2017年5月28日日曜日

【時習26回3-7の会 0654】~「松尾芭蕉『嵯峨日記』〔最終回〕【元禄四年辛未卯月廿三日~晦日】」「05月27日:浜松市秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔後期〕』展→平野美術館『冨士と日本の名所』展→三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館『廣重/江戸風景ごよみ〔復刻版画〕~さまざまな版型による江戸名所』展→名都美術館『堀文子〔後期〕』展を巡って〔前偏〕」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3-7の会 0654】をお送りします。
 前《会報》にて予告した通り、前々回から、松尾芭蕉『嵯峨日記』をお届けしていますが、第3回目となる今回が〔最終回〕となります。
お届けする日記の日付は、【元禄四年辛未皐月朔日~四日】の4日間である。
 ご参考に、再度の繰り返しになるが、『野ざらし紀行』~『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
  『嵯峨日記』は、今から326年前の、元禄04(1691)0418日から0504(新暦0515日~0530)迄の17日間、芭蕉が門人の向井去来の落柿舎に滞在した折に記した句文集。
 なので、最終回の今回は、元禄040501日~04日、即ち新暦で言えば丁度326年前の今の時節 16910527日~30日の4日間の落柿舎での芭蕉の模様をお届けしていることになる。
 芭蕉の死後、宝暦03(1753)年刊。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日落柿舎へ、季節は同じだが6年歳月は流れる。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』等の傑作を生みだしている。
 以下に、時系列的に芭蕉の動きを簡単にご紹介すると‥
 貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
 貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行/「古池や蛙飛びこむ水の音」
 貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
         0814日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』へ向け江戸を出立 / 0825日『鹿島詣』成る
         1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発 / 1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬 伊賀上野に到着し越年
 貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         0413日 大阪・八軒屋久左衛門に6泊「杜若(カキツバタ)語るも旅のひとつ哉」
         0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す/ 明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」‥『笈の小文』は此処で終わる
         0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」/ 0816日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着 / 0930日 元禄に改元
 元禄02(1689) 0327 (46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発 / 千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
         0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
         0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
         0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
         0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
         0625日~0712日 越後路
         0707日 直江津・佐藤元仙宅での句会での発句「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)
         0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
         0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
         0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わる
        「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
 元禄03(1690) (47) 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る /この頃より『幻住庵の記』執筆開始
         06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在
         0619日「幻住庵」へ帰着
         0723日 大津へ移転
         その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在〔08月下旬『幻住庵の記』脱稿〕
         0927日 一泊二日で京都へ、そして伊賀上野へ発つ
         11月上旬 伊賀上野から京都へ
         1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
 元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕/3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
         03月末 奈良から大津へ移動
         0418日~0504日迄、京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごす /『嵯峨日記』執筆開始

《原文》
 朔(ついたち)
 江州(がう(=ごう)しゅう)平田(ひらた)(1)、明昌(=)(めいしょうじ)李由(りいう(=ゆう))(2)、被問(とはる)
 尚白(しやう(=しょう)はく)、千那(せんな)(3)、消息(せう(=しょう)そこ)(あり)

  竹の子や喰(くひ)残されし後の露 李由

  頃日(このごろ)の肌着(はだぎ)身に付(つく)卯月(うづき)哉 尚白

    巷岐(ちまき)(4)

またれつる(5)五月(さつき)もちかし聟粽(むこちまき)(6) 同(おなじく)

《現代語訳》
 五月一日
 近江国明昌寺の住職・李由が訪ねて来た。
 尚白・千那から手紙があった。

【意】掘り残された筍(タケノコ)が朝露に濡れている 人に食われることを免れて‥
【季語】竹の子:夏
【解説】―

【意】この頃漸く夏向きの肌着も肌に馴染んで来た / そりゃそうだ、(もう夏の旧暦)四月だからなあ‥ 尚白
【季語】卯月:夏
【解説】―

   ちまき

【意】待ちわびていた五月五日の端午の節句が近づいて来た / 前年に嫁いだ娘が漸く実家の我が家に帰って来る
【季語】五月:夏
【解説】この一句は、(1)妻が実家へ帰る日を楽しみにしている / (2)妻が夫の実家へ送り出す日を楽しみにしている / (3)妻の父親が、帰って来る娘を待ちわびている、等の諸説あり
    此処では、「尚白(=当時42)が、嫁ぎ先から帰って来る娘を待ちわびている心境を詠む」という(3)説に従う

