2022年1月5日水曜日

【時習26回3−7の会 0894】~「2022年 謹賀新年」「松尾芭蕉:俳諧七部集『ひさご』から〔第06回 / 第31句~36句〕」「12月30日:旧東海道「茅ヶ崎一里塚」→「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)」→「藤沢宿」→「庚申供養塔・二ッ谷稲荷神社」→「四ッ谷一里塚跡」→「JR藤沢駅」を walking して」「2022年01月01日:拙宅一族全員集合!」「今は少し昔の物語『2010年12月04~05日:中嶋君【3-2】との湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像参詣~』」

◼️皆さん、2022年、新年明けましておめでとうございます / 本年もどうぞ宜しくお願いします / 今泉悟です

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[01]小生の今(2022)年の年賀状

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◼️今日も【時習26回37の会 0894】号をお届けします

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.  今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『ひさご06回 / 31句~36〕」をご紹介する

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031 花薄(はなすすき)あまりまねけば(注1)うら枯(がれ)て  翁

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【意】薄の穂は月夜の度に人を招いているうちに(招き過ぎて)穂先も枯れて仕舞った

【解説】《名残裏一》《秋》:花薄 / 薄の穂は風に揺れてお辞儀をする / 此れを招く行為と擬人化した / 前句の「月夜/\」に秋の深まる景を見込み、晩秋の野に場を求めた

(注1)まねけば:常套の擬人法 / 芭蕉発句に「何ごとも招き果(は)てたる薄(すすき)かな」

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032  唯(ただ)四方(よほう)(1)なる草庵(さうあん)の露(つゆ)  碵

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【意】薄が枯れ秋深まただ方形(四角形)簡素な此の草庵も朝露に濡れる

【解説】《名残裏二》《秋》:露 / 露は薄のあしらいとして詠んだものだが、儚さの象徴として草庵との映りも良い / 露しげき薄野に草庵を点出した景気の付だが、前句の擬人法から暗に晩年の小町を想定した /「薄‥小町が幽霊」〔類船集〕

(注1)四方:「ヨホウ」は四角形 /「シハウ」は四つの方角の意 / 前出「唯一方」も珍碩の付句

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033 一貫(いっかん)の錢(ぜに)(1)むつかしと返(かへ)しけり  水

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【意】此の草庵の庵主は潔癖な人 / 一貫(一千文)の施(ほどこ)しも不要だ返して仕舞った

【解説】《名残裏三》《雑》/「唯四方なる」に見込んで庵主の性格を思い詠んだ / 此の句の背景として、芭蕉は此の当時、蕉門の菅沼曲水らに無名庵提供して貰っているが、永住するつもりはな質素なものとするよう注文付けていた

(注1)一貫の銭:一千文(もん) / 緡(さし)に繋いで貫緡(かんさし)という / 遊里の祝儀等に用いる一分金とほぼ同額

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034  醫者(いしゃ)のくすりは飲(のめ)ぬ分別(ふんべつ)  翁

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【意】「生死は天命ゆえ医薬には頼らぬ」と心に決めている(=分別があ)

【解説】《名残裏四》《雑》/ 見舞金を誇示する其の人の信条を付けた

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035 花咲(さ)けば芳野(よしの)あたりを欠廻(かけまはり)(1)  水

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【意】此の人、花が咲けば吉野辺(あた)駆け廻っている

【解説】《名残裏》《:花 / 花の「定座」 芭蕉を image して詠んだ caricature(風刺)ともとれる / 前句を医者より養生が自慢の健脚老人に見替えているが、やや変化に乏しいのは否めない / 珍碩の句順だが、既に初裏の花を詠んでいるので、曲水に替った
(注1)欠廻(かけまはり):「欠(かけ)」は通行の当て字 /「廻(まはり)は、「あたり」に対応

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036  虻(あぶ)にさゝるゝ春(はる)の山中(やまなか)  碵

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【意】しかし此の御仁、春の山中で、花虻に纏わり付かれ刺され、閉

【解説】《挙句》《春》:虻(あぶ)・春 / 前句の「欠廻」を受けて笑いを誘う句

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   翁  十二

   珍碩 十二

   曲水 十二

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【小生 comment 

. 次回は、『ひさご』第07 回 / 第37句~42をお届けする

. どうぞ、お楽しみに!

