前《会報》迄3回seriesでお届けした、松尾芭蕉『嵯峨日記』に続き、今回から『幻住庵記』をお届けする。
ご参考に、再度の繰り返しになるが、『野ざらし紀行』~『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日落柿舎へ、季節は同じだが6年歳月は流れる。
この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』等の傑作を生みだしている。
以下に、時系列的に芭蕉の動きを簡単にご紹介すると‥
貞享02(1685)年 12月 (42歳)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686)年 01月 (43歳) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行/「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687)年 01月 (44歳) 幕府「生類憐みの令」発布
08月14日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』へ向け江戸を出立 / 08月25日『鹿島詣』成る
10月25日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
11月12日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
12月下旬 伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688)年 04月08日 (45歳) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
04月20日 須磨・明石を廻って須磨に泊す
明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」‥『笈の小文』は此処で終わる
08月11日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
08月15日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友
08月16日 善光寺に参拝
08月下旬 江戸帰着 / 09月30日 元禄に改元
元禄02(1689)年 03月27日 (46歳) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発 / 千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
05月13日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
05月27日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
06月03日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
06月16日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
07月12日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
07月25日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
09月06日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発
『奥の細道』終わる /「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
09月13日 伊勢神宮内宮参拝
09月22日 伊賀上野へ帰郷
11月22日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
秋~冬:この頃【不易流行】を説く
12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690)年 (47歳) 01月03日 膳所から伊賀上野へ帰郷 / 03月中旬迄 伊賀上野に滞在
04月01日 石山寺 参詣
【 ☆☆☆☆☆☆04月06日 愛弟子の杜国死去(03月20日)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆☆ 】
【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 ☆ 】
【 ☆ 06月19日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
【 ☆☆☆☆☆☆☆ 07月23日 大津へ移転 ☆☆☆☆☆☆☆ 】
