2018年12月15日土曜日

【時習26回3-7の会 0735】配信の件~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之五〔第35回〕』」「11月24日:三河城郭史談会【伊勢路の旅】(『山田奉行所記念館』→『田丸城跡』→『轉輪寺』→『史跡 水池土器製作遺跡』→『斎宮歴史博物館』→『国史跡 斎宮跡』)を巡って」「12月09日:ライフポート豊橋コンサートホール『第123回 豊橋交響楽団定期演奏会〔安永徹(concertmaster)・市野あゆみ(Piano独奏)のお二人と共に〕』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0735】号をお届けします。
 今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之五〕連句集の通算〔第35回〕目。
 其れでは「春の部」の〔第8回〕、「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第137句~140句をご覧頂きたい。
「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第29句目~第32句の4句をご覧下さい!

  猿蓑集 巻之五

137 (この)夏もかなめをくゝる破扇(やれあふぎ)  ()
 
【意】貧しさは扇にまで現れていて、この夏もまた要を応急措置した破れ扇を使って涼をとっている
【解説】―
 
138 醤油(しゃうゆ)ねさせてしばし月見る  ()

【意】醤油を仕込んで扇を仰ぎながら月を見ている
【解説】破れ扇で仕事をしているのは味噌・醤油屋の主人
 
139 咳聲(せきごゑ)の隣(となり)はちかき縁(えん)づたひ  ()
 
【意】縁側に腰掛けて月を仰ぐ男に咳の声が縁側伝いに聞こえて来るヨ
【解説】味噌・醤油屋の前庭から一転して貧乏長屋の一軒に舞台が移った
 
140 ()へばそふほどこくめんな顔  ()
 
【意】此の男は知れば知るほど実直な人間であることが分かるヨ
【解説】「こくめん」は、克明な、真面目、律儀実直の意

【小生comment
 次回は、連句集 巻之五の愈々最終回。
 愈々次回は通算〔第36回〕目、「春の部」の〔第9回〕、全144句中の第141句~第144句、「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第33句からの最終の4句である。
 お楽しみに!

■続いての話題は、1124()に三河城郭史談会主催の日帰り bus 旅行【伊勢路の旅】に時習26回【3-2】の中嶋君と共に参加して来た模様についてお伝えする。
 具体的には、0700分に豊橋球場正門前を出発して、『山田奉行所記念館』→『田丸城跡』→『轉輪寺』→『史跡 水池土器製作遺跡』→『斎宮歴史博物館』→『国史跡 斎宮跡』と巡って来た。
 其の日は、時習26回の同期生中嶋君【3-2】と一緒に参加した。
 
0400  起床後、0535分迄 筋トレ
0630  拙宅 発→自転車で豊橋球場へ
 
[01]有明の月


0700  豊橋球場正門前 発〔貸切バス〕→東名高速→伊勢湾岸自動車道→東名阪→伊勢自動車道→180 4時間10(トイレ休憩4)
1110  伊勢市御薗町小林(おばやし)にある 山田奉行所記念館 着

【山田奉行所記念館】
 山田奉行所は、徳川家康が江戸幕府を開いた1603(慶長08)年、長崎、佐渡に次ぐ3番目の遠国奉行として伊勢国度会郡有滝村に開設された。
 爾来、1868(慶應04)年 江戸幕府終焉迄の265年間、48代の奉行が務めた。
 大岡裁きで有名な、大岡能登守忠相(1677-1752)も第6代将軍 家宣時代の171216(正徳02-06)年第18代奉行として務めた。
 因みに、忠相が第8代将軍 吉宗(1684-1751(将軍在位 1716-45))に江戸町奉行として仕えたのは1717(享保02)年から。
 又更に、忠相は、山田奉行に就任した際、従五位下 能登守を叙任され、越前守を名乗るのは江戸町奉行になってからだ。
 
