2022年1月31日月曜日

【時習26回3−7の会 0898】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『ひさご』から〔第10回 / 第55句~60句〕」「01月29日:「陣屋」→「『古川美術館』『桑山美術館』の所蔵品展」→「三井住友海上しらかわホール/『前橋汀子 Violin Recital』」「椿椿山『花之図』」」「今は少し昔の物語~『2006年・07年・08年08月【2637の会】クラス会』「【時習26回3-7の会 0209】~「2008年10月26日:『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」

 
■皆さん、今日も【時習26回37の会 0898号をお届けします
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  今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『ひさご10 / 5560〕」をご紹介する

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055 (この)村の廣(ひろ)きに醫者(いしゃ)のなかりけり  荷兮

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【意】此の浜は大きな村だが、村人は健康で鯛を食って元気/ だから医者要らずの無医村であるという

【解説】《名残表》《》:/ 無医村と知って他郷者の驚く様(さま)を付けた / 前句の「浦の春」に、鯛網を曳く浜の賑わいを見て「新古今和歌集」で「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」藤原定家詠んだ歌を俳諧化し、「見渡せば医者も病もなかりけり‥」という健康的な漁村を詠んだ

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056  そろばんをけば(注1)ものしりといふ  越

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【意】算盤が出来るだけで賢者とされる / 一般的な里には、賢者として医者がいるが、此の村は其の医者もいないのだ、と前句を基に付けた

【解説】《名残表》《/ 西鶴織留四の二「世の宝は医者知恵者福音といへり。中にも医者のなき里には住む事なかれ」

(注1)そろばんをけば:算盤で計算することを「算盤置く」という

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057 かはらざる世(よ)を退屈(たいくつ)もせずに過(すぎ)  兮

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【意】読書き算盤等一通りの基礎学修が出来ていたので、退屈もせずに此の世を退屈もせずに生きて来られた

【解説】《名残表》《  前句を、志を果せなかった人の愚痴と見た付 / 

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058  また泣(なき)(いだ)す酒のさめぎは  人

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【意】俺の人生は、可も不可も無い平凡な人生だヨ」と酒が冷める頃になると必ず泣き出す泣き上戸(じょうご)

【解説】《名残表》《》:/

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059 ながめやる秋の夕(ゆふべ)ぞだゞびろき  兮

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【意】秋、人生の秋 / 此の空漠とした広さの眺めと同様、自分の人生の何と平凡な人生であったことか

【解説】《名残表》《》:秋  前句の泣き上戸の男が、眼前に映る景を見た時の感慨として付けた /「見渡せば花も紅葉もなかりけり‥秋の夕暮れ」の翻案であり、《名残表一》此村の廣きに醫者のなかりけり」と同じ趣向で工夫がない

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060  蕎麥(そば)眞白(まつしろ)に山の胴中(どうなか)  人

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【意】中腹の山肌一面蕎麦の花が真っ白に咲き誇っている

【解説】《名残表六》《秋》:蕎麥の花 / 遠景暮色の中、山の中腹だけが蕎麦の真っ白な花で一面浮き立って見える、という景気の付

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【小生 comment 

. 次回は、『ひさご』11回 / 第61句~66をお届けする

. どうぞ、お楽しみに!

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■続いての話題である
. 先週末01月29日(土)もコロナウィルス感染症の新規発症者は85千人と過去最多を更新

. 皆さん、コロナ禍にめげずに頑張ってられますか?

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. 小生、仕事ではコロナ禍で大変な状況になっているが、private では気分を切り替えて、今日も充実した一日を過ごすことが出来た

. 詳細は、明日、此の Facebookにてご報告致するが、今日は、其の digest をお送りする

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. 今日は、月一回の月例の歯科健診→(1)陣屋での味噌チャーシュー麵の昼食→(2)古川美術館と(3)桑山美術館の所蔵品展→(4)三井住友海上しらかわホールでの matinee『前橋汀子 Violin Recital』と、見て聴いて来たことと、拙宅の床の間に、長澤蘆雪『花鳥図』を提供してくれた先様から、椿椿山『花之図』の紹介を受け、安価だったので特別に購入した

