2020年8月4日火曜日

【時習26回3−7の会 0823】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第41回/第391句~400句〕」「【2637の会】blogから【07月の想い出=2010・11・13・14・16年《後編》】」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第11回〕『酒田』『象潟1』」「台湾・李登輝元総統逝く」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0823】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第41回/巻之四~第391句~400句〕」をご紹介する。

391わが宿(やど)はどこやら秋の草葉(くさば)(かな)  宗和(1)
 
【意】我が陋屋(ろうおく(=むさくるしい家))には此れといった名木がある訳ではないが、其れでも秋になると草葉は蕭条たる(=ものさびしい)風情が漂い嬉しい気分になる
【解説】季語:秋の草葉=秋 /
(
1)宗和(そうわ):江戸の人という以外、人物については不明

 
  わが草庵(さうあん)にたづねられし比(ころ)
 
392(はぢ)もせず我(わが)なり秋(あき)(1)とおごりけり  加賀 北枝(2)
 
【意】粗末な私の草庵にお越し下さって恐縮ですが、此処にも此れで秋の趣はあり、恥とは思わず私は満足しているのです
【解説】季語:なり秋=秋 /
(1)なり秋:出来秋 / 豊年 / 自足(=現状に自ら満足すること)の心の表現
(2)立花北枝(たちばな ほくし(?-1718.06.10(享保030512))):金沢の蕉門 / 刀研ぎ商 /『奥の細道』の旅で金沢を訪れた際に蕉門に入る / 通称:研屋源四郎

  素堂(1)へまかりて

(1)(山口)素堂(1642-1716):素堂は、蓮を愛して「蓮池翁」の号もある

393 はすの實()のぬけつくしたる蓮(はす)のみか  越人(1)
 
【意】蓮(ハス)は秋になると、硬くなった実が房から抜けて池に落ちる / だから蓮の房だけ(=のみ(=の実)になって仕舞った
【解説】季語:はすの実=仲秋 /「はすの実」の「の実」を助詞の「のみ」にかけた諧謔 / 又、此の句の底流には、俗世の欲を脱落させた隠士としての素堂を讃える気分がある
(1)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
 
394 一本(ひともと)の葦(あし)の穂()(やせ)しゐせき(1)哉  防川(2)

【意】井堰の傍に葦の一叢がある / が、穂をつけたのは一本だけで、其れも風に吹き晒されて痩せ細って貧弱である
【解説】季語:葦の穂=晩秋 / 秋風蕭々とした寂寥感が漂う句
(1)ゐせき(井堰):川端で水を汲み、米をとぐ等の為に川を堰き止めた堰のこと
(2)防川(ぼうせん(生没年不詳)):人物について詳細不明 /『あら野』に2句入句
 
395 松の木に吹(ふき)あてられな秋の蝶(てふ)  舟泉(1)
 
【意】秋になり寒さに弱った蝶が秋風に吹き流されて飛んでいく / 其の先にある松の木に吹き当てられないようにネ
【解説】季語:秋の蝶=三秋 /
(1)永田舟泉(ながた しゅうせん(1654(?)-1737.11.19(元文021027(享年84)))):三河挙母(現・豊田市挙母町)生まれの尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 /1687(貞亨04)年に蕉門に入る /『あら野』・『曠野後集』等に入句
 
396 ばつとして(1)()られぬ蚊屋(かや)のわかれ哉(かな)  胡及(2)
 
【意】秋になって蚊も出なくなり蚊帳をつらずに寝られる様になった / しかし、蚊帳を外すと明る過ぎて却って興奮して仕舞い眠れないから可笑しなものだ /
【解説】季語:蚊屋のわかれ=初秋 /
(1)ばつとして:広く大きく明るくなった様(さま) / 派手な、目覚ましい気分
(2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』等に入句
 
397 (こころ)にもかゝらぬ市(いち)のきぬたかな  暁鼯(1)
 
【意】砧の音があわれな詩情を催すのは静寂の中に響いて来る場合だ / 此の様な街の喧騒の中で砧の音を聞いてもどの様な感興も催さないものだ
【解説】季語:砧=三秋 /
(1)暁鼯(ぎょうご(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』に二句入句
 
  関(せき)の素牛(そぎう)にあひて
 
(1)関の素牛:美濃国関の人 / のち惟然
 
398 さぞ砧(きぬた)孫六(まごろく)(1)やしき志津(しづ)(2)屋敷(やしき)  其角(3)
 
【意】素牛(=維然)が住む美濃国関からは嘗て刀鍛治の名匠が幾人も出た / 此の地で聞こえて来る砧の音からは、関孫六(せきのまごろく)や志津三郎兼氏(かねうじ)という名匠二人の刀を打つ音が蘇って来る様だ
【解説】季語:砧(きぬた)=三秋 /
(1)孫六:刀匠 関孫六 / 室町時代後期の名匠
 
[01][]拙宅の家宝:『無銘〔 伝「孫六兼元(関の孫六)」〕』刀‥刃紋に「孫六の三本杉」がある‥

 []銃砲刀剣類登録証
 
(2)志津:刀匠 志津三郎兼氏 / 南北朝期の名匠
(3)宝井其角(たからい きかく(寛文元年0717(1661.08.11)~宝永040229(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝
 
  よしのにて
 
399 きぬたうちて我(われ)にきかせよ坊(ばう)がつま(1)  芭蕉
 
【意】碪(きぬた)(うち)て我(われ)にきかせよや坊(ばう)が妻(つま):今宵、彼の歌枕「吉野」に泊って一夜を明かす / 此処は是非あの「衣うつ」音を聞いてみたい / 宿坊のおかみさん、一つ砧を敲いて其の音を聞かせてくれませんか
【解説】季語:きぬた=三秋 / 碪を打つのは、布を柔らかくしたり、艶を出すため /「吉野」は、『新古今和歌集』藤原雅経の歌「み吉野の山の秋風小夜(さよ)ふけて古里寒く衣打つなり」に撚り、砧を聞くべき名所とされた
(1)坊がつま():修験道の山にて行人止宿の家を坊という / 宿坊 / 妻帯・清僧の両様があった
 
400いそがしや野分(のわき)の空(そら)の夜這星(よばひぼし)(1)  加賀 一笑(2)
 
【意】暴風で激しく雲が流れるただならぬ夜に、偶々(たまたま)晴れ上がった空に流星を見た /
【解説】季語:野分(のわき)=仲秋 / 野分という此の落ち着かない夜に、星たちも余程の思いに堪えかねて、なのだろうと微笑する意が底流にある
(1)夜這星:流星のこと
(2)小杉一笑(こすぎ いっしょう(1652-88.12.28(元禄01.12.06(享年36))):加賀国金沢の人 / 小杉味頼 / 通称:茶屋新七 / 貞門から1687(貞亨04)年頃より蕉門に入門 /『奥の細道』の途次、芭蕉は一笑の死を知り、金沢で追善句会を開催し、「塚も動け我が泣く声は秋の風」と彼の死を悼んだ
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第42回/巻之四~第401句~411句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いては、此れ迄の【2637の会】blogから【07月の想い出=2010年・11年・13年・14年・16年《後編》】」をご紹介する。ご記憶ある方もいらっしゃるかも‥()

2013年:07月の想い出】

 前《会報》では、2010年、2011年、2013年の【07月の想い出】についてお伝えした
 では、2014年はどうだったかというと、0720日に、京都府大山崎町の妙喜庵にある現存する3つの【国宝】茶室の一つ『待庵(たいあん)』と、同日に京都市美術館にて開催中の『バルテュス』展が面白かったのでご紹介する

 更に、『待庵』と共に現存する【国宝】茶室『如庵(じょあん)』を昨(2019)0209日に訪れているので、其れもご紹介する
 因みに、現存【国宝】茶室は、京都の大徳寺龍光院にある小堀遠州作の『密庵(みったん)』があるが、此れは現在も非公開である
 又、此の龍光院には、此れも日本に3つしかない【国宝】耀変天目茶碗があるが、此の【国宝】茶碗もめったに公開されない
 
 2014727()【時習26回3-7の会0509】~「0720日:京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町竜光56『妙喜()庵/待庵』を拝観して」「0720日:京都市美術館『バルテュス』展を見て」「矢作直樹著『おかげさまで生きる』を読んで」
 ↓ ↓ ↓
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/260509072056072.html
 
