今日最初にお届けするのは、松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第10回〕【伏見・大津・辛崎】についてである。
『野ざらし紀行』は、前《会報》03月26日付【時習26回3-7 0645】にて、松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第9回〕【京都/鳴滝】に続いてのお届けとなる。
芭蕉は、貞享02(1685)年二月下旬(新暦03月25日~04月初旬)京都鳴滝の富商 三井秋風の山荘に逗留した
その後、京都伏見(現 伏見区下油掛町)の知恩院の末寺 西岸寺(さいがんじ)に任口(にんこう)上人を訪ねている
今回のその時の模様である。早速御覧頂きたい。
※ 1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
【済】十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
【済】十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
【済】十二月廿五日(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年
※ 1685(貞享02)年 ※
【済】二月(初旬から中旬廿日迄(新暦03月05日~03月24日)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を拝す
/ 東大寺二月堂の修ニ会:二月一日~十四日【済】二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
【今回〔第10回〕:伏見・大津・辛崎】三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着
《原文》
伏見西岸寺任口上人に逢(あふ)て
我がきぬにふしみの桃の雫(しづく)せよ
《現代語訳》
伏見 西岸寺の任口(にんこう)上人に逢って
【意】私の衣に滴る花の名所 伏見の桃花の雫の様に、老師(=任口上人)よ、師の高邁な教えや徳を私にご教示下さい
【季語】桃:春【解説】元和09(1623)年 2代将軍秀忠が家光に将軍職を譲った年に伏見城は廃城となった
この時、失業者となり農民となった多くの豊臣方の元武士達に拠って城跡・大名屋敷跡の丘陵地に桃の木が栽培された
元禄時代に3万本あったとされ、この地は桃の名所となり、爾来この伏見城跡地は「桃山」と呼ばれる様になった
この句は、芭蕉が桃花の雫を任口上人の教えや徳に例えて詠んだ挨拶の句
《語句》
(注1) 伏見西岸寺…伏見油掛町にある浄土宗知恩院の末寺 / 天正18(1590)年 岸誉上人が開基 / 油懸山地蔵院西岸寺(注2) 任口上人…西岸寺の三世住職 宝誉上人 / 松江重頼門下で俳人・連歌師の西山宗因(1605-82)と親交あり、談林俳諧の長老格 俳号:任口、如羊とも / 1606生~1686没(享年81歳)
《原文》
大津に至る(=出(いづ)る)道、山路(やまぢ)をこ(へ=)えて
山路来て何やらゆかしすみれ草
湖水の眺望
辛崎(からさき)の松は花より朧(おぼろ)にて
《現代語訳》
大津に至る道の途中で山路を越えて
【意】山道に遣って来てふと道端に目を向けると可憐なスミレ草が咲いている
/ 何となく心惹かれることだヨ
【季語】すみれ:春【解説】『熱田皺筥物語』に「白鳥山 何とはなしに何やらゆかし菫草」とあるのが初案
白鳥山は日本武尊が白鳥となって舞い降りた地という
その後、上五を「山路来て」と改め、野ざらし紀行では「大津に至る道」で詠んだ句とした
琵琶湖を眺望して
【意】辛崎の松は、琵琶湖畔で桜花より霞んで見えるのが風情があっていいものだ
【季語】「花」「朧」:春【解説】大津の本福寺別院(千那亭)での作
明和板『野ざらし紀行』には「湖水の眺望大津尚白亭にて」と【前書】する
初案は千梅編『鎌倉海道』所収の「辛埼の松ハ小町が身の朧(おぼろ)」
『ひとつ松』(尚白編/貞享04年刊)は下五を「朧かな」とし、後に「朧にて」に治定
「辛崎(=唐崎)」は本福寺や大津市市街より北数キロ程の琵琶湖西岸にある
「辛崎の松」は、唐崎神社の『一つ松』で、現在は3代目だと言われている
『近江八景』の「唐崎の夜雨」でも有名 / 「花」とは「桜花」のこと