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◼️続いての話題である

. 昨(2021)年12月24日(金))は、年末年始の6連休の二日目

. 旧東海道「茅ヶ崎一里塚」→「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)」→「藤沢宿」→「庚申供養塔・二ッ谷稲荷神社」→「四ッ谷一里塚跡」→「JR藤沢」を walking して巡って来たことについてお伝えする

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. 此の日は、長男一家6人と長女一家4人が拙宅に帰省して来る

. なので、今週の旧東海道五十三次「茅ヶ崎一里塚」→「藤沢宿」walking は、時間との戦いだった

. こういう時は accident が往々にして起きるものだ

. Walking の最中、小生のスマホが過充電だったからか、四ツ谷一里塚跡を過ぎた所で、スマホの画面が freeze して仕舞い全く操作不能になって仕舞った

. 一度完全に放電したら治るかもしれないと思い、放電し終わるのを待ったら、丁度帰宅した時に通常に戻った

. したがって、「四ツ谷一里塚跡」→「JR藤沢駅」→「JR茅ヶ崎駅」迄写真が一枚もない

. 此処の写真は、次回の「JR藤沢駅」→「藤沢宿」→「戸塚宿」→「JR戸塚駅」を walking する時撮影することにした

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01時30分 起床→腹筋2,000回

02時20分 2.5kg木刀素振り50分

03時10分 朝食→仕度→

03時46分 拙宅発→一般道 2時間04分 167km→

05時50分 愛鷹SIC→東名→厚木IC→海老名IC→寒川南IC→一般道 2時間54分 352km→

06時48分 JR茅ヶ崎駅近隣駐車場着

07時20分 同所発→一般道→徒歩→

 

【拙宅→JR茅ヶ崎駅近隣駐車場】

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[02][左]JR茅ヶ崎駅近隣駐車場にて


[右上]03時46分 拙宅発→05時50分 愛鷹SIC→東名→06時48分 JR茅ヶ崎駅近隣駐車場着

[右下]Google 航空 map:JR茅ヶ崎駅近隣駐車場→「茅ヶ崎一里塚」への経路図

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07時48分「茅ヶ崎一里塚」着

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【茅ヶ崎一里塚】

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[03][左上][右上][左下][右下]「茅ヶ崎一里塚」にて


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【旧東海道街中〔茅ヶ崎市元町〕風景】

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[04][左上]旧東海道五十三次街並〔茅ヶ崎市元町〕風景:旧東海道「一里塚」交差点にて1


[右上]同〔同市同〕同:同上2

[左下]同〔同市同〕同:同

[右下]同〔同市同〕同:同「一里塚」交差点

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【旧東海道街並〔茅ヶ崎市元町→同市本村〕風景】

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[05][左上]Google 航空 map:「茅ヶ崎一里塚」→「四ツ谷一里塚跡」への経路図


[右上]旧東海道五十三次街並〔茅ヶ崎市元町〕風景:旧東海道にて

[左下]同〔同市本村〕同:旧東海道にて1

[右下]同〔同市同町〕同:旧東海道にて2

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08時33分 旧東海道松並木「解説板」着

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【旧東海道街並〔茅ヶ崎市本村三丁目〕風景:旧東海道五十三次「東海道松並木」】

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[06][左]旧東海道街並〔茅ヶ崎市本村三丁目〕風景:旧東海道五十三次「東海道松並木」〔神奈川県立茅ヶ崎高等学校前〕にて


[右上]旧東海道五十三次「東海道松並木」解説板

[右下]旧東海道街並〔茅ヶ崎市本村〕風景:「同」同所にて

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【旧東海道街並〔茅ヶ崎市本村〕風景】

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[07][左]旧東海道街並〔茅ヶ崎市本村〕風景:旧東海道〔国道1号線〕にて1


[右上]同〔同市同〕同:同上2

[右下]同〔同市同〕同:同所「東京58km 横浜26km 藤沢7km」道標

. 東京が、拙宅〔豊橋市〕名古屋市より近い距離になった!

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09時01分「牡丹餅立場〔牡丹餅茶屋〕」着

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【旧東海道街並〔茅ヶ崎市松林〕風景】

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[08][左上]旧東海道街並〔茅ヶ崎市松林〕風景:旧東海道「松林」


[右上]同〔同市同〕同:同「牡丹餅立場〔牡丹餅茶屋〕」の跡 同所にて

[左下]同〔同市同〕同:同「同」解説板

[右下]Google 航空 map:「牡丹餅立場」→「四ツ谷一里塚跡」への経路図

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09時01分 旧東海道〔茅ヶ崎市小和田〕着

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【旧東海道街並〔茅ヶ崎市小和田〕風景】1

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[09][左上]旧東海道街並〔茅ヶ崎市小和田〕風景:「日本橋迄 to Nihonbashi 55km」道標にて