【妙喜庵/国宝茶室『待庵』】
 
■さて、今日の話題は「0720日:京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町竜光56『妙喜()庵/待庵』を拝観して」についてである
 0720()に、〔中略〕千利休が作った現存する唯一の茶室『待庵』を見て来た
 既報【0501】号にてご紹介した通り、本庵は日本で国宝に指定されている3庵のうちの1
 此の茶室を見る為には、1箇月以上前に予め往復葉書にて拝観希望日〔但し、時間は指定出来ない〕を申し込む必要がある
 20日は、午前0950分という時間指定であった。
 其処で、自宅を朝の0615分に出発
 東名 豊川IC→伊勢湾岸→東名阪→新名神→名神→大山崎IC(一般道 約900m)→妙喜庵
 以上のroute210km2時間15分で踏破し、8時半に近くの有料駐車場に到着。
 20分程waitingして約束時間5分前に入館した

 20140601日付《会報》【0501】参照
 ↓ ↓ ↓
 
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/26-050126402res.html

 「山崎駅」は、JR東海道本線の駅
 京都駅から5つ目の駅で、同駅から西に2駅先が高槻駅、その更に2駅先が「茨木」駅である
 妙喜庵は、「山崎」駅から東へ4050mと直ぐ傍にある
 
[02][左上]JR東海道本線「山崎」駅
                  
 [右上]妙喜庵
 [左下]同 入口近くの説明看板
 [右下]同 入口

[03][]妙喜庵【国宝】茶室『待庵』床の間 妙喜の軸

 [右上]同 待庵 内部東側の窓
 [右中]同 同 内部南側と次の間
 [右下]同 同 内部 二畳本籍と次の間〈隅炉&一重棚〉
 
 妙喜庵は、臨済宗東福寺派に属し、室町時代の明応年間(1492-1501)に建立
 開山は東福寺春嶽士芳
 俳諧・連歌の祖であった山崎宗鑑(1540)が、自らの屋敷を晩年に寺にしたと伝えられる
 当庵三世 功叔士紡の時に、明智光秀と羽柴秀吉がこの地で戦った天王山合戦(1582)があった
 戦後も秀吉は山崎を本拠として1年間住み、千利休も呼ばれて山崎に屋敷を作っていたと云われている
 待庵は千利休が山崎合戦直後に建立した草庵風茶室の代表的な遺構
 その規模は二帖で隅に炉を切り、塗りまわしの洞床を用い、夫々異なった連子窓、下地窓を開くという変化に富んだ構成
 我国の数寄屋建築の根本と言われる建物
 〔以上、〔以上、当庵解説書、並びに庵入口近くの説明看板より引用〕
 
 当庵は、写真撮影禁止なので、本添付写真は絵葉書等から転載〔為念〕
 此の茶室は、今(201407月時点)から432年前に、秀吉と利休が茶会を開いていた所である
 当庵で、小生に説明してくれたのは大変感じの良い若い男性だった
 「当院は臨済宗東福寺派の寺である」と説明してくれたので、小生が「貴院の本山である東福寺の宗務総長の亀山琢道禅師は小生の高校の先輩です」と言ったら吃驚していた / 以上、余談迄
 
11時少し前に妙喜庵を跡にした小生、続いては向かったのは京都市美術館
 名神 大山崎IC→京都東IC→岡崎公園駐車場のrouteを通ったが、流石は世界的観光地の京都である
 京都南IC手前から渋滞が始まり、京都東ICに至る迄30分程続いた
 
1210分 京都市美術館に到着
 
【京都市美術館『バルテュス』展】
 
[04][左上]京都市美術館
                                                      
 [左下]京都市美術館「バルテュス展」看板
 [右上]記念撮影corner脇の柱に掲示された往年のバルテュスの写真
 [右中]京都市美術館『バルテュス』展leaflet
 [右下]往年のバルテュス(Balthus(1908-2001))

[05][左上]Balthus『自画像(Autoportrait)1924

 [右上]同『聖木の礼拝』1926(Piero della Francesca 聖十字架伝 に基づく)
 [左下]同『猫たちの王(Le Roi des chats)1935 (1)
 [中下]同『兄妹(Frere et soeur)1936
 [右下]同『おやつの時間(Le Gouter)1940

[06][左上]Balthus『夢見るテレーズ(Therese revant)1938
                  
 [右上]同『美しい日々(Les Beaux Jours)1944-46
 [左下]同『横顔のコレット(Colette de profil)1954
 [中下]同『地中海の猫(Le Chat de la Mediterranee)1949
 [右下]同『白い部屋着の少女(Jeune fille a la chemise blanche)1955

[07][左上]同『昼顔Ⅱ(Les Volubilis)1955

 [右上]同『樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)1960
 [左下]同『読書するカティア(Katia lisant)1968-76
 [中下]同『日本の少女の肖像(Portrait d'une jeuneJaponaise)1962
 [右下]同 同上 1963

 バルテュス夫人となる大学生時代の出田節子さんが初めて会ってmodelをした時の絵が以下の添付写真[08[中下]である
 
【バルテュスとは何者か?】
 Picassoをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家バルテュス(本名 バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ(1908-2001))は、美術史家でPoland人の父と、画家の母のもと、1908年にParisで生まれた
 独学であるものの、初期イタリアRenaissanceからFrance写実主義に至る欧州絵画の伝統に触れ乍ら、20世紀芸術の流派のどれにも属することなく、独特な具象絵画の世界を築き上げて来た
 バルテュス曰く「この上なく完璧な美の象徴」である少女を、生涯に亘り描き続けて来たことで知られている
 観る者を挑発するかの様な少女像、危うい均衡の上に成り立つ何処か神秘的で緊張感に満ちた作品は、France知識人の熱烈な支持を受ける一方、煽情的なposeを取る少女というmotif故に批判や誤解にも晒されて来た
 今尚議論の尽きない20世紀美術に於いて最も重要且つ特異な位置を占める画家の一人である

【国内最大規模、没後初の大回顧展】
 本展は、1967年にバルテュスと結婚した節子夫人の全面的な協力を得て開催する、国内最大規模、没後初の大回顧展〔中略〕
 国内では殆ど観ることが出来ないバルテュス作品が並ぶ
 少女を描いた代表作『夢見るテレーズ(添付写真[20])』『美しい日々([21])』『読書するカティア([27])』を含む40点以上の油彩画に加えて、素描や愛用品等、合わせて100点以上を紹介する〔後略〕〔以上、本展leafletより引用〕
 
【小生comment
 『バルテュス』展は、1984年以来30年ぶりの開催という
 彼の作品を纏めて見るのは、小生今回が初めてである
 ご覧の通り、バルテュスは映画starを彷彿とさせるイケメン!
 彼については、嘗て《会報》【0156】号にて紹介したことがある
 20080216日付《会報》【0156】号を参照願いたい
  ↓ ↓ ↓

 十代の少年時代、バルテュスは著名なドイツ詩人リルケに可愛がられたことを述懐している
 本展leafletで紹介していた通り、彼の作品にはある種の「緊張感」が漂っている
 なかなか言葉では言い表せない独特なsenseと深遠な魅力を持った画家である
 
 2019225()【時習26回3-7の会 0745】~〔前略〕「0209日:『有楽苑・如庵』→〔後略〕」
 ↓ ↓ ↓
 http://si8864.blogspot.com/2019/02/26-07450209collection02152637628.html
 
■〔前略〕さて、〔中略〕続いての話題は、0209日に巡って来た史跡と美術館巡りについてである〔中略〕
 今日一日「有楽苑」→「犬山城天守閣」→〔後略〕
 
【有楽苑【国宝】茶室『如庵』】
 
0613府 拙宅発→一般道 111㎞→
0905分 有楽苑着
 
[08][左上]有楽苑 案内看板
                  
 [右上]有楽苑 入口にて
 [左下]元庵 前にて1
 [中下]同上2
 [右下]同上3

[09][左上]元庵 解説
 [左下]同上 情景1
 [右上]同上2
 [右中]同上3
 [右下]待合 前にて

[10][左上]萱門
                  
 [右上]【国宝】如庵
 [左下]如庵前にて
 [中下]如庵内部1
 [右下]同上2

[11][左上]如庵 内部3

 [右上]如庵 国宝指定書
 [左下]同【重文】旧正伝院書院 前にて1
 [中下]同 同上2
 
 織田有楽斎(1547-1621)は、織田信長の実弟で、茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠
 彼は、晩年 京都 建仁寺の正伝院を隠棲の地としたが、其の境内に1618(元和04)年頃建てた茶室が『如庵』
『如庵』は、大山崎妙喜庵『待庵』、大徳寺龍光院『密庵(みったん)』と並ぶ現存する【国宝】三庵の一つ
 
0940分 如庵から徒歩で犬山城へ
0944分 路上に赤い椿が落ちていた
 
【前書】路上に落ちていた赤い椿を見て、河東碧梧桐 (1873-1937)の有名な「赤い椿 白い椿と 落ちにけり」の句が浮かび、続いて次の拙句が浮かんだ‥。
 因みに、赤い椿花の花言葉は「控えめな素晴らしさ」「謙虚な美徳」だそうだ。
 