この句は、芭蕉の俳句の中でも有名な作品であるが、解釈は結構難しい
格助詞「より」をどう詠むかで意味合いが変わって来るからだ
【小生comment】
芭蕉の名句「辛崎の松は花より朧にて」を皆さんはどう解釈されましたか?色々と考えて見るのも面白いですね。
■続いての話題は、三連休の初日の03月18日(土)に上京して日帰り美術館巡りをしたお話から、東京都美術館の次に訪れた国立西洋美術館『シャセリオー』展についてお届けする。
テオドール・シャセリオー(Theodore Chasseriau(1819-56))をご存じの方は然程多くないのではないかと思料する。
以下、主催者の挨拶から引用してご紹介する。
本展は、19世紀France・ロマン主義の異才テオドール・シャセリオー(Theodore Chasseriau(1819-56))の芸術を日本で初めて本格的に紹介するもの。
11歳でアングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres(1780-1867))に入門を許され、16歳でsalonにdebut。やがて師の新古典主義を離れ、ロマン主義の最後を飾るに相応しい抒情と情熱を湛えた作品を数々残して、1856年に37歳で急逝した Chasseriau は正に時代を駆け抜けた才能だった。〔中略〕
本展は、油彩・水彩・素描・版画・資料等約90点に拠って、彼の画業全体を紹介。〔中略〕
更に、Chasseriau 芸術から決定的な影響を受けた Gustave Moreau や Pierre Puvis de Chavannes 等の作品も併せて展示し、ロマン主義から象徴主義への展開、そして orientalism の系譜の中でその意義を再考する。
今回の展示作品は、ルーヴル美術館所蔵の作品が中心。
これ等の多くは、Chasseriau の従兄の息子で、ロダン美術館館長(1925-34年)も務めた Arthur Chasseriau(1850-1934)男爵(baron)が同美術館に遺贈した collection に由来する。
[01]国立西洋美術館前にて
[02]同館入口
[03]本展leaflet
1830年 11歳になる年に Chasseriau は、遠縁の画家アモリー=デュヴァルの紹介で Dominique Ingres(1780-1867)のatelierへの入門が許された。
新古典主義のJacques-Louis
David(1748-1825)の承継者として、1824年の
salon で『ルイ13世の誓願』と共に Paris で華麗な復帰を果たした Ingres。彼のatelier は当時最も注目されるatelierだった。
その atelier で、Chasseriau は Ingres から高い評価を与えられ、Ingres がイタリアへ戻る1834年迄通う。
[04]Dominique
Ingres『ルイ13世の誓願』1824年〔Louvre美術館(Musée
du Louvre)〕〔←本作品は展示作品ではない〕
[05]Theodore
Chasseriau『自画像(Portrait
d’ariste)』1835年〔Paris, Musee du Louvre〕
彼等は、Paris カルーゼル広場付近のドワイエネ小路の古い家屋での共同生活、即ち名高い「ボヘミアン(Bohemian = La Boheme)生活」を送っていた。
Chasseriau も短い「La Boheme」の短い歴史に名を連ねている。
[06]同『16世紀Spain女性の肖像の模写』1834-50年頃〔個人collection〕
1840年
夏に Chasseriau はイタリアへ7か月間古代Romeやギリシャの遺跡とその周辺のsketch等を行なった。
この旅は、その後の彼の創作活動の大きな礎となった。Chasseriau は、Rome で嘗ての師 Ingres に再会する。
しかしもうこの時は、ロマン主義者となっていたChasseriau とは新古典主義の儘の Ingres との間には相容れない壁が出来、二人は精神的な決別をする。
[07]同『アポロンとダフネ(Apollon et Daphne)』18345年頃〔個人collection〕
本作品は、神話主題のロマン主義的解釈で描かれている。
人物の情動と背景の樹木の形が響き合う様な画面構成となっており、これは Gustave Moreau の象徴主義へと発展していく出発点となる絵である。
