最初にお届けするのは、前《会報》【時習26回3-7 0646】に引き続き、松尾芭蕉『野ざらし紀行』今日はその〔第11回〕【水口】についてである。
芭蕉は、京都伏見の西岸寺を訪ねた後、貞享02(1685)年03月中旬(=新暦04月14~20日頃 東海道の水口で、旧友の服部土芳に二十年来の再会を果たしている。
土芳も、この芭蕉との再会以降、俳諧の道に本格的に入って行った。
今回は、その二人の再会の場面である。御覧頂きたい。
【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
【済】十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
【済】十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
【済】十二月廿五日(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年
【済】二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
【済】三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
【今回〔第11回〕:水口】三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着
【解説】「命二つ」で、旧友の服部土芳と芭蕉が全く別の人生行路を歩んで来たことを暗示する
二人が再会して、青少年時代の思い出を振り返り甦った感動を、今爛漫と咲き乱れる桜の光景に重ね合わせたしみじみとした格調高い句
泊船本・狐屋本は、上五「命二ツ」とする
広重の「水口」の版画(添付写真[01])では、画面左側に名産「干瓢(かんぴょう)」づくりの模様が描かれている
(注2) 故人:旧友 / 芭蕉と同郷、伊賀上野出身の服部土芳(とほう(1657-1630))
土芳は、この水口での芭蕉との再会の後、俳諧の道に本格的に進んでいく
伊賀上野にある服部土芳の庵『蓑虫庵(みのむしあん / さちゅうあん)』は「蓑虫(みのむし)の 音(ね)を聞きに来(こ)よ 草の庵(いほ) / 芭蕉(貞享04(1687)年 / 出典「続虚栗」/ 【季語】蓑虫:秋)」の句に基づく
2007.09.03付【時習26回3-7の会 0122】09月02日「日帰り『伊賀上野』紀行」ご参照
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/26_0122mail_5dae_1.html
現代語訳すると「芭蕉が昼休みに立ち寄った茶店 / 見ると、躑躅(ツツジ)が生けてある / その後ろ陰ではひとりの女が干鱈を裂いている / 伊賀上野に遣って来て旧友と句を詠み乍ら歩いている / 辺り一面菜の花畑だ‥雀が群がっているが、雀たちも花見をしている様な顔つきだ」‥とこんな感じになる。
本展について、「主催者の挨拶」及び「三菱一号館美術館 高橋館長の『本邦初のナビ派展開催について』」から夫々引用してご紹介する。
19世紀末、新しい芸術の創造を目指し、自らを新たな美の「ナビ」(ヘブライ語で「預言者」の意)と称した若い画家たちのgroup、ナビ派。
彼等の芸術は近代都市生活を平面的な構成で描く装飾性と、目に見えないもの迄も描く内面性を備え、20世紀美術への予兆を感じさせる存在として、近年、国際的に評価が高まって来ている。
Paris のオルセー美術館は、印象派やポスト印象派の優れた collection で日本でも広く親しまれ、愛されているが、このナビ派の作品群に於いても世界第一級の質と量を誇る。
此の度、オルセー美術館・オランジュリー美術館総裁であり、ナビ派研究の第一人者でもあるギ・コジュヴァル(Guy Cogeval)氏を総監修に迎え、その collection から選りすぐった作品約80点を通じて、ナビ派の全貌と魅力を紹介することとなった。〔後略〕
今回の「オルセーのナビ派」展は、そうした19世紀末の一大美術運動であるナビ派を、我が国で初めて総合的に紹介する展覧会。〔中略〕
