先ず最初の話題は、【2637の会/クラス会】のお話!
【時習26回3-7の会/クラス会】について、念の為に「開催要領」をこの《会報》にてもお示しする。
現状、参加表明者は、一週間で1人増えて、金子T久君、千賀S始君、牧野M孝君、そして小生を含め4人になった。
此処で参加される皆さんに提案があります。
時習26回生の同期で朋友の中嶋Y行君から「時習26回生ミニ同窓会」からお誘いがありました。
昨年2016年08月12日(金) 小生が初めて参加させて頂いた、中嶋Y行君【3-2】・松井S記君【3-3】・宮下K一君【3-4】とのミニ同期会を「今年は合同でやらないか?」というお誘いです。
是で、全7人の同窓会になり、相応に賑やかな同窓会を開催出来る見通しが立ちます。
其処で、勝手幹事の専権事項として、合同開催することにさせて頂きたく思いますので、ご理解下さい。
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/26-061308202637.html ←2016.08.14付【2637の会 0613】をご参照
[01]20160812 中嶋・松井・宮下3氏と
※ 時習26回3-7の会/クラス会 開催要領 ※
1. 開催日時:2017年08月12日(土) 18時00分~20時30分2. 開催会場:King’s Kitchen
http://www.kingskitchen.jp/
住所:豊橋市駅前大通り1丁目61
℡ 0532-53-1147
3. 会費 : 5,000円〔@3,000円+Free Drink@2,000円〕(税・サ込)
※ ※ ※ ※ ※
巻之三『秋』は、発句の数が76句と、『春』118句、『冬』&『夏』夫々94句に比べて掲載数が最も少ない。
この巻も、〔第1回:01~26句〕〔第2回:27~48句〕〔第3回:49~76句〕と3回seriesでお届けして行きたい。
では早速どうぞ!
【松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之三〕『秋』〔第1回〕】
猿蓑集 巻之三 秋
01穐風(あきかぜ)や蓮(はす)をちからに花一つ 読人不知(よみひとしらず)
此句東武よりきこゆ、もし素堂か【意】秋風が吹いて夏は去っていく / 遅れて咲いた蓮(はす)の花が一つ秋風に負けまいと咲いている
【解説】山本荷兮(注1)編『曠野(あらの)後集』(元禄06(1693)年刊)に、三河・岡崎の鶴声の句として所収
(注1) 山本荷兮(かけい(1648-1716)):名古屋の人 / 名は周知 / 芭蕉門下で、俳諧七部集のうち「冬の日」「春の日」「曠野(あらの)」を編む / 後年、蕉風を離れ、晩年は連歌に転じた
02がつくりとぬけ初(そめ)る歯や秋の風 杉風
【意】大病を患ったからか初めて私の歯が抜けた / 落胆している
/ 私も人生でいう白秋(=老境)になったか / 折から一陣の秋風が吹いた【解説】元禄03(1690)年09月25日付、湖南滞在中の芭蕉宛の杉風書簡に「七月ニ拙者歯一ツぬけ初申候。古事申直し、句ニ仕候」として、「がつくりと身の秋や歯のぬけし跡」の句形で見える / 当時44歳だった杉風は夏から秋にかけて大病をし、この句を詠んだ /『猿蓑』に入集の際、芭蕉が添削を加えた作品と言われる
03芭蕉葉(ば)は何(なに)になれとや秋の風 路通