  赤い椿に 君の気高さ 見つけたり    悟空
 
[11][右下]路上の赤い椿花
 
 ※   ※   ※   ※   ※
 
【『真田庵』『慈尊院』『華岡青洲の里』『高野山』を巡って来た想い出】1

 先日20150719日の豊橋祇園祭の打上げ花火と時習26回生同窓会二次会の模様をお届けした
 今日は、其の更に2年前の2013071314日に、時習26回生同期の中嶋【3-2】君と今泉(谷山)【3-3】君等と『真田庵』『慈尊院』『華岡青洲の里』『高野山』を巡って来た想い出についてご紹介させて頂く
 ↓ ↓ ↓
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/26-0455071314-8.html
 
 此の時の行き先は、「『高野山』とその周辺」ということで、先ず『真田庵』『慈尊院』『華岡青洲の里』を見て『高野山』に登った
 『高野山』は標高820mの処に東西6km、南北3kmの平坦なareaに、幼稚園から大学迄あって、人間社会として自己完結している町である
 以下に、今回の旅行の『行程表』を示し乍ら、これに基づいて概略をご紹介したい。
 又、その解説を、司馬遼太郎著『街道をゆく9』の中の「高野みち」から一部引用する
 
0713()
 
0550分 中嶋宅発→10㎞→ 0610分 青木宅発→0.7㎞→ 0615分 今泉宅発→0.6km
0635分 谷山宅発→245/266.7km→東名・伊勢湾岸・東名阪・西名阪〔[01]高速道路料金休日割引2000円÷4=500円〕→郡山IC→国道24号線他→ 1100分 善名称院(「真田庵」)着〔[02]宝物資料館@200/700円〕
 
 最初の訪問地「真田庵」には、ほぼ定刻通りに到着した
 時節は「小暑」であり、車から降りると熱気が肌に纏付く様に凄く暑い
 15分程度境内を散策したが、ほうほうの体(てい)で早々に次の訪問地「慈尊院」へと向かった
 
【善名称(ぜんみょうしょう)院〔真田庵〕】
 当院は、真言宗寺院。慶長05(1600)年、関ヶ原の戦いで西軍に属していた真田昌幸(1547-1611)・信繁((=幸村)1567(70)-1615)父子は、女人禁制の高野山・蓮華定院(れんげじょういん)に配流となったが、二人共、妻を連れていた為、九度山(くどやま)の当院に移され蟄居生活を送った
 のち寛保元(1741)年、九度山出身の大安上人が真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建
 此れが当院で、「真田庵」の別称で親しまれている
 奇遇なことであるが、真田昌幸の命日は慶長160604
 新暦の16110713日であり、正に訪問した日が没後402年後の命日だったのである
 〔‥以下、『高野みち』からの引用である‥〕

 九度山での真田父子は、紀州の領主浅野(【小生注】幸長((よしなが)1576-1613):浅野長政の嫡子)氏から五十石の養い料を貰っていたし、信州の伊豆守(【同】真田信之((昌幸の長男・信繁の実兄)1566-1658))からの仕送り等もあって、窮乏はしていなかったらしい
 しかしそれでも畑仕事をしたり、のちに「真田紐」とよばれた信濃ふうの組紐を打ったりしていた〔後略〕〔‥以上、司馬遼太郎『高野みち』から引用‥〕
 
[12][]善名称院(真田庵)
                  
 [左下]「真田昌幸墓碑と地主権現」解説
 
1130分 同寺 発‥1.2km/267.9km
1135分 慈尊院着‥高野山町石道「入口」&「丹生官省符神社」〔拝観無料〕‥


1200分 同寺 発‥13km/280.9km‥j
 
【慈尊(じそん)院】
 当院は、弘仁07(816)年弘法大師((空海)774-835)が、高野山開創に際して、高野山の表玄関として伽藍を創建したことに始まる。200407月世界遺産に登録された
 この地九度山から高野山「大塔」迄の21kmの道程に1町(109m)毎道標として180本の五輪卒塔婆石(=町石(ちょういし))が建てられている
 其の一番麓に当たる180番目の町石が、此処「慈尊院」から隣地『丹生官省符神社』へ向かう119段ある石段の途中「一ノ鳥居」の直ぐ下右脇にある
 「町石」は、高野山「大塔」~高野山奥の院「弘法大師御廟」迄の約04㎞の道程にも36基あるので、全部で216基ある / 以上、余談
 
 高野山麓のこの慈尊院は、空海在世中に建立されたと言われる
 『高野略記』という古い本に、この家が空海の当時から下院(げいん)と言われ、空海は厳寒の時期は降りて避寒したと言われる
 空海の母は、讃岐の阿刀(あと)氏の出である
 『紀伊続風土記』等に拠ると、承和元(834)年に遥々空海を高野山迄訪ねて来たという
 空海はこの慈尊院に住まわせた、となっている
 『野山名霊集』に拠ると、空海はその母を「此所に室を構()て留置(とどめおか)れ、現当の御孝養を尽され、常光といふものを御給仕に附置せ玉ひ」等とある
 此の母は訪ねて来た翌承和020205日、83歳で「娑婆の縁尽」きて逝き、この寺が廟所となり、以後、慈尊院と呼ばれる様になった
 空海も、其れから一ヵ月余ののち62歳で入定する〔後略〕

 [12][中下]「慈尊院」入口にて中嶋君・今泉(谷山)君と
 [右下]「慈尊院」と土塀と多宝塔(1624年再建)
 
 官省というのは奈良朝・平安朝の行政用語であることは言う迄もない
 官とは太政官のことであり、省とは民部省のことである / 両機関を併称する時に官省という
 此の社名には「符」がついている / 丁寧に言うには、「官省符荘」と言わねばならない
 官省符荘とは、平安期の荘園の一種(法的性格としての)である〔中略〕
 官省符荘とは「その荘園の持ち主は国家に租税を納めなくてよい」ということを太政官の官符と民部省の省符で以て認められた荘園のことである〔中略〕
 社殿の前に立てられた由緒書を読むと、「官省符荘二十一箇村の総氏神である」という旨のことが書かれている
 富裕な紀ノ川流域の21箇村の荘園というのは大変な富の源泉と思われるが、官省符荘である為には、高野山がその荘園の隷民達の行政・警察権を握っていたことになる
 具体的には、政所(まんどころ)である慈尊院が、江戸期の代官の様にその実務を執っていたのであろう〔後略〕〔以上、司馬遼太郎『高野みち』から引用〕
 
[13][左上]「慈尊院」境内から『丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社』拝殿への119段の「石段」と「一の鳥居」

 [左下] 180町石
 [右上]「二ノ鳥居」前から『丹生官省符神社』拝殿を望む
 
 中々風情があっていい寺院と神社だが、何せ猛暑の為少し歩いただけで汗がどっと出る / 兎に角暑い
 中嶋君が「暑さで眩暈がしたよ」と言っていた位だから、観光するには適しない時期であることは間違いない
 
 次に向かったのは、『華岡青洲の里』である
 華岡青洲(1760-1835)の診療所「春林軒」を見る前に腹ごしらえである
 「青洲の里」には座席数50Viking restaurant「華(はな)」があり、@1,380円で美味しい手作り料理を堪能出来た。これはお薦めである
 「春林軒」は、Restaurantから徒歩で23分の所にあった
 華岡青洲と言えば、有吉佐和子(1931-1984)著『華岡青洲の妻』(1966年作)が著名である
 皆さんも作品名はよくご存知のことと思う
 青洲は、字を伯行と言い、祖父・尚政、父・直道、に続き三代目「随賢」を名乗る
 外科医の家に生まれ育った
 青洲の偉業は、朝鮮アサガオ(曼陀羅華)を主体に‥
 ①世界初の全身麻酔薬『通仙散(つうせんさん)』を約20年の動物実験・人体実験の果てに創出することに成功
 ②世界初の「乳癌」の手術に成功
 この全身麻酔薬開発の人体実験に、母・於継、妻・加恵の献身的な協力があったという訳である
 妻・加恵は人体実験の副作用で失明する
 
【華岡青洲の里/春林軒】
 
[13][右中]「春林軒」入口にて
 [右下]同 入口至近の内部と華岡青洲
 
1225(華岡)青洲の里着‥昼食〔[03]Viking1,380/2,080円〕〔[04]春林軒・展示室入場料@600/2,680円〕
1400分 同所 発→29/309.9km
1450分 高野山「奥之院」前駐車場着〔駐車場料金:無料〕‥0.7(徒歩)2本のうち東側の参道を奥の院迄散策
 