[08]同『サッフォー(Sapho)』1845年〔個人collection〕
1850年代に入ると、Chasseriau は写実主義(realism)の胎動を予感させる作品を残している。
彼の恋人で女優のアリス・オジーを model とした『泉のほとりで眠るニンフ』である。本展でも、Chasseriau と同年生まれの写実主義のクールベ(Courbet)の[09]『眠れる裸婦』と比較展示されていたが、Chasseriau の作品の方が Ingres に近くやや理想化され描かれている。
[09]同『泉のほとりで眠るニンフ(Nymphe endormie pres d’une source)』1850年〔France国立造形芸術センター(アヴィニョン、カルヴェ美術館に寄託)〕
[10]Gustave
Courbet(1819-77)『眠れる裸婦(Femme
nue endormie)』1858年〔東京、国立西洋美術館〕
由緒ある貴族の家に生まれた Alexis de Tocqueville 伯爵(1805-59)は、法律家として1831年に監獄制度視察の為渡米。
Tocquevilleは、この経験から名著『米国のdemocracy』(第1巻1835年/第2巻1840年)を執筆する。1839年には上院議員になり、自由主義の政治家として活躍。
1848年の二月革命勃発後、1849年には第二共和政政府で外相を務めた。
Tocquville の最も有名な肖像画である本作品が制作されたのは丁度その頃である。
本作品は、model Tocquvilleの知性や精神性を際立たせた肖像画の傑作と言っていい。
彼女は、詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Lamartine(1790-1869))とjournalist & 政治家 エミール・ド・ジラルダン(Emile de irardin(1806-81))が代父。
又彼女は、ロマン主義の詩人で小説家のユーゴー(Victor Marie Hugo(1802-85))やデュマ(Alexandre Dumas pere(1802-70)=(大デュマ))をはじめ文豪達が出入りする文芸の香り高い環境で育った。
本作品として描かれた時、彼女の年齢は23歳。
本作品に描かれる聖母の
model が、Chasseriau の最後の恋人 マリー・カンタキュゼーヌ。
彼女は、ビザンツ帝国皇帝の血筋を引くモルタヴィアの公女。Chasseriau の死後、彼女は Pierre Puvis de Chavannes(1824-98)の生涯の伴侶となった。
[13]同『東方三博士の礼拝(L’Adoration des Mages)』1856年代〔Paris、プティ・パレ美術館〕
[14]ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau(1826-98)))『若者と死(Le jeune homme et la Mort)』1881-82年〔Paris, Musee d’Orsay〕
1856年 Chasseriau の死の年に Chavannes は生涯の伴侶となるマリ・カンタキュゼーヌと出会う。
更に
Chasseriau が描いた会計監査院の壁画を見て感銘を受けた。このことが、「壁画が Chavannes のその後の重要な芸術活動分野となる」きっかけとなった。
作風に於いても、Chasseriau の絵が Chavannes に与えた影響は小さくない。
例えば、[15]Chessiriau『海から上がるヴェヌス』1838年と[16]Chavannes『海辺の娘たち』1879年頃を見比べられたい。
色調や雰囲気がよく似ている。
[15]Chasseriau『海から上がるウェヌス』1838年〔Paris, Musée du Louvre〕
[16]ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de
Chavannes(1824-98))『海辺の娘たち(Jeunes filles au bord de la
mer)』1879年頃〔Paris, Musee d’Orsay〕
