2018年12月2日日曜日

【時習26回3-7の会 0733】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之五〔第33回〕』」「11月14日:中部ガス名豊ギャラリー『朝倉勝治』展→豊橋市美術博物館『北澤美術館所蔵/ルネ・ラリックの香水瓶』展を見て」「11月17日:メナード美術館『島田章三』展→名都美術館『とっておき!日本画コレクション』【後期】展を見て」「11月18日:『松坂城跡』→『津城跡』→三重県立美術館『川端康成と横光利一』展→旧東海道『関宿』を訪れて」「11月28日:愛知県芸術劇場コンサートホール『ゲルギエフ指揮ミュンヘンP.O.&ユジャ・ワン(piano独奏)演奏会』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0733】号をお届けします。
 今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之五〕連句集の通算〔第33回〕目。
 其れでは「春の部」の〔第6回〕、「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第129句~132句をご覧頂きたい。
「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第21句目~第24句の4句をご覧下さい!

  猿蓑集 巻之五
 
129 (あせ)ぬぐひ端(はし)のしるしの紺(こん)の糸  半残

【意】従者達は汗拭きを首に巻いていて、他人のモノと間違わない様に其の汗拭きには紺色の糸が縫い付けてある
【解説】以下、伊賀へ齎しての作 / 前句の供人等の持つ汗拭き手拭(てぬぐい)の目印
 
130 わかれせはしき鶏(にはとり)の下  土芳
 
【意】忙(せわ)しいことだヨ、衣々((=後朝)きぬぎぬ)の別れは‥ /
 一夜を共にした男が去っていく頭上では、早起き鳥の鶏が鳴いて朝の到来を告げた
【解説】前句の「紺の糸」を男女を結ぶ恋の糸と見立てた
 
131 大膽(=)(だいたん)におもひくづれぬ恋をして  ()
 
【意】二人は一寸やそっとのことでは崩れない大恋愛をしたものだヨ
【解説】前句への評価として詠んだ
 
132 ()はぬれ紙(かみ)の取所(とりどころ)なき  ()
 
【意】大恋愛に身を焼き尽くして仕舞い、今や破れ紙同様に腑抜けになって仕舞ったヨ
【解説】前句に付けて大恋愛の意を踏まえる / 何の取り柄もない身である為か、結局の処、叶わぬ恋だと嘆く意 /
『三冊子』()に、芭蕉が此の句を評して、「是一体新にみへ侍る也。体格は定めがたし。こゝろがけて勤るに猶有べし」と、新味ある句と評したことが見える
 
【小生comment
 次回は、連句集の通算〔第34回〕目、「春の部」の〔第7回〕、全144句中の第133句~第136句、「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第25句からの4句である。
 お楽しみに!
 
■続いての話題は、1114日:中部ガス名豊ギャラリー『朝倉勝治』展→豊橋市美術博物館『北澤美術館所蔵/ルネ・ラリックの香水瓶』展についてである。
 
【中部ガス名豊ギャラリー『朝倉勝治』展】
 1114日から同月末迄、豊橋駅前大通2丁目の開発ビル9Fにある中部ガス名豊ギャラリーにて、我等が高校時代に美術の教師だった朝倉勝治先生(1930- )の『朝倉勝治』展が開催されている。
 小生、勤務先と同じビルなので、開催初日の昼下がりに会場を訪れてみた。
 そうしたら、米寿を迎えられた矍鑠とした朝倉先生ご本人がいらっしゃった。
 厚かましい小生、先生との two shot をお願いしたら、快くご了解して下さった。
 先生の作品の前での two shot を撮影させて貰い嬉しかった。

[01]朝倉先生との two shot
[02]名豊ギャラリー入口の本企画展看板横にて
                  

【小生comment
 1112日 中部ガスの元社長・会長で豊橋商工会議所元会頭の神野信郎氏が逝去された。
 朝倉先生と同い年の享年88歳だった。
 神野信郎氏のご長女が朋子さん。
 実は小生、朋子さんとは 八町・豊城・時習館の小中高の同窓同期。
 更に小生、朋子さんとは、高校28組で classmate
 其の昭和47年の秋の文化祭開催日の前日に、我等が2-8の有志十数名が、朋子さん宅(=神野信郎氏宅)に徹夜で泊めて頂いたことがある。
 文化祭に上映する 8ミリ映画の アフレコを行った懐かしい思い出である。
 以下は、2009613日 舘山寺温泉にて開催された 時習26回生 卒業35周年記念の全体写真と、小生と朋子さんとの two shot の写真である。
 朋子さんが目を閉じられた写真しかないのが残念というか、ご愛嬌である。
 
