■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0641】お送りします。
今日は、先ず前《会報》にてご紹介した02月04日に3つの美術館と1つの歴史博物館を巡って来たうちの後半の2つ、安城市歴史博物館『特別展/安城ゆかりの大名/家康の名参謀「本多正信」展』と『安祥城址』を巡って & 豊川市桜ヶ丘ミュージアム『‥当館所蔵品‥冬の情景』展の模様についてからご紹介したい。
【安城市歴史博物館『特別展/安城ゆかりの大名/家康の名参謀「本多正信」展』と『安祥城址』】
本展は、昨(2016)年、没後400年を迎えた、江戸幕府の初期を支えた智謀の将 本多正信に焦点を当てた特別展。本多正信は、小川村(現・安城市小川町)出身とする説があり、又、三河一向一揆の際には、弟正重と共に門徒側について家康と戦った。〔中略〕
本展では、本多正信の出生から、三河一向一揆後の放浪時代を経て家康の下に戻り、やがて幕府の重鎮になっていく様やその動きを史料から読み解いていく。
併せて、弟正重や、息子の正純・政重の動向も紹介する。〔以上、本展leaflet より引用〕
[01]安祥城址公園〔安祥文化のさと〕案内看板
[02]安城歴史博物館 正面入口 & 本企画展案内看板
[03]大乗寺山門付近に立つ「安祥城址」石碑
[04]大乗寺山門脇に立つ「安祥城址」解説板
以下に、「安祥城址」解説板の解説文を一部引用して当安祥城址の歴史を紐解く‥
安城城(あんじょうじょう(安祥(あんしょう)城))が築かれた年代や人物は明らかではない。
一説には、室町時代の永享年間(1429-41)、志貴荘(しきしょう)の地頭 和田親平(わだ ちかひら)に拠るとも云われる。
江戸時代に記された『三河物語』には、岩津(いわづ)城(岡崎市)を本拠としていた(三河松平3代当主の)松平信光(1404(?)-88)が、文明08(1476)年頃に安祥城を奪い取ったとの記述がある。
此の時信光は、煌びやかに仕立てた踊りを安城の「西野(にしのの)」で行い、場内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされる。
その語、信光は子で2代(三河松平4代当主)の親忠(ちかただ(1431(38?)-1501)(=西忠(さいちゅう)))を城主に据えた(=安城松平初代)。
親忠は子供達を分家に出して勢力を広げ、3代(=三河松平5代当主)の長忠(長親・道閲(1473-1544))の時代には、安城松平家が一族の総領家としての地位を固める。
3代(=三河松平6代当主)の信忠(1490-1531)を経て、4代(=三河松平7代当主)の清康(きよやす(1511-35))(=徳川家康(1543-1616)の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡崎に移した。
そして、ほぼ全ての三河地方を松平氏の支配下に置くことに成功する。
しかし、この清康は、家臣の誤解によって、天文04(1535)年、25歳で殺害されて仕舞った。
【第1次安城合戦】
天文09(1540)年には、尾張 古渡(ふるわたり)城主 織田信秀(1510-51(織田信長(1534-82)の父))が安祥城を攻め取り、三河地方への前線基地とした。その時の安祥城主は、松平親忠の七男の長家だったが、彼もこの戦で戦死。
この戦を含め、天文18(1549)年に織田信弘(?-1574(信長の庶兄))と織田氏に捕えられていた竹千代(後の家康)が、「西野」で人質交換が行われる迄、約10年間、3度に亘り安城合戦〔安城城争奪戦〕が繰り広げられた。
【第2次安城合戦】
安祥城を失い弱体化した岡崎城主(=三河松平8代当主)の松平広忠(1526-49)は、織田氏に対抗する為に今川義元に助勢を頼むより他なかった。天文10(1541)年 刈谷城の水野忠政(1493-1543)と手を結んだ広忠は、忠政の娘の於大(1528-1602)と結婚。
天文11(1542)年 8月に今川義元軍4万は東三河を制圧後、生田原(しょうだがはら(現 岡崎市美合町))に向け進軍。
一方の織田信秀軍4千は安祥城に入城後、8月10日 小豆坂(あずきざか)にて激突〔第1次小豆坂の戦〕。この時は織田軍が勝利し安祥城へ帰還。
この年の暮12月26日、徳川家康が生まれている。
天文12(1543)年 7月12日 刈谷城主 水野忠政が没し、広忠は頼りとなる後盾を失う。
天文14(1545)年 9月20日 松平広忠は安祥城奪回に向け出陣するも、織田信秀軍と清田畷(せいだなわて)の戦で大敗。
本多平八郎忠勝の祖父 本多平八郎忠豊(?-1545)が奮戦し身代わりとなって討死する間に岡崎城へ逃げ延びた。
