2022年1月24日月曜日

【時習26回3−7の会 0897】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『ひさご』から〔第09回 / 第49句~54句〕」「今は少し昔の物語『2010年08月17~18日:【2637の会】クラス会」「【訃報】鈴木裕彦君逝去~彼の想い出」「2007年04月30日:滋賀の史跡『園城寺(三井寺)』『膳所城跡』『幻住庵』『義仲寺』『石山寺』を巡って」「2006年06月24日:【2637の会】プレ・クラス会」「2013年01月02日:我等が時習62回生 山本修平君『箱根駅伝』で力走」「2022年01月15~20日:ヤフオクにて 平山講平『黄色の花』(油彩画)・長澤芦雪『花鳥図』&田中以知庵『春日遅々』(日本画・掛軸)・三岸節子『花』(lithograph)4点を入手して」

■皆さん、今日も【時習26回37の会 0897号をお届けします

.
.  今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『ひさご09 / 4954〕」をご紹介する

.

04こしらえし薬(くすり)もうれず年(とし)の暮(くれ)  碵

.

【意】前句で念仏を唱えるのは神仏にお願いする為だ / 年の瀬が迫って来たが、秋に作った薬が売れないのだ

【解説】《初折裏七》《冬》:年の暮 /

.

050  庄野(しゃうの)(1)(の)里の犬におどされ  仝

.

【意】前句の薬売りは、庄野宿で振り売りするも、犬に吠え立てられ困惑する様、を読む

【解説】《初折裏八》《/「庄野(宿)」→「亀山(宿)」→「活薬(いかすくすり)」(類船集)→「怪しげな新薬」という連想で前句に付くという / 其の「亀山」は蓬莱山のことだが、伊勢国の地名に取り成した

(注1)庄野三重県鈴鹿市にある地名 / 東海道第45番目の宿場町 庄野の雨は広重の絵で有名

 

051 旅姿(たびすがた)(おさな)き人の嫗(うば)つれて  通

.

【意】伊勢参宮への道すがら、子供が老女に手を引かれて東海道を歩いていると、庄野の辺(あた)りで犬に吠えられている

【解説】《初折裏九》《雑》/ 不安な旅を楽し気な旅に転じた遣句

(注1)稚き:底本では「雅き」と誤刻

.

052  花(はな)はあかいよ月は朧夜(おぼろよ)  仝

.

【意】老女と子供は、言葉の掛け合い遊びをしながら歩いていく/ 子供が「花は」と言うと老女が「赤いよ」と答え、老女が「月は」と言えば子供が「朧よ」と答える

解説《初折裏十》《春》:「花」「朧夜」

.

053 しほのさす縁(えん)の下(した)(まで)和日(うらら)(1)なり  碵

.

【意】縁の下まで潮が満ちて来て、麗らかな陽射しがゆらゆらと反映してい様(さま) / 前句の「花」「月」を踏まえ、月花の眺め良き海辺の別荘等を思い寄せた

【解説】《初折裏十一》《春》和日

(注1)和日:常陸帯「麗・和日 ウララ〔長閑ナルコト〕」

.

054  生鯛(いきだひ)あがる(注1)(うら)の春哉(かな)  仝

.

【意】[解釈1]生きた鯛が揚がる / 正に、鯛漁のシーズン真っ只中 / [解釈2]が群がって海面に浮きあがる瀬戸内の春のだよ、の意

【解説】《初折裏十二》《春》:春 / 前句を安芸国厳島神社の回廊と見立て、能路沖の浮鯛を思い寄せた / 挙句を擬した目出度い作柄 / 此処で、路通・珍碩の両吟終わり、荷兮・越人で以下を継ぐ / かな(=)留り、平句(注2)には異例

(注1)生鯛(いきだひ)あがる:毛吹草に安芸名物「野路浮鯛」

(2)平句:連歌・俳諧で、発句・脇・第三・挙句以外の全ての句

.

【小生 comment 

. 次回は、『ひさご』10回 / 第55句~60をお届けする

. どうぞ、お楽しみに!

.

■続いての話題である

.
【2010年08月14日クラス会】

.

. 今ご紹介しているクラス会の中から、2010年08月14日クラス会の模様の snap shots を見つけたので少しご紹介する

.

