2017年5月21日日曜日

【時習26回3-7の会 0653】~「松尾芭蕉『嵯峨日記』〔第2回〕【元禄四年辛未卯月廿三日~晦日】」「05月04日:浜松市美術館『池口史子』展→浜松城天守閣→秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔前期〕』展→豊田市美術館『東山魁夷/唐招提寺御影堂障壁画』展→刈谷城跡→杉本美術館『奈良大和路 春夏秋冬 ~第1期~』展を見て〔後編〕」「05月16日:愛知県技術劇場concert hall『サロネン指揮フィルハーモニアO.』演奏会を聴いて」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3-7の会 0653】をお送りします。
 前《会報》にて予告した通り、前回からは、松尾芭蕉『嵯峨日記』をお届けして、今日はその〔第2回〕【元禄四年辛未卯月廿三日~晦日】である。
 繰り返しになるが、イントロは前号の文言を踏襲して掲載する。
  『嵯峨日記』は、今から326年前の、元禄04(1691)0418日から0504(新暦0515日~0530)迄の17日間、芭蕉が門人の向井去来の落柿舎に滞在した折に記した句文の日記。
 芭蕉の死後、宝暦03(1753)年刊。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日落柿舎へ、季節は同じだが6年歳月は流れる。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』等の傑作を生みだしている。
以下に、時系列的に芭蕉の動きを簡単にご紹介すると‥
貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行/「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
        0814日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』へ向け江戸を出立 / 0825日『鹿島詣』成る
        1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発 / 1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
        12月下旬 伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
        0413日 大阪・八軒屋久左衛門に6泊「杜若(カキツバタ)語るも旅のひとつ哉」
        0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す/ 明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」‥『笈の小文』は此処で終わる
        0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
        0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」/ 0816日 善光寺に参拝
        08月下旬 江戸帰着 / 0930日 元禄に改元
元禄02(1689) 0327 (46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発 / 千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
        0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
        0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
        0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
        0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
        0625日~0712日 越後路
        0707日 直江津・佐藤元仙宅での句会での発句「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)
        0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
        0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
        0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わる /「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
元禄03(1690) (47) 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る /この頃より『幻住庵の記』執筆開始
        06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在
        0619日「幻住庵」へ帰着
        0723日 大津へ移転
        その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在〔08月下旬『幻住庵の記』脱稿〕
        0927日 一泊二日で京都へ、そして伊賀上野へ発つ
        11月上旬 伊賀上野から京都へ
        1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕/3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
        03月末 奈良から大津へ移動
        0418日~0504日迄、京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごす /『嵯峨日記』執筆開始

《原文》
 廿三日

手をうてば木霊(こだま)に明(あく)る夏の月

竹〔の子や〕稚(おさなき)時の絵のすさみ

   麥の穗や泪(なみだ)に染(そめ)て啼(なく)雲雀(ひばり)

一日(ひとひ)ゝ麦あからみて啼(なく)雲雀(ひばり)

能なしの寝(ねむ)たし我をぎやう/\(1)

(2)落柿舎(らくししゃにだいす)  凡兆

(まめ)(うう)る畑(はた)も木部屋(きべや)(3)も名所哉

 暮に及て去來京より來る。
 膳所昌房(4)より消息(せうそこ)
 大津尚白(しょうはく)(5)より消息有(あり)
 凡兆來(きた)る。
 堅田本福寺(6)(とぶらひ)、其(そのまま)(7)(とまる)
 凡兆京に帰る。

《現代語訳》
 二十三日

【意】短夜だ / 二十三夜の月待ち行事で一晩中起きている / 手を打つ音で夜が明けて仕舞いそうだ / 今宵の夏の月とはもう直ぐお別れだ
【季語】夏の月:夏
【解説】この句は、二十三日の月待ちの句と思われる /「十七夜・二十三夜・二十七夜」月待ち三夜と言い、夜通しで月を拝む風習 / 三夜のうち「二十三夜」が最も盛んだった

【意】竹の子を見ると、手習いで竹の子を描いた懐かしい子供時代が思い出されることだ
【季語】竹の子:夏
【解説】—

【意】今、天高く啼く雲雀は何を哀しんで啼くのか / その雲雀の啼き声に染まるかの様に麦の穂が段々と色付いていく
【季語】麦:夏〔因みに、雲雀は春の季語〕
【解説】娥皇・女英は中国古代の聖天子堯の二人の娘なり / 堯、舜の賢なるを見てこの二女を舜に妻とし、次いで天下を舜に譲る / 後年、舜が南方蒼梧の野に崩ずるや、両女之を悲しみ、涙が竹を染めて悉く班(まだら)となったという

【意】一日一日、麦が熟して赤味を帯びて収穫の時が近づく / 空高くでは雲雀が鳴いている
【季語】麦:夏〔因みに、雲雀は春の季語〕
【解説】写実的なのどかな農村風景を彷彿とさせる句