[右上]同〔同市同〕同:旧東海道にて1

[左下]同〔同市同〕同:旧東海道にて2

[右下]同〔同市同〕同:旧東海道

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[10][左] 旧東海道街並〔茅ヶ崎市小和田〕風景:旧東海道にて3


[右上]同〔同市同〕同:旧東海道にて4

[右中]同〔同市同〕同:旧東海道にて5

[右下]同〔同市同〕同:旧東海道にて6

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09時50分 旧東海道〔藤沢市城南〕着

09時59分「二ッ家稲荷神社」「庚申供養塔」着

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【旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景「庚申供養塔」】

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[11][左] 旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景:旧東海道にて1


. 愈々此処から藤沢市だ

[右上]同〔同市同〕同:旧東海道「庚申供養塔」

[右中]同〔同市同〕同:同「同」同所にて

[右下]同〔同市同〕同:同「同」解説板

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【旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景「二ッ家稲荷神社」】

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[12][左] 旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景:旧東海道「二ッ家稲荷神社」前にて


[右上]同〔同市同〕同:「二ッ家稲荷神社」暦表碑

[左下]同〔同市同〕同:「同」拝殿前にて

[右下]同〔同市同〕同:旧東海道にて2

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10時08分 旧東海道〔藤沢市城南〕「四ツ谷一里塚跡」着

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【旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景「四ツ谷一里塚跡」】

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[13][左]旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景:旧東海道「四ツ谷一里塚跡」同所にて


[右上]Google 航空 map:旧東海道「四ツ谷一里塚跡」にて

[右中]旧東海道街並〔藤沢市城南〕風景:旧東海道「四ツ谷一里塚跡」1

[右下]同〔同市同〕同:同「同」

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10時22分 旧東海道〔藤沢市城南→同市藤沢「藤沢宿蒔田本陣跡」へ〕着向かう

13時34分 JR藤沢駅発→東海道本線〔運賃199円〕→

13時41分 JR茅ヶ崎駅着

13時50分 JR茅ヶ崎駅近隣駐車場発→寒川南IC→海老名IC→厚木IC→東名→愛鷹SIC→一般道→

17時30分 帰宅

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【旧東海道街並〔藤沢市城南→同市藤沢〕→藤沢橋→JR藤沢駅→JR茅ヶ崎駅→帰宅〕】

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[14][左] Google 航空 map:「四ツ谷一里塚跡」→「JR藤沢駅」への経路図


[右上]同:「同」→「藤沢宿蒔田本陣跡」への経路図

[左下]13:34「JR藤沢宿」→13:41「JR茅ヶ崎駅」への時刻表

[中下]17:30帰宅〔走行時間4時間31分 復路走行距離258km/往復512km〕

[右下]此の日の歩行距離 14km 歩行歩数 18,270歩

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【小生 comment 】

. 次回は、「藤沢宿」→「戸塚宿」を踏破する予定である

. あと goal の日本橋迄 50km 余りだ

. ワクワクして来た〔了〕

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続いての話題である

. 2021年12月の大晦日の晩から今夕迄、拙宅に子供3人、孫6人、長男と長女の partners 2人の一族全員が集合、記念写真を撮影

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[15]小生の一族全員集合の 記念写真


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続いての話題である

. 今日も、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

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2010/12/11 22:45:13 【時習26回3-7の会 0320】~「12月04~05日:「中嶋君【3-2】との『湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像参詣』報告」

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■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか

. さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0320】号をお送りする〔中略〕

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■さて今日は、掲題・副題にある様に、12月04(土)~05日(日)の両日、中嶋君【3-2】と『湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像巡り』に行って来たのでご報告させて頂く〔中略〕

【12月04日】

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09時00分 拙宅に中嶋君が車で迎えに来てくれて出発

09時20分 東名・豊川IC→名神・小牧IC→北陸・米原IC→長浜IC

11時25分 長浜港・フェリー発着所〔ホテルで lunch〕

12時45分 竹生島ゆきフェリーに乗船、出港

13時15分 竹生島着→竹生島神社&弁才天参拝

14時40分 竹生島出港

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[16][左]竹生島に着いた時の snap-shot


[右上]竹生島港出港前の中嶋君と小生の two-shot

[右下]つづらお荘の宿泊部屋からの竹生島遠望20101204-16時25分

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【竹生島について〔その1〕~白州正子著『近江山河抄』~〔近江路〕より】