【意】夏の間、大葉を広げた芭蕉の葉は秋風吹き始めるとボロボロになった
/ この秋風は芭蕉葉に何になれと言いたいのだろう【季語】秋の風:「三秋」
【解説】「秋の風」という現実と「芭蕉葉は何になれとや」と八十村路通(1649-1738)自身の心境を詠んだ句
芭蕉門下で、彼の句は一定の地位を確保しつつも、同門の者達から疎まれていた
元禄06(1693)年頃には芭蕉から勘当されていたが、翌元禄07年10月12日(新暦1694年11月28日)の芭蕉臨終に際し、芭蕉は向井去来(1651-1704)に「自分亡き後は彼(路通)を見捨ず、風雅の交わりをせらるる様、このこと頼み置く」と申し添え破門を解いている
(注1) 手を組(くむ):「腕を組む」のではなく、「手先を組み合わせる」様をいう
加賀の全昌寺に宿す
05終夜(よもすがら)秋風きくや裏の山 曾良【意】師の芭蕉と別れ、私(曽良)は今夜は病身乍ら一人此処全昌寺(注1)に泊った / 裏山に吹く秋風の音を聞いていたら、様々な思いが浮かんで来て一晩中眠れなかった
【解説】山中温泉で芭蕉と曽良が逗留した泉屋の菩提寺 / 山中で腹を病んだ曽良は芭蕉と別れ先発して、元禄02(1689)年08月05日&06日の両日全昌寺に宿泊(『曽良旅日記』) /『奥の細道』に「大聖持(寺)の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、終夜秋風聞くやうらの山 と残す。一夜の隔千里に同じ」とある
(注1) 全昌寺:現・加賀市大聖寺町にある曹洞宗寺院
06芦原(あしはら)や鷺(さぎ)の寝(ね)ぬ夜(よ)を秋の風 江戸
山川
【意】夜中の葦原に秋風が吹いてざわついている / だから其処を塒(ねぐら)としている鷺(さぎ)も眠れないだろうなぁ
07朝露(あさつゆ)や鬱金(うこん)(注1)畠(ばたけ)の秋の風 凡兆
【意】早朝、鬱金畑に白露が降りている / 秋風が鬱金畑に降りた露と一緒になって「秋の情景」という音楽を奏でている(注1) 鬱金(うこん):生姜科の多年草 / 根が黄色染料の原料や薬草に供される
08はつ露(つゆ)や猪(い)の臥(ふす)芝(しば)の起(おき)あがり 去来
【意】秋になり初露が降りたら、猪の寝床として敷き詰められていた山芝が生気を取り戻してピンピンと起き直っている【解説】「臥(ふ)す猪(ゐ)の床(とこ)=猪(いのしし)寝床、又は、猪」を連想させる句
09大比叡(おおひえ)やはこぶ野菜(やさい)の露(つゆ)しげし 野童
【意】季節は秋 / 秋の到来と共に空気が澄み比叡山がくっきり見える
/ そんな中、比叡山近郷の百姓達は朝露に濡れた採れたばかりの野菜を運んでいる
10三葉(みは)ちりて跡(あと)はかれ木や桐(きり)の笛(ふえ) 凡兆
【意】桐一葉という言葉があるが、三枚しかなかった青桐の葉が散ると、最早(もはや)枯木という冬の風情となり桐で出来た苗の様だ【解説】「桐の笛」の「笛」は、葉を落とし、枯木となった青桐の枝ぶりが笛の恰好に似て見える様(さま)を詠んだ、という解釈をしてみた
11文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
【意】今日は七月六日、愈々明日は七夕だ / 七夕の夜は、天の川では牽牛・織女の二つの星が一年に一度の逢瀬を楽しむ