【意】何の才覚も無い私はただ眠いだけなのに、行行子(=ぎょうぎょうし(=ヨシキリ))がギャアギャア鳴いて眠らせてくれない
【季語】ぎやうぎやうし(=行行子(=ヨシキリ)):夏
【解説】「能なし」は「無能・無才」/ 「能な[]・寝た[]・ぎやうぎゃう[]」と韻を踏む /「行行子」に「仰々し」を掛ける /「寝たし」は語法的には「寝たき」が正当
    この句は、技巧を凝らした句

落柿舎に題す 凡兆

【意】何の変哲もない豆畑も薪部屋も、此処が歌枕・嵯峨の地であると知ると、名所に思えて来る
【季語】豆植る:初夏
【解説】―

 暮になって去来が京から来た。
 膳所の昌房から手紙。
 大津の尚白より手紙があった。
 凡兆が来た。
 堅田の本福寺の住職千那が訪れて、泊まった。
 凡兆が京に帰った。

《語句》
(1) ぎやうゝし(行行子):よしきり / 燕雀目の鳥
(2) 題す:そのことについて述べること
(3) 木部屋:薪小屋
(4) 膳所昌房:膳所の門人 / 磯田氏 / 通称 茶屋与次兵衛
(5) 尚白:江左氏 / 大津の門人 / 医師
(6) 堅田本福寺:大津市堅田の浄土真宗西本願寺派本福寺 十一世住職 / 号 千那 / 門人。
(7) 其:「其夜」「其儘」など書くべき処書くことを失念したもの

《原文》
 廿五日
 千那(せんな)大津に帰(かえる)。
 史邦(ふみくに)(2】・丈艸(ぢやうさう)(2)被訪(とぶらはる)

   題落柿舎 丈艸(じょうそう)
  深対峨峯(3)伴鳥魚(4) 〔深く峨峯に対して鳥魚を伴う〕
  就荒(5)喜似野人居(6) 〔荒(くわう)に就き野人(やじん)の居に似たるを喜ぶ〕
  枝頭(7)今欠赤虫礼(示偏に替えて虫偏)(8)〔枝頭(しとう)今欠く赤虫礼(示偏に替えて虫偏)(せききう(=せききゅう))の卵〕
  青葉(9)分題堪学書(10) 〔青葉(せいえふ(=せいよう))題を分かちて書を学ぶに堪へたり〕

   尋小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ 同(おなじく)
  強攪怨情出深宮(11) 〔強(しひ)て怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して深宮(しんきゆう)を出()づ〕
  一輪秋月野村風 〔一輪(いちりん)の秋月(しうげつ)野村(やそん)の風
  昔年僅得求琴韻 〔昔年(せきねん)(わづか)に琴韻(きんいん)を求め得たり
  何処孤墳竹樹中 〔何処(いづこ)ぞ孤墳(こふん)竹樹(ちくじゆ)の中(うち)

《現代語訳》
 二十五日

 千那は大津に帰った。
 史邦・丈艸が訪ねて来てくれた。

   落柿舎に題す 丈艸
  嵯峨の峰が眼前にある / (森には)鳥が飛び交い、(川には)魚が泳いでいる
  道が荒れ果て、住まいも野人の住居にも似ているが、却ってそれを喜んでいる
  (まだ夏なので)柿の枝にはまだ赤い実がついていない
  しかし、柿の青葉に字を書いて学習するには十分だ

   小督の墳(つか)尋ねる  同(おなじく)
  (小督は(平清盛を)怨みつつ) あえて不本意乍ら宮中を出(て嵯峨に隠棲し)
  秋の満月が輝く下、村里には風が吹くばかりだった
  昔、高倉天皇の命(めい)を受けた宇多源氏の仲国は、やっとのことで琴の音を聞きつけて小督を探し当てたという
  その小督も結局は亡くなりこの嵯峨の地に葬られたと伝わる)その小督の墓はいったいこの竹藪の中の何処にあるのだろう?

《語句》
(1) 史邦:中村氏。蕉門。伝未詳
(2) 丈艸:元尾張犬山藩士。引退して蕉門に入った
(3) 峨峯:嵯峨の山の峯
(4) 鳥魚(うぎょ):鳥と魚
(5) 就荒:道が荒れ果てているので /「三径荒に就く」(陶淵明「帰去来辞」)に拠る
(6) 野人居:野人の住居
(7) 枝頭:柿の枝をさす
(8) 赤虫礼(=示偏に替えて虫偏)卵:赤く熟した柿の実のこと
(9) 青葉:柿の葉に文字を書くこと / 柿の葉に歌や文字を書くことは『伊勢集』に見える / 又、唐の鄭虔は家貧で書を習う紙を買えず柿の葉に書き稽古し、のち詩書画の三芸で大成したという
(10) 堪:十分である
(11) 強攪怨情出深宮:小督が平清盛を恐れ怨み、宮中を出て嵯峨に隠棲したこと