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. 〔前略〕この蟹や いづくの蟹 百伝(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ 何処に至る 伊地遅(いちぢ)島 美(み)島に着き 鳰(にほ)の 潜(かづ)き息づき しなだゆふ 佐々那美路(さざなみじ)を すくすくと 我が行きませば‥‥〔古事記〕

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. これは応神天皇が、矢河枝比売(やかわえひめ)に送った相聞歌であるが、伊知遅島は竹生島の古名で、美島は美称である。角鹿(今の敦賀で応神天皇の都)に名物の蟹を連想し、横に這うことから、竹生島の姿を思い浮かべた。鳰鳥はカイツブリのことで、その鳥が沢山いる琵琶湖を、後世「鳰(にほ)の海」とも呼んだ。しなだゆふは佐々那美路、つまり近江路の枕詞で、坂道が多いことの形容と聞くが、そういう固定した景色ではなく、うねうねと続く丘陵の起伏に、小波が打ち寄せる様な動きを感じ、そこで「すくすく‥‥」という足取りが生きて来る。佐々那美は後に「楽浪」と書いて、「志賀」の枕詞に転じ、多くの優れた歌を生んだ。〔後略〕

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【竹生島について〔その2〕~白州正子著『西国巡礼』~〔第三十番 竹生島〕より】

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. 竹生島へは、大津からも長浜・彦根からも遊覧船が出ているが、湖北から行くのが一番近い。〔中略〕

. さて、その長い歴史を秘めた島が、どこから一番美しく見えるかといえば、私(=白洲正子)は海津の浦からと答えたい。海津は大崎の鼻を回った入江にあり、『勧進帳』等で有名な泊りだが、今はうらぶれた漁村である。そこに小さな松原があり、湖水の畔まで出ると、伊吹山を背にした竹生島が眺められる。〔中略〕伊吹を抜きにした竹生島は魅力がない。〔中略〕ひたひたと寄せるさざ波の他、物音一つしない浜辺に立って、私は長い間見とれていた。浄土の夢を見ている想いであった。

. 後を振り返ると、丁度比良の嶺に、夕日が落ちるところで、頂上に残るはだら〔=濃い色と薄い色が混じって斑(まだら)の模様を現す様〕雪が茜色に染まっていた。〔了〕

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15時05分 長浜港着

16時30分 国民宿舎 つらお荘着

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【12月05日】

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08時15分 つづらお荘発

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. 同荘の勧めで【須賀神社】と【菅浦(すがうら)】の海岸と集落を散策。菅浦は湖北にあり乍ら雪は殆ど降らないという。

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【菅浦と淳仁天皇〔淡路廃帝〕について~白州正子著『かくれ里』~〔湖北 菅浦〕より】1

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[17][上]「菅浦」初冬旅情01


[左下]同上02 

[右下]同上03

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[18][上]「菅浦」初冬旅情04


[左下]同上05〔カイツブリ(鳰(にほ))の群〕

[右下]同上06

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. 〔前略〕祖神として祀られる人々には、必ず哀れな伝説が付き纏う。淳仁天皇〔【小生注】733-765(第47代:在位758-764)〕も、その例をもれず、不幸な生涯を送った天皇である。天平勝宝08(756)年、聖武天皇の崩御と共に、平城京には不穏な空気が流れ始めた。〔中略〕皇太子も廃され、代わって大炊(おおい)王が立つ。天武天皇の孫〔=舎人親王の子〕で、時に25歳、これが後の淳仁(じゅんにん)天皇である。予てから藤原仲麻呂〔恵美押勝〕と親交があり、翌年に孝謙天皇が譲位して、仲麻呂は天皇から、恵美押勝の美称を給わる。が、〔中略〕天皇は傀儡に過ぎず、〔中略〕〔天平宝字04(760)年後ろ盾だった光明皇太后が崩御すると〕押勝の立場も危うくなって行く。

. 新しく造った近江の保良(ほら)の宮〔=現・大津市瀬田の付近〕で、〔淳仁〕天皇が〔孝謙〕上皇と道鏡の間柄を、厳しく詰問されたのは有名な話である。そのことから、事態は急速に悪化した。〔中略〕押勝の乱が起こったのは、それから間もなくのことである。〔中略〕

. さしもの権勢を誇った恵美押勝が、近江の高島で壊滅すると同時に、天皇も淡路に流され、「淡路廃帝」と称されることになる。その後日譚は、太平記に載っており、【菅浦】の伝説も、恐らくこれが元になっていたと思われる。