【高野山】
 
[14][]高野山「奥之院」前駐車場から「奥之院」への参道にて
                  
 [左下]同『奥の院』への参道にて
 
1520分 弘法大師御廟着〔経蔵・燈籠堂〕
1550分「奥之院」発‥1.6km(徒歩)‥西側の参道を徒歩で供養塔〔豊臣家他大名墓所〕を見乍ら「一の橋」へ
 
[14][中下]高野山「奥之院」 豊臣秀吉墓所
 [右下]同 薩摩・島津家墓所
 
 恥ずかし乍ら‥であるが、今回は、どういう訳か拙い短歌や俳句がどんどんと浮かんで来た
 以下、先ず高野山「奥之院」参道で詠んだ拙い短歌を一首ご覧に入れたい
 
【詞書】高野山「奥之院」の参道には、吉川英治(1892-1962)・山岡荘八(1907-78)・池波正太郎(1923-90)・司馬遼太郎(1923-96)等の歴史小説に登場する主人公や脇を固める戦国の名将達、そして、江戸時代三百余藩の中でも十万石以上の雄藩の大名達の供養塔や五輪塔(=五輪塔)が所狭しと並んでいた。これ等を眺め乍ら小半時も歩いていたら、無性に、人生の儚さ・虚()しさ・寂寥感、そして終には「無常観」を感じるに至った
 
  参道に 苔むす数多(あまた) (‥五輪‥) 塔を見て
   盛者(じょうしゃ)必衰の 理(ことわり)を知る  悟空
 
1630分「一の橋」から「奥之院」前駐車場〔‥01km‥〕迄徒歩にて戻る
1645分「奥之院」前駐車場着
1650分 同駐車場発‥1.3km/311.2km
1655分 宿坊「福智院」(同院駐車場)
 
【高野山/福智院】
 
0714()
 
0600分 朝の読経→ 0700分 朝食&宿坊境内3庭園見学〔重森三玲作庭〕
 
[15][]福智院『愛染庭』‥本庭のみ朝の読経した後の一時だけ撮影出来る‥

 [左下]福智院『蓬莱遊仙庭』
 [右下]福智院『登仙庭』

0820分 宿坊「福智院」発〔[05]宿泊料金@11,256円+追加料金@2,744/16,680円〕‥0.4/311.6km
0825分 金剛峯寺〔の南にある〕駐車場着〔駐車場料金:無料〕
0830分「総本山金剛峯寺」〔[06]拝観料:@500/17,180円〕
 
 ・正門・天水桶・経蔵・鐘楼・大玄関&小玄関・大広間&持仏間・梅の間〔伝・狩野探幽筆襖絵〕
 ・柳の間〔豊臣秀次自刃の間〕・別殿・新別殿・蟠龍(ばんりゅう)庭・奥殿(非公開)・新書院
 ・真松庵(非公開)・阿字観道場・書院上段の間・中庭・奥書院・稚児の間・土室(つちむろ)・台所
 
[16][左上]総本山「金剛峯寺」表門前にて
                  
 [右上]金剛峯寺『蟠龍庭』
 
 別殿廊下から「奥殿」前に広がる『蟠龍庭』‥石庭としては我国最大(2,340)の広さ。龍は四国産の青い花崗岩、雲海は京都の白川砂が使用されている
 
 「総本山金剛峯寺」の歴史を紐解くと‥
 空海の甥と言われる真然大徳(?-891)の住坊があった所である
 天承元(1131)10月覚鑁(かくばん)上人(1095-1143)が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立
 文禄02(1593)年 豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔う為、木食応其(もくじきおうご)上人(1536-1608)に命じて建立、寺名も「剃髪寺」→「青厳寺」と変え、木食上人の寺坊になってからは、法印〔=「法印大和尚位(ほういんだいしょうい):大僧正・僧正・権僧正という僧位の最高位」〕の御坊〔=寺坊〕となった
 その後、何度も火災焼失し、現在の本殿は文久03(1863)年に再建されたものである
 
0930分 金剛峯寺発→0.6km(徒歩)
0940分「金剛三昧(さんまい)院」着→同院は入院せず【国宝】「多宝塔」を撮影
 
[16][左下]金剛三昧院・国宝『多宝塔』前にて
 
0945分 金剛三昧院発→01km/312.6k
0950分「高野山霊宝館」前駐車場着〔駐車料金:無料〕〔[07]600/17,780円〕
 
 丁度前日の0713日より企画展「高野山の名宝」展が始まった処であった
 本菊店の目玉は、鎌倉時代の仏師・運慶(生没年不詳)作に拠る「八大童子」である
 
1030分 同館発→0.1km(徒歩)
1035分「壇上伽藍着」〔「根本大塔」&「金堂」の拝観料@200円×2[08]400/17,980円‥その他は無料〕
 
[16][右下] 巨大な『根本大塔』前にて
 
 ご覧の様に巨大な根本大塔 / 高さは16(50m)ある / 中嶋君・谷山君達が小さく見える
 空海に拠って日本で初めて建てられた多宝塔で、創建当時も現在とほぼ同じ高さであった
 現在の根本大塔は1937年に再建された
 この壇上伽藍の大塔を見終えた処で、大粒な雨がポツリポツリと降って来た
 遠くで雷の音が聞こえる
 谷山君が「大雨になるかも‥かなりヤバイよ!」と警鐘を鳴らしてくれたので、まだ金堂を拝観していなかったが、観光を打ち切り、諦めて駐車場に向かった
 駐車場に到着した途端、大雨が降りだした
 此の雨は、高野山をほぼ降り切る迄降り続いた
 中嶋君が「谷山君! 素晴らしい判断だよ!」と盛んに褒め讃えていた
 車の外は土砂降りの雨である
 それ程、谷山君の判断は的確であったのだ!
 
1125分 同伽藍発→0.1km(徒歩)→霊宝館前駐車場へ
1130分 同駐車場発→0.8/313.4km
1135分「大門」着→「大門」前にて記念撮影→
 
 大雨が降り続いていたので、全員での記念撮影は諦め、急ぎ大門だけ撮影
 従って、本《会報》へのupは省略する
 
1145分 同所発→帰路へ→
 
 〔昼食は帰途中に橋本市辺りの一般街道沿いのdrive-inにて食する〕
 
1800分 谷山宅着→ 1825分 今泉宅着→ 1830分 青木宅着
1900分 中嶋宅着
 ‥287/600.4㎞‥〔[09]高速道路料金2,000円÷4=500円〕+
[10]gasoline代:150円×600㎞÷(10/L)=9,000円÷4=2,250/=【費用概算合計】@20,730円〕()
.
【後記】高野山の「奥之院」は空海が「入定」した所‥とても荘厳な感じがして良かった‥

  緑蔭や 矢を獲()ては鳴る 白き的  竹下しづの女
 
 此の時季、弓道を経験した者にとってこの名句は本当に心に迫って来る
 小生も、「奥之院」と、この名句で詠われている「緑陰」という季語に触発されて拙句を一句‥
 
  緑陰が 眼前に在る 奥之院  悟空
 
 そして今、宿泊先の「福智院」に3つある、昭和の著名な作庭師、重森三玲作の「遊仙之庭」の前で涼んでいた時に浮かんだ一句‥
  「福智院」は涼風が心地良くホント素晴らしいかった。 !(^-')b
 
  炎暑下も 頬に涼風 福智院  悟空
 
【詞書】昭和の天才作庭師・重森三玲(しげもり みれい)は、全国500カ所の庭を実地見聞した上での作庭だからだろう / 彼が作庭した庭は、新しさの中にも古き庭の良さが滲み出ている。
 
  苔庭や 温故知新の 三玲かな  悟空
 
 以下は余談である
 京都の東福寺「方丈庭園」、同じく東福寺塔頭・光明院「波水庭」の作庭で著名な三玲が人生の締め括りに作庭したのが此処「福智院」の「愛染庭」「蓬莱遊仙庭」「登仙庭」の3つの庭
 中でも「愛染庭」が三玲の遺作となった庭である
 昭和49年作 / 彼は完成を見る前に逝去
 翌昭和50年に彼の弟子達が完成させたと、福智院の僧侶が説明してくれた
 「愛染庭」だけは、朝06時からある読経の後の十数分のみ読経参加者宛に見ることが許されているのだそうだ ()
 
■続いては、【07月の想い出】のうち、まだご紹介していない2016年から、2016/07/22付【時習263-7の会 0610】〜「0717 : 豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展」を見て」を、20世紀のドイツの 政治学者カール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985)) の作品 3点と共にご紹介する
 
