季語:きさらぎ=春 / 前句の絵画的風景を人事のものとして眺め直した付け句
 (注1)聴雪(ちゃうせつ)(生没年不詳):尾張名古屋の人 /『笈の小文』の旅の折、芭蕉を出迎えた人々の一人 /『春の日』に入句

04(112)  行幸(みゆき)のために洗(あら)ふ土器(かはらけ) 螽髭(しゅうし)(注1)

【意】近々、帝の行幸があるというので、村人たちが其の仕度に土器の洗い清めに余念がない
【解説】初表四 / 雑 / 前句を「山中清浄の人里で古来由緒ある土地柄」と見て、帝の行幸まあろうか、と想像して付けた
(注1)螽髭(しゅうし):尾張国の人 / 詳細不詳
   
05(113) 朔日(ついたち)を鷹(たか)もつ鍛冶(かぢ)のいかめしく 荷兮
 
【意】月の朔日はいつも心改めて迎える / が、此の冬は、帝の巡狩(じゅんしゅ)があるという /
 其処で、土地の鍛冶屋で鷹をつかう此の男は行幸がある此の月の朔日を、とくに威儀正して迎えた
【解説】初表五 / 季語:鷹=冬 /
06(114)  月なき空の門はやくあけ 執筆
 
【意】今朝はその鷹狩の朝 / 有明の月も無い暗黒の朝 / 鍛冶屋の男の一行は粛々と出発して行く
【解説】初表六 / 季語:月=秋 / 前句を秋に挙行される鷹狩として付ける
   
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第11回 / 春(発句 全14句)〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、0824日(土)に『高天神城跡』→『横須賀城跡』→『法多山 尊永寺』→『遠江国分寺跡』→平野美術館『栗原幸彦』展と巡って見て来たことについてご紹介する。
 今日も一日を有意義に過ごそうと思い、以下の通り巡って見て来た。

‪03時50分 起床→腹筋2,000回‬
‪04時40分 2.5kg木刀素振り60分‬
‪05時40分 入浴→朝食‬
‪06時28分 拙宅発→一般道76㎞ 1時間32分→‬
‪08時00分 高天神城址(高天神社参道)入口着‬

【高天神城跡】

 戦国時代末期に、武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城。
 城跡内の解説板に書かれた此の城の歴史を簡単に示してみると‥

1564年 小笠原与八郎長忠城主となる
1568年 当城徳川氏に従属す
1571年 03月武田信玄兵二万五千騎来攻包囲す/城兵二千騎籠城す
1574年 05月武田勝頼兵二万騎来攻包囲す/7月2日休戦・長忠降伏す
1576年 此の年、家康、高天神城の対の城として横須賀城を築く
1581年 ‪03月22日‬ 高天神城落城〔以後、高天神城は廃城となる〕
1582年 ‪03月11日‬ 信長に攻められ、勝頼自刃し、武田氏滅亡
     06月2日 信長、本能寺の変で明智光秀に殺される
1590年 07月 元高天神城の城主小笠原長忠殺される