【 ☆ その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
【 ☆ 08月15日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
【 ★★★〔08月下旬『幻住庵の記』脱稿〕★★★ 】
09月27日 一泊二日で京都へ、そして伊賀上野へ発つ
11月上旬 伊賀上野から京都へ
12月23日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691)年 (48歳) 01月06日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕/3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
03月末 奈良から大津へ移動
04月18日~05月04日迄、京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごす
『嵯峨日記』執筆開始
石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山(注2)といふ。
そのかみ国分寺(注3)の名を伝ふなるべし。
ふもとに細き流れを渡りて、翠微(すいび)(注4)に登ること三曲(さんきょく)二百歩(注5)にして、八幡宮たたせたまふ。
神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなること(注6)を、両部(りょうぶ)(注7)光をやはらげ、利益(りやく)の塵を同じうしたまふ(注8)も、また尊し。
日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび(注9)、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。
蓬(よもぎ)根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。
幻住庵といふ。
あるじの僧なにがし(注10)は、勇士菅沼氏曲水(注11)子の伯父になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて(注12)、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
《現代語訳》
石山の奥の、岩間の後ろに山があって、その名を国分山という。昔の国分寺という名前を今に伝えているということだ。
麓(ふもと)に流れる細い川を渡って、山の中腹(=山頂を少し下った所)に登っていき、三曲がりと二百歩程行くと、八幡宮がある。
ご神体は阿弥陀仏の尊像なのだそうだ。
神仏混淆を認めぬ神道の宗派からすれば受け入れ難いことだが、神も仏もその光を和らげ世俗の塵に塗(まみ)れるて衆生を救済するという「本地垂迹」も大変尊いことだ。
日頃は人が参詣がない為、寂れた感じがかえって神々しく、もの静かな場所の傍(そば)に、住み捨てられた草庵がある。
蓬(よもぎ)や根笹(ねざさ)が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ち、狐や狸が寝床を得た様なものだ。
(庵の名は)幻住庵という。
主(あるじ)の僧某(なにがし)は、菅沼曲水という立派な膳所藩士の伯父に当たる人物だが、今は他界して8年程になり、正に幻に住む老人というべき名のみを残している。
《語句》
(注1) 幻住庵:蕉門の膳所藩士 菅沼曲水(=曲翠(1659-1717))が彼の伯父 菅沼定知が建てた山荘 を手直しして芭蕉の草庵として提供芭蕉は元禄03(1690)年 04月06日~07月23日迄の間、此処 幻住庵で過ごした
(注2) 国分山:大津市にある山(標高270m)
国分山の東側中腹に幻住庵がある / 石山寺のある伽藍山の西方程近くにある
(注3) 国分寺:天平13(741)年 聖武天皇が全国の国府の近くに国分尼寺と共に設置した寺
正式名称は、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺という
(注4) 翠微:山の中腹/八合目あたり
(注5) 三曲(みまがり)二百歩:道が曲がりくねり200歩程行った所にある
(注6) 唯一の家には甚だ忌むなること:「唯一の家」は神仏習合を認めない神道の宗派
八幡宮(神道)と阿弥陀仏(仏教)を祀ってあるので、神仏習合(=混淆)を認めない立場からは受け入れ難い、という意味
(注7) 両部:両部神道=神仏習合(神仏混淆)
(注8) 利益の塵を同じうしたまう:「和光同塵」光を和らげ塵に同ず(『老子』) = 仏や菩薩が本来の知徳の光を隠し、煩悩のに同じて衆生を救済すること
特に、仏が日本の神として現れる本地垂迹(ほんじすいじゃく)のことをいう
(注9) 神さび:さびれた感じが、いっそう神々しい感じがすること
(注10) あるじの僧なにがし:菅沼曲水の伯父、菅原定知
(注11) 勇士菅沼氏曲水(1659-1717):菅沼外記定常 / 膳所藩士