《原文》
                                史邦(ふみくに)
  芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柿の実(さね)

   途中吟(とちゆうぎん) 丈艸

  杜宇(ほととぎす)(なく)や榎(えのき)も梅(うめ)(さくら)

   黄山谷(くわうさんこく)(1)()感句(かんく)(2)

  杜門覔句陳無己(3) 〔門を杜(とぢ)て句を覔(もと)む 陳無己(ちんむ(=))
  対客揮毫秦少游(4) ((きやく)に対して毫(ふで)を揮(ふる)ふ 秦少游(しんせういう(=しょうゆう))

 乙州(おとくに)(きた)りて武江(こう)(5)の咄(はなし)
 幷(ならびに)燭五分(しょくごぶ)俳諧一巻(6)。其内(そのうち)に、

   半俗の膏薬入は懐に(7)
  碓氷(うすい)の峠(たうげ)(8)馬ぞかしこき 其角

   腰の簣(あじか)(9)に狂はする月(10)
  野分(のわき)より流人(るにん)に渡す小屋一(こやひとつ) 同(おなじく)

   宇津(うつ)(11)の山女(やまをんな)に夜着(よぎ)を借(かり)て寝る
  偽(いつはり)せめてゆるす精進(しやうじん) 同(おなじく)

 申(さる)(12)(ばかり)より風雨雷霆(ふううらいてい)、雹(あられ)降る。
 雹の大(おほ)いさ三分匁(さんふんもんめ)(あり)
 大なる、からもゝ(13)のご〔と〕く、少(=(ちひさ))きは柴栗(しばぐり)のごとし。
 龍(りょう) 空を過(すぐ)る時、雹(あられ)(ふる)
 《現代語訳》
                      史邦
【意】流石に落柿舎だけあって、名物の柿は、新芽が既に勢いよく二葉に茂っている
【季語】二葉:春
【解説】―

   道中での即興の句 丈艸
【意】ホトトギスが季節を合わせ夏の木である榎で鳴いている / 春の鳥が春の木、梅や桜で鳴く様に
【季語】:夏
【解説】―

   黄山谷(=庭堅)の句で感銘を受けたものを記す
  門を閉ざして家に引き籠って句を求めた陳無己
  客と歓談しつつ発想を得て筆を揮(ふる)った秦少游

 乙州が来て江戸の話をした。
 並びに燭五分俳諧を一巻行った。その中に、

   半俗半僧の人が膏薬入れを懐に入れている
  難所である碓氷峠は、旅慣れない人は歩いて越すのではなく、馬で行くのが賢明だ / 其角

   折から通りかかった腰に籠をつけた男が、名月に興奮して舞い踊っている
  嵐で壊れた小屋が一つ / 流人が住み着いている / 同じく

   あの歌枕「宇津の山」/其処で女に夜着を借て寝ることになった
  女は男が又別の女の所へ行くのかと責めた、男は今日は親の命日で精進日だから、と言う / 女はそれは解ったから泊まっていってくれ、という / それで、そう言うことになる / 同じく

 申の刻(午後4)頃から風雨が激しく雷鳴が轟いてアラレが降った。
 大きさは重さ3匁もあった。
 雹(アラレ)の大きい物は杏子の実くらいあり、小さいのは柴栗の様程の大きさだ。
 龍が空を過ぎる時雹が降ると言う。

《語句》
(1) 黄山谷:中国北宋の詩人黄庭堅(1045-1105) / 宋代の詩人としては蘇軾・陸游と並び称される
(2) 感句:感銘を受けた詩句
(3) 陳無己:陳師道 / 詩人
(4) 秦少游:秦観 / 詩人
(5) 武江:武蔵の江戸
(6) 燭五分俳諧:蝋燭が五分(1.5)燃える間に一巻の句を作ること
(7) 半俗の膏薬入は懐に:膏薬入れは通常腰帯に入れるが、半俗半僧の姿なの為腰帯がなく、懐に入れている
(8) 臼井の峠:歌枕 / 碓氷峠
(9) 簣:竹や葦で編んだ籠
(10) 狂はする月:憑()かれた様に激しく動き回る所作 / 転じて、歌い舞いすること
(11) 宇津の山:駿河国 宇津谷峠 / 歌枕 /『伊勢物語』「東下」で有名
(12) (さる)の時:午後4時~5時頃
(13) からもも:唐桃 / 杏子(あんず)

《原文》
 廿六日
                         史邦
  芽出しより二葉に茂る柿の実(さね)

  畠(はたけ)の塵(ちり)にかゝる卯の花 蕉

  蝸牛(かたつむり)頼母(たのも)しげなき角(つの)(ふり)て 去

  人の汲間(くむま)を釣瓶(つるべ)待也(まつなり) 丈

  有明に三度飛脚(さんどびきゃく)(1)の行哉(ゆくや)らん(2) 乙

 廿七日

 人(ひと)不来(きたらず)、終日(しゆうじつ)得閑(かんをう)

