今日最初の話題は、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉(1644-94)の紀行文集『鹿島紀行(鹿島詣)』についてである。
今回は、前回の【第1回】旅立ち・行徳・八幡・鎌ヶ谷・筑波山 に続く【第2回】布佐・鹿島・根本寺をお届けする。
※ 布佐 ※
《原文》日既に暮(くれ)かゝるほどに、利根川のほとり、ふさ(注1)といふ所につく。
此川にて鮭の網代(あじろ)(注2)といふものをたくみて(注3)、武江(ぶかう)の市(いち)(注4)にひさぐ(注5)もの有(あり)。
よひのほど、其(その)漁家(ぎょか)(注6)に入(いり)てやすらふ。
よるのやどなまぐさし(注7)。
月くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだしてかしま(鹿島)にい
(その)夜の宿は生臭い。
月が隈(くま)なく晴れたので、夜舟を出させて川を下り鹿島に到着した。
《語句》
(注1) ふさ(布佐):千葉県東葛飾郡我孫子町布佐/鹿島への舟に乗る場所(注2) 鮭の網代:「網代」は「網に代わるもの」が語源 / 川中に杭を打ち込み、杭と杭の間に竹や木を編み、又は網を張り魚を獲る仕掛け
(注3) たくみて:設(しつら)えて / 仕掛けて
(注4) 武江の市:武蔵国江戸の市
(注5) ひさ(鬻・販)ぐ:商う / 売る
(注6) 漁家:漁師の家
(注7) よるのやどなまぐさし:白楽天「縛戎人」に「夜の宿醒操[=操の手偏を月(肉付き)に](せいそう)にして牀席(しょうせき)を汚す」に拠る
白氏文集巻三
縛戎人(注a) (抄)
縛戎人 縛戎人耳穿面破駆入秦
天子矜憐不忍殺
詔徙東南呉与越
黄衣小使録姓名
領出長安乗遞行
身被金瘡面多瘠
扶病徒行日一駅
朝餐飢渇費杯盤
夜臥【腥臊】汚牀席
忽逢江水憶交河
垂手斉声嗚咽歌
縛戎人(ばくじゆうじん) 縛戎人
耳は穿(うが)たれ面(つら)は破れ駆(か)られて秦に入る天子(てんし)矜憐(きようれん)して殺すに忍びず
詔(みことのり)して東南のかた呉と越とに徙(うつ)す
黄衣(くわうい)の小使(しようり)姓名を録し
領して長安を出(い)で逓(てい)に乗じて行く
身は金瘡(きんさう)を被(かうむ)り面は多く瘠(や)せ
病を扶(たす)けて徒行(とかう)す 日に一駅(いちえき)
朝餐(てうさん)飢渇杯盤を費(つひ)やし
夜臥(やが)【腥臊(せいさう)】床席(=牀席(しやうせき))を汚けがす
忽(たちま)ち江水(かうすい)に逢ひて交河(かうが)を憶(おも)ひ
手を垂(た)れ声を斉(ひと)しくし嗚咽(をえつ)して歌ふ
【意】縛られた異邦人(チベット人)が、耳に穴をあけ、顔に傷をつけ、引き立てられて長安に入って来た / 天子は憐れみ殺すに忍びず、東南方の呉と越に移すよう命じた / 黄衣の小役人が彼等の姓名を帳簿に記録し、引率して長安を出発、駅伝で目的地へ向かう / 身体中に刃物で切られた傷があり、顔は痩せこけ、病を抱えて歩く距離は一日一駅 / 飢え乾いた彼等は、朝飯の皿を平らげ、夜寝る時は【酷い体臭】が(寝床である)莚(むしろ)を汚す / 長江に至ると故郷の交河を思い出し、手を下げた儘、声を揃えて咽(むせび)鳴きつつ歌った
(注a) 縛戎人:捕縛された異邦人 / 捕縛された「戎人」とは、チベット人を指すと云われる
白居易は、捕縛された異邦(チベット)の窮民の心を慮って詠んだ新楽府の序章部分
※ 鹿島・根本寺 ※
《原文》ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。
ふもと(注1)に、根本寺のさきの和尚(注2)、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋(たづね)入(いり)てふしぬ。
すこぶる人をして深省(しんせい)を發せしむ(注3)と吟じけむ、しばらく清浄の心をうるにゝ(=似)たり。
あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起(おこ)し驚(おどろか)シ侍(はべ)れば、人々起出(おきいで)ぬ。
月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなき(=本意無き)わざなれ。
かの何がしの女すら、郭公(ほととぎす)の歌、得(え)よ(=詠)までかへりわづらひし(注4)も、我(わが)ためにはよき荷擔(かたん)の人(注5)ならむかし。
《現代語訳》
昼から雨がしきりに降って、月を見ることもできない。鹿島山の麓(ふもと)に瑞甕山 根本寺 前住職の仏頂上和尚(=禅師)が今は世を逃れてこの寺にいらっしゃると聞いて、訪ねていって泊まった。
杜甫が「遊龍門奉先寺」で「人をして深省を発せしむ」と詠んだ、実にそんな感じで、しばらく清らかな心を得た気持ちになった。
夜明けの空が一寸晴れて来た頃、仏頂禅師が寺の人々を起こすと人々は起きて来た。
月の光、雨の音、ただ趣深い景色だけが胸に満ちて来て感極まり、句などとても出来ない。
遥々と月を見に来て詠もうとしていたのに甲斐が無く不本意なことだ。
まあ、あの清少納言だって、ホトトギスの声を聞き乍ら遂に歌を詠まなずに帰るのを気に病んだというのだから、私にとって彼女は心強い味方と言えよう。
《語句》
(注1) ふもと:鹿島山の麓(ふもと) /「麓」は、治承年間(1177~81年)に常陸平氏の鹿島政幹(生没年不詳)が築城されたと伝わる鹿島城があった城山の麓 / 城山は根本寺の北東 500m程の所にある / 芭蕉一行は「麓」に仏頂禅師を訪ねた時、同禅師は根本寺住職を引退し同じ山内にある北寺の塔頭に住居しており、一行はこの塔頭に止宿した
(注2) 根本寺のさきの和尚:「瑞甕山(ずいおうざん)根本寺(こんぽんじ)」は臨済宗妙心寺派 / 推古天皇21(613)年 聖徳太子が建立 /「さきの和尚」とは根本寺前住職仏頂禅師
寛永19(1642)年 仏頂禅師(1642-1715)は常陸国に生まれた慶安03(1650)年( 08歳) 冷山禅師が住職を務める鹿島 根本寺に入山
明暦元(1655)年(14歳)春 諸国の名僧との出合いを求めて旅に出た
延宝02 (1674)年(33歳) 冷山和尚から根本寺を受け継ぎ、21世住職就任
同年、嘗て徳川家康寄進の根本寺の寺領50石が鹿島神宮に取り上げられていたことを不服とし寺社奉行に訴え出た
この時の江戸の寓居が、承応02(1653)年 根本寺前任住職冷山和尚が深川大工町に結んだ臨川(りんせん)庵
天和02(1682)年(41歳) 幕府への勝訴後、仏頂禅師は寺領返還後、頑極禅師に住職の座を譲り、根本寺を離れた
元禄08(1695)年(54歳) 臨川庵を寺とすべく幕府に請願
正徳03(1713)年(72歳)「臨済宗妙心寺派 瑞甕山臨川寺」の山号寺号の許可が降りた / 開山:仏頂禅師の師 冷山禅師 / 臨川寺が創始された
【芭蕉(1644-94)と仏頂禅師との関わり】
延宝08(1680)年(芭蕉36歳)冬 芭蕉が江戸市中から深川の草庵に移った丁度この頃、仏頂禅師と芭蕉が運命的な出会いを果たした / 鹿島神社と係争中の仏頂禅師は江戸深川の臨川庵に寓居し、此処へ芭蕉は参禅する日々を送ったという
芭蕉と禅師との交わりは、禅師が係争に勝訴する迄の1年半程の間とされ、丁度この頃より、芭蕉の作風は「佗(わび)」の詩情が色濃く投影される様になっていった
貞亨04(1687)年08月14日 芭蕉は、曽良、宗波と共に鹿島詣での旅に出て、根本寺山内に閑居する仏頂禅師と観月のひとときを過ごした
芭蕉は、遥々月を見に来たのに、月光、雨音等の情景に感動し句を詠めない心情等を「鹿島紀行」に記している
栃木県大田原市の雲岩寺地区に、禅宗の四大道場の一つとされる臨済宗妙心寺派の名刹 雲巌寺がある
