2018年11月2日金曜日

【時習26回3-7の会 0729】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之五〔第29回〕』」「10月13日:大垣市守屋多々志美術館『守屋の描いた歴史画』展→『大垣城』→奥の細道むすびの地記念館『真筆に見る芭蕉と大垣』展→『墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)』→瑞陵高校『杉原千畝広場』→安城市歴史博物館『家康を支えた 三河石川一族』展を見て巡って」「10月21日:『母校・豊橋市立八町小学校』を訪ねて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0729】号をお届けします。 今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之五〕連句集の通算〔第29回〕目についてである。
 其れでは「春の部」の〔第2回〕、「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第113句~116句をご覧頂きたい。
「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第5句目から第8句をごゆっくりどうぞ!

  猿蓑集 巻之五

113 片隅(かたすみ)に虫齒(むしば)かゝえ(=)て暮(くれ)の月  ()

【意】餅(=(しとぎ))(1)を食いたくても虫歯の歯痛で食えず、家の片隅で苦しんでいる / 外には暮の月が出ている
【解説】季語:「月」=秋 / 月の定座(じょうざ)
 連歌・連句で、一巻(ひとまき)の内、「月」の句を詠みこむ箇所(=『月の定座』)は、「歌仙」では、(1) 初表(しょおもて)5句目、(2) 初裏の8句目、(3) 名残の表の11句目の3か所
 折角頂いた餅も食べられず、虫歯に悩む人に暮の月をあしらった句 /
 前句の「粢(しとぎ)」を踏まえ、食おうとしているのは「餅」
 表六句中には病体の句を嫌うが、「虫歯」程度なら許された様だ
(1)(しとぎ)):米粉や糯(もち)米で作った長い楕円形の餅 / 神前に供える

114 二階(にかい)の客(きゃく)はたゝれたるあき  ()

【意】歯痛で苦しんでいた二階の泊り客も今朝旅立った様だ / 宿の静けさが秋の風情を際立たせている【解説】季語:あき=「秋」
115 (はなち)やるうづらの跡(あと)は見えもせず  ()

【意】放鳥(ほうちょう)に、飼っていた鶉を放して遣ったら、跡形もなく見えなくなった / 旅立った二階の泊り客の様に

【解説】季語:「鶉」=秋
 陰暦八月十五日の放生会(ほうじょうえ)や葬式の際、捕らえて置いた鳥を放ち遣ることを「放鳥」という /
 放生会は仏教の不殺生の思想に基づき行われる儀式 / 放鳥は功徳を積むために行われた

116 (いね)の葉延(はのび)の力(ちから)なきかぜ  ()

【意】田圃(たんぼ)では伸び切った稲の葉先が秋の微風で僅かに揺れている
【解説】季語:「稲の葉延(はのび)」=夏

【小生comment
 次回は、連句集の通算〔第30回〕目、「春の部」の〔第3回〕、全144句中の第117句~第120句、「春〔梅若菜〕」の連句全36句の第9句からの4句である。
 お楽しみに!

■続いての話題は、1013()に「大垣」「名古屋」「安城」と巡って来たことについてである。
 其の日も充実した一日を過ごすべく、「大垣市守屋多々志美術館『市制100周年記念特別展/守屋の描いた歴史画』展」→「大垣城」→「奥の細道 むすびの地記念館『第24回企画展/真筆にみる芭蕉と大垣~重ねる交遊、深まる心~』」→「墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)」→「らあめん 陣屋〔昼食〕」→「愛知県立瑞陵高等学校 / 杉浦千畝広場( Chiune Sugihara Square )『センポ・スギハラ・メモリアル( Aichi Prefecture SEMPO SUGIHARA MEMORIAL )』」→「安城市歴史博物館『家康を支えた 三河 石川一族』展 と巡って来た。

0630分 拙宅発→一般道 140km 2時間45分→
0915分 大垣市守屋多々志美術館着

【大垣市守屋多々志美術館『市制100周年記念特別展/守屋の描いた歴史画』展】

 大垣市守屋多々志美術館での企画展は、名画の勢揃いで見応えがあった。

[01]大垣市守屋多々志美術館前にて

[02]本企画展leaflet
                  
[03]守屋多々志『楊四娘』1969

[04]同『アンジェリコの窓』1969
                  
[05]同『誕生(聖徳太子)2000


0935分 大垣市守屋多々志美術館発→徒歩100m 02分→
0940分 大垣城

【大垣城】
 
 大垣城の登城も久しぶりだった。
 何回も紹介しているが、藩祖 戸田氏鉄の父 戸田一西(かずあき)は、ご当地旧吉田の多米町5,000石の領主だった人。
 売店で 静岡大学名誉教授 小和田哲男氏監修の「戦国手帳」なるものを購入した。
 ご覧の様に 戦国時代ファンには堪えられない優れものだ!。