[01][上]全体写真/[下]菰田・在りし日の鉄三先生


[02][上]渡辺・峯田・石田/[左下]千賀・林・市川/[右下]林・中嶋・峯田


[03][上]小生・林・中嶋/[左下]牧野・彦坂/[右下]彦坂・市川・原田〔以上、敬称略〕


.

【訃報】鈴木裕彦君【3-9】が2021年6月逝去されました

.

. 今日、中嶋良行君【3-2】から「鈴木裕彦君が昨年6月に逝去された」と裕彦君の奥様から寒中見舞いを頂戴した旨の連絡を頂戴しました

. 確認のために中嶋君に電話して事実であることを確認しました

. ショックです

. 小生、裕彦君とは、静岡県旧新居町立新居幼稚園、新居小学校の同窓同期だったので猶更です

. 最近、青木幹晴君【3-4】、鈴木裕彦君【3-9】という元気で存在感ある仲間たちが天に召されて、小生凄く哀しいです

.

[04][左上]中嶋君から鈴木裕彦君の 訃報を知らせるメール


[右上]裕彦君とラウンドしたゴルフ場での two shot

[左下][右下]旧新居町立新居幼稚園卒園アルバムでの小生と裕彦君〔19614月〜623月〕

.

[05]和田(黒田)君による裕彦君の想い出チャット

.

. 和田(黒田)君【3-1】、ホント懐かしいこぼれ話をありがとう!

. 裕彦君は、存在感のある、それでいて嫌味のない本当にいいヤツでした

. 以下に、彼と一緒だった 2011年11月06日に開催された時習ゴルフコンペでの snap shots をご紹介します

.

[06][上][左下][中下][右下]参加者全体写真と snap shots〔2011年11月06日〕


.

2007年05月11日(金)【時習26回3-7の会 0089】

.

さて今日も、少し昔の懐かしい想い出から‥2007年05月に描いた小生の下手な水彩画の習作を性懲りもなく掲載する

. 今回は、「三井寺観音堂から琵琶湖遠望」である

.

.[07][左上]園城寺(三井寺)観音堂から琵琶湖遠望〔[上]写真 [下]小生の写生画〕


.

. 真っ赤な躑躅がとても綺麗だったので絵にしてみた

. 水彩画でありながら躑躅の赤色が(グァッシュで上塗りの為)強調され過ぎて色彩がunbalanceになって仕舞った

. 作画は難しいですネ

.

2007年06月23日(土)【時習26回3-7の会 0101】

.

. 今日のお別れは、最近〔‥と言っても、今から14年近く前‥〕読んだ瀬戸内寂聴著「寂聴 古寺巡礼」から「三井寺」ご案内します

. では、どうぞ

.

. まだ仏縁に恵まれなかった頃から、なぜか私は三井寺が好きでよく訪れていた。

. それはもしかしたら、琵琶湖の見えるこの寺の広々とした、いつでも森閑とした清浄な雰囲気に魅せられていたのかもしれない。(中略)

. その頃、私は三井寺が西国三十三ヶ所の第十四番札所だということも知らなかった。(中略)

. 私が三井寺に惹かれるのは、この寺が琵琶湖を見下ろす位置に隣接しているせいかもしれない。

. そして私が琵琶湖にひかれて度々大津を訪れるようになったのは、近江遷都から壬申の乱までの歴史の舞台となった志賀の都の哀史に心がさざなみたつからである。

. 志賀を都とした近江朝に心ひかれた源は、

.

.  あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

.

.  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

.

. という額田王と大海人皇子の相聞歌であった。

. 少女の頃、女学校の教室で、美しい未亡人の国語教師から、朗々とこの歌を聞かされた時、私の目の中にかげろうのたつ青草の蒲生野が幻に顕(た)ち、その彼方に光るはてしもなくひろがる湖が縹渺と光りながらせり上ってきたのであった。

. まだ恋を知らぬ少女の私に、その瞬間、恋の甘いエッセンスをのみ下したような不思議な酩酊感があった。(中略)

. 私の小学校の頃は、

. 「みいでらのかねのねは‥‥

. と、小学校唱歌で、教わって、耳にもなつかしいひびきである。

. 近江八景の三井の晩鐘は、もちろんこの寺の鐘だが、三井寺にはいくつもあってとまどってしまう。

. 有名な三井寺の鐘というのは、金堂の前にある鐘楼の中の鐘のことで、

.