芭蕉は、仏頂禅師から、禅師が修行時代、雲巌寺の山中にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌を傍らの岩に書き付けた、と聞いていたことから、芭蕉は黒羽滞在中に禅師の山居跡を訪ね、このときの紀行を「奥の細道」に記している
仏頂禅師は雲巌寺45世住職徹通禅師と親交が深く、晩年は雲巌寺で山庵を営む
正徳05(1715)年 この山庵で没した(享年74歳)
雲巌寺に、「前住根本臨川開山仏頂南和尚禅師」、「生徳五乙未年十二月廿八日於山庵 化」と書かれた位牌がある〔了〕
以上、仏頂禅師については、松尾芭蕉・おくのほそ道文学館 / 資料展示室 / 雲巌寺の仏頂禅師庵跡 / 出典:「奥の細道」(角川写真文庫)より引用
http://www.bashouan.com/psBashouNs06B19_2.htm 参照
門遊龍門奉先寺
已従招提遊
更宿招提境陰壑生虚籟
月林散清影
天闕象緯逼
雲臥衣裳冷
欲覚聞晨鐘
令人発深省
龍門(注A)の奉先寺(注B)に遊ぶ / 杜甫
已(すで)に招提(しょうだい) (注C)の遊びに従い更に招提の境(きょう) (注D)に宿す
陰壑(いんがく) (注E) 虚籟(きょらい) (注F)生じ
月林(げつりん) 清影(せいえい) (注G)散ず
天闕(てんけつ) (注H)に象緯(しょうい) (注I)逼(せま)り
雲臥(うんが) (注J)すれば衣裳(いしょう)冷(ひ)ややかなり
覚(さ) (注K)めんと欲して晨鐘(しんしょう) (注L)を聞けば
人(注M)をして深省(しんせい) (注N)を発(注O)せしめん
【意】今日は寺院を散策し
更に此の寺の境内に泊まることにした泊まってみると北の谷間で 風がうつろな音を立てている
月光を浴びた林は 清らかな影を地上に映している
両岸の聳え立つ山には 星が間近に垂れ下がり
雲が降りる高処に臥していると 着物も冷たく感じて来る
早朝目が覚めようとする頃 鐘の音を聞けば
私の心に深い悟り(=大悟)の念が生ずるであろう
《語句》
(注A) 竜門:伊闕 / 河南省洛陽の西南約17㎞にある伊水に拠って断たれた峡谷(注B) 奉先寺(ほうせんじ):竜門の北岸にあり南に香山寺と対する
(注C) 招提(しょうだい):寺院 / 梵語の拓鬭提奢を略して拓提という / 拓の字を更に写し訛り「招」となったものという
(注D) 境:境域の内のこと
(注E) 陰壑(いんがく):北向きの日を受けない谷のこと
(注F) 虚籟(きょらい):姿が見えずして聞こえる響き / 草木などの風にふれている月林月光をうけた林
(注G) 清影(きょえい):清い影
(注H) 天闕(てんけつ):の門 / 断峡の聳えている様を譬えていう
(注I) 象緯(しょうい):象は姿、緯は機(はた)の横糸(よこいと) / 天において28の経(たていと)とし、五星を緯(よこいと)とする / 象緯とは星象の経緯の義であるが、此処では単に星辰のことに用いている / 此の句は又「天闕は象緯に逼(せま)る」と解す
(注J) 雲臥(うんが):作者が臥(ふ)すのであり、雲とは高処なのでこの様にいう / 即ち、雲に臥(ふ)すとは悟りの心を連想させる
(注K) 覚:めざめる
(注L) 晨鐘(しんしょう):早朝の鐘の音
(注M) 人:聞く人一般を言う / 自己は其の中に含める
(注N) 発:起こすこと
(注O) 深省(しんせい):省は大悟すること
(注4) かの何がしの女すら、郭公の歌、得よまでかへりわづらひし:「かの女」は清少納言 /『枕草子』にある話「五月の御精進のほど」による / 清少納言が仲間の女房四五人と賀茂の社の奥にホトトギスの声を聞きに出かけ、ホトトギスの声を聴くことは出来たものの、辺りの景色や馳走に心奪われて歌を詠むことが出来なかった故事のこと
(注5)荷擔(=荷担)の人:味方
【小生comment】
芭蕉一行が、鹿島神宮参詣が成ったのが、貞享04年08月25日(1687年10月01日)。正に、次回【第3回〔最終回〕】を配信する頃の話である。お楽しみに!
