今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)が、貞享元(1684)年08月に『野ざらし紀行』に旅立ち、その旅を終えた貞享02(1685)年4月末から2年3カ月余り後の貞享04年08月14日(=新暦1687年09月20日)に深川の芭蕉庵を出立して08月25日(=同10月01日)に鹿島神社に参詣した、『鹿島紀行(鹿島詣)』についてである。
今から丁度330年前の丁度今時分のことである。
芭蕉はこの『鹿島紀行(鹿島詣)』を終えた後、1箇月程で『笈の小文』の旅に出ている。
今回の【第1回】旅立ち・行徳・八幡・鎌ヶ谷・筑波山 から、【第2回】布佐・鹿島・根本寺、【第3回】旅の句集、と3回seriesでお届けして行きたい。
[01]鹿島紀行(鹿島詣)の紀行地図
※ 旅立ち ※
《原文》らく(注1)の貞室(注2)、須磨のうら(注3)の月見にゆきて「松陰(まつかげ)や月は三五(さんご)や中納言(注4)」といひけむ、狂夫(注5)のむかしもなつかしきまゝに、このあき(注6)かしまの山(注7)の月見んとおもひたつ事あり。
ともなふ人ふたり、浪客(注8)の士ひとり、ひとりは水雲(すゐうん)(注9)の僧。
僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣(さんね)の袋(注10)をえりにうちかけ、出山(しゆつざん)の尊像(注11)をづし(注12)にあがめ入(いれ)テうしろに背負(せおひ)、[手偏+主](注13)杖(しゆぢやう)ひきならして、無門の関(くわん)(注14)もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。
《現代語訳》
京都の俳諧師安原貞室が須磨の浦の月を見に行って「松の梢に十五夜の月が出ている。ここ須磨に流された中納言行平も、これと同じ月を見たのかなあ」と言った、風流に没頭した人の昔がなつかしさにまかせて、この秋(貞享3年(1687年)8月)、鹿島神宮の月を見ようと思い立った。旅に伴う人が二人ある。浪人一人、もう一人は行脚の禅僧である。
この僧は烏のように真っ黒な墨染めの衣に、三衣の袋を襟(えり)首にかけ、出山釈迦像(=釈迦が山を出た時の像)を厨子に安置して背負い、禅僧の持つ杖引き鳴らして、彼(か)の無門の大道に至る路の関に障りなく通れる程の悟りを開き、天地に独り歩いて出立した。
《語句》
(注1) らく(=洛):京都(注2)貞室:貞門派俳諧師、安原貞室(やすはらていしつ(1610~1673)) / 京都の紙商 / 名:安原正章(まさあきら) / 通称:鎰屋(かぎや)彦左衛門 / 松永貞徳(1571-1654)の高弟で、松江重頼(1602-80)と共に貞門派の双璧と言われる / 安原貞室は『おくのほそ道』「山中」にもその名が登場する
(注3) 須磨のうら(=浦):「須磨」は歌枕 / 風光明媚で、明石と共に月の名所として知られる /「須磨の浦」は白砂青松の名所
(注4) 「松陰や月は三五や中納言」:「松にすめ月も三五夜中納言/貞室」とある発句のことを指しているとみられる(『玉海集』(明暦02(1656)年刊))/「三五夜」は三×五=十五夜のこと / 白居易の詩「八月十五日夜禁中獨直對月憶元九」の頷聯に「三五夜中新月色 / 二千里外故人心」に拠る
八月十五日夜禁中獨直對月憶元九 / 白居易
銀臺金闕夕沈沈獨宿相思在翰林
三五夜中新月色
二千里外故人心
渚宮東面煙波冷
浴殿西頭鍾漏深
猶恐清光不同見
江陵卑湿足秋陰
八月十五日の夜、禁中に独り直とのゐし、月に対して元九げんきうを憶おもふ
/ 白居易
銀台(ぎんだい) 金闕(きんけつ) 夕べ沈沈(ちんちん)独宿(どくしゅく) 相思ひて翰林(かんりん)に在あり
五夜中(さんごやちゆう) 新月の色
二千里外(にせんりがい) 故人(こじん)の心