[02]山田奉行所記念館看板
                  
[03]山田奉行所記念館入口にて中嶋君【時習26 3-2】と

[04]同記念館内部にて1
                  
[05]同上2

[06]同上3
                  
[07]同上4

[08]同記念館の庭にて
                  

1150分 山田奉行所記念館 発→一般道 3km 10分→
1205分 昼食処 大島屋 着
 
[09]昼食の膳


1250分 同所 発→一般道 10km 26分→
1315分 田丸城跡 着
 
【田丸城跡】
1336(延元元)年 田丸城(玉丸城)は、北畠親房(1293-1354)が南朝の拠点として砦を築いたことに始まる。
 その後、北朝側に攻め落とされるが、北畠氏の城として田丸(玉丸)氏等其の一族が居城した。
1569(永禄12)年 織田信長は次男 茶筅丸(のちの信雄(1558-1630))を北畠氏の養子とすることで和睦し、伊勢国攻略。
1575(天正03)年 織田信雄は、田丸城の改修を進め、三層の天守閣を築城。
1576(天正04) 11月 北畠国司を滅ぼして織田姓に戻った信雄(のぶかつ)は、松ヶ島城に移った。
1582(天正10)年 本能寺の変以降、蒲生氏郷(1556-95)や田丸直息(のちの直昌)らは織田信雄に叛き羽柴秀吉に味方し、松ヶ島城を後略。
1584(天正12)年 蒲生氏郷(1556-95)が松ヶ島城に移ると、田丸直息が岩出城主から田丸城主に返り咲いた。
1592(天正18)年 田丸直昌が蒲生氏郷に従って奥州須賀川城に移り、代わって稲葉兵庫頭(かみ)重道(しげみち)が田丸城代となった。
 ついで木下周防守重吉(しげよし)、関長門守一政(かずまさ)の支配下に置かれた。
1600(慶長05)年 関ヶ原の戦功に拠り、岩出城主だった稲葉道通(みちとお)・紀通(のりみち) 父子が城主となる。
1617(元和03)年 藤堂高虎の支配下に入って代官支配。
1619(元和05)年 紀州藩領となり、徳川頼宣の家老 初代久野丹波守宗成が田丸城主となって以後、第9代宗熙迄の250年間近く城代家老が支配し、明治維新を迎えた。

[10]田丸城跡
                  
[11]田丸城跡石碑前にて

[12]同上 奥書院
                  
[13]同上にて

[14]田丸城天守閣への道にて
                  
[15]田丸城天守閣の全体写真1

[16]同上2
                  
[17]同上3

[18]田丸城天守閣にて
                  
[19]田丸城跡にて


1420分 田丸城跡 発→一般道 7km 15分→
1435分 浄土真宗高田派 轉輪寺 近隣駐車場 着
 
【轉輪寺】
 
[20]転輪寺 表門 解説
                  
 此の「表門」は、田丸城内の門を移築したものと伝えられている

[21]転輪寺 表門にて


1445分 轉輪寺 発→徒歩100m 5分→
1450分 史跡 水池土器製作遺跡 着
 
【史跡 水池土器製作遺跡】
 
[22]史跡 水池土器製作遺跡 案内看板
                  
[23]同上 風景1

[24]同上2
                  

1500分 轉輪寺 近隣駐車場 発→一般道 4 10分→
1515分 斎宮(さいくう)歴史博物館 着
 
【斎宮歴史博物館】
 斎宮(さいくう/いつきのみや)とは、天皇が即位する度に選ばれて伊勢神宮に仕えた斎王の宮殿と、彼女に仕えた官人達の役所/斎宮寮(さいくうりょう)を指す言葉。
 斎王(さいおう)は、未婚の内親王や女王から占いで定められ、宮中の初斎院(しょさいいん)や野宮(ののみや)等で足掛け3年間の潔斎(けっさい)生活の後、斎宮へ旅立つ。
 群行(ぐんこう)と呼ばれた此の旅は、平安時代には、近江から鈴鹿の山々を越え伊勢国に至る56日の旅だった。
 7世紀後半、天武天皇に拠り定められた此の斎王制度は、凡そ660年間続き、斎王は910世紀にかけて興隆を極めた後、14世紀の半ば、南北朝時代の動乱のうちに其の姿を消した。
〔以上、「斎宮歴史博物館」leaflet拠り引用〕

