前《会報》にて予告した通り、今回からは、松尾芭蕉seriesも『野ざらし紀行』終了に伴い『嵯峨日記』をお届けする。
『嵯峨日記』は、元禄04年04月18日から05月04日(新暦05月15日~05月30日)迄の17日間、芭蕉が門人の向井去来の落柿舎に滞在した折に記した句文の日記。
芭蕉の死後、宝暦03(1753)年刊。
松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日落柿舎へ、季節は同じだが6年歳月は流れる。
この間6年の芭蕉の動きを簡単にご紹介すると‥
貞享02(1685)年 12月 (42歳)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686)年 01月 (43歳) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行/「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687)年 01月 (44歳) 幕府「生類憐みの令」発布
08月14日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』へ向け江戸を出立 / 08月25日『鹿島詣』成る
10月25日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発 / 11月12日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
12月下旬 伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688)年 04月08日 (45歳) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
04月13日 大阪・八軒屋久左衛門に6泊「杜若(カキツバタ)語るも旅のひとつ哉」
04月20日 須磨・明石を廻って須磨に泊す/ 明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」‥『笈の小文』は此処で終わる
08月11日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、更科の名月を見に赴く
08月15日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」/ 08月16日 善光寺に参拝
08月下旬 江戸帰着 / 09月30日 元禄に改元
元禄02(1689)年 03月27日 (46歳) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発 / 千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
05月13日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」05月27日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
06月03日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
06月16日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
06月25日~07月12日 越後路
07月07日 直江津・佐藤元仙宅での句会での発句「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」
07月12日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
07月25日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
09月06日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わる /「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
元禄03(1690)年 (47歳) 04月06日 愛弟子の杜国死去(03月20日)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る /この頃より『幻住庵の記』執筆開始
06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在
06月19日「幻住庵」へ帰着
07月23日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在〔08月下旬『幻住庵の記』脱稿〕
09月27日 一泊二日で京都へ、そして伊賀上野へ発つ
11月上旬 伊賀上野から京都へ
12月23日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691)年 (48歳) 01月06日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕/3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