. 椿椿山(1801-54)は、渡辺崋山の高弟で、此れ迄、田原市博物館で何回も見ており、素晴らしい日本画家だと評価して、小生、渡辺崋山と共に大好きな画家である

. 其の椿椿山の真作を入手出来たことは、長澤蘆雪『花鳥図』と共に拙宅の家宝を2つ入手出来た、ととても嬉しく思っている

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[01][左上]らあめん専門店「陣屋」の小生の超定番「味噌チャーシュー麵」を食する小生


[右上]古川美術館『今みたい、東海ゆかりの芸術家たち』展~館内の本展 leaflet 掲示板前にて

[左下]桑山美術館『新春展/やきもの対決』展~美術館入口にて

[中下]三井住友海上しらかわホール~館内ホワイエ「前橋汀子 Violin Recital 看板」前にて

[右下]今日届いた、掛軸「椿椿山『花野図』」を床の間に飾った其の前にて

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. 此の(2022年01月29)日は、以下の通り行動した

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04時45分 起床→腹筋2,000回

05時45分 2.5kg木刀素振り60分

06時50分 入浴→仕度→

08時14分 拙宅発→一般道 2時間15分 88km→

10時29分 N歯科医院着

10時30分 歯科健診

11時00分 N歯科医院発→5分 1km/89km→

11時05分 らあめん専門店「陣屋」着

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【らあめん専門店「陣屋」】

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[02][左]らあめん専門店「陣屋」入口にて



[右上]カウンター席から、藤井壮太四冠の「二十七手詰譜」「六段昇進字の揮毫」

[右中]小生の超定番「味噌チャーシュー麵」

[右下]「味噌チャーシュー麵」を食する小生

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11時55分 らあめん専門店「陣屋」発→一般道 10分 3.6km/92.6km→

12時05分 古川美術館駐車場着

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【古川美術館『今見たい、東海ゆかりの芸術家たち』展】

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[03][左上]古川美術館館内の本展 leaflet 前にて


[右上]本展 leaflet

[左下]河合玉堂『春峡萬弦』1941年頃

[中下]田村能里子『秋のアラベスク』

[右下]同『華の奏』

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12時55分 古川美術館発→一般道 10 分 3.4km/96km→

13時05分 桑山美術館着

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【桑山美術館『やきもの対決―大きさ・文様―』展】

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[04][左上]桑山美術館入口にて1


[右上]同上2

[左下]本企画展 leaflet

[中下]展示作品『古丹波大坪』室町時代末期

[右下]本企画展 program

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13時54分 桑山美術館発→一般道 7km/103km→

14時15分 三井住友海上しらかわホール近隣駐車場着〔駐車料金@1,600円〕

14時30分 同ホール入館

15時00分 前橋汀子matinee『Violin Recital』

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【三井住友海上しらかわホール/前橋汀子matinee『Violin Recital』】

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[05][左上]本 Recital leaflet


[右上]三井住友海上しらかわホール前にて

[左下]同ホール 入口にて

[右下]同ホール ホワイエにて

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[06][左上]三井住友海上しらかわホール・ホワイエにて前橋汀子のCDと著書「ヴァイオリニストの第五章」を手に


[右上]同「本 Recital program」を手に

[左下]小生の座席前にて 演台を back に

[中下]小生の本日の席と Ticket

[右下]演奏会休憩辞典での会場内部

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[07][左上]本 Recital program 1&4頁


[右上]同 2&3 頁

[左下]今回購入した「前橋汀子著『ヴァイオリニストの第五楽章』&前橋汀子CE『彩(いろどり)』」

[中下]前橋汀子CE『彩(いろどり)』の曲目一覧

. 赤い underline の 3曲が此の日の演奏曲の中の3曲

[右下]三井住友海上しらかわホール・ホワイエに於いてあった program & 会場の演台を映し出したモニター画面

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[08][左上]前橋汀子著『ヴァイオリニストの第五楽章』~「オーディション」~「ズービン・メータ」