特に、新古典主義(neoclassicism)→ロマン主義(Romanticism)→写実主義(Realism)や象徴主義(symbolism(仏語))へ変遷していく中で、Chasseriaou が果たした役割は大きく、彼に改めて敬意を表したい。
ご覧の様に Tocquville の大変有名な肖像画をご覧になられて、Chasseriau の名前を知らなくても「この絵は見たことある」と思われた方は少なくないと思われる。
この絵の作者が Chasseriau であることを知ったことも、今回初めて彼の名を知った小生、本展を見た収穫の1つである。
■続いての話題は、03月24日に豊橋美術博物館にて04月02日迄開催中の『平川敏夫』展を見て来たのでその模様についてお伝えする。
平川敏夫は1924年
豊川市小坂井町に生まれる。京都の稲石着尺(きじゃく)図案塾にて日本画の基礎を学び、帰郷後、日本画家の中村正義と出会い、本格的に日本画制作を開始。
戦後、創画会の草創期から関わり活躍。
晩年には、庭園や奥山の水墨画の傑作を数多く制作。
2006年没、享年81歳。
ご覧の様に、平川敏夫の絵は、晩年の水墨画に日本画の大家としての風格が滲み出ている。
小生の好きな日本画家の一人である。
[17]豊橋市美術博物館入口の本展案内看板
[18]平川敏夫『樹峡』1972年
[19]同『雪后閑庭』左隻1990年
[20]同『雪后閑庭』右隻1985年
[21]同『北濤松風』2002年〔部分〕
※[19][20]は本展展示作品ではない
■続いての話題は、03月29日に愛知県芸術劇場大 hallにて開催された『小澤征爾音楽祭オペラ・プロジェクトXV/ビゼー作曲:歌劇「カルメン」』を見て聴いて来たのでその模様についてお伝えする。
会場で、旧行時代の同期の朋友 佐藤隆彦君と出会った。そして、更に吃驚したのは、世界No.1 or 2 を誇る自動車 maker の社長ご夫妻を lobby で見かけたことだ。
気品を感じさせるniceなご夫妻だった!(^-^)♪
カルメン役のサンドラ・ピクス・エディをはじめ皆〜んな持ち前の歌唱の力量を発揮してくれた最高に素晴らしい演奏会だった。
今日の演奏会を聴いて、小生、寿命が また何年か延びた様な気がする!(^ - ^)b
此処で拙句が一句浮かんだ。
春宵に 値千金 小澤カルメン! (字余り)/悟空
[22]本演奏会leaflet(表面)
[23]本演奏会 leaflet(裏面) & 同 program
[24]大hall lobby にて
[25]同上 佐藤T彦君
■今日最後にお届けするのは、最近読んだ神尾哲男著『がんで余命ゼロと言われた私の
死なない食事』についてである。
本書の著者 神尾哲男(1952-
)氏は、14年間、食事の力で末期がん(前立腺がん、脊髄と鎖骨と鼠径部(そけいぶ)リンパ節に転移)を抑えている。本業はフランス料理のシェフ(Chef(仏語))。
神尾氏が頼ったのは、生きる源、「食」の持つpower。〔はじめに/P.3〕
以下に本書のindexの大半をupしたのでご覧下さい。
これを読むだけで、がんに罹っても毎日の食事療法で長生き出来る元気が湧いて来る感じがするのでご覧下さい。
第一章/さらば病院よ、医者よ。あとは自分でやる〔詳細略〕
第二章/がんは食事で抑えられる[1]食べ物を変えれば、体が変わる / [2]体が本当に必要とするものを摂る大切さ
[3]がんを食事で抑える7つの心掛け
(1)地元で採れた旬の食材を摂取 / (2)食材は丸ごと食べる、皮まで食べる
(3)体を温める陽性食品を積極的に摂る / (4)偏った食べ方は厳禁 / balanceのいい「雑食」が効果的
(5)生命力の強い野菜を摂る / (6)動物性たんぱく質は元気の源
(7)食品添加物は摂らないようにする
第三章/がんを遠ざける基本は、まず調味料を変えること
[1]調味料は良質で上等な「本物」を使用する
[2]僅か数百円の差が、命を守る
[3]「本物」の調味料を見分ける
[4]大瓶では買わない
※ 本物の調味料摂取/種類別アドバイス
【塩】塩化ナトリウム95%以上の塩は避ける
/ 天然塩を
【醤油】原材料に「脱脂加工大豆」とある醤油は使わない【味噌】自然な「生味噌」を選ぶこと / 味噌汁は60℃以上に温めない〔P.75〕
※ 噌汁の具は kalium を豊富に含んでいるものが多い / Kaliumは、体内から余分な塩分の排出を促す mineral。
味噌汁の気になる塩分も、それ等の具と共に摂取することで、按配よく相殺される。