. 〔中略〕〔天皇は淡路脱出を試みるも失敗し、殺されたいうのが有力説であるが〕菅浦の言い伝えでは、その淡路は淡海の誤りで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、【須賀神社】という社があるが、明治までは保良神社と称し、大山咋命(おおやまぐいのみこと)・大山祇命(おおやまつみのみこと)が祭神であった。が、本当の祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている。保良神社と言ったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛篭(つづら)尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名づけた、と伝えている。〔以下略〕

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10時45分 余呉湖到着。車で半周程走り、

10時50分 同湖畔にある国民宿舎「余呉湖荘」に入る

11時00分 同荘にて、昼食〔近江牛丼〕をとる

11時40分 余呉湖荘発

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【賤ヶ岳山頂】

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[19][上]賤ヶ岳山頂から琵琶湖をバックに中嶋君と


[左下]賤ヶ岳から琵琶湖・竹生島遠望

[右下]賤ヶ岳から琵琶湖遠望の絵画的瞬間

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[20][上]賤ヶ岳から余呉湖を back に


[左下]己高閣(鶏足寺)十一面観音像〔部分〕

[中下]鶏足寺から石道寺に至る道の紅葉の風景

[右下]太平観音堂・円空作 十一面観音像 頭部

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. 賤ヶ岳山頂の滞在時間は20分程で下山開始。帰途は15分程で余呉湖荘に戻れた。

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13時30分 余呉湖荘発

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【己高(ここう)閣・世代(よしろ)閣】

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14時00分 己高(ここう)閣・世代(よしろ)閣 着

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. 此の日二つ目の「十一面観音像」参拝となる。この二つの閣は、與志漏(よしろ)神社境内にある収蔵庫。己高閣には、同神社至近にある「鶏足寺(けいそくじ)」の本尊であった「十一面観音立像」を安置してある。この観音様は実に上品で smart な立ち姿をされている。美しい。この観音様の右足親指先をご覧下さい。ここだけ上を向いている。これは次にご紹介する「石道寺(しゃくどうじ)」の「十一面間の立像」と同じく、右足親指先が上を向いた pose をしている。このお姿は、「衆生を救う為、観音様が今にも足を踏み出そうとしている姿」を現しているのだという。

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14時53分 石道寺 着

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. この「十一面観音像」は実に美しい。これも、白州正子氏の言葉を借りる。

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【石道寺】

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15時37分 向源寺〔渡岸寺〕着

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. ここの「十一面観音像」は国宝である。流石に素晴らしく、見る者にえも言われぬ流麗な美しさで迫って来る。

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【向源寺〔渡岸寺〕】

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16時26分 大平観音堂 着

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. これまでご紹介して来た4体の「十一面観音像」は、全て現・長浜市にある。

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【大平観音堂】

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. 一方、この大平観音堂は米原市にある。伊吹山麓にあると言ってもいい。現地に到着したのは16時をかなり回っており、入り口も施錠されていた為、「拝観叶わずか」と諦めかけた処、【大平観音堂】の向かいに、そのお堂拝観の受付を担当している「伊吹山文化資料館」がまだ開いていたので、そこにいた受付の女性に、「我々二人は、遠路・愛知県から遥々、円空作『十一面観音立像』を見に来た。許されるのであれば10分でいいので是非拝観させていただけないかと伝えて欲しい」と頼み込んだ。そうしたら、その女性は快く応じてくれ、2~3分したらお堂を管理しているおばさん、続いておじさんがやって来て、快く見せてくれた。しかも写真撮影もOKということで

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. この円空の「十一面観音立像」は、先日11月21日(日)まで滋賀県立近代美術館で開催されていた『生誕100年特別展 白州正子~神と仏、自然への祈り展』に展示されていたものである。小生、丁度2週間ぶりの再会を果たした。嬉しく思った。中嶋君も同展を小生より先に見ている〔というより同展開催を小生に紹介してくれたのは彼である〕。17世紀前半に活躍した円空の作風は、文字通り荒削りである。が、その日見た全部で5つの「十一面観音立像」の中で、この円空の作品が見るものに最も斬新な清々しさを与えてくれた、と小生は感じる。

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[21][左]白洲正子の著作の 数々他


[右上]渡岸寺(向源寺)・国宝 十一面観音像 頭部

[右下]石道寺・十一面観音像

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【己高閣】〔『十一面観音巡礼』~〔湖北の旅〕より〕

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. 〔前略〕古橋という集落の高台に、與志漏(よしろ)神社が建っている。その裏手に新しい収蔵庫があって、もと己高(こたかみ)山にあった鶏足寺(けいそくじ)の仏像が集まっている。己高閣とも呼ばれ、本尊は平安初期の十一面観音で、渡岸寺の観音とはまた別な趣がある。いかにも田舎の仏らしく、おっとりとした風貌で、ほのかな彩色が残っているのが美しい。〔後略〕

