2020年8月26日水曜日

【時習26回3−7の会 0826】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之五〔第44回/第421句~430句〕」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第13回〕『市振』『那古(有磯海)』」「08月16日(日):『苗木城跡』→『岩村城跡』→『湯~らんど とよね』を巡って」

 ■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0826】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第44回/巻之五~第421句~430句〕」をご紹介する。

421 このはたく跡(あと)は淋(さび)しき囲爐裏(いろり)(かな)  一髪(1)

【意】囲炉裏に落ち葉を焚くと勢よく炎が燃え上がるが、それは一瞬のこと / 直ぐに燃え尽き、後には寒さと寂しさだけが残る‥

【解説】季語:このは(木の葉)=三冬 /

(1)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明

 

422 枇杷(びは)の花(はな)(ひと)のわするゝ木陰(こかげ)かな  同

 

【意】ビワは常緑喬木で、逞しい葉や初夏の候に生る実はよく知られている / しかし、晩秋から初冬にかけて咲く白く小さな花は、地味な為誰からも相手にされない

【解説】季語:枇杷の花=初冬 /

 

423 (ちゃ)の花(はな)はものゝつゐでに見たる哉(かな)  李晨(1)

 

【意】茶葉は引用に重宝されるが、初冬に咲く白く小さな茶の花は、初冬に人知れず咲く / 何かの折にふとみると咲いているという目立たない存在感だ

【解説】季語:茶の花=初冬 /

(1)李晨(りしん(生没年不詳)):美濃国の人 / 同国岐阜蕉門の落梧等と親しい /『阿羅野』に2句入句

 

424 (なし)の花(はな)しぐれにぬれて猶(なほ)(さび)し 野水(1)

 

【意】初夏に咲く梨の花は其の白さを讃える美しいものだが、いま帰り咲きの梨花が時雨に濡れている様子も又格別で、淋しさは趣深く感じられる

【解説】季語:梨の花=晩秋、しぐれ(時雨)=初冬 /

(1)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった

 

425 蓑虫(みのむし)のいつから見るや帰花(かへりばな)  昌碧(1)


【意】返り咲きの花を眺めていると、ふと蓑虫が蓑から首を出しているのに気が付いた /「蓑虫よ、お前はいつから此の帰り花を見ていたのだ?」
【解説】季語:蓑虫=三秋、帰り花=初冬 /
(1)昌碧(しょうへき(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 貞享0411月『笈の小文』の旅の折、蕉門に入門 /『あら野』等に入句

426 (むぎ)まきて奇麗(きれい)に成(なり)し庵(いほり)(かな)  仝

【意】田中の庵 / 周囲の田畑に麦蒔きが終わり、畝の線が美しい田園風景となった / お陰で此の庵迄が清々しい
【解説】季語:麥まき(=麥蒔)=初冬 /

427 のどけしや麥(むぎ)まく比(ころ)の衣(ころも)がへ  一井(1)

【意】晩秋九月一日には、帷子(かたびら)を袷(あわせ)に着替え、九日からは綿入(わたいれ)に着替えるのが例年だ / だが今年は、暖かく長閑(のどか)な小春日和が続き、麦蒔きの頃に漸く衣更えをした
【解説】季語:麦まく=初冬 /
(1)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の門人 / 芭蕉は、1688.01.11(貞亨04129)、『笈の小文』の旅の途中、一井宅に招かれ、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の門人等と七吟半歌仙【熱田三歌仙】を巻いた

428 (ぬひ)ものをたゝみてあたる火燵(こたつ)(かな)  落梧(1)

【意】縫いかけの衣服をきちんと畳み、糸針の始末をして、炬燵(こたつ)にあたる / 確り者の女性の所作を気分よく見ている‥
【解説】季語:火燵(こたつ)=三冬 /
(1)安川落梧(やすかわ らくご(1652(?)-1691(元禄0405(享年40)))1688(貞亨05)年以来の美濃国の門人 / 通称:助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』等に入集 /『瓜畠集』を編集するも病魔に倒て未完 / 長良川近くの稲場山城山陰に別邸を持ち、芭蕉が『笈の小文』の旅の途次此処に立ち寄った / 芭蕉は、「奥の細道」に出立する直前の1689.05.12(元禄020323)に落梧宛に紙一束受贈の礼状を書き、此れが「奥の細道」出発日付確定の根拠となった