曲水は俳号 / 近江蕉門の重鎮 / 江戸滞在中に芭蕉門下となる
「勇士」は「益荒男・丈夫」=立派な男であることをいう
芭蕉に叔父定知の建てた幻住庵を住みかとして提供する
享保02(1717)年 不正を働く膳所藩家老 曽我権太夫を殺害し、自らも自害 / 墓所は義仲寺
(注12) 八年ばかり昔になりて:他界して8年が経つ
【小生comment】
今一度、芭蕉の年譜をご覧頂きたい。芭蕉は、元禄02(1689)年03月27日に江戸を出立し同年09月06日に5箇月余りの『奥の細道』の旅を終え、伊勢神宮の参詣に赴く為に大垣を離れた。
この大旅行を終えた彼は、きっと満足感を実感し乍ら伊勢神宮の参詣をして、故郷・伊賀上野の実家へ向かったことだろう。
芭蕉は、11月22日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人と吟五十韻俳諧を催し、12月末 京都から膳所 義仲寺へ行き、同寺にて越年。
その元禄03(1690)年 01月03日 膳所から伊賀上野へ帰郷し、03月中旬迄 伊賀上野に滞在した後、04月01日 石山寺 参詣。
そして、04月06日から07月23日迄「幻住庵」で過ごすこととなる。
芭蕉は、元禄02(1689)年の秋~冬にかけて、有名な【不易流行】を説く。
この『幻住庵記』を執筆した『幻住庵』で過ごした頃が、芭蕉にとっても最も「心・技・体」が円熟した時期だったものと思われる。
■次の話題は、昨日05月27日に「浜松市秋野不矩美術館『日本画/こころの京都〔後期〕』展→平野美術館『冨士と日本の名所』展→三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館『廣重/江戸風景ごよみ〔復刻版画〕~さまざまな版型による江戸名所』展→名都美術館『堀文子〔後期〕』展」と3つの美術館と1つの貨幣資料館(&歌川広重展示館)を巡って来た、その〔後偏〕の模様をお伝えする。
11時20分 同所発→東名高速道路 浜松IC→名古屋IC→ 大曽根 陣屋〔106㎞/174㎞ 料金@1,690円〕
12時30分『陣屋』(ラーメン) 着名鉄瀬戸線森下駅から程近くのにある、此処『陣屋』のラーメンはsoupが薬膳風味でコクがあって大変美味い。
平成05年~平成17年03月迄、旧行時代の名古屋市東区徳川町の社宅在住時代、月に1~2度は土日に利用していた。
小生は、平成05年来24年間に亘って現在も名古屋市東区徳川にある掛り付けの歯科医院にほぼ毎月通っている。
その際には、昼食は必ずこの『陣屋』で食している。(^-^;♪
[01]陣屋の名物ラーメン「松」
13時07分 同所発→一般道500m
13時10分 歯科医院 着→徒歩/西進500m13時18分 三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館 着
【三菱東京UFJ銀行
貨幣資料館『廣重/江戸風景ごよみ〔復刻版画〕~さまざまな版型による江戸名所』展】
[02]三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館 外観
[03]同上貨幣し了解入口横の本企画展 案内看板
[04]本展leaflet
展示作品の中から『江戸近郊八景』をご紹介する。
「八景」と言えば、『瀟湘八景』が元。
因みに、「瀟湘」とは、湖南省長沙一帯の地域を言い、具体的には、洞庭湖と、洞庭湖へ流入する瀟水と相江の合流する辺りを言う。
北宋時代の高級官僚 宋迪(そうてき(11世紀後半-?))が風光明媚なこの地の山水図『瀟湘八景図』を描いた。
これが「八景図」の嚆矢となった。日本では『近江八景』が有名である。
これは慶長年間に関白 近衛信尹(のぶただ(1565-1614))が「近江八景和歌」を詠んでおり、これが『近江八景』の始まりとする説が有力。
因みに、歌川広重の『近江八景』が彼の代表作とされ、、天保05(1834)年頃、版元・保永堂から刊行された。
[05]『石山秋月(いしやま の しゅうげつ)』(石山寺/大津市)
[06]『勢多(=瀬田)夕照(せた の せきしょう)』(瀬田の唐橋/大津市)
[07]『粟津晴嵐(あわづ の せいらん)』(粟津原/大津市)
[08]『矢橋帰帆(やばせ の きはん)』(矢橋/草津市)
[09]『三井晩鐘(みい の ばんしょう)』(三井寺(=園城寺)/大津市)
[10]『唐崎夜雨(からさき の やう)』(唐崎神社/大津市)
[11]『堅田落雁(かたた の らくがん)』(浮御堂/大津市)
[12]『比良暮雪(ひら の ぼせつ)』(比良山系)
歌川広重の『江戸近郊八景之内』は、天保09(1838)年頃、版元・喜鶴堂(佐野屋喜兵衛)から刊行された。
[13]『玉川秋月(たまがわ しゅうげつ)』
[14]『小金井橋夕照(こがねいばし せきしょう)』
[15]『行徳帰帆(ぎょうとく きはん)』
[16]『池上晩鐘(いけがみ ばんしょう)』
[17]『吾嬬杜夜雨(あづまもり やう)』
[18]『羽根田落雁(はねだ らくがん)』
[19]『芝浦晴嵐(しばうら せいらん)』
