■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0722】号をお届けします。
今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之五〕連句集についてである。今回は通算〔第22回〕目で、「秋の部」の〔第4回〕目。
「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第85句~88句をお届けする。
では、「秋〔きりぎりす〕」の連句全36句の第13句目からの16句をご覧頂きたい。
猿蓑集 巻之五
85 金鍔(きんつば)と人によばるゝ身のやすさ (芭)蕉
【意】此の男は「金鍔」と呼ばれる颯爽とした伊達男だ
【解説】前句の殿に寵愛された侍の羽振りの良さを「金鍔」で表した
(注1)金鍔(きんつば):黄金づくりの刀の鍔(つば)が原義 / 転じて、華美好みのきざな伊達男な武士の異名
君寵を誇りに栄華に時めく武士を他より評した付句
86 あつ風呂ずきの宵々(よひよひ)の月 凡兆
【意】秋の宵、此の伊達男は毎夜秋月の下、熱い風呂が好きで入っている
【解説】ー
季語:「月」= 秋
87 町内(ちゃうない)の秋も更行(ふけゆく)明(あき)やしき 去來
【意】更け行く秋の夜、月下に町内の人気(ひとけ)のない空屋敷がポツンと建っている /
【解説】前句を受けて、月下に見える町内の様子の一情景 /
明屋敷は住宅あるべき地の空しくなり居れる也〔幸田露伴『評釈 猿蓑』〕/
秋 /「前句、一夜一夜に寒くなる趣あからさま也 /
されば町うちの秋も更行たるさびしき体は、其場と時節とを取合せたる付也」(指直『猿蓑付合注解』)
88 何を見るにも露(つゆ)ばかり也(なり) 野水
【意】前句を受けて、空屋敷の邸内の庭に生える草には一面露が降りている
【解説】「何を見るにも」と云ひ、「露ばかり也」と受けたる、如何にも好し /
かかる句無くては一巻埒無くなるを、野水おのが功を捨ててすらりと流したる、しかも一句立も悪しからぬ、芭蕉も破顔して此の水野如き句を賞したらむ〔幸田露伴『評釈 猿蓑』〕/
季語:「露」= 秋
【小生comment】
秋の部は、いずれも rhythmical で小気味よい連句が続く。
次回は、秋の部〔第5回〕通算〔第23回〕をお楽しみに!秋の部は、いずれも rhythmical で小気味よい連句が続く。
■続いてお届けするのは、前回&前々回《会報》に続いて去る08月18日(土)、小生が月に一度の名古屋市東区にある歯科医院へ歯科健診の日での出来事の〔第3回目〕。
健診のついでに4つの美術&貨幣資料館を見て来た模様のうち、最後の4つ目に訪れた碧南市藤井達吉現代美術館『長谷川敏行』展についてである。
健診のついでに4つの美術&貨幣資料館を見て来た模様のうち、最後の4つ目に訪れた碧南市藤井達吉現代美術館『長谷川敏行』展についてである。
16時05分 碧南市藤井達吉現代美術館着
16時10分 碧南市藤井達吉現代美術館『長谷川利行』展
[03]本企画展leaflet
[04]長谷川利行(1891.07.09-1940.10.12)『水泳場』1932年
[05]同『酒売場』1927年
[06]同『カフェの入口』1930年
[07]同『靉光像』1928年
[08]同『白い背景の人物』1937年
[09]同『大和屋かほる』1935年
[10]同『風景』1937年
[11]同『三河島風景』制作年不詳
[12]同『ノアノアの少女』1937年
[13]同『婦人像』1937年
[14]同『百合の花』1931年
[15]同『菊花など』1937年
[16]同『荒川煙突のある風景』1933年
[17]同『隅田川風景』制作年不詳
[18]同『荒川風景』1939年
【小生comment】
小生、長谷川利行との出逢いは比較的最近である。
今から10年程前に東京国立近代美術館の collection 展で見た『カフェ・パウリスタ』だった。
第一印象は、「なんと下手な絵だろう!」というモノだった。
が、彼の作品を折々に見る様になり、絵画の三要素のうちの、color と composition の素晴らしさに気づいた後は大ファンに変わった。
添付写真絵画『風景』『三河島風景』『荒川煙突のある風景』等はシニャックの絵に負けていない優れた色彩感覚がy見る者を魅了する。
[19]長谷川利行『カフェ・パウリスタ』1928年
16時45分 碧南市藤井達吉現代美術館発→〔一般道46km〕→
18時10分 帰宅
此の日も楽しく充実した一日だった。
そして同日深夜23時25分豊橋駅前発の夜行高速bus「ほの国号」に乗って上京した。
〔‥次の話題へと続く‥〕
■次にお届けする話題も、08月18日23時25分豊橋駅前発の関東バスの高速夜行バス「ほの国号」で上京した時の話である。