[03]200906月に開催された「時習26回生卒業35周年記念懇親会」全体写真

[04]1114日のFacebookupした 1112日に亡くなられた故・神野信郎氏逝去の訃報記事
                  
[05]「時習26回生卒業35周年記念懇親会」全体写真での朋子さん(上段)と、其の懇親会での小生の two shot


  名豊ギャラリーの『朝倉勝治』展を見た後、仕事で外出した帰途、豊橋公園近くを通ったので、公園内の一角にある豊橋市美術博物館に立ち寄った。
 1118日迄開催中だった『北澤美術館所蔵/ルネ・ラリック(1860-1945)の香水瓶』展を見る為だ。
 
【豊橋市美術博物館『北澤美術館所蔵/ルネ・ラリックの香水瓶』展】
 20世紀初頭、香水が一般の人々に広がるにつれ、香水 maker は競って香水瓶を求める様になった。
 ルネ・ラリックは、アール・ヌーヴォー(Art nouveau:「新しい芸術」の意)の宝飾(ジュエリー)作家。
 彼は、1900年のパリ万博でフランプリを受賞した後1910年代初頭からガラス工芸に転向。
 そして、香水商フランソワ・コティ(1874-1934)の為にガラス製香水瓶を制作。
 此れで一躍人気を集めたラリックは、modernな様式「アール・デコ(Art Déco:「装飾美術」の意)」の巨匠として歴史に其の名を刻んだ。
 因みに、「アール・デコ」とは、1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会の正式名称の略称『アール・デコ博』に由来する。
 同博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes)。
 ラリックのガラス工芸品は、先日(1027)、角館の大村美術館の処でもご紹介した。
 彼の作品は、女性の美しさを前面に打ち出した作品が多く、見る者を魅了する。
 本企画展は、5つの会場(=)に分かれ、うち2 or 3つの会場は撮影可と粋な計らいをしてくれていた。
 
[06]豊橋市美術博物館がある豊橋公園入口にて
                  
[07]豊橋市美術博物館入口にてにて

[08]同館内の本企画展banner前にて
                  
[09]同館内の本企画展corner入口にて

[10]本企画展leaflet
                  
[11]ラリック:香水瓶『シクラメン』コティ社 1909() / 香水瓶『アンブル・アンティーク』コティ社 1910

[12]同:同『シダ』或いは『女性の胸像』1912
                  
[13]同:同『カシス』1920()()

[14]同:同『バラ窓形の人形像』1912=()二人の人物雑の栓/()ガラスに金彩/()
                  
[15]同:同『三羽のツバメ』1920

[16]同:小型常夜灯『忘れな草』、「ほや」は『小さな葉』1919
                  
[17]同:中型常夜灯『キューピッド』1920
 

【小生comment
 先日、秋田県角館町の大村美術館にて見たばかりだったルネ・ラリックの秀麗なガラス作品を又見ることが出来て嬉しかった。
 不思議な偶然が重なると、何か近々セレンディピティ(serendipity)が起こりそうな予感もして来た。!(^-)b
 
■続いては、1117()に、メナード志美術館『島田章三』展→名都美術館『とっておき!日本画コレクション』【後期】展と巡って来た模様についてである。
 其の日は、先週模(かたど)りした歯の被せが出来たので、名古屋市東区にある四半世紀通い続けている歯医者に行った来た。
 其のついでに、メナード美術館と名都美術館に立ち寄った。
 島田章三氏は、長年愛知県立芸術大学で教鞭を取り、同大学長(2001-07)迄務めた関係でメナード美術館とは縁が深い。
 島田氏が探求した日本風の cubism は彼独自の世界を創造した。
 