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【石道寺】〔同じく『十一面観音巡礼』より〕

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. 鶏石寺から石道寺へ、雑木林の中を縫って行く小道には、湖北らしいしっとりとした趣がある。〔中略〕落葉を踏んで行くと、やがてその麓の山あいに、石道(いしみち)の集落が見え〔中略〕お堂は、そこから少し登った丘の上の、桜並木の奥にあり、ここにも平安時代の可憐な十一面観音が、村の人々に守られて鎮まっている。「一木造り等身大の藤原彫刻は、まことに古様で、美しい。微笑を含んだお顔もさること乍ら、ゆるやかに流れる朱(あけ)の裳裾(もすそ)の下から、ほんの少し右の親指をそらし気味に、一歩踏み出そうとする足の動きには魅力がある。法華寺や室生寺の十一面観音も、同じ様に親指をそらせているが、多くの人々の心をとらえるのは、あの爪先の微妙な表現によるのではないか」

. と、『近江山河抄』の中に私は書いているが、今度気がつくと、鶏足寺の観音も、足の親指をそらせており、当時の彫刻家が、十一面観音の「遊び足」の表現に、夫々苦心したことが窺える。〔後略〕

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【渡岸寺〔向源寺〕】〔同じく『十一面観音巡礼』より〕

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. 土地ではドガンジ、若しくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代〔【小生注】859-877年(清和・陽成天皇の御代)〕の美しい十一面観音をお守りしている。私が初めて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしただろうか。その度毎に境内は少しずつ整備され、案内人もいる様になって、最近は収蔵庫も建った。〔中略〕

. お堂へ入ると、丈高い観音様が、剥き出しの儘立っておられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。〔中略〕湖水の上を渡るそよ風の様に、優しく、なよやかなその姿は、今迄多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚える様になった。〔中略〕

. 渡岸寺の観音〔中略〕は近江だけでなく、日本の中でも優れた仏像の一つであろう。〔後略〕

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【大平観音堂】

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. 〔前略〕円空(【小生注】(寛永09(1632)年-元禄08(1695)年08.24)も多くの彫像を残した。かつて伊吹村で、円空作の十一面観音に出会った時の感動が、私には忘れられない。それまで私は、世間の人が騒ぐ程、円空に興味を持っていなかった。が、美濃や飛騨の山奥を歩いていると、至る所で彼の作品に出会う。そして、言わば円空信仰とも言うべきものが、ブームになるより遥か以前から、地方に行渡っていたことを知ったのである。〔中略〕

. 〔伊吹村の十一面観音は〕もと伊吹山の太平寺に祀ってあった仏像で、最近麓の村へ移されたという。それは作者の息遣いが直に伝わって来る様な、迫力に充ちた仏像であった。円空の彫刻には、誰でもそういうことを感じるが、時には表に出過ぎて、内面的な力に欠ける場合もある。が、この観音様は違っていた。恐らく素材に制約されたのであろう。窮屈そうに肩をすぼめて、宝瓶(ほうびょう)を握りしめ、鱗形の天衣を纏った長身からは、鬱勃として精気がほとばしる様であった。悲しい様な、寂しい様な微笑を浮かべた表情にも、孤独な人の魂が感じられる。腰を捻った恰好は、当人は「遊び足」のつもりだったかも知れないが、私には自然の樹木のよじれの様に見え、十一面観音が誕生する以前の、「立木観音」を彷彿とさせる。〔後略〕

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続いての話題である

. 今日も、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

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2011/01/16 3:55:56 【時習26回3-7の会 0325】~〔前略    様〕「01月09日:一宮市三岸節子記念美術館『三岸節子 光と風景-ヨーロッパの輝く景色-』展を見て」

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今日は、20110109日、愚息〔長男〕が本年09月に結婚することになり、fiancee 宅に息子と一緒に挨拶に行って来た帰り道、同市内にある、一宮市三岸節子記念美術館で開催中であった「三岸節子 光と風景―ヨーロッパの輝く景色―」展を見て来たのでその一部をご紹介させて頂く

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. 三岸(みぎし)節子の略歴は次の通り

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1905(明治38)年 01月03日愛知県中島郡小信中島村((旧・尾西市)現・一宮市)に吉田永三郎・きく、の第6子(四女)として生まれる / 本名「節(せつ)」