渚宮(しよきゆう)の東面(とうめん) 煙波(えんぱ)冷(ひやや)かに
浴殿(よくでん)の西頭(せいとう) 鐘漏(しようろう)深し
猶(なほ)恐る 清光(せいくわう) 同じく見ざらむことを
江陵(こうりよう)は卑湿(ひしつ)にして 秋陰(しういん)足(た)る
【意】金殿玉楼の連なる宮中は、今、深々と夜が更けていく
私は独り翰林院に宿直して、君(元九)のことを思っている十五夜に輝く清新な月よ
二千里の彼方に在る、旧友の心よ
君が居る江陵城、渚宮の東の水辺では、夜霧に煙る川波が冷え冷えと光り
私のいる長安宮、浴殿の西の辺りでは、時を告げる鐘や漏刻(=水時計)の音が深々と聞こえて来る
しかし、矢張り気にかかる / この清らかな月光を、君は私の様には見られないのではないかと‥
君が居る江陵は、土地が低く湿気も多く、秋には曇り空が多いということだから
「中納言」は須磨に流された在原行平(818-93)/「中」に「夜中」の「中」と「中納言」の「中」を掛ける
(注5) 狂夫:風雅に徹した男(注6) このあき(=秋):貞享4年(1687年)8月/前回『野ざらし紀行」の旅から3年後
(注7) かしま(=鹿島)の山:茨城県鹿島郡鹿島神宮
(注8) 浪客(ろうかく):浪人/浮浪する人/河合曾良のこと
(注9) 水雲:雲水/行脚の僧/深川芭蕉庵近くに住む禅僧宗波(そうは)
(注10) 三衣の袋:「三衣(さんえ・さんね)」は僧侶が着る三種の袈裟=「大衣」「上衣」「内衣」/「三衣の袋」はそれ等を入れる袋 / 頭陀袋
(注11) 出山(しゅこつざん)の尊像:釈迦牟尼が道を悟って修行した山を下りた時の像
(注12) づし(=厨子):仏像等を安置する仏具 / 扉が観音開きになっていてで、仏像を拝める
(注13) [手偏+主]杖:行脚の杖 / 主に禅僧が携える杖を言う
(注14) 無門の関:宋代の禅僧慧開(えかい)が、古人の公案四十八則を評釈した仏書『無門関』の自序にある頌((じゅ)=仏徳を称賛し教理を述べたもの)「大道門無く、千差路有リ、此ノ関ヲ透リ得バ、乾坤ニ独歩セム(【意】大いなる道は悟りに至る門は無いが、其処に至る路は無数にある。この路の関を通り越せれば、天地を問わず独りで歩いて行く¥ける
※ 行徳 ※
《原文》いまひとり(注1)は、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(注2)の間(かん)に名をかうぶりの、とりなきしま(注3)にもわたりぬべく、門(注4)よりふねにのりて、行徳(ぎゃうとく)といふところにいたる。
ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎ(注5)のちからをためさんと、かちよりぞゆく。
《現代語訳》
さてもう一人である私は、僧でもなく、俗人でもなく、鳥とも鼠ともつかぬ蝙蝠(こうもり)が、「鳥なき島の蝙蝠」に渡る様に、鹿島神宮に向かうべく、深川の草庵の門前から舟に乗り、行徳という所に至った。舟をあがると、馬にも乗らず、細い脛の力をためそうと歩いていくことにした。
《語句》
(注1) いまひとり:芭蕉自身をいう
(注2) 鳥鼠(てうそ(=ちょうそ)):蝙蝠の異名 / 僧でもなく俗人でもない中途半端な自分の姿を重ねる/「鳥鼠の間に名をかうぶり」の「かうぶり」に「蝙蝠」を掛ける
(注3) とりなきしま:「鳥なき里の蝙蝠」という諺に拠る/鳥(=優れた者)が居ない場所では蝙蝠(=つまらない者)が幅をきかす譬え / 又「鹿島」と「島」も掛けている
(注4) 門:深川の芭蕉庵門前 / 芭蕉は草庵の門前から舟に乗り、小名木川→新川→江戸川を渡り東進し行徳に至る
(注5) ほそはぎ(=細脛):細い脛(=すね)
※ 八幡 ※
《原文》甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おのゝいたゞきよそひて、やはた(注1)といふ里をすぐれば、かまがいの原(注2)といふ所、ひろき野あり。