■続いての話題は、去る09月15日(金)に夏休み5日の最後の1日貰ったので、此の日も車で回って来た。
以下、井伊直虎と鳳来寺&長篠の合戦の模様をお伝えする。
08時40分 拙宅発 → 一般道 →
09時35分 長篠城址・史跡保存館 着
[01]長篠城址史跡保存館 案内看板
[02]同館 外観
[03]同館 前にて
[04]長篠戦図
[05]同館入口付近に掲示された「長篠合戦当時の将士の年齢」1
[06]同2
[07]歴代長篠城主
[08]長篠城址 本丸跡石碑
[09]同 同2
10時10分 長篠城址 本丸内を散策
10時20分 同所発 → 一般道 →10時30分 医王寺(設樂原合戦 武田勝頼本陣)
[10]医王寺山 武田勝頼本陣跡 案内
[11]医王寺 案内
[12]同寺 山門
[13]同寺 本殿
10時45分 同所発 → 一般道 →
11時00分 鳳来寺山park way駐車場 着11時11分 鳳来寺 東照宮 着
[14]鳳来寺東照宮 参道前にて
[15]同 本殿
11時17分 同所発 → 徒歩150m →
[16]鳳来寺 本堂
[17]徳川家康 出生 ゆかりの名刹 鳳来寺の解説
11時30分 同所発 → 徒歩 → 鳳来寺山park way駐車場 →
12時05分 新城市設楽原歴史資料館 着
[18]新城市設楽原歴史資料館 入口
[19]火縄銃の歴史年表
[20]開国の星 岩瀬忠震(ただなり(1818-61))1
[21]同2
[22]同3
[23]同4
[24]同5
[25]同6
12時30分 同所屋上から設楽原古戦場を望む
[26]歴史資料館より設楽原古戦場遠望
12時40分 新城市設楽原歴史資料館入口にある岩瀬肥前守忠震(ただなり(1818.11.21-1861.07.11)
岩瀬忠震は、安政058(1858)年06月19日 日米修好通商条約調印を始め、07月10日~09月03日にかけて 蘭・露・英・仏と各修好条約を締結
[27]岩瀬忠震像
12時45分 同資料館 発 → 一般道 →
[28]馬防柵
13時00分 同所 発 →〔昼食〕→
[29]新城城 城門
14時50分 帰宅〔了〕
【小生comment】
井伊直虎と直親、直政等井伊家周辺の史跡を巡ると、正に「三猿南信」と重なる。鳳来寺が家康出生とゆかりがあるとか、長篠合戦の将士の中に、自分の遠い祖先かもしれない今泉重俊22歳とが長篠城に奥平信昌の部下として籠城していたとか‥歴史にはロマンがある。
そして、家康所縁の三河出身であるので、戦国以降の歴史と何等かの関係がある‥と思っただけで何かワクワクして来る!