[25]斎宮歴史博物館にて1

[26]同上2
                  
[27]同上3

[28]斎宮歴史博物館 leaflet
                  
[29]斎宮歴史博物館 外のドウダンツツジ横にて1

[30]同上2
                  

1605分 斎宮歴史博物館 発→一般道 1km 5分→
1610分 史跡公園 さいくう平安の杜 着
 
【史跡公園「さいくう平安の杜」】
 平成27年秋、発掘調査を元に、史跡斎宮跡柳原地区に、平安時代の斎宮が体現出来る実物大で復元した斎宮寮の建物や区画道路がある。
 広さは、東西2㎞ 南北0.7km、総面積約137ha(凡そ甲子園球場35個分)と全国屈指の規模を誇る。
 復元後、3年しか経っていないので、いずれも目新しさを感じたが、此れも半世紀程経てば貫禄が出て来るだろう。

[31]斎宮跡にて1

[32]同上2
                  
[33]同上3

[34]同上4
                  
[35]斎宮跡 leaflet

[36]帰りのSAで買った「伊賀の酒 芭蕉」
                  
[37]夕食の弁当


1630分 史跡公園 さいくう平安の杜 発→伊勢自動車道→東名阪自動車道→伊勢自動車道→東名高速道路→175 3時間40分→
2010分 豊橋野球場正門前 着 走行距離計 380㎞〔了〕

【小生comment
 此の日に訪れた史跡の数々は、小生いずれも初めての所ばかりなので、とても有意義だった。
 六十路を越えても、新しい発見があることは、ワクワク・ドキドキして若返った様な実に爽快な感動を覚える。
 
■今日最後の話題は、1209()ライフポート豊橋コンサートホール『第123回 豊橋交響楽団定期演奏会〔安永徹(concertmaster)・市野あゆみ(piano独奏)のお二人と共に〕』を聴いて来たので、其のことについてお伝えする。
 10月下旬、楽団で金管 section leader で第1 horn 奏者を務めている時習26回生の同期生の安形君【3-1】から此のコンサートへのお誘いがあった。
 其処で、同じく同期の中嶋君【3-2】と一緒に聴いて来た。
 当初は、同じく時習26回の同期生水藤君【3-6】も我々と一緒に聴きに行く予定だったが所用で不参加になった。
 安形君、中嶋君、小生、水藤君、そして Facebook のお友達の岩瀬君の 5人は、皆時習26回【1-4】の classmates である。
 因みに、此の日 安形君は Mozart の交響曲第40番の第1 horn を奏でた。
 今回は、副題が「指揮者のいない音楽会 Part2 ~安永徹(1951- )・市野あゆみのお2人とともに~」の通り、曲目は以下の3曲。

1.  W. A. Mozart(1756-91) : Piano Concerto No.27 in B Flat-Major K. 595 1791年作曲
2.  Peter Warlock( Philip Arnold Heseltine(1894-1930 ) : Capriol Suite 1927年作曲
3.  W. A. Mozart : Symphony No. 40 in g minor K. 550 1788年作曲(Wien)
Encore Leos Janacek(1854-1928) : Suite for Strings III. Andante con moto 1877年作曲