《語句》
(1) 江州平田:近江国平田 / 現・滋賀県彦根市平田町
(2) 明昌寺李由:現・彦根市平田明照寺 / 浄土真宗西本願寺派 / 李由は第十四世住職 / 俗称 河野氏 / 字 買年、諱 通賢 / 俳諧他諸芸を好んだという / 宝永02(1705)年没 享年44
(3) 尚白・千那:既出 / 二人の手紙は恐らく李由が預かってきたものと思われる
(4) 巷岐(ちまき):「巷」の字は判読出来難く「遣」「還」と訓む諸説あり、『一葉集』では「還岐」、『芭蕉紀行文集』では「遣岐」としているが、詳細不明
(5) またれつる:和歌的表現 / 待ちに待った、待ちわびた
(6) 聟粽(むこちまき):結婚後、最初の「端午の節句」に夫が妻の実家に送る粽のこと

《原文》
 二日
 曾良(1)(そら)(きた)りてよし野ゝ(=)花を尋(たずね)て熊野に詣(まう(=もう))(はべ)るよし。
 武江(ぶかう(こう))、旧友(きういう)、門人(もんじん)のはな〔し(2)〕彼是(かれこれ)、取(とり)まぜて談(だん)ず。
 
くまの路()(3)( (わけ)つゝ入(いれ)ば夏の海  曾良
  大峯(おほみね)(4)やよしの〔ゝ〕奥を花の果(はて) 〔同〕

夕陽(せきやう(よう))にかゝりて(5)大井(おほゐ)(がは)に舟をうかべて、嵐山(あらしやま)にそふて、戸難瀬(となせ)(6)をのぼる。
 雨降()り出(いで)て、暮に及(および)て帰(かへ)る。

(7)、三日
 昨夜の雨降(ふり)つゞきて終日(しゆうじつ)終夜(しゆうや)やまず。
 猶、其(その)(8)、武江(ぶかう)の事共(ことども)(とひ)(かたり)、既に夜明(よあく)

一、四日
 宵(よひ)に寝(いね)ざりける草臥(くたびれ)に終日(しゆうじつ)(ふす)
 昼より雨降(ふり)()む。
 明日(あす)は落柿舎を出(いで)んと名残(なごり)をしかりければ、奥(おく)、口(9)の、一間(ひと ま)/\(ひとま)を見廻(みめぐ)りて、

  五月雨(さみだれ)や色帋(しきし)へぎたる壁(かべ)の跡(あと)

《現代語訳》
 五月二日、曾良が遣って来て、吉野に桜見物に行って、その儘熊野詣でした話をする。
 江戸の旧友・門人の話をあれこれと取り交ぜて話してくれた。

【意】熊野路の険しい山道を分け入って行ったら、急に視界が開けた / 其処に見えたのは、壮大な太平洋の夏の大海原だ / 曾良
【季語】夏の海:夏
【解説】―

【意】吉野から更に奥、大峯山迄(山桜の)花を求めてきたが、流石に花の季節も終わりだ
【季語】花:春 /「花」と言えば、「山桜」をさす
【解説】『猿蓑』には「はなも奥有(あり)とや、よしのに深く吟じ入(いり)て」と前書き /「奥を」を「奥の」として収められている

 夕陽が傾く頃、大井川に舟を浮かべて、嵐山に沿って戸難瀬の急流を遡った。  
 雨が降り出して、暮になったので帰った。

五月三日。
 昨夜来の雨が降り続き、一日中、更に一晩中止まなかった。
 猶、(曾良に)昨夜聞いた江戸の様子等の続きを尋ねたり聞いているうちに、いつの間にか夜が明けて仕舞った。

五月四日。
 昨夜は寝なかったので疲れて一日中横になっていた。
 昼から雨が止んだ。
 明日は落柿舎を出ようと思ったら名残惜しくなって、家の奥から表のほうまで全ての部屋を一部屋/\見て回って、

【意】屋外では五月雨が降りしきる / 此の落柿舎の壁の色紙は剥げ落ちかかっている
  「はきっと綺麗な色紙が張られていたことだろう」と華やかかりし往時を思い出すと人の世の儚さを感じる
【季語】五月雨:夏
【解説】降りしきる五月雨の季節。
    ここ落柿舎では壁が所々はがれていて、わびしい情緒を醸し出す
    『笈日記』『喪の名残』『泊船集』では中七「色帋へぎたる」を「色紙まくれし」とする
    この色紙は、茶室砂壁の腰張りにした渋色紙とする説あり
    「へ(=)(=)ぎたる」は、「剥(=)()がれて仕舞った」の意