429 石臼(いしうす)の破(われ)てお(=)かしやつは(1)の花(はな)  胡及(2)

[01]石蕗の花


【意】石蕗(ツワブキ)の花の咲いている様子や「石蕗」と書く字面(じづら)が「石臼を破る」imageと重なり面白い
【解説】季語:つは(石蕗)の花=初冬 /
(1)つは:「石蕗(つわぶき)」のこと / キク科の照葉常緑多年草 / 観賞用に庭の置き石の根じめ等に植えられる / 初冬に長い花柄の先に黄色い小菊の様な花を咲かせる /
(2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句

430 (あを)くともとくさ(1)は冬の見物(みもの)(かな)  文鱗(2)

[02]木賊(とくさ)


【意】木賊(とくさ)は、庭園の路傍や水辺にあしらってあるが、其の緑色が冬の庭に一見不似合に見える / だが、じっと眺めているとヒョロヒョロと立つ枯淡の姿が実は冬に似付かわしい風情なのだと感じられて来る
【解説】季語:冬=冬 /
(1)とくさ:木賊(とくさ)は、常緑のシダ植物で中空の管状の茎を直立群生させる / スギナの一種 / 此れを乾燥させ板材などの磨き(=())に使うことからトクサの名前が付いたと云われる
(2)鳥居文鱗(とりい ぶんりん(生没年不詳)):和泉国堺の人 / 虚無斎とも /『続の原句会』・『あら野』・『初懐紙評註』などに入句 / 文鱗は、天和03年、芭蕉が第二次芭蕉庵に入った頃に、出山の釈迦像を贈った / 芭蕉はこれを大事に手許に置き、大坂で死ぬ時には、此れを支考に与えると遺書に書き留める程であった

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第45回/巻之五~第431句~440句〕をご紹介する。お楽しみに!

■さて続いての話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第14回目である。
 前《会報》【0562】を配信した七月九日(新暦0823)現在では、【越後路】の道中の「高田」の池田六左衛門宅に居て、【市振】に到着する3日前であった。
 その為、前《会報》では一回お休みさせて頂いた。
 前回の第13回では【越後路(えちごじ)】をお伝えした。
 乃ち、六月二十五日(新暦0810)、【酒田】の淵庵不玉の許を発ち、加賀国・金沢を目指し北陸道を南進。
 そして、二週間程かけて七月十二日(新暦0826) 越中国に程近い越後最西端の街 【市振】〔午後4時頃〕に到着した此処迄である。
 0823(旧暦七月九日)は、越後国・高田の池田六左衛門宅に3泊した2泊目に相当する。
 因みに、今日0828(旧暦七月十四日)は、越中国・高岡(=但し、宿記載なし)に泊しており、丁度【那古(=有磯海)】に符合する。
 従って、今回の『奥の細道』第14回は、【市振(新暦0826)】から【那古(=有磯海(0828))】の三日間で起きたことをお伝えする。
 参考迄に、旧暦七月八日(新暦0822)~旧暦七月十四日迄の「芭蕉宿泊地と天候」を曽良旅日記から拾ってみると以下の通りである。

  七月八日(新暦0822):高田・池田六左衛門宅に3泊す、雨止む
  同月九日( 〃 同月23):同左、折々小雨す
  同月十日( 〃 同月24):折々小雨、夕方より晴れ
  同月十一日(〃 同月25):能生・玉屋五郎兵衛宅泊、快晴、暑甚だし、月晴
  同月十二日(〃 同月26):市振・宿記載なし、快晴
  同月十三日(〃 同月27):滑河・宿記載なし、雨降らんとして晴、暑気甚だし
  同月十四日(〃 同月28):高岡・宿記載なし、快晴、暑極めて甚だし

 ※ ※ ※ ※ ※

【市振(いちぶり)