《現代語訳》

 二十六日

〔在落柿舎の5人で、連句を巻く〕
 〔既出〕                                 史邦
【意】流石に落柿舎だけあって、名物の柿は、新芽が既に勢いよく二葉に茂っている
【季語】茂る:()
【解説】この句は、中村史邦が二十五日の作句 / それを立句に翌日連句を試みたもの
    史邦(生没年不詳):中村荒右衛門 / 尾張犬山の出身 / 当初、中村春庵、犬山藩の侍医 / のち、京都所司代与力職 / 元禄06(1693)年秋 与力を辞職して江戸へ
    京都蕉門の一人 / 去来や丈草らと入魂

【意】卯の花が散って畠の塵迄が白く、恰も雪が降り積もった様に美しい / 芭蕉
【季語】卯の花:夏
【解説】脇を務めた芭蕉が、史邦の発句で「柿の二葉」に着眼 / 柿の木の近くに実際に卯の花が咲いていたのだろう / 白い卯の花が塵となって散っていると詠み、柿の二葉の周囲に視線を広げている

【意】卯の花、即ちウツギの生垣を這っている蝸牛(カタツムリ)が頼り気ない角を振り立てて懸命に生きている / 去来
【季語】蝸牛:夏
【解説】去来は、連句に於ける第三の変化の始まりを、発句「柿の二葉」・脇「卯の花」の植物から、「蝸牛」という生物に替え呼んでいる / 脇が体言留め「卯の花」、第三は留字「に・て・にて・らん・もなし」留め等が一般的で、去来も第三句「振りて」としている

【意】釣瓶井戸では前の人が汲み終わるのを待っている / (すると、其処に井戸の縁(へり)を蝸牛が這っているのが目に入った) / 丈艸
【季語】季語:なし
【解説】第4句は、「発句(1)・脇(2)・第三(3)・挙句(最後)」以外の「平句(ひらく)」/ 連句では、季節が移る際に無季語の「雑の句」を何本か入れる / 「発句・脇・第三」と「夏」が続き、「第4(平句)」で「雑句(無季語)」となって次の最後の「挙句」で「秋」へと季節が変わった

【意】有明の月がまだ空に残っている明け方、起き出して井戸端に出てみると、早くも三度飛脚が駆けて行く
【季語】有明():仲秋
【解説】連句には、二大景物とされる「月・花」を詠むことに決められた句の位置として「定座(じょうざ)」がある / 例えば、歌仙では「月の定座」は初表(しょおもて)5句目、初裏の8句目、名残の表の11句目の3箇所がそれで、乙州は正に連句rule通り「月の定座」に「有明()」を据えた

 二十七日

 誰も来ないので一日中閑にのんびりと過ごした。

《語句》
(1) 三度飛脚:江戸・大阪間を往復した飛脚敏 / 毎月2日・12日・22日の3度発足するのでこの名がついた
(2) 飛脚の行哉らん:飛脚やの右に「の」と傍記し、「行ぬらん」を見せ消ちにしている

《原文》
 廿八日
 夢に杜国(とこく)(1)が事をいひ出(いだ)して、涕泣(ていきふ(=きゅう))(2)して覚()む。
 心神相(あひ)(まじわる)(3)は夢をなす。
 陰(いん)(つき)(4)火を夢見(ゆめみ)、陽(やう)(おとろへ)て水を夢みる。
 飛鳥(ひてう)(5)(かみ)をふくむ時は飛(とべ)るを夢見、帯を敷寝(しきね)にする時は、虵(へび)を夢見るといへり。
 睡枕記(すゐちんき)(6)・槐安国(くわいあんこく)(7)・荘周夢蝶(そうしふ(=しゅう)のむてふ(=ちょう))(8)、皆其(その)(ことわり)(あり)て、妙(めう)をつくさず(9)
 我(わが)夢は聖人君子の夢にあらず。
 終日妄想(もうざう(=ぞう))(10)散乱の気()、夜陰夢(やいんのゆめ)(11)又しかり。
 誠に此(この)ものを夢見ること所謂(いわゆる)念夢(12)(ねんむなり)
 我に志深く伊陽(いやう)(13)旧里(きうり)迄したひ来(きた)りて、夜は床を同じう起臥(おきふし)、行脚(あんぎや)の労(らう)をともにたすけて、百日が程(ほど)かげのごとくにともなふ。
 ある時ははたはぶれ、ある時は悲しび、其志(そのこころざし)、我(わが)心裏(わがしんり)に染(しみ)て、忘るゝ事なければなるべし。
 覚(さめ)て又袂(たもと)をしぼる。