■今日最後の話題は、09月18日(祝月) 前日夜半に台風18号は過ぎ去り、東海地方は被害も比較的軽微に終わった。
其処で、台風一過の連休最終日の快晴日和に家に居るのは勿体ない、ということで、方広寺→龍潭寺(井伊直虎・直政他 井伊家歴代墓所)→井伊谷宮→井伊谷城跡→井伊直親墓所→浜松市秋野不矩美術館を車で巡ってを来た。
09時05分 拙宅発→一般道(本坂峠)→
10時00分 方広寺 着
[30]方広寺 三重塔前にて
[31]同寺 三重塔近くから本堂遠望をbackに
[32]同寺 勅使門
[33]同寺 同 解説
[34]同寺 本堂横の開山御廟所道石碑脇石段の曼殊沙華
[35]同寺 本堂前にて
[36]同寺 本堂解説
[37]同寺 本堂入口
[38]同寺 本堂入口を入った処
[39]本堂廊下にて
[40]同 堂内で開催中だった、細江町気賀出身の日本画家の巨匠 野島青茲 展覧会場入口
[41]同 同企画展leaflet
11時00分 方広寺 駐車場発 → 一般道 7.8km →
[42]萬松山 龍潭寺 入口にて
[43]同 境内図
[44]同 庭園1
[45]同 同2
[46]同 井伊氏歴代墓所 解説
[47]同 同(左手奥から2つ目の五輪塔が井伊直虎(次郎法師)の墓)
[48]井伊谷宮にて
[49]同 解説
12時00分 龍潭寺 駐車場発 → 一般道 →
[50]小野但馬守政次 終焉の地
12時15分 城山公園 井伊谷城跡 参道入口着
[51]井伊谷城跡解説
[52]井伊谷城跡にて1
[53]同2
[54]井伊谷城跡からのPanorama
12時50分 同所発 → 一般道 →
13時10分 井伊直親公の墓所 着
[55]井伊直親公 墓所案内
[56]同 墓所
[57]同 同前にて
手前の一対の燈籠は1851年此処に立ち寄った井伊直弼が寄進したもの
猶、この墓所は当初此処から東へ200m程の所にあったが、堤防移築の為、1977年此の地に移転した、と解説されていた
13時15分 同所発 → 一般道 →
13時35分 浜松市秋野不矩美術館 駐車場着
[58]浜松市秋野不矩美術館 駐車場傍の本企画展案内看板前にて
[59]同館 外観をbackに1
[60]同館 同2
[61]同 本企画展leaflet
[62]同 同 展示作品と同じ postcards
[63]秋野不矩『姉妹』1946年
[64]同『童女』1946年
[65]同『インド女性』1964年
[66]同『黄土』1978年
[67]同『女神 ナギニ―』1979年
[68]同『土の家(生命の樹)』1985年
14時25分 同所発 → 一般道 →
[69]美術館の後立ち寄った食事処「花咲乃庄」入口にて
15時40分 同所 → 一般道 →
17時00分 帰宅(了)
【小生comment】
方広寺で、ご当地、引佐郡気賀町出身の日本画家の泰斗 野島青茲(1915-71)の30点に及ぶ名画の企画展示があったのは予想外の贈物だった。彼の作風は、いずれも品格があり素晴らしいが、なかでも舞妓像をはじめ女性像が美しいのが印象的である。
展示会場の都合からか、野島青茲の作品の図録やpostcardsはなかった。
【後記】昨日は秋彼岸の中日。無き両親の墓参りを午前中して来た。
拙宅の庭には、季節の花彼岸花〔曼殊沙華〕が可憐に咲いていた。また、お墓へいく僅か100m程の空地にコスモス(秋桜)の花が満開で、花の周りをイチモンジセセリやミツバチが我が世の春ならぬ、我が世の「秋」を謳歌していた。
[70]拙宅に咲いた彼岸花1
[71]同2
[72]同3
[73]同4
[74]同5
[75]同6
[76]拙宅の近くの空地に咲いたコスモス(秋桜)の花と彼岸花
[77]同 コスモス(秋桜)の花1
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【0627】号~【0670】号は【時習26回3-7の会PART2】 URL:http://si8864.blogspot.jp/ ←ここをclickしてご覧下さい
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