[01]高天神城址(高天神社参道)入口にて
[02]高天神城想像図看板前にて
                  
[03]郷社高天神社鳥居前にて
 
[04]史跡 高天神城跡 石碑にて
                  
[05]高天神社掲題略図前にて
 
[06]結構キツイ高天神城跡本丸へ向かう道
                  
[07]本丸と西の丸を繋ぐ井戸曲輪近くの高天神城跡略図看板前にて
 
[08]本丸にて
                  
[09]高天神社本堂手前にある御祭神を示した看板横にて
 
[10]高天神社本殿手前の階段にて
                  
‪09時03分 高天神城跡発→一般道11㎞ 16分 /累計87km→‬
‪09時10分 横須賀城跡着‬

【横須賀城跡】

 此処は、小生2回目の訪問となる。
 横須賀城は、1580(天正08)年 大須賀五郎左衛門尉(さえもんのじょう)康孝が初代藩主。
 爾来、大須賀氏2代(1580-1590)→豊臣政権下の大名が2家、渡瀬氏1代(1590-95)→有馬氏1代(1595-1600)と続き、以後は徳川親藩・譜代6家が明治維新迄‥→松平氏(忠政・忠次)2代(1600-15)→徳川頼信(1615-19)→松平氏(重勝・重忠)2代(1619-21)→井上氏(正就・正利2代(1621-45)→本多氏(利長)1代(1645-82)→西尾氏8代(忠成~忠篤)(3万5千石)‥と続き明治維新を迎えた。
 小生、1年4箇月前の2018年04月に「‪04月22日‬:浜松市秋野不矩美術館『第一回/秋野不矩 美の殿堂』展&浜松市美術館『ウッドワン美術館コレクション/日本洋画150年』展&『浜松城」&平野美術館『木村圭吾』展&『掛川城』&掛川市二の丸美術館『男も女も装身具』展&資生堂アートハウス『ヴィンテージ香水瓶と現代のタピストリー』展&『高天神城跡』&『横須賀城跡』を巡って』を自らのブログ【時習26回3-7の会 702】にて紹介しているので、興味のある方は、以下のURLをご覧下さい。
 https://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmBfkQMqSw70ancf2l7-klwhG7HDXIXCN3eLzy3SlaamgdDSWtqYbx6CCRfGcvW0Hp-r4UsV_i4bcLvlDHBvIJUlbxoV33NZT7kPhyD6kXHSq5H5SynxeZbz6j0C3ef75wW8tejw&postId=6932650813682610395&type=POSThttps://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmBfkQMqSw70ancf2l7-klwhG7HDXIXCN3eLzy3SlaamgdDSWtqYbx6CCRfGcvW0Hp-r4UsV_i4bcLvlDHBvIJUlbxoV33NZT7kPhyD6kXHSq5H5SynxeZbz6j0C3ef75wW8tejw&postId=6932650813682610395&type=POST ←此処をclickして下さい
 
[11]国史跡 横須賀城跡 案内看板前にて
[12]南側から見た 横須賀城跡の石垣を back に1
                  
[13]同上2
 
[14]本丸天守台跡にて1
                  
[15]同上2
 
[16]本丸から横須賀城跡の石垣を望む
                  
[17]再び横須賀城跡の案内看板前にて

 
‪09時43分 横須賀城跡発→一般道8㎞ 11分 /累計95km→‬
‪09時54分 法多山(はったさん)駐車場着→徒歩→

‪【法多山尊永寺】
[18]法多山境内案内看板
                  
[19]法多山参道脇の苔むした庭

[20]法多山尊永寺 本堂前にて1
                                
[21]同上2
 
[22]法多山本堂にて
                  
[23]再び法多山尊永寺 本堂前にて
 
‪10時51分 法多山駐車場発→一般道12km 39分 /累計109㎞→‬
‬‪11時30分 遠江国分寺跡着‬

【遠江国分寺跡】

 国分寺は〔中略〕奈良時代(西暦741年)に、聖武天皇の命令によって日本国内60数か所に建てられた。
 遠江国分寺は、往時の偉容をを偲ぶことのできる数少ない寺院跡のひとつ。
 1951(昭和26)年に全国の国分寺調査に先駆けて発掘調査が行われ、1952(昭和27)年に国の特別史跡(国宝と同格)に指定された。
 遠江国分寺の忠臣となる箇所には、南より南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、金堂と中門を方形に巡る廻廊の西外側に(七重)塔があることも確認された。
〔以下略〕
 以上は、「遠江国分寺跡」の説明看板より引用した。
 遠江国分寺跡は、磐田市市役所の西隣にある。
 小生は、今日訪れた史跡4箇所のうち、此の「遠江国分寺跡」は初めての訪問だ。