《現代語訳》
 二十八日

 夢の中で杜国の事を言い出して、泣いて目が覚めた。
 心が何かと交わって夢になるのだという。
 陰の気が尽きれば火を夢に見、陽の気が衰えると水を夢に見る。
 飛ぶ鳥が頭髪をくわえる時は空を飛ぶ夢を見、帯を敷いて寝ている時は蛇を夢見るという。
  『枕中記』の邯鄲の夢の話とか、『槐安国』の南柯の夢の話、『荘子』の胡蝶の夢の話などは皆その説いている道理があり、興味が尽きない。
 しかし私の夢はそのような立派な聖人君子の夢とは違う。
昼間は一日中妄想にとらわれ心乱れているが、夜の夢もまた同じく、心乱れて見ているのだ。
 本当に夢に杜国を見ることは、所謂(いわゆる)念夢である。
 私に志深く伊賀の故郷迄慕って来て、夜は床を同じくして寝起きして、旅の労苦を助け合い、百日程の間、影のように付いて来てくれた。
 ある時は軽快な諧謔を飛ばし、ある時は悲しみ、その志が私の心の奥底に染みて、忘れることが無いからこそ夢に出てきたのだ。
 夢から覚めて又涙を流したのだった。

《語句》
(1) 杜国(とこく):芭蕉の門人 / 罪を得て三河に隠棲
    貞享05(1688)320日 三河国保美(現・田原市(旧・渥美町)保美に死す
(2) 涕泣:泣くこと
(3) 心神相交時は夢をなす:「心神」は心・魂 /『列士』に六種類の夢を挙げ「此の六の者は神と交る所也」とある
(4) 陰尽て:「陰気壮(さかん)なれば則ち大水を渉(わた)りて恐懼(きょうく)するを夢み、陽気壮なれば則ち大火を渉りてハンゼツするを夢む」(列子)による
(5) 飛鳥:「帯をシきて寝れば則ち蛇を夢み、飛鳥髪をフクめば則ち飛ぶを夢みる」(列子)による
(6) 睡枕記:邯鄲の夢の故事を記した「枕中記」の記憶違いか
   「沈中記」:中国 唐代の伝奇小説 / 著者 沈既済(しんきせい(750-800))は、蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の人
   【邯鄲の夢/黄梁(こうりょう)一炊之夢/盧生(ろせい)之夢】主人公 盧生が、邯鄲(河北省邯鄲市)で出会った道士 呂翁から枕を貰い、その枕で眠りに就く
   すると、黄梁の飯が炊き上がる前に、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬ処で夢から覚めたが、まだ黄梁の飯が炊き上がる前のほんの一瞬しか経っていなかった
   その事に拠って、盧生は人生の儚さを悟った、という話
(7) 槐安国:槐(えんじゅ)の木の下の夢の中に現れた蟻の国の名 / 人の世の栄達の儚さを説いた「南柯(なんか)の夢」として知られる南柯記(唐代)の故事に出て来る想像上の国名
   【南柯の夢/槐夢(かいむ)/槐安の夢】「南柯」は、南に出た木の枝のこと / 昔、中国で、淳于棼(じゅんうふん)という人が、酔って古い槐(えんじゅ)の木の下で眠る
   すると、淳は夢の中で槐安国に行き、王から南柯郡の郡主に任ぜられて20年の間、栄華を極めた
   しかし、夢から覚めてみれば全て蟻(あり)の国での出来事に過ぎなかったという、唐代の小説「南柯記」の故事から出た諺 / 邯鄲の夢と共に人の世の儚さを説く
(8) 荘周夢蝶:荘周(荘子)が夢の中で胡蝶となり、目が覚めたがあれが夢だったのか今の自分が夢なのか、わからなくなったという話
(9) 妙をつくさず:興味が尽きない / 底本では、最初「妙つきず」とある / 文章のrhythm感から改めたもの
(10) 妄想:もうぞう。雑念にとらわれ、ありもしないものをあるように思い込むこと
(11) 夜陰夢:夜見る夢
(12) 念夢也:「念夢」は『列子』の「思夢」に相当するものか
(13) 伊陽:伊賀の中国風の言い方

《原文》
 廿九日
   『一人百首(いちにんひゃくしゅ)(1)』奥州(あうしう)高館(たかだち)の詩を見る。

 (つごもり)
 晦日  高館聳天星似冑、 
 衣川通海月如弓(2)
 其地風景聊以不叶。
 古人といへ共、不至其地時(そのちにいたらざるとき)は不叶其景(そのけいにかなわず)。 

《現代語訳》
 二十九日
 『本朝一人一首』の奥州高館の詩を見る。

 三十日
〔高館(たかだち)は天に聳えて星は冑(かぶと)に似たり〕
 奥州高館は天に向けかって高く聳え立ち、星は冑の前立の星の様に見える
〔衣川(ころもがわ)は海に通じて 月は弓の如し〕
 衣川は海に通じて月は弓を張った様だ
〔其地(そのち)風景、聊(いささか)(もって)不叶(かなわず)
 彼の地の景観を思い起こせば、私が実際に見たものと少し違っている。
〔古人といへ共、其の地に至らざる時は、其の景(けい)に叶わず〕
 この様に作品を錄(しる)せられる古人でも、実際に現地に行ってみなければその景色に合った詠みは出来ない様だ。

《語句》
(1) 一人百首:本朝一人一首 / 天智天皇から徳川義直まで一人一首ずつ漢詩を採りあげ批評を添えたもの
(2) 高館聳天星似冑 / 衣川通海月如弓:芭蕉は元禄02(1689)年『奥の細道』の旅で平泉を訪れ、高館はそれ程高くなく、衣川は海に通じていないことを確認している

【小生comment
 結構はvolumeでしたね。
 でも、なかなか面白かったでしょ?
 次号《会報》が〔第3回〕目となるが、これで最終回となる。お楽しみに!

