2017年3月4日土曜日

【時習26回3-7の会 0642】~「02月26日:三河城郭史談会『松浦武四郎記念館→松ヶ島城跡→松坂(松阪)城→本居宣長旧宅(鈴屋)→御城番屋敷→樹敬寺→来迎寺 他』を見て」「樺沢紫苑『脳を最適化すれば能力は2倍になる ~ 5. メラトニン仕事術‥「睡眠物質」で、完全にリフレッシュ』について」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0642】お送りします。
 今日は、去る0226()に三河城郭史談会(お城の会)日帰りbus tour『松浦武四郎記念館→松ヶ島城跡→【 松坂(松阪)城 】→【 本居宣長旧宅(鈴屋) 】→御城番屋敷→樹敬寺→来迎寺』を見て来たのでその模様からお伝えする。
 この日は快晴で春風も強くなく暖かで絶好の観光日和であった。

  春風や 伊勢路は観光日和かな 悟空

 0700分 豊橋公園 発 →〔東名高速道路 豊川IC → 伊勢湾岸自動車道 → 東名阪道 → 伊勢自動車道 久居IC〕→

 1000分 松浦武四郎 記念館 着

 松浦武四郎(1818-88)は、伊勢国一志郡須川村(現 松阪市小野江町)出身で、27歳から蝦夷地へ旅立つ。
 弘化02(1845)(28) 1回蝦夷地探査‥東西蝦夷地を巡る
 弘化03(1846)(29) 2回蝦夷地探査‥樺太に至る
 嘉永02(1849)(32) 3回蝦夷地探査‥千島に至る
 嘉永06(1853)(36) 吉田松陰(1830-59)(23)と知り合う/『三航蝦夷日誌』を徳川斉昭に献上
 安政01(1854)(37) 蝦夷・樺太・千島の地図を作製し幕府に献上
 安政03(1856)(39) 4回蝦夷地探査‥西海岸の新道予定地を調査し乍ら宗谷に至り樺太へ渡る
 安政04(1857)(40) 5回蝦夷地探査‥石狩を丹念に歩く
 安政05(1858)(41) 6回蝦夷地探査‥蝦夷地ほぼ全域を探査
 明治02(1869)(52) 明治政府より蝦夷地開拓御用掛を命ぜられる/その後、開拓大主典に任ぜられる/従五位に叙せられる
 明治03(1870)(53) 感触・位階を辞す
 明治21(1888)(71) 東京神田五軒町の自宅で死去

[01]松浦武四郎記念館図録

[02]記念館内に置かれていた松浦武四郎像
                  
【小生comment
 小生、松浦武四郎という人物は、今回初めて知った。
 当館の担当者は、「松浦武四郎は北海道では有名人だ」と言っていた。
 小生、蝦夷地・千島・樺太の探査と言うと、幕臣の近藤重蔵(1771-1829)と間宮林蔵(1780-1844)が先ず頭に浮かぶ。
 寛政10(1798)年 近藤重蔵が配下の最上徳内(1754-1836)と共に千島列島の択捉島へ赴き「大日本恵登呂府」の標柱を立て日本の領有を宣言。
 文化05(1808)年 翌年の文化0606月、間宮林蔵が宗谷に帰着する迄の間、樺太を探査し、樺太が島であることを確認した。
 松浦武四郎は、その間宮林蔵より38歳若く、第1回目の蝦夷地探査をした弘化02(1845)年は、間宮が樺太を島であることを発見した文化06(1809)年から36年後に当たる。
 こういう先人達の活躍で、蝦夷地(北海道)と南樺太と千島列島が日本の国土となっていった訳である。
 小生、この極東地域の帰属問題について、大国のロシア・清国と我国日本が、政治的にどの様に絡んで行ったかについて一度勉強してみたいと思っている。

 1100分 松ヶ島城址 着

【松ヶ島城址】
 次に訪れたのは、『松ヶ島城址』である。
 この城址については、「三河城郭史談会(お城の会)」」会長 高橋楠城先生が記された今回の解説書から一部引用してご紹介する。

