2016年12月25日日曜日

【時習26回3-7の会 0632】~「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第6回〕(名護屋に入程風吟ス)」「12月18日:浜松市美術館『クールベ・ルノワールからマチスまで~女性を描く』展を見て」「梶本修身『すべての疲労は脳が原因』を読んで」


皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0632】号をお送りします。

■さて今日は、久しぶりに松尾芭蕉(1644-94)の第一作目となる紀行文『野ざらし紀行』〔第6回〕をお送りする。
 前回は、〔第5回〕にて、今から332年前の1684(貞享元)年九月下旬(新暦1107日~25日頃)に芭蕉一行が訪れた「熱田へ」についてお話した。
 今日は、「名護屋に入程風吟ス」についてである。
 早速御覧頂きたい。

1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦168492029日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。
【済】八月二十日過ぎ(新暦0930日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦1008(猶、八月は小の月につき晦日は29) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦1016)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦1028日~1106)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
◆【前(4 & 5 )回&今(6)回】十月初旬~中旬(新暦1107日~25日頃)‥・【済】伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て【第5回】熱田へ
 十月下旬(新暦1125日頃~1206)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
 十二月廿五に(新暦16850129)‥・伊賀上野に帰り越年

1685(貞享02)年 ※
 二月(初旬から中旬廿日迄(新暦0305日~0324)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を配す
 因みに、東大寺二月堂の修ニ会(しゅにえ(=おみずとり))は二月一日~十五日(現在は、新暦030114日に行われる)
 二月下旬(廿一日~晦日(新暦0325日~0403)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
 三月上旬(朔日~十日(新暦0404日~13) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
 三月中旬(十一日~廿日(新暦0414日~23)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
 四月四日(新暦0506) 鳴海の下郷知足を訪ねる
 四月五日(新暦0507) 熱田へ戻る
 四月九日(新暦0511) 再び鳴海へ赴く
 四月十日(新暦0512) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
 四月下旬(廿一日~晦日(新暦0523日~0601)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着

《原文》
 名護屋に入(=いる)道の程、風吟(1)ス。

狂句(2)木枯の身は竹斎(3)に似たる哉

       草枕犬も時雨るかよるのこゑ

雪見にありきて

市人(いちびと)よ此(この)笠うらふ(=)雪の傘

旅人をみる。

馬をさへながむる雪の朝(あした)

 海辺に日暮して

海くれて鴨のこゑほのかに白し

《現代語訳》
 名古屋に入る道の途次、句を吟じた。

【意】狂句を詠み乍ら旅をしている自分を見ると、あの仮名草子の主人公「竹斎」にも似ている様だ
【季語】「木枯」:冬 
【解説】この句は、連句『冬の日』の巻頭の句/「竹斎」は仮名草子『竹斎』の主人公の藪医者
    芭蕉は自らを竹斎と重ね合わせている

【意】時雨が降りしきる夜/旅寝の枕に犬の声が聞こえて来る/犬も時雨の侘しさに耐えかねて鳴いているのかナ
【季語】「時雨」:冬
【解説】「犬も」とあることで、芭蕉が犬と風狂の情を味わっている

雪見に浮かれ歩いて、 

【意】町の皆さん、この笠を売ります! 雪を被った風流な笠ですヨ
【季語】「雪」:冬
【解説】「笠」も風狂の系譜上にあるものとして表現されている

旅人を見る。

【意味】雪の朝は何もかも新鮮に見える/普段は気にも留めない馬にも目が行くのだヨ
【季語】「雪」:冬
【解説】この句は「熱田」での作/『熱田皺筥物語』にはこの「発句」に「木の葉に炭を吹起こす鉢/閑水」「はたはたと機織音の名乗きて/東藤」の脇・第三までをあげる

海辺に一日中過ごして、

【意】海を見ているだけで今日も日が暮れいく/沖から鴨の声がほの白い感じで聞こえて来る‥
【季語】「鴫」:冬
【解説】『熱田皺筥物語』には「【前書】尾張国熱田にまかりけるころ、人々師走の海見んとて、舟さしけるに」とある

《語句》
(1)風吟:詩歌を吟ずること
(2)狂歌:『泊船集』『三冊子』では、のち「狂歌」の二字を省く
(3)竹斎:仮名草子(4)『竹斎』の主人公/藪医者/狂歌を詠み乍ら江戸に下る途中名古屋へ立ち寄る
(4)仮名草子『竹斎』:作者富山道冶(?-1634(寛永11))は、伊勢国松坂の商家の出身/京都の名医曲直瀬玄朔について医学を修めた
本作は、1621(元和07)年頃の作/竹斎のmodelは富山の師の曲直瀬玄朔と言われている
(5)ありく:浮かれ歩く

【小生comment
 芭蕉は、この後、故郷の伊賀上野に戻り越年し、二月に東大寺二月堂に詣で、修二会に立ち会う。
 この模様は、332年前の同じ頃の事象としてお届けするので、来月01月下旬を予定している。
 お楽しみに!

