2018年8月31日金曜日

【時習26回3-7の会 0720】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之五〔第20回〕』」「08月11日:旧東海道「御油」宿から「赤坂」宿迄を歩いて」「08月18日:名古屋ボストン美術館→古川美術館→三菱UFJ銀行貨幣資料館→碧南市藤井達吉現代美術館を巡って~〔第2回〕」「08月19日:深川不動堂→富岡八幡宮→日本道路元標→東京都美術館→ホテルオークラ美術館→山種美術館→郷さくら美術館東京→東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館→三鷹市美術galleryを巡って~〔第2回〕」「08月25日:徳川四天王のうち3人の生誕地他を巡って〔第1回〕」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0720】号をお届けします。
 今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之五〕連句集についてである。
 今回は通算〔第20回〕目で、「秋の部」の〔第2回目〕である。
「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第77句~80句をお届けする。
 では、「秋〔きりぎりす〕」の連句全36句の第5句目からの8句をご覧頂きたい。
 
  猿蓑集 巻之五

77 千代(ちよ)()べき物(もの)を様々(さまざま)子日(ねのひ)して  ()

【意】子日の祝宴の場には千年(=千代)経ったと思われるモノ(=家宝)が陳列されている
【解説】季語:春「子日」/ 前句を正月初「子日(ねのひ)」の祝と定め、野に出て小松を引き、その他様々な若菜を摘み祝った宮廷行事を想像して詠んだ句 /
 近世になり、庶民も此の宮廷行事を真似て祝宴を開く様になった /
「千代(ちよ)()べき ものをさながら 集むとも 君が齢を知らむものかは / 西行〔山家集〕」を踏まえている /

78 (うぐひす)の音()にだびら雪(1)()る  ()

【意】前句の「初子日」の頃 / 鶯の鳴き声が聞こえるというのに、牡丹雪が降っているヨ
【解説】季語:春「鶯」/「子日―鶯のこゑ」(類船集)
(1)だびら雪:「だびら」とは「だびらひろ」のことで、幅の広い刀を言う /
「だびらひろ」の様に薄く大片の雪を言い、「牡丹雪」のこと

79 乗出(のりだ)して肱(かひな)(1)に餘(あま)る春の駒(こま)  ()

【意】(前句を受けて)早春の日、若馬を野に連れ出すと、牡丹雪が降る中を、嬉しさで御し切れない程興奮して走り出したヨ
【解説】乗り始めた若駒が、折から降って来た雪に勇み逸り、御しかねる程の勢いある様として詠んだ
(1)(かいな):肩から肘迄の間 / 二の腕 / 又は、肩から手頸迄の間をいう
 
80 摩耶(まや)が高根(たかね)(1)に雲(くも)のかゝれる  ()
 
【意】摩耶岳(=六甲連邦の山)には雲がかかっている
【解説】前句の「駒」から、飼い馬の厄除けの寺として知られる「摩耶山の忉利天上(とうりてんじょう)寺」をかけて詠んだ
(1)摩耶(まや)が高根(たかね):摂津国武庫郡(神戸市の北東/神戸市灘区摩耶山町)にある山 /
 山頂に仏母山忉利天上寺がある / 二月初午の日に参詣すると、飼い馬の難を除く御利益があると云う

【小生comment
 今回ご紹介した此等4句の連句は、いずれも品があってなかなかいい。
 次号《会報》では「秋の部」第3(通算第21)をお届けするのでお楽しみに!