03月末 奈良から大津へ移動
04月18日~05月04日迄、京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごす /『嵯峨日記』執筆開始
[02]落柿舎 玄関前
以上の落柿舎の写真は、2014年の時習26回卒業40周年記念旅行&懇親会の事前踏査の一環で小生一人で嵐山を見て回った際のもの
《原文》
元禄四辛未(しんび)卯月(うづき)十八日、嵯峨にあそびて去來(注1)ガ落柿舎(注2)に到(いたる)。凡兆(ぼんてう(注3))共ニ来(きた)りて、暮(くれ)に及(および)て京ニ歸(かへ)る。
予は猶(なほ)暫(しばらく)むとヾむべき由(よし)にて、障子(しやうじ)つヾくり、葎(むぐら)引(ひき)かなぐり(注4)、舎中(しやちゆう)の片隅(かたすみ)、一間(ひとま)なる處(ところ)(注5)、臥處(ふしど)ト定ム。
机(つくえ)一、硯(すずり)、文庫(文庫)。
白氏(はくし)集(しふ)(注6)・本朝(ほんてう)一人(にん)一首(しゆ)(注7)・世継物語(注8)・源氏物語 ・土佐日記・松葉集(しようえふしふ)(注9)を置(おく)。
并(ならびに)、唐(から)の蒔繪(まきゑ)書(かき)たる五重(ごぢゆう)の器(うつは)にさまざまの菓子(くわし)ヲ盛(もり)、名酒一壷(いつこ)盃を添(そへ)たり。
夜るの衾(ふすま)(注10)・調菜(てうさい)(注11)の物共(ものども)、京ゟ(=より)持(もち)来(きた)りて乏しからず。
我(われ)貧賎(ひんせん)をわすれて清閑(せいかん)ニ樂(たのしむ)。
《現代語訳》
元禄四(1691)年
辛未(しんび) 四月十八日(新暦05月15日)、嵯峨に遊覧し(向井)去来の落柿舎に到着した。凡兆が一緒に来たが、夕方には京へ帰った。
私はまだ暫くの間滞在することになっていて、障子の破れを繕い、庭の雑草をむしってあり、(落柿舎)邸内の片隅の一間(ひとま)が、寝所と定まっていた。
部屋には机一つ、硯(すずり)、文庫。
『白楽天詩集』『本朝一人一首』『世継物語』『源氏物語』『土佐日記』『松葉集』が置かれている。
更に、唐(から)様の蒔絵が書いてある五重(いつかさね)の重箱に、様々な菓子が盛りつけられてあり、銘酒一壺には盃が添えられてある。
夜具や食事のおかずは、京より持ち込んであり不自由ない。
お陰で自分が貧しいことも忘れて淸閑な(風情のある)生活を楽しむことが出来た。
《語句》
(注1) 去来:向井去来(1651-1704)
/ 蕉門十哲の一人 / 儒医向井元升の次男として長崎に生まれる / 若くして武士の身分を捨て、京都西嵯峨の落柿舎に住んだ(注2) 落柿舎(らくししゃ):京都嵯峨野にあった向井去来の別荘 /渡月橋脇の臨川寺に隣接説と、天龍寺の北側一丁辺り所在説の2説あり / 現存する落柿舎は江戸時代中期の移築・再建
(注3) 凡兆:野沢凡兆(1640-1714) / 姓は越野、又は宮城、宮部とも / 加賀国金沢出身と伝わる / 京都に出て医者となり芭蕉を知り師事 / 京都蕉門の一人 / 去来と共に『猿蓑』を編集
(注4) 葎引きかなぐり:雑草を引き抜いて
(注5) 舎中の片隅一間なるところ、臥所と定む:落柿舎の一部屋を寝室にして
(注6)『白氏文集』(はくしもんじゅう):唐の白楽天の詩文集
(注7)『本朝一人一首』:林鵞峰編の漢詩集 / 天智天皇から江戸時代へ至る漢詩anthology
(注8)『世継物語』:『栄花物語』or『大鏡』を指す
(注9)『松葉集』:『松葉名所和歌集』/ 江戸前期の作品 /作者 内海宗恵(六字堂宗恵)
(注10) 夜るの衾:夜具・寝具
(注11) 調菜:副食物
《原文》
十九日 午半(うまのなかば)(注1)、臨川寺(りんせんじ)(注2)ニ詣(まうづ)or(けいス)。大井川(おほゐがは)(注3)前(まへ)に流(ながれ)て、嵐山(あらしやま)右ニ高く、松の尾(注4)里(まつのをのさと)につヾけり。
虚空蔵(こくざう)(注5)に詣(まうづ)ル人、往(ゆ)かひ多し。
松尾(まつのを)の竹の中に小督(こがう)(注6)屋敷と云(いふ)有(あり)。
都(すべ)て上下(かみしも)の嵯峨(注7)ニ 三所(みところ)有(あり)。
いづれか慥(たしか)ならむ。
彼(かの)仲国(なかくに)ガ駒(こま)をとめたる處(ところ)とて、駒留(こまどめ)(注8)の橋と云(いふ)、此(この)あたりに侍(はべ)れば、暫(しばらく)是(これ)によるべきにや。
墓ハ三間(=軒)屋(さんけんや)(注9)の隣、薮の内(うち)にあり。
しるしニ桜を植(うゑ)たり。
かしこくも(注10)錦繍綾羅(きんしうりようら)(注11)の上に起(おき)臥(ふ)して、 終(つひに)、藪中(そうちゆう)に塵(ちり)あくたとなれり。
昭君(せうくん)(注12)村(そん)の柳、普(=巫)女廟(ふぢよべう)(注13)の花の昔も おもひやらる。
うきふしや竹の子となる人の果(はて)
嵐山(あらしやま)藪(やぶ)の茂りや風の筋(すぢ)
斜日(しやじつ)(注14)に及(および)て、落舎(らくしや)ニ歸(かへ)ル。
凡兆、京より來(きたり)。
去來、京ニ歸る。
宵(よひ)より伏(ふす)。
《現代語訳》
十九日昼過ぎ、臨川寺に参詣した。大井川が前に流れて嵐山が右手に高く見え、松の尾の里に続いている。
虚空蔵(=法輪寺)に参詣する人の往来が多い。
松の尾の竹藪の中に小督屋敷という所がある。
上嵯峨・下嵯峨に全部で三つある。
どれが本物なのだろう?