[24]遠江国分寺跡看板前にて
                  
[25]南大門跡看板前にて
[26]中門跡看板前にて
                  
[27]講堂跡看板前にて
 
[28]築地塀跡看板前にて
                  
[29](七重)塔阯看板前にて
 
[30]廻廊跡看板前にて
                  
[31]特別史跡 遠江国分寺跡看板前にて
 
[32]史跡 遠江国分寺阯 石碑にて
                  
‪11時58分 遠江国分寺阯発→一般道14㎞ 37分 /累計123km‬
‪12時35分 平野美術館着‬

【平野美術館『栗原幸彦』展】

 栗原幸彦は、1951(昭和26)年 浜松市中区北手島町生まれ。
 多摩美術大学日本画科卒業後、日本美術院の前理事長を務めた故・松尾敏男(1926-2016)に師事し、院展を中心活躍して1988年日本美術院・院友。
 本企画展は、作家の初期作品から今日に至る迄の優品約30点が展示された。
 確かな技量に裏打ちされた、栗原幸彦氏の品格ある日本画の幾つかをご紹介する。

[33]平野美術館『栗原幸彦』展看板前にて
 
[34]館内入口『栗原幸彦』展看板前にて1
                  
[35]同上2
 
[36]栗原幸彦『俺達(おれたち)ボルゾイ』2016年の絵の横にて
                  
[37]同上の絵
 
 館内から会場2階へ向かう階段踊り場に掲示されていた。
 本作品のみ撮影可だったので撮影させて貰った。

[38]本企画展leaflet(右の絵は、栗原幸彦『秋日和』2001年)
                  
 以下、本企画展leafletに掲示された展示作品を転写した。

[39]栗原幸彦『田植え前』1995年(浜松市美術館蔵)
 
[40]同『秋草図』1995年
                  
[41]同『幽玄』2006年
 
[42]同『緑陰』2014年
                  
[43]同『初冠雪不二』2016年
 
‪13時04分 平野美術館発→一般道41km 56分 /累計164km‬
‪14時00分 帰宅〔了〕
【後記】先は、「処暑」の次の時節「白露」に関連した「露」の名句を 2句紹介し、先ず飯田蛇笏の句についてご紹介した。
 今日は、もう一人の川端茅舎(1897.08.17-1941.07.17)の作品についてご紹介してみたい。

  金剛の露ひとつぶや石の上    茅舎

 俳人草間時彦(1920-2003)著「俳句十二か月」の九月の処で草間氏は次の様に紹介している。

「川端茅舎は露の茅舎と呼ばれた。露の句が多かったし、また、その句はすべて、名作だったからである。
 昭和八年刊の『川端茅舎句集』の四季別の秋の部の冒頭には露の句が26句並んでいる。
 この「金剛の露ひとつぶや石の上」の句はその中の一句で、しかも、露の句の代表作というべき句である。〔中略〕
 石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉のごとくに見た。〔中略〕
 金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である。〔中略〕
 儚い散りやすい露の玉を金剛不壊(ふえ)と見た茅舎の眼にはその露が生きているもののように見えたのだった。〔中略〕
 (俳人)石田波郷(1913-69)はこの句の短冊を書斎の柱に掛け「時に心迷ふとき、この短冊を見てゐると、迷の雲はうちはれてくる思ひがする」と述べている。〔後略〕」

 「白露」では、次の作品も彼の代表作だ。

  白露に阿吽(あうん)の旭(あさひ)さしにけり  茅舎

 (俳人)秋元不死男(1901-77)は、著書「俳句入門」で‥
 「‥「阿吽の旭」という表現に思いをこらせば、此の句のもつ、みなぎった自然のエネルギーが、はずみのある声調のなかでうたいあげられている力強さと緊張感を覚えずにはいられないはずである。〔中略〕
 白露も精気に満ち、朝日も精気にあふれ〔中略〕いいようもない天地一瞬の、接触の気合いが、「阿吽の旭」のなかにある〔後略〕」
 と述べている。