. ジュリアード音楽院は(1966年09月~)一年で修了したが、私はそのままニューヨークに残り、ソリストを目指すことに決めた。〔中略〕

. 1967年11月、私はロン=ティボーの本選でシベリウスのヴァイオリンコンチェルトを弾いた。

. 実はパリに行く前に恩師の齋藤秀雄先生を訪ねてレッスンしていただいていた。

. おかげで私は三位に入り、満足できる結果となった。

. これで心置きなくニューヨークでソリストを目指せる。〔中略〕

. 早い時期に私を認めてくれたのが、指揮者のズービン・メータである。

. 彼が音楽監督を務めているロサンゼルス・フィルハーモニックのソリストに選んでくれた。〔後略〕

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[08][右上]同~「シゲティ先生」

. 〔前略〕私は1967年晩秋、スイスのモントルーに向かった。

. 引退したヨーゼフ・シゲティがそこでヴァイオリンの個人レッスンをしていると聞いたからだ。〔中略〕

. 巨匠が言った。〔中略〕「そうか。実は妻の具合がよくないから、冬は暖かい島ですごすことにしているんだ。君がマジョルカまで来てくれれば、ゆっくりとレッスンできるよ」。

. 68年1月、私は地中海に浮かぶマジョルカ島に飛んだ。

. レモンやミモザの花が咲き乱れる中で三週間にわたってシゲティ先生の最初のレッスンを受け、一緒に食事や散歩を楽しんだ。〔中略〕

. レッスンは独特だった。〔中略〕

. ベートーベンのコンチェルトを勉強する時は〔中略〕先生がベートーベンの時代の美術や文学について語り、次々と私に質問を浴びせた。

. シェーンベルクの時には、カンディンスキーの美術の話をした。

. 巨匠シゲティの演奏の説得力は教養の深さから生まれるのだ。〔中略〕

. 先生は欧州の知識人の一つの典型といえる方だった。〔後略〕

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[08][左下]同~「モントルー」~「ココシュカ」


. シゲティ邸前の屋根裏部屋を一年ほどで出た後、私はスイスのモントルーの町から歩いて30分ほどの高台にある小村に引っ越した。シヨン城の近くだ。

. 築数百年という石造りの長屋で、村長さんが家主だった。

. しばらくの間、私はここを拠点に世界各地を飛び回った。〔中略〕

. モントルーの隣町ヴィルヌーヴには、近代オーストリアを代表する画家のオスカー・ココシュカが住んでいた。

. 知人の紹介で、ヴァイオリンを持って自宅を訪ねたことがある。

. 私はアトリエでバッハのシャコンヌを弾いた。

. 画伯は昔話を始めた。「アルマから電報が届いたんだ。彼女が亡くなる前にね」。

. 作曲家グスタフ・マーラーの妻アルマ・マーラーは恋多き女性で、夫の死後、何人かの芸術家と浮名を流した。

. ココシュカもその一人。

. 私は「風の花嫁〔添付写真[08][中下]ご参照〕」をバーゼル美術館で何度も見ていたから、すぐに事情が呑み込めた。

. 画家自身とアルマが抱き合う姿を描いたココシュカの傑作。

. アルマは1964年に亡くなっている。

. ココシュカが続けた。「今でもあなたを愛している。電報はそんな内容だったんだよ」。

. なぜ私にそんな話をしてくれるのだろう。「君を描きたい」。最後に画伯が言った。

. シゲティ先生にその話をしたら、先生は「テイコ、そんな話はめったにないぞ、はやく実現させなさい」と大変な興奮ぶりだった。

. その機会が訪れぬまま、画伯は帰らぬ人となった。

. シゲティ先生は、73年02月80歳で世を去った。〔中略〕

. シゲティ先生とココシュカは同じ墓地に眠っている〔後略〕

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[08][中下]ココシュカ『風の花嫁』

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[08][右下]前橋汀子著『ヴァイオリニストの第五楽章』~「ミルシテイン」