《原文》

 今日(けふ)は親しらず・子しらず(1)・犬もどり(2)・駒返(こまがへ)(3)など云(いふ)北国(ほつこく)一の難所を越(こえ)て、つかれ侍れば、枕引(ひき)よせて寐()たるに、一間(ひとま)(へだて)(4)(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人斗(=(ばかり))ときこゆ。
 年老(おい)たるお(=)のこの声も交(まじり)て物語するをきけば、越後(ゑちご)の国新潟(にひがた)(5)と云(いふ)所の遊女成(なり)し。
 伊勢参宮するとて、此関(このせき)までお(=)のこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)(6)したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)
 白浪(しらなみ)のよする汀(みぎは)(7)に身をはふらかし(8)、あまのこの世(9)をあさましう下(くだ)(10)て、定めなき契(ちぎり)(11)、日々の業因(ごふいん)(12)、いかにつたなしと、物云(ものいふ)をきくきく寐入(ねいり)て、あした旅立(たびだつ)に、我々にむかひて、「行衛(ゆくゑ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍(はべら)ん。
 衣の上の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみ(13)をたれて(14)結縁(けちえん)(15)せさせ給へ」と、泪(なみだ)を落(おと)す。
 不便(ふびん)の事(16)には侍れども、「我ゝは所々にてとゞまる方(かた)おほし。
 只(ただ)人の行(ゆく)にまかせて行(ゆく)べし。
 神明(しんめい)の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云(いひ)捨て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし(17)

  一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 曾良にかたれば、書(かき)とヾめ侍る。

《現代語訳》

 今日は「親不知(しらず)」「子不知」(1)「犬もどり」(2)「駒返し」(3)などという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていた処、襖(ふすま)一枚隔(へだ)てて道に面した表側の部屋から、若い女の声が聞こえて来て、二人ばかりいる様だ。
 それに年老いた男の声も交じっていて、話をしているのを聞いていると、この二人の女は越後国新潟(5)という所の遊女なのだ。
 伊勢参宮するというので、この市振の関まで男が送ってきたのだが、明日は男をを故郷新潟帰らせる(6)につき手紙を書きその男に託し、一寸した伝言等をしている様だった。
 「白波の寄せる浜辺に(7)身を落と(8)し、住まいも定まらぬ漁師(9)の様に落ちぶれ(9)、客と夜毎に代わる客と契りを交わして(11)、日々重ねていく…前世での所業(12)が如何に罪深いものだったのだろうか」と、そんな話しているのを聞き乍ら寝入ったのであるが、翌朝旅立つ時に、その二人の遊女が私達に向かって、「行き先も解らない旅の心細さ、あまりにも不安で悲しくありますので、見え隠れにも貴方がたの御跡をついて参ろうと思います。
 法衣をお召しの御坊様のお情けとして、仏様の恵み(13)を注いで(14)下さって、仏道に入る機縁(15)を結ばせて下さいませ」と言って、涙を流すのだ。
 不憫ではある(16)が、「私達は途中あちこちに立ち寄り長期滞在することが多い(‥だから一緒に旅は出来ない)

 ただ人が進む方向に跡をついて行きなさい。
 そうすれば神様がお守り下さって、きっと無事に伊勢に到着出来るでしょう」と、言い捨てて宿を出たが、矢張り哀れさの気持ちが暫く止まなかったのであった。

【意】私と同じ宿屋に、偶々遊女も泊り合わせた
    その宿の庭には萩の花が咲き、秋の夜空に眼を遣ると月が明るく輝いている
    何となく、「萩と月」が「自分と遊女」の様に思えて来る

 と詠んで、曾良に話すと、この句を書きとめた。
  季語「萩」で秋七月
  「一家(ひとつや)」は、ただ一軒だけポツンと離れて建っている家を言うが、此処では、「同じ一軒の家」の意