【第3次安城合戦】
天文16(1547)年 三河松平家は一族家臣団内部でのゴタゴタが続いている中、叔父信孝(?-1548)の離反、織田方への寝返りで織田信秀軍が岡崎城奪取の動きを見せた。広忠は、織田信秀に対抗する為に今川義元に救援を求め、その代償として嫡男竹千代(後の家康)を人質を駿府へ送り出した。
処が、その途上、三河国老津の浜(現 豊橋市老津町)から海路駿府に向かう筈が、当地の領主田原の戸田康光(やすみつ(?-1547))の謀で尾張国の織田信秀の下へ送られた。
是に激怒した駿府の今川義元は戸田康光を攻撃し、嫡男尭光と共に討ち取った。
是で田原戸田宗家は滅亡したが、康光の次男宜光はその時既に康光の命に拠り仁連木城主、仁連木戸田家となっており、今川軍に拠る戸田康光攻めの際、宣光は今川方につき、戸田家の命脈を保った。
この宜光の子孫が徳川氏譜代として仕え戸田宗家となり、松本藩藩主 松平康長(1562-1633(=戸田松平家の祖))他を輩出した。〔以上は余談〕
是を知った今川義元(1519-60)は、大原雪斎(1496-1555)を将として1万余の大軍を三河へ送り、安祥城を包囲し城に籠る織田信広生け捕りを企図。
この時、本多平八郎忠孝(?-1549(本多忠豊の嫡男で本多平八郎忠勝の父))が討死。
今川・松平連合軍は、同年11月02日 再度安祥城を攻め、織田信広の捕縛に成功。
永禄03(1560)年 桶狭間の戦で今川義元が織田信長に敗れると、安祥城は廃城となったとされていた。
しかし、近年の研究では、天正12(1584)年 小牧長久手の戦に備え、徳川勢に拠り当時の新しい縄張りの設計に拠る改修が加えられたとも考えられている。
了雲院大乗寺(りょううんいん だいじょうじ)が現在の場所に建つのは、江戸時代の寛政04(1792)年以降のことである。〔了〕
【小生comment】
三河松平の7代当主 清康の享年25歳、同じく8代当主 広忠の享年24歳。二人共 本当にまだ是からという若い時に殺されている。
其の後、今川の人質となった幼少の徳川家康が、織田信秀の人質を経て今川義元の人質となり、それでも確り生き残って、天下の覇者となった。
徳川家康は、「超弩級の強運と実力の持ち主」だったんだ、と安祥城の歴史を読み返してみて改めて感じ入った次第である。
[05]「安祥城址 本丸跡」の南端に立つ「大乗寺 山門」
[06]「安祥城址 本丸跡」に立つ「大乗寺 本堂」
[07]浅野文庫/安祥城平面図
[08]本企画展 leaflet
[09]本多家系譜
[10]本多正信像
本多正信は、三河一向一揆後の放浪時代に一時松永久秀に仕えていたことが知られていること以外動向が未だ掴めていない。
その後20年近くの歴史上の空白期間を経て、天正10(1582)年の本能事変の時点では家康の側近として正信が仕えていており、家康が亡くなる1616(元和02)年迄江戸幕府中枢のbrainとして活躍した。
[11]本多正重像
本多正重(1545-1617)は、正信の7歳下の弟で、兄正信と共に松平家康の家臣。
永禄06(1563)年 三河一向一揆では正信と共に一揆方として家康に敵対した。永禄07(1564)年 一揆後家康に帰参。
天正03(1575)年 長篠の戦迄、正重は徳川家の武将として戦功を重ねた。
しかし長篠の戦直後に徳川家から出奔。
滝川一益→前田利家→会津の蒲生氏郷と主君を変えたが、1595年 氏郷が死去。
慶長元(1596)年は徳川家に帰参。
慶長05(1600)年 関ヶ原の戦では検使を務めた。
慶長19(1614)年 大坂の陣では徳川秀忠軍の参謀として功を挙げた。
元和02(1616)年07月 正重は下総国相馬郡舟戸1万石を与えられ大名に。
元和03(1617)年07月03日 死去(享年73)。
長男正氏は秀次事件で殉死、次男正包は早世。外孫で養子の正貫が後を8千石で旗本となり継ぐ。
貞享05=元禄元(1688)年 正貫の孫 正永が寺社奉行に就任、加増され、再び舟戸藩主に。
その後上野国沼田藩→駿河国田中藩4万石7代で明治維新を迎えた。
慶應04=明治元(1868)年 徳川宗家の家達が駿府に移封された際、本多家は安房国長尾藩へ移封。
[12]本多政重重像
本多政重(1580-1647)は、本多正信の次男。
天正19(1591)年 徳川氏の家臣 倉橋長右衛門の養子に。慶長02(1597)年 徳川秀忠の乳母大姥局の息子 川村荘八(岡部荘八)を斬殺し出奔。
其の後、大谷吉継の家臣を経て、宇喜多秀家に2万石で仕え正木左兵衛と称した。
慶長05(1600)年 関ヶ原の戦で宇喜多軍の一翼を担い西軍側として奮戦するも敗戦と共に逃走、近江堅田へ隠棲。