 アンドリュー・ワイエスの水彩画と素描は、精緻で cool な処が魅力的だ
 Carl Schmitt 3点をご紹介するのは、Schmitt が生きた Weimar 共和国時代の議会政治の行き詰りが、彼が言う「大衆民主主義」は、現代の「ポピュリズム(populism)」に通じ、更には、大衆民主主義の諸問題を解決する方法として、大衆が支持する強力な「独裁」→「ファシズム(fascism)」という統治方式に導かれるという流れが、現代日本政治にも当て嵌まることに強い関心を抱いたからだ
 
【豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展】1
 
 今日最初の話題は、0717()に地元の豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展」を見て来たのでその模様を順次お伝えする
 本展は、埼玉県朝霞市にある「丸沼芸術の森」が所有する20世紀米国を代表する画家 Andrew Wyeth(1917-2009) の水彩画と素描115点を紹介する企画展
 本展で紹介される作品群は、米国北東部 New England 地方6州の一つで最北東端のメイン州(State of Maine) の海岸沿いの街 ノックス郡(Knox Country) クッシング(Cushing) が舞台
 1939年夏、Cushingに住む Christina Olson Alvaro Olson という姉弟との30年に及ぶ親交が始まる
 Wyeth(当時22) Christina Alvaro を紹介したのが、その2年後に伴侶となるベッツィ・マール・ジェイムズ(当時17)
 先ずは、添付写真の絵15点をご覧になってWyeth の美の世界を堪能頂きたい
 猶、[09]同『幽霊(The Revenant)』だけは本展の展示作品ではない〔為念〕
 
[17][左上]本展leaflet

 [右上]New England 6州とMaine Cushing〔赤丸の中〕
 [左下]Andrew Wyeth『オルソンの家(Olson House)1966
 [中下]同『入江から見たオルソンの家(Olson House from the Cove)1940年 
 [右下] カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況他一篇』
 
 2016/07/09/22:48:01【時習263-7の会 0608】〜〔前略〕「カール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(樋口陽一訳)『現代議会主義の精神史的状況(1923) 他一篇(=「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」(1926))』」
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 今日お届けする話題は、最近読んだ、カール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(樋口陽一訳)『現代議会主義の精神史的状況(1923) 他一篇(=「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」(1926))』についてである
 
【現代議会主義の精神史的状況】(1923)

 序言/(P.09)、第一章/民主主義と議会主義(P.15)、第ニ章/議会主義の緒原理(P.33)
 第三章/マルクス主義の思考に於ける独裁(P.63)、第四章/直接的暴力行使の非合理主義理論(P.87)
 
【議会主義と現代の大衆民主主義との対立】(1926)

 第一章/議会主義(P.125)、第ニ章/民主主義(P.155)
 
【カール・シュミットの略歴】

1888年 独Westfalen 地方のプレッテンベルクで Catholic の家に生まれた / Berlin 大学、Munich 大学、Strasbourg 大学等で学ぶ
1916 Der Wert des Staates und die Bedeutung des Einzelnen(『国家の価値と個人の意義』)で教授資格取得 / ボン大学、Berlin 商科大学、Cologne 大学で教授を歴任 / 第一次大戦後のワイマール(Weimar) 政権下、議会制民主主義、自由主義を批判
1933 Berlin 大学教授(1945) / ナチス(Nazis)政権成立の1933年から Nazis に協力、Nazis の法学理論を支えたが、Nazis 政権成立前の1932年 著書『合法性と正統性』にて、共産主義者と国家社会主義者を内部の敵として批判 / 更に、ユダヤ(Judea) 人で内務大臣を務めたフーゴー・プロイス(Hugo Preuss(1860-1925)) を称賛したこと等に拠り1936年失脚 / 第二次世界大戦後逮捕され、ニュルンベルク(Nuremberg) 裁判で尋問されるも不起訴に / 以後、故郷プレッテンベルクに隠棲しつつ著述活動は続けたを続けた
1985年 死去(享年96)
 
 何故、本書を読んだかというと、水野和夫著『過剰な資本の末路と、大転換の未来』の中で、水野氏が【シュミットの慧眼】と題して、Carl Schumitt が「1926年の段階で、現代の姿を言い当てている(P.54)」と述べたことに触発されたからだ
 早速、Carl Schmitt の本を数冊入手して、手初めに一番分量の少ない【現代議会主義の精神史的状況】(1923)と【議会主義と現代の大衆民主主義との対立】(1926)を読んでみた
 本書を読んだ感想を一言すれば、「Carl Schmitt が生きたWeimar 共和国時代の議会政治の行き詰りが、現代日本政治によく似ている」ということ
 Schmitt が言う「大衆民主主義」は、現代のポピュリズム(populism) に通じる
 彼は【議会主義と現代の大衆民主主義との対立】の中でこう述べている
 あらゆる人間の人間としての平等は、民主主義ではなくて、特定の種類の自由主義であり、国家形態ではなくて、個人主義的・人間的な道徳及び世界観である
 現代の大衆民主主義は、これらの両者の不明瞭な結合に基づいている(P.147)
 今日(【小生注】=1926年当時)、一般の考え方は、議会主義を、ボルシェヴィズム(Bolshevism) とファシズム(Facism) の中間にあって両側から脅かされているとみている
 これは、平明だが外面的な分類である。議会主義の運営と議会主義的な諸装置の困難さは、実は、現代大衆民主主義の状態から生まれている
 現代の大衆民主主義は、先ず以て、民主主義そのものの危機に導く
 それは民主主義に必要な実質的平等と同質性の問題が普遍的な人間の平等に拠っては解決され得ないからである
 更に、現代の大衆民主主義は、民主主義の危機とは区別されて然るべき議会主義の危機に導く(P.150-151)
 Schmitt は、更に、大衆民主主義の諸問題を解決する方法として、大衆が支持する強力な「独裁」という統治方式に導く
 まぁ、これが Schmitt がファシズムを支持した根底になるのであるが、彼の目指した「独裁」とは、古代ローマのカエサル(Caesar) やアウグストゥス(Augustus)France 第一帝政全盛時代のナポレオン(Napoleon Bonaparte) の様な良い意味での強力な leadership だったのではなかろうか?
 
【小生comment
 Carl Schmitt は、Nazis の御用学者として有名な為、第二次世界大戦後は不遇な後半生を送った
 が、「ニ十世紀の Hobbes」と称される彼の政治思想は押並べて reasonable で解り易い
 これからもっと再評価されて然るべきであるし、きっと注目されていくものと思料する
 彼の著作『政治的なものの概念』『政治神学』『パルチザンの理論』『独裁』も入手したのでこれ等も順次読んで行きたい

【後記】0703日の午前0950分頃、地下鉄川名駅を降り、桑山美術館へ行く道すがらでの一風景を詠んだ
 
【前書】
 梅雨の季節の中で暫し薄日が差す日曜日の午前中
 川名公園に接する道端にピンク色の可憐な昼顔の花が咲いていた‥
 
  昼顔や 緑に映える 道の端(はた) 悟空
 
[18]名古屋市地下鉄鶴舞線「川名」駅至近の川名公園沿いの道端に可憐に咲いていたヒルガオ
                  
 【豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展】2

[19][左上] Andrew Wyeth『表戸の階段に座るアルヴァロ(Alvaro on Front Doorstep)1942

 [右上]同『アルヴァロの馬(Alvaro's Horse)1945
 [左下]同『《海からの風》習作(Study for Wind from the Sea)1947
 [中下]同『階段と表戸(Stairway and Front Door)1948
 [右下] カール・シュミット『政治神学(1922(初版)1934(第二版))
 
 2016/07/16/21:49:24【時習263-7の会 0609】〜〔前略〕「カール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(田中浩/原田武雄訳)『政治神学(1922(初版)1934(第二版))』を読んで」
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■続いて今日最後にお届けする話題は、前《会報》に引き続きカール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(田中浩/原田武雄訳)『政治神学(1922(初版)1934(第二版))』を続けて読んだのでご紹介したい
 
 第二版のまえがき(P.07)
 一 主権の定義(P.11)、ニ 法の形式および決定の問題としてのの主権の問題(P.24)
 三 政治神学(P.49)、 四 反革命の国家哲学について(P.69)
 
 本書は、上記 index で構成され、以下の様に定義されている
 1. 主権の定義:「主権者とは、例外状況に関して決定を下す者をいう」(P.11)
 3. 政治神学:「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」(P.49)