[03]守屋多々志『萩の宿〔芭蕉/奥の細道より〕』1993

[04]松尾芭蕉『奥の細道』【市振】石碑


(
1)親しらず・子しらず:現・新潟県西頸城(くびき)郡青海(おうみ)町風波から市振に至る間の、北陸道第一の難所
  山が海に迫って断崖絶壁を成し、その下の波打ち際を通行した
(2)犬もどり:親不知の北東50kmの地/直江津から国道8号線を西進、国分寺より1km余りの屏風谷の真下にある
  赤岩の難所と言った
(3)駒返し:青海町より約1km東にあった難所
(4)一間隔てて:「一間」は、襖一重、つまり隣の部屋
(5)新潟:当時は港町として栄え、その遊女町は有名であった
(6)故郷にかへす文:「故郷」は新潟を指す
 「かへす」は、送って来た男を新潟に帰らせる意と、男に持って帰らせる文という風な、掛詞的用法
(
7)白波のよする汀:『和漢朗詠集』遊女の項に
 「しらなみのよするなぎさに世をすぐるあまのこなればやどもさだめず/海人詠」
  とあるのに拠った表現
 「汀」は当時の『節用集』ではナギサ・ミギハ両様の読みを示すが、用例としてはミギハが圧倒的に多い
  又、シラナ[][]ギハ・[]ホ‥という風に、[]を重ねる方が文調が良い
  以上を踏まえ、芭蕉が、本歌の渚(ナギサ)を汀(ミギハ)に変えて用いたと解したい
(8)身をはふらかし:「はふらかす」は捨てる、彷徨(さまよ)わす、落ちぶれさす等の意
(9)あまのこの世:前掲の和歌を受けて、「蜑(あま)の子」即ち、漁師の子の意に「此の世」を言い掛けたもの
(10)あさましう下りて:「下る」は、落ちぶれる・低級になる
 あきれる程酷い境遇に落ちぶれて仕舞って、の意
(11)定めなき契り:定まった夫を持たず、夜毎に代わる男を相手として身を任せること
 
「契」は、男女の交わり
(12)日々の業因:夜毎の「定めなき契」を交わすべく定められた前世の因縁
 
「業因」は、人のする善悪一切の所業が、未来に善悪夫々の果を生じる因になること
 多くの前世の悪業の報いの意にいう
(13)大慈のめぐみ:民衆を憐み、慈(いつく)しみ、その苦しみを救う、仏・菩薩の大きな慈悲
 特に観世音菩薩の慈悲にいう
(14)たれて:「垂れる」は、示し施すの意
(15)結縁:仏道修行の縁を結ぶこと/仏道に入る機縁を得ること
(16)不便の事:可哀想なこと(「不憫」「不愍」は後の時代での当て字)
(17)やまざりけらし:「けらし」は「けるらし」の約
 芭蕉の用法としては、いずれの場合も、詠嘆の「けり」の意に用いている

【解説】
 芭蕉が訪れた市振を訪れた元禄2(1689)年は、伊勢の神宮の式年遷宮の年。
 当時は父母や主人に内緒で抜け出して伊勢参宮する「抜け参り」という風習があり幕府は黙認した。
 戻ってからも主人に怒られることはなかった。
 当時の風習として、「一生に一度は伊勢参宮は遣るもの」だった。
 因みに、『奥の細道』の結びの【大垣】でも、「伊勢の遷宮おがまんと‥」と詠み、締め括っている。
 【市振】は、『西行と江口の遊女』〔撰集抄(せんじゅうしょう)〕の故事が下敷きになっている。
 具体的には、西行が大阪の江口で雨にあった時、雨宿りをさせてもらおうと遊女の家の戸を叩くが断られた時の、西行と遊女の問答歌。
 この問答の後、遊女は西行を家に招き入れ、一晩中語り合ったという。

  天王寺へ詣で侍りけるに にわかに雨の降りければ 江口に宿を借りけるに貸し侍らざりければよみ侍りける
  世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿をも 惜しむ君かな  西行

   【意】出家隠遁せよと言うなら難しいけれど、一夜の宿を貸すことも惜しむ貴女なのですね

 返し

   世をいとふ 人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ  遊女妙

  【意】貴方は出家隠遁した世を捨てた人とお聞きしています
   ですから、仮の宿(=一夜の宿)に拘るなんてことなさらないで‥と思うばかりですワ
                        (「新古今和歌集」巻第十 羈旅歌)

【那古(=有磯海)

《原文》

 くろべ四十八(しじゅうはち)が瀬(1)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云(いふ)(2)に出(いづ)
 担籠(たこ)の藤浪(ふじなみ)(3)は、春ならずとも、初秋の哀(あはれ)(=)ふべきものをと、人に尋(たずね)れば、「是(これ)より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿(4)かすものあるまじ」といひをどされて(5)、かヾの国に入(いる)

  わせの香()や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ)

[05]「わせの香や分入右は有磯海」句碑(富山県下新川郡朝日町元屋敷)


《現代語訳》

  「黒部四十八が瀬」(1)というが、その名の通り数も解らない程多くの川を渡って、那古という浦(2)に出た。
  「担籠の藤浪(3)」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないとしても、初秋の風情も訪れる価値があるだろうと土地の人に道を訪ねた処、
  「此処から五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入った所で、漁師の貧弱な苫屋が僅かにあるだけなので、『葦のかりねの一夜ゆえ』と古歌にある様な、一夜の宿(4)を貸す者もいないだろう」と脅かされて(5)、加賀の国に入った。