■続いての話題は、一寸前の話になるが、0811(祝土)に旧東海道「御油」宿~「赤坂」宿を訪れた模様についてお届けする。
 小生、0811(祝土)15()迄夏季休暇を五連休で貰っていた。
 其処で、家にジッとしているのは勿体ないと考え 0815分に拙宅を出て、豊川市御油町へ。
 松尾芭蕉が33歳の時に詠んだ、

  夏の月 御油より出()でて 赤坂や  桃青〔松尾芭蕉〕 

 と詠んだ石碑がある関川神社を訪ねてみたくなって訪れた。
 ホントは、此の句の「上五」にある「夏の月」を実際に見たかったので、夜に出かけたかったのだが‥。
 其の日は、既に時節は『立秋』で、新月の夜だったので月は出ない夜だった為、夜に出かけるのは諦めた。

0815分 拙宅発→〔一般道 国道1号線 12km〕→
0845分「豊川市御油の松並木資料館」着

[01]御油の松並木資料館前にて

[02]歌川広重「東海道五十三次~『御油〔旅人留女〕』宿」
    
 
 此の資料館の開館は1000分だったので、先に0900分開館の「赤坂宿資料館」を見ることにした。
 御油の松並木資料館駐車場に車を駐車して、旧東海道「御油松並木」を散策し乍ら「赤坂宿」迄往復することにした。

0850分 同所発→〔徒歩〕→
0853分 御油宿掲示板着

[03]御油宿 解説板


 御油の松並木資料館を出発して直ぐの旧東海道の道路脇に解説板はあった。

0906分 御油松並木着
 
[04]御油の松並木にて1
      
[05]御油の松並木


0929分 関川神社着
 
[06]関川神社
         
[07]関川神社内の芭蕉の句碑の横にて


 松尾芭蕉の「夏の月 御油より出でて 赤坂や」の石碑を愛でた。
 此の名句から芥川龍之介『芭蕉雑記』の「耳」で評した次の一文が浮かぶ。
「もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。
 僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。
 のみならず「調べ」にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。
 芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。
 しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。
 いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。

   夏の月御油より出でて赤坂や

 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。
 この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。
 寧ろ多少陳套()の譏(そし)りを招きかねぬ技巧であらう。
 しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
〔中略〕

   秋ふかき隣は何をする人ぞ

 かう云ふ荘重の「調べ」を捉へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。
 芭蕉は子弟を訓へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。
 この言葉は少しも大風呂敷ではない。
 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である。」

0938分 赤坂宿 本陣跡着

[08]赤坂宿町並の図
    

0939分 赤坂宿 高札前着

[09]赤坂宿高札

[10]歌川広重「東海道五十三次~『赤坂〔旅舎招婦ノ図〕』宿」
    

0944分 旅籠「大橋屋」着‥修復工事中‥
0948分 赤坂宿 資料館着

【小生comment
 此の日は暑かった。
 旧東海道五十三次の「御油」と「赤坂」の宿場間の距離は、16(1.6km)と一番身近い距離だった。
 因みに、一番宿場間の距離が長かったのは、海路の「宮(熱田)」と「桑名」の間の7(27.5km)
 陸路では「小田原」と「箱根」の宿場間の48(16.6km)で、「御油」「赤坂」間の丁度10倍の距離があった。
 御油と赤坂の宿場間の距離が短かった為、宿場女が旅人を奪い合うということがあった様で、其の模様が広重の絵にも反映されている。
「東海道五十三次」の「五十三次」とは、「日本橋」を出立し、京都「三条大橋」に到る間にある「1.品川」宿~「53.大津」宿迄の53の宿場町を言う。
 因みにご当地豊橋には、33番「二川」、34番「吉田」の宿場町があり、35番「御油」、36番「赤坂」の順であった。

■続いてお届けするのは、前《会報》に続いて去る0818()、小生が月に一度の名古屋市東区にある歯科医院へ歯科健診の日での出来事の〔第2回目〕。
 健診のついでに4つの美術&貨幣資料館を見て来た模様のうち、2つ目に訪れた古川美術館『ジュディ・オング倩玉/木版画の世界/~作家ジュディ・オング倩玉の魅力~』展についてお伝えする。

1045分 名古屋ボストン美術館発→〔一般道6.3km〕→
1110分 古川美術館着
1115分 古川美術館『特別展「ジュディ・オング倩玉/木版画の世界/~作家ジュディ・オング倩玉の魅力~」』展