秦甸(しんでん)の一千里(注3)とかや、めもはるかにみわたさるゝ。
つくば山(注4)むかふに高く、ニ峯ならびたてり。
かのもろこしに双剣(さうけん)のみね(注5)ありときこえしは、廬山の(ろざん)(注6)一隅なり。
《現代語訳》
甲斐国からある人が送ってくれた檜木づくりの笠を、三人夫々が被って、八幡という里を過ぎると、鎌谷(かまがい)の原という所に広い野があった。正に「秦甸の一千里」の様であり、遥か彼方迄見渡すことが出来る。
筑波山が向こう正面に高く、二峰を高く並べて立っているのが見える。
彼の地、中国にも双剣の峰があると聞くが、それは廬山の一隅である。
《語句》
(注1) 八幡(やはた):現・千葉県市川市八幡町 / 行徳から一里(注2) かまかい(鎌ヶ谷)の原:言・千葉県東葛飾郡鎌ケ谷町 / 八幡から二里八丁
(注3) 秦甸の一千里:土地が広々と広がっている様子 /「秦甸」は中国秦の王都近くの土 /『和漢朗詠集』に「【秦田一千余里】、凛々氷舗、漢家之三十六宮、澄々粉飾」とある
(注4) つくば山:茨城県中央にある山 / 頂上が西の男体山、東の女体山に2峰に分かれる / 筑波嶺、筑波の山とも / 歌枕 /百人一首13「筑波嶺の嶺より落つる男女(みなの)川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院(868-949))で知られる
(注5) 双剣のみね:廬山にある大小71の峰々の一つ名峰「双剣峰」
(注6) 江西省九江市南部にある名山 / 李白・白居易など文人墨客が訪れた
※ 鎌ヶ谷 ※
《原文》ゆきは不レ申(もうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな
と詠(ながめ)しは、我(わが)門人嵐雪(注1)が句也(なり)。
すべて此(こ)の山は、日本武(やまとたけ(る)の)尊(みこと)の言葉をつたえ(=へ)て(注2)、連歌する人のはじめにも名付(なづけ)たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。
まことに愛すべき山のすがたなりけらし(注3)。
《現代語訳》
雪は申さずまづむらさきのつくば哉【意】雪が降りかかっているのは言うまでも無いが、まず春立つ頃の山紫に霞が棚引く筑波山の姿は格別に美しい
【季語】雪:冬
【解説】此れは「春立つ頃、山紫色に霞棚引く筑波山」の美しさを詠んだ服部嵐雪の句
上五の「雪は申さず」は、芭蕉が「例の、中国に双剣の峰があると聞いているのは、廬山の一隅である」と上述した廬山の雪をいう
又、芭蕉が「廬山の一隅」と述べたのは白居易の「香炉峯下新卜山居草堂初成偶題東壁(香炉峰下(こうろほうか) 新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、 偶(たまたま)東壁(とうへき)に題す)」を踏まえる
日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処
故郷可獨在長安
日高く睡り足るも猶お起くるに慵(ものう)し
小閣に衾(ふすま)を重ねて寒さを怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
匡廬(きょうろ)(注a)は便(すなわ)ち是(こ)れ名を逃のがるるの地
司馬(注b)は仍(な)お老を送るの官為(な)り
心泰(やす)く身寧(やす)きは是れ帰する処
故郷 何ぞ独(ひと)り長安にのみ在らんや
【意】日が高く上るまで確り眠ったとのに、起きるのが億劫だ
小さな部屋で重ねた布団にくるまっているので寒さは気にならない遺愛寺の鐘の音は、枕を立てて耳をすまし
香炉峰に降る雪は、簾を少し上げて眺めてみる
廬山は俗世の名声名誉から逃れるには丁度いい土地で