. モントルーのシゲティ邸には、先生を慕って世界中から音楽家が訪ねて来た。

. お宅に出入りしていた私は、彼らを紹介してもらう機会に恵まれた。

. ヴァイオリンの巨匠ナタン・ミルシテインもその一人。

. 私はミルシテインの大ファン〔←(注)小生もミルシテインの大ファン! 勿論シゲティも!〕で、彼のコンサートにたびたび足を運んでいた。

. シゲティ先生が亡くなった後、私はミルシテインの指導を受ける様になった。

. 彼は〔中略〕飛行機は嫌いな人だったから〔中略〕夜行列車でスイスにやってくる。〔中略〕

. 彼にニューヨークでレッスンを受けている最中、電話がなり、彼はロシア語で口論を始めた。

. 「今の電話はホロヴィッツだよ。〔中略〕」

. ピアノの巨匠ホロヴィッツはミルシテインと同じウクライナ出身で同い年。二人は親友だ。〔中略〕

. ミルシテインから学んだのは、どんな状況にも即応できるフレキシビリティー。〔中略〕

. 実はまだミルシテインに師事する前のこと。

. 指揮者のズービン・メータから電話があり「ソリストのミルシテインが体調を崩してイスラエル・フィルの公演に出られなくなった。テイコ、君が代役をやってくれないか」。

. メータは、イスラエル・フィルの音楽顧問でもあった。〔後略〕

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[09] グスタフ・マーラー(1860.07.07.1911.05.18)とアルマ・マーラー(1879.08.31-1964.12.11)


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17時20分 三井住友海上しらかわホール近隣駐車場発→一般道 1時間50分 82km/185km→

19時10分 帰宅

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. 帰宅したら、椿椿山『花之図』が届いていた

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【掛軸 : 椿椿山『花之図』】

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[10][左上]&[右上]椿椿山『花之図』1851年


[左下]椿椿山『花之図』1851年1

[中下]同上2

[右下]同上3〔部分〕

. 辛亥(1851年)夏日とある

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【小生 comment 】

. 此の(2022年01月29)日も充実した一日を過ごすことが出来た

. 特に前橋汀子(1943.12.11- )の Violin Recital は素晴らしかった

. 御年78歳の彼女を眼前数メートルで眺めていても、実に若々しく美しさに溢れていた

. そして、3年3か月ぶりに彼女の「私の履歴書」を読んだ

. 彼女の一つひとつの想い出の essay は、小生の様に芸術を愛する者からすると、彼女の話は「宝石箱に溢れんばかり入っている珠玉」の様に輝いて見えた

. 日経新聞の「私の履歴書」の中でも、彼女の履歴書は屈指の傑作と言ってもいい

. 上記の「ズービン・メータ(1936.04.29- )」「ヨーゼフ・シゲティ(1892.09.05- )」「オスカー・ココシュカ (1886.03.01-1980.02.22)」「ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(1903.12.31-1992.12.21)」との想い出は、此れ等超一流の芸術家たちと直接交流していた前橋汀子さんならではの存在感の大きさを改めて感じさせられた

. 此れ等の episode は、2018年10月01日~31日の日本経済新聞「私の履歴書」を引用したものだが、小生、其の時、毎朝日経新聞で彼女の想い出話を読むのが凄く楽しみだったことを思い出す〔了〕

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. ↓↓マーラーのアダージェットはこれ↓↓

https://www.youtube.com/watch?v=Fvb1ITRFXhc

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続いての話題である

. 今日も、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

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. プレ・クラス会の次は【時習26回3-7の会】クラス会・本会についてである

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2006年08月13日(日)【時習26回3-7の会】同窓会・本会《速報》

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[11][左上][右上] 2006年08月13日(日)【時習26回3-7の会】同窓会・本会


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■今泉悟です

. 先ほど(昨日、(2006年08月)12日夜)、【時習26回3-7の会】同窓会・本会を滞りなく開催し、終了しました

. 12名のclatssmatesがブラウンズに予定どおり集い、更に二次会も所用のある市川君を除く11名がスナック司に集いました

. 添付写真は、市川君を除く11名と偶然司に居合わせた【時習26回3年5組】の菅沼君、スナック司のママを加えた13名の記念写真です

. ほんと、懐かしく、楽しいひと時でした

. 別れのとき、来年の8月11日(或は18日)の再会を約して、各々、家路へと‥

. 幹事をやって、こんなに嬉しいことはありません‥

. 皆さん、来年、また、会いましょう

. そして、今年、会えなかった、皆さん、来年は必ず会えることを心からお祈りします

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. 齢(よわい)を重ねると、無性に、同期の仲間に会って、自分の存在を確かめ合いたくなりますネッ