.  七景は 霧にかくれて 三井の鐘

.

. と詠まれた日本三名鐘の一つである。

. 現在のは慶長七(1602)年の鋳造だが、姿も美しい。

. この鐘の音の生んだ土地の伝説もまたあわれに美しい。(中略)

.

. 参詣を終えて観月台から見下ろす琵琶湖と大津の風景は、現実の猥雑さをかくして、まだどこか遠い昔につながる夢に似た美しさが光り輝いていた。

.

.  花散りて 又しづかなり 園城寺  鬼貫(おにづら(1661-1738))

.

. 好きな鬼貫(おにつら)の句が、自然に口にのぼってくる。

. 目にしみる青葉の三井寺であった。

.

【筆者comment】

. 三井寺は2007年04月30日に訪れたが、ほんと、新緑が素晴らしい三井寺であった

.

[07][上]三井寺の風景〔[上]写真 [下]小生の写生画〕

[左下]園城寺仁王門前にて中嶋君【3-2】と

[右下]園城寺鐘楼前にて今泉(谷山)君【3-2】と中嶋君

.

. また訪れたい古刹である

. 次回は石山寺についてお話してみたい

.

. 小生の第二の人生start〔‥此の年05月に、翌06月に前職の会社に役員として転籍含みの業務出向を命じられていた‥〕にあたって稚拙な歌を一首‥

.

.  新緑と 薫風を背に いさ行かむ 我が新天地 強き決意で  悟空

.

2007/05/01 12:39:39【時習26回3-7の会 0086】〔前略〕「『賢人会』歴史探訪:大津」

.

■さて、昨日(2007年)04月30日は、前号でお知らせしたように「賢人会」歴史探訪の一環として、今回は「大津市の古刹巡り」をして来たので、早速、そのsnap-shotをご紹介させて頂く

. 日帰りで、「石山寺」→「瀬田の唐橋」→「幻住庵」→「膳所城址公園」→「義仲寺」→「三橋(みつはし)節子美術館」→「三井寺(園城寺)」と廻って来た

. 一日コース(course)だったが、天候にも恵まれ、大変充実した小旅行だった

.

. 〔前略〕続いては「瀬田の唐橋」である

.

[08][右上]「瀬田の唐橋」碑にて


.

. 次は、「幻住庵」である〔中略〕現在の幻住庵は平成三年に再現されたもので、なだらかな国分山の中腹にあって禅味あふれる枯淡の庵である〔中略〕

. 石段を登りきると、椎の古木があり、「先づ頼む 椎の木も有り 夏木立」の句碑

. これは、『幻住庵記』に出てくる句で、庵の前に立つ椎に「ひとまず木蔭を作ってくれよ」と頼むよびかけである

. 万感の思いをこめて山の庵に籠りながら、椎の木に気安く声をかける「軽み」が新境地であった

. その椎が残っている〔後略〕

.

[08][右中]「幻住庵」入口にて、今泉(谷山)君【3-3】と

.

. 続いての「膳所城址」は、公園として整備されており、家族連れで賑わう憩いの場になっていた

.

[08][左][右下]膳所城址公園内の「膳所城址」石碑の前にて1&2

.

. 膳所城址の次は「義仲寺」である

. 此処には芭蕉の墓と、彼が敬愛した木曽義仲、そして義仲の妻、巴御前の墓が三つ並んでいた

. 一寸吃驚は、巴御前は義仲亡き後も生き続け、90歳の天寿を全うしていたこと

. 色々苦労したとは思うが、大変気丈夫な女性だったのだろう

.

[09][左]「義仲寺」境内にて


[右上]「義仲寺」入口で中嶋君【3-2】と

.

. 此の日、最後の訪問地は、三井寺(園城寺)

.

[09][右中] 園城寺(三井寺) 三井の晩鐘で有名な鐘楼の中で鐘を打とうとしている小生

[右下] 金堂前にある小生が打った「鐘」

.

. 今日も、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

.

2007年07月01日(日)【時習26回3-7の会 0102】~「瀬戸内寂聴『寂聴古寺巡礼』~石山寺」&「道綱の母『蜻蛉日記』」をお届けする

.