[06]大垣城天守閣前にて1
                  
[07]同上2

[08]戸田氏鐵像前にて
                  
[09]大垣藩初代藩主戸田氏鐵()&同藩祖戸田一西(かずあき)

[10]戦国手帳1
                  
[11]同上2

[12]同上3
                  
[13]大垣藩第11代藩主 戸田氏共(うじたか)

[14]守屋多々志『無題』
                  
 大作曲家 J. Brahms の面前で琴を演奏する駐墺全権公使戸田氏共の妻女極子(きわこ)
 極子は、明治の元老 岩倉具視の三女

[15]天守閣より西方の伊吹山を望む

 最上階から西を望むと「伊吹山」が結構近くに見える
 此の後、大垣市奥の細道むすびの地記念館へ向かった。

【大垣市奥の細道むすびの地記念館】 
 今回大垣を訪ねたのは、守屋多々志展があることもさること乍ら、松尾芭蕉が 奥の細道 のむすびの地 大垣を発って伊勢に向かう舟に乗ったのが、今から丁度331年前の元禄020906日、新暦16891018日のことで、芭蕉が経験したのと同じsituation を体験してみたかったからだ!
 奥の細道むすびの地記念館に到着したら、大垣市主催の「大垣市市制100周年 おおがき芭蕉楽市」のeventが屋外で開催されていた。

[16]大垣市市制100周年 おおがき芭蕉楽市 のevent
                  
[17]奥の細道むすびの地記念館入口前にて

[18]奥の細道記念館の展示corner前にて1
                  
[19]同上2

[20]住吉燈台前にて
                  
[21]住吉燈台近くの橋の欄干からの風景

[22]同上の橋の欄干にて
                  

 当館は、松尾芭蕉の奥の細道と、芭蕉と大垣俳人の関係をとても詳しく説明してあり、芭蕉ファンとしては大変勉強になる。
 館内の見学を終えて、次の目的地へ向かう前に、当館至近にある「住吉燈台・船町港後」周辺を散策した。

1055分 住吉燈台発→08 20分→
1115分 墨俣一夜城着
 
【墨俣一夜城〔大垣市墨俣歴史資料館〕】

 豊臣秀吉が木下藤吉郎時代であった1566(永禄09)年に一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城。
 1991(平成03)04月 史実に反するが、城郭天守の体裁をした「墨俣一夜城」が「大垣市墨俣歴史資料館」として開館した。
 1977(昭和52)年 愛知県江南市の旧家に伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が発見され、其の全貌が明らかになりつつある。
 大垣市墨俣歴史資料館では、この資料に基づき墨俣築城と秀吉の歩んだ道を紹介している。

[23]墨俣一夜城をback1

[24]同上2
                  
[25]同上3


1150分 同所発→一般道38 1時間
1250分 らあめん陣屋着=昼食=
 
【らあめん陣屋】
 
[26]らあめん陣屋の「味噌チャーシュー麵」
                  
[27]らあめん陣屋の前にて


1355分 らあめん陣屋発→一般道08 25
1430分 愛知県立瑞陵高校「杉浦千畝記念館」着

【愛知県立瑞陵高等学校/杉浦千畝広場/センポ・スギハラ・メモリアル】

 今日が「杉浦千畝広場/センポ・スギハラ・メモリアル」の開催日初日。
 此れから24時間いつでも拝観出来るそうだ!
 瑞陵高等学校は、小生、少なからず縁がある。
 大学4年生の時、愛知県教員試験を受験した会場が瑞陵高校であった。
 又、愚娘が通った高校も此の高校である。
 因みに、吾等が母校の時習館高校は、旧制度愛知四中、瑞陵高校は同 愛知五中。
 旧制愛知number中学は、一中:旭丘、二中:岡崎、三中:津島、六中:一宮、七中:半田、八中:刈谷の8校。