この機会に、線遠近法や明暗法に拠る三次元空間の再現を基礎にした重厚な西洋美術の伝統と決別し、優しく感覚的であり乍ら思想性にも満たされ、具象性と抽象性を併せ持つ新たな美学の創造を目指したナビ派の作品を再発見して頂ければ、大変嬉しく存じる。〔了〕
Maurice Denis に拠れば、Gauguin は Serusier にこう述べたと言う
「これ等の木々がどう見えるかね? / これ等は黄色だね / では、黄色で塗り給え / これ等の影はむしろ青い / 此処は純粋なultramarine で塗り給え / これ等の葉は赤い? / それなら vermillion(朱色) で塗り給え」
印象主義者達が捨て去ることのなかった「再現的描写」が、此処では「色彩に拠る等価物の探求」に取って代わられている
本作は、1927年画家 Serusier の死後は Denis の所蔵となり、Denis は本作品を生涯大切にしていたという
〔以上、図録本作品 caption より引用〕
本作品は、前回2014年07月『冷たい炎の画家 ヴァラットン』展のcoverになっている
不自然なほど鮮やかな色彩の人物やball、unbalance な構図と遠近感が妙に印象に残る不思議な作品である
ナビ派は、印象派・ポスト印象派から明らかに脱皮した絵画世界の新境地を創造している。
特に本展は、天保04(1833)年版の東海道五十三次、即ち、「01:始発/日本橋〔朝之景〕」及び「02~54迄の53の宿駅(=五拾参次)」、そして「:終点/京師〔三条大橋〕」の計55箇所に加え、天保13(1842)年、嘉永年間(1848-54年頃)、安政02(1855)年の版も一挙に展示されていた。
今日は、愛知県、即ち、三河国の『二川』『吉田』『御油』『赤坂』『藤川』『岡崎』『池鯉鮒』の7つ、尾張国の『鳴海』『宮』の2つ、計9つの宿駅について、広重の版画をご紹介する。
爾来、金子院長が主治医になってくれて定期的に経過観察して来ている。
幸い是迄の処、癌の再発はなく来ていたが、先月(03月)初旬の定期検診の際、彼から「術後2年半近くなったので04月に『内視鏡検査』をしよう」ということになり検査入院したという次第。
04月04日(火)に日帰り入院で内視鏡検査をし、もしpolyp が見つかった場合は、即、内視鏡に拠る polyp 切除処置を施し、日帰りから翌05日(水)迄の一泊二日入院に切り替えることになった。
04日の日は、朝08時30分に病院に行き、先ず採血。
そして、入院となり病室にて09時00分から90分かけて下剤を6回にかけて飲み、大腸内を何もない状態にして、12時30分から約60分かけて内視鏡で検査した。
麻酔なしで、monitor TVを見乍ら、担当医のA沢先生の説明を聴いた。
A沢先生が手際良く、内視鏡を小腸迄持って行き、その後、ユックリと戻り乍らpolypがないか診て行った。
そうしたら、右肋骨下部の上行結腸と左肋骨下部の横行結腸に全部で5ミリ大の polyp 2つ、3ミリ大の polyp 1つの、計3つの大腸polypが見つかった。
2年4か月で3つ発生したことになる。
正式には病理検査の結果待ちとなるが、良質の polyp の様でまずは一安心。
翌日(04月05日)正午過ぎには、病室で昼食を摂った後、退院となった。
今回、二度目の polyp 切除を処置して貰い、「人生、この先も何が起きるか解らないぞ だから、毎日を悔いなく生きるべきなんだ」と改めて思った。
睡眠を除いた入院中の余白時間は、家から持参したCD/DVD player で、往年の名violinist の Zino Francescatti の演奏を聴き乍ら、平野敬一郎著『マチネの終わりに』他1冊を読んだ。
実に美しい。
「海棠」は、中唐の、当時としては珍しい女流詩人 薛濤(768-831)の『海棠渓』
そして、「桃」と「李」は、これからご紹介する初唐の詩人 劉希夷(651-680?)の『代悲白頭翁』の名詩の冒頭の歌い出しに出て来る「桃李花」である。
今年花落顔色改 / 明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪 / 更聞桑田變成海
古人無復洛城東 / 今人還對落花風