■さて、続いての話題は、1218日に浜松市美術館にて見て来た『クールベ・ルノワールからマチスまで~女性を描く』展についてである。
 本展は、19世紀中葉から20世紀前半かけてFranceで活躍した47人の画家たちが描いた女性たちの絵画約60点の企画展である。
 本展は、いわき市美術館、佐世保博物館島瀬美術センター、横須賀美術館、浜松市美術館と地方の美術館のみの巡回企画展である。
 一見地味な展覧会かと思ったが、名品が沢山あって見て大変充実した素晴らしい企画展だったと思う。
 以下に気に入った作品を17(本展leafletRenoirの作品を含む)をご紹介する。

[01]浜松市美術館の外側壁面上部に掲示された本展看板
[02]浜松市美術館入口
                  
[03]本展leaflet/右絵:Auguste Renoir(1841-1919)『肖像画の習作』製昨年不詳

[04]Gustave Courbet(1818-77)『回想(La Reflexion)1864
                           
[05]Julien Dupre(1851-1910)『草原の中で(Dans la prairei)1881

[06]Auguste Renoir『麦わら帽子の少女』1885
                  
[07]Jean -Paul Laurens(1838-1921)『東洋の女性』製昨年不詳

[08]Edmond Picard(ピカール)(1861-99)『甘い待ち時間』1894
                  
[09]Henri Le Sidaner(1862-1939)Piettre(ピエトル夫人の肖像)1896

[10]Pierre Bonnard(1867-1947)『服を脱ぐmodel』制作年不詳
                  
[11]Remi Cogghe(コッグ)(1854-1935)『洗濯女』1907

[12]Suzanne Valadon(1865-1938)contrabass奏者』1908
                  
[13]Antoine Calbet(アントワーヌ・カルベ)(1860-1944)Les Ondines (オンディーヌ)1909

[14]Auguste Renoirmademoiselle Francois1917
                  
[15]Henri Matisse(1869-1954)Marguerite Matisse1921

[16]Andre Maire(メール)(1898-1984)Andre Maire夫人』1924-25年頃
                  
[17]Germaine Lantoine-Neveu(ラントワーヌ=ヌヴー)(1892-1978)『自画像』1925年頃

[18]Moise Kisling(1891-1953)『赤い洋服のMontparnasseのキキ(Kiki)1933
                  
[19]Marie Laurencin(1885-1956)『ギターを持つ若い女性』1940

【小生comment
 ご覧になって如何でしたでしょうか?
 皆さんは、誰のどの絵が気に入りましたか?
 いつの時代も男にとって女性は、「賢い母」であり、「頼りになるpartner」であり、「美しく愛しい恋人」‥かな?

■今日最後の話題は、最近読んだ梶本修身『疲れているのは体じゃない 脳だった!』についてご紹介する。

 なぜ「体が疲れた」と感じるのか?
 その答えは「脳の自律神経の中枢」にあった。
 ヒトは、運動を始めると、数秒後には心拍数が上がり、呼吸が速く大きくなる。
 又、体温の上昇を抑える為に発汗する。
 それを秒単位で制御しているのが「脳の自律神経の中枢」と呼ばれる視床下部(ししょうかぶ)や前帯状回(ぜんたいじょうかい)なのである。
 運動が激しくなると、この「脳の自律神経の中枢」での処理が増加する。
 その結果、脳の細胞で活性酸素が発生し、酸化 stress の状態に晒されることで錆びつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。
 これが脳で「疲労」が生じている状態、つまり「脳疲労」である。
 そして、ヒトは、その時に「体が疲れた」とという signal を眼窩前頭野(がんかぜんとうや)に送り、「疲労感」として自覚するのである。
                 〔はじめに‥疲労を科学することとは‥より〕

