2017年8月11日金曜日

【時習26回3-7の会 0665】~「松尾芭蕉『猿蓑』から〔巻之三〕『秋』〔第2回〕」「07月29日:豊田市美術館『奈良美智』展→三菱東京UFJ銀行『広重/二つの近江八景』展を見て」「08月05日:大学弓道部 第17・18・19代同窓会 開催報告」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3-7の会 0665】をお送りします。
 先ず最初の話題は、松尾芭蕉の『猿蓑』〔巻之三〕『秋』の〔第2回:27~48句〕である。

【松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之三〕『秋』〔第2回〕】

 猿蓑集 巻之三     秋

  元禄二年翁に供(ぐ)せられて、みちのくより三越路(注1)にかゝり行脚しけるに、かゞの國にていたはり侍りて、いせまで先達(さきだち)けるとて
27いづくにかたふれ臥(ふす)とも萩の原  曾良
【意】私(=曾良)は、師翁に別れを告げ先立つが、病身なので旅の途中に何処かで行き倒れになるかもしれないが、一向に構わない
 何となれば、今の季節、其処はきっと萩の花が咲く美しい萩野原だろうから
【解説】芭蕉『奥の細道』山中の条に「曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に」として、「行行(ゆき/\)てたふれ伏(ふす)とも萩の原 / 曾良」の句形でみえる
 この曾良の句は、「いづくにかねぶりねぶりてたふれ伏さむと思ふ悲しき道芝の露〔【意】仏の教えに目覚めない儘いたずらに夜々の眠りを重ね、果てはどの路傍に倒れ伏すのだろうか、そう思うことが悲しい、道芝の露の様に儚い此の身であることだ〕」(西行/山家集)を踏まえた句
  『曾良旅日記』の「俳諧書留」にも『猿蓑』と同じ「いづくにか‥」の句形で所載されており、此方が初案 /『奥の細道』の「行行て‥」は芭蕉が改めたものとみられる
(注1) 三越路:越後・越中・越前

28桐の木にうづら鳴(なく)なる塀の内  芭蕉
【意】高い塀で囲まれた立派な屋敷内に高く聳える見事な桐の木が見える
 その塀の中から鶉の鳴き声が聞こえて来る
【解説】元禄03(1690)年作 / 作句の場所は不明だが、「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」(藤原俊成『千載集』)を本歌としている為、京都での作か / 又、同年九月六日付、江戸勤番中の菅沼曲水宛書簡に「うづら鳴なる坪の内と云(いふ)五文字、木ざハしやと可ㇾ有を珍夕にとられ候」とある / 大阪蕉門の濱田洒堂(=珍夕(?-1737?))が「椑柿(きざはし)や鞠(まり)のかかりの見ゆる家」(江鮭子(あめご))の句を作っていた為改案したとある
 山本健吉は『芭蕉/全発句』で以下の様に述べている
 藤原俊成の「夕されば‥」の歌を本歌としている / この歌は荒蕪の感じを詠んでいる / 萬葉集では「鶉鳴く」は、「古(ふ)りにし里」の枕詞で、矢張り住み棄てて、草ぼうぼうの荒れた里の意味 /その語感の伝統が、俊成の歌を経て、芭蕉の此の句迄及んでいる〔中略〕退転した豪家で、破れた築地塀の中に鶉が棲む迄に草が生い茂っているのである〔中略〕当世風から逃れ、中世的な世界を振り返った芭蕉の姿勢が其処に見える

29百舌鳥(もず)なくや入日(いりひ)さし込む女松原(めまつばら)(注1)  凡兆
【意】百舌鳥(もず)が鳴く秋の季節の夕暮れ間近の情景
 入日が真横からさし込んで来て、赤松林の松の赤い幹を照らし出している
(注1) 女松原(めまつばら):赤松林

30初雁(はつかり)に行燈(あんどん)とるなまくらもと  亡人 落梧(注1)
【意】初雁の渡る秋の夜は人恋しくうら寂しい気分だ
 だから枕もとの行燈は持って行かないでその儘にして置いて欲しい
(注1) 落梧:岐阜の商人、安川助右衛門 / 元禄04年05月13日没