/ 今夜(=六日の夜)は、七夕の前夜だがもう既に日常の夜とは違い、高揚感を感じる【解説】『奥の細道』での一コマ / 元禄02年07月06日(新暦1689年08月20日) 越後国今町(現・新潟県上越市直江津)での作 / 宿は聴信寺近くの古川屋 / 此処に土地の俳人達が集い、此の句を発句に連歌を巻いた
12合歓(ねむ)の木の葉越(はご)しも厭(いと)へ星の影 同
【意】七夕の今宵は、牽牛・織女が年に一度の逢瀬を遂げる夜だ
/ 二つの星の貴重な逢瀬を合歓の葉越しにでも覗いて邪魔しては駄目だ【解説】元禄03年07月07日とされる /『真蹟懐紙』所収 / この時代、所に拠っては七夕飾りを合歓の木に飾る風習もあったという / 合歓の木は夜になると葉を閉じるが、その様子を男女の合体と捉えられてもいる
13七夕やあまりいそがばころぶべし 伊賀小年 杜若
【意】七夕の牽牛と織女の年に一度の大切な逢瀬も、気が急(せ)くと天の川を渡る際に転んで仕舞うかもしれない【解説】滑稽味が強く、川柳の様な句
14みやこにも住(すみ)まじりけり相撲取(すまふとり) 去来
【意】(非力な優男(やさおとこ)ばかりの)都にも相撲取りが住んでいるとはなぁ【解説】相撲は、古く、宮中で毎年七月下旬、相撲を天覧し群臣に宴を給う「相撲(すまい)の節(せち)」が行われた為、季題を「秋」とした / 但し、俳諧では民間で行われた、勧進相撲や草相撲の類を詠んだ
15朝(あさ)がほ(注1)は鶴(つる)眠(ねむ)る間(ま)のさかりかな 伊賀 風麦
【意】一晩中子育てした疲れから鶴が微睡(まどろ)む朝方の僅かな時間が、朝顔が花を咲かせる盛りの時間だ【解説】諺「焼け野の雉(きぎす(=キジ))、夜の鶴」((注2)参照)にある様に鶴は子育てに熱心 /「作者の意は、むしろ壽鶴一睡の間を朝顔の短き盛りとすると言ふ程ならん(幸田露伴「評釈/猿蓑」)」
(注1) 朝がほ:「秋」の季語 / 朝顔は秋の訪れを告げる花
(注2) 焼け野の(注2) 焼け野の雉夜の鶴(やけののきぎすよるのつる):雉(きじ)は、巣のある野を焼かれると身の危険を顧みず子を救い、鶴は、寒い夜に巣籠る際に自分の翼で子を覆うと言われ、諺は両鳥共に子を思う親の情が非常に深い例えとして紹介される
16蕣(あさがほ)やぬかごの蔓(つる)のほどかれず 膳所 及肩
【意】零余子(ぬかご=むかご)の蔓にきっちり巻き付かれた朝顔は、もう解(ほど)くに解けない(注1) ぬかご(=むかご):零余子 / 山芋の蔓の葉の付け根に零余子という小さな種芋がつく
17笑(わらふ)にも泣(なく)にもにざる木槿(むくげ)かな 嵐蘭
【意】木槿の花というのは、風情(=美しさ)が中途半端で、美人の形容としての笑い顔にも泣き顔にも例えられない
18手を懸(かけ)ておらで過行(すぎゆく)木槿(むくげ)哉(かな) 杉風
【意】木槿の花を見かけ、一瞬手をかけて折ろうと思った / しかし、折る程のこともないと思い直して通り過ぎた【解説】杉風が元禄02年08月、友五や滄波と隅田川畔に吟行した「隅田川紀行」に「なを分行けば野中に塚ほどの木槿が一かぶ花ざかりにてありける。いづれの里に主やある、いやあるまじきと、おのおのうたがひければ」として「手をかけておらでしさりし花木槿」の句形で見える / 恐らく『猿蓑』入収に当たり、杉風のこの句に芭蕉が朱を入れたものとみられる
19高燈籠(たかとうろう)(注1)ひるは物(もの)うき柱かな 千那
【意】夜には立派に見える高灯篭も、昼間見ると間抜けな単なる高柱に過ぎない【解説】新盆から七回忌迄は毎年盂蘭盆(注2)の月、即ち7月朔日から晦日まで高燈籠を灯(とも)した