 川端茅舎の略歴を以下に記す。
 彼は、日本画家の泰斗 川端龍子(1885-1966)の異母弟。
 若い頃、藤島武二 (1867-1943)絵画研究所に通い、更に岸田劉生 (1891-1929)に弟子入し、のち茅舎自身の作品が春陽会に入選するなど西洋絵画の腕前も確かであった。
 しかし師の岸田の死後は、茅舎自身が結核(=脊椎カリエス)に罹患した病弱な身であった為、仏道に傾注すると共に俳句の道に本格的に入って行った。
 「ホトトギス」への投句で雑詠の巻頭句選ばれる様になり、1934年に同人となった。
 彼は、阿波野青畝 (1899-1992)、高野素十 (1893-1976)、水原秋桜子 (1892-1981)、山口誓子 (1901-1994)等 4S の後、松本たかし (1906-1956)、中村草田男 (1901-83)と並び称された「ホトトギス」の代表的俳人である。
 高浜虚子は、茅舎を「花鳥諷詠真骨頂漢」と高く評価している。
 1941年07月 肺患の悪化に拠り死去。〔享年43歳〕

 川端茅舎は、師・虚子が「花鳥諷詠真骨頂漢」と評した鋭い観察眼を持つ一方、仏道の仏教用語や「‥の如く」を使った比喩の句の名句を数多く残している。
 ご紹介した二句から茅舎の鋭い感性と、名句が表す高い芸術性や精神性を感じ取って頂ければ、と思う。

[44]2019年08月28日に Facebookに up した「露」の写真
               
 
 では、また‥〔了〕
 ブログへは【0626】号迄のback numberURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog ←此処をclickして下さい

2019年8月21日水曜日

【時習26回3−7の会 0771】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第9回〕」「08月17日:浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩 制作の現場からⅡ~インドの日常に見つけた美~』展→豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展を巡って見て」「08月18日:愛知県芸術劇場 concert hall:三澤洋史指揮愛知祝祭管弦楽団 2016-19 / Wagner「ニーベルングの指環」4部作~第三夜『神々の黄昏』(Concert Opera)を視聴して」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0771】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第9回/97句〜108句〕をお届けする。
 
97 むさぼりに帛(きぬ)()てありく世の中は  冬文
 
【意】栄耀栄華を誇り絹の衣服を日常に着て往来闊歩する人もいる世の中だ
【解説】名残表七 / 雑 / 前句の様に「岩苔を採って生活の足しにする様な貧しい人がいるかと思えば‥」を踏まえて付けた
 
98  筵(むしろ)二枚もひろき我(わが)(いほ)  越人
 
【意】僅かに筵 2枚を敷くに過ぎない草庵だが、此れは此れで結構なことだ /
【解説】名残表八 / 雑 / 前句の、美衣美食に耽(ふけ)る世間に対して、「足るを知る」生き様を出した

99 朝毎(あさごと)の露(つゆ)あはれさに麦作ル  旦藁

【意】日毎(ひごと)に朝露も繁(しげ)くなって来た / 秋の風情が増していく中で、麦蒔きの時節の到来だ
【解説】名残表九 / 季語:露=秋 /
 
100  碁()うちを送るきぬぎぬの月  野水
 
【意】一晩、囲碁の相手をしてくれた男を見送って門口に出ると、空には有明の月が出ていた /
【解説】名残表十 / 季語:月=秋 / 前句を此の句の見晴るかす背景の麦畑とした /「きぬぎぬ」は「恋」の詞であるが3句後あとに恋が出るので、此処では「恋」としない
 
101 風のなき秋の日()(ふね)に網(あみ)(いれ)よ  荷兮
 
【意】今日は風も凪ぐ秋日和だ、網でも入れて漁でもしようか /
【解説】名残表十一 / 季語:秋の日=秋 / 前句で、囲碁を楽しむ人が、秋の一日漁を楽しむ、という閑人・閑居の有様を詠む
 
102  鳥羽(とば)の湊(みなと)のお(=)どり笑(わら)ひに  冬文
 
【意】盆踊りの時節だ / 今日は無風で不漁だから、鳥羽の湊に立ち寄って盆踊りでも楽しんで来ようか /
【解説】名残表十二 / 季語:をどり=秋 /
 
103 わらましのざこね(1)筑摩(つくま)(2)も見て過ぎぬ  野水
 
【意】予てより見たかった大原の「雑魚寝祭」も、筑摩の「鍋祭」も見て仕舞った
【解説】名残裏一 / 雑 / 恋=ざこね・筑摩 / 鳥羽の踊りを踏まえ、二大祭を付けた
 
