先ず最初の話題は、去る08月05日(土) 18時00分~豊橋駅東口至近にある和風フランス料理レストラン King’s Kitchen にて開催された【時習26回3-7の会クラス会】& 時習26回【3-2】【3-3】【3-4】合同生ミニ学年同期会 開催報告についてである。
開始予定時刻18時00分を若干過ぎて予定8人全員が勢ぞろいして、楽しいクラス会&ミニ学年同期会を開催した。
【2637の会】membersは、金子T久君、千賀S始君、林K子さん、牧野M孝君と小生の5人、それに【3-2】中嶋Y行君、【3-3】松井S記君、【3-4】宮下K一君の3人が合流した。
松井君は、カナダのバンクーバーからの里帰りだ。現在、ブリティッシュコロンビア大学法学部教授という要職に就いている。
一次会は20時30分迄あっという間の楽しいひとときを過ごした。
二次会は【2637の会】members 5人で、駅前のスタバで1時間近くこれも楽しいひとときを過ごした。
[01]参加者8人全員の会場内での写真01
[02]同上02
[03]同上03
[04]参加者8人ッ全員のクラス会終了後に会場入口にて
[05]二次会は【3-7】クラス会members 5人にて01
[06]同上02
[07]一次会会場 King’s
Kitchen Main Dish〔魚〕
[08]同上〔肉〕
■続いての話題は、松尾芭蕉の『猿蓑』〔巻之三〕『秋』の最終回〔第3回:49~76句〕についてである。
【松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之三〕『秋』〔第3回〕】
猿蓑集 巻之三 秋
仲秋の望、猶子を送葬して
49かゝる夜(よ)の月も見にけり野邊送(のべおくり) 去来【意】甥の野邊送りに満月が出ている / 今夜は中秋の名月 / 悲しみにくれる月夜だ
【解説】向井去来の兄元端の息子 向井俊素は元禄03(1690)年08月14日没/翌15日夜(中秋の名月)が野辺送りだった
50明月(注1)や處(ところ)は寺の茶の木(き)はら 膳所 昌房
【意】寺に隣接地に茶畑が広がっている / 今年はこの寺でその茶畑の上空に出ている名月を鑑賞だ
(注1) 明月(めいげつ):名月に同じ / 中秋の名月のこと
51月見れば(注1)人の砧(きぬた)にいそがはし(注2) 羽紅
【意】中秋の名月を見る頃にもなると、何処の家庭でも新年に向けての準備作業である「砧打ち」に忙しくなって来る(注1) 月見れば:「月見」は、一般に旧暦八月十五日(【中秋の名月】)と旧暦九月十三日(【後(あと)の月】)を指す
此処では、前掲の2句が、第49句「中秋の望」と第50句「明月(=中秋の名月)」の様に「中秋の名月」を指しているので、本句の「月見」も「中秋の名月」を言っている
(注2) 砧にいそがはし:「砧打ちに忙しい」ことで、これは以下の理由からである
昔から我国では《秋》の季節に「《砧》を打つ」ものとされ、《秋》の風物詩となっている。
《砧》は「俳句」では《秋》の季語。
では、何故《砧》は《秋》の風物詩なのか?