年年歳歳花相似 / 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子 / 應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐 / 伊昔紅顔美少年
公子王孫芳樹下 / 清歌妙舞落花前
光祿池臺開錦繡 / 將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識 / 三春行樂在誰邊
宛轉蛾眉能幾時 / 須臾鶴髪亂如絲
但看古來歌舞地 / 惟有黄昏鳥雀悲
今年(こんねん) 花落ちて顔色(がんしょく)改まる / 明年(みょうねん) 花開いて復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る
已(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為(な)るを / 更に聞く 桑田(そうでん)の変(へん)じて海と成るを
古人(こじん)復(ま)た洛城(らくじょう)の東(ひがし)に無く / 今人(こんじん)還(かえ)って対す落花(らっか)の風
年年歳歳(ねんねんさいさい) 花相(はなあ)い似たり / 歳歳年年(さいさいねんねん) 人同じからず
言(げん)を寄す 全盛の紅顔子(こうがんし) / 応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうおう)
此(こ)の翁(おう) 白頭(はくとう) 真(しん)に憐れむ可(べ)し / 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
公子王孫(こうしおうそん)と芳樹(ほうじゅ)の下(もと) / 清歌妙舞(せいかみょうぶ)す 落花(らっか)の前
光祿(こうろく)の池台(ちだい) 錦繡(きんしゅう)を開き / 将軍の楼閣 神仙を画(えが)く
一朝(いっちょう) 病に臥(ふ)して 相(あ)い識(し)る無し / 三春(さんしゅん)の行楽 誰(た)が辺(へん)にか在(あ)る
宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ / 須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し
但(た)だ看(み)る 古来 歌舞(かぶ)の地 / 惟(た)だ 黄昏(こうこん) 鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ
今年花が散り春が過ぎれば人の容貌も衰えてゆく / だから翌年再び花開く時、誰が変わらずそれを見ることが出来ようか
我々は既に見て来ている 松や柏の木がやがてくだかれて薪にされて仕舞うことを / 又こうも聞いている 桑畑が海にさえ変わって仕舞うことを
昔この洛陽の東でこの花を眺めた人は既に(この世に)いない / 今生の人々がこうして風に舞う落花を眺めているのだ
年々歳々、花は同じ様に咲いて見えるが / 歳々年々、それを見る人々は同じでなく変わって仕舞うのだ
青春真っ只中にある若人達よ、思い遣ってくれ給え / この半分死にかけた様な白髪頭の老人のことを
白髪の老人に全く同情せずにはいられない / この人こそ、若い時代は紅顔の美少年だったのだから
王公の子息達と芳しい樹々の下で遊び / 舞い落ちる花の前で軽やかに歌い舞ったのだった
前漢の光禄大夫、王根(おうこん)の高殿にあった池の台(うてな)の様に錦を張り巡らせた瀟洒な庭園や / 後漢の大将軍梁冀(りょうき)の様に神仙の絵を描かせた様な、豪勢な邸宅にも参上したのだ
しかし、一度(ひとたび)病に臥すと心を寄せる人もない / あの春の様な華やかだった日々はいったい何処へ行って仕舞ったのか
なだらかで美しい眉‥その美しさもいつ迄持つだろうか / 忽(たちま)ち鶴の白い羽の様な白髪となり糸の様に乱れる時が遣って来るのだ
見てみなさい 昔華やかに歌い舞った辺りを / 今はただ黄昏の光の中、小鳥たちが哀しく囀っているのみである‥(了)
明日04月08日(土)から一泊二日で、上杉謙信の居城「春日山城跡」と、松平忠輝の居城「高田城跡」、信州・上山田温泉、千曲市「あんずの里」、長野市「水野美術館」等を見て来る予定である。
その模様は、次号《会報》をお楽しみに!