08月19日の早朝05時15分に新宿駅西口着→新宿駅→都営地下鉄大江戸線→門前仲町へ。
同地の「深川不動堂→富岡八幡宮→日本道路元標→東京都美術館→ホテルオークラ美術館→【山種美術館】→郷さくら美術館東京→東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館→三鷹市美術gallery」と6つの美術館を巡った7回seriesの〔第4回〕山種美術館『水を描く』展をお届けする。
13時05分 ホテルオークラ別館発→神谷町駅→地下鉄日比谷線→恵比寿駅へ
13時53分 山種美術館着
13時55分 山種美術館『水を描く』展
[20]山種美術館入口横の本企画展&次回企画展看板前にて
[21]同美術館入口にて
[22]同美術館本企画展leaflet
[23]奥村土牛(1889-1990)『鳴門』1959年
[24]東山魁夷(1908-99)『緑潤う』1976年
[25]千住博(1958- )『ウォーターフォール』1995年
14時20分 山種美術館発→
【小生comment】
【小生comment】
日本画の巨匠たちが描く水に関連した絵で、涼感を感じさせる粋な企画展だった。
■続いては、「08月25日:徳川四天王のうち3人(榊原康政・本多平八郎忠勝・坂井忠次)の生誕地他を巡って〔3回series〕」の〔最終(第3)回〕をお届けする。
13時35分 大樹寺発→〔一般道 1.3km〕→
13時45分 井田城趾〔城山稲荷神社(岡崎市井田新町10)〕着
徳川氏宗家の始祖松平親氏の子と云われる酒井広親の子の「氏忠→忠勝→康忠→忠親→忠次」迄の酒井氏五代の居城として知られる。
徳川四天王・同十六神将のいずれも筆頭とされる酒井忠次(1527-96)は1527(大永07)年 此の井田城内で生まれた。
忠次は、竹千代(家康)が今川義元への人質として駿府に赴く際に従った家臣の最年長者(23歳)であった。徳川四天王・同十六神将のいずれも筆頭とされる酒井忠次(1527-96)は1527(大永07)年 此の井田城内で生まれた。
1560(永禄03)年05月 桶狭間の戦後、徳川家の家老となった。
1563(永禄06)年 三河一向一揆では、忠次は家康に従った。
1564(永禄07)年 吉田城攻めでは、守将 小原鎮実を撤退させ、無血開城に拠り落城させる戦功を立て、戦後、吉田城主となって以来、東三河の統治を家康より任された。
1586(天正14)年 10月24日 家中最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官された。
1596(慶長元)年 10月28日 京都桜井屋敷で死去(享年70歳)。
[27]同上2
[28]井田城趾がある城山稲荷神社鳥居1
[29]同上2
[30]井田城趾の解説石碑
13時55分 井田城趾発→〔一般道 0,8km〕→
祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現。
1470(文明02)年 松平氏第4代親忠が松平氏の氏神として創建。
征夷大将軍となった徳川家康により社殿を改築。1470(文明02)年 松平氏第4代親忠が松平氏の氏神として創建。
第3代将軍家光が社殿を拡張、祖父家康〔東照大権現〕を祭神に加えた。
江戸時代を通じ、家康の命日である4月17日に将軍の名代として岡崎藩主が代参することが慣習とされた。
[33]東照大権現 伊賀八幡宮 鳥取図
[34]石鳥居・神橋・随神門をbackに
[35]さざれ石前にて
[36]徳川家代々祈願所伊賀八幡宮略記
14時25分 伊賀八幡宮発→〔一般道 2.6km〕
14時35分 岡崎城着
[37]岡崎城天守閣 遠望
14時40分 岡崎城発→〔一般道 41.5㎞〕→
15時55分 拙宅着〔了〕= 総走行距離106km =
15時55分 拙宅着〔了〕= 総走行距離106km =
【小生comment】
岡崎・豊田は、松平(徳川)氏発祥の地だけあって、史跡が豊富にある。
もっと有名になってもいいと思うのだが‥。
【後記】09月01日に旧行『秘書室OB会』に参加してことについてご紹介して今回はお別れする。
名古屋市東区にある旧行時代の保養所T倶楽部にてH室時代のOB会が正午から14時半迄開催された。
旧行H室は、小生、1992(平成04)年11月~1995(同07)年05月迄勤務した名古屋本部での懐かしい一時代である。
同期の横江君や、一緒に仕事をした女性の皆さんも数人居て、とっても楽しいひとときを過ごすことが出来た。
[39]T倶楽部入口にて
[40]OB会参加者の全体写真1
[41]同上2
[42]snap shot1
[43]同上2
[44]同上3
[45]同上4
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