それは、四季のある我国に於いて、1年 term の生活 cycle を考えると納得がいく
即ち、洗濯は、通常毎日行うものであるが、綿入れや布団等は来たる《新年》に向け、《夏》→《秋》→《冬》と時間をかけて半年かけて洗濯する
《夏》:「糸を解く」→「中の綿を出す」→「布地を洗う(=汚れを落とす)」→
《秋》:「(洗った布地に)《砧》を打つ(=皺を延ばす & 艶を出す)」→
《冬》:「(綺麗になった布地に再び)綿を入れ裁縫」→「(元の)綿入れ・布団」にする
他の着物も同様で、《夏》《秋》《冬》の作業を通じて、清々しさを取り戻した着物等を用意して正月を迎えたのである。
砧を詠んだ松尾芭蕉の秀句に「 声澄みて 北斗にひびく 砧哉 (『都曲(みやこぶり)』池西言水(ごんすい(1650-1722))(元禄02(1689)年編))」がある
【意】秋の夜空の澄み切った空気の中を、砧を打つ音が冴え/\と響き亘り、北斗七星の光も透き通る様に見える
52僧正(そうじやう(注1))のいもとの小屋のきぬたかな 尚白
【意】砧の音が聞こえて来るが、あれはもしや僧正遍照が昔契った女の打つ砧の音ではないか(注1) 僧正:僧正遍照(816-890 / 平安前期の僧・歌人 / 六歌仙・三十六歌仙の一人
俗名 良岑宗貞(よしみねのむねさだ) / 桓武天皇の孫
父 良岑安世は、桓武天皇の子乍ら母の出自が低く親王宣下を受けらず
※ 僧正遍照(良岑宗貞)略歴
承和12(845)年 仁明(にんみょう)天皇(810-850.05.06(在位833-850.05.04))の蔵人から従五位下・左兵衛佐
嘉祥02(849)年 蔵人頭
嘉祥03(850)年 正月に従五位上に昇叙するが、仁明天皇崩御により出家し、比叡山延暦寺に入山〔第3代天台座主慈覚大師円仁(794-84)・智証大師円珍(814-891)に師事〕
仁和元(885)年 僧正
在俗時代の色好みの説話が『大和物語』『今昔物語』に残されており、本句は此の故事に因む
(注1) 初潮:陰暦八月十五日の大潮(おほしほ)のこと / この時が年間最高潮位になる
54一戸(いちのへ)(注1)や衣もやぶるゝこまむかへ(注2) 去来
【意】遥々奥州一戸から献上された駒だ / その馬を引いて来た者の衣服がボロボロに破れて仕舞う程の長旅だったのだ(注1) 一戸:現 岩手県二戸郡一戸町 / 南部馬の産地
(注2) こまむかへ:朝廷が諸国から馬を献上させ、それを朝廷の役人が逢坂の関まで迎えに行く行事で、八月十六日に行われた
この時代、朝廷へ献上する馬は信州佐久の望月の駒だけとなっていた
此の句は遠国の奥州一戸(いちのへ)からも献上されたとして作られた
それは恰も逃げていく馬が鬣(たてがみ)を靡(なび)かせ走り去っていく様だ
56澁糟(しぶかす)やからすも喰はず荒畠(あらばたけ) 正秀
【意】渋柿の渋を発行させた渋糟を畑に撒いたら、流石の烏も食べない
(注1) 渋糟:渋柿の渋を発酵させた糟
57あやまりてぎゞう(注1)おさゆ(=ふ)る鱅(かじか)(注2)哉(かな) 嵐蘭
【意】鰍(カジカ)だと思って捕まえようと押さえたら、間違ってギギュウだったので背鰭(びれ)にある棘(トゲ)に刺されてしまった(注1) ぎぎゅう:ナマズ目ギギ科に属する淡水魚で背中に棘があって刺されると痛い / ギバチ、ギンギョともいう
(注2) 鱅(かじか):正しくは「鰍」と書く / 川に生息する鯊(ハゼ)の仲間で美味
一鳥不鳴山更幽(注1)
58物(もの)の音(おと)ひとりたふるゝ案山子(かかし)哉(かな) 凡兆【意】静寂な山の中でモノが倒れる音がした / 案山子(かかし)が倒れた音かな‥
【解説】本句は、王安石(1021-86)作『鐘山即事』のparody
(注1) 王安石の詩句『鐘山即事』の結句「一鳥不啼山更幽 / 一鳥啼かず 山更に幽なり」を前書にしている
鐘山(注1)即事 王安石 (1085年作)
澗水無声繞竹流竹西花草弄春柔
茅簷相對坐終日
一鳥不啼山更幽
茅簷(ぼうえん)(注3)相対(あいたい)して 坐すること終日(しゅうじつ)