  堅田にて
31病鴈(びょうがん)の夜寒(よざむ)に落(おち)て旅(たび)ね哉(かな)  芭蕉
【意】晩秋の一夜、私は病を得て堅田の落雁の地で旅寝の夜を過ごしている
 その心境は、病雁が一羽群れから外れて湖に落ちていく場面と重なり合う
【解説】元禄03(1690)年9月26日付、茶屋与次兵衛(昌房)宛 芭蕉書簡に「昨夜堅田より致帰帆候。〔中略〕拙省散々 風引候而、蜑(あま)の苫屋(とまや)に旅寝を侘て風流さまざまの事共に御坐候」として、此の句を報じている
 琵琶湖西岸、堅田は近江八景の一つ「堅田の落雁」で有名
  『本朝文選』所収、千那の「近江八景ノ序」等にも、此の句の病雁を音読しており、句調からも、音読を可とする
  『猿蓑』編撰に際し、次の句「海士(あま)の屋は‥」と並べ、去来は此の句「病雁の‥」を採り、凡兆は次の句を推し二人の意見が対立、芭蕉に乞うて、二句共に入集した事情を『去来抄』(先師評)は伝えている 〔以上、宮本三郎 校註「ひさご・猿蓑」〕
 又、此の句は其角の『枯尾花』に「病雁(やむかり)のかた田におりて旅ね哉」
 更に又、義仲寺発行の『諸国翁墳記』には「夜寒塚 江州堅田本福寺ニ在 / 角上建」の詞書に続き、「病雁の堅田におりて夜寒哉」とある

32海士(あま)の屋(や)は小海老(こえび)にまじるいとゞ(注1)哉(かな)  同
【意】漁師の貧しい家に入ったら、獲ったばかり小海老の籠の中にエビコオロギ(竈馬(カマドウマも))も一緒になって飛び跳ねていた
【解説】この句は嘱目吟(注2) /「海士の屋(=海士の苫屋)」の叙情性(注3)をパロディー化した軽みの代表作の一つ
(注1) いとゞ:エビコオロギ、カマドウマ(竈馬)
(注2) 嘱目吟(しょくもくぎん):俳諧で,即興的に目に触れたものを吟ずること
(注3)「海士の屋(=海士の苫屋)」の叙情性:見渡せば花も紅葉もなかりけり「浦の苫屋」の秋の夕暮 (藤原定家/新古今和歌集) 【意】見渡してみれば、美しい「桜花」も「紅葉」も此処にはない / 「海辺の苫ぶきの粗末な小屋」の辺りの秋の夕暮れは
 三夕の歌の一つに上げられる藤原定家の歌にも「浦の苫屋」という言葉で「海士の苫屋」の抒情性を詠んでいる

  加賀の小松と云(いふ)處(ところ)、多田の神社の宝物として、実盛(さねもり)(注1)が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有
  遠き事ながらまのあたり憐(あはれ)におぼえて
33むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす  芭蕉
【意】斎藤別当実盛の遺品の兜を見て、実盛の最期の話を思い出した
すると、コオロギが一匹、兜の下で寂しそうに鳴いていて、いたわしさが胸に迫って来る
【解説】芭蕉の秀句としてつとに有名 / 北枝編『夘辰集』(元禄04年刊)に、上五「あなむざんや」とあるのが初案形 / 但し『去来抄』(修行)には、「行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすといふ句あり。後にあなの二字を捨らる」と見える
(注1) 実盛:斎藤別当実盛 / 初め源義朝に仕え、のち平宗盛に仕えた / 寿永02年、加賀篠原の合戦で討死 / 享年73歳 / 木曽義仲の臣、樋口二郎がその首実検に召された時のことを謡曲『実盛』には「樋口参り、たゞひと目見て涙をはらはらと流いて、あな無慚やな斎藤別当にて候ひけるにや」とある

34菜畠(なばたけ)や二葉(ふたば)の中の虫の聲(こゑ)  尚白
【意】菜畑で、菜葉を摘んでいると、菜葉の中の方から虫の音が聞こえて来る / 矢張り「秋」だなぁ
【季語】虫の聲:「三秋」/季語を言えば、「菜畠」「二葉」共に春の季語だが、此処では「虫の聲」が主題の為、秋の句として掲出

35はたおり(注1)や壁に來て鳴(なく)夜(よ)は月よ  風麥
【意】ウマオイが家の壁に来て「スーイッチョン」と鳴いている / ウマオイが鳴く夜は月が出ていて美しい秋の夜である
(注1) はたおり:「はたおり」はキリギリスのこと / 但し、此の句でいう「はたおり」は「馬追(ウマオイ)(バッタ目キリギリス科)」のこと /「スーイッチョン」という鳴き声が馬子が馬を追う声に似ていることからこの名が付いた