0745分 拙宅発→一般道95km
1017分 メナード美術館着
1020分 メナード美術館『島田章三』展
 
【メナード美術館『島田章三―はなかたち、ひとかたち―』展】
 当美術館は島田氏との縁は深く、数多くの彼の作品を所蔵している。
 本展は、島田章三氏の三回忌に際し、氏の画業を回顧するものとして企画された。
 島田氏の略歴は以下の通り。
 
1933 724日 神奈川県三浦郡浦賀町大津(現・横須賀市大津町)に生まれる
1940 4月 大津尋常高等小学校に入学
1949 4月 神奈川県立横須賀高等学校に入学
1952 3月 同校卒業 / 川村信雄のアトリエに通う
1954 4月 東京藝術大学美術学部油画科に入学
1957 4月『ノイローゼ』で国画賞受賞
1958 3月 東京藝術大学美術学部油画科卒業 / 卒業制作『箱舟』が大橋賞受賞 / 4月 同大専攻科に進学 / 国画会会友
1960 3月 同大油画専攻科修了
1961 4月 国画会会員
1962 12月 大学の同級生田中鮎子と結婚 / 東京・大森から横須賀のアトリエに通う
1966 4月 愛知県立芸術大学非常勤講師就任 / 愛知県愛知郡長久手町に転居
1967 12月『母と子のスペース』で第11回安井賞受賞
1968 9月 愛知県在外研究員として渡欧 /主にParis モンマルトルに滞在
1969 9月 帰国 / 愛知県立芸術大学助教授就任
1974 4月 同大美術学部教授就任
1980 4月『炎』(1979)他の作品に拠り 第3回東郷青児美術館大賞受賞 / 8月 渡米
1992 3月 同大美術学部教授退官
1993 10月 紺綬褒章受賞
1999 3月 日本芸術院賞を受賞 / 9月 日本芸術院会員
2001 4月 愛知県立芸術大学学長就任(20073月迄)                                              
2004 11月 文化功労者
2009 5月 旭日重光章受賞
2016 1126日 膵臓癌の為死去(享年83) / 正四位叙任
 
[18]メナード美術館入口前の小さな本企画展看板前にて
                  
[19]メナード美術館の石碑前にて

[20]同上 写真を撮って貰う駐車場係のオジサンが小生の衣装直しの処迄撮影してくれた()
                  
[21]島田章三『花の風景』1956

[22]同『彫刻がある空間』2112
                  
[23]同『二人構図』1999

[24]同『はなかたちひとかたち』1983
                  
[25]同『泉にて』1978

[26]同『青色卓上』1977
                  
[27]同『ミモザの頃』2000


【小生comment
 島田章三氏は、「キュビズム(cubism(e))を日本人の言葉で翻訳する」することを自身に与えられた課題として取り組んで来ただけあって、彼の作品は何回見ても面白い。
 小生、見る度に新しい発見がある、というか新しい感動を覚える。
 氏の作品は、小生、最近頓(とみ)に好感度が増して来た。

1045分 メナード美術館発→一般道 12km 40分→
1125分 中原歯科医院着〔名古屋市東区徳川町〕
1220分 同所発→一般道 1km 3
1225分 らあめん陣屋着
 
[28]らあめん陣屋の店の前にて
                  
[29]小生の定番 味噌チャーシューメン 880

 此のらあめんの根菜soupが絶品!

[30]らあめん陣屋 お品書き
                  
 
1345分 同所発→一般道18 30分→
1315分 名都美術館着
 
【名都美術館『とっておき!日本画コレクション』【後期】展】
 前《会報》にて【前期】展をご紹介したが、今回は【後期】展の作品の中からご紹介する。
 本企画展は、殆ど総入れ替えと言って良い程展示作品が入れ替わっていた。
 
[31]名都美術館入口前にて

[32]菊池芳文『春雨吉野山之図』1897-1906
                  
[33]北野恒富『淀君』1920年頃

[34]同『涼み』1926
                  
[35]三露千鈴(みつゆ ちすず)『殉教者の娘』1926

[36]上村松園『汐くみ』1935年頃
                  
[37]吉岡美枝『ホタル』1939


1317分 名都美術館着『とっておき! 日本画コレクション【後期】』展
1350分 同所発→一般道 77km 2時間10
1600分 帰宅
 
【小生comment
 島田氏の洋画もいいが、名都美術館で日本画の傑作を見ていると心が癒される。
 名画ってホントいいネッ!
 