(1)ざこね:京都洛北大原の「江文明神」の奇祭「雑魚寝祭」のこと〔冬季〕
(2)筑摩:近江国「筑摩神社」の大祭「鍋祭」のこと〔夏季〕 /
 
104  つら/\(1)一期(いちご)(2)(むこ)の名()もなし  荷兮
 
【意】よくよく考えてみると、自分は娘を授からなかったので聟をとることもなかった / だから祭礼の際、聟の名を貼る祭礼札もなかったなぁ
【解説】名残裏二 / 雑 / 恋=聟 / 前句の祭を踏まえ、其の祭を見乍ら男の心に浮かんだ感慨として詠む
(1)つらつら:よくよく、つくづく
(2)一期:一生涯
 
105 (わが)春の若水(わかみづ)(くみ)に昼(ひる)起きて  越人
 
【意】自分ひとり、のんびりと迎えた正月 / 世間では早朝から起き出して若水を汲んで新年を祝う習いだが、自分はついつい昼迄寝過ごして仕舞った
【解説】名残裏三 / 季語:若水=春 / 前句の「聟」を、自分が家庭を持たないで「聟」と呼ばれることもなかった、として気儘な一人暮らしの正月を付けた
 
106  餅(もち)を喰(くひ)つゝいはふ君が代()  旦藁
 
【意】威儀を正し、屠蘇を祝って正月を賀するのではなく、いきなり雑煮の餅を食するというぞんざいさだ / でも此れが出来るのも平和な時代のお陰である
【解説】名残裏四 / 季語:いはふ君が代=春 /「餅を喰つゝ」と細かく限定して描く処が俳諧
 
107 山は花(はな)(ところ)のこらず遊(あそ)ぶ日()に  冬文
 
【意】春たけなわ / 山は桜花が満開 / 其の土地の人たちは老若男女挙(こぞっ)て仕事を休み、夫々遊楽に耽(ふけ)っている
【解説】名残裏五 / 季語:花=春 /前句の「太平の代」を人々が謳歌する響きを感じ取って「人々の遊楽の様(さま)」を付けた

108  くもらずてらず雲雀(ひばり)(なく)(なり)  荷兮

【意】花曇りの時候 / 曇らず照らず、風穏やかな一日 / 雲雀の囀(さえず)りが終日聞こえて来る
【解説】挙句 / 季語:雲雀鳴=春 /「てりもせずくもりもはてぬ(新古今集)」に対して「くもらずてらず」という簡潔な表現が俳諧
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第10回〕第109120句をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、0817日に浜松市秋野不矩美術館にて開催中の『秋野不矩 制作の現場からⅡ~インドの日常に見つけた美~』展、並びに豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展を巡って見て来たことについてである。
 
 前夜早く寝て、今朝は0415分起床。
 其の日(0817)は美術館を二つ巡って来た。
 
0415分 起床
0420分 腹筋2,000
0550分 2.5kg木刀素振り60
0700分 入浴→朝食
0830分 拙宅発→一般道49km 80
0950分 浜松市秋野不矩美術館着
 
【浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩 制作の現場からⅡ~インドの日常に見つけた美~』展】

 秋野不矩 (ふく)(1908.07.25-2001.10.11)は、女流画家としては、上村松園 (1875.04.23-1949.08.27)、小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)、片岡球子 (1905.01.05-2008.01.16)に次いで四人目の文化勲章受章者だ。
 因みに、まだ五人目の女流文化勲章受章者は出ていない。

[01]浜松市秋野不矩美術館駐車場脇の美術館企画展案内看板横にて

[02]同ビル前にて1
                  
[03]同上2

[04]秋野不矩『海辺のコッテージ』1984
                  
[05]同『廻廊の壁画』1986

[06]同『土の家(C)1987
                  
[07]同『ウダヤギリ僧房Ⅱ』1992

[08]同『村落(カジュラホ)1994
                  

1014分 浜松市秋野不矩美術館発一般道48 90分→
1144分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム着
 