司馬という閑職は、老後を送るには悪くない官職だ
心も身体も安らかなら、それ以上何を望むことがあろう
長安だけが故郷だろうか、いや、そうではあるまい
《語句》
(注a) 匡廬(きょうろ):廬山という地名を指す(注b) 司馬:地方の長官を補佐する役
と詠んだのは、我が門人服部嵐雪の句だ。
総じてこの山は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御火焼の翁(=火護り老人)との問答唱和が伝えられ、連歌を「筑波の道」ともいう。
せっかく筑波山にきて歌を詠まないでは済まないし、句を詠まず通り過ぎるものではない。
実に愛すべき山の姿であることだ。
《語句》
(注1) 嵐雪:服部嵐雪(1654-1707)
/ 宝井其角とならぶ芭蕉の高弟 / 淡路国三原郡の生まれ / 別号:嵐亭治助、雪中庵 / 芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分した(注2) やまとたけの尊の言葉をつたえて:日本武尊が東国遠征の帰り、甲斐国酒折(さかおり)宮で、お供の火守りの翁と片歌問答したことを指す / 日本武尊が「にひばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる(常陸、筑波を過ぎて幾夜寝たろうか)」と詠みかけると翁が「日々並(かかな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を(日数重ねて、夜で数えれば九夜、昼で数えれば十日になる」(『古事記』「景行記」)と答えた /「連歌する人のはじめにも名付(なづけ)たり」は、この問答を連歌のはじめとして、南北朝時代の連歌師二條良基が連歌選集「菟玖波(つくば)集」を編んだことに拠る / 和歌を「敷島の道」というのに対し連歌を「筑波の道」という
(注3) けらし:芭蕉がよく使う言葉(『おくのほそ道』「市振」に「あはれさしばらくやまざりけらし」)/「けり」より詠嘆が強い
※ 筑波山 ※
《原文》萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなか(注1)ゞ長櫃(ながびつ)に折入(をりいれ)て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず
きちかう(注2)・をみなへし・かるかや(注3)・尾花(注4)みだれあひて、さをしか(注5)のつまこひわたる、いとあはれ也
野の駒(注6)、ところえがほにむれありく、またあはれなり
《現代語訳》
萩は錦を地に敷いた様に見事に散り敷き、橘為仲が長櫃に宮城野の萩を折りいれて、都への土産として持たせたのも風流なことだと感じ入ったききょう・おみなえし、かるかや、尾花などが乱れあって、牡鹿が妻をしたってあちこちで鳴くのも、たいへん趣深い
放し飼いの馬が所知ったる顔で群れ歩いているのも、また趣深い
《語句》
(注1) ためなか:橘為仲(1014頃-85) / 平安時代中期の公卿・歌人 / 官位は正四位下・蔵人・左衛門権佐・太皇太后宮亮、淡路守・越後守・陸奥守等地方官を歴任鴨長明『無名抄』の「為仲宮城野の萩ほりてのぼる事」の条に、「この為仲、任果ててのぼりける時、宮城野の萩をほりて、長櫃十二合に入れてもちてのぼりければ、人あまねくききて、京へいりける日は二条大路にこれを見ものにして、人多く集りて、車などあまたたてりけるとぞ」に拠る
(注2) きちかう:きちこう / 桔梗
(注3) かるかや:刈萱 / イネ科の多年草
(注4) 尾花:ススキ(注5) さをしか:小男鹿 / 牡鹿の雅語 /「さ」は美称の接頭語
(注6) 野の駒:放し飼いの馬
【小生comment】
芭蕉の俳文・紀行を読んで、白居易の名詩2つが出て来るとは中々面白いもにである。次回をお楽しみに!