 今日は、開演に当たり、去る1112日に亡くなられた故・神野信郎氏を偲び、requiem に代えて以下の曲が演奏された。

※ J. S. Bach : Orchestral Suite No.3 in D Major BWV. 1068 ll. Air〔アリア〕

 神野信郎氏は、当楽団の初代会長で、氏の父君 神野太郎氏の後を受け、198309月から亡くなられた20181112日迄、第二代会長として35年の長きに亘り務められていた。
 神野信郎氏のご冥福を改めてお祈りします。
 1曲目のMozartpiano Concerto No. 27は、Mozartが亡くなる年(1791)15日に作曲された、彼の最後の Piano Concertoで傑作中の傑作。
 此の名曲を 名pianistの市野あゆみさんが確かな技量で凛とした美しいmelodyを奏でてくれた。
 市野あゆみさんは、東京芸術大学付属高校で田村宏氏に、同大学で安川加寿子氏に師事。
 彼女は在学中に安宅賞を受賞 / 同大学卒業後、フランスでピエール・バルビゼ氏に師事。
 1978年 マリア・カナルス国際コンクールに入賞 / 同年ベルリン芸術大学に入学。
 1986年 同大学を、ソリスト・コンサート試験に最優秀で卒業 / マスタークラスでマリア・クルチオ、ジョルジュ・シェベックの各氏に師事。
 199196年 ベルリン芸術大学講師を務める / という華麗な経歴を重ねた実力者である。
 2曲目のピーター・ウォールコックの「カプリオール組曲」は初めて聴いた。
 ウォールコックとは「魔法使い」を意味する ペンネームで、本名はフィリップ・ヘゼルタイン。
 36歳で自殺して仕舞うが、100曲以上の歌曲を残している。
 歌曲以外では、此の「カプリオール組曲」は、彼の数少ない器楽曲の一つだ。
 原曲は、1588年に出版されたアルポー著「オルケゾグラフィ(舞踏体系)」の中で取り上げられている、当時の時代のdanceの舞曲で、此の曲を元に組曲にしたもの。
 1588年というと、W. シェイクスピア( William Shakespeare (1564-1616))が生きた時代だ。
 此の曲の melody を聴いた瞬間、映画「ロミオとジュリエット」の舞踏 scene の音楽を思い出した。
 演奏会の締め括りは、超名曲のMozartの交響曲第40番 ト短調 K. 550 だ。
 嘗てBerlin P. O. concertmaster(1983-2009)務めたことでも有名な、当交響楽団の名誉 concertmaster で、市野あゆみさんの夫君でもある安永徹氏の lead で演奏された。
 豊橋交響楽団は、1960年代、豊橋市立羽田中学校がリードバンドで全国優勝を果たしことに始まる。
 此れを礎に「豊橋リードフィルハーモニー交響楽団」を設立。
 そして、アコーディオンで弦楽器を担当していたのを本格的弦楽器に改編して現在に至る。
 日本アマチュアオーケストラ(JAO)の本部は、当楽団設立当時から現在迄ご当地豊橋市にある。
 此のことは豊橋市民の classic 音楽の一ファンとして一寸した自慢でもある。
 一寸寒い一日だったが、上品な Mozart の傑作 2曲と、16世紀末に流行った舞曲を theme にした品のいい古風なウォールコックの室内楽曲、そして若き時代の息吹を感じる爽やかなヤナーチェク弦楽組曲、とっても気分のいい matinée を過ごすことが出来た。
 安形君、今回も素晴らしい憩いの時間を提供してくれてありがとう!(^-)b

[38]ライフポート豊橋コンサートホール・ホワイエにて中嶋君と
                  
[39]本コンサートprogramticket()leaflet()