例の『平家物語』にある、源仲国が小督の爪引く琴の音を聴き、馬を留めた所という駒留の橋というのがこの辺りにあるので、一先ず今見ているこの竹林の小督屋敷を本物とすべきか。
(小督の)墓は三軒茶屋の隣の竹藪の中にある。
墓標として桜を植えてある。
畏れ多くも宮中奥深く仕えて錦繍綾羅の上で起きふしした身(=小督)だが、終には草叢の中に埋もれて塵芥(あくた)同然と成り果て仕舞った。
王昭君の出身の村の柳や、巫山の神女の花の昔も思い出される。
【意】竹藪の中に葬られ、土になり、終に「竹の子」と化した人(=小督)の身の上を思うと、人の世の辛さ、むなしさを痛感する
【季語】竹の子:夏【解説】「節」は竹につながる縁語 /「うきふしや」は「憂きふし」は辛いこと / 「ふし」は「節」の連想から「竹」の縁語となる
「松尾の竹の中に」から発句「うきふしや」迄は『平家物語』巻6の「小督」の記を彷彿とさせる独立性の高い句文
【意】藪が茂っている此処「嵐山」は、風が吹くと木々が揺れて風の筋(=通り道)が目に見える様だ
【季語】:夏【解説】風が吹き、それに拠って竹藪の竹がザワザワと音を立てて揺れる / この情景が、本来見えないはずの風が、視覚的に目に見えると表現した句
夕陽が西に傾く頃、落柿舎に帰った。
凡兆が京から来た。
(入れ替わる様に)去来は京に帰った。
(そして私は)宵のうちから寝た。
《語句》
(注1) 午半(うまなかば):「午の刻」は正午12時を挟んだ午前11時~午後1時迄(注2) 臨川寺(りんせんじ):夢窓国師開基と伝わる臨済宗天龍寺派寺院 / もと亀山天皇の離宮 / 落柿舎近くにある
(注3) 大井川:嵐山・渡月橋付近で是拠り上流を保津川と言い、下流を桂川と言う。
(注4) 松の尾:嵐山の南の地名 / 歌枕
(注5) 虚空蔵:智福山 法輪寺 / 真言宗 / 本尊が虚空蔵菩薩坐像で「嵯峨の虚空蔵」と称された / 渡月小橋を西に渡って直ぐの小高い丘にある / 桜の名所
(注6) 小督:高倉天皇の寵愛を受けた寵姫 / 平清盛に退けられ、嵯峨に隠れた /『平家物語』に登場
平清盛は娘(のちの建礼門院)徳子を高倉天皇に入内させたので、小督は高倉天皇の心まどわす恋敵になる
高倉天皇の勅命を受けた天皇側近の宇多源氏仲国が小督を訪ね当てる / 再び出仕するも、終に清盛によって出家させられる
『平家物語』巻6「小督」に次の様な一節がある
「峰の嵐か松風か / 峯の嵐か松風か /尋ぬる人の琴の音か / 覚束無くは思へども /
駒を早めて行くほどに / 片折戸したる内に琴をぞ弾き澄まされたる /
控へて是を聞きければ /すこしも紛ふ可(べう)も無く /小督の殿の爪音なり」
(注7) 上下の嵯峨:嵯峨一帯を南北に分け、上嵯峨(北)〔大覚寺・清涼寺 周辺〕と下嵯峨(南)〔車折神社・法輪寺・天龍寺 周辺〕
(注8) 駒留:渡月橋につながる渡月小橋を言うというが未詳
(注9) 三軒屋:三軒茶屋
(注10) かしこくも:畏れ多くも。ありがたくも
(注11) 錦繍綾羅:錦の刺繍の入った布・綾の薄絹 / 宮中で高貴・豪華な暮らしをしていたこと
(注12) 昭君村:王昭君の出身の村 / 王昭君は前漢の元帝の後宮にあったが、間違って選ばれて匈奴に送られることとなった。悲劇の女性
『白氏文集』に「巫女廟ノ花ハ粉(べに)ヨリモ紅(くれない)ナリ / 昭君村ノ柳ハ眉ヨリモ翠(みどり)ナリ」とある
王昭君の生地 / 王昭君は絶世の美女 / 前漢の元帝の後宮にいたが、匈奴に与えられ、後に自殺
(注13) 巫女廟:巫山の神女 / 巫山は重慶市巫山県と湖北省の境にある名山 / 昔、楚の懐王の夢に女があらわれ、私は巫山の神女ですと言った / 懐王は目が覚めた後、巫山に廟を設けたという
楚の懐王が高唐(=楚の雲夢沢にあった台館)に遊んだ際、昼寝をしていると夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る神女が出て来て寵愛を受けた / 神女が「時分が旦(あした)に朝雲となり、暮(ゆうべ)に行雨となる」と言い、夢から覚めた懐王は、実際その通りになったことから、巫山に廟を建てたという故事
(注14) 斜日:日が西へ傾く頃 / 夕暮れ
《原文》
廿日 北嵯峨の祭(注1)見むと、羽紅尼(うこうに)(注2)来(きた)ル。去來京より来(きた)ル。