. 今泉悟です〔中略〕お元気でお過ごしですか?〔中略〕

. さて今日は〔中略〕瀬戸内寂聴作「寂聴古寺巡礼」から『石山寺』をお届けする

. 石山寺も、前号と同様旧中嶋君【3-2】と今泉(谷山)君【3-3】と三人で4月30日に日帰り旅行で行って来たことについて「寂聴古寺巡礼」『石山寺』の一部をご紹介する

.

. 石山寺の名が私の記憶に沈み込んだのは、紫式部が石山寺で『源氏物語』を書いたといる伝説よりも先に、『蜻蛉日記』の著者の道綱の母が、夫兼家との間に不安を感じた頃、いてもたってもいられなくて石山詣でをして、一晩参籠した寺としてであった。

. 綱の母は、その頃本朝第一美人の三人の一人と謳われた人で、才女で、歌が上手で、プライドの高い女だった。(中略)

. 彼女は夜離(よが)れする男([筆者注]後摂政太政大臣となる藤原兼家)への嫉妬のほむらで胸をこがす。(中略)兼家の冷淡さにプライドを傷つけられながらも、男の訪れを待つしかない平安時代の貴女は、孤閨にもだえ、嫉妬に狂いそうになる自分をなだめかねて、思いきって物詣でに出発する。

. 平安の貴女が、物詣でに出ることは、唯一の気晴しでもあった。

. それはまた自分の力ではどうすることも出来ない嘆きや不如意([筆者注]思いの儘にならないこと)を、神仏にすがって祈ることでもあった。

. 道綱の母は、陰暦七月半ばすぎ、暑さのきびしいころに、誰にもつげず、思いきって石山寺に向う。(中略)

. 彼女は未明に、徒歩で出発している。

. そこに彼女の切迫した気分が感じられる。(中略)

. 石山寺が、私([筆者注](=寂聴)の心に強く印象づけられたのは、平安の昔にひとりの女が嘆きをこめて書いたこの日記体私小説の文章のせいであった。

. 道綱の母が石山寺に参詣したのは、三十五歳頃で、天禄元(970)年の夏であった。

. それから三十四年後の寛弘元(1004)年八月、紫式部が石山寺に七日間参籠をして、『源氏物語』の構想を練り、ここで書きはじめたという伝説が流布している。(中略)

. 紫式部が石山寺に参籠し、物語の成功を祈り、自分より三十四年前に、すでに素晴らしい日記文学を書き残した道綱の母の天才にあやかろうとしなかったとはいえないだろう。

. 八月十五日の月を仰いだ時、式部はおそらく『蜻蛉日記』の作者が七月の月を仰いで、泣きむせんだことを想いだしただろうと想像される。(中略)

. 石山寺はいつ詣っても参詣客で賑わっている。(中略)

. 西国巡礼の札所の中でも、有数の大寺で信仰を集めているからでもあろう。(中略)

. 行く手には石山寺の大提灯が左右の門柱に下った東大門が聳(そび)えていて、運慶と湛慶(たんけい)の作といわれる仁王が迎えてくれる。([筆者注]添付写真ご参照)

. 門をくぐると、石畳がつづき、両側は石山つづじの名で有名なつつじの植込が連る。

. ここのつつじは背が高いのが珍しく参詣者の目を愉しませてくれる。

. 花時の鮮やかさもいいが、青葉の頃も美しい。(【筆者注】添付写真ご参照)(中略)

.

[10][左上]石山寺「境内図」


[左下]同「東大門」

[右上]同「東大門」解説板

[右中]同「参道にて今泉(谷山)君と中嶋君

[右下]背が高い石山躑躅(つづじ)を back に

.

[11][左]多宝塔を back に中嶋君と


[右上]多宝塔を back に

[右中]毘沙門堂を back に

[右下]芭蕉句碑にて

.

. 本堂は真言密教の様式で、御本尊の如意輪観世音は秘仏として公開されない。(中略)

. 石山寺は本来、東大寺との関わりから、同じ華厳宗で、その道場となっていたが、後に真言密教の道場となり、小野派の密教を伝えていて、加持祈祷の霊験(れいげん)も新(あら)たかな処となっている。

. 源頼朝の寄進によるという多宝塔([筆者注]添付写真ご参照)は、我国最古のものといわれ、優美でしかも力強く見事だ。(中略)

. 此の辺りは、国分寺跡にも近いが芭蕉の棲んだ幻住庵も近い。

. 芭蕉が日夜来て拝んだという仏を石山寺は今も安置している。

.