《語句》
(1) 曾良:河合曾良(1649-1710)は、信濃国高島城下の下桑原村(現 長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる / 両親死去により伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る
   12歳の時、養父母が亡くなり伊勢国長島の住職深泉良成に引き取られる / 寛文08(1668)年頃より長島藩主 松平康尚((久松俊勝の曾孫)1623-96)に仕え、河合惣五郎を名乗る
   天和元(16819年頃に致仕し、江戸にて吉川惟足(1616-1695)に吉川神道を学ぶ / 元禄02(1689)年 松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、『曾良旅日記』を残す
   宝永06(1709)年 幕府の巡見使随員となり九州を巡る
   翌(1710)年 壱岐国可須村(現 長崎県壱岐市勝本浦)にて巡見の途上病没 / 享年62
   元禄04(1691)0304日 曾良は江戸から近畿巡遊の旅に出発
   0324日 京都着、郷里伊賀上野に居た芭蕉に会えず
        兆に芭蕉宛の手紙を託し、奈良・吉野へ
   0401日 吉野奥の院の花盛りの桜を見、高野山、熊野道を経て
   0411日 熊野本宮着、三社参詣 / その後、大阪、姫路書写山を巡り、須磨、明石を経て
   0429日 京都着
   0502日『曾良旅日記』には、
       「晴。巳の下刻、允昌へ寄て、妙心寺を見て、サガ(=嵯峨)へ趣。
        に逢う。去来居合。船ニテ大井川に遊ブ。雨降ル故帰ル。次第に雨甚シ」とある
(2) はな〔し〕:底本では〔し〕ところが磨滅して判別出来ず、前後関係から「し」を補う
(3) くまの路や:底本では「大峯」を消して「くまの路や」と改めている
(4) 大峯:大和国吉野郡十津川郷東にある山で、吉野の奥から熊野にかけての大峯山脈をいう
    最高峰は八経ヶ岳(1915m) / 修験道の霊場として著名
(5) 夕陽にかゝりて:「夕陽(せきよう)端山(はやま)にかかりて」(好色一代男)等とは言うが、「夕陽かかりて」は耳慣れない言葉 / 「夕陽の時刻にかかりて」或いは「夕陽山の端にかかりて」の意味か
(6) 戸難瀬:大井川の上流の激流 / 歌枕
(7) 一、三日:「三日」の前の「一、」は、「(ひと)つ書き」示すもの / 日記の冒頭にはよく見かけるもの / この日の「曾良旅日記」にも「一、三日。雨不止。未ノ刻、去来帰ル。云々‥」とある
(8) 其:「其」の次に落字があるかと思われる / 「其」の儘では不自然な措辞(=言葉の用法)である
(9) 奥・口:「奥」は家の奥の奥座敷 / 「口」は表口に近い方の部屋

【小生comment
 3週連続の3seriesでお届けした『嵯峨日記』如何でしたでしょうか?
 Volume感ありましたね。
 でも、芭蕉と去来達門人との交友の情景が目に浮かび、なかなか面白かったでしょう?
 次号《会報》からは、松尾芭蕉が幻住庵で書いた『幻住庵記』をお届けしたいと思っている。お楽しみに!

■次の話題は、昨日0527日に「浜松市秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔後期〕』展→平野美術館『冨士と日本の名所』展→三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館『廣重/江戸風景ごよみ〔復刻版画〕~さまざまな版型による江戸名所』展→名都美術館『堀文子〔後期〕』展」と3つの美術館と1つの貨幣資料館(&歌川広重展示館)を巡って来たので、今回と次回の2回に分けてその模様をお伝えする。
 今回は〔前偏〕として、秋野不矩美術館と平野美術館についてご紹介する。

0800分 拙宅発→〔一般道(多米峠) 48km48 1時間15分〕
0915分 秋野不矩美術館 駐車場着
0930分 美術館開館と同時に入館

【秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔後期〕』展】
 今回は、0504日に〔前期〕偏を見たことを受けて、後期偏も是非見てみたかったのである。
 100人の日本画家の作品を2回に分けてジックリ見えたのは良かった。
 正直、個人的に好き嫌いはあるので、すべ他の作品に感動することは出来なかったが、ご紹介する絵は気に入った作品群である。
 日本画の名画に共通するのは、日本人としての琴線に触れる魅力の「何か」があることだ。
 皆さんは、どの絵が気に入りましたか?