途中の吟(ぎん)とて語る。
つかみあふ 子共(こども)の長(たけ)や 麥畠(むぎばたけ)
落柿舎は昔のあるじ(注3)の作れるまゝにして、處々(ところどころ)頽破(たいは)ス。
中々に作(つくり)みが ゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。
彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、 畫(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松(くわいしょう)も葎(むぐら)の下(した)にかくれたるニ、竹縁(たけえん)(注4)の前に柚(ゆ)の木一(ひと)もと、花芳(かんば)しければ、
柚(ゆ)の花や昔しのばん料理(れうり)の間(ま)(注5)
ほとゝぎす 大竹藪(おほたけやぶ)を もる月夜(つきよ)
尼羽紅(あまうこう)
又や来(こ)ん
覆盆子(いちご)あからめ さがの山(注6)
去來兄の室(注7)(しつ)より、菓子・調菜(てうさい)の物など送らる。
今宵(こよひ)は羽紅(うこう)夫婦をとヾめて、蚊帳(かや)一(ひと)はりに上下(じやうげ)(注8)五人(ごにん)挙(こぞ)リ伏(ふし)たれば、夜(よる)もいねがたうて、夜半(よなか)過ぎよりを(=お)のを(=お)の起(おき)出(いで)て、昼の菓子・盃など取出(とりいで)て、暁(あかつき)ちかきまではなし明(あか)ス。
去年(こぞ)の夏、凡兆が宅(注9)に伏(=臥)したるに、二疊の蚊帳に四國の人(注10)伏((=臥)ふし)たり。
「おもふ事よつにして夢もまた四種(ししゅ・よくさ)(注11)」と、書捨(かきすて)たる事共(ことども)など、云(いひ)出(いだ)してわらひぬ。
明(あけ)れば羽紅・凡兆京に歸る。
去來猶とヾまる。
《現代語訳》
二十日、北嵯峨愛宕権現の祭を見に、凡兆の妻・羽紅尼が来た。去来が京から来た。
途中に作ったと言って語る。
【意】子供達が麦畑の中で掴み合って遊んでいる / その子供達の背丈と麦の高さが丁度同じだ
【季語】麦畠:初夏【解説】のどかな農村の初夏の風物詩を見ている様な句
落柿舎は去来が其処を購入する前の持ち主が作った儘なので、所々が崩れかかっている。
それが却って、確りと磨かれた昔の様よりも、今の衰えた様子の方に心惹かれるのである。
彫刻を施した梁や、壁画を描いた壁も風雨ですっかり破損していて、庭園の珍しい石組や見事な枝ぶりの松も雑草の下に隠れているが、竹の縁側の前に柚(ゆず)の木が一本あって、香りのよい花をつけていたので、
【意】柚子(ゆず)の花が咲き匂っている
ここ落柿舎では、かつて何人も客を饗応していたのだろう柚(ゆず)の花の馨(かおり)に、昔日の橘の馨を愛でたという往時の華やかかりし昔が偲ばれる
【季語】柚の花:初夏 / 因みに、「柚(ゆず)(の実)」は秋の季語
【解説】草稿では、「柚の花にむかししのべと料理の間」の句形で出している / そして「此(れ)自筆物の句也 / 猶、落柿舎逗留の破古書捨を見れバ、むかししのばんとも有 / いろ/\なしかへられ侍るか」と注書あり
又、『芭蕉庵小文庫』『泊船集』には「柚の花 むかしを忍ぶ 料理の間」とある
柚(ゆ)の花‥ユズの花
この句の「柚(ゆ)の花や昔しのばん」には、『伊勢物語 第60段』に出て来る「花橘」歌を典故にしている / それは以下の歌である‥
「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」
【訳】五月になるのを待ち咲く橘花の香りを嗅ぐと、昔馴染みの女(ひと)の袖と同じ香りがして、懐かしいことだ
【意】夜の静寂を破って杜鵑が鋭い声を上げて鳴いた / 竹薮の闇を破って月明かりが漏れている
【季語】ほととぎす:夏【解説】「杜鵑の鋭い鳴き声」と「黒々とした闇の中の竹藪」と「月明り」が三次元的に写実的で、scaleの大きな句
ほととぎす‥:「ほとゝぎす 鳴きつる方を ながむれば 只ありあけの月ぞ残れる」〔後徳大寺左大臣(1139-918)(俊成の甥、定家の従弟))(81番)『千載集』夏161〕などの歌がbaseにあるか‥
羽紅尼の句
【意】またいつの日かこの嵯峨の山に来よう / 苺が赤く色付いている頃にでも‥