■次の話題は、前《会報》でお届けした〔後編〕である。具体的には、GW後半の0504()に日帰りで、浜松市美術館『池口史子』展→浜松城天守閣→秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔前期〕』展→豊田市美術館『東山魁夷/唐招提寺御影堂障壁画』展→刈谷城跡→杉本美術館『奈良大和路 春夏秋冬 ~第1期~』展を見て来たうちの、豊田市美術館以降についてである。

  以下、行程順にお伝えする。
1110分 同所発→〔一般道→新東名 浜松浜北IC→東名 豊田東JCT→東名 豊田IC→一般道→ 87km147 1時間15分〕
1225分 豊田市美術館 着

【豊田市美術館『東山魁夷/唐招提寺 御影堂 障壁画』展】
[01]豊田市美術館前にて

[02]本展leaflet:上段の絵「唐招提寺 御影堂障壁画 濤声(部分)1075年 / 中段の絵「同 同 揚州薫風(部分)1980年 / 下段左の絵「同 同 山雲(部分)1975年 & 同右の絵「同 同 桂林月宵(部分)1980
                  
[03]唐招提寺 御影堂

[04]同 御影堂内「宸殿の間」より「上段の間」を望む
                  
[05]同 同「上段の間」() と 同 同「梅の間」()

[06]同 同「松の間」() と 同 同「桜の間」()
                  
【小生comment
 この東山魁夷の「学生時代の唐招提寺 御影堂障壁画」は、完成直後、唐招提寺に収められる直前の昭和50年当時に企画展示会が開かれたことを記憶している。
 東海地区では、名古屋で、0626~0701日 丸栄百貨店(当時)で、『濤声』等が展示された。
 又、昭和55年に完成された『揚州薫風』『黄山暁雲』『桂林月宵』は0406~20日迄オリエンタル中村栄本展にて企画展示会が開催された。
 小生、当時は美術鑑賞は好きではあったが、金もない大学生時代だったので、美術展覧会は、殆ど見に行ったことがない。
 一度だけ、京都に社寺仏閣を見に行った時宿泊先としてお世話になった中嶋君【3-2】に誘われて、京都国立近代美術館で開催中だった『セザンヌ』展を見たことがあるだけだ。
 朋友の中嶋君から「Cézanne展を見た当時の今泉は、名画への関心はそう高くなかったようだヨネ / だから昨今の今泉の美術館巡りの頻度の多さには正直ビックリしている」と時々言われる。

1305分 同所発→〔一般道・国道153号線→豊田南bypass→県道346号→ 21 40分/168㎞〕
1345分 亀城公園(刈谷城跡)

[07]刈谷城本丸跡 石碑

 天文02(1533)年 水野氏が金ヶ小路の畔に築城 / 水野氏を最初に、以後、水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦、土井氏の譜代大名が城主となる
 明治04(1871)年 廃藩置県後、刈谷城は政府所有になり、城郭の建造物は取り払われた / 大正02(1913)年 大野介蔵に売却され、旧城跡を永久保存することになる
 昭和11(1936)年 町から旧城跡を公園にしたい旨の意見書が出され、刈谷町に売り渡され、翌年「亀城公園」となった
[08]松本奎堂(けいどう(1832-63)歌碑
                  
 文久03(1863)年 孝明天皇の大和行幸の詔を端に、松本奎堂は侍従中山忠光(1845-64)を盟主に藤本鉄石(1816-63)・吉村虎太郎(1837-63)ら同士38人と天誅組を挙兵
 奎堂はその総裁であった / この歌碑には、奎堂の辞世の句である「君が為 命死にきと 世の人に 語りつきてよ 峯の松風」が彫られている
 愛知県教育委員会・愛知師範同窓会・刈谷町の3者に拠り昭和18年建立
[09]亀城公園石碑