   【意】道の両側の田んぼから早稲の香りが漂って来る
  この稲穂の波の右手遥かには、歌枕として名高い【有磯海】が望み見られることであろうヨ

    季語「早稲」で秋七月

     『萬葉集』編者で歌人の大伴家持が、弟の書持(ふみもち(?-746))が亡くなった時に詠んだ
  歌に次の様な作品がある。
   かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを

 【意】前からこの様なことになる(=弟の死)と解っていれば、
    「越の海」の荒磯に寄せる波を見せて遣ったのになぁ

 この歌は、大伴家持(717-85)の弟の死を追悼して詠んだ歌である。
 家持がこの歌を詠んだ段階では、「荒磯海」は単なる荒波の打ち寄せる磯のことであった。
 大伴家持のこの歌が有名になった為、爾来、この辺りの海を「荒磯海」「有磯海」と言う様になったという。

 最初に家持の歌があって、それが「歌枕」となったという通常の「歌枕」が出来る経緯と逆さまの珍しい例である。
 因みに、「有礒海(=有磯海)」の面影を残していると言われるのが、高岡市の岩崎鼻(渋谷(しぶたに)の崎)や雨晴(あまはらし)海岸である。

(1)くろべ四十八が瀬:「くろべ」は黒部川/【市振】の南西約24kmに黒部川はある
  「くろべ四十八が瀬」とは、黒部川の河口近くで、川筋が無数に分岐した所
(2)那古と云ふ浦:現・新湊市の海岸一帯の称/『万葉集』以来の「歌枕」
 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海士(あま)の 釣する小舟こぎ隠る見ゆ
                             大伴家持  〔萬葉集 巻17
(3)担籠の藤浪:現・富山県氷見市下田子付近で、昔は湖であったが、当時は既に田になって
 いた様である
 『萬葉集』以来の「歌枕」
  多胡の浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かむ見ぬ人のため 内蔵忌寸(うちのくらのいみき)縄麻呂〔万葉集 巻19

(4)蘆の一夜の宿:「芦の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの

    「芦(あし)」と「節()」は縁語だから、「一夜」は「イチヤ」ではなく「ヒトヨ」と読む

    難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
                               〔千載集&百人一首88

  【意】難波江の葦の刈根の一節の様な、短い旅の一夜を貴方と過ごしただけなのに

     それが故、あの澪標(みおつくし)の様に身を尽くして貴方を恋い続けなければいけないのでしょうか

    「仮寝」と「刈根」を掛け、「葦」と来ると「一夜の宿」等が連想される

(5)いひをどされて:「をどす」は「おどす」が正しい表記/脅かす、恐れさす、の意

【小生comment
 この【市振】の場面には、新潟の「遊女」が出て来る。
 僧衣姿の芭蕉と曽良との対比が鮮やかに感じるが、【市振】の場面は、芭蕉の「創作」というのが通説である。
 その理由は、『奥の細道』紀行に同行した曽良は詳細な旅日記を記しているのだが、【市振】の締め括りの処で
 「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月/曾良にかたれば、書(かき)とヾめ侍る」
 と記しているが、「書き留めた」筈の肝心要の曽良は【市振】の場面を「曽良旅日記」をはじめ何処にも書き留めていないのである。
 『奥の細道』紀行が、北陸道に入ってからは{これはっ!」という芸術的・文化的事象に乏しかった為、芭蕉一流の脚色がなされた様だ。
 「(新潟の)遊女」→訪れた年が「伊勢遷宮」の年→「伊勢参宮」→「抜け参り」→「遊女」という一つの流れが匠に出来上がっている処が面白い。
 この【市振】の場面も、『奥の細道』の名場面の一つである。
 『奥の細道』を読み進めていくに連れ、芭蕉の芸術的senseの高さを何度となく感じている。
 小生この松尾芭蕉『奥の細道』を、本会で連載が始まってから「言の葉book」というCDで聞き続けている。
 ほぼ毎朝05時~07時にかけて「腹筋30分」と「木刀の素振り60分」を遣り乍ら聞いている。
 【序章】の「月日は百代の過客にして‥」で始まり、【旅立(=出立)】三月二十七日(新暦0515)~最後の【大垣】九月六日(新暦1018)で終わる。
 最初から最後迄全て聞いて67分なので、1回と半分程を繰り返している。
 丁度いい長さである。