 第一章/疲労の原因は脳にあり
 第二章/疲労の原因物質とは‥疲れの直接の原因となるのは活性酸素‥
 第三章/日常的な疲労の原因はいびきにあった
     →・夕方以降は、
      [1] 照明を浴びない様に、
      [2] 入浴は、就寝前12時間前に3840度の湯船に8分程度、
      [3] 夕飯は、就寝前3時間に食べ終わる様に低脂肪で消化のよい menu にすると、安眠できる
 第四章/科学で判明した脳疲労を改善する食事成分
     →・疲労回復成分
      [1]「〔抗酸化と細胞の損傷を防ぐ〕【イミダペプチド】」を、鶏の胸筋かsupplementで、
      [2] 「クエン酸〔mitochondriaで再びenergyが産出され〕」を、摂取すれば、疲労が回復
 第五章/「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する
     →・自然環境に存在うる人の生体も常にゆらいでいるから、自然界の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることが「心地よさ」を齎している
     →・観葉植物の緑色の葉っぱを一枚ちぎり、くしゃっと丸めるだけでも「緑青の香り」を嗅ぐことができる
イミダペプチドと違い「緑青の香り」は即効性が高い一方で、抗疲労作用はその場限りのもの
       その特徴を踏まえ、眠る直前や仕事等で疲れが溜まりそうな時に「緑青の香り」を嗅ぐのが効果的
 第六章/脳疲労を軽減するためにworking memoryを鍛える
     →・working memory とは、real timeinputされる情報(=短期記憶)を受け入れ乍ら、
過去の記憶、学習、理解等(=長期記憶)と結び付けて複数のことを同時に考える、又行うことを可能にする脳の力、一連の動き
     →・効果的な「記憶のタグ付け」のコツは「感動する」こと
     →・「記憶にタグ付け」で情報を有効活用する
     →・working memory の基礎力は「再生」にあり〔P.184
※ Working memory を強化する時に大事になるのは、記憶力の「再生」能力である
  ヒトは記憶を想起する時、「再生(Recall)」と「再認(Recognition)」を行っている
 これは認知心理学の用語だが、「再生」とは「Hint なく過去の事象を自分で思い出す」ことで、
 「再認」とは「Hintや選択肢等連想に拠って思い出す」ことをいう
 「再生」は加齢と共に低下し、「再認」は加齢には左右されにくいことが分かっている
 そして「再生」力を鍛えるには、「記憶に『感動』を伴うことが必要で、そうする為には「日常生活に感動する機会を増やす」こと重要になって来る
 「趣味やsportsの時間を持つ」「展覧会に出かける」「旅をする」「友人との会話を楽しむ」等の行動を起こすことにより、その時、その場所、その状況での新しい情報を、喜怒哀楽を伴う感動した事象として個々のタグをつけることが出来る
 すると自然と「再生」力の向上に繋がっていく
     →・日常的に working memory を鍛える3つの方法
      [1] ものごとを多面的にみる習慣をつけること
      〔‥・多面的にみてタグ付けが多い記憶ほど検索し易くなり、其処に感動が伴うと検索効率は更に向上する〕
      [2] 多くの人と会話して communication を交わすこと
      [3] 色々な事象に興味を持ち、多趣味になること
      〔‥・沢山の趣味がある程、様々な分野の事柄に感動し易くなり、タグ付けされた記憶が増える〕

[20]梶本修身『すべての疲労は脳が原因』&『同2』
                  
【小生comment
 「趣味やsportsの時間を持つ」「展覧会に出かける」「旅をする」「友人との会話を楽しむ」等の行動を起こすことにより、その時、その場所、その状況での新しい情報を、喜怒哀楽を伴う感動した事象として個々のタグをつけることが出来る‥‥という梶本氏のcommentは、小生、日々実践中の事柄であり、「我が意を得たり」である。
 引き続き、「再生」力の低下を極小化して、いつまでもボケない脳で元気に生きていきたものである。

【後記】1218日訪れた浜松市美術館は、同じ公園内に浜松城がある。
 その日は快晴で、お城がとても綺麗に見えた。
 その野面積みの石垣で有名な浜松城の写真を3枚ご紹介してお別れする。

[21]浜松城天守閣1

[22]浜松城天守閣2
                  
[23]浜松城天守閣3

 ではまた‥。()