一鳥(いっちょう)啼かず 山更に幽なり
茅葺きの庵で鍾山に一日中対座していると、
鳥の鳴き声一つせず、山は愈々静まり返っている
(注1) 鍾山(しょうざん):金陵(現 南京)の東北にある名山
/ 別名「紫金山」
(注2) 澗水(かんすい):谷川(注3) 茅簷(ぼうえん):茅葺(かやぶき)の家の軒
59むつかしき拍子(ひゃうし)も見えず里神樂(さとかぐら)(注1) 曾良
【意】鄙びた里神楽の拍子は凝った処もなく単調なものであるよ【解説】作者の河合曾良(1649-1710)は、寛文08(1668)年頃、桑名藩主 (久松)松平康尚(1623-96)に仕えた後、天和元(1681)年致仕
江戸の吉川惟足(これたり(1616-95))吉川神道を学ぶ
こうした経歴から、曾良が神楽にも造詣が深かったことは想像に難くない
そんな曾良が聴いた里神楽の拍子はかなり単調だったことだろう
(注1) 里神楽:北村季吟(1625-1705)『増山井』(寛文07(1667)年刊)では11月『冬』の部に出す
猿蓑編者は秋祭りの「里神楽」と見たか
『猿蓑さがし』は「秋季」としたのは編者の誤りかと述べている
60旅枕(たびまくら)鹿のつき合(あふ)軒(のき)の下(した) 江戸 千里
【意】此処は旅先、奈良の旅籠であるその旅籠の軒端下迄、雄鹿が遣って来て雌をめぐって角突き合せて争っている
(注1) 粕谷千里(かすや ちり(?-1716))は、『野ざらし紀行』で芭蕉に同道した大和竹内村の人
61鳩ふく(注1)や澁柿原(しぶがきはら)(注2)の蕎麥畠(そばばたけ) 珍碩
【意】(蕎麦の)白い花が咲き乱れる渋柿原の蕎麦畑で、誰かが鳩笛を吹いている【解説】『鳩吹く』を、幸田露伴は「ただ是れ鳩鳴くと解して一句十分おもしろし」(評釈 猿蓑(P.118))と述べている
その場合、「誰かが鳩笛を吹いている」の代わり「鳩が鳴いている」となる
【季語】渋柿:秋 / 因みに、「蕎麦の花」なら「初秋」だが、本句の蕎麦(畠)では季語にならない
(注1) 鳩ふく:手を合わせて吹くことで、その音色は鳩の鳴き声に似ている(=鳩笛)
(注2) 渋柿原:渋柿の木の生えた所
62上行(うへいく)と下(した)くる雲や穐(あき)の天(そら)(注1) 凡兆
【意】天空を上へ下へと雲が風に流されていく / 澄み切った清々しい秋の空だ【解説】前書がないので、作者が本句で秋の空の雲の様子をどの様に表現したかったのか、その機微が解らない
(注1) 穐(あき)の天:「天」は「そら」と読むべし〔猿蓑さがし〕
63鮬(せいご)(注1)釣(つる)比(ころ)も有(ある)らし鱸(すずき)つり 半残
【意】スズキ釣りは、スズキという魚が出世魚なので、セイゴ(と呼ばれる幼魚時代のスズキ)を釣ることもあるらしい(注1) 鮬(せいご):鱸の幼魚(詳細(注2)参照)
(注2) 鱸(すずき):スズキ目スズキ科に属する大型肉食魚 / 英語名:Sea Bass
成長につれて呼称が変わる出世魚〔但し、【関東】【東海】【関西】で夫々呼び方が一部違う〕
【関東】[1]セイゴ:1~2年 全長20~30㎝ / [2]フッコ:2,3年~ 全長40~60cm / [3]スズキ:4,5年~ 全長60㎝超の成熟魚
【東海】[1]セイゴ:60㎝程度迄を一律に / [2]マダカ:60㎝超の成熟魚
【関西】[1]セイゴと[3]スズキは同じ /【関東】の[2]フッコ の代わりに「ハネ」と呼ぶ
64ゐ(=い)なか間(ま)(注1)のうすべり(注2)寒し菊の宿 尚白
【意】菊を飾った座敷の薄縁(うすべり)茣蓙(ござ)が京間の長さに足らず板の間が見えるのは折からの晩秋の寒さを一層かきたてる(注1) ゐなか間:畳の呼称で、関東間(1間(けん)=柱間の寸法六尺)のこと / 京間(同=同六尺三寸乃至五寸)に対して呼ぶ
(注2) 薄縁(うすべり):布の縁(ふち)のついた茣蓙(ござ)のこと / 薄縁畳(うすべりだたみ)となったのは後世になってから
65菊を切る跡(あと)まばらにもなかりけり 其角