【季語】覆盆子(いちご):初夏【解説】又やこん‥:「またもこむ」「またや見む」等の歌のrhythmを踏まえている
去来の兄の奥さんから菓子や料理の材料などの差し入れがあった。
今夜は羽紅尼夫婦を泊めて、蚊帳一張(ひとはり)に身分の上下を問わず五人一緒くたに寝たので、夜も寝辛く、夜半過ぎから各人起き出し、昼の菓子・盃など取り出して暁近く迄語り明かした。
去年の夏、凡兆の家で寝た時に、二畳の蚊帳に、四人の人が寝た。
思うことは四つ、夢も又四つと書き捨てた事などを言い出して笑った。
夜が明けると羽紅・凡兆は京に帰った。
去来は猶留まる。
《語句》
(注1) 北嵯峨の祭:愛宕山の愛宕権現の祭り / 嵯峨清凉寺内の鎮守 愛宕権現社は、元来、愛宕権現の地なので、此処を御旅所として、現愛宕権現の神輿が出る四月中の亥の日に、野々宮神社の神輿と共に二基が、上嵯峨から大覚寺地内の五社明神辺り迄巡行する / 元禄04年は四月二十日が其の日に当たった
(注2) 羽紅尼:凡兆の妻 / 元禄04年春、剃髪(=出家)して羽紅尼と名乗っていた
(注3) 昔のあるじ:去来が購入する前の落車の所有者
(注4) 竹縁:竹で組んだ縁
(注5) 料理の間:出来上がった料理の盛り付けや膳立てなどをする部屋 / 台所とは別
(注6) さがの山:歌枕 /「嵯峨の山 みゆき絶にし 芹川の 千世のふる道 跡はありけり」(後撰集) / 御幸は絶えて久しいが、自分は苺の赤らむことでもあれば、又来ようか‥という興
(注7) 去來兄の室:去来の長兄向井元端(震軒)の妻、多賀
(注8) 上下:2つの解釈がある
[1]身分の高低(此処では、芭蕉、去来、凡兆、羽紅尼、梵兆夫妻の下男の5人を指す)
[2]上手(かみて)下手(下手)に顔を突き合わせて(5人の内訳も4人は同じだが下男が屋敷守りの与平)
(注9) 梵兆が宅:元禄03年08月18日付加生(凡兆)宛芭蕉書簡参照 / 当時、凡は京の「小川さはら(椹(さわら))木町上ル」(京羽二重)に居住
(注10) 四國の人:去来の「丈草誄(じょうそうるい・じょうそうしのびごと(内藤丈草(ないとうじょうそう(1662-1704)偲び言))」に拠れば、芭蕉(伊賀上野)・去来(肥前長崎)・丈草(尾張犬山)・凡兆(加賀金澤)をさす
(注11) 夢もまた四種:「夢に四種あり」(諸経要集 全20巻 / 唐の律宗(南山宗)の僧 道世((?~683)著)の典故を踏まえる
《原文》
廿一日 昨夜いねざれりければ、心むつかしく(注1)、空のけしきも きのふに似ズ、朝より打(うち)曇り、雨折/\(をりをり)音信(おとづる)れば、終日(ひねもす)ねぶり伏((=臥)ふし)たり。暮ニ及て去来京ニ歸る。
今宵(こよひ)は人もなく、昼伏((=臥)ふし)たれば、夜も寝られぬまゝに、幻住庵(注2)にて書捨(かきすて)たる反古(ほうご)(注3)を尋(たづね)出(いだ)して、清書(せいしよ)(ス)。
《現代語訳》
昨夜寝なかったので気分がすぐれず、空模様も昨日と違って朝から曇り、雨が時々降るので、一日中眠り横になっていた。暮になって去来が京に帰った。
今宵は人もなく、昼間寝ていたので、夜も眠れない儘に、昨夏幻住庵で書きかけていた草稿を清書する。
《語句》
(注1) 心むつかしく:気分がすぐれず(注2) 幻住庵:近江石山の国分山の庵
芭蕉は菅沼曲水(すがぬま きょくすい(1659-1717.08.26)から借り元禄03年04月~08月迄此処に住み、その記録を『幻住庵の記』に纏めた
その『幻住庵の記』の清書を落柿舎でした、と芭蕉が此処で述べている通りとなる
即ち、「幻住庵にて書き捨てたる反古」とは「『幻住庵の記』の草稿」を指す
又、菅沼曲水(曲翠):定常、通称 外記、別号 馬指堂 / 近江国膳所(現・大津市)の武士、俳人
菅沼定澄の子で、徳川家康に従った菅沼定盈(さだみつ(1542-1604)上野阿保藩主)の曾孫に当たる
膳所藩(康俊系の(伊奈)本多家)で重職の中老に就く
近江における松尾芭蕉の門人group 近江蕉門の重鎮として芭蕉を経済的にも支援
江戸在府中に芭蕉の門人となる
芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄03(1690)年 近江膳所を初めて訪れた