 ブログへは【0626】号迄のback numberは、URL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog ←ここをclickして下さい


2016年12月16日金曜日

【時習26回3-7の会 0631】~「11月22日~24日:『古都奈良一人旅』〔三日日(=最終日)〕~法輪寺→法起寺→中宮寺→法隆寺 夢殿→(法隆寺五重塔)→司馬遼太郎記念館→美術館「えき」KYOTO」「11月24日:美術館「えき」KYOTO『マリーローランサン』展を見て」「11月29日:名古屋ボストン美術館『俺たちの国芳 わたしの国貞』展を見て」「12月07日:愛知県美術館『日本で洋画、どこまで洋画』展を見て」「青山俊菫『泥があるから、花が咲く』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も《会報》【0631】号をお送りします。
 前々《会報》【0629】号、前《会報》【0630】号と3 series でお伝えして来た、1122()24()の三日間に亘る晩秋の『古都奈良一人旅』も今日が〔三日目〕で最終日となる。
 それでは早速今日も暫くの間、小生と共に『古都奈良』の旅をご一緒下さい。

【三日目(1124())

0800分 スーパーホテル奈良・新大宮駅前 発 →〔(南西へ車13km 30)
0830分 法輪寺 駐車場 着

 寺の解説書に法輪寺について以下の通り説明している。

 法輪寺の創建は、聖徳太子の御子 山背大兄王が、その子由義王と共に、太子の病気平癒の為に建立されたと伝える。
 昭和25年の発掘調査に拠り、当寺が法隆寺式伽藍配置であり、法隆寺西院伽藍の2/3の規模であること等が明らかになった。
 又、飛鳥時代の薬師如来座像【重文】と虚空蔵菩薩立像【重文】(添付写真[02])を伝えることから、七世紀末頃には寺観が整っていたと考えられ、十一面観音立像【重文】(添付写真[03])等平安仏を多く伝えることから、平安時代には寺勢猶盛んだった様である。

 [01]法輪寺 三重塔〔昭和19年消失、昭和50年再建〕

 法輪寺が現在の規模になったのは、江戸時代の正保02(1646)年の台風に拠るもので、金堂・講堂を始め諸宇悉く倒壊し、三層目を失った三重塔だけが残ったと伝える。
 その後宝暦年間(1751-64)に三重塔が修理され、金堂・講堂等が再建されたが、昭和19年に至り三重塔は雷火にて消失した。
 そして、昭和5004月三重塔は再建され、現在に至る。

[02]法輪寺【重文】虚空蔵菩薩立像
                  
 虚空蔵菩薩立像について、亀井勝一郎は著書『大和古寺風物誌』で法輪寺「虚空蔵菩薩」の項を設け、次の様に紹介している。

 ところで飛鳥仏の裡(うち)でも風格をそなえた美しい虚空蔵菩薩立像は〔中略〕何処拠り伝来したみ仏かむろんわからない。
 印度仏ともいう。
 或は聖観音ともいわれる。
 すべての飛鳥仏のごとく下ぶくれのゆったりした風貌、茫漠とした表情その儘左手に壺をさげて悠然と直立している。
 不動のみ姿であるが、いまにも浮々と遊び出る様な春風駘蕩たる風格も偲ばれる。〔中略〕
 千三百年間、ついぞ安定を知らなかった現在迄、こうして佇立しているのである。
 不安動揺の人間の悲劇が凝(こご)って、この無比の菩薩像が立ちあらわれたに違いないが、あの駘蕩としてのっぺりした御顔を仰いでいると、「まあ、我慢したまえ。地獄は永久に続くぞよ」と平気で仰有(おっしゃ)っている様にみえる。― 昭和17年秋 ―

[03]法輪寺【重文】十一面観音立像〔←大和路 秀麗 八十八観音の一つ〕

 十一面観音立像について、亀井勝一郎は同じく『大和古寺風物誌』~法輪寺「虚空蔵菩薩」の項で次の様に述べている。

 また講堂の本尊たる十一面観音立像は、おそらく一丈(【小生注】=3m)余りもあろうが、大和古寺の諸仏のうちでもこれほど大きな眼をもっている菩薩像を私は知らない。
 どうしてあんなに大きい眼玉なのであろう。