【意】今を盛りと沢山咲いている菊だから、僅かばかり切った位では全く寂しくならないよ【解説】芭蕉の「菊の後(のち)大根の外(ほか)更になし『蕉翁句集』(元禄04(1691)年)」を意識した句とみられる
芭蕉は、精神性の高い菊が無くなったの後に世俗的な大根があることを述べ、此の句に諧謔性を持たせたことが芭蕉の妙
「更になし」という否定的表現が、強い肯定を表していることも興味深い
【解説】ヒワはスズメよりやや小さく、色々な種類がある
マヒワは、全長12.5cmと雀より小さい / 冬鳥:秋、群をなして渡来 / 身体の色:ほぼ全体が黄色で、頭頂は黒色 / 鳴き声:ビュイーン、チュウイーンと澄んだ声で鳴く
カワラヒワは、全身13.5cm / 留鳥 / 身体の色:黄色がかった暗緑茶色 / 鳴き声:チリチリコロロ、ビーンと澄んだ声で鳴く
(注1) 土手の立ち木にヒワが来てさえずっている。秋の千切れ雲が青空を横切って流れていく。
[09]マヒワ
[10]カワラヒワ
【解説】本句は、古歌「昨日(きのふ)こそ早苗(さなへ)とりしかいつのまに 稲葉(いなば)そよぎて秋風ぞ吹く」(古今集 巻四 秋風上172 よみ人しらず)(【意】苗代の早苗をとって田植えをしたのは、つい昨日だと思っているのに、いつのまにかもう、成長した稲葉をそよがせて秋風が吹いている)を踏まえている
68稲(いね)かつぐ母に出迎(でむか)ふうなひ(注1)哉(かな) 凡兆
【意】刈った稲を背負って帰って来た母親を、子供たちが喜び勇んで駆け寄って出迎える【解説】秋の農家の心温まる心風景
(注1) うなひ(=うなゐ(=髫髪)):子供の、髪の毛を首筋迄垂らして切り揃えた髪型 / うなゐ児、幼い子供
自題落柿舎
69柿(かき)ぬしや梢(こずゑ)はちかきあらし山(やま) 去来【意】柿の持ち主はこの私(=去来)だ / 柿の木の梢の向こうに見える嵐山が見える / 柿の実を大量に落としたあの嵐は、その嵐山から吹いて来たのだ
【解説】向井去来の嵯峨野の別邸落柿舎命名の由来は『落柿舎記』に、「さがに一つの古家侍る。そのめぐりに柿の木四十本あり。〔中略〕ことし長月のはじめかしこにいたりぬ。折ふしみやこよりあき人の来りて木立に買求めなんとて、一くわん文さし出し悦かへりぬ。予は猶こゝにとどまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ声、よすがら落もやまず。明ければ商人の見まい来りて、我むかふがみのころより、しらが生るまで此事をわざとし侍れど、かくばかりおちぬる柿を見ず。きのふのあたひかえしくれ給ひてんやと侘ぬ。いと便なければゆるしやりぬ。此ものゝかへりに友だちのもとにせうそこおくるとて、みづから落柿舎の去来とはかきはじめける」とある文に添えて出す
70しら浪(なみ)やゆらつく橋の下(した)紅葉(もみぢ) 賀刕(=賀州)小松 塵生
【意】揺れる吊り橋を渡り乍ら下に目を遣ると深紅の紅葉(もみぢ)が見え、更にその下を白浪を上げて川が流れている
71肌(はだ)さむし竹切(きる)山のうす紅葉(もみぢ) 凡兆
【意】竹を切り出す時期は、肌寒くなって来たこの時期がよいそれは山の紅葉が始まる頃だ
【解説】竹の伐採時期は、竹の水揚げが止まる秋口から冬迄の期間
少し肌寒くなった旧暦八月以降が時期とされる
神田祭
さればこそひなの拍子のあなる哉 神田祭(注1)の鼓うつ音 蚊足(ぶんそく)(注2)拍子さへあづまなりとや
72花すゝき大名(だいみゃう)衆(しゅう)をまつり哉(かな) 嵐雪