. 因みに、今日、集った仲間12名は、以下のとおりです

. 敬称略・五十音順:市川、伊東、井上、伊庭、今泉、金子、菰田、竹内、彦坂、牧野、峯田、山中、の各氏です

. 皆さん、ご多忙中ありがとう

. 来年をまた会いましょう

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. このブログでは、mailに添付した2枚(2次会での全体写真(上述)、12名の「寄せ書き」)の他、参加者皆さんのスナップを9枚、合計10枚掲載しました

. 因みに、スナップ写真を収録したCDも後日お送り致します

. 出席された皆さん、楽しみにしていて下さいネッ〔了〕

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続いては、200608月から1年後の20070811日に開催した【2637の会】クラス会の模様から、全体写真と寄書をご紹介する

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2007年08月12日(日)【時習26回3-7の会 0118】「【2637の会】『クラス会』実施報告!」

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[11][左下][右下] 2007年08月12日(日)【2637の会】『同窓会』


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. 今泉悟です /【2637の会】会報【0118】号をお送りします

. 『クラス会』に参加してくれた【2637の会】の皆さん! 本当に、無茶苦茶楽しい同窓会でしたね!

. 18時過ぎにスタートし、参加予定者18名が全員集合!

. 流石旧【3-7】のclassmatesである

. 昨年08月12日の同窓会が12名の参加だったから、今回は鉄三先生含め5割増という盛況な同窓会となり良かった

. 二次会参加者も16名

. みんな、終了時間の22時半近くまで、「再会」→「談笑」:「懐古」「青春」「友情」「感動」「至福」の、あっと言う間の4時間半だった

. とくに東京組の皆さんは、原田君・渡辺さんは帰省ラッシュの中を7~9時間の自動車での長旅を押して‥、彦坂君は明日早朝から勤務があるため新幹線とんぼ返りを覚悟での‥、二橋君はこの『同窓会』参加だけのために単身訪豊されホテル泊までしてくれ、関西組も山中さんが駆けつけてくれた‥

. み~んな、夫々予定を繰り合わせて参加してくれた

. 勿論、名古屋方面を含め、地元在住の皆さんも夫々万障を繰り合わせて参加してくれたこと、大変嬉しく思う

. 【2637の会】の皆さんの、その心意気に「感動!」「感謝!」である

. そして、鉄三先生、我々旧【3-7】『同窓会』に参加下さいまして、誠にありがとうございました

. 先生も、我々との再会を本当に懐かしがられ、喜んで頂けた様で、幹事としても安堵致しております

. ほんと、【2637の会】のみんなはいい仲間ばかり‥

. 幹事冥利につきます / 改めまして、お礼申し上げます

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. 今日は、先ずクラス会での「全体写真」を2枚、「寄書き」を写真撮影したものを1枚、添付させて頂いた

. 18名も揃うとクラス会らしくなりますねぇ‥ / ご高覧下さい / 参加された皆さんには、後日、写真集をCDにしてお送りするつもりです / お楽しみに‥!

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更には【時習26回3-7の会】クラス会20080816日についてお伝えする

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[12] 2008年08月16日【時習26回3-7の会】クラス会


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. 【時習26回3-7の会】クラス会 2007年08月11日の snap shots を探したが見つからなかった

. 代わりに翌2008年08月16日開催の【2637の会】クラス会の snap shots が沢山収録されたCDが見つかったので、其の中から幾つかご紹介していく

. 此の写真に元気な姿で写っている鉄三先生〔前列中央〕も鈴木淳司君〔前列向かって右端〕ももういない / とても寂しいが、クラス会を開催して元気なお二人の姿を写真に収めることが出来て良かったと思っている〔合掌〕

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続いても、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

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2008年10月26日(日)【時習26回3-7の会 0209】~「10月26日:『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」

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■今泉悟です / 皆さん如何お過ごしですか / さぁ、今日も【2637の会】会報【0209】号をお送りする