 多分に理屈っぽい文章なので、小生も実際本書をよく理解出来ていないが、本書の訳者 田中浩氏が「本書」巻末に「神話」と「独裁」の政治理論と題して説明してくれているので、その一部をご紹介したい
 そもそも主権問題は、いつの時代でも革命・内戦・著しい政治的不安定という例外状況に於いて登場する
 Schmitt が好んで引き合いに出す決定主義の代表的思想家、近代に於ける主権論の大成者ホッブズ(Thomas Hobbes(1588-1679))が、主著『リヴァイアサン(Leviathan)(1651)を執筆した Puritan 革命前夜の England では、正に、例外的状況や緊急事態に於いて、「誰が決定するか」という問題を巡って、国王と議会の間で、主権論争が華々しく展開されていたのである
 England に於いても、平穏無事の時代には、大権を持つ国王と特権を持つ議会とが協同統治を行う、という伝統的な調和的な制度観を維持出来た限り、主権問題は表面化しなかった
 しかし、17世紀に入って、国王がその権力を拡大する為に、国の防衛という緊急事態=例外状況に於いては、「承諾なければ課税なし」という通常の原則を無視出来るという主張を提起したことに拠って、England に於いて、初めて「国の主権者は誰か」という決着を迫られることになったのである
 こういう政治状況を目前にして、Hobbes は、内乱の真の原因は England に於いて主権が欠如していることにあったとして、主権理論の構築を試みたのである
 従って、Schumitt の「主権者とは例外状況に関して決定を下す者」という、『政治神学』(=本書)冒頭の余りにも有名な言葉は、国家や主権問題の本質を正しく捉えていたものであり、且つそれは、例外状況を考察の対象から排除する1819世紀のブルジョア(bourgeois)的法治国家思想や、決定を回避し討議に擦り替える議会主義に対する挑戦を意味していたのである(P.194-195)
 Schmittは、既に1923年段階に於いて、今後のドイツの進むべき道を暗示している(P.203)
 彼は、『現代議会主義の精神史的地位』の末尾に於いて、レーニン(Lenin(1870-1924))の指導した Russia 革命の成功は、単なる、国際的(international)な「階級闘争の神話」だけに拠るものではなく、民族的(national)な要素を強く持った「民族的神話」が加味されたものとして評価している
 続けて更に、彼は、かかる「民族的神話」が真に「階級的神話」を凌駕した例として、最近 Italia  で起こった fascism 革命に触れて次の様に述べている
 「Rome への進軍を前にして、192210月、Napoli で行った有名な演説に於いて、ムッソリーニ(Benito Mussolini(1883-1945))は次の様に述べている /『我々は、一つの神話を創り出した。この神話は信念であり、気高き情熱であり、それは何ら現実たることを要しない / それは衝動であり、希望であり、信念であり、勇気である / 我々の神話は、民族であり、我々が具体的に現実化しようと欲する偉大な民族である』と
 この同じ演説に於いて、彼は、社会主義をより低次の神学と呼んでいる
 ‥この例の精神史的意義は、Italia の土地に於ける民族的な情熱が、是迄民主主義的ないし議会主義的=立憲主義的な伝統を持っていたこと、Anglo-Saxon 的自由主義の Ideologie に全く支配されていたことの故に、特に大である」(P.204)
 そして、最後に、Schmitt は、「神話の理論は、議会主義的思想の総体的な合理主義がその論拠を喪失したことを示す最も力強き表現であり」現代に於いては、「議会主義かしからずんば何か、という反問を繰り返して主張する時代は去った」として、彼の議会主義批判を結んでいるのである
 こうして、Schmitt は「民族的神話」と指導者原理に拠る「独裁」、安定した権威に拠る「全体国家」の確立の為の理論的正当化への道を掃き清める上で、大きな役割を果したのである(P.205)
 
【小生comment
 彼の本を読んでいると、「民主主義とは何か?」ということを考えさせられて仕舞う
 
【豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展】3
 
[20][左上] Andrew Wyeth『幽霊(The Revenant)1949年 
                  
 [右上]同『《幽霊》習作(Study for The Revenant)1949

 [左下]同『オルソン家の表戸(Olson's Front Door)1954
 [中下]同『オルソン家の納屋の燕(Swallows in Olson's Barn)1953
 [右下] カール・シュミット『『政治的なものの概念(1932年版/1963年版)
 
【小生comment
 Andrew Wyeth の絵は、何処か荒涼とした雰囲気が漂う作品が多いが、何処か、同じ米国人画家の Edward Hopper(1882-1967) を思わせる雰囲気がある
 そう思って絵を見ていたら、矢張り Wyeth 自身が Hopper を尊敬していたと解説に書いてあった
 その Hopper が描いた灯台は、Maine 州の最大の街 ポートランド(Portland)近くの Elizabeth 岬にある
 以上は、余談‥
 
 2016/07/22/17:55:57【時習263-7の会 0610】〜〔前略〕「カール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(田中浩/原田武雄訳)『政治的なものの概念(1932年版/1963年版)』を読んで」
 ↓ ↓ ↓
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/26-060926370820.html
 
■続いて今日最後にお届けする話題は、前《会報》に引き続きカール・シュミット(Carl Schmitt(1888-1985))(田中浩/原田武雄訳)『政治的なものの概念(1932年版/1963年版)』を続けて読んだのでご紹介したい
 本文自体は、訳文多くの注書を加えても102頁と短いが、ジックリ腰を据えて読まないと理解し難い処がある
 其処で、今回は本書の末尾に、役者田中浩氏の解説「カール・シュミットの『友・敵』理論」から引用して本書についてご紹介する

[20][右下]カール・シュミット著(田中浩/原田武雄訳)『政治的なものの概念(1932年版/1963年版)
 
1. カール・シュミットは、戦前の日本では、Nazis の御用理論家として、つとに喧伝された政治学者である〔中略〕(P.105)
 現代は、「民主主義の危機」、「近代国家の危機」、「議会主義の危機」の時代とも言われる
 しかし、これらの危機意識は、何も今に始まったことではなく、19世紀後半以来、既に多くの思想家や社会学者達に拠って、再三再四指摘されて来た
 社会主義、共産主義、無政府主義(anarchism)、ファシズム(fascism)、社会民主主義等々が、かかる現代社会の危機の回避策=救済策として登場〔中略〕
 シュミットは、19世紀~20世紀にかけての政治・法・経済・社会思想等に関して、多方面に亘る研究を行い、民主主義の危機の原因を巡る諸問題を追求
 彼が最後に到達した危機回避の処方箋=fascism の立場には賛成出来ないにしても、彼の<政治の概念><憲法論><独裁論><国家論><議会主義論><法学的思惟についての考察><19世紀思想の批判的分析>を通じての自由主義的民主主義批判の作業は、極めて論争的・挑戦的性格を持つものであり、且つ fascism 理論の精神原理を理解する上での反面教師的役割を果たすものとして、〔中略〕検討するに十分に値する〔中略〕(P.106)

2. 戦後日本に於いては〔中略〕市民革命期の Hobbes 以降の英米系の民主主義理論が急速に導入された〔中略〕
 この英米系の政治哲学は、「徹底した個人主義」〔中略〕であって、個人や集団が、国家=全体に優先するのであって、国家に対する忠誠如何は〔中略〕国家がどの程度個人や集団の利益を充足しているかに拠って決定される(P.114-115)
 この個人主義は、合理的・理性的・民主的な rule や制度を目指すが、諸々の矛盾が一挙に噴出する様な「例外状況」や「緊迫事態」を想定していない弱点を持つ(P.116-117)
 例外状況に於いては、既存のあらゆる民主的な慣行・rule、適法なる手続きは、次々に無視され破壊されていく
 その最も極端な例が、「戦争」の時期であり、「戦争」こそ、権力把持者が、自己の権力を強化集中する絶好の機会なのである〔中略〕(P.117)
 戦前の日本や Weimar 体制下のドイツに於いて、反動的・保守的理論家達は、漸く芽生えつつあった個人主義・民主主義・議会主義等々に対して、社会主義者顔負けの厳しい批判・攻撃を加え、危機の回避策=救済策として、全体主義・超国家主義・fascism 等々を対置させた〔中略〕(P.117-118)

3. 本書に於いて、シュミットが意図したことは、自由主義的国家観や議会主義等々の、英米系の民主主義理論を批判し、強力なる国家の復権を図ることにあった、と思われる(P.120)〔中略〕
 シュミットは、「政治的なもの」の究極的な識別徴標を、「友か敵か」即ち「友・敵(Feind und Freund)関係」として捉える〔中略〕
 その最も典型的な例が、国際間に於ける「戦争」〔中略〕(P.121)
 国家=主権者は、国家の敵を決定出来なくてはならない
 自由主義的な多元主義に於いては、国家の敵を決定出来ない
 シュミットの「友・敵」理論は、こうして、Weimar 共和体制下の自由主義的国家間や議会主義に対して、秩序の把持者、秩序の決定者としての国家の優位の理論を導出し、結果的には、Weimar 共和体制の思想的・制度的基盤を掘り崩す役割を果たすことになるのである(P.123-124)