0845分 同所 発 →〔東へ車 0.8km 3分〕
0850分 法起寺 着

[04]法起寺【国宝】三重塔
                  
[05]法起寺【重文】十一面観音像

 本寺は、推古14(606)年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられる。

0910分 同所 発 →〔南南西へ車1.2km 4分〕
0915分 法隆寺 夢殿&中宮寺 近隣民営駐車場 着 →〔南へ徒歩300m 5分〕
0920分 法隆寺 夢殿 四脚門 着 →〔北へ曲がり程なく東へ徒歩100m 3分〕
0925分 中宮寺 着

 本寺は、聖徳太子の御母穴穂間人(あなほべのはしひと)皇后のご祈願に拠り、太子の宮居斑鳩宮を中心にした、西の法隆寺と対照的な位置に創建された。
 本寺は、何と言っても、実に美しい御仏【国宝】寺伝如意輪観音像(=菩薩半跏像)である。

 和辻哲郎が著書『古寺巡礼』で、次の様に紹介している。

 あの肌の黒いつやは実に不思議である。
 この像が木であり乍ら銅と同じ様な強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。
 またこのつやが、微妙な肉づけ、微細な面の凹凸を実に鋭敏に生かしている。
 その為に顔の表情なども細やかに柔らかに現われてくる。
 あのうっとりと閉じた眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際に光っている様に見え、あのかすかにほほえんだ唇のあたりに、この瞬間にひらめいて出た愛の表情が実際に動いて感ぜられるのは、確かにあのつやのおかげだろう。
 あの頬の優しい美しさも、その頬に指先をつけた手のふるいつきたい様な形のよさも、腕から肩の清らかな柔らかみも、あのつやを除いては考えられない。〔中略〕
 わたくしたちはただうっとりとしてながめた。
 心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるという様な気持ちであった。
 ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされている。
 まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである。〔後略〕

[06]中宮寺 本堂
                  
[07]本尊【国宝】如意輪観音像(=菩薩半跏像)

[08]同上 拡大(部分)
                  
【小生comment
 今回の『古都奈良一人旅』の最大目的は、『浄瑠璃寺/吉祥天女像』『興福寺国宝館/阿修羅像』『秋篠寺/伎芸天像』『中宮寺/菩薩半跏像』の4つの美しい仏像を拝むことだった。
 いずれも甲乙つけがたい美しく素晴らしい仏像だったが、「4つの仏像の中から一つだけ選べ」と言われたら、『阿修羅像』か『菩薩半跏像』悩んだ挙句、最終的には、『中宮寺/菩薩半跏像』を選ぶだろう。
 何となれば、美しさだけならば『阿修羅像』が一番だが、和辻哲郎が『古寺巡礼』で『弥勒半跏像』を「優しい愛の涙が、実際に光っている様に見え/慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされ/まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさ」と絶賛していた言葉に尽きるからだ。

0952分 同所 発 →〔西進み程なく左折し南へ徒歩100m 3分〕
0955分 法隆寺 夢殿 着

[09]法隆寺【国宝】夢殿

 東院伽藍は、聖徳太子の宮殿があった斑鳩宮(いかるがのみや)の旧地で、その中心となる建物が「夢殿」である。
 『法隆寺東院縁起』には、天平11(739)年に僧行信(ぎょうしん)の発願に拠って創建され、太子の御影である救世(くぜ)観音が安置されたことが記されている。
 現在の建物は寛喜(かんぎ)02(1230)年の修理に拠って屋根部分が改造されている。〔「法隆寺ガイド」より〕

1005分 同所 発
1010分 法隆寺 中門 着

[10]西院伽藍の西外側から法隆寺五重塔を望む
                  
[11]南大門の南外側より修復中で遮蔽物に覆われた中門を望む

1035分 法隆寺 夢殿&中宮寺 近隣民営駐車場 発 →〔西北西へ車24km 80(全て一般道‥暗峠越えが急峻な山道だった‥)

1155分 司馬遼太郎記念館着

 当館は200111月、東大阪市にある司馬遼太郎の自宅〔書斎〕と隣接地に建つコンクリート打ちっ放しの建物で建築家 安藤忠雄が設計。
 地下1階、地上2(但し2階は事務室)
 雑木林風の庭の小径から窓越しに、司馬遼太郎の書斎を見られる。

[12]司馬遼太郎記念館 入口
                  
[13]司馬遼太郎記念館内部の蔵書棚の一部(図録より)