私(=神尾)も玄米ご飯に添えて、最低でも一日一杯は味噌汁を飲んでいる。
ただ、味噌汁を作る際は、注意しなければならないことがある。/ 味噌の麹菌は60℃程で死滅して仕舞う。
だから私は、まず鍋で具を煮ておいて、一旦鍋を火から下ろし、お湯が少し冷め60て℃以下になった辺りで味噌を溶かして仕立てている。
【油】油選びが健康のカギを握る〔P.79〕
【砂糖】精製された佐藤は最強の毒
【味醂】料理を深く美味しくする / 砂糖の代わりとして使用
【酢】体を弱アルカリ性に保ってくれる
第四章/私が辿り着いた、がんで死なないための食事術
[1]主食は玄米がいちばん / [2]水道水は、塩素やトリハロメタン(trihalomethane)を出来るだけ除去して使用
[3]料理のbaseとなる「万能旨味調味料」「出汁」をつくる/ [4]野菜類は「ホタテの殻」の力を借りて洗浄
[5]魚や肉は、調理前に塩で揉んで不純物を出す / [6]食材を出来るだけ陽性に変えて調理する
[7]牛乳、乳製品は用いない / [8]植物性乳酸菌を摂り入れる
[9]Almondは優秀な栄養食材 / [10]調理の工夫で食品添加物を避ける
[11]食材の品目数には神経質にならない / [12]Calorie を気にしない代わりにGI(注)値を重要視
(注) GI値 : Glycemic Index (グリセミック・インデックス) / 食事で摂取した糖(ブドウ糖)に拠る血糖値の上昇率を100として示す指数のこと
食事で摂ったものは体内で糖になり、血液中を流れる糖の値が急増すると、血糖値を下げる役目を持つ insulin が膵臓(pancreas)から分泌される。
しかし分泌され過ぎると insulin は、脂肪を作り脂肪細胞の分解を抑制する為肥満の原因となり、血液もドロドロとなって血管壁も傷む。
だから食事の際は、血糖値の上昇を緩やかにする食品を摂る必要がある。
その食品を選ぶ際は、【GI値60】を基準とするのが良いとされ、その値は低い程血糖値上昇が遅く、insulin の分泌が抑制される。
精白米[GI値 84] > 玄米[同 56] / 食パン[同91] > 小麦全粒粉パン[同 50] / フランスパン[同 93] > ライ麦パン[同 58]
うどん[同 85] > パスタ(pasta)[同 65] > 蕎麦[同 54]
数値が低い程、体に負担がかからない。/ 因みに、牛・豚・鶏肉は平均しで[同 50]以下、魚類[同 40]前後、特に青魚は低い値である。
【GI値を下げる3つの方法】
(1)酢を使う / (2)食物繊維の多い食材と併せて調理 / (3)豆類と一緒に食べる
[13]supplement は要らない
第五章/がんを抑え続けている私が毎日やっていること
【その1】体を冷やさない(1)朝起きたら、白湯(さゆ)を飲む / (2)体を冷やす飲食物を避ける / (3)服装にも気を付ける / (4)自家製の生生姜を摂取
【その2】常に体を弱アルカリ性(alkalinity)に保つ
(1)クエン酸(citric acid)水を飲む / (2)重曹(bicarbonate)水を飲む
【その3】食事は1日2食
【その4】腹6分目に留める
【その5】甘いものは口にしない
【その6】意識的に「深呼吸」を励行
第六章/憎まずに、がんと寄り添う心が命を延ばす
[1]がんは敵ではない / [2]他人に命を預けない / [3]マイナス100を、せめてマイナス70に‥それと「継続」すること
[26]神尾哲男著『がんで余命ゼロと言われた私の 死なない食事』
菜の花って、日本人として郷愁を感じさせる美しい花ですね。
ホトトギス同人 富安風生こと、時習館高校の前身愛知第四中学校のOBで、八名郡金澤村(現 豊川市金沢町)出身、逓信省事務次官を務めた富安謙次(1885-1979)氏の名句がある。
菜の花と言ふ平凡を愛しけり 富安風生
この句に触発されて詠んだ拙句をご紹介して本《会報》を締め括る。
菜の花が 培ふ美こそ 郷愁か 悟空
[27]岩瀬君が撮影した「菜の花」
[28]拙宅の庭に咲いた杏花〔2017年04月01日午後4時半現在〕
では、また‥。〔了〕
*ブログへは【0626】号迄のback numberは URL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←ここをclickして下さい
*
0 件のコメント:
コメントを投稿