[20]『飛鳥山暮雪(あすかやま ぼせつ)』
【小生comment】
歌川広重の『近江八景』は実に素晴らしい。松尾芭蕉の句とされる、『近江八景』を17文字で表したとされる句‥
七景は 霧に隠れて 三井の鐘
面白い句ですね。
季語は「霧」で三秋
13時45分 同所発→徒歩500m
13時53分 歯科医院着14時40分 同所発→一般道 13㎞ 40分
15時20分 名都美術館着
【都美術館『堀文子〔後期〕』展を巡って〔後偏〕】
当美術館は、責任者が小生の大学時代弓道部の一年上の先輩である。というご縁もあって、館内の職員の方々とも親しくさせて頂き、毎回訪問するのが楽しみな美術館となった。
前回訪問時(04月06日)に、先輩から、「『堀文子展』は〔後期展〕を素晴らしいから見においで!」と誘われていたのである。
先輩の言葉は正しかった。
ホント、作品一つひとつが魅力に満ちていて、人気画家であることも頷(うなず)けた。
以下、展示作品のいくつかを post card 等からご紹介する。
[21]名都美術館入口の本企画展 案内看板
[22]堀文子 近影
[23]堀文子『高原』1952年
[24]同『霧の野』1960年
[25]同『浅間厳冬』1987年
[26]同『アフガンの王女』2003年
[27]同『三本の木』1953年
[28]同『命の軌跡』1967年
[29]同『雪嶺』2007年
[30]同『春』1969年
[31]同『初秋』1979年
[32]同『冬野の詩』1988年
[33]同『思い出のやつがしら』2011年
[34]同『牡丹』1988年
【小生comment】
小生が名都美術館を訪れた時間は15時20分過ぎだったが、『堀文子』展も翌日の日曜日が最終日ということもあってか、館内は沢山の拝観者がいた。
是迄に名都美術館は何回も訪れているが、最高の人出であった。
日本画家 堀文子の人気ぶりがよく解った。
拝観者の8割強が女性で、年齢層も50歳以上がmajorityだった。
堀文子の作風は、年を経てかなり変貌を遂げている。
しかし、初期の作品から現在の作品迄一貫しているのは、彼女の作品が醸し出す気品と絶妙な色合いと筆致が観る者を魅了し続けていることである。
嘗て堀文子という画家の魅力を紹介してくれた人にお礼を言いたい。
15時55分 同所発→一般道→長久手IC→名古屋瀬戸道路→日進JCT→東名高速→音羽蒲郡IC→国道1号線→拙宅〔66㎞/累計240㎞ 1時間20分 料金@1,000円/累計2,690円〕
17時15分 拙宅着
山亭夏日 高駢
緑樹陰濃夏日長
楼台倒影入池塘
水精簾動微風起
一架薔薇満院香
山亭(注1)夏日
緑樹 陰(かげ)濃(こま)(注2)やかにして
夏日(かじつ)長し楼台(注3) 影(かげ)(注4)を倒(さかしま)にして 池塘(ちとう)(注5)に入(い)る
水精(すいしょう)(注6)の簾(すだれ)動いて 微風(びふう)起こり
一架(いっか)(注7)の薔薇(しょうび)(注8) 満院(まんいん)(注9)香(かんば)し
【意】生い茂った樹々の緑は色濃く陰を落とし、夏の一日は(暑く)長い
池の畔(ほとり)の高殿はその姿を逆さまにして池の水面(みなも)に影を落としている 水晶の玉飾りの付いた簾(すだれ)が涼しげな音をたて、そよ風は肌を涼やかに撫でる様に微(かす)かに動いた
そよ風は又、棚にいっぱいに咲いた薔薇花の香りを運び、庭中(じゅう)が芳(かぐわ)しい馨りで満たされている
【語句】(注1) 山亭:山の別荘
(注2) 影濃:樹々の葉が生い茂って、色濃くなっている様(注3) 楼台:2階建て以上の高殿
(注4) 影:水面(みなも)に映った姿
(注5) 池塘(ちとう):大きな池
(注6) 水精:水晶
(注7) 一架:棚いっぱいの /「架」は、支柱の上に横木を渡した棚
(注8) 薔薇:枝が細長く伸びるバラ」
(注9) 満院:庭中 /「院」は
【小生comment】
この詩は、第1句で夏の長く暑い日中の様子を先ず歌い、第2句以降、暑さの中での「涼」を五感のうちの味覚を除く四感で、即ち第2句で視覚的、第3句前半で聴覚的、同後半で触覚的、第4句で臭覚的で表現している。又、第1句と第2句に「かげ」と読む「陰」「影」が使われている。「陰」は「陽」の反対で「陽(ひ)の当たらない」ところを、又、「影」は「実」の反対で「実像でない=虚像」(の)「池に映った高殿の姿(=虚像)」を示している。
技巧が凝らされているが、それを感じさせない品格のある七言絶句の傑作である。
※ ※ ※ ※ ※
「山亭夏日」の第4句に「薔薇」が出て来る。
薔薇は今が盛りの季節。Virtual real な世界で拙句一句と拙歌を一首をつくってみた‥
[35] Blue heaven
[36] Blue heaven (左) / 薄紫色の
Blue moon (右)
薔薇の騎士 Blue heavenの 涼やかさ 悟空
美しき 薔薇には棘があることを 知るも挑むは 男(をのこ)の性(さが)か 悟空
では、また‥〔了〕
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