■今日最後の話題は、1118()に『松坂城跡』→『津城跡』→三重県立美術館『川端康成と横光利一』展→旧東海道『関宿』と巡って来たことについてご紹介する。
 今日は、三重県の史跡3箇所と美術館1つを見て来た。
 ただ、当初訪問先の main に位置付け計画していた「北畠神社&北畠館跡庭園」は、あと15㎞という所で「土砂崩れの為全面通行止め」の為訪れることが出来なかった。
 大変残念だったけど、「近未来的に訪問する『楽しみ』として取って置こう!」と気を取り直して当初計画していなかった『松坂城跡』に向かった。
 其処で其の日は上記の4箇所となった。以下、順次ご紹介していく。
 
0440分 拙宅発→一般道130km
 
[38]拙宅出発時の車内
                  

0815分 三重県津市美杉町上多気町の『北畠神社&北畠館跡庭園』手前15㎞の処で土砂崩れの為全面「通行止め」となり訪問を諦めた
 
[39]通行止めの標識1

[40]同上2
                  
 
 折角此処迄来たのに‥と思った小生、急遽『松阪城跡』を訪れた。
 
0910分 松阪城跡着

【松坂城の歴史概略】

1584(天正12)年 蒲生氏郷が、近江国日野城6万石から伊勢国松ヶ島城に123千石で入城
1588(天正16)年 氏郷は、松ヶ島城に発展性がないとし、現在地に新たに松坂城を築城 / 本丸天守は三層五階
1590(天正18)年 氏郷は、小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石に転封 / 服部一忠が入城
1595(文禄04)年 服部一忠は、豊臣秀次事件連座に拠り切腹 / 代わって、古田重勝が34千石で入城
1600(慶長05)年 古田重勝は、関ヶ原の戦の軍功に拠り2万石を加増 / 同年 重勝死去後は、幼少の長子 重恒に代わって重勝の弟・重治が襲封
1619(元和05)年 古田氏は石見国浜田城に転封 / 南伊勢は紀州藩の藩領に / 松阪城には、当地を統括する城として城代が設置
1644(正保元)年 台風に拠り天守倒壊 / 以後は天守台のみとなった
1794(寛政06)年 二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、明治維新を迎えた
1871(明治04)年 廃藩置県により廃城

[41]松阪城跡入口にて1

[42]同上2
                  
[43]「裏門跡」石碑

[44]松阪城跡本丸から御城番屋敷を望む1
                  
[45]同上2

[46]本居宣長記念館〔「本居宣長旧宅」〕入口1
                  
[47]同上2

[48]松阪城跡の情景1
                  
[49]同上2

[50]同上3
                  
[51]同上4

[52]「本丸」石碑
                  
[53]「天主閣跡」にて1

[54]同上2
                  
[55]松阪城跡石垣


 松坂城跡については、20170304日付《会報》【0642】にて紹介済である。
 同年0226日付「三河城郭史談会/日帰りbus tourで、『松浦武四郎記念館→松ヶ島城跡→【松阪城】→【本居宣長旧宅(鈴屋)】→御城番屋敷→樹敬寺→来迎寺』」を巡った。
 https://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmC-2pyaBEKQ5pI4etlfiOm16oZCydgLy1zRhyeVlk2O6VJm3ZS4xgI4GK08JBZhjgRgXT9h-cVQChUAGXKdI57wxvP6DZw5_JEA4wL9O0f6OINVz0BhXy6AjMQexbJ9sQbWM5_l&postId=6463491192478896942&type=POST
此処を click してご覧下さい

【小生comment 
 松坂城は、豊臣秀吉から可愛がられた蒲生氏郷が1588年に築城した名城である。
 特に、此の城の石垣は、「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われ、秀麗であることで有名。
 氏郷が近江国坂本から連れて来た石工集団「穴太衆」に拠って造られたもの。
「穴太衆」の石垣を見ていたら、昔訪れた、大津市坂本の街並みを想い出した。
 日吉大社から滋賀院門跡、石山坂本線「阪本比叡山」駅にかけては立派な石垣が見事だ。
 