[11]古川美術館入口 本企画展banner前にて

[12]本企画展leaflet
        
[13]ジュディ・オング倩玉『湖光亭影〔木版画〕』2010年‥日展入選作品

[14]同『紅楼依緑〔木版画〕』2005年‥第37回日展特選受賞作品
    
[15]同『紅楼迎賓〔木版画〕』2014年‥改組新 日展入選作品

[16]同『夏の涼夢〔木版画〕』1999年‥白日会75周年記念
          
[17]同『廊橋浅秋〔木版画〕』2010年‥日展入選作品

[18]同『雨過苔清〔木版画〕』1999
    
[19]同『鳳凰迎祥〔木版画〕』2003年‥日展入選作品

[20]同『涼庭忘夏〔木版画〕』2008年‥日展入選作品〔本作品は本企画展展示作品ではない〕
    
[21]同『祇園白川〔木版画〕』2004年‥第80回記念白日展〔同上〕


【小生comment
 正にtalent ジュディ・オング倩玉 である。
 英語・中国語・スペイン語・日本語の語学堪能。
 優れた歌唱力。容姿端麗。一流の木版画家。
「天は二物を与えず」という格言が空しく聞こえる程の彼女の才女ぶりである。〔脱帽!〕

1200分 古川美術館発→〔一般道4㎞〕→
1215分 らあめん陣屋着
1220分 らあめん陣屋〔昼食〕

[22]陣屋店内counter超しに見える藤井総太七段〔四段当時の27手詰将棋と六段当時の『飛翔』揮毫〕の色紙
     
[23]らあめん陣屋店頭にて


1300分 らあめん陣屋発→〔一般道500m〕→
1308分 三菱UFJ銀行貨幣資料館着

■次にお届けする話題も、前《会報》に引き続き、08182325分豊橋駅前発の関東バスの高速夜行バス「ほの国号」で上京した時の話をお届けする。
 0819日の早朝0515分に新宿駅西口着→新宿駅→都営地下鉄大江戸線→門前仲町へ
 同地の「深川不動堂→富岡八幡宮→日本道路元標→東京都美術館→ホテルオークラ美術館→山種美術館→郷さくら美術館東京→東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館→三鷹市美術gallery」と6つの美術館を巡った7seriesの〔第2回〕をお届けする。

0904分 三越前駅発→地下鉄銀座線→上野駅へ
0910分 上野駅着→徒歩10分→
0920分 東京都美術館着
0930分 東京都美術館『没後50年 藤田嗣治』展

 事前に入館用ticketを購入していたので、直ぐ開館と同時に直ぐ入館出来ると思っていたが、人気画家の大規模回顧展ということもあってご覧の通り長蛇の列だった。
 入館開始時間に入館を待たされたのは、昨秋(20171123)に京都国立博物館で見た国宝展以来である。
 本企画展leafletに、本展開催の意義と概要が簡潔に述べられていたので一部引用してご紹介する。

「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をFranceで暮らし、晩年にはFrance国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ(1886-1968))
 2018年は、エコール・ド・パリの寵児の一人であり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目に当たる。
 この節目に、〔中略〕画業の全貌を展覧する大回顧展を開催する。
 本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」等のthemeを設け、最新の研究成果お盛り込み乍ら、藤田芸術を捉え直そうとする試みである。〔後略〕」
 