【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展】
 
 嶋田卓二(1886-1946)は、豊川市(旧宝飯郡大木村)生まれ 。
 
 1905年 愛知県立第四中学校卒業後、上京
 1906 6月 東京美術学校西洋画科受験するも落第、8月頃、黒田清輝の書生となる
 1912 10月 第6回文部省美術展覧会(文展)に『放牧』が初入選
 後年は、中央画壇とも距離を置き、此れ迄本格的な評価や回顧がなされていなかった画家の為、本展で検証しつつ紹介するという企画展
 
[09]豊川市桜ヶ丘ミュージアム入口前にて

[10]同上館内 本企画展看板横にて
                  
[11]本企画展図録表紙

[12]嶋田卓二
                  
[13]嶋田卓二『桂川附近』1917年〔豊橋市美術博物館蔵〕

[14]同『二川風景』1926年〔豊橋市美術博物館蔵〕
                  
[15]同『西瓜』1936

[16]同『雨後の桜(仮称)1936
                  
[17]黒田清輝(1866-1924)『湖畔』1897年〔東京国立博物館/黒田清輝記念館蔵〕


 黒田清輝は鹿児島市に生まれた。
 1884-93年 渡仏し、最初法律を学ぶが途中から西洋画に転向
 1886年 ラファエル・コラン(1850-1916)に師事
 1894年 久米桂一郎と天真道場を開設、外光派の作風を確立
 1896年 東京美術学校西洋画科発足に際し教員となる
 1898年 同校教授に就任
 1917年 養父死去に拠り、子爵を襲爵する
 
 因みに小生、添付写真[17]『湖畔』と [18]『婦人像』は、2016115日に東京の黒田記念館にて見ている。
 2016124 ()付【時習26回3-7の会 0584】~「0115日:東京国立博物館/黒田記念館『特別室と黒田記念室』展示作品を見て」ほかを参照されたい。
     ↓↓↓
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/26-058401150123.html
 
 更に付言すれば、添付写真[17][18]の美しい女性は、黒田清輝の2人目の妻、照子夫人である。
 彼は、留学先の France から帰国後、伯父で養父の子爵黒田清綱(1830-1917)の紹介で結婚したが、程なく離婚。
 添付写真[17][18] model である照子と結婚したが、入籍は養父の死後だという。
 
[18]同『婦人肖像』1911-12年〔東京国立博物館/黒田清輝記念館蔵〕
                  
[19]同『薔薇の花』大正期〔三重県立美術館〕

[20]岡田三郎助(1869-1939)『婦人半身像』1936年〔東京国立近代美術館〕
                  

    岡田三郎助は佐賀県に生まれ、旧鍋島藩邸にて百武兼行の油絵に接し、洋画を志した。
    1894年 黒田清輝、久米桂一郎が指導する天真道場に入門し、其の後、白馬会創設に参加
    1897年 文部省留学生として渡仏、ラファエル・コランに師事
    1902年 東京美術学校教授に就任
    1937年 第1回文化勲章受章
 
[21]和田英作(1874-1959)『薔薇』1925年〔刈谷市美術館〕

[22]同『逢妻風景』1946年〔刈谷市美術館〕
                  

 和田栄作は鹿児島県垂水市生まれた。
 洋画を、最初、曽山幸彦(1860-92)に、次いで原田直次郎(1863-99)に学ぶ。
 1894年 黒田清輝に師事し外光派の洗礼を受け渡仏し、ラファエル・コランに師事
 1896年 帰国後、東京美術学校助教授に迎えられるも辞す
 1897年 同校第1回生として卒業
 
[23]石河彦男(1917-86)『黒衣』1946


 石河彦男は豊橋市生まれ。
 愛知県立豊橋中学校(=現・時習館高校)で細島昇一の指導を受け、東京美術学校図画師範科卒。
 其の後、美術教師として朝鮮に赴き、戦後は、国府高校等にて教鞭をとる。
 光風展、日展等に入選し、第10回日展特選、翌年に無審査となる。
 愛知県立大学講師や名古屋芸術大学教授を歴任。
 