お堀の石垣には淡紅色のソメイヨシノが満開で、空堀の底に黄色い菜花と華麗な二重奏を奏でて美しかった。
[42]名古屋城のお堀の桜と菜花
慶長17(1612)年 天守閣が完成 / この年から元和02(1616)年にかけて「清州越し」と称される大移動が成された
[43]加藤清正の石曳の像
大岡信というと、詩文が大好きな小生、昔から折に触れ彼の作品集や著作はよく読んだ。
又、【2637の会】の恩師で、嘗てクラス会に参加して下さった鈴木鉄三先生が、大岡信氏の著作『折々のうた』がいいよと紹介して下さったことが思い出される。
鉄三先生から紹介された小生、早速手に入れて、爾来『折々のうた』はよく読んだ。
添付写真[50]がその「『精選 折々のうた』上・中・下」である。
ご冥福を祈る。〔合掌〕
[51]大岡信『精選 折々のうた』上・中・下
芭蕉は、京都伏見の西岸寺を訪ねた後、貞享02(1685)年03月中旬(=新暦04月14~20日頃 東海道の水口で、旧友の服部土芳に二十年来の再会を果たしている。
土芳も、この芭蕉との再会以降、俳諧の道に本格的に入って行った。
今回は、その二人の再会の場面である。御覧頂きたい。
※ 1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
【済】十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
【済】十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
【済】十二月廿五日(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年
※ 1685(貞享02)年 ※
【済】二月(初旬から中旬廿日迄(新暦03月05日~03月24日)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を拝す / 東大寺二月堂の修ニ会:二月一日~十四日【済】二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
【済】三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
【今回〔第11回〕:水口】三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着
《原文》
水口(注1)にて、二十年を経て故人(注2)に逢ふ。
命(いのち)二つの中に生(いき)たる桜哉(さくらかな)
《現代語訳》
水口で二十年ぶりに旧友(=服部土芳)に逢った。
【意】二人は夫々別の20年の人生を生きて来た / その二人の目には、爛漫の桜花が一層輝きを放って見えた
【季語】桜:春【解説】「命二つ」で、旧友の服部土芳と芭蕉が全く別の人生行路を歩んで来たことを暗示する
二人が再会して、青少年時代の思い出を振り返り甦った感動を、今爛漫と咲き乱れる桜の光景に重ね合わせたしみじみとした格調高い句
泊船本・狐屋本は、上五「命二ツ」とする
[01]歌川広重(1797-1858)『水口』(「東海道五拾参次」より〔天保04~06(1833-35)年頃制作〕)
《語句》
(注1) 水口(みなくち):滋賀県甲賀郡水口町 / 旧東海道の「1.日本橋」から数えて50次(=「51.水口」)目の宿駅広重の「水口」の版画(添付写真[01])では、画面左側に名産「干瓢(かんぴょう)」づくりの模様が描かれている
(注2) 故人:旧友 / 芭蕉と同郷、伊賀上野出身の服部土芳(とほう(1657-1630))
土芳は、この水口での芭蕉との再会の後、俳諧の道に本格的に進んでいく
伊賀上野にある服部土芳の庵『蓑虫庵(みのむしあん / さちゅうあん)』は「蓑虫(みのむし)の 音(ね)を聞きに来(こ)よ 草の庵(いほ) / 芭蕉(貞享04(1687)年 / 出典「続虚栗」/ 【季語】蓑虫:秋)」の句に基づく
2007.09.03付【時習26回3-7の会 0122】09月02日「日帰り『伊賀上野』紀行」ご参照
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/26_0122mail_5dae_1.html
【小生comment】
前回【辛埼】と今回【水口】の間に、泊船本・狐屋写本には「昼の休らひとて旅店に腰掛けて / つゝじいけて其陰に干鱈(ひだら)さ(=裂)く女 / 吟行 / 菜畠に花見顔なる雀哉」と載っている。現代語訳すると「芭蕉が昼休みに立ち寄った茶店 / 見ると、躑躅(ツツジ)が生けてある / その後ろ陰ではひとりの女が干鱈を裂いている / 伊賀上野に遣って来て旧友と句を詠み乍ら歩いている / 辺り一面菜の花畑だ‥雀が群がっているが、雀たちも花見をしている様な顔つきだ」‥とこんな感じになる。