■続いての話題は、09月08日(金)に勤務先から貰った5日間の夏季休暇のうちの4日目を使って、足利一門所縁の地『一色・今川・吉良の街』と「豊川市桜ヶ丘ミュージアム『とよかわ百景』」をって来た模様をお伝えする。
行程は以下の通り。
08時45分 拙宅発→ 一般道 →
10時20分 赤羽城跡 着〔西尾市一色町赤羽/現 真宗大谷派 赤羽別院
親宣寺〕
[02]赤羽別院山門
[03]同2
[04]赤羽城跡 石碑(赤羽別院山門東側)
[05]同 解説
10時30分 同所発→ 一般道 →
10時53分 今川氏 發跡地 着〔西尾市今川町字土居堀〕
[06]今川氏發跡地
[07]同 解説
11時00分 同所発 → 一般道路 →
11時15分 吉良氏 岡山陣屋跡 着
足利一門 東条吉良氏は、徳川家康の三河平定の際、家康に降伏して滅亡 / その後、家康が天下の覇者となると、東条吉良氏の一族
吉良義定は、家康に召し出されて500石の旗本に列し、吉良の当該地に陣屋を構えた
[08]吉良氏 岡山陣屋跡 前にて
11時20分 同所発 → 一般道 →
11時40分 東条城跡 着
鎌倉時代の貞応元(1222)年頃、足利義氏が三河守護・吉良荘園地頭になった
その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった以後、14代義昭に至り滅ぶ迄、吉良氏は足利一門として、東条の地は300余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった
其の後、東条城は、天正18(1590)年に家康の関東移封後廃城となった
それ故、現在の遺構は、天正年間の姿を伝えている
[09]東条城の歴史解説
[10]東条城 物見櫓
[11]同 本丸跡
[12]同 石碑
[13]同 本丸中程から物見櫓遠望と萩の花
[14]古城公園〔東条城跡〕解説
12時05分 同所 発
12時30分 片岡山 華蔵寺 着
慶長05(1600)年 吉良義定公が、京都 妙心寺の高僧 月船禅師を請じて吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する
華蔵寺は、吉良家第13代義定から第18代義周迄の墓を護る[15]華蔵寺前の吉良義央騎馬像
[16]華蔵寺 山門
[17]華蔵寺 案内
[18]華蔵寺 庭園 案内
[19]華蔵寺 庭園1
[20]同 同2
[21]華蔵寺 内部
12時45分 花岳寺 本堂着
[22]花岳寺 本堂
[23]同 由緒解説
[24]花岳寺と華蔵寺を結ぶ小径に落ちていた毬栗
[25]吉良家墓所入口
[26]吉良義央公墓
[27]吉良家13代義安公~17代義央公
及び 義央養子 義周の墓配置図
13時05分 同所発 → 一般道 →
13時40分 西尾市吉良歴史民俗資料館「吉良饗庭塩(あいばじお)の里」着
[28]吉良市民族資料館 看板
[29]同 吉良饗庭塩(あいばじお)の里
[30]同 名門吉良氏系図
[31]同 吉良氏華麗なる親族
[32]同 三河湾の塩田分布(明治43(1910)年当時)
[33]同 吉良饗庭塩の里‥塩づくり体験1
[35]同 同 ほぼ完成3
[36]同 同 屋外の入浜式塩田
[38]華蔵寺&吉良氏民族資料館の吉良家資料
14時40分 同所発 → 一般道 →
15時50分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム 着 企画展『とよかわ百景』展
[39]豊川市桜ヶ丘ミュージアム 入口
[40]同 館内の本企画展 看板横にて
[41]同 本企画展leaflet
14時40分 同所発 一般道 →
17時10分 帰宅〔了〕
【小生comment】吉良上野介義央という人物を知れば知る程、浅野内匠頭が江戸城松廊下で義央に殺傷事件に及んだことの原因が???となった。
真実は一つなのだが、当事者でないと解らない‥これが歴史を奥深いものとしているかもしれない。豊川市桜ヶ丘ミュージアム『とよかわ百景』もなかなか面白かった。
なかでも、平川敏夫と高畑郁子の作品が気に入った。
【後記】今日(09月17日(日))17時15分現在、台風18号た高知県に再上陸という情報が入った。
皆さんも十分気を付けて下さい。
では、また‥〔了〕
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