 居城を緒川(おがわ)(=愛知県知多郡東浦町緒川)としていた水野忠邦(1496 -1543)が築城。
 以下に刈谷城の略歴を記す。

1533(天文02)年 水野忠政は居城を居城緒から刈谷城に移す
1541(天文10)年 忠邦の娘 於大(=青山政信の娘で忠政の養女という説もあり)がこの城から岡崎城主松平弘忠(1526-49)に嫁ぐ
1576(天正04)年 忠邦の嫡男 信元(?-1576)は、信長から武田方への内通()を疑われ、信長の命を受けた家康(1542-1616)に殺害された
        ()『松平記』に拠ると、信元殺害の原因は、武田の重臣秋山信友(虎繁(1527-75))が美濃国岩村城主(その妻となったのが織田信長の祖父信定の娘(=信長の叔母)おつやの方=女城主)1575(天正03)年に信長が囲城した際、水野領内から食料調達に応じる売る者があり、これを聞いた佐久間信盛(1528-82)が信長(1534-82)に、水野信元の武田方への内通を訴えたというもの
          この後、刈谷城は佐久間信盛の領有となる
1580(天正08)年 佐久間信盛が信長から追放され、信元の末弟(忠政の九男) 忠重(1541-1600)が城主となって水野氏の領有に復した。
          忠重、勝成(1564-1651(刈谷藩主(3万石)1600-15))、忠清(1582-1647(刈谷藩主:1616-42))5代百年の水野氏の居城であった

1632(寛永09)年 水野忠清が吉田藩4万石へ移封 / 代わって深溝松平家 松平忠房(1619-1700(刈谷藩主(3万石)1632-49))が吉田藩(3万石)が入封
1649(慶安02)年 松平忠房が、丹波福知山藩(45千石)へ移封 / 代わって久松松平家 松平定政((=於大の方の孫)1610-73(刈谷藩主(2万石)1649-51)
1651(慶安04)0718日 幕府は定政が発狂したとして改易に処し、久松松平宗家2代 伊予松山藩主・松平定行に身柄を預けた〔その後2か月刈谷藩は天領となる〕
           0919日 越後三条城藩(23千石)より稲垣重綱(1583-1654(刈谷藩主(23千石)))が入封し、再び立藩
           因みに稲垣氏は文明(1469-86))年間に伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系
1654(承応03)年 第2代藩主 稲垣重昭が33日 従弟の稲垣昭友に3千石を分与し2万石に
1702(元禄15)0907日 第3代藩主 稲垣重富が上総大多喜藩へ移封 / 阿部正春(1637-1716(刈谷藩主(16千石)1702-09))が入封
1710(宝永07)0523日 第2代藩主 阿部正鎮(1699-1751) 上総佐貫藩へ移封 / 本多忠良(ただなが(1690-1751(刈谷藩主(5万石)1710-12)))が越後村上藩より入封
1712(正徳02)0712日 本多忠良 下総古河藩へ移封 / 日向延岡藩より三浦明敬(1658-1725(刈谷藩主(23千石)))が入封
1747(延享04)0211日 第3代藩主 三浦義理が三河西尾藩へ移封
          三河西尾藩より土井利信(1728-71)(刈谷藩主(23千石)))が入封後、他家から嗣養子を数多く重ねるも明治維新迄9代土井家が続く
1869(明治02)年 版籍奉還で、最後の藩主 土井利教は刈谷藩知事に任じられる
1871(明治04)0714日 廃藩置県で刈谷藩は消滅 /刈谷県を経て額田県に合併される

【小生comment
 江戸時代の刈谷藩は、ご覧の通り藩主家が目まぐるしく入れ替わったので、とても全藩主の名前は覚えきれない。
 ただ、刈谷城は、1533(天文02)年 水野忠政が築城以来、徳川家康の母親於大の方が康の父松平弘忠に嫁いだ時の城であり、その後も、信元→忠重→勝成→忠清佐久間信盛時代の4年を除く水野家5代約100年に亘る居城。
 その後、約100年後の1747年から明治維新迄、これも幕府重鎮の家系の土井家の所領であることを考えれば、徳川家譜代の由緒ある藩であることが納得出来る。

1410分 刈谷城跡(亀城公園) 発→〔一般道(県道51)→東浦知多IC→知多半島道路→半田中央JCT→南知多道路→美浜IC→一般道(県道274)→ 32㎞/20036分 料金@460円/累計1,970円〕
1440分 杉本美術館 着

【杉本美術館『開館30周年記念/奈良大和路 春夏秋冬』〔第1期〕展】

[10]杉本美術館前にて
                  
[11]本展leaflet

[12]杉本健吉『長谷寺』
                  
[13]同『西ノ京 (薬師寺塔・猫)

[14]同『東大寺大佛殿遠望』
                  
[15]同『博物館内(外人)

[16]同『薬師寺への道』
                  
[17]同『佛頭』

[18]同『笠置石仏(A)
                  
1520分 同所発→南知多道路→知多自動車道路→伊勢湾岸道路→東名高速道路→豊川IC→〔102㎞/3021時間35分 料金@1,850円/累計3,820円〕
1700分 拙宅着