[40]演奏曲目〔~programより〕
                  
[41]ゲスト(市野あゆみ&安永徹)紹介〔同上〕

[42]豊橋交響楽団 構成員一覧〔同上〕
                  
[43]123回豊橋交響楽団定期演奏会 出演者一覧


【後記】一昨日(1213)、午前中に所用で豊橋市内にある豊橋善意銀行に行った帰り道に、豊橋公園の一角で、『山田宗徧邸跡』の石碑を見つけた。
 山田宗徧(1627-1708)は、本願寺第10世証如に仕えた周善(仁科盛俊)が開いた長徳寺の第5世で本姓は仁科である。
 宗徧は、父より長徳寺を受け継ぎ周覚宗円と号したが、茶道を好み長徳寺を辞して母方の姓の山田を名乗った。
 1655(明暦元)年 千宗旦(1578-1658)の推挙で1634(正保02)年から三河吉田藩主となった小笠原忠知(1599-1663)に仕えた折りに、宗旦は利休以来の不審庵、自らの隠居の今日庵の庵号を用いることを許している。
 その後1697(元禄10)  小笠原長重(1650-1732)が武蔵岩槻藩に転封となる迄 4代に亘り仕え、職を辞して江戸郊外の本所に茶室を構えて多くの門人を集めた。
 此の石碑の裏面に 山田宗徧 の由緒を説明している 亀山琢道 禅師は、今から 4年半前に開催した 時習26回生卒業40周年記念懇親会の翌日挙行した optional tour で訪れた 東福寺で当時同寺 No.2 の宗務総長を務められていた。
 其の事を我等時習26回同期生の織田さん【3-2】から教えて貰い、ご挨拶状を差し上げた処、程なく亀山禅師が拙宅迄訪ねて来られご挨拶をさせて頂き恐縮した思い出がある。
 氏からはご厚誼を施して頂き、optional tour 参加者四十数名は新緑の東福寺の絶景を堪能させて頂いた。
 此れも今は昔の懐かしい想い出の一コマである。
 因みに亀山先輩は、豊橋市東田町にある 臨済寺(りんざいじ) 住職で、時習館高校第18回生の先輩である。
 又臨済寺は、臨済宗東福寺派 / 山号 : 萬年山 / 唐津 小笠原家(大名)の三河吉田藩時代の菩提寺でもある。
 更に以下は余談‥。
 小笠原忠知の母(登久姫)は、徳川家康長男信康と織田信長の長女徳姫の長女で、信濃国守護の末裔、松本藩初代藩主 小笠原秀政(1569-1615)の正室。
 秀政と登久姫は子宝に恵まれ、大坂夏の陣で戦死した長男世子だった忠脩(ただなが(1595-1615))を除いて主だった者だけでも4人いる。
 次男 忠真(1596-1667)は長兄忠脩戦死の後を受け世子となり、信濃国松本藩第2代藩主→播磨国明石藩主→豊前国小倉藩主、子孫は小倉藩主として明治維新を迎える。
 三男 忠知は豊後国杵築藩主→三河国初代吉田藩主、子孫は、忠知系小笠原家4代長重(1650-1732)武蔵国岩槻藩初代藩主→同5代長熙(ながひろ(1690-1752)遠州国掛川藩初代藩主→同第7代長恭(ながゆき(1740-76))陸奥国棚倉藩初代藩主→同第9代長昌(1796-1823))肥前国唐津藩主となり明治維新を向かえる。
 長女萬姫(1592-1666)は蜂須賀正勝(小六(1526-86))の孫・家政(1558-1639)の長男で阿波国徳島藩主 蜂須賀至鎮(よししげ(1586-1620))正室。
 至鎮は病弱で短命だったが、吉野川の治水や徳島藩特産の藍の生産を奨励する等、聡明な名君として地元では語り継がれている。
 次女千代姫(1597-1649)は肥後国 熊本藩主細川忠利(1586-1641)正室。
 因みに忠利が小倉藩から熊本藩へ移封になった後、其の小倉藩主となったのが、千代姫の同母兄の小笠原忠真である。
 更に細川忠利(1586-1641)は、父細川忠興(三斎(1563-46))とガラシャ夫人として著名な明智光秀(?-1582)の娘球子(玉子(1563-1600))の三男。
 忠利は、加賀藩の前田利常(1594-1658)と共に、江戸時代初期の名君として誉れ高い。
 事程左様に小笠原秀政&登久姫夫婦の子供達は正に華麗なる一族の一翼を担った。

[44]山田宗徧 石碑にて
                                    
[45]同 石碑裏面「亀山琢道氏の書」


 では、また‥〔了〕

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