  1. 所在地:松阪市松ヶ島町字城の腰
  2. 別 称:天守山、細首城
  3. 創築年:天正08(1580)
  4. 創築者:織田信雄(のぶかつ(1558-1630))
  5. 形 式:平城
  『伊勢国司記略』に拠れば、永禄10(1567)年頃 北畠具教(とものり)が織田信長の伊勢侵攻に備えて細首に城を築き、家臣の日置大膳亮(だいぜんのすけ)に守らせた。
 そして、同12年の織田勢来攻に際して、大膳亮は細首城を焼き、大河内城(松阪市大河内町城山)に籠城した。 
 其の後、織田と北畠の和議成立に拠って北畠の家督を継いだ信長の次男信雄は、居城を新たに度会郡玉城町田丸の地に田丸城を築いた。
 しかし、天正08(1580)年 田丸城を焼失したのを機に、細首城を大改修して天守を備えた城郭を平地に築き、城を松ヶ島と改称した。
 本能寺の変で信長が倒れると、信雄は尾張清洲城に移り、松ヶ島城は家臣の津田玄番允(げんばのじょう)に預けた。
 同12年 信雄と秀吉が対立するに至った為、玄番允は誅殺されて滝川三郎兵衛が籠城したが、秀吉勢の猛攻に拠って落城し、蒲生氏郷が入城して南伊勢当地の要とした。
 しかし、同16年に氏郷が松阪城を築き其処に移ったことに拠り、幾度かの転変を遂げた城も、ついには廃城となった。〔後略〕

[03]松ヶ島城址 石碑前にて小生()

[04]松ヶ島城址にて、中嶋君【3-2】()・岩手君【3-4】()
                  
【小生comment
 今回の旅では、時習26回生では、中嶋Y行君【3-2】と岩手K君【3-4】が参加した。
 岩手君とは、このお城の会で 2015.07.26開催の「琵琶湖湖西‥朽木氏の史跡探訪の旅」で同道して以来の再会だった。
 2015.08.02付【時習26回3-7の会 0559~0726日:『琵琶湖湖西朽木氏の史跡探訪の旅』に参加して」ご参照
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/260559263781107.html ←ここをclickして下さい

 1240分 松坂城 着

【松坂(松阪)城&本居宣長旧宅】
 今回の「お城の会」の訪問目的の主眼は『松坂(松阪)城』である。

  1. 所在地:松阪市殿町
  2. 別 称:四五百森(よいほのもり)
  3. 創築年:天正16(1588)
  4. 創築者:蒲生氏郷(1556-1595)
  5. 形 式:平山城
  6. 遺 構:天守台、石垣、井戸、御城番屋敷
  7. 規 模:835m×570m
 南北朝時代、此の地には南朝方の有力拠点が築かれ、南北両勢力の激戦が屡々展開された。
 その後、15~16世紀後半は、伊勢国司北畠氏の統治下にあった。
 永禄12(1569)年 北畠氏の地位を織田氏が奪い、、更に本能寺の変後の天正12(1584)年には織田信雄が秀吉に拠り伊勢から追われ、松ヶ島城には蒲生氏郷が12万石の大名として近江国日野より入った。
 氏郷は、入城後間もなく、元亀(げんき)(1570)年に潮田長助が城砦を構えたという四五百森に着目して築城を始め、天正16(1588)年には「松坂城」と命名したこの新城に移った。
 氏郷は、城下の発展と整備に尽力。
 先ず、「町中掟」を定め、その第一条に「当町之儀、為十楽之上ハ諸座諸役可為免除」として「楽市楽座」制を敷き商業の振興策を執った。〔中略〕
 しかし、城主としては僅か2年と短く、同18年には小田原北条氏征討の軍功に拠り42万石の太守として奥州会津へと移封していった。
 氏郷の後には同19年 服部一忠(?-1595)35千石で入封したが、文禄4(1595)年 関白秀次事件に連座し改易の後自害。
 同年古田重勝(1560-1606)37千石で入封、関ケ原の戦では東軍方として松坂城に籠城して西軍方の鍋島勝茂と対峙し守り抜き、戦後、55千石に加増。
 元和05(1619)年 古田氏は、大坂夏の陣後、石見国浜田藩へ移封となり、松坂は、同年08月 徳川頼宣が紀伊藩55万石藩主となると共に同藩の治下に入り、紀伊藩政に拠る治世は明治維新を迎える迄続く。