【小生comment
 杉本健吉の絵は、彼の後半生の絵を最初に見た時は、かなり雑っぽいナァと感じたが、今は感じ方が180度違う。
 実に味わいのある傑作だと思う。
 油彩・水彩・コンテ・墨・木炭・sketch・素描の全てに於いてだ。
 例えば、添付写真[13]の絵『西ノ京 (薬師寺塔・猫)』に登場する1匹のネコの存在がそうだ。
 最初に見た時は、杉本健吉翁はふざけて猫を1匹描いたのか、と思ったが、違う。
 猫1匹の存在が、絵それ自体が無機的なものから有機的な、そして温もりを感じさせるのである。
 杉本画伯の絵は、見れば見る程、また見たくなる味わい深い魅力を持っている。

■今日最後の話題は、0516日に愛知県技術劇場concert hallにて開催された『サロネン指揮フィルハーモニアO.』演奏会を聴いて来たので、その模様を簡単にご報告します。
 演奏曲目の3曲〔R.Strauss/交響詩『ドン・ファン』・同/同『ツァラトゥストラはかく語りき』・Beethoven/『交響曲第7番』〕はいずれも本当に素晴らしかった。
 エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen (1958.06.30- ))は、Finlandの指揮者。
 Helsinki にあるシベリウス音楽院(Sibelius-Akatemia)にて作曲とhorn演奏を学ぶ。
 1985Sweden放送S.O. 首席指揮者。
 同年~1994年迄フィルハーモニアO. 首席客演指揮者を務める。
 1991Los Angeles P.O. 音楽監督(兼 首席指揮者)就任。
 2008年からフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者を務めている。
 彼の指揮を聴いていると、恰も1950年代録音のカラヤン指揮フィルハーモニアO.を髣髴とさせる、いや凌駕する程の感動的な名演奏だった。
 本当に何年かぶりに感動的な『ドン・ファン』『ツァラ‥』Beethoven『第7』の生演奏を聴くことが出来た。
 添付写真[19]は演奏会の前に concert会場入口で撮影して貰ったものだが、疲れた顔をしているでしょッ
 実は小生、05/13()-14() 39.8℃の高熱で22時間程寝たきりだった。
 そして、添付写真[20]は、Concertの後、会場の愛知県芸術劇場concert hallを出たら、綺麗に電飾された オアシス21 と 名古屋テレビ塔 に思わず感動して撮影した1枚である。

[19]サロネン指揮フィルハーモニアO.演奏会場前にて()/エサ=ペッカ・サロネン(右上下)

[20] Concertの後、愛知県芸術劇場concert hall 2F西入口から見た 綺麗に電飾された「アシス21&名古屋テレビ塔」
                  
【後記】一昨日0519()は、会社を忌引して、今し方、叔母の葬儀・告別式と初七日に参列して来た。
 以下の添付写真[21]は、初七日の後、別れ際に撮影した写真である。
 真ん中が、小生の従姉妹のK子ちゃんという亡き叔母の次女。
 K子ちゃんの亡きお母さん(=小生の叔母)の兄貴の息子が小生()
 K子チャンの亡きお父さんの弟さんのお嬢様が前田(平松)T子さん【時習2634組】()
 3人、同庚(同い年)である。
 皆んな、何年ぶり、何十年ぶりかの血族の再会であった。

[21]K子ちゃん、T子さんと

 更に、昨日20日は、日中、東三河在住の12大学対抗ゴルフ大会が東海CCであり、その懇親会がホテルアークリッシュ豊橋で開催された。
 写真[22]は、懇親会での模様である。
 小生は、所用があり懇親会のみ参加した。
 母校は 8/12大学。
 毎年15月に開催され、今年で35回目を数える。
 我が母校は12大学の中では最も遅く、89年前からの参加。
 小生も数年前からある人の紹介で参加することになった。
 懇親会は、表彰式を兼ねていて、今回優勝した早大captainの鈴木Iさん【時習16回】が「優勝経験あるのは、早大・愛大・法政大のみ/他の9大学の皆さん頑張ってください」と言ってらっしゃいました。

[22]上段左から時計回りに[1]母校の参加者の面々→[2]優勝:早大captain鈴木I氏 /下段左から[3]準優勝:法政大学→[4]次回幹事大学:captain 吉川K氏→[5]会場全体の情景
                  
   ※  ※  ※  ※  ※

井伏鱒二の「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と言う名訳で有名な、于武陵(うぶりょう)の名詩『酒を勧む』を久しぶりにご紹介して今日はお別れしたい。

  勧酒    于武陵(810-?)
 勧君金屈卮
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 君に勧む金屈卮(きんくつし)
 満酌(まんしゃく)  辞するを須(もち)いず
 花発(ひら)けば風雨多し
 人生  別離足る

【意】さぁ、この金色に輝く盃を差し上げよう
 なみなみと注がれた酒 遠慮しないでくれ
 花が咲く頃は雨風が多くなるのは世の常だ
 人世というものには別れがつきものだなぁ

 陶淵明の「歳月 人を待たず」や于武陵の「人生 別離足る」/ こういう格言が、実感出来る年になって来ましたね〜!
 では、また‥〔了〕

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