その際、避暑地の住居として曲水の伯父 菅沼定知の別荘を手入れして芭蕉に提供したのが「幻住庵」
芭蕉は幻住庵に元禄03年4月~7月までの間滞在し、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」との書き出しで有名な「幻住庵記」を著す
享保02(1717)年 不正を働く家老 曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らもその際に切腹 / 墓所は義仲寺にある
〔以上、Wikipedia「菅沼曲水」より引用〕
(注3) 反故:紙くず / 此処では草稿を指す
《原文》
廿二日 朝の間(あひだ)雨降(あめふる)。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、
「喪(も)に居(ゐ)る者は悲(かなしみ)をあるじとし、酒を飲ものは樂(たのしみを)あるじとす。」(注1)
「さびしさなくばうからまし」(注2)と西(さい)上人(しやうにん)(注3)のよみ侍(はべ)るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる、
山里にこは又誰をよぶこ鳥 獨(ひとり)すまむとおもひしものを(注4)
獨(ひとり)住(すむ)ほどおもしろきはなし。
長嘯(ちよやうせう)隠士(いんし・いんじ)(注5)の曰(いはく)、「客(きやく)は半日(はんじつ)の閑(かん)を得(う)れば、あるじは半日の閑をうしなふ」(注6)と。
素堂(そだう)(注7)此(この)言葉を常にあはれぶ。予も 又、
うき我(われ)をさびしがらせよかんこ鳥
とは、ある寺に独(ひとり)居(ゐ)て云(いひ)し句なり。
乙州(おとくに)(注8)ガ武江(ぶかう)(注9)より歸(かへ)り侍(はべ)るとて、旧友(きういう)・門人の消息(せうそこ)(注10)共(ども)あまた届(とどく)。
其内(そのうち)、曲水(きよくすい)(注11)状(じやう)ニ、予(よ)ガ住(すみ)捨(すて)し芭蕉庵(ばせうあん)(注12)の旧(ふる)き跡、尋(たずね)て、宗波(そうは)(注13)に逢(あふ)由(よし)。
昔誰(たれ)小鍋(こなべ)洗(あらひ)しすみれ艸(ぐさ)
又いふ、「我が住(すむ)所、弓杖(ゆんづゑ)二長(ふたたけ)(注14)計(ばかり)にして、楓一本(ひともと)より外(ほか)は青き色を見ず」と書(かき)て、
若楓茶色になるも一盛(ひとさかり)
嵐雪(らんせつ)(注15)が文(ふみ)ニ
狗背(ぜんまい)の塵(ちり)にえらるゝ蕨(わらび)哉
出替(でがわ)り(注16)や稚(をさな)ごゝろに物哀(ものあはれ)
其外(そのほか)の文共(ふみども)、哀(あはれ)なる事、なつかしき事(注17)のみ多(おは)し。
《現代語訳》
朝の間、雨が降る。今日は訪ねてくる人もなく、寂しくむだ書きして遊ぶ。その言葉‥
「喪に服している者は悲しみを主とし、酒を飲む者は楽しみを主とする」
「訪(と)ふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし(訪ねる人もいない山里で、この寂しさがなければ、住むのが辛いだろう)」
寂しさがあるからこそ、住んでいられるのだと、西行上人がそう詠まれたのは、さびしさを主(あるじ)にしていたからだろう / 又、西行上人はこうも詠んだ‥
【意】山里でさびしさを主として独り住みたいと思い遣って来たのに、何故呼子鳥が盛んに鳴くのか、私は独り静かに住みたいと思っていたのに
独り住むほど面白いものは無い。
木下長嘯が曰く、「客が半日の静かさを得れば、一方、主人は半日の静かさを失う」と。
友人の山口素堂は常にこの言葉をあはれがっていた。
予も又、
【意】心憂いている私を、一層寂しくさせくれ、閑古鳥よ
【季語】閑古鳥:夏【解説】初案は、「憂き我をさびしがらせよ秋の寺」 / これを「秋の寺」から「閑古鳥」と季語を変えている /「閑古鳥」とは郭公(カッコウ)のこと
この句を詠んだ寺とは、三重県長島町の大智院 /元禄02年09月 芭蕉が『奥の細道』の旅を大垣で終え、伊勢神社遷宮に向かう途上、止泊し詠んだ「憂き我をさびしがらせよ秋の寺」が初案
とは、ある寺に独りでいた時に詠んだ句である。