 0918日に北九州市小倉の小倉城内にある松本清張記念館の蔵書も多かったが、司馬遼太郎記念館に陳列された氏の蔵書の多さは圧巻だった。

1240分 同所 発 →〔北北東へ車44km 1時間35(全て一般道)
1415分 京都駅八条口 coin parking
1430分 美術館「えき」KYOTO

【『マリー・ローランサン』展】
 マリー・ローランサン(1883-1956)は、20世紀前半のParisで活躍した女流画家。
 本展はローランサン没後60周年を祈念する企画展。
 20120219日付【時習26回3-7の会 0381】~「0211日:一宮市三岸節子記念美術館『マリー・ローランサンとその時代〔巴里に魅せられた画家たち〕展』」でも、マリー・ローランサンの作品を数多く見ていて、その時見たものと同じ絵を今回幾つか見た。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/26-038101270211.html ←ここをclick願います

[14]美術館「えき」KYOTO『マリー・ローランサン』展入口
                  
[15]本展leaflet/右上の絵は マリー・ローランサン『バラの女』1930

[16] マリー・ローランサン『二人の女と犬』1928年頃
                  
[17] 同『ジェリア』1937

[18] 同『三人の乙女』1938
                  
[19] 同『女道化師』1940

[20] 同『シュザンヌ・モロー(青い服)1940
                  
[21] 同『子供のシェヘラザ―ド』制作年不詳

【小生comment
 1920年代後半以降のマリー・ローランサンが描く女性像は実にcharmingで美しく、いつ見ても心が癒される。

1515分 同館 発
1550分 京都駅八条口 付近駐車場 coin parking 発 →〔東へ車201km 3時間15(SAで夕食30分休憩含む)
1910分 拙宅 着〔了〕

【小生comment
 今回のニ泊三日の『古都奈良一人旅』は、総走行距離524km〔徒歩の移動距離は除く〕。
 古都奈良に於ける『日本文化の粋』を心ゆくまで堪能出来た旅であった。
 又、そう遠くない将来、『大和路 秀麗 八十八面観音巡礼』で、今回見る予定で見られなかった『法華寺/十一面観音立像』を拝顔に訪れようと思う。

■続いての話題は、1129日に公用で名古屋へ行った際、用を済ませた後見た名古屋ボストン美術館『江戸時代から髑髏(スカル)好き‥俺たちの国芳 わたしの国貞』展についてである。
 米国の医師ウィリアム・スタージス・ビゲロ―(1850-1926)7年間の日本在住を経て、1889年にBostonに帰郷した時、彼は5万点を超えるあらゆる種類の日本美術の壮大なcollectionを携えていた。
 其処には、絵画・彫刻・刀剣・甲冑・能面・根付・染織・漆器、そして中でも最も数の多い『浮世絵木版画』が含まれていた。
 数万点の「浮世絵木版画」の中でも、群を抜いて多数の作品を占める二人の絵師が、本展の主題となる『国芳』と『国貞』である。
 ビゲロ―のcollection1911年に正式にBoston美術館に寄贈されたが、その後の寄贈に拠って歌川広重の作品が多くなり、いまや『広重』の点数は『国芳』を追い越して第2位となっている。
 今日、Boston美術館の日本美術collection10万点を超える物品があり、それは美術館の総所蔵品のほぼ1/4に当たる。〔以上、本展図録より引用〕
 以下、添付写真[23] Boston美術館に1千枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師一覧 を参照されたい。

[22]名古屋ボストン美術館入口の本展案内看板
                  
[23]Boston美術館に1千枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師一覧

[24]歌川国芳『国芳もやう正札附(しょうふだつき)現金男野晒(のざらし)悟助(ごすけ)』弘化02(1845)年頃
                  
[25]歌川国貞『大当(おおあたり)狂言ノ内 梶原源太 三代目坂東三津五郎』文化11or12(1814or15)

[26]歌川国貞『「楽屋錦絵二編 十枚之内」「瀬川路考」「瀬川銀次郎」「瀬川吉之助」「瀬川濱次郎」』文化09(1812)
                  
[27]歌川国貞『当世三十弐相 あづまのお客もうき相』文政04 05(1821 22)年頃

[28]歌川国芳『山海(さんかい)愛度(めでたい)図絵(ずえ) 七 ヲゝ(おお)いたい 越中滑川(なめりかわ)大蛸(おおだこ)』嘉永05(1853)
                  