1921(大正10)年 上京 / 岡田三郎助が開いた本郷洋画研究所と女子研究所に通う

1922(大正11)年 女子美術学校2年に編入学

1924(大正13)年 女子美術学校を首席で卒業 / 同年 画家三岸好太郎と結婚

1934(昭和09)年 好太郎、胃潰瘍で急逝

1999(平成11)年 04月18日急性循環不全の為逝去(享年94歳)

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【三岸節子 傑作選】

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[22][左上]三岸節子1985年ヴェロンにて


[右上]三岸節子/光と風景―ヨーロッパの輝く景色―

[左下]三岸節子記念美術館

[右下]三岸節子『自画像』1925年

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[23][左上]三岸節子『カ―ニュ風景』1969年


[右上]同『朝が来た(ヴェネチア)』1971年

[左下]同『霧』1973年

[右下]同『小運河の家(Ⅰ)』1972年

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[24][左]三岸節子『細い運河』1974年


[右上]同『スペインの白い町』1972年

[右下]同『ブルゴーニュの麦畑』1978年

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[25][上]三岸節子『ブルゴーニュのブドー畑』1979年


[左下] 『アンダルシアの町』1987年

[右下] 『花』1989年

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【小生comment】

. 三岸節子の作風は、大胆にデフォルメ( deformer )された対象物である風景や静物が、彼女の優れた色彩感覚と構図の balance 感覚によって、canvas いっぱいに踊っている様に活写されている

. 彼女の絵は、色彩も構図も微妙な balance を保っていて、これが観る者を捉えて離さないのだと思う

. 小生が彼女の真似をしたら、多分、デフォルメとは「破綻」を意味し〔‥要するにグチャグチャになって‥〕絵の体をなさないであろうことは想像に難くない(笑)

. 今回(2011年01月09日)「一宮市三岸節子記念美術館」へは初めての訪問であったが、期待以上に素晴らしい作品群を見ることが出来、大変満足であった

. 彼女は、日本人の本格的な女流西洋画家と言っても過言ではあるまい

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【本日(2022年01月02日)補足】

. 此の日以来小生、三岸節子の大ファンになり、一宮市三岸節子記念美術館は、毎年数回訪れて彼女の傑作選を堪能している〔了〕

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◼️更に続いての話題である

. 此れも、今は少し昔の懐かしい想い出から‥

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[26][左]白澤卓二「100歳までボケない101の方法」


[右]2011年03月07日「時習26回 1-4】『ミニミニ同期会』」にて中嶋君と林さんと

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2011年03月05日(土)【時習26回3-7の会 0331】~〔前略〕白澤卓二『100歳までボケない101の法~脳と心のAnti-aging』を読んで」

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◼️さて気分が重くなったところで、気分転換しよう

. 最近読んだ本からまた一つご紹介する

. 「白澤卓二著『100歳までボケない101の法~脳と心のAnti-aging』」についてである

. 白澤氏は、「ボケない人ほど長生きできます」と述べているが、その『100歳までボケない101の法』の中から印象に残った2つをご紹介したいと思う

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.[73]彫刻家や画家はなぜ長生きするのか

. 彫刻家では、平櫛田中(でんちゅう)さん(107歳)〔中略〕、画家では小倉遊亀(ゆき)さん(105歳)、片岡珠子さん(103歳)、Marc Chagall(97歳)、Pablo Picasso(91歳)と長生きが多い。〔中略〕脳の中で手を動かしている部分は足より大きい

. 手をしょっちゅう動かしているのは、それだけ脳を動かしていることになります

. 創造的な仕事について、それが好きでずっと続けられたということは、常に脳も生き生きとしていたといってもいいだろう

. もう一つ注目したいのは、絵にしても彫刻にしても、それを描いている時は勿論だが、普段から描くべき theme を持っていることだ

. 〔中略〕描きたいことがある

. これが重要なのではないだろうか

. 生きがいと言い換えてもいい〔中略〕

. これを一生持ち続けたことが長生きに繋がったと思っている

. 芸術家、経営者の中で長寿者が多いのは、自らの生きがいが仕事にあったからとは言えないだろうか

. 健康長寿の為に食事や運動、更に生活の改善を提案して来ているが、これ以上に重要な要因が生きがいにあると思う

. 生きがいがあるから、やりたいことがあるから、長生き出来るのだ

. 〔中略〕百名山を登る、世界遺産を訪ねる、日本の風景を写真に撮る、何でもいいのだ〔後略〕

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[70]いつまでも男と女

. ある sport club で少し年齢の高い人向けの course に参加している人から、いい話を聞いた

. Instructor の女性が、健康7カ条というものを教えてくれたそうだ

. 此の本を読んでいる人に大変参考になるので、ご紹介させて頂く

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①1日に20分は歩く

②声を出して新聞を読む

③料理をする

④2日前のことを思い出してみる

⑤人と積極的に会う

⑥公共の乗り物を利用する

⑦恋をする

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. 以上の中で、注目したいのが7番目の「恋をする」だ〔中略〕