【意】その東(あづま)の地である武蔵野の花薄(すすき)は日本中の大名達を集めたのだぞ【解説】幸田露伴は『評釈 猿蓑』で本句について以下の様に評している /「前書の「さればこそ」より「鼓うつ音」迄、狂歌にはあらず、俳諧連歌の内の二句なるべし / 拾遺集 巻七、物名、したゞみ、よみ人しらず(小生【注】:413 / 前書 しただみ(注3)) 、吾妻(あづま(=東))(注4)にて養(やしな)はれたる人の子は 舌(した)だみて(注5)こそ物はいひけれ (小生【注】:【意】東国で養育された子女は、訛(なま)って物を言うことだ) / 吾妻(あづま)はすべて鄙びたりと云はれるれど、吾が神田祭は、といふ下ごゝろの前書にて、武蔵野の花すゝき如是盛んに、天下大名衆如是従ふ、多くの大名衆の祭禮に出立警固する花すゝきとは云はねど、それとなく相比陰喩の文法もて巧に云現はしたるなり / 後の交際俳諧、挨拶俳諧、此等の句を學びて漸くむづかしくおもしろからぬものとなれり
又、和田蚊足は、服部嵐雪の近所に住んでいた(←隣家という説も) / 京の人からか江戸の神田祭を「矢張り思った通り田舎祭の拍子はこんなものだろう / 神田祭の太鼓の打つ音も間が抜けている感じだよ」「太鼓の拍子さえ東訛りになってるじゃあないか」と馬鹿にして詠んだもの
本句は、これに対し服部嵐雪が応えて詠み返したもの
(注1) 神田祭:江戸神田明神の祭礼 / 麹町(=糀町)山王祭(=日枝神社大祭)と隔年に九月十五日(山王祭は六月十五日)に開催 / 大名衆の警固武士達の多くの槍を花すゝきに例えたか
(注2) 和田蚊足(ぶんそく):向井去来と芭蕉の出会いが、京都生まれの江戸俳人の和田蚊足が去来と其角を合わせ、その後其角の紹介で始まったとされるので、蚊足は京都出身者とされるが、雪中庵雀志『註解玄峰集』に「此蚊文は上州舘林の城主秋元家の藩士にして嵐雪の友人なり」と注されている / 何方が正しいか小生には解らない
(注3) しただみ:小螺、シタダミ、キシャゴ、小型巻貝の総称とも
[11]シタダミ
(注4) 吾妻:東、あづま、東国
(注5) 舌(した)だみて:言葉が訛(なま)ること
/ 第4句「舌だみてこそ」に「シタダミ」をかけていると
73行秋(ゆくあき)の四五日(しごにち)弱るすゝき哉 丈艸
【意】此処四、五日、急に薄(すすき)が弱って来た / 愈々秋も終わりかな
74立(たち)出(いづ)る秋の夕(ゆふべ)や風(かぜ)ぼろし(注1) 凡兆
【意】秋が寒くなって夕方表に出たら風邪を引いて風ぼろし(≒風疹)に罹って仕舞った【解説】本句は、「寂しさに宿を立ち出でて眺むれば いづこも同じ秋の夕暮れ / 良暹法師(『後拾遺集』秋・333(小倉百人一首70))を元にしたparody
(注1) 風ぼろし:風疹 / 熱の後等に冷たい風に当たると出来る一種の蕁麻疹(じんましん)の様なもの
75世の中は鶺鴒(せきれい)(注1)の尾(を)のひまもなし 同
【意】世の中の男女の睦み事はセキレイの尻尾のように忙(せわ)しないことだよ(注1) セキレイ:セキレイ属/日本では、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイの3種が大半
日本書紀に、日本神話の国産みの一つとして、伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)が性交の仕方が解らなかった処にセキレイが現れ、セキレイが尾を上下に振る動作を見て知ったという異伝に関する記述がある / 婚礼の調度に鶺鴒台があるのはそれに由来する / 恋知り鳥(=恋教え鳥)とも呼ばれる / セキレイの交尾が短時間で素早い為、真剣な恋には譬えられない
[12]ハクセキレイ
76塩魚(しほうを)の歯(は)にはさかふ(注1)や秋の暮 荷兮
【意】塩魚(しおざかな)を食べたら歯に挟(はさ)まって取れない秋の暮のこと
/ 人生の秋も暮れようしていて寂寥感が漂う(注1) はさかふ:挟(はさ)まる
【小生comment】
今回の『猿蓑』〔巻之三〕『秋』〔第3回〕で、秋の巻は終わり。次回は、『猿蓑』の〔巻之四〕『冬』になるのですが、up するのはやはり「冬」を考えているので、今秋11月07日『立冬』頃にしたい。
それ迄の間、芭蕉が貞享04年08月14日(新暦1687年09月20日)に江戸を出立し、08月25日(同10月01日)に参詣した『鹿島紀行(鹿島詣)』をお伝えするつもりである。
次号《会報》以降もお楽しみに!