. 〔前略〕10月26日(日)に、中嶋君【3-2】、今泉(谷山)君【3-3】、我等3人の城跡巡りの先生であるAさんの4人で「『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松坂牛』を堪能!」を巡った模様をご報告する

. 当日は、生憎時より小雨がぱらつく曇天

. 中嶋君が車で迎えに来てくれたのが午前7時半

. Aさん、今泉(谷山)君宅経由で、東名・音羽蒲郡IC→豊田JCT→伊勢湾岸自動車道→四日市JCT→東名阪自動車道→伊勢自動車道・津IC→津城址へ / 10:30津城址着

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【津城跡】

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[13][上]藤堂高虎像


[左下]津城跡案内看板

[右下]津城跡入口にて

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【津城の歴史】

. 津市の古称は、安濃津(あのつ)

. 平安時代以降、伊勢国の政治経済の中心地として栄えた

. 津城の起源は、戦国時代の永禄年間(1558-69年)に、細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことが起。

1595(文禄04)年 秀吉の家臣、富田知高が5万5千石を与えられ入城

1600(慶長05)年 その子、信高は関ヶ原の戦で東軍につく / 西軍毛利秀元・長宗我部盛親軍3万を、籠城し迎撃 / 信高軍1,300人は奮戦するが、木食上人の調停に拠り開城 / 此の奮戦を評価され、後2万石を加増される

1608(慶長13)年 信高は伊予国宇和島藩に移封 / 代って今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石を以て入城 / 高虎は城の大改修に着手 / 輪郭式の城郭とし、城下町を整備 / 爾来、明治維新まで藤堂氏の居城となる

1615(元和元)年 大阪冬・夏の陣の功により5万石加増

1617(元和03)年 更に5万石加増。32万3千石の大大名に / 津は江戸期、伊勢神宮参拝の宿場町として栄えた /「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭にも謡われた

1871(明治04)年 廃藩置県により廃城

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【筆者comment】

. 〔前略〕津城は藤堂高虎公の居城 / 伊賀上野城は藤堂藩の支城 / 藤堂氏は、外様大名であり乍ら家康からの信任が特に厚く、外様で唯一東海道の要衝と伊勢・伊賀国を治めた

. 此処で小生の拙句を一句‥

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.  高虎の 石垣高き 秋の伊勢  悟空

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【「まるよし」の松坂牛を堪能!】

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[14][上]まるよし・松阪牛の陶樂焼き


[下][05]まるよしにて

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. 我々は、1時間余り津城址内を散策した後、国道23号線を南下し松阪市へ向かった

. 松阪城址に入る前に腹ごしらえを、と言うことで、「松阪と言えば『松阪牛』を食さねば来た意味がない!」ということで、「松阪牛をお値打ちに!」で探して事前予約してあった『まるよし・鎌田店』に直行

. Menuは〔松阪牛の樂焼き〕一人前3,300円と『超特価!』(添付写真ご参照)

. 霜降りの松阪牛は確かに甘く柔らかく、絶品であった / 大満足!(笑)

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. 13時半、「まるよし」を後にした我等一行は、松阪城址へ向かった。

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【松坂城跡】

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[15][左]松坂城跡にて、Aさん・中嶋君・今泉(谷山)君


[右上]松阪城跡看板にて

[右中]松阪城址の石垣前にて

[右下]松阪城跡・天守閣跡

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【松阪城の歴史】

1584(天正12)年 近江国日野城6万石蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ城に入城

1588(天正16)年 氏郷は、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五森(よいほのもり)に新たに築城を開始

1590(天正18)年 氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に転封。代って服部一忠が入城

1595(文禄04)年 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したとして秀吉より叱責され自害。代って古田重勝が3万4千石で入城