.  あけぼのは まだ紫に ほととぎす ([筆者注]添付写真「芭蕉の句碑」参照)

.

. いうのは、「勢田に泊まりて暁に石山寺に詣で源氏の間をみる」という題がついて詠まれている。(後略)

.

【筆者comment】

. 道綱の母は、小倉百人一首五三で「右大将道綱母」として次の歌が載っている。(『拾遺集』恋四(912)

.

.  嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜(よ)の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

.

【意】あなたを待ちわび、嘆きながら独りで寝る私にとって、夜が明けるまでがどんなに長いものか、あなたはご存じないでしょうね

.

【筆者comment】

. 此れは「蜻蛉日記」にも載っている

. 其処では詠作事情が『拾遺集』と違った situation で記されている

. ‥夫(兼家)が近頃、別の女のもとに通っていることを知った作者が、夫の訪れを知りながらけっして門を開けようとせず、朝方になってからあらためて贈った歌とある

. ひとり寝の長さとわびしさを訴えかけた歌であり、「いかに‥‥かは知る」という強い口調からは、夫の不実に対する強い抵抗の姿勢を読みとることができる

.

. 此の歌を白洲正子は「私の百人一首」(新潮文庫)で次のように評している。

.

. 「かげろふの日記」の作者である。

. 承平七(937)年藤原倫寧(ともやす)の女に生れ、藤原兼家と結婚し、道綱を生んだ。

. 「かげろふの日記」は、兼家と会って捨てられるまでのいきさつを、回想的に記した散文で、孤独の辛さと、愛欲の苦しみを、しっかりと見据えて書いている。

. そういう自分をかげろうにたとえて、「あるかなきかの心ちする、かげろふのにき(日記)といふべし」と、自ら命名しているのは、その名に似合わず気丈な女性であったことを示している。(中略)

. 道綱の母は、特別内交的な性格のように見うけられる。

. だから名作が書けたのであろう。

. が、男の身になってみると、うっとうしい女性だったのではあるまいか。

. 兼家がつまらぬ町の女にひかれたのも、息ぬきを必要としたに違いない。

. そういうことが重なって、兼家はほんとうに離れてしまうのだが、どちらかといえば、男の方に私([筆者注]白洲正子)は同情したい気持である。(後略)〔了〕

.

今日(2022年01月22日(土))は、旧東海道五十三次「保土ヶ谷宿」→「神奈川宿〔現・横浜〕」を歩く予定だったが、コロナウィルスの中では一番感染力の強いオミクロン株が、全国で5万人〔2020.01.21現在〕近くという過去最多水準で蔓延していることから、もし感染したら、生命に別状なくても勤務先の皆さんに迷惑をかけるので walking に行くのを諦めた

.

. 其処で今日も、今は、少し昔〔‥と言っても15年07箇月前‥〕の懐かしい想い出からお届けする‥

. 小生の【時習26回3-7の会】クラス会は、此の2006.06.24 「プレ【時習26回3-7の会】」から始まった

. 今から15年07箇月前の話だから、まだ皆んな50-51歳と流石に若々しい

. ご笑覧頂きたい

.

.  ※   ※   ※   ※   ※

.

[12][左上]【時習26回3-7の会】参加者7人の全体写真


[右上]参加者7人の寄書

[左下]二次会での参加者6人の全体写真

[右下]伊庭さんと

.

[13][左上]伊庭さんと峯田君


[右上]菰田君と山中さん

[左下][右下]山田君と市川君

.

. 今泉悟です。昨日参加下さった皆さん!ほんと、大変楽しいひとときを過ごさせて頂きありがとう

. それにしても、みんな若いですね

. どう見ても10歳以上は若く見えますよ

. みんな自分の容姿に自信を持っていいですよ

 

. 昨日は、金沢で学会があり少し遅刻すると事前に連絡を頂いていた峯田君を除く6名は開始予定18時 5分前には、会場のボレロに勢揃い

. みんなホント几帳面(?)な方ばかりですね

. その峯田君も18時03分には到着

. みんなの協力に感謝です〔後略〕

.