[24]昭和9年 第7回豊橋洋画展での主な出品者
                  
 嶋田卓二のほか、石川彦男、時習館高校美術科教諭だった若き冨安昌也氏の顔もある。
 
1215  豊川市桜ヶ丘ミュージアム発→一般道 12km 20分→
1235  帰宅 走行距離計 109km〔了〕
 
■今日最後の話題である。0818()、中嶋君の招待で、14:30 から愛知県芸術劇場 concert hall にて上演時間4時間半(@30分休憩×2回を含めると5時間半) Concert 方式に拠るワグナー作曲「楽劇『神々の黄昏』」を視聴した。
 其の日は、以下の通り行動した。
 以下の筋トレ時間 4時間45分を使ってDVD『神々の黄昏』の視聴をバレンボイム指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏で実施して予習した。
 
0500分 起床→腹筋2,000
0610 2.5kg木刀素振り(3時間+通算30分休憩)
0945分 入浴→ brunch
1230分 拙宅発→自転車→
1313分 豊橋駅発→新幹線こだま649号→
1405分 愛知県芸術劇場 concert hall
 
【愛知県芸術劇場 concert hall:三澤洋史指揮愛知祝祭管弦楽団 2016-19 Wagner「ニーベルングの指環」4部作~第三夜『神々の黄昏』(Concert Opera)
 
[25]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて「中嶋君【時習26 3-2】」と

[26]同上「林さん【時習26 3-7】」と
                  
[27]同上「中嶋君と林さん」

[28]1幕と第2幕の間の休憩時間にbuffetにて
                  

 此のconcertは、中嶋君の肝煎りで、彼が毎夏に【時習26 1-4】のclassmates の小生と林さんを誘ってくれている。
 3年前からWagnerの楽劇『指環』を、序夜『ラインの黄金』・第一夜『ワルキューレ』・第二夜『ジークフリート』と続いて来たもので、今年が総仕上げの第三夜『神々の黄昏』だ。
 因みに小生は、『ラインの黄金』だけは所用があって彼等と一緒出来ていない。
 第三夜『神々の黄昏』の上演時間は4時間30分。
 Wagnerの楽劇・歌劇の中でも、舞台神聖祝典劇『パジルファル』の正味4時間40分に次いで2番目に長い。
 因みに、三番目に長いのは楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で4時間20分である。
 
 今日の上演時間は以下の通り
 
1435分:第1幕 2時間00
1635分:休憩:30
1705分:第2幕 1時間15
1820分:休憩:30
1850分:第2幕 1時間20
2010分:終演
 
 1848 Wagnerは、楽劇『ニーベルングの指環』の第1作目として、彼が35歳の時に、先ず『ジークフリートの死』という台本を書き、のち『神々の黄昏』に改題。
  「此の作品には、前史が必要だ」との友人の助言に従い、『ジークフリート』→『ワルキューレ』→『ラインの黄金』の順に歴史を遡る形で台本を執筆。
 其の後、序夜『ラインの黄金』→第一夜『ワルキューレ』→第二夜『ジークフリート』→第三夜『神々の黄昏』の順で作曲。
 1874年 楽劇『ニーベルングの指環』全4部が完結する迄、実に26年の歳月が流れた。
 初演には、リスト、サンサーンス、グリーグ、チャイコフスキー、ブルックナー等錚々たる大作曲家たちが聴きに来ている。
 今日の演奏会は、なかなか素晴らしいもので、座席も9割埋まり、全曲終演後は大喝采の連呼だった!
 