1699(慶長05)年 重勝は関ヶ原の戦の軍功に拠り2万石加増

1619(元和05)年 古田氏は石見国浜田城に転封。南伊勢は紀州徳川藩の藩領に。松阪城には城代を設置

1871(明治04)年 廃藩置県に拠り廃城

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. 松阪城の魅力の一つに石垣がある

. 蒲生氏郷の美意識の高さを感じられ、「近世の先駆けとなる名城」とも呼ばれている

. 氏郷は、安土城の築城に加わったが、松阪城にもこの時の石垣造りが採用されている

. 石垣は「野面(のづら)積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法

. 此れ等は、『穴太(あのう)衆』と呼ばれる近江国坂本の石工集団が、安土城築城の際、考案したものと言われる

. 1988(昭和63)年 ~2003(平成15)年の16年間に亘り、総事業費11億円、総面積4,580㎡に及ぶ「平成の松阪城石垣修復」が実施され現在に至る

. 城跡内は、結構広く、「さぞや立派な城であったろう」と古の威容を誇った往時に想いを馳せた

. また、上記にある様に、紀伊藩は55万5千石の雄藩であるが、松阪に17万9千石、田丸に6万石の支藩を有し、この2つの支藩を合わせると79万4千石と、80万石になんなんとする大藩になる

. 親藩筆頭の尾張藩61万9,500石(支藩高須藩3万石を加えても64万9,500石)を大きく上回り、外様の№2の島津家77万3千石(琉球分9万4千石を加えると86万7千石)に次ぐ堂々3位の大大名となる

. 8代将軍吉宗以来、将軍家の出自の藩であるからか幕末まで最上級の家格を保っ

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【本居宣長記念館・鈴屋(すずのや)】

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[16][左]柱掛鈴(部分)


[右上]本居宣長旧宅

[右中]本居宣長旧宅・案内解説板

[右下]本居宣長像

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. 続いて我々は、城跡内の一廓にある「本居宣長記念館」を訪れた

. 本居宣長(1730-1801)が起居した『鈴屋(すずのや)』の家屋をはじめ、宣長関連の貴重な資料が沢山あり、大変勉強になった

. 其処で記念に購入した「松阪に生きた宣長」という冊子の中から以下の(1)(2)(3)をご紹介する

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(1) 曲解された宣長の『山ざくら』の歌」

(2)「宣長の書斎『鈴屋』」

(3)「宣長の失恋と恋の成就」をご紹介します。

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(1)「曲解された宣長の『山ざくら』の歌」

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.  しき嶋の やまとこころを人とはば 朝日に匂ふ 山ざくら花  宣長

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. 実はこの歌程論争の種になり、曲解され、悪く利用された歌も珍しい、と言えます。〔中略〕

. つまりそれは、太平洋戦争で命を捨てるのは潔いことだという意味で、〔中略〕宣長のこと歌が国粋主義的に利用されたからだといいます。〔中略〕

. 〔中略〕明治37年、煙草専売法が成立、発表されたタバコの名前が「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた、と記述されています。〔中略〕