0930分 松阪城跡発→一般道 14km 30分→
 
 続いて訪れたのは、津市にある藤堂高虎が改築して現在の姿にした『津城跡』である。

1001分 津城跡着
 
【津城の歴史概略】
1558-69(永禄年間) 長野氏の一族 細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に安濃津城を構えたことに始まる
1568(永禄11)年 織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(かもんのかみ)(津田一安)()が入城
 ()織田忠寛(ただひろ(?-1577)) / 織田信長の一族 / 織田掃部・織田丹波守とも呼ばれた
1569(永禄12)年 織田信包(のぶかね(1543-1614))が入城 / 信包は城郭を拡充
1577(天正05)年 五層天守と小天守を落成 /
 津藩『累世記事』には、此の地に詳しい滝川一益が進言、縄張りして信包に渡した、とある
1594(文禄03)年 信包は丹波国柏原へ移封
1595(文禄04) 7月 富田一白(?-1599)5(or 6)石で入城
1600(慶長05)年 一白の長男 信高は関ヶ原の戦で東軍につき、西軍の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に津城を攻撃された
 此の奮戦に拠り西軍方に開城となるも戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた『安濃津城の戦』
1608(慶長13)年 信高は伊予宇和島藩に移封 / 代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城 /
 高虎は城を大改修 / 爾来、明治維新まで藤堂氏の居城となった
1615(元和元)年 大坂の役の功により5万石加増
1617(元和03)年 更にに5万石加増され、323千石の大大名に
1662(寛文02)年 関ヶ原の戦の後再建された三層天守閣と重天守と二重小天守が火災で焼失 / 以後、明治維新迄再建されなかった
 
 旧本丸にある 藤堂高虎の遺訓は、現代の日本人に日々真剣に生きる姿を戒めた名文である。
 高虎の遺訓は以下の通り。
 
『寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし
 かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし
 これ本意となすべし』
 
【意】毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよ

[56]津城跡「丑寅櫓」1
                  
[57]同『丑寅櫓』石垣

[58]津城跡解説板横にて
                  
[59]津城跡の石垣

[60]本丸にある「藤堂高虎」像前にて1
                  
[61]同上2

[62]本丸にある「藤堂高虎」像1
                  
[63]同上2

[64]本丸にある「藤堂高虎」解説板
                  
[65]藤堂高虎〔高山公〕遺訓

[66]同上前にて
                  
[67]同上遺訓傍に咲いていた花

[68]津城跡「丑寅櫓」解説
                  
[69]同上「丑寅櫓」2

[70]同上「丑寅櫓」前にて1
                  
[71]同上2

[72]同上3
                  
 
1020分 津城跡 発→一般道 3km 20分→
 
 続いて訪れたのは、三重県立美術館。
 
1035分 三重県立美術館着
 
【三重県立美術館『横光利一と川端康成』展】
 
[73]三重県立美術館入口前の本企画展看板前にて

[74]同美術館内本企画展入口近くにある本企画展看板前にて
                  
[75]同美術館内にて

[76]本企画展leaflet
                  
[77]古賀春江(1895-1933)『煙火(はなび)1927年〔(公財)川端康成記念会蔵〕

[78]佐伯祐三(1898-1928)『サンタンヌ協会』1928年〔三重県立美術館蔵〕
                  
[79]東山魁夷(1908-99)『フレデリク城』1963年頃


【小生comment
 本企画展で、川端康成が菊池寛から横光利一を紹介され、生涯の盟友となったことを小生初めて知った。
 又、川端康成は、絵画に造詣が深く、古賀春江や東山魁夷をはじめとする巨匠の名画の収集家としても有名。
 本企画展で、古賀や東山魁夷の作品の幾つかを見ることが出来、嬉しかった。
 更に又、常設展示cornerで、三重県立美術館が所蔵する数多くの名画をジックリ見ることが出来たのは収穫だった。
 