  いせにまうでける時
36葉月(はづき)也(なり)矢橋(やばし)に渡る人とめん  亡人 千子(ちね)
【意】今は八月だから琵琶湖の湖面が荒れる / だから矢橋へ渡る舟に乗ろうとしている人に「乗るな」と言いたい
【解説】向井去来の妹千子(ちね)は去来と貞亨03(1686)年08月に伊勢参宮の折の吟
大津松本の石場から矢橋へ舟便一里(cf. 陸路瀬田橋を巡ると二里歩く)の渡しは、2月と8月 琵琶湖がよく荒れた

37三ケ月に鱶(ふか)のあたまをかくしけり  之道
【意】三日月の夜のことだった / 鱶(ふか)が海面に浮かんで来たと思ったら又直ぐ海中へ潜って仕舞った / きっと三日月を釣針と勘違いした様だ

38粟稗(あはひえ)と目出度(めでたく)なりぬはつ月(づき)よ  半残
【意】初月夜の季節(=旧暦8月初旬)にもなると粟(あわ)も稗(ひえ)も黄色く実り始める / あと十日程すれば月も素晴らしい中秋の名月になるだろうよ
【季語】「はつ月よ」:初月夜(はつづきよ) / 仲秋の初めての冴え亘る月、即ち陰暦8月2~6日頃のまだ細い月 / その後満ちてゆく月を期待して愛でる

39月見せん伏見の城(注1)の捨郭(すてぐるわ)(注2)  去来
【意】本年中秋の名月(旧暦八月十五夜の月)は、廃城となって久しい伏見城の捨郭で行おう
【解説】伏見城は、元和09(1623)年 破却されており、『猿蓑』が監修された元禄04(1691)年時点で、廃城となって70年近く経っていた
(注1) 伏見の城:伏見城 / 伏見城の歴史を以下に略記する
 文禄03(1594)年 豊臣秀吉が隠居後の住まいとして築城・入城(『指月(しづき)』伏見城)
 文禄05(1596)年完成直後、慶長伏見地震で倒壊
 慶長02(1597)年 指月伏見城から北東約1㎞の木幡山(こはたやま)に築き直された(『木幡(こはた)』伏見城)
 慶長03(1598)年 秀吉はこの伏見城内で没
 慶長05(1600)年 07月18日~08月01日 伏見城の戦いで鳥居元忠以下1,800人が討死し落城・焼失
 慶長07(1602)年 この頃、徳川家康が伏見城を再建
 慶長20(1615)年 閏6月13日(08月07日) 一国一城令
 元和05(1619)年 伏見藩廃藩(藩主内藤信正は大阪城代へ、伏見城は伏見奉行管轄となる)
 元和09(1623)年 徳川家光(1604-51)が伏見城にて将軍宣下を受けた後、一国一城令に基づき廃城となる
(注2) 捨郭(すてぐるわ):城外に築造した合戦用の前線装置で、敵に攻撃をさせて容易に敵を食い止める様に作られた郭(くるわ)(注3)のこと
 城外に郭を設け堀を掘り、普段は塀をかけず、橋をはねて置き、敵が攻め寄せても本城際に迫れない様にしたもの
(注3) 曲輪・郭・廓(くるわ):城・砦の内外を土塁、石垣、堀等で区画した区域の名称
翁を茅舍に宿して

40おもしろう松笠もえよ薄月夜(うすづきよ)  伊賀 土芳
【意】折角芭蕉翁が来訪して下さったが、もてなすものもない侘びしい庵だ
 せめて松笠が確りと燃えて、寒さを感じる様になった秋の薄月夜に趣を添えてくれるといい
【季語】薄月夜:「秋」/ うっすらと月に雲がかかった月 / 松笠:「秋」/ 二季語になっている
【解説】前書の通り、元禄03(1690)年03月11日、芭蕉は土芳の「蓑虫庵」に招かれた
服部土方(1657-1730)自筆『庵日記』元禄元年三月の条に、「十一日芭蕉翁を宿する夜」と詞書し、「おもしろう年まつ笠燃よ朧月」の句形で見える
 芭蕉が、下五を春の季語『朧月』から、秋の季語『薄月』に改作して『猿蓑』巻之三「秋」に入集したものとみられる