[29]歌川国芳『当世商人(あきんど)日斗計(ひどけい) 日九時(ひここのつのとき)』文政04-06(1821-23)

 
【小生comment
 Boston美術館が、これ等日本の美術品を所蔵してくれているお蔭で、現代でも間近に「浮世絵木版画」の傑作選を間近に見ることが出来る訳だ。
 少し複雑な気持ちだが、有難いことであると、Boston美術館関係者の尽力に感謝申し上げたい。

■続いては、これも1207位効用にて名古屋へ出かけた帰り、愛知県美術館にて開催中の同美術館collection企画『日本で洋画、どこまで洋画』を見て来たので、その模様をお伝えする。
 以下に、本展開催の趣旨を、leafletに記載された caption を引用してご紹介する。
 明治期の半ばに「日本画」と対になる様にして(日本人の手に拠る)『洋画』が生まれた。
 『洋画』はその後、西洋の新しい動向の影響を強く受け乍らも、日本の独自性を追求する等、複雑な展開を見せる。
 一方、近年では若手作家達が油彩で描いた絵画が「現代Art」として高く評価されている。
 この様な作品は『洋画』とはどの様に違うのだろうか。
 本展では近現代日本における油彩に拠る具象絵画に焦点を当てて、『洋画』の世界に迫る。

[30]愛知県芸術文化センター内の愛知県美術館 本展案内看板
                  
[31]本展leaflet/右絵は、奈良美智(よしとも)Girl From the North Country2014

[32]Pierre Bonnard『にぎやかな風景』1913年頃
                  
[33]Paul Klee『回心した女の堕落』1939

[34]大沢鉦一郎(せいいちろう)『大曽根風景』1919
                  
[35]熊谷守一『雨水』1959

[36]熊谷守一『ゼラニュームに揚葉蝶』制作年不詳
                  
[37]熊谷守一『かけすに紅葉』1965

[38]島田章三『石庭女人図』1976
                  
【小生comment
 愛知県美術館の所蔵品展なので、入館料も1coin(=500)reasonableな企画展。
 同美術館が所有する内外の優れた絵画が180点程と、volume感も十分あった。

■今日最後の話題は、最近読んだ、青山俊菫『泥があるから、花が咲く』についてである。
 本書の中から、第三章/変えてゆくことができる~地獄・極楽は自分の心一つに開いてゆく世界〔P.92〕の一部をご紹介する。

 〔前略〕相田みつをさんの詩に、

  あなたがそこに/ただいるだけで
  その場の空気が/あかるくなる
  あなたがそこに/ただいるだけで
  みんなのこころが/やすらぐ
  そんな/あなたにわたしもなりたい

 というのがあります。
 その方がそこに一緒にいてくださるというだけで、その方のお姿を見たというだけで、その場の空気があかるくなったり、あたたかくなったり、その場に居あわせた人々の心を安らかにしたりする人がおられるものです。〔中略〕
 反対に、その方が部屋へ入ってきただけで、部屋の空気が暗くなる。
 その方の声を聞いたり、顔を見ただけでイライラしてくる。
 そんなお方もあるものです。
 思うに地獄、極楽は向こうにあるのではなく、私の心一つ、生き方一つで自ら展開してゆくものであったということに気づきました。

  村の中に 森の中に
  はた海に はた陸(おか)
  こころあるもの 住みとどまらんに
  なべてみな 楽土なり       『法句経』

 とお釈迦様は説いておられます。
 行く先々がうまくいかないのは、原因が向こうに在るのではなく、私自身の心の持ち方、生き方にあったのだな、と気づかせていただかねばならないと思ったことです。〔了〕

[39]青山俊菫『泥があるから、花が咲く』

【後記】上記の相田みつを(1924-91)の詩は、拙宅のDKに額に入れて(添付写真[40])飾ってあり、時々読んでいる。
 20120210日、小生、仕事で上京の折、東京駅丸の内南口から程近くにある東京国際フォーラム地下1階の相田みつを美術館を訪れた時、気に入って色紙を購入したのである。
 2012212 ()【時習26回3-7の会 0380】~「0210日:『相田みつを美術館』を訪れて」
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/26-038001201202.html ←此処をclick願います

[40]相田みつを『ただいるだけで』
                  
 ではまた‥。()

 ブログへは【0626】号迄のback numberは、URL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog ←ここをclickして下さい