(注1) 高燈籠:新盆の家の前に、七月朔日から晦日迄、五・六間の杉丸太の柱の先に掲げる白張燈篭 / 毎夜暮六つ~明六つ迄燈した
20はてもなく瀬(せ)のなる音(おと)や秋黴雨(あきつい)リ 史邦
【意】秋の長雨で増水した川(=瀬)の流れの音が際限なく聞こえて来ることだ(注1) 秋黴雨(あきつい)リ:梅雨 / 秋の長雨のこと
21そよそよや藪(やぶ)の内(うち)より初(はつ)あらし 旦藁
【意】野分の季節の到来だ / 藪の中からそよそよと秋風が吹いて来た、此の風が今秋の嵐の第1号だ
22秋風(あきかぜ)やとても(注1)薄(すすき)はうごくはず 三川 子尹
【意】薄(すすき)は風がなくても動く / だから秋風が吹いたら猶更一層激しく動く【解説】作者 子尹(しいん)については詳細不明
(注1) とても:兎も角も / 所詮
23迷ひ子(ご)の親のこゝろやすゝき原 羽紅
【意】荒涼とした薄原は、恰も迷子を探し求める親の寒々とした心境の様だ
八瀬おはら(注1)に遊吟して、「柴うり」の文(注2)書ける序手(ついで)に
24まねきまねき(注3)朸(あふご)(注4)の先(さき)の薄(すすき)かな 凡兆【意】柴を担いだ柴売りの大原女(おはらめ)が歩いて来る / 彼女が担ぐ天秤棒の先に薄(すすき)の穂が付いていてそれが揺れて「おいで/\」をしている様に見える
【解説】「柴うりの文」は、大原女について書いた文章
(注1) 八瀬おはら:京の北郊、もと愛宕郡、現・京都市左京区 /「おはら」は大原、八瀬の北
(注2) 柴うりの文:『本朝文選』巻四に、大原女について記した凡兆の俳文「柴売ノ説」所収
(注3) まねきまねき:招き/\、おいでおいで
(注4) 朸(あふご(=おうご)):天秤棒のこと
つくしよりかへりけるに(注1)、ひみ(注2)といふ山にて卯七(注3)と別(わかれ)て
25君が手もまじる成(なる)べしはな薄(すすき)【意】別れにずっと手を振る君の手も姿も見えなくなって仕舞った‥、此の地日見峠の美しい薄(すすき)の穂波の中に君の手も混じり込んでいるのであろう
(注1) つくしよりかへりけるに:去来の長崎帰郷の折のことを指す / この句の舞台となった年は不明だが、元禄元(1688)年が祖父母の三十五回忌、母と弟の七回忌、元禄03(1690)年にも又去来は故郷長崎に帰っている
(注2) ひみ:日見峠 / 長崎の東郊日見村にある
(注3) 卯七:長崎の蕉門 / 去来の従弟、蓑田八平次(延享04(1747)年没)
26草刈(くさかり)よそれが思(おも)(注1)ひか萩(はぎ)の露(つゆ) 平田 李由
【意】草刈している百姓よ、深露に濡れている萩の花の前で逡巡しているな
/ その美しい萩の花を刈り取って仕舞おうかどうしようかと(注1) 思ひ:苦の種の意 /「萩の花に露深く置わたしたるさまを詠める処、言外に聞へたり。草刈の深露を思ひて刈かねると句作りて、その実は萩の花の露の深きを云立たる句也と知るべし」(『猿蓑さがし』)
【小生comment】
流石、芭蕉俳句の集大成たる『猿蓑』。詠み進める程に、森川許六(1656-1715)が「前猿蓑は俳諧の『古今集』也、初心の人 去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)と評すだけのことはある。
次号《会報》以降もお楽しみに!