[28]「杉浦千畝広場/センポ・スギハラ・メモリアル」のある愛知県立瑞陵高等学校南門前にて
                  
[29]「杉浦千畝」解説板~人道の道~

[30]同上~ビザ発行時の状況~
                  
[31]「杉浦千畝」像の前にて

[32]来場者で煮ぎ合う「杉浦千畝広場」
                  

1500分 愛知県立瑞陵高等学校発→32 60分→
1600分 安城市歴史博物館駐車場着
1605分 安城市歴史博物館『特別展/三河 石川一族』展

【安城市歴史博物館『特別展/安城ゆかりの大名/家康を支えた 三河 石川一族』展】

 本企画展について、当館「ごあいさつ」から引用してご紹介する。
「戦国期、石川一族は真宗門徒の多い西三河各地に分出、拡大した。
 一族の惣領家は、現在の安城市小川町にあたる小河に居た石川家だった。
 此の石川家出身の忠成(清兼)は、家康の祖父清康・父広忠の重臣であり、本證寺(安城市野呂町)の門徒武士だった。
 忠成の孫 数正と息子 家成は、早くから家康の領国拡大やその統治に貢献した。
 本展では、門徒武士としての石川一族や家康を支えた数正(1533-92)・家成(1534-1609)とその息子たちが活躍した時代を中心に紹介する。」
 
 1585(天正13)年 石川数正が岡崎城を出奔して豊臣秀吉の許へ。
 1590(天正18) 7月、北条氏滅亡後、家康は関東移封。数正は、秀吉から松本城を与えられ、筑摩・安曇郡を統治。
 1592(文禄元)年 数正死去。嫡男三長(1554-1642)が松本城と5万8千石が与えられ、2人の弟、康勝、紀伊守半三郎も分知された。
 1600(慶長05)年 関ケ原の戦では、徳川方として働き、徳川秀忠に従い、松本城で上田城の真田昌幸に備えた。
 1613(慶長18)年 大久保長安事件に連座し、三長意か兄弟はいずれも改易となり、数正系は大名家が断絶された。
 一方、家成系統は、大久保忠隣(1553-1628)の次男で、家成の孫にあたる忠総(ただふさ(1582-1651))が、家康の命にて養父家成の遺領美濃国大垣藩5万石を継いだ。
 1614(慶長19)年 父大久保忠隣改易に伴い、忠総も駿府の町屋に蟄居させられたが、同年暮の大坂冬の陣を機に蟄居を解かれた。
 1616(元和02)年 前年の大坂夏の陣の戦功により、1万石加増の6万石で豊後日田へ移封。
 1633(寛永10)年 下総国佐倉7万石へ加増移封。
 1634(寛永11)年 近江国膳所(7万石)へ移封され従四位下に叙爵。
 忠総の子孫は、伊勢亀山藩(6万石)、常陸下館藩(2万石)の大名2家、旗本3家が明治維新まで存続した。

[33]安城市歴史博物館入口にて

[34]本企画展図録

                  
[35]安城(安祥)城址前にて

[36]同上石碑にて
                  
[37]安城(安祥)城址解説板

[38]同上横にて
                  

1625分 安城(安祥)城城跡
1635分 安城市歴史博物館駐車場発→62 90分→
1805分 帰宅〔了〕

【後記】1021() 小生の母校の八町小学校を訪ねてみた。
 其の日もいい天気だった。
 前日 豊橋総おどり を紹介した際、小中高大の同窓同期(←大学は学部は違う(為念()))の岩瀬君【3-4】が、Facebook で造形パラダイスの話をしてくれたら、母校 八町小学校の標語「みんな仲よく力いっぱい」を思い出し、彫像の現物を見たくなって実際に見て来た。
 最初は校舎の外から覗くだけにするつもりだったが、小学生を連れた親子連れが校庭で凧揚げをしていたので、彫像がある南門から一寸失礼して撮影させて貰った。
 彫像に書かれた校訓は、経年劣化して確り見ないと解らないが、確かに「みんな仲よく力いっぱい」と書かれていて、半世紀以上前の記憶が蘇り懐かしかった。
 一方、校舎正面の3階上部壁面にも、「仲よく」が「なかよく」と平仮名になっていたが「みんななかよく力いっぱい」と大きく記されいて、八町小学校の精神は脈々と続いていることを確認出来て嬉しかった!

[39]八町小学校 南門前にて

[40]校庭で凧揚げに興じる親子

                  
[41]「みんな仲よく力いっぱい」が胸に係れた生徒3人の彫像の横にて

[42]校舎の3階上部の壁に掲示されていた校訓「みんななかよく力いっぱい」
                  
[43]八町小学校東門前にて


 では、また‥〔了〕

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