■さて次の話題は、昨日08月11日(祝金)に訪れた4つの美術館〔‥浜松市秋野不矩美術館『所蔵品展/第3回「秋野不矩 画業の地平Ⅲ~陽光と灼熱の大地~』展、鞍ヶ池アートサロン『生命(いのち)の花たち~春から夏へ~』展、古川美術館『逸品セレクション【前期】』展、碧南市藤井達吉現代美術館『リアル〔写実〕のゆくえ~高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの』展‥」の企画展から、浜松市秋野不矩美術館と鞍ヶ池アートサロンの企画展についてご紹介する。
猶、鞍ヶ池アートサロンの企画展については、2017年04月21日付【時習26回3-7の会0649】にて、04月16日(日)に訪れた時のことをご紹介済である。以下のURLをご覧頂きたい。
http://si8864.blogspot.jp/2017/04/26-0649031804060408092017-0413ch-b-g.html
従って、同サロンの企画展についてはご紹介は割愛させて頂く。
【浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩 画業の地平Ⅲ~陽光と灼熱の大地~』展】
08:00 拙宅発→東名 豊川IC→新東名 浜松浜北IC→09:30 浜松市秋野不矩美術館
※ 写真の絵は、秋野不矩が主にインドで描いた傑作選集
10:00 同美術館発→新東名 浜松浜北IC→豊田東JCT→東海環状 鞍ケ池SA(ETC専用IC)→
※ 此処でaccidentが一つ‥新東名 設楽が原SAと岡崎東ICの間で乗用車3台の玉突き事故があり、通常10分程で通過出来る筈の12㎞を90分も要して仕舞った
[13]秋野不矩美術館駐車場入口付近の本企画展案内看板
[14]秋野不矩美術館外観01
[15]本企画展展示作品録とpostcards
[16]秋野不矩『女神ヤクシニー』1980年
[17]同『白い扉』1984年
[18]同『テラコッタの寺院』1984年
[19]同『廃墟Ⅰ』1989年
[20]同『廃墟Ⅱ』1989年
[21]同『ウダヤギリの僧房Ⅰ』1992年
[22]同『ウダヤギリの僧房』1992年
[23]同『民家(ブバネシュワールオールドタウンA)』1993年
[24]同『村落(カジュラフォ)』1994年
[25]同『ラージャラーニー寺院Ⅰ』1995年
[26]同『リンガラージャ寺院Ⅰ』1995年
[27]同『砂漠のガイド』2001年
【小生comment】
本展は、日本画であり乍ら、インドの太陽が暑く照り付ける情景が直に伝わって来る秋野不矩の珠玉の傑作選だった
【鞍ヶ池アートサロン『生命(いのち)の花たち~春から夏へ~』展】
12:20 鞍ヶ池トヨタ記念館着:鞍ヶ池アートサロン『生命(いのち)の花たち~春から夏へ~』展※ 写真のpost cardsは「01アルベール・ルブール(仏1849-1928)『芍薬』1907年」&「16和田英作『カーネーション』1929年」
[28]鞍ヶ池アートサロン入口
[29]本展展示作品一覧とleaflet & postcards「01アルベール・ルブール(仏1849-1928)『芍薬』1907年」&「16和田英作『カーネーション』1929年」
企画展を produce している方の審美眼も素晴らしい
12:45 同サロン発→東海環状 鞍ケ池SA(ETC専用IC)→東名 名古屋IC→第二名環 引山IC→
13:20 ラーメン陣屋着〔いつもの『味噌チャーシュー麵』を食す〕
[30]らあめん専門店 陣屋 入口
13:50 陣屋発→一般道→古川美術館へ
【後記】今日最後は、08月17日(木)駅前近くの居酒屋で、時習26回生の同期で、【1-4】classmatesの飯田H祥君【3-2】と水藤T詳君【3-6】と一献傾けた。
写真は、その時の記念写真だ。
[31]飯田君と水藤君と
※ ※ ※ ※ ※
では、また‥〔了〕
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