■さて次の話題は、昨日07月26日(水) 勤務先の主力取引銀行2行に平成29年03月決算報告に上京。
[02]2行目に訪れた主力取引銀行の高層ビル近くにある Objet の前にて
[03]同銀行の地上32階から皇居方面遠望
その帰りに、三菱一号館美術館と東京ステーションギャラリー2つの美術館を訪れたので、その模様をお伝えする。
【三菱一号館美術館『レオナルド×ミケランジェロ』展】
本展について、主催者の『ごあいさつ』から一部引用してご紹介する。
「万能人」と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da
Vinci(1452.04.15-1519.05.02))」と「神のごとき」と称されたミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti-Simoni(1475.03.06-1564.02.18))―イタリア・ルネサンス芸術(Renaissance art)を代表する二人は、23歳程のひらきがあったものの、奇しくも同時代を生き、互いに存在を意識していた、という記録が残っている。
「レオナルド×ミケランジェロ」展(“Leonardo da Vinci & Michelangelo”
Exhibition)は、芸術家の力量を示す上で最も重要とされ、全ての創造の源である素描(ディゼーニョ(disegno))に秀でた二人を対比する日本初の展覧会となる上、素描のほかにも、油彩画、手稿、書簡等凡そ70点が一堂に会する。〔後略〕
[04]三菱一号館美術館入口にて
[05]三菱一号館美術館『レオナルド×ミケランジェロ』展の写真撮影OK
corner にて
[06]レオナルド・ダ・ヴィンチ『少女の頭部/《岩窟の聖母》の天使の為の習作』1483-85年頃
[07]ミケランジェロ・ブオナローティ『《レダと白鳥》の頭部の為の習作』1530年頃
[08]同(未完作品/17世紀の彫刻家の手でもって完成)『十字架を持つキリスト(ジュスティニアーニのキリスト)』1514-16年
【東京ステーションギャラリー『没後40周年/幻の画家 不染鉄』展】
当企画展について、本展の《ごあいさつ》から一部引用してご紹介する。
不思議な魅力を持った日本画を遺した画家、不染鉄(ふせん・てつ(1891.06.16 -1976.02.28))の没後40周年を記念して、ゆかりのある東京と奈良で大規模な回顧展の開催する。
不染は、稀有な経歴の日本画家である。本名 哲治。
明治24(1891)年に東京で生まれ、本名が哲治(後に哲爾、鐵二とも号する)、日本画を学んでいたが、写生旅行先の伊豆大島や式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。
首席で卒業し、帝展で入選を重ねる等、才能を高く評価され乍ら、戦後は画壇を離れ、昭和51(1976)年に亡くなる迄奈良で飄々と作画を続けた。
[09]東京ステーションギャラリー『不染鉄』
[10]不染鉄『薬師寺東塔の図』1970年頃
[11]同『薬師寺東塔之図』1940年代
[12]同『不二之図』昭和初期頃
[13]同『廃船』1969年
[14]同『塀』昭和40年代
[15]同『柿』昭和40年代頃
なかなか良い勉強になった企画展であった。
【後記】今日のお別れは、『秋』に因んだ小生の拙句、そして名句と名(漢)詩をご紹介したい。
※ 明日8月7日は『立秋』
今日の日中の猛暑からは『秋』は想像し難いが、夕暮れが『夏至』の頃より明らかに短くなったことは実感出来る
庭先に風の音聞き秋を知る 悟空
『立秋』の頃はまだまだ暑く見た目には秋の到来など感じられないが、ふっと吹き寄せる風に秋の訪れを感じて驚く‥と歌った名歌‥
今日の日中の猛暑からは『秋』は想像し難いが、夕暮れが『夏至』の頃より明らかに短くなったことは実感出来る
庭先に風の音聞き秋を知る 悟空
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行朝臣(?-907)
蕭蕭送雁群
朝来入庭樹
孤客最先聞
秋風(しゅうふう)の引(いん)(注1)
何処(いずこ)よりか秋風(しゅうふう)至る 蕭蕭(せうせう(=しょうしょう))(注2)として雁「群」(がんぐん)を送る
朝来(てうらい(=ちょうらい))(注3)庭樹(ていじゅ)に入り
「孤」客(こかく)最も先に聞く
【意】「秋風のうた」
何処(どこ)からか秋風が吹き初(そ)めもの寂しげな音をたてて、雁(かり)の群れを送っている
(秋風は)朝方庭の木々の間を吹きわたって来たが
孤独な旅人の私がその(秋風の)音を最初に聞きつけた
雁「群」と「孤」客が対照を為し、作者の孤独感を強調している
(注1) 秋風の引:秋風のうた /「引」は、「吟」「歌」「曲」「行」等と同じく詩歌を表す語
(注2) 蕭蕭:寂しげな音(注3) 朝来:朝方 /「来」は助字 / 時間を表す語の後につき、その頃合いの意味を表す
(注4) 孤客:孤独な旅人 / 此処では作者自身を表す
※ ※ ※ ※ ※
今週末の08月12日(土)【時習26回3-7の会/クラス会】で再会しましょう!
では、また‥〔了〕
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