■続いての話題は、三連休の初日の03月18日(土)に上京して日帰り美術館巡りをしたお話から、東京都美術館→国立西洋美術館の次、3番目に訪れた三菱一号館美術館『オルセーのナビ派』展についてお届けする。
本展の leaflet には『美の預言者たち ― ささやきとざわめき オルセーのナビ派(Orsay Babis)』展とあった。本展について、「主催者の挨拶」及び「三菱一号館美術館 高橋館長の『本邦初のナビ派展開催について』」から夫々引用してご紹介する。
19世紀末、新しい芸術の創造を目指し、自らを新たな美の「ナビ」(ヘブライ語で「預言者」の意)と称した若い画家たちのgroup、ナビ派。
彼等の芸術は近代都市生活を平面的な構成で描く装飾性と、目に見えないもの迄も描く内面性を備え、20世紀美術への予兆を感じさせる存在として、近年、国際的に評価が高まって来ている。
Paris のオルセー美術館は、印象派やポスト印象派の優れた collection で日本でも広く親しまれ、愛されているが、このナビ派の作品群に於いても世界第一級の質と量を誇る。
此の度、オルセー美術館・オランジュリー美術館総裁であり、ナビ派研究の第一人者でもあるギ・コジュヴァル(Guy Cogeval)氏を総監修に迎え、その collection から選りすぐった作品約80点を通じて、ナビ派の全貌と魅力を紹介することとなった。〔後略〕
ボナール(Bonnard)やヴュイヤール(Vuillard)、ドニ(Denis)やヴァロットン(Vallotton)、マイヨール(Maillol)等、「ナビ派」の画家達は、Paris の知的・文化的な環境を享受し乍ら、画家ゴーガン(Gauguin)の造形性と観念性を巧みに融合した作品の影響下に、画面の平面性を強調し乍ら装飾性に富む絵画の創造を試みた。
「絵画が、軍馬や裸婦や何等かの逸話である前に、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきだ」という1890年にドニが残した言葉は有名である。今回の「オルセーのナビ派」展は、そうした19世紀末の一大美術運動であるナビ派を、我が国で初めて総合的に紹介する展覧会。〔中略〕
この機会に、線遠近法や明暗法に拠る三次元空間の再現を基礎にした重厚な西洋美術の伝統と決別し、優しく感覚的であり乍ら思想性にも満たされ、具象性と抽象性を併せ持つ新たな美学の創造を目指したナビ派の作品を再発見して頂ければ、大変嬉しく存じる。〔了〕
[02]三菱一号館美術館前にて
[03]本展leaflet
[04]Gauguin(1848-1903)『《黄色いキリスト》のある自画像』1890-91年
[05]同『扇のある静物』1889年頃
[06]ベルナール(Emile Bernard(1868-1941))『炻器(せっき)瓶とりんご』1887年
[07]セリュジエ(Paul Serusier(1864-1927))『にわか雨』1893年
[08]同『タスマリン(護符)』1888年
本作品は、「ナビ派」結成の trigger となった作品
「左上の木々」「画面を斜めに横切る道」「川沿いのブナの並木」「右奥の水車小屋」等 、風景の諸要素が『色斑』となっているMaurice Denis に拠れば、Gauguin は Serusier にこう述べたと言う
「これ等の木々がどう見えるかね? / これ等は黄色だね / では、黄色で塗り給え / これ等の影はむしろ青い / 此処は純粋なultramarine で塗り給え / これ等の葉は赤い? / それなら vermillion(朱色) で塗り給え」
印象主義者達が捨て去ることのなかった「再現的描写」が、此処では「色彩に拠る等価物の探求」に取って代わられている
本作は、1927年画家 Serusier の死後は Denis の所蔵となり、Denis は本作品を生涯大切にしていたという
〔以上、図録本作品 caption より引用〕
[09]ドニ(Maurice Denis(1870-1943)『10月の宵、若い娘の寝室装飾の為のパネル』1891年
[10]ケル=グザヴィエ・ルーセル(Ker-Xavier Roussel(1867-1944))『人生の季節(Les Saisons de la vie)』1892-95年
[11]ボナール(Pierre Bonnard(1867-1947))『黄昏(クロッケーの試合)(Crepuscule(La Partie de croquet))』1892年
[12]マイヨール(Aristide Maillol(1861-1944))『女性の横顔(Profil de femme)』1896年頃
[13]Pierre Bonnard『親密さ(Intimite)』1891年