【小生comment
 松坂(松阪)城は、平成201026日に、中嶋Y行君【3-2】・谷山K君【3-3】等と訪れて以来、小生は2回目の訪問である。
 当城内に移築された、「本居宣長旧宅(鈴屋(すずのや))」や、城下の「御城番屋敷」も同様である。

 20081026日付【時習26回3-7の会 020820081026日:『津城跡・松坂(松阪)城跡』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/26-020810222525.html此処をclick して下さい

[05]松坂(松阪)城入口にて『三河城郭史談会』参加者全員の記念写真

[06]天守台の石垣
                  
[07]天守台にて本丸を望む

[08]二の丸跡から「御城番屋敷」遠望
                  
[09]「御城番屋敷」の通路

[10]本居宣長旧宅内の「鈴屋(すずのや)
    
                  
 1455分 樹敬寺【本居宣長の墓】着

[11]本居宣長の墓

【小生comment
 日帰りbus tour は、上記のほか、来迎寺、旧長谷川邸(国指定【重文】:木綿商長谷川治郎兵衛 本宅)、本居宣長邸跡 を巡った。
 本居宣長については、前回訪問の時の blog 2008.10.26付【時習26回3-7の会 0208】に詳しいので今回は割愛する。

■さて、今日最後の話題は、前々々回《会報》から4回続けてご紹介して来た、樺沢紫苑著『脳を最適化すれば能力は2倍になる』の7seriesの今日はその第5回《5. メラトニン仕事術‥「睡眠物質」で、完全にリフレッシュ》である。
 今回は、本項目から3つご紹介しよう。

【「寝つき」の良さは、脳内物質が決めていた!/ 睡眠と覚醒を調整する「眠りを誘うホルモン」】
 人間は睡眠を促す為、主に2つのsystemを持っている。
 その1つが melatonin で、1958年に発見された。
 脳の神経のみならず、脈拍、体温、血圧を低下させることで、睡眠と覚醒の rhythm を上手に調整し、自然な眠りを誘う作用がある。
 全身の臓器を「休息 mode」に切り替えることから「睡眠物質」「眠りを誘うホルモン」とも呼ばれる。
 因みにもう1つは「GABA」という脳内物質。〔P.226-227

【「快適な眠り」を与えてくれる7つの習慣 / melatonin を出す方法6:日中の serotonin の活性化】
 Serotonin は必須アミノ酸の tryptophan から作られ、その serotonin から melatonin が作られる。
 Melatoninの原料が serotonin なのである。
 Serotonin は朝、目が覚めて、心と身体が活動を開始すると共に分泌が高まり、特に午前中に分泌される。
 そして、日没と共に暗くなると、serotonin から melatonin が生成される様になる。
 言わば serotonin は「昼の活動物質」で、melatonin は「夜の睡眠物質」。
 両者が昼と夜とで、入れ替わる様に機能しているのである。〔P.237
 「うつ病」は serotonin の分泌が悪くなり、serotonin が枯渇する状態である。
 この為「うつ病」では、serotonin を原料とする melatonin の分泌も悪くなり、睡眠障害が起きる訳で、それが酷くなると「不眠」となる。
 「うつ病」と「不眠」は、melatonin を通じて密接に結びついている。〔P.238