  加茂に詣(まう)づ / しでに涙のかゝる哉(かな)と、かの上人のたなこのやしろの神垣(かみがき)に取(とり)つきてよみしとや
41月影や拍手(かしわはで)もるゝ膝(ひざ)の上  史邦
【意】月影(=月の光)が射し込む神殿で拍手(かしわで)を打つ / その手の影が膝に洩れて映った
【解説】前書の「たなこ」は上加茂の末社棚尾の社、「たなう=棚尾(たなお)神社」の誤り
  『山家集』に「そのかみまゐりつかうまつりけるならひに、世をのがれて後も加茂に参りける。年たかくなりて四国のかたへ修行しけるに、又帰りまゐらぬこともやとて、仁安(にんあん)三年十月十日(1168年11月18日)の夜まゐり幣まゐらせけり。内へもいらぬことなれば、たなうの社にとりつきてまゐらせ給へとて、こころざしけるに、木の間の月ほのぼのに常よりも神さびあはれにおぼえて詠みける。 『かしこまる(注1)四手(しで)(注2)に涙のかかるかな 又いつかはと思ふあはれ(注3)に』」と詠んだ西行(1118-1190.03.31)の歌を parody化している
(注1)「かしこまる‥」:【意】畏まり謹んで奉る幣(へい)(注4)に涙がかかるよ
四国行脚へ出かける自分はいつ又お参り出来ることか、ひょっとしたら出来ないのではないかと思うと
(注2) 四手(しで):玉串に付ける木綿(ゆう)又は紙
(注3) あはれ:ひょっとしたら、これが最後かと思う感慨
(注4) 幣(ぬさ):神前に供える布帛(ふはく(きれ地))

  友達の、六條(注1)にかみそりいたゞく(注2)とてまかりけるに
42影ぼうしたぶさ(注3)見送る朝月夜(あさづきよ)  伊賀 卓袋
【意】明け方前の朝月夜と共に京都東本願寺へ出かける人の後ろ姿を影法師が見送っている様に見える
 仏門に入るのだろう、多分その人は‥、だから髻(もとどり)を結った髪型もこれで見おさめか?
【解説】前書の「六条にかみそりいただく」は、猿雖(注4)が東本願寺から法名を頂戴しに行ったことをいう
 又、「影法師に対して、髻(もとどり)の見おさめと思へる底意、おかしみもありて、朝まだき旅立に朝月夜とふまへたり」(猿蓑さがし)とある
(注1) 六條:京都六条にある東本願寺のこと
(注2) かみそりいたゞく:現代では「帰敬式(おかみそり)」を受けると「釋」の字を冠した二字の法名を本願寺から賜ることだが、当時は仏門に入ることか
(注3) たぶさ:もとどりを結った髪型のこと
(注4) 猿雖:本名 窪田惣七郎(1640-1704) / 俳号 猿雖 /意専 法名 / 通称 惣七 /伊賀上野の門人
 内神屋(うちのかみや)の屋号を持つ商人で、富豪 /服部土芳に次ぐ伊賀蕉門の重鎮

43ばせを葉(は)や打(うち)かへし行(ゆく)月の影  乙州
【意】芭蕉の大きな葉が風に揺れている
 それにつれて葉の表面に映っている月影も同じ様に動いている
【解説】立花北枝編『卯辰集』(元禄04年刊)に「芭蕉葉の打かへされし月夜かな」とあるのが初案か

44京筑紫(きゃうつくし)去年(こぞ)の月とふ僧(そう)中間(なかま)  丈艸(注1)
【意】今秋の名月の夜でのこと‥、仏門に入った二人は、互いに京都と筑紫の昨年の名月を鑑賞した時の様子を尋ね合った
【解説】ここに僧二人は作者丈艸と、元禄02(1689)年故郷長崎に行っていた向井去来(1651-1704)とみられる / 作句は元禄03(1690)年
(注1) 丈艸:内藤丈草(じょうそう(1662-1704)) / 尾張藩犬山領主成瀬家家臣 内藤源左衛門の長子 / 生母とは早くに死別し、継母に育てられる /元禄元(1688)年 病弱の為、致仕し、異母弟に家督を譲り、翌年芭蕉に入門 / 元禄06(1693)年 近江国松本に移り義仲寺無名庵に住す / 名 本常(もとつね) / 通称 林右衛門 / 号 丈草 / 蕉門十哲の一人