4. シュミットが、政治の本質を「友・敵」関係でで捉えたことは、それ自体極めて興味ある問題である(P.124)
 何故なら、19世紀中葉以降の資本主義対共産主義という状況の出現に際し、マルクス、レーニン、ホー・チ・ミン、毛沢東等、革命の指導者は全て、「敵は誰か」ということをその革命論の基礎に置いていたからである〔中略〕(P.126)
 
【小生comment
 カール・シュミットが本書を書いたのは1927
 その 6年後の1933年、『国家・運動・国民』という著書で、シュミットは Weimar 共和体制を否定し、Nazis を明確に支持、国家の敵を共産主義と述べた
 この Nazis を率いた Hitler が、どの様に結果を導出したかは、歴史が証明している
 何をかいわんや、である
 
【豊橋市美術博物館『アンドリュー・ワイエス 水彩・素描』展】4()
 
[21][左上] Andrew Wyeth『オルソン家の納屋の内部(Interior of Olson's Barn)1957

 [右上]同『《青い計量器》習作(Study for Blue Measure)1959
 [左下]同『穀物袋(Grain Bag)1961
 [中下]同『オルソン家の納屋の干し草置き場(Hayloft in Olson's Barn)1966
 [右下]同『《オルソン家の終焉》習作(Study for End of Olsons)1969
 
【小生 comment
 現代社会が、合理的かつ公正に機能していく手段として議会制民主主義がある
 民主主義とは簡単に言うと、「主権者たる人民が、自らの自由と平等を保障する行き方」のこと
 此の民主主義を実現していく手段が、ベンサム(Jeremy Bentham((1748-1832 が言う処の「最大多数の最大幸福」を希求する多数決原理の「議会制民主主義」である
 しかし、此の議会制民主主義に現在多くの矛盾と問題が生じており、政治が上手く機能しなくなっている
 此れを考え始めると出口が見えなくなる‥()()
 
■今日最後の話題は、0802日の Facebook up した《会報》【0559】松尾芭蕉『奥の細道』〔第11回〕をご覧下さい

 20150802()【時習26回3-7の会0559】~〔前略〕「『奥の細道』第11回‥【酒田】【象潟1】」〔後略〕
 ↓↓ 此処を click して下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/260559263781107.html

 331年前の今日、芭蕉と曾良は、松島と共に念願の訪問地「象潟」にいた

 芭蕉と同じ気分に一寸だけでもなれた様な気がする
 小生、旧行仙台支店時代、松島は何回も訪れているが、象潟は一度も訪れなかった
 だから、命あるうちに、一度象潟を訪れてみたい
 
 芭蕉と曽良が、六月十日(新暦0726) 羽黒山の南谷別院を発って、同日午後04時頃、鶴岡、長山五郎右衛門宅到着
 同日夜、「みづらしや山をいではの初茄子(はつなすび)/翁」の句を発句とする歌仙を表四句迄興行した
 翌六月十一日(新暦0727)は「翁、持病不快故」、俳諧は「昼程中絶」
 三日目の六月十二日(新暦0728)に「元禄020610日/七日羽黒に参籠して」と題する「歌仙」が完成〔=本文中の「俳諧一巻有」のこと〕
 〔新暦0726日:曇りのち小雨(ヌルヽに不及(およばず))0727日:折々村雨す/0728日:朝の間村雨す〕
 〔村雨(=叢雨(むらさめ)):群になって降る雨の意‥一しきり強く降って来る雨/にわか雨、驟雨(しゅうう)、白雨(はくう)、繁雨(しばあめ)
 六月十三日(新暦0729) 川舟で酒田へ行き、不玉亭(伊東玄順亭)に翌十四日(新暦0730)2泊す
 翌六月十四日(新暦0730) 寺島彦助亭へ招かれ「涼しさや海に入りたる最上川/翁」(本文末の「暑き日を‥」の句の初案形)を発句とする歌仙を巻いた
 〔新暦0729日:少し雨降りて止む、申刻(午後04時頃)より曇り/0730日:暑甚だし〕
 六月十五日(新暦0731) 吹浦、宿記載なし〔朝より小雨、昼前より雨甚だし〕
 六月十六日(新暦0801) 塩越、能登谷佐々木孫左衛門宅に翌十七日(新暦0802)2泊す
 そして、次回に詳細をお届けする予定の【象潟2】から帰って来たのが六月十八日
 その翌十九日(新暦0804)「あつみ山や‥」の歌仙を始め、二十・ニ十一と3日かけて完成させている
 したがって、【酒田】本文末の二句は、実際の制作順が逆様になっている
 が、これは、前文が「淵庵不玉と云ふ医師のもとを宿とす」で終わっているので、その不玉への挨拶を先にしたと考えられる
 
 芭蕉と曽良が江戸を出立して2箇月半
 芭蕉が「松嶋」と共に『奥の細道』の二大目的地としていた残り一つの名勝「象潟」に到着した
 今回は【酒田】と【象潟1】をお伝えする
 
【酒田】
 
[22][]山形県酒田市日和山公園にある芭蕉像
                  
 [右上]碑文「あつみ山(6)や 吹浦(ふくうら)(7)かけて 夕すヾみ」

 [右下]碑文「暑き日を 海にいれたり 最上川」
 
《原文》

 羽黒を立(たち)て、鶴が岡(1)の城下、長山(ながやま)(うぢ)重行(しげゆき)(2)と云(いふ)物のふの(=武士)家にむかへられて、俳諧一巻(ひとまき)(3)(あり)
 左吉も共に送りぬ
 川舟(4)に乗(のり)て、酒田の湊に下る
 淵庵不玉(ゑんあんふぎょく)(5)と云(いふ)医師(くすし)の許(もと)を宿とす。
 
  あつみ山(6)や 吹浦(ふくうら)(7)かけて 夕すヾみ
 
  暑き日を 海にいれたり 最上川
 
 《現代語訳》

 羽黒を発って、鶴が岡(1)の城下で長山氏重行(2)という武士の家に迎えられて、俳諧を開催し、連句一巻(=歌仙)(3)を作った

 図司左吉も此処迄送ってくれる
 川舟(4)に乗って酒田の港へ下る
 その日は淵庵不玉(5)という医者のもとに泊めて貰う
 
【意】此処あつみ山(6)から吹浦()(7)を見下ろす
 折からの「暑さ」に縁のある「温海(あつみ)山」が彼方(かなた)に見え、涼しい風が「吹いている」「吹浦」を此方(こなた)に見渡せる
 この素晴らしい景観を一望に収めるのは実に洒落た夕涼みだ
 「あつ()」と「ふく()」は共に「涼み」の縁語
 「縁語」=和歌や俳句に多用される表現で、ある言葉に、それと関係ある言葉を加えることで印象を深める手法
 季語:夕すヾみ=夏六月
 
【意】太陽が滔々と流れる最上川の沖合いの海にゆっくりと沈んで行った
 恰も今日一日の暑さを全て海に流し込んだ様で涼しさを感じる夕方になった
 季語:暑き日=夏六月
 
(1)鶴が岡:現在の山形県鶴岡市 / 江戸時代には酒井氏鶴岡藩(通称:庄内藩)138千石の城下町として盛えた庄内南部の街
 徳川四天王の筆頭格 酒井忠次(1527-96)(→家次(1561-1618))の嫡孫 忠勝(1594-1647)を藩祖(1622年~)とする
 領国内の出羽三山神社には東北地方で唯一、皇族(蜂子皇子(?-641)(←崇峻天皇(553?-592)の皇子))の墓がある
(2)長山(ながやま)(うぢ)重行:酒井家鶴岡藩士 長山五郎右衛門重行(生没年不詳) / 禄高150
 鶴岡の荒町裏、大昌寺脇小路(現・鶴岡市山王町13)在住 / 図司佐吉の縁者 / 江戸在勤中に芭蕉庵を訪ね入門したものみられる
(3)俳諧一巻(ひとまき):この時の連句は『曽良旅日記』俳諧書留所載‥芭蕉・重行・曽良・露丸の「四吟歌仙」で次の様に始まっている
 「元禄020610日/七日羽黒に参籠して
 発句:めづらしや山をいで羽()の初茄子(はつなすび) 翁(=芭蕉)
 脇 :蝉に車の音添る井戸 重行
 第三句:絹機の暮鬧しう梭打て 曽良
 四句目:閏弥生もすゑの三ヶ月 露丸〔後略〕
(4)川舟:鶴岡を貫流する内川(=当時の絵図には「三日町川」とある)から本流の赤川→最上川を経て船上七里で酒田に到る
(5)淵庵不玉(ゑんあんふぎょく):本名 伊東玄順 / 庵号を潜淵庵・淵庵と称し、俳号を不玉と言った / 酒井藩の医師
 酒田地方の俳壇の中心人物 / 初めは大淀三千風や岸本調和等、談林系の俳風に属していたが芭蕉来遊を機に、芭門に転じた
 元禄100503日没(享年40歳前後)
(6)あつみ山:温海岳ともいう / 酒田の南西40㎞/海抜736m
(7)吹浦(ふくうら):酒田の北18kmに当たる海岸