[24]東京都美術館入口近くの本企画展看板前にて
       
[25]東京都美術館内入口の混雑ぶり

[26]美術館内入口の本企画展看板
    
[27]本企画展leaflet

[28]藤田嗣治
        
[29]藤田嗣治『カフェ』1949年裸婦」

[30]同『自画像』1910
          
[31]同『父の像』1909

 藤田嗣治の父藤田嗣章は、森鴎外の後任として陸軍軍医総監(=中将)になった人物。

[32]同『自画像』1929
        
[33]同『ヴァイオリンを持つ子供』1923

[34]同『横たわる裸婦』1922
    
[35]同『サイパン島同胞臣節を全うす』1945

[36]同『優美神』1946-48
    
[37]同『フルール河岸、ノートル=ダム大聖堂』1950

[38]完成間近の礼拝堂のentranceで語り合う藤田と君代
    

1015分 東京都美術館発→上野駅→地下鉄銀座線→虎ノ門駅へ
 
【小生comment
 藤田嗣治の60年以上に及ぶ画業の生涯は正に波乱万丈!
 27歳になった1913年に渡仏し、ParisMontparnasseに住み、ピカソ、モディリアーニ、シャガール達と交わり、エコール・ド・パリの寵児となった。
 そんな彼は、太平洋戦争中には戦争画も描いた。
 戦後、戦犯にならずに済み、渡仏後はFrance人となって、宗教画に没頭する。
 時代の流れが、藤田を翻弄したとも言える。
 ‥なんてことを考え乍ら観覧出来たとても有意義な企画展だった。

■今日最後の話題は、0825日:徳川四天王のうち3(榊原康政・本多平八郎忠勝・坂井忠次)の生誕地他を巡ってを3seriesでお届けしていくつもりである。
 今日はその〔第1回〕をお届けする。
 其の日は、routineの朝の筋トレ、入浴、朝食を済ませた後 My carで家康所縁の史跡を岡崎&豊田方面に訪ねた。

0920分 拙宅発→〔一般道 国道1号線 41.3km〕→
1040分 岡崎市細川町御前田着/細川御前田城址

[39]細川御前田城址石碑

[40]同上前にて1
        
[41]同上2

[42]同上3
     
[43]同上石碑すぐ傍の「細川」交差点

[44]細川御前田の隣「仁木」交差            
    

 細川義季(よしすえ(生没年不詳))は、鎌倉時代の武将で、清和源氏の一族 足利氏の祖 義康の長子義清(矢田義清(?-1183))の孫で広沢義実(矢田義実)の子。
 三河国守護 足利義氏の一族で、御家人となった義季が三河国細川郷に土着し、細川姓を名乗ったのが細川氏の始まり。
 因みに、義季の兄 実国は、細川郷の隣 仁木郷を領し、仁木氏を名乗った。

1135分 細川御前田城址発→〔一般道 3km〕→
1150分 上野城址着‥榊原康政 生誕地

[45]]上野城址(上野上村城址)解説板

[46]上野城址にある「榊原康政生誕之地」石碑前にて1
     
[47]同上2

[48]「榊原康政生誕之地」石碑と「諸国古城の絵図」解説板
    

 上野城址は、徳川四天王の一人 榊原康政(1548-1606)が生誕した所。
 榊原氏は三河仁木氏の一族で、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を名乗った。
 榊原康政の系統は、伊勢国から三河に戻った分家筋の一つ。
 康政は、1548(天文17)年 松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣 榊原長政の次男として此の地 三河国上野郷(現・豊田市上郷町)に生まれた。

1590(天正18)年 家康関東移封後、上野国館林城(現・群馬県館林市)10万石で入封
1600(慶長05)年 関ヶ原の戦では、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍

 信濃上田城の真田昌幸攻め中止を進言するが、秀忠と共に合戦に遅参。

『藩翰譜』には、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に感謝していたという。

1606(慶長11)56日 毛嚢炎を煩い、14日巳刻に館林にて死去(享年59)

1200分 上野城址(榊原康政 生誕地)発→〔一般道 4㎞〕→

【後記】そう言えば、細川御前田城址の石碑の周りは、ご覧の様にまだ花は咲いてなかったけれど、「秋の七草」の一つ『葛』が群生していた。
 もう少し経てば、写真の様に可憐な『葛の花』を見られる。
 今日は、「秋の七草」を短歌で覚える方法をご紹介してお別れする。

  萩・桔梗/葛・女郎花/藤袴 // 尾花(=)・撫子 秋の七草
  ハギ・キキョウ クズ・オミナエシ フジバカマ // オバナ・ナデシコ 秋の七草〔了〕

 結構覚え易いデショ!?(^-)b

[49]葛の花1

[50]同上2
        

 では、また‥〔了〕

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