. Communication の基本は相手と共感することである

. 相手と深く共感するのは、恋愛であろう

. 好きになる、恋をする

. 若者でもあるまいし、と思われるかもしれないが、人に会ってときめくことは脳の活性化には非常に有効なのだ

. 恋愛とまではいかなくても、素敵な人だなと思うだけでもいいのである

. 恋心、ときめく感情は、若々しくさせてくれる

. おしゃれにも繋がって行く

. 異性に対して関心を失うと一気に若々しさが失われて行く〔了〕

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【小生comment】

. PPK〔ピンピンコロリ〕運動推進者の小生には白澤氏の上記の suggestion は大変参考になった(笑)

. 皆さんはどう思われますか?

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■さて続いては、去る(2011年)03月07日(月)の夜、【時習26回 1-4】『ミニミニ同期会』を開催しましたのでご報告する

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. 実は【時習26回3-7の会】《会報》の話題が政治経済関係の話という堅くて面白くない話が続いて仕舞っていた

. 万年幹事として反省した小生、「だったら、『クラス会・同期会』関係の記事を作ればいいじゃん」と思い立ち、早速行動に移した

. 小生の(前職の)勤務先がある所から程近くに在住され、『クラス会』等に参加をお願いした時もいつも快く協力して下さる、林さんと、小生の朋友でかつ主治医〔←特に精神面(笑)〕である中嶋君【3-2】に急遽連絡を入れ、『ミニミニ時習26回同期会』を開催したのである

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【後記】今日は、「今は少し昔の懐かしい想い出から‥Back Number【時習26回3-7の会 0319】」にて締め括ることとする

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2010/12/01 22:44:04【時習26回3-7の会 0319】~「11月27日:【2637の会】《クラス会 Part2》開催報告」〔後略〕

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【時習26回37の会】《クラス会 Part2》開催報告 digest 

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◼️今日は【2637の会】《会報》【0319】号をお送りする〔中略〕

. 11月27日(土)は、夕方6時、ほぼ定刻に参加予定者の9人全員が会場トライアゲイン集合して開催

. みんなとっても元気で、すぐ和やかな、大変楽しい《クラス会》だった

. 鈴木(雄)君と犬飼(石田)さんが、2006年から5年連続開催されている【2637の会】《クラス会》に初めて参加してくれた

. 鈴木(雄)君は、確りと貫禄がついて、素晴らしい福耳と共に、膨よかな仏様の様な姿が印象的

. 犬飼さんとは小生、2006年春、浜松で峯田君と3人で会って以来4年半ぶりの再会

. 犬飼さんは、若かりし頃の面影が確り残っていて、店に入って来た時、すぐ犬飼さんだと判った

. 山中(高木)さんとは、2年ぶりの再会

. 石田君、菰田君、千賀君、林恭子さん、牧野君は、小生と共に今年08月の《クラス会》にも参加してくれた

. 《クラス会》に参加してくれた8名の皆んな有難う!〔中略〕

. 話題は自ずと「健康」の話が多かったが、クラス会に参加していない  classmates の仲間の昔懐かしい話や近況等から更には〔中略〕現代の日本や世界の政治経済にまで話が及び、難い話乍ら、みんな面白かったという感想を頂戴した

. トライアゲインのママからは「話題が結構真面目な話なのに、みんな結構楽しんでいたみたいね / だからカラオケを用意していたのにだ~れも歌わなかったし / でもこういうクラス会もあったっていいんじゃない?」という感想を貰った

. 18時から始まったクラス会 は、あっと言う間に21時半を回り、そこでクラス会の定番になった寄書をジャンケンで千賀君が get した

. 最後に参加者全員で記念撮影した

. みんな「いい顔」してるでしょう!

. 本当に楽しいあっという間の4時間だった

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[27][上]参加者全員の記念写真


[左下]今回の参加者全員の寄書

[右下]寄書を get した千賀君

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. では、また‥〔了〕

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