夕方、京の去来から手紙類が届けられた。大津の門人乙州が江戸から帰ってきたということで、旧友・門人の手紙が沢山届いた。
そのうち、膳所の菅沼曲水の手紙に、私が住み捨ててきた深川芭蕉庵の古き跡を尋ねて、宗波に会ったことが書いてあった。
【意】誰かがこの庵の傍で小鍋を洗ったという昔日の出来事も、もう今ではその面影すらなく、ただ菫草が生えているだけだ
【季語】すみれ艸:春
【解説】「昔見し妹いもが垣根は荒れにけり茅花つばなまじりの菫のみして」藤原公実(ふじわらのきんざね(1053-1107))(堀河院百首)の典故を踏まえる昔懐かしい庵を訪ねたら菫の花が咲いていた、という情景を芭蕉を思い描いたのだろう / この庵で小鍋を洗った思い出も遠い昔の事として過ぎ去って仕舞った、という感慨を詠んだもの
又言う。
「私の住みかは、庭の広さは僅か弓二長程度の広さで、草木は楓一本より外はない」と書いて、
【意】楓の若芽がうす茶色に光っている / やがていまが盛りと燃え立つ新緑に伸びていく、それも一時のことだが
【季語】若楓:夏
【解説】—
服部嵐雪の手紙に、
【意】ゼンマイが、紫の塵と言われる蕨(ワラビ)の中から選別され塵の様に捨てられている / 正に塵中の塵として
【季語】狗背=薇=ゼンマイ、蕨=ワラビ:春【解説】—
【意】馴染んだ奉公人が雇用任期が終わり別の人に交代して去っていくのは、幼心にも別離の悲哀を心の奥底に刻み込むことになるなぁ
【季語】出替り:春【解説】—
そのほかの人々の手紙も、しみじみと心に染みて来るもの、或いは面晤(めんご(=向かい合って話すこと))する様な気にさせるものばかりだった。
《語句》
(注1) 喪(も)に居(ゐ)る者は悲(かなしみ)をあるじとし、酒を飲ものは樂(たのしみを)あるじとす:「酒を飲むものは楽を以て主となし、喪にヰるものは哀を以て主となす」(荘子・漁父篇31)による(注2) さびしさなくばうからまし:「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし」(山家集)による
(注3) 西上人:西行上人(1118-90)
(注4) 山里にこは又誰をよぶこ鳥 獨(ひとり)すまむとおもひしものを:「山里に誰を又こは呼子鳥ひとりのみこそ住まむと思ふに」(山家集)
(注5) 長嘯隠士:木下長嘯子(1569-1649)/木下勝俊/細川幽斉に学んだ歌人/豊臣秀吉の甥/若狭小浜城主/大阪の役後、剃髪して京都に隠棲
(注6)「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」:「客はそのしづかなることを得れば、我はそのしづかなるを失ふに似たれど、おもふどちのからたひはいかでむなしからん」(挙白集・山家ノ記)
(注7) 素堂:山口素堂(1642-1716) / 山口信章 / 甲州出身 / 江戸に出て漢学を林春斎に学び、俳諧は季吟門、芭蕉と特に親しい友人 / 葛飾に隠棲
(注8) 乙州:大津の門人川井又七 / 荷問屋 / 江戸・金澤などを商用で往来した
(注9) 武江:武蔵国江戸
(注10) 手紙
(注11) 曲水::記述の膳所本多藩士菅沼曲水 / この頃は江戸詰
(注12) 芭蕉庵:江戸深川の芭蕉庵 / 元禄02年3月 奥羽への旅立ちの際、人に譲ったもの
(注13) 宗波:芭蕉庵近くの禅僧で芭蕉と交流があった/江戸本所の定林寺の住職か / 貞享04 (1687)年『鹿島詣』の旅に曾良と共に同行
(注14) 弓杖二長:弓二張分長さ / 弓一張の長さは普通7尺5寸、二長は一丈(=10尺)五尺
(注15) 服部嵐雪(1654-1707):淡路出身の武家の出で、嵐雪も常陸国笠間藩主井上正利に仕えた / 延宝元(1673)年 芭蕉に師事 / 実力は宝井其角と互角と芭蕉も高く評価していた
(注16) 出替り:三月五日・九月十日に奉公人の任期が切れて交代すること /一般に「出替り」といえば春の季語
(注17) 哀なる事、なつかしき事:「哀なる」は専ら心に染みて来る感激をいい、「なつかしき」は元来「傍についていたい」という触覚的な意義がある / 「哀なる」「なつかしき」で「心身ともに感激した」となる
【小生comment】
04月18日から一週間分を記したかったが、思いのほかvolumeが多く04月22日迄で今回は諦めた。次号《会報》をお楽しみに!