[14]ヴァロットン(Felix Vallotton(1865-1925))『化粧台の前のミシア』1898年
[15]同『髪を整える女性』1900年
[16]ヴュイヤール(Edouard Vuillard(1868-1940))『エッセル家旧蔵の昼食』1899年
[17]Maurice Denis『18歳の画家の自画像』1889年
[18]Edouard Vuillard『八角形の自画像』1890年
[19]Maurice Denis『マレーヌ姫のメヌエット』1891年
[20]Pierre Bonnard『格子柄のブラウス(Le Corsage a carreaux)』1892年
[21]Felix Vallotton『自画像』1897年
[22]同『ボール(Le Ballon)』1899年
添付写真[15]『髪を整える女性』と[21]『ボール』の2作品は、2014.07.21付【時習26回3-7の会0508】~07月16日:三菱一号館美術館『冷たい炎の画家 ヴァラットン』展でも当三菱一号館美術館にて見ている
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/2605080711conce.html ←ここをclickして下さい本作品は、前回2014年07月『冷たい炎の画家 ヴァラットン』展のcoverになっている
不自然なほど鮮やかな色彩の人物やball、unbalance な構図と遠近感が妙に印象に残る不思議な作品である
[23]Maurice Denis『磔刑像への奉納』1890年
[24]同『ミューズたち(Les Muses)』1893年
[25]ランソン(Paul Ranson(1864-1909))『春(Printemps)』1895年
[26]同『水浴』1906年頃
【小生comment】
03月18日には、一日で東京にある7つの美術館の企画展を見たが、個人的には、この三菱一号館美術館『オルセーのナビ派』展が一番気に入った。ナビ派は、印象派・ポスト印象派から明らかに脱皮した絵画世界の新境地を創造している。
■続いての話題は、03月20日に名古屋ボストン美術館にて開催されていた『三菱東京UFJ銀行貨幣資料館所蔵/広重 東海道五拾参次』展を見て来たのでその模様をお伝えする。
本展は、旧行時代に、同銀行貨幣資料館で何度か見ているが、矢張りいいものは何回見てもいい。特に本展は、天保04(1833)年版の東海道五十三次、即ち、「01:始発/日本橋〔朝之景〕」及び「02~54迄の53の宿駅(=五拾参次)」、そして「:終点/京師〔三条大橋〕」の計55箇所に加え、天保13(1842)年、嘉永年間(1848-54年頃)、安政02(1855)年の版も一挙に展示されていた。
今日は、愛知県、即ち、三河国の『二川』『吉田』『御油』『赤坂』『藤川』『岡崎』『池鯉鮒』の7つ、尾張国の『鳴海』『宮』の2つ、計9つの宿駅について、広重の版画をご紹介する。
[27]本展leaflet
[28]34:『二川〔猿ヶ馬場〕』
[29]35:『吉田〔豊川橋〕』
[30]36:『御油〔旅人留女〕』
[31]37:『赤坂〔旅舎招婦ノ図〕』
[32]38:『藤川〔棒鼻ノ図〕』
[33]39:『岡崎〔矢矧之橋〕』
[34]40:『池鯉鮒〔首夏馬市〕』
[35]41:『鳴海〔名物有松絞〕』
[36]42:『宮〔熱田神事〕』
■続いての話題は、一昨昨日と一昨日、即ち04月04(火)~05(水)の二日間、時習26回同期生の金子T也君【3-4】が院長を務めるK病院に一泊二日入院した報告である。
実は、以前お話した通り、小生、2014年12月03日に大腸癌切除手術を金子君の病院で受けた。爾来、金子院長が主治医になってくれて定期的に経過観察して来ている。
幸い是迄の処、癌の再発はなく来ていたが、先月(03月)初旬の定期検診の際、彼から「術後2年半近くなったので04月に『内視鏡検査』をしよう」ということになり検査入院したという次第。
04月04日(火)に日帰り入院で内視鏡検査をし、もしpolyp が見つかった場合は、即、内視鏡に拠る polyp 切除処置を施し、日帰りから翌05日(水)迄の一泊二日入院に切り替えることになった。
04日の日は、朝08時30分に病院に行き、先ず採血。
そして、入院となり病室にて09時00分から90分かけて下剤を6回にかけて飲み、大腸内を何もない状態にして、12時30分から約60分かけて内視鏡で検査した。
麻酔なしで、monitor TVを見乍ら、担当医のA沢先生の説明を聴いた。
A沢先生が手際良く、内視鏡を小腸迄持って行き、その後、ユックリと戻り乍らpolypがないか診て行った。
そうしたら、右肋骨下部の上行結腸と左肋骨下部の横行結腸に全部で5ミリ大の polyp 2つ、3ミリ大の polyp 1つの、計3つの大腸polypが見つかった。