Melatoninの思いがけない refresh 効果 /「不老長寿の妙薬」としての顔】
 活性酸素が除去されることは、動脈硬化の予防にも繋がり、心筋梗塞や脳卒中の予防となる。
 その抗酸化作用が強い物質として「vitamin E」が知られている。
 Melatoninには、「vitamin E」の2倍もの抗酸化作用がある。
 Melatonin が夜間に確りと分泌されれば、身体を錆から守ることが出来る。
 即ち、病気のriskを減らし、老化防止に役立つ。
 又、melatonin には「腫瘍増殖抑制作用」「DNA修復作用」等、多彩な抗腫瘍効果が認められている。
 解りやすく言えば、melatonin は体内の重要な「回復物質」なのである。〔P.243

【小生comment
 本項目で著者樺沢氏は、睡眠時間とその質についても解説してくれている。
 睡眠時間78時間の人が最も長寿で、それ以下でも、それ以上でも短くなる。
 又、睡眠は単純に時間ではなく、睡眠の質「ぐっすり感」が大切だという。
 尤もな話である。

5. メラトニン仕事術/まとめ》
1.快眠物質・メラトニン(melatonin)が分泌されると、眠気を生じる
2.睡眠物質 melatonin は、熟睡、疲労回復の為に不可欠な脳内物質である
3.不眠は心や身体の病気の前兆かもしれない
4Melatonin を出す方法は以下の7
1.部屋を真っ暗にして寝る 」
2.入眠前に薄暗い部屋で relax する 」
3.入眠前に蛍光灯の光を浴びない 」
4.深夜のコンビニで立ち読みしない 」
5.入眠前にgame、スマホ、パソコンをしない 」
6.日中の serotonin の活性化 」
7.朝、太陽を浴びる 」
5.一日78時間はぐっすり眠ることを目標にしよう

【小生comment
 早寝早起きが長寿の秘訣だが、早寝するには、まず「早起き」から始めることだと樺沢氏は助言してくれている。
 夜型の人でも、無理にでも早起きを繰り返していると、自然に夜早く眠れる様になる、という訳だ。
 そして快眠に拠り、錆び難い身体にして健康長寿を全うしたいものである。

【後記】昨夜(0302()) 時習26回生の face book 不老荘に、中野K彦君【3-6】から加藤(神野)T子さんの訃報のお知らせがあった。
 この訃報に接し、驚いたと共に、classmate が亡くなった深い悲しみを感じた。
 小生、神野朋子さんとは、八町小→豊城中と同窓で、時習26回【2-8】の classmate だった。
 高2の秋の「文化祭」に於ける我々【2-8】の演()し物は「8ミリ映画:『ある愛の詩』『ゲバゲバ90分』『ミュンヘン五輪・ダイジェスト』他」の映写会だった。
 その「文化祭」の正に前夜、鈴木T昌君【3-8】を中心に仲間十数人と神野さん宅に泊めて貰い、徹夜で文化祭にて上映する8ミリ映写会のアフレコ等最終校正を徹夜で完成させた。
 その時のアフレコの録音tape を作成していた時の episode を一つ覚えている。
 それは『ミュンヘン五輪・ダイジェスト』を解説放映するBGMの行進曲の音源が用意されてなく、「さあ、どうしよう?」ということになった。
 その時、神野さんに音源はないか尋ねたら、彼女が「応接室に classicLP record なら置いてある」と教えてくれた。
 其処で、数多くのLP record 群の中から、小生、Tchaikovsky の交響曲第6倍「悲愴」を見つけた。
 この悲愴交響曲の第三楽章「Allegro molto vivace」は12/8拍子の scherzo 4/4拍子の【行進曲】から成っているいるのでこの楽章を使おうと、皆に提案して了解して貰った。
 この episode 45年近く前の 今となっては昔日の懐かしい思い出一コマである。

【前書】学生時代の友の死は悲しい
 春弥生になっても風はまだ冷たく亡き友との別れの寂しさが身に染みる

 厳春や 竹馬の友は逝く 涙  悟空 〔合掌〕

 では、また‥。〔了〕

 ブログへは【0626】号迄のback numberURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog ←ここをclickして下さい

0 件のコメント:

コメントを投稿