45吹風(ふくかぜ)の相手(あひて)や空に月一つ  凡兆
【意】秋風が吹く夜、この秋風に対するのは夜空に浮かんでいる月一つだけだ

46ふりかねてこよひになりぬ月の雨  尚白
【意】今日迄は何とか雨にならずに来たのに、肝心な中秋の名月の今夜についに雨が降るとはなぁ‥

47向(むき)の能(よ)き宿も月見る契(ちぎり)かな  曾良
【意】明月を見るに此の家の方角がとても良い
其処へ招かれて素晴らしい月を見られるというのも、何かの定めか、良縁が契られていたのではと、その幸いを喜んでいる
【解説】「月を詠むるによき家といふ事を向きのよき宿と云たる也。尤(もっとも)旅店とは聞こへたり。是も月を見るに深き契りのある宿にや、けふに際りてよき家に泊りたるは一入の幸也といふ意也」(猿蓑さがし)

  元禄二年つるがの湊に月を見て、気比(けひ)の明神に詣(まうづ) / 遊行上人の古例をきく
48月清し遊行(ゆぎゃう)のもてる砂の上  芭蕉
【意】歴代の遊行上人が運び込み続けて、霜が降りた様に真っ白に敷き詰められた神前の砂が月に清らかに照り映え荘厳で美しいことだ
【解説】時宗の二世遊行上人が、その昔、この神宮付近が泥檸で、参詣の人々の難儀するを見て、僧尼群衆と共に土砂を運んで泥沼を埋めて通路を開いたのが古例となり、歴代の遊行上人が廻国の折、敦賀湾の白砂を神前に運び献ずる「砂持の神事」が執り行われることを聞いて詠んだ句
 真蹟短冊の「なみだしくや遊行のもてる砂の露」が初案、服部嵐雪編『其袋』(元禄03年刊)に、「気比の宮へは遊行上人の白砂を敷ける古例ありて、この比もさる事有しといへば」と詞書して、「月清し遊行のもてる砂の露」とあるのが再案とみられる
 元禄02年には第43世尊真上人の砂持が行われた〔以上、宮本三郎 校註『ひさご・猿蓑』より〕

【小生comment】
 流石、『猿蓑』である。
 今回も数多くの秀句を鑑賞することが出来た。
 次号《会報》以降もお楽しみに!

■さて次の話題は、昨日07月29日(土) 豊田市美術館『奈良美智(よしとも)』展→ラーメン陣屋→三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/二つの近江八景』展を見て来たのでその模様についてお伝えする。

【豊田市美術館『奈良美智』展】
 以下に本展の展示目録と共に記されていた「for better or worse 奈良美智(1959.12.05- )」から、最後のphraseをご紹介したいと思う。
 作家としての自分が形成されたのは、明らかに通常よりもちょっと長い学生時代にあった。
 もちろん高校卒業までの多感な時期を過ごした青森での記憶やその風景は、自分の根底に逃れられない無意識として存在しているし、その影響は作品にも顔を出す。
 しかし、自覚的に美術という未知の世界に飛び込み、必死に息継ぎして泳ぎながらの学生時代は、自ら思考し行動する自分を作り上げてくれた。
 そんな世界への入口があった、愛知県という地での展示に大きな意味があるはずだ。
 僕は、自分の世界観を作り上げたいろいろな事象を豊田市美術館に並べてみることから始めようと思っている。
 10代の頃から集め始めたレコードや昭和風な人形たち、本棚の中の思い出深い書物。
 そして、80年代から始まる自分の絵画史だ。
 世界に散らばっている、自分が思うところの代表作をここに集めてみることにした。
 そこに最新作を加えて展示を構成する。
 1987年、県立芸大の大学院から旅立ってちょうど30年目の2017年。
 この展覧会自体が自分にとって遅すぎる卒業制作のような気もする。
 それは、これから作家としての自信と誇りを持って生きていくための決意表明でもあるのだ。

[01]豊田市美術館駐車場から美術館へ向かう途上にある本企画展看板(右)と拳母城(七州城)

[02]同美術館入口の本展看板前にて
                  
[03]本企画展の関連Goods

[04]奈良美智『The Girl with the knife in Her Hand』1991年
                  
[05]同『Under the Tree』2006年

[06]同『Midnight Surprise』2017年
                  

【小生comment】
 本展の図録は後日郵送ということの為、現時点では本展について詳細をお伝えすることが出来ない。
 9月に入ったら、図録が郵送されて来るので、到着後、改めて本展をご紹介してみたいと思っているので、お楽しみに!