戦で罪は問われず、その後、一時期 福島正則に仕えた後、前田利長に3万石で仕えた。
慶長08(1603)年 旧主 宇喜多秀家捕縛の報を知ると、宇喜多氏縁戚の前田家を離れた。
慶長09(1604)年 上杉景勝の重臣 直江兼続が、政重を婿養子に迎えた。政重は兼続の娘 於松を娶り、直江大和守勝吉と称した。
慶長10(1605)年 08月17日 於松が病死。
慶長14(1609)年 直江兼続は弟 大国実頼の娘 阿虎を養女にして政重の継室とした。
慶長16(1611)年 上杉氏の下を離れ武蔵国岩槻に帰る。
慶長17(1612)年 藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参し3万石で前田利常の家老として仕えた。この時、多くの旧上杉・直江家臣出身者が付き従った。
慶長20(1615)年 閏06月03日 従五位下安房守を叙任。
正保04(1647)年 06月03日に死去した(享年68歳)。
【小生comment】
本多正信には、彼の著作とされる、天下国家統治について記された書『本佐録』がある。是には「百姓仕置きの事/百姓は財の余らぬように不足なきように治むること、道なり」と記されている。
この一文は、本来「社会秩序安定の為の方策」として説かれたものだ。
しかし、当時から「農民への重税及び圧政を肯(がえん)ずるもの」と曲解されて、正信は冷酷な大名としての image が世に定着した。
一方、謀(はかりごと)の将として有名な松永弾正久秀(1510-77)は、本多正信を高く評価している。
此の「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」という久秀の言葉からは正信の逸材ぶりが窺い知れる。
「安祥城址」と共に、是迄馴染みの薄かった本多正信とその一族について知ることが出来て、今回の「安祥城址公園と安城歴史博物館」訪問は大変勉強になった。
「安祥城址」と共に、是迄馴染みの薄かった本多正信とその一族について知ることが出来て、今回の「安祥城址公園と安城歴史博物館」訪問は大変勉強になった。
今回は、正信のほか、弟 正重と次男 政重についてご紹介したが、長男 正純(1566-1637)については敢えて割愛させて頂いた。
正純の話をし出すと、それだけで相当な量になり説明仕切れないので、又の機会に‥ということにさせて頂く。
【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『‥当館所蔵品‥冬の情景』展】
本展は、豊川市を中心とした郷土にゆかりある作家のcollectionから、冬の季節を theme にした企画展。入場料も無料で、展示作品は20点程だったが、一寸得した気分の企画展であった。
[13]豊川市桜ヶ丘ミュージアム 入口 と本企画『‥当館所蔵品‥冬の情景』展案内
[14]本展leaflet/右側の表面の絵は【左上】中根強司『畦木2』、【左下】高畑郁子『南アルプス遠望』2007年
[15]平川敏夫『塔境雪煙』1979年
【小生comment】
小生が好きな宝飯郡小坂井町(現 豊川市小坂井町)出身の日本画家、平川敏夫(1924-2006)の作品は、上記『塔境雪煙』はじめ8点が展示されていた。又、豊川市三上町出身の大森運夫(かずお)の作品は、本展leaflet 左側裏面上から2段目『信濃』1960年はじめ3点されていた。
大森運夫(1917-2016)は、2016年09月29日、99歳で天寿を全うされた。ご冥福をお祈りする。
■さて、今日最後の話題は、前々々回《会報》から3回続けてご紹介して来た、樺沢紫苑著『脳を最適化すれば能力は2倍になる』の7回seriesの今日はその第4回《4. セロトニン仕事術‥「癒し物質」で、朝仕事の効率化と気分転換》である。
【寝起きを改善するだけで、business time が快適に!/「朝のgolden time」に仕事を3倍効率化】
朝寝坊の人は、自らの生活習慣を改善し、より自然でより健康な生活習慣を身に着ければ、朝寝坊は克服出来る。その鍵となる脳内物質が「serotonin」である。
Serotonin が分泌されると、「今日も一日頑張るぞ」という気持ちになる。
身体にも力が漲り、溌剌とした気分となる。
頭もスッキリとしているから、直ぐに仕事をstart 出来る状態になるのである。
又、serotonin の合成と分泌は、日の出と共に盛んになり、午後から夜にかけて低下する。
そして「ノンレム睡眠時(眼球運動がない睡眠状態、所謂「深い眠り」の状態)」では、全く分泌されなくなる。