今日(20220123)は、正真正銘の安息日だった

. 今は少し昔の物語(懐かしい想い出)から‥

.

【2013年01月02~03日『東京箱根間往復大学駅伝競走』で活躍する山本修平君!】

. 丁度今から9年前の2013年の正月(01月)02日、我等が母校時習館高校の36年後輩の第62回卒業生である、山本修平君が、「東京箱根間往復駅伝競走」の往路第五区アンカーとして活躍、早稲田大学を第3位から第2位に押し上げてgoal! 素晴らしい力走を見せてくれた

.

[14][左上][右上]箱根駅伝で力走する山本修平君


[左下]箱根駅伝往路の山本修平君の goal瞬間

[中下]箱根駅伝往路の順位表

[右下]2013年発行の時習館高校名簿から[左上]表紙 / [右上]第62回【3-1】山本修平君 / [左下] 第62回【3-1】鈴木亜由子 / [右下]第64回【3-4】〔小生の次男〕今泉剛

. 名簿には、山本修平君と(右上)、鈴木亜由子ちゃん(左下)、愚息(右下)の名前が載っていた

.

【後記1】今日(2022/01/18)待望の、圓山應擧(1733-93)の高弟、長澤蘆雪(1754-99)『花鳥図』が届きました

. 最高に嬉しいです

.

[15]長澤蘆雪『花鳥図』を back に


.

【後記2】一連の絵画蒐集も、今日(2022/01/19)の 平山講平『黄色の花』〔肉筆画 油彩画〕と、明日到着予定の掛軸 田中以知庵『春日遅々』の2点で終息することにした

.

. 平山講平『黄色の花』もなかなかいい作品だと思う

.

[16][左]平山講平『黄色の花』同前にて1


[右上]同『同』

[右下]同『同』同前にて2

.

【後記3】今日(2022/01/20)、田中以知庵『春日遅々』が届いた

. 此れで、小生の絵画蒐集は終息する

. 本作品も満開の桜木で羽を休めるオオルリを描いた花鳥画である

. 勿論、大満足である!

.

[17][左上]田中以知庵『春日遅々』


[右上]同『同』〔部分〕

[左下][中下][右下]同『同』を back に

.

【真作保証品】田中以知庵(いちあん)(1896.07.14 -1958.03.15)『春日遅々』(共箱 二重箱 肉筆 紙本 掛軸) 本名:兼次郎 / 号:咄哉州、以知庵、一庵 【出身地・師系】 東京都本所松坂/(師)上原古年、松本楓湖 /【所属・任】 日本南画院同人、日展審査員、春陽会会友 / 縦211cm×幅49cm

.

【略歴】 

1923(大正12)年 春陽会設立で客員

第2回新文展より無鑑査 / 第6回日展からは同審査員

1929年には小室翠雲の推薦により日本南画院同人 / 日展でも活躍

.

【後記4】最近小生、幸運に恵まれている

. 絵画蒐集は、終息宣言したばかりだが、落札は無理だろうと諦めていた小生が大好きな三岸節子(1905.01.03-1999.04.18)『花』〔lithograph〕が落札出来て仕舞った〔← (2022/01/22到着)此れで絵画蒐集はホント終息!〕

.

[18] 三岸節子『花』〔lithograph〕


.

. 遂に、小生、大好きな女流画家三人衆、小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)、堀文子 (1918.07.02-2019.02.05)、三岸節子(1905.01.03-1999.04.18)が、lithograph で揃った

. 余談だが、小倉遊亀 105歳、堀文子 100歳、三岸節子 94歳と皆さん健康長寿者! ホント凄い!

.

. 応接間は、洋画〔油彩画(一部 lithograph )〕、日本間である仏間は、日本画〔小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23) ( lithograph )と、伊藤若冲 (1716.03.01-1800.10.27)  ( 木版画 )、肉筆画(一部 木版画 )の 田中以知庵(1893-1958)・長澤蘆雪(1754-1799)・山口蓬春 (1893.10.15-1971.05.31)・橋本関雪 ((1883.11.10-1945.02.26) ( 木版画 ))等の掛軸に統一された

.
. では、また‥(了)

. ブログへは【0626】号迄のback numberはURL :http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog ←此処をclickして下さい

0 件のコメント:

コメントを投稿