■次の話題は、GW後半の05月04(木)に日帰りで、浜松市美術館『池口史子』展→浜松城天守閣→秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔前期〕』展→豊田市美術館『東山魁夷/唐招提寺御影堂障壁画』展→刈谷城跡→杉本美術館『奈良大和路
春夏秋冬 ~第1期~』展を見て来た。
そこで今日は、浜松市美術館~秋野不矩美術館迄の模様をお届けする。以下、行程順にお伝えする。
08時30分 拙宅 発→国道1号線→〔39km 55分〕
09時30分 浜松市美術館 着〔拝観料@900円(JAF card使用〕
【浜松市美術館『池口史子』展】
本展は、池口史子氏の初期から現在に至る迄の作品を年代順に紹介する。彼女の略歴は以下の通り
1943年 中国大連に生まれる
1962年 東京芸術大学美術学部油画科入学1966年 同大学大学院に進学
1976年 堺屋太一氏と結婚
2012年 立軌展出品作「深まる秋」で芸術院恩賜賞(日本芸術院)受賞
同年 芸術院会員
[04]浜松市美術博物館入口の本展案内看板
[05]池口史子(1943- )
[06]本展leaflet
[07]池口文子『お茶の水風景(An Ochanomizu Landscape)』1963年
[08]同『静物(Still Life)』1969年
[09]同『夜の窓辺(An Evening Window)』1973年
[10]同『くちなしの花(Gardenias)』1982年
[11]同『幸せだった鳥たち(Birds Once Were Happy)』1984年
[12]同『始発駅・夜明け(Terminal at Dawn)』1990-91年
[13]同『もうすぐ晴れる・I(The Promise of Sun, I)』1992年
[14]同『驟雨のあと(After a Squall)』1998年
[15]同『残された家(A Lonely House)』2000年
[16]同『白い橋(A White Bridge)』2000年
[17]同『ダウンタウン(Downtown)』2005年
[18]同『窓際のエレン(Ellen by the Window)』2001年
[19]同『中庭(Countryyard)』2008年
[20]同『大河の行処(Where a Big River Flows)』2008年
[21]同『赤い煙突』2011年
[22]同『住宅街』2014年
【小生comment】
彼女の作風は、ごく初期の時代を除くと、ヴラマンクとホッパーの作風に似ている。
印象に残る佳品が多く、興味深く見ることが出来た。
09時53分 浜松市美術館 発→徒歩70m
09時55分 浜松城天守閣 着
[23]浜松城天守閣
10時00分 同所発→〔21km/累計60㎞ 45分〕
10時45分 秋野不矩美術館 着
【秋野不矩美術館『日本画 こころの京都』展】
平成25(2013)年
京都府は、京都に息づく様々な情景を後世に伝えるべく、京都を拠点に活躍する日本画家100名を選出し、日本画「こころの京都百選」を制作。現代の日本画家に拠って表現される京都の描いた絵を、今回初めて京都府外で開催することとなり、京都に居を構えて活躍した秋野不矩の作品を加えて、秋野不矩美術館で開催する運びとなった。
[24]秋野不矩美術館 駐車場の案内看板前にて
[25]同所付近に群生していたアヤメの花
[26]本展leaflet
[27]秋野不矩(1908-2001)『平安神宮』
[28]今井文二(1945- )『丹波の恵み(丹波栗)』
[29]松本文子(1943- )『I
remember』
[30]上村敦之(1933- )『長旅のはざまで』
[31]渡辺章雄(1949- )『松花堂庭園』
[32]井上正与志(1931- )『建礼門 晴旦(京都御所)』
[33]濱田昇児(1927- )『賀茂川堤の桜と大文字山』
[34]清水信行(1950- )『古都清信』
[35]森田りえ子(1955- )『一力亭白椿』
【小生comment】
本展は、前期と後期との2回開催となるので、後期展も是非見に行きたいと思っている。
11時10分 同所発→〔一般道→新東名 浜松浜北IC→東名 豊田東JCT→東名 豊田IC→一般道→ 87km/147㎞ 1時間15分 料金@1,510円 〕
12時25分 豊田市美術館 着〔以下、次号《会報》をお楽しみに!〕
【後記】小生、昨日体調を崩して、ほぼ24時間床に就いていた。
実は昨日、慈善団体の行事で名古屋へ出かけたが、昼食辺りから急に強い悪寒がして来た。其処で、「普通じゃない」と思った小生、午後からの式典を受け付けだけ済ませ、同行の人達に詫びを入れ一人早退させて貰った。
帰宅途上で、病院に行き、体温を測ったら、此処10年来なかった高温の39.8℃だった。
診察の結果、インフルエンザではなかったが、風邪とのことだった。
点滴やいくつかの処方をして貰い、昨日の午後5時から今日の午後5時迄ずっと薬と水分補給以外寝ていたら、治った。
で、こうして《会報》【0652】号を配信出来る。
では、また‥〔了〕
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