【象潟1】

[23][]象潟「九十九島」

 []同上2

 《原文》

 江山(こうざん)水陸(すゐりく)の風光(ふうくわう)数を尽して、今象潟に(1)方寸(ほうすん) 数を尽して、今象潟に方寸を責(せむ)(2)
 酒田の湊より東北の方(かた)、山を越(こえ)、礒(いそ)を伝ひ、いさご(3)をふみて其(その)(きは)十里、日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ふきあげ)、雨朦朧(もうろう)として(4)鳥海(ちょうかい)の山(5)かくる
 闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して(6)「雨も又奇()(なり)」とせば(7)、雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき)(8)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)(9)に膝をいれて、雨の晴(はるる)を待(まつ)

《現代語訳》

 海や山、河川など景色のいい所を是迄見て来て、愈々旅の当初の目的の一つである象潟(1)に向けて、心を急き立てられる(2)のだった
 象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜(3)を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って(4)、鳥海山(5)の姿も隠れて仕舞った
 暗闇の中をあてずっぽうに進む(6) /「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して(7)、雨が上がったらさぞ晴れ渡って綺麗だろうと期待をかけ(8)、漁師の仮屋(9)に入れさせて貰い、雨が晴れるのを待った
 
(1)数を尽して、今象潟に:「数を尽くして(=数えきれない位多くあって)
 「数を尽くして今象潟にあり」と「今象潟に方寸を責む」とが「今象潟に」という箇所を掛詞的接点として結合したもの
(2)方寸を責(せむ):「方寸(ほうすん)=心 /「方寸を責む」は「心を凝らす / 一心不乱になる/心を研ぎ澄ます」の意
 象潟の美の極致を感得すべく心を研ぎ澄ましている‥の意
(3)いさご:「砂子/砂/沙」=小さい石、砂、真砂(まさご)、砂浜‥の意
(4)雨朦朧(もうろう) (4)として:降る雨の為に辺りが煙る様をいう
(5)鳥海の山:鳥海山(ちょうかいざん)(標高2,236m)/山形・秋田の県境付近に位置する
(6)闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して:通説は、蘇東坡(=蘇軾(1036-1101))「西湖」の詩を踏まえ、室町時代末期の五山僧 策彦 が詠んだ「晩西湖過」拠ったものとして、「莫作」は「模索(もさく)」の誤記とする
 
  飲湖上初晴後雨   蘇東坡

 水光瀲艶晴方好 / 山色空濛雨亦奇
 欲把西湖比西子 / 淡粧濃抹總相宜
 
  湖上に飲み 初め晴れ後(のち)に雨ふる

 水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好く
 山色空濛(くうもう)として雨も亦(また)奇なり
 西湖を把(もつ)て西子に比せんと欲すれば
 淡粧濃抹総(すべ)て相宜(よろ)
 
【意】水面がキラキラ輝き、漣(さざなみ)が揺れ、晴れた日の西湖はとてもいい
 また霧雨で山の色が朦朧として見える雨の日の西湖も味わい深いものだ
 西湖の様子を伝説的な美女「西施」に比べようとすると
 薄化粧も厚化粧(=晴れでも雨で)も、どちらも中々いいものだ
 
  晩西湖過  晩に西湖を過ぐ / 策彦

 余杭門外日将晡 / 多景朦朧一景無
 雨奇晴好句暗得 / 暗中模索西湖識
 
 余杭門外日将(まさ)に晡((=日偏に甫)ゆふべ)ならんとす
 多景朦朧として一景無し
 雨奇晴好の句を暗(そらん)じ得て
 暗中模索して西湖を識()
 
 一方、仏家でいう『七仏通戒偈()』の中の「諸悪莫作(しょあくまくさ)」借用したものとする説では、「莫作」は「作()す莫()し」の意となる
 即ち、芭蕉は、「暗闇の中で何等為すすべきこともなくぼんやりと時を過ごし‥」と、漢詩とは違った雰囲気を主張している‥と解する
 真偽は一体どちらだと皆さんは思われますか?
 
(7)「雨も又奇()(なり)」とせば:上掲の蘇東坡「西湖」と策彦「晩西湖過」の2つの漢詩に出て来る表現の引用
(8)雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき):これも上掲の蘇東坡「西湖」と策彦「晩西湖過」の詩文の引用
(9)(あま)の苫屋(とまや):「蜑(あま)」は漁夫・漁師 /「苫屋(とまや)」は苫葺(とまぶ)きの小屋
 苫葺:菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)の様に編み、小屋根を覆う「苫」で屋根を葺くこと
 此の phraseは、能因法師や藤原顕仲朝臣の次の歌が下敷きになっていると思われる
 
【詞書】出羽(いでは)の国にまかりて、象潟といふ所にてよめる

 世の中は かくても経()けり 象潟の 【海士(あま)の苫屋】を我が宿にして
                      能因法師【後拾遺集 巻九〔羇旅〕519

 【意】この世はこんな状態でも過ごせるのだな、この象潟の海人の苫葺の粗末な小屋を自分の宿りとして
 
【詞書】堀河院御時百首歌たてまつりける時、旅の歌

 さすらふる 我が身にしあれば 象潟や 【あまのとま屋】に あまたたび寝ぬ
                      藤原顕仲朝臣【新古今集〔羇旅〕972

 【意】私は流浪する身だから、象潟の海人(あま)の苫葺の小屋に数多く旅寝したことだよ
 
【小生comment
 森羅万象全てのことに当て嵌るが、特に文学・絵画・音楽という藝術と名のつくものは、陰陽の両極があって輝きを放つ
 詳細のcommentは、次回に譲るが、「松島は笑ふが如く、象潟は恨むが如し」と芭蕉が「雨の象潟」を close-up して、「松嶋」→「平泉」→「立石寺」→「象潟」という一連の流れをつくり、『奥の細道』の雰囲気を最高潮に盛り上げている
 中国・宋の詩人 蘇東坡 の漢詩を出して、中国戦国時代の悲哀の美女「西施」の史実と象潟を重ね合わせ表現するという芭蕉の芸術的感性に脱帽する
 「松尾芭蕉 作『奥の細道』次号の第12回をお楽しみに!^-^b
 
【後記】台湾総統を1988年から12年間務め、台湾の民主化と経済発展に尽くした李登輝(り とうき)氏が0730日午後724(日本時間午後824)、台北市内の病院で敗血症性ショックと多臓器不全のため亡くなられた(享年97)
 小生、尊敬している李登輝氏の訃報に接し、慎んで哀悼の意を表し、衷心より御冥福をお祈り致します〔合掌〕
 
[24][][]在りし日の李登輝氏
                  

 「22歳まで日本人だった」と公言する程の親日家として知られ、政財界や学界などの多くの日本人と深い親交があった
19439月、台北高等学校を卒業 / 同年10月、現地の台北帝国大学には現地人に対する入学制限から進学することが叶わず本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学
 農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている

1944年 学徒出陣により出征(農業経済学専攻学生は、農学部所属だったが、文系として扱われた)
 大阪師団に徴兵検査第一乙種合格で入隊 / 台湾での基礎訓練を終え、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属、同地にて終戦を迎えた
 召集の際、日本人の上官から「お前どこへ行く?何兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵、二等兵にして下さい」と要求した処、其の上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われたという〔Wikipediaより引用〕
 
 司馬遼太郎(1923.08.07-1996.02.12)氏も李登輝(1923.01.15-2020.07.30)氏の人格、業績を高く評価していました〔←・余談ですが小生の亡父も1924年生まれなので、司馬遼太郎・李登輝両氏と同世代、所謂戦中派ですネ‥〕
 台湾が、親日国として現在あるのは、台湾総督府時代の児玉源太郎 総督、後藤新平 民政長官の善政に始まり、李登輝氏ら本省人(=蒋介石が中国本土から渡来する以前から台湾にいた人達)の貢献があったからだと小生、確信している
 
 では、また‥〔了〕

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