[01]秋野不矩美術館外観1

[02]同上2
                  
[03]同上3

[04]雲丹亀利彦『今福の滝〔丹後(宮津市)〕』
                  
[05]猪熊佳子『森の王(京都府最大のブナ)〔丹後(宮津市)〕』

[06]木下育應『黒谷待春〔中丹(綾部市)〕』
                  
[07]北野治男『悠悠(由良川)〔中丹(綾部市)〕』

[08]津田直樹『大野ダムを望む〔南丹(南丹市)〕』
                  
[09]池内璋美『美山〔南丹(南丹市)〕』

[10]石原貴暉『丹波路の駅(八木)〔南丹(南丹市)〕』
                  
[11]西久松芳雄『古の社 ― 薭田野神社〔南丹(南丹市)〕』

[12]西野陽一『緋の花〔山城(長岡京市)〕』
                  
[13]藤井範子『舞う〔山城(八幡市)〕』

[14]石原拓雄『聖地 笠置寺 虚空蔵菩薩磨崖仏〔山城(笠置町)〕』
                  
[15]吉村年代『秋色祇王寺〔-(京都市〕〕』

[16]大塚明『愛宕山之景〔-(京都市)〕』
                  
[17]秋野不矩『初冬』1981

[18]同『深山の春』1992
                  
1000分 同所 駐車場 発→〔一般道→ 20 40分/68㎞〕
1040分 平野美術館 着

【平野美術館『冨士と日本の名所』展】
 本展について、本展leaflet から引用してご紹介する。
 本展覧会では、世界文化遺産に登録された富士山を中心に、日本各地の名所が描かれた作品約40点をご紹介する。
 日本三名瀑の一つともされている那智の滝や浜町市内内の名所ともされている龍潭寺や中田島砂丘などの大作も併せてご紹介する。
 是非この機会に、抒情的に描かれた日本の風景や情景をご覧頂き、日本各地の魅力を再認識して頂ければ幸いである。

[19]平野美術館入口

[20]本展leaflet
                  
[21]木村圭吾(1944- )『里の春』2011

[22]桑原幸彦(1915- )『黎明不二』2012
                  
[23]横山大観(18668-1958)『霊峰不二』1953

[24]冨田渓仙(1879-1936)『石山秋月』1935年頃
                  
[25]澁澤卿(1949-2012)『晨暉秋影』2011

[26]桑原幸彦『晩秋龍潭寺』1988
                  
1120分 同所発→東名高速道路 浜松IC→名古屋IC→ 大曽根 陣屋〔106㎞/174㎞ 料金@1,690円〕
1230分 陣屋(ラーメン)

【小生comment
 今日は、秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔後期〕』展と平野美術館『冨士と日本の名所』展と、日本画ぼ美しさをご覧頂きましたが、如何でしたでしょうか?
 次回《会報》にてお届けする、三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館『廣重/江戸風景ごよみ〔復刻版画〕~さまざまな版型による江戸名所』展と名都美術館『堀文子〔後期〕』展も日本の木版画と日本画家の堀文子の作品展である。
 お楽しみに!

【後記】今日は、何年かぶりにこの時節の風物詩を詠んだ北宋の政治家で詩人の王安石の作品をご紹介してお別れする。

 初夏と言うと【麦秋】‥
【麦秋】と言うと、必ずこの詩を思い出す

   『初夏即事』 王安石(1021-86)
 石梁茅屋有彎碕
 流水濺濺度両陂
 晴日暖風生麦気
 緑陰幽草勝花時

 石梁(せきりょう)茅屋(ぼうおく)彎碕(わんき)有り
 流水 濺濺(せんせん) 両陂(りょうひ)を度(わた)
 晴日(せいじつ) 暖風 麦気(ばくき)(しょう)
 緑陰 幽草(ゆうそう)花時(かじ)に勝(まさ)れり

【意】石橋、茅葺の家、曲がりくねった川岸
 川の水は両岸の土手の間をさらさらと流れてゆく
 明るく晴れ上がった日、暖かい風が〔‥麦秋の季節の‥〕麦の香りを運んで来る
 緑の木陰、生い茂る草、(‥是等初夏の風景は春の‥)花の時よりも美しい
 
【前書】三河は昔から二毛作が盛んだった。
 麦秋の仕上げは麦刈り。
 拙宅が今建っている場所は、昔は祖父が耕していた田&畠だった。
 小生も子供時代には祖父や祖父を手伝う親父の麦刈りを手伝った。
 すると、よく雲雀が天空高くでピーチクパーチク‥ 雛を救おうとした親鳥が我々の注意を自分に向けさせようとした必死の叫びだったのだろう。
 麦刈りした畠にはその雲雀の巣があり、雛を捕まえ、すり餌を与えて飼った思い出がある。
 これも半世紀という遠い昔の懐かしい日本の農村の原風景だった‥

  麦秋や 天空に啼く 親鳥(=おや)の愛  悟空

   ※                   

【前書】初夏の晴れた日、暖かい風が〔‥麦秋の季節の‥〕麦の香りを運んで来る‥
 すると、virtual realな世界が浮かんで来た
 それは、懐かしい青春の日々の想ひ出の様だった

麦秋や 青春の中の 君 遙か  悟空〔了〕

 では、また‥〔了〕

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