1140分 三重県立美術館発→一般道 19km 45分→
1225分 旧東海道 関宿 着
 
【旧東海道『関』宿】
 旧・東海道五十三次の47番目の宿場で、三重県の北西、鈴鹿山脈の麓にある。
 670年頃 軍事上の目的で此処に伊勢国『鈴鹿の関』が設置された。
 此の関所は、越前国『愛発(あらち)の関』、美濃国『不破(ふわ)の関』と並ぶ『日本三関』の一つ。
 又、672年 壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が、『鈴鹿の関』を閉ざしたことは大変有名。
 現存する『関』宿の街並みは、天正年間(1573-93)に伊勢国領主で戦国武将の関盛信(?-1593)が、領内の道路を改修したことに始まる。
 1601(慶長06)年 徳川家康が制定し宿駅制度に拠り、旧・東海道47番目の宿場として江戸時代を通じて栄えた。

[80]旧 関宿の街並1
                  
[81]同 街並にて1

[82]旧 関宿 高札場
                  
[83]同 高札場前にて

[84]同 郵便局とポスト
                  
[85]同 街並にて2

[86]同 同上3
                  
[87]同「伊藤本陣阯」前にて

[88]同 同上解説板
                  
[89]同 関宿の石碑

[90]同「百六里」庭入口
                  
[91]旧 東海道五十三次 47番目 関宿 案内看板

[92]「百六里」庭の2階より旧 関宿 街並を望む1
                  
[93]同上2

[94]同上 庭
                  
[95]同 旧関宿 問屋場 前にて

[96]同「川本本陣跡」石碑
                  
[97]関の山車(やま)解説


【小生comment
 旧東海道の関宿も、古代「日本三関」の一つである『鈴鹿関』の存在も当然知っていた。
 が、両者が同じ場所にあることはごく最近迄知らなかった。
 事程左様に、幾つになっても新しい発見があり、「ときめき」を感じる。
 
1255分 旧 関宿発→一般道130km 2時間
1600分 帰宅〔走行距離計 390km
 
【後記】今日最後の話題は、仕事を終え、改装なった愛知県芸術劇場コンサートホールに行って来た。
 ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘンP.O. & ユジャ・ワン(ピアノ独奏)での演奏会を聴く為である。
 演奏曲目は大変有名な以下の2曲。
 
1. Brahms(1933-1897) : Piano Concerto No.2 in B-flat Major Op.83
 ‥ 1881年作曲 Brahms本人の Piano独奏で初演された
2. Mahler(1860-1911) : Symphony No.1 in D Major " Titan
 ‥ 1888年作曲

 マーラーの「巨人」が、現在の4楽章形式となったのは、1895年 彼の交響曲第2番「復活」が初演された翌1896年のことだ。
 楽器編成は四管に増強され、とくにホルンが4本から7本に増やされた為、曲に厚みが増したことが特徴的だ。
 
[98]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて
                  
[99]同ホールのホワイエにて佐藤君と

[100]本演奏会leaflet
                  
[101]ワレリー・ゲルギエフ‥programより

[102]ユジャ・ワン‥programより
                  
[103]ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘンP.O. & ユジャ・ワン(ピアノ独奏)での日本公演一覧‥programより

[104]ユジャ・ワンの encore曲の掲示板横にて
                  
[105]佐藤君と演奏会後、金山駅の料理店にて


【小生comment
 いずれも、本場ドイツの重厚な感じの名演だった。
 Brahms Piano Concerto No.2 は、小生昔からバックハウスのピアノ独奏、カール・ベーム指揮ウィーンP.O.の名盤が最高に好きである。
 そして、数ある Piano Concerto の中でも小生、Brahms の此の曲が一番好きだ。
 ゲルギエフ指揮ミュンヘンP.O. Mahler ”巨人”は、ショルティ指揮シカゴS.O. や、バーンスタイン指揮ニューヨークP. の煌びやかさこそなかったが、渋く重厚な感動的な名演だった。
 又、ユジャ・ワンの encore 曲の Mozart のトルコ行進曲は、超絶技巧の名演だった。
 会場では、旧行時代の同期で朋友の佐藤君と会ったので、帰りに暫し語らった。
 名曲中の名曲を世界一流の名演奏で聴き、気の置けない仲間と感想を語り合う至福のひとときを過ごすことが出来て最高だった!
 
 では、また‥〔了〕

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