. だから、〔中略〕本居宣長の考え方のお陰で大変な目に遭ったと。〔中略〕

. そうした曲解を何とか解こう、真の宣長の考え方を理解して貰おうと、関係者は〔中略〕努力されています。

. 「にほふ」と言うのは、「麗しく咲いている」という意味であり、ただ素直に感動を表わしているものです。〔後略〕

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(2)「宣長の書斎『鈴屋』」

. 宣長は、12歳の時まで生家に住んでいましたが、同年、現在の「本居宣長旧宅跡」に移り、72歳で亡くなる迄住みました。

. 53歳の時、宣長は二階の物置を改造して四畳半の書斎を作りました。

. 鈴の好きな宣長は、この書斎に『柱掛鈴』(添付写真[04][左]ご参照)を掛けて、その音色を楽しみました。

. そして自らこの書斎を「鈴屋」と名付け、大変有名になりました。

. 明治42年、保存と公開の為、現在の本居宣長記念館の隣に移築されました。

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(3)「宣長の失恋と恋の成就」

. 宝暦06(1756)年04月、京都で医者の修行をしていた宣長()は、父の法事の為松阪へ帰りますが、その途中、津で学友・草深玄周の家に立ち寄ります。

. 宿で泊る処、草深家で大いに歓迎してくれ、結局勧められて同家に泊ります。

. この時玄周の妹「たみ」が色々と世話をしてくれた様です。

. その時、宣長は「たみ」に一目惚れ。京に帰る時も、東海道と大和路があるのに、わざわざ津を通る東海道を選んで草深家を訪ね、酒・食事等で歓待されます。

. 勿論「たみ」も御給仕をしたでしょう。

. しかし、この時宣長は「たみ」にproposeが出来なかったのです。

. 「たみ」はこの時16歳。

. しかし宣長はまだ医者修行の身。

. 心を残し乍ら京へ旅立ちます。

. ところが、宣長の心を知らない「たみ」は結婚して仕舞います。

. しかし宣長は尚、「たみ」さんが忘れられない。

. 事実、宣長は当時としては珍しく30歳近くになっても色々縁談話を断ったといいます。

. だがついに周囲に押し切られて、「みか」という人と婚約します。

. その直後、「たみ」の亭主が亡くなったことを知りますが、「みか」と結婚します。

. しかし〔中略〕僅か3ヶ月で離婚し、改めて「たみ」に結婚を申し入れ、一年後に結婚し、「めでたし」となります。

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【「たみ」とのの恋が『源氏物語』へ】

. 宣長が、当時淫らな本として儒学者から排斥されていた『源氏物語』に傾倒し、講釈を行ったことは有名ですが、実はその理由の一つとして「たみ」への失恋、そして結婚に至る恋の成就という、自身の体験が大きく影響している、という説があります。

. 失恋の苦しみ、他人の妻になった女を忘れられない自分、そして僅か3ヶ月で結婚した相手を離縁してまでも、自分の恋を成就させたい、という男のさまを、宣長は自分自身によって知ったに違いありません。

. 人間の心とはそう言うものなのだ。

. 淫らでしどけない(=分別のない)のが人間の本性だ。

. とりわけ人間にとって最大の出来事である恋、男女の間のことはそうなのだ。

. 『源氏物語』はその恋の実相(=真実の姿)を描いたものである、というのが本居宣長の体験から出たものだ、という説があります。

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【小生comment】

. 宣長が鈴屋の二階の物置を改造して書斎とし勉学に勤しんだのが53歳の時。

. まさに現在の我々の歳である。

. 我々もまだまだ勉強出来るぞ!(笑)

. また、本居宣長と言えば、堅物な学者というimageが強かったのですが、彼の「失恋から恋の成就へのprocess ‥ それが『源氏物語』研究へ傾倒していく」姿を知り、同性の男としての小生、宣長が微笑ましくもあり、また頼もしくも感じた次第。

. 松阪城址と本居宣長記念館を訪れた時、地元のvolunteer の方々が我々観光に来た者に、無料でお茶を振る舞ってくれ、丁寧に史跡・史実について説明してくれた。

. 我々は久し振りに日本人が本来持っている「相手を思いやる優しい心」に直接触れることが出来、大変心地良いひとときを過ごすことが出来たと思う。

. 城址巡りの先生であるAさんも、「今日の津城址・松阪城址巡りは久し振りにいい城巡りでとても良かった」と仰っていた。

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【松阪商人の館(小津清左衛門家住宅)・三井家発症の地】

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. 旅の最後に、松阪市内にある「松阪商人の館」を訪れた

. 此の area の一廓に「財閥三井家の発祥の地」という屋敷跡があった

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[17][左]松阪商人の館の看板


[右]三井家発祥の地

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【後記】今日は、小生のちょっとした拘りの趣味をご紹介して締め括ることにする

. 写真は、10年位昔のことだったか、正確な日時は失念したが、渥美半島の白谷海浜公園で拾ってきた小石4

. 此等4個の小石は、皆味わいある色合と形をして気に入っていて、小生、御守りの様に大事にしている

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[18]小生の御守りの小石4個


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. 此の4個の小石の色は【唐三彩】の色合いだ

. だから4個揃って balance がとれた落ち着いた感じがするのだナと改めて思った

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【唐三彩】唐三彩(とうさんさい(三彩と))は、唐代の鉛釉を施した陶器で主に副葬用に制作された

. 所謂、唐三彩は唐代の陶器の上の釉薬の色を指し、後に唐代の彩陶(上絵を施した陶器)を総称する語として使われるようになったという

. 色は、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫 etc.

. 特に、「クリーム色・緑・白」、「緑・赤褐色・藍」、其々三色の組み合わせの【唐三彩】が有名

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. では、また‥(了)

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