2年4か月で3つ発生したことになる。
正式には病理検査の結果待ちとなるが、良質の polyp の様でまずは一安心。
翌日(04月05日)正午過ぎには、病室で昼食を摂った後、退院となった。
今回、二度目の polyp 切除を処置して貰い、「人生、この先も何が起きるか解らないぞ だから、毎日を悔いなく生きるべきなんだ」と改めて思った。
睡眠を除いた入院中の余白時間は、家から持参したCD/DVD player で、往年の名violinist の Zino Francescatti の演奏を聴き乍ら、平野敬一郎著『マチネの終わりに』他1冊を読んだ。
[37]小生が一泊入院した病室
【後記】04月05日の午後1時少し前に帰宅した。
その時、拙宅の庭に咲いていた、「杏子」「花桃」「李」「海棠」の花々である。実に美しい。
[38]拙宅の杏子の花
[39]同じく花桃の花
[40]同じく李(スモモ)の花
[41]同じく海棠の花
小生が、拙宅の庭に「杏子」「花桃」「李」「海棠」の木を植えたのは、大好きな3つの唐詩を意識してのことである。
「杏子」は、《会報》【0645】号にて紹介した、晩唐の詩人 杜牧(803-53)の『清明』「海棠」は、中唐の、当時としては珍しい女流詩人 薛濤(768-831)の『海棠渓』
そして、「桃」と「李」は、これからご紹介する初唐の詩人 劉希夷(651-680?)の『代悲白頭翁』の名詩の冒頭の歌い出しに出て来る「桃李花」である。
代悲白頭翁 劉希夷(りゅうきい)
洛陽城東桃李花 / 飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜願色 / 行逢落花長嘆息今年花落顔色改 / 明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪 / 更聞桑田變成海
古人無復洛城東 / 今人還對落花風
年年歳歳花相似 / 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子 / 應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐 / 伊昔紅顔美少年
公子王孫芳樹下 / 清歌妙舞落花前
光祿池臺開錦繡 / 將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識 / 三春行樂在誰邊
宛轉蛾眉能幾時 / 須臾鶴髪亂如絲
但看古來歌舞地 / 惟有黄昏鳥雀悲
白頭(はくとう)を悲しむの翁(おきな)に代る
洛陽(らくよう)城東(じょうとう)桃李花(とうりのはな) / 飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つる
洛陽の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)を惜しみ / 行(ゆくゆ)く落花(らっか)に逢(あ)いて長嘆息(ちょうたんそく)す今年(こんねん) 花落ちて顔色(がんしょく)改まる / 明年(みょうねん) 花開いて復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る
已(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為(な)るを / 更に聞く 桑田(そうでん)の変(へん)じて海と成るを
古人(こじん)復(ま)た洛城(らくじょう)の東(ひがし)に無く / 今人(こんじん)還(かえ)って対す落花(らっか)の風
年年歳歳(ねんねんさいさい) 花相(はなあ)い似たり / 歳歳年年(さいさいねんねん) 人同じからず
言(げん)を寄す 全盛の紅顔子(こうがんし) / 応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうおう)
此(こ)の翁(おう) 白頭(はくとう) 真(しん)に憐れむ可(べ)し / 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
公子王孫(こうしおうそん)と芳樹(ほうじゅ)の下(もと) / 清歌妙舞(せいかみょうぶ)す 落花(らっか)の前
光祿(こうろく)の池台(ちだい) 錦繡(きんしゅう)を開き / 将軍の楼閣 神仙を画(えが)く
一朝(いっちょう) 病に臥(ふ)して 相(あ)い識(し)る無し / 三春(さんしゅん)の行楽 誰(た)が辺(へん)にか在(あ)る
宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ / 須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し