■今日最後の話題は、0816()に、『苗木城跡』→『岩村城跡』→『湯~らんど とよね』と巡って来たことについてである。
 前夜は2050分に床に就いた

0245分 起床→
0250分 腹筋2,000(←いつもよりかなり rough に!)
0335 2.5kg木刀素振り40(←いつもの2/3の所要時間)
0420分 入浴→朝食→
0454分 拙宅発→一般道→音羽蒲郡IC→東名→東海環状→→中央→中津川IC→一般道(78129km)
0612分 苗木城跡駐車場着

【苗木城跡】

[06][左上]苗木城趾の航空map

 [右上]駐車場至近の苗木城跡看板前にて
 [左下]同じく苗木城看板横にて
 [中下]苗木城跡 大矢倉跡
 [右下]苗木城跡 大矢倉跡から天守台展望

 苗木城跡に着いた時、気温は26℃で、微風が心地良かった

[07][左上]同 天守台入口の「苗木城跡」石碑横にて

 [左下]同 菱櫓門跡
 
[右上]同 天守台前にて
 [右中]同 天守台から木曽川遠望
 
[右下]同 天守台にて1

[08][左上]苗木城跡 天守台にて2

[右上]同 天守台から大矢倉遠望
 
[左下]同 天守台麓にて1
 
[中下]同 同上2
 
[右下]同 苗木遠山資料館前駐車場にて

《苗木城・苗木藩の歴史》

1242(仁治02)年 鎌倉時代初期に岩村城を本拠地とし、恵那郡を統治した地頭・遠山氏の初代 遠山景朝の長男 遠山景村が、木曽川 那木津戸に進出
 
同所が当時、那木(苗木)と呼ばれ、遠山氏の木曽川北部進出の橋頭保となった1570(永禄13)年 信長の命令に拠り飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続
1575(天正03)年 織田信長の長男信忠(1557-82)が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還
1582(天正10)年 可児郡の美濃金山(=兼山)城主 森長可が苗木を攻める
1583(天正11)年 森長可が再度攻め苗木城落城 / 遠山友忠・遠山友政父子は脱出し浜松の徳川家康に走る
1599(慶長04)年 森氏は信濃川中島に移封され、川尻直次が苗木城主となる
1600(慶長05)年 遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略 / 苗木領安堵、苗木藩が立藩
1869(
明治02)年 苗木藩主・遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事就任
1871(明治04)年 廃藩置県により苗木県
1884(明治17)年 華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵

【小生 comment
 豊橋の隣町の田原は、三宅氏田原藩12千石の城下町
 江戸時代、田原藩は、全国300余藩の大名の中で、2番目に小さな城持ち大名であった
 全国一小さな城持ち大名が、此処、遠山氏苗木藩1500石である
 小生、苗木城跡は2回目の訪問である

0724分 苗木城跡駐車場発→一般道〔59 42km/171km〕→
0823分 岩村城跡駐車場着

【岩村城跡】

[09][左上]岩村城跡map

 [右上]岩村城 歴代城主一覧
 
[左下]同 本丸への道
 
[中下]同 本丸入口の石垣
 
[右下]同 同上前にて1

[10][左上]同 本丸入口の石垣前にて2

 [右上]同 同上3
 
[左下]同 本丸にて1
 
[中下]同 本丸にあった岩村城歴代将士慰霊碑
 
[右下]同 本丸にて2

 岩村城は、今回で数回目の訪問である
 全国3山城とは、此の美濃国岩村城、大和国高取城、備中国松山城の3城を言う
 岩村城は、標高721mで、全国№1の標高にあることで有名な城である
 鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた

《岩村城・岩村藩の歴史》
 鎌倉時代 幕府の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めたことから始まる
 遠山景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代初期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであったという

1571(元亀02) 1203日 最後の城主 遠山景任が病没
 信長は5男で幼少の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした
 信長の叔母「おつやの方」が【女城主】(←岩村醸造の銘酒『女城主』の語源)差配
1572(元亀03) 10月 武田信玄は、秋山虎繁(信友(1527-75))に岩村城の攻略を命じた
 