[29]本企画展leaflet

[30]小生所蔵のWagner「楽劇『指環』」の2種類のDVD
                  
[31]同上のキャスト「バレンボイム指揮/バイロイト祝祭O.&合唱団」「レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場O.&合唱団」

[32]開演前のConcert 会場(2階席)1
                  
[33]同上2

[34]本演奏会 program 表紙
                  
[35]指揮者:三澤洋史/演出構成:佐藤美晴/ジークフリート:大久保亮/ブリュンヒルデ:基村昌代

[36]アルベリヒ:大森いちえい/グンター:初鹿野 剛/ハーゲン:成田 眞/グートルーネ:大須賀園枝
                  
[37]ヴァルトラウテ:三輪陽子/ヴォ―クリンデ/3のノルン:本田美香/ヴェルグンデ/2のノルン:船越亜弥/フロスヒルデ/1のノルン:加藤 愛


2059分 名古屋駅発→新幹線 こだま690号→
2124分 豊橋駅着→自転車→
2210分 帰宅
 
 今日は、DVDと実演で、Wagner『神々の黄昏』を9時間かけて2回聴いた貴重な一日だった!
 
【後記】時節は明後日 0823日が「処暑」。そして、0908日に「白露」を迎える。
  「白露」というと『露』!
 其の「露」を theme にした名句というと、川端茅舎(1887-1941)の「金剛の露ひとつぶや石の上」と共に飯田蛇笏(1885-1962)の「芋の露 連山影を正しうす」が直ぐ浮かぶ。
 今日は、飯田蛇笏氏の此の作品について、我等が時習館高校の大先輩にあたる富安風生(1885-1979)氏が著書「大正秀句」で思い出を語っているのでご紹介してみたい。
 因みに、冨安風生氏は、我等が母校時習館高校の前身〔旧制愛知第四中学校第4回生(1903(明治36)年卒)〕の大先輩で、本名は「冨安謙次」(本名はウ冠の「富」ではなく、ワ冠の「冨」)
 1929年『ホトトギス』同人 / 19361月~375月 逓信省(=のちの郵政省)事務次官。
 我等が時習館高校在学時代の朝倉勝治(1930- )先生の前任の美術科教諭であった冨安昌也(1918-2013)先生の大叔父に当たる。
 富安風生氏は、著書「大正秀句 (新版 日本秀句)〔春秋社刊〕」 で「飯田蛇笏」のところで「(小生補足)(‥飯田蛇笏という一人の‥)俳句作家が文学の専門家(同左)(‥芥川龍之介(1892-1927))からこれほどの理解をもたれる例はザラにはない」と讃えた後、次の様に述べている。
  「蛇笏の遺した大きな句業績のうちから、強いて一句を挙げねばならぬとしたら
 
     芋の露 連山影を正しうす  蛇笏
 
  とすることに、何人も異存はないであろうし、全く頭の下がる一代の秀句である。あたかもそれは大正三年(小生補足)(‥蛇笏氏29歳の時の‥)の作でもある。〔中略〕
 蛇笏は明治37年、19歳の時、志を文学に立てて早稲田の文科に入学した。
 学問を捨てて郷里に帰ったのは24歳の時である。
 遊学中早稲田においては高田蝶衣(1886-1930)の後を受けて早稲田吟社の首脳であったが、詩も熱心であったし、小説にも関心があった。
 一口に言って思想的に当時の自然主義の影響の下にある一文学青年だったのである。〔中略〕
 わたしは蛇笏と同庚(( : おないどし)であり、わたしがわずかに十日早く生まれているだけである。
 飯田蛇笏。明治184月、山梨県生。1962(昭和37)年没(享年77)。」

  【小生注】本書「大正秀句」で飯田蛇笏氏の思い出を語った執筆時(昭和39年刊)、風生氏は80
 風生(1885-1979)氏自身は1979(昭和54)年享年94歳にて長寿を全うされた
 風生氏が絶賛した飯田蛇笏氏の名句の情景を2枚の写真を使って image してみたのでご覧下さい
 本作品は、ホント、気品があって、近景の「芋の露」、遠景の「連山(=八ヶ岳連峰)」が透き通った早朝の明るい陽射しの下で鮮やかに三次元空間として目に浮かんで来る、稀代の名句と言っていい

[38] Facebook up した「連山(=八ヶ岳連峰)」と「()芋の露」
                  
 
 では、また‥〔了〕

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