但(た)だ看(み)る 古来 歌舞(かぶ)の地 / 惟(た)だ 黄昏(こうこん) 鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ
【意】洛陽の街の東に咲く桃と李(スモモ)の花が / 風に誘われて彼方此方に散っている
洛陽の娘達はその美しい容貌を愛(いつく)しみ / 道すがら、移ろう春に散る花を見て長い溜息を漏らす 今年花が散り春が過ぎれば人の容貌も衰えてゆく / だから翌年再び花開く時、誰が変わらずそれを見ることが出来ようか
我々は既に見て来ている 松や柏の木がやがてくだかれて薪にされて仕舞うことを / 又こうも聞いている 桑畑が海にさえ変わって仕舞うことを
昔この洛陽の東でこの花を眺めた人は既に(この世に)いない / 今生の人々がこうして風に舞う落花を眺めているのだ
年々歳々、花は同じ様に咲いて見えるが / 歳々年々、それを見る人々は同じでなく変わって仕舞うのだ
青春真っ只中にある若人達よ、思い遣ってくれ給え / この半分死にかけた様な白髪頭の老人のことを
白髪の老人に全く同情せずにはいられない / この人こそ、若い時代は紅顔の美少年だったのだから
王公の子息達と芳しい樹々の下で遊び / 舞い落ちる花の前で軽やかに歌い舞ったのだった
前漢の光禄大夫、王根(おうこん)の高殿にあった池の台(うてな)の様に錦を張り巡らせた瀟洒な庭園や / 後漢の大将軍梁冀(りょうき)の様に神仙の絵を描かせた様な、豪勢な邸宅にも参上したのだ
しかし、一度(ひとたび)病に臥すと心を寄せる人もない / あの春の様な華やかだった日々はいったい何処へ行って仕舞ったのか
なだらかで美しい眉‥その美しさもいつ迄持つだろうか / 忽(たちま)ち鶴の白い羽の様な白髪となり糸の様に乱れる時が遣って来るのだ
見てみなさい 昔華やかに歌い舞った辺りを / 今はただ黄昏の光の中、小鳥たちが哀しく囀っているのみである‥(了)
【小生comment】
「白頭(はくとう)を悲しむの翁(おきな)に代る」は、長い詩文であるが、その長さを感じさせない流麗さがあり、美しい詩である。明日04月08日(土)から一泊二日で、上杉謙信の居城「春日山城跡」と、松平忠輝の居城「高田城跡」、信州・上山田温泉、千曲市「あんずの里」、長野市「水野美術館」等を見て来る予定である。
その模様は、次号《会報》をお楽しみに!
■今日最後にお届けするのは、昨日 04月06日に仕事で名古屋出張の帰途、『名古屋城の満開の桜と本丸御殿』を巡って来たことについてである。
名古屋城へは地下鉄名城線「市役所」駅7番出口から、お城の東側の二の丸方面から入って行った。お堀の石垣には淡紅色のソメイヨシノが満開で、空堀の底に黄色い菜花と華麗な二重奏を奏でて美しかった。
[42]名古屋城のお堀の桜と菜花
更に、天守閣を目指して行くと左側(=南側)に「加藤清正の石曳の像」が建っていた。
慶長15(1610)年 名古屋城は、西国大名の助役に拠る天下普請で築城が開始され、天守台石垣は、加藤清正(1562-1611)が普請助役として築いた。慶長17(1612)年 天守閣が完成 / この年から元和02(1616)年にかけて「清州越し」と称される大移動が成された
[43]加藤清正の石曳の像
本丸御殿は、2008(平成20)年に復元工事が着工され、現在、一部は公開されているが、完全竣工は2018(平成30)年の予定で、総工費150億円をかけ現在も工事中。
[44]本丸御殿内部1 虎の像
[45]同上2
写真は、天守閣を撮影していた方にお願いして写して貰った天守閣前での小生の snap-shot
[46]名古屋城天守閣をbackに
[47]名古屋城天守閣
境内には、より濃い紅色をした枝垂桜が、ソメイヨシノと共に爛漫と咲き誇っていた。
[48]満開の枝垂桜
[49]名古屋城天守閣と西南隅櫓(右)
[50]西側よりお堀越しに見る天守閣
【後記】最後に、著名人の訃報を一つ‥。
日本の詩人・評論家で文化勲章(2003年)受賞者の大岡信(1931-2017)氏が、一昨日(04月05日)亡くなった。大岡信というと、詩文が大好きな小生、昔から折に触れ彼の作品集や著作はよく読んだ。
又、【2637の会】の恩師で、嘗てクラス会に参加して下さった鈴木鉄三先生が、大岡信氏の著作『折々のうた』がいいよと紹介して下さったことが思い出される。
鉄三先生から紹介された小生、早速手に入れて、爾来『折々のうた』はよく読んだ。
添付写真[50]がその「『精選 折々のうた』上・中・下」である。
ご冥福を祈る。〔合掌〕
[51]大岡信『精選 折々のうた』上・中・下
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