 「おつやの方」は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏
1573(元亀04) 02月 虎繁は「おつやの方」を妻に迎え、翌3月 岩村城は落城
1575(天正03) 0521日の長篠の戦いで武田勢が弱体化
 信長は嫡男・信忠を総大将に5ヶ月の戦闘後、岩村城を奪取
 秋山虎繁・「おつやの方」夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔で処刑された
 織田方部将、 河尻秀隆が城主となり城の改造
1582(天正10)年 河尻秀隆が甲斐国に移封後、団忠正の居城となるも3ヶ月後に本能寺の変で忠正は戦死
 岩村城は信濃国から戻った森長可が接収、長可死後は森忠政が引き継いだ
 城代となった森氏家老、各務元正は、17年かけて現在に残る城郭とした
1599(慶長04)年 豊臣秀吉死後、森忠政が信濃国松代に移封とり、田丸直昌が入城
1600(慶長05)年 関ヶ原の戦後、田丸直昌が西軍の為改易されると、大給松平家の松平家乗が入城
1645(
正保02)年 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城
1702(元禄15)年 丹羽氏がお家騒動を起こし越後国高柳藩に転封後、同年 信濃小諸城より松平乗紀が入城
 爾来、大給松平氏の居城となり明治維新迄続いた

0900分 岩村城跡駐車場発→一般道〔9 3.6km/175km
0909分 岩村歴史資料館着
0938分 同所発→6 2.1km/177km
0944分 岩村醸造着

【岩村歴史資料館&岩村醸造】

 小生、佐藤一斎の『三学戒』の箴言が大好きで、座右の銘にしている
 小生も、来月09月で満65歳になり、高齢者の仲間入りをするが、気持ちだけはまだまだ20歳代のつもりで、肉体的にも40歳代を目指して、毎朝の腹筋と木刀素振りを続けている

[11][左上]岩村歴史資料館近くにある佐藤一斎句碑の前にて1

 [左下]同上2 佐藤一斎『三学戒』石碑横にて
 
[右上]同上3

 佐藤一斎(1772-1859)は、安永元年1020日に佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の岩村藩邸下屋敷内で生まれた
 生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ代々藩の家老を務める家柄だった
 一斎も1790(寛政02)年 岩村藩に出仕 / 12or3歳の頃、井上四明に入門、其の後、大坂に遊学、中井竹山に学んだ
1793(寛政05)年 藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官・林家に養子に迎えられ、大学頭として林述斎と名乗った
 一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門
1805(文化02)年 塾長就任
1841(天保12)年 述斎が没し、昌平黌の儒官(総長)就任
 一斎は、専門の朱子学のほか、陽明学の造詣も深く、『陽朱陰王』と尊称された
 門下生3,000人と言われ、一斎の弟子として、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らがいる
18591019(安政06924) 88歳で死去

  佐藤一斎『三学戒』~「言志晩録 第60条」

 少而學。則壮而有為。
 壮而學。則老而不衰。
 老而學。則死而不朽。

 
少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
 老いて学べば、則ち死して朽ちず。

 若いうちに学んで於けば、大人になった時に、人の役に立つことが出来る
 大人になって学んで於けば、年老いても活き活きとしていられる
 年老いても学び続ければ、益々確りした考え方や生き方が出来、死んでも其の名や業績が語り継がれる

[11][右中]岩村醸造前にて1
 
[右下]同上2

0956分 岩村醸造発→一般道69 53/230km
1105分 兎鹿嶋温泉「湯~らんどとよね」着

【湯~らんどとよね】

[12][左上]岩村城跡~「湯~らんどとよね」迄の map


 [右上]「湯~らんどとよね」入口にて

 [左下]「湯~らんどとよね」~拙宅迄の map
 此処の温泉は、昼神温泉と同じ湯質でかなり上質
 12分湯船に浸かるだけで、肌がすべすべになる感じがいい

[12][右下]「湯~らんどとよね」のお土産‥左から「純米吟醸生酒『女城主』」

   NPO法人いわむら一斎塾編『家族で楽しむ/言志四録』」「豊根産『梅干し』500円」「豊根名物『田舎 金山寺味噌』550円」
 帰宅後、早速「純米吟醸生酒『女城主』」を「江戸切子」で飲んでみた「無茶苦茶 美味い!」

1350分 帰宅/走行距離計 302㎞〔了〕

では、また‥〔了〕

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