【三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/二つの近江八景』展】
 豊田市美術館の次に、名古屋市東区赤塚町(赤塚交差点南西側)なる三菱東京UFJ銀行貨幣資料館で現在開催中の『広重/二つの近江八景』展を見て来た。
 本展について、本展leafletより引用してご紹介する。

[07]近江八景の位置関係を表した地図


※ 広重と近江八景 ※
 中国湖南省の同国最大の淡水湖、洞庭湖付近の名勝「瀟湘八景」に倣い、近江の琵琶湖湖畔の名勝8箇所を選んだものが「近江八景」。
 八景のtitleは、前半2字が地名、後半2字が季節や天候を象徴的に表している。

[1]「瀬田(=勢多)夕照(せたのせきしょう)」(瀬田の唐橋の夕暮れ)
[2]「石山秋月(いしやまのしゅうげつ)」(石山寺の秋の月夜)
[3]「粟津晴嵐(あわづのせいらん)」(粟津が原の松並木の晴天)
[4]「唐崎夜雨(からさきのやう)」(唐崎の松の夜雨)
[5]「比良暮雪(ひらのぼせつ)」(比良山の雪景)
[6]「堅田落雁(かたたのらくがん)」(堅田の浮御(うきみ)堂を背景に飛ぶ雁の群れ)
[7]「矢橋帰帆(やばせのきはん)」(矢橋の船着場と帆船)
[8]「三井晩鐘(みいのばんしょう)」(三井寺の鐘堂の夕暮れ)

 本展では、2つの広重の近江八景、《近江八景(栄久堂・保永堂合版 横(よこ)大判錦絵 8枚)》と《近江八景(魚屋(ととや)栄吉版 竪(たて)大判錦絵 8枚)》をご紹介する。
 前者は、天保05(1834)年、名作「保永堂版東海道五拾三次」完結直後に刊行された最初の近江八景で、近江八景の代表作。
 後者は、安政03(1856)年、広重最後の近江八景。
 猶、本展では、広重の二つの近江八景の他、森玉僊(ぎょくせん(1791-1864))が文政07(1824)年から天保12(1841)年にかけて描いたとされる「複製/名古屋名所団扇(うちわ)絵」(全22枚 浮世絵集)も展示されていた。
 又、常設展の貨幣展示cornerでは、日本最古の富本銭や和同開珎、皇朝十二銭から、天下に3枚しかないと言われる天正沢潟大判や慶長大判等の名品が展示されていた。

[08]三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館入口
                  
[09]同資料館入口脇の本展案内看板

[10]同資料館入口にて
                  
[11]本展leaflet

[12]天正沢潟(おもだか)大判
                  
[13]慶長大判


【小生comment】
 広重の『近江八景(栄久堂・保永堂合版 横大判錦絵 8枚)』(天保05(1834)年刊)は、最も有名な近江八景の錦絵である。
 この近江八景は、昔から何回も見ているが、眼前で本物を見ると、いつも心が癒される。
 近江八景の小生なりの覚え方は、「瀬(せ)田(=勢多)・石(いし)山・粟(あわ)津・唐(から)崎・比良(ひら)・堅(かた)田・矢(や)橋・三(み)井」→「せ・いし・あわ・から / ひら・かた・や・み」と「夕照(せきしょう)・秋月(しゅうげつ)/晴嵐(せいらん)・夜雨(やう)//暮雪(ぼせつ)・落雁(らくがん)/帰帆(きはん)・晩鐘(ばんしょう)」
 位置関係は、北西から反時計回りに「比良→堅田→唐崎→三井/粟津→石山→瀬田(勢多)→矢橋」→「ひら・かた・から/み・あわ・いしやま・せた・やばせ」と覚えた。

【後記】今日最後は、08月05日豊橋市内にて開催された大学弓道部時代の同窓会の写真をご紹介してお別れしたい。
 我々大18代の同期生6人に、一年上の17代の先輩2人、一年下の19代の後輩3人の計11人が集い、17時30分~20時30分の3時間楽しいひとときを過ごした。
 11人の中には、時習26回生が2人、時習27回生1人がいる。
 小生の他、飯田H祥君【3-2】だ。

  秋立ちて 六十路も暫し 二十歳(はたち)かな  悟空

[14]大学弓道部11人の全体写真01
                  
[15]同上02

[16]小生のsnap shot 01
                  
[17]同上02

[18]飯田H祥君【3-3】(左)と中村K英君【時習27回生】(中)
                  

 ※ ※ ※ ※ ※

  明日08月12日(土)【時習26回3-7の会/クラス会】で再会しましょう!
 では、また‥〔了〕

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