Serotonin は、「睡眠」と「覚醒」を control する脳内物質なのである。〔P.175〕
【気分転換を実現する「7つの仕事術」/ business scene に serotonin が齎す「癒し」】
「dopamine」や「noradrenalin」等は、「興奮系脳内物質」と呼ばれる。それに対して「serotonin」は、それ等の過剰な分泌を抑え、脳内物質の balance を取る「調節物質」である。
Serotonin が活性化された状態では、心は落ち着き「平常心」となる。
言わば serotonin は「癒しの物質」なのである。〔P.187〕
【Serotonin 神経を鍛えて、「共感力」を磨け!「感動の涙」が serotonin を活性化】
「日光を浴びる」「rhythm 運動」「咀嚼」等、serotonin 神経を活性化する方法とは全く違った serotonin 神経の鍛え方をご紹介する。〔P.200〕「映画を楽しみ乍ら、serotonin 神経を鍛える訓練をして、共感力を身に着ける」。
人と共感出来る様になれば、今迄以上に人の気持ちを理解出来る様になる。
人の気持ちを理解出来る人は、人からも理解され、positive な評価を受け易い。
それは、当然、あなたの仕事、business に於いても圧倒的に有利なことである。〔P.205〕
《4. セロトニン仕事術/まとめ》
1.癒し物質・セロトニン(serotonin)は、「覚醒」「気分」「心の安定」と深く関係している2.Serotonin を活性する方法は、以下のの3つ
「1.日光を浴びる」
「2.Rhythm運動」
「3.咀嚼」
3.カーテン(curtain)を開けて寝ると、寝起きがスッキリする
4.起床後2~3時間の脳の golden time を有効利用
5.脳を活性化するには朝食は不可欠
6.煮詰まった時の気分転換に役立つ「serotonin 気分転換仕事術」は、以下の7つ
「1.外食 lunch 」
「2.歩き乍ら考える」
「3.深呼吸」
「4.音読」
「5.首回し運動」
「6.上記の気分転換の組み合わせ」
「7.Serotonin 活性化を習慣づける」
7.感動の涙には「癒し」の効果がある /「共感力」を磨けば serotonin 神経が鍛えられる
8.普段から serotonin 神経を鍛えておけば、うつ病の予防にも役立つ〔P.222〕
【小生comment】
著者の樺沢氏は次の様に言っている。Serotonin の活性が悪い人は、見ただけで解る。
まず表情に覇気がない。
そして、身体全体に元気がない。
Serotonin は表情や姿勢に影響を与えるから、活性が悪いと大脳基底核の主要な構成要素の一つである「線条体」を通して、表情筋や抗重力筋を弛緩させて仕舞う。
Serotonin は衝動性の control とも関係している。
Serotonin が低下すると、所謂「キレ易い」状態となる。
衝動が control されないと、我慢が出来なくなり、時に暴力的になることもある。
こうした状態は「低 serotonin 症候群」と呼ばれる。〔中略〕
この様に serotonin が低下すると、数多くの疾患の原因となる。
それだけ serotonin は、精神機能の重要な部分を担っているのである。〔P.216-17〕
小生は思う。
常に「癒し」の状態になれる様心掛け、「1.日光を浴びる」「2.Rhythm運動」「3.咀嚼」を励行し、映画等を見て「感動して『共感力』を高め」て serotonin 神経を鍛えて行きたい。
勿論、名画や名曲を鑑賞して感動するのも「癒し」にとても良いので是迄通り続けて行きたい。
【後記】二月の名歌というと、西行の忌日である文治6年2月16日〔新暦:1190年3月30日〕が直ぐ浮かんで来る。
但し、「西行忌」という場合は、西行の忌日の一日前、旧暦の2月25日である〔為念〕。訳す迄もない平易な歌であるが、西行は、木食から初めてほぼ願い通り〔‥正確には「望月(=十五夜)」でなく、一日遅れの「十六夜(いざよい)〕の月‥〕に成仏した。
西行のその実行力、芯の強さに敬服する。
写真は、昨年2016年04月24日に訪れた西行終焉の地「弘川寺」での snap-shots である。
願いはくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 西行
[16]弘川寺/西行墳墓前にて中嶋君【3-2】・谷山君【3-3】と
[17]弘川寺 西行墳墓近くに建立された西行辞世歌石碑前にて
では、また‥。〔了〕
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