2018年2月16日金曜日

【時習26回3-7の会 0692】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之四 春〔第2回〕』」「02月10日:三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/名所江戸百景/冬・春』展→瀬戸市美術館『加藤孝爾陶芸』展→鞍ヶ池アートサロン『春、明日へのいぶき』展→刈谷市美術館『没後20年/星野眞吾』展→野間大坊〔大御堂寺〕→碧南市藤井達吉現代美術館『應仁寺と三河の蓮如上人』展を巡って」「有馬頼底『60歳からヘタれない生き方』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0692】号をお届けします。
 今日最初の話題は、先週から再開した『猿蓑』〔巻之四〕『春』の〔第2回〕目をお届けする。
 今回は、巻之四『春』の、発句全118句のうち第13句~25句についてである。
では、どうぞ‥
【 松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之四〕『春』〔第2回〕】

   猿蓑集 巻之四

  武江におもむく(注1)旅亭の残夢

13 寝(ね)ぐるしき窓の細目(ほそめ)や闇(やみ)の梅(うめ)  乙刕

【意】寝苦しいので窓を細めに開けておいたら、朝が来て梅の香が入り込んできた
【解説】芭蕉の餞別句「梅若菜鞠子の宿のとろろ汁」をもらって江戸に赴いた時の乙州旅中の句
(注1)武江におもむく:此の旅行は、猿蓑集「巻之五」連句篇「冬(はつしぐれ)・夏(夏の月)・秋(きりぎりす)・春(梅若菜)」全四巻の第四「梅若菜」の巻頭に「餞乙州東武行」と前書して、第一句、「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁/芭蕉」があるが、芭蕉が乙州に餞別吟を贈った時の乙州の旅行を言う

  辛未のとし(注1)弥生のはじめつかた、
  よしのゝ山に日くれて、梅のにほひしきりなりければ、
  旧友嵐窓(注2)が、見ぬかたの花や(注3)匂ひを案内者といふ句を、
  日ごろはふるき事のやうにおもひ侍れども、折にふれて感動身にしみわたり、
  涙もおとすばかりなれば、その夜の夢に正しくま見えて悦るけしき有。
  亡人いまだ風雅を忘ざるや

(注1)辛未のとし:元禄04年
(注2)嵐窓:三岡氏/江戸の人/初期の芭蕉門人/「桃青門弟独吟廿(=二十)歌仙」(延宝08年刊)に名を連ね「時雨るや和田の笠松下駄兵衛」を発句とする独吟歌仙所収
(注3)見ぬかたの花や:「吉野山こぞの枝折(しをり)の道かへてまだ見ぬ方(かた)の花をたづねてむ/西行」(新古今集)に基づいた句

14 夢さつて又(また)一匂(ひとにほひ)に宵(よひ)の梅(うめ)  嵐蘭(注1)

【意】夢を見終えて後、梅の花の香りが部屋中に満ちている
 旧友の嵐窓と夢の中で逢うことができた/その所為か夢が覚めた後、梅の花の香りが部屋中に満ちている様な気がする
【解釈】「又一匂ひ」‥「又一匂ひと云に、亡人嵐窓が句の味ひとその人とをいよいよ思ひ忍べるさま、言外に聞へたり」(猿蓑さがし)
(注1)嵐蘭:通称=甚兵衛/松倉盛教(1647-93(元禄06年08月27日死去))/江戸時代前期の俳人/肥前島原藩主松倉氏の支族                                                                                                                            
 はじめ板倉家に300石取りで使えた後44歳で官を辞し、俳諧専一の生活に入る
 松尾芭蕉に師事し「桃青門弟独吟廿歌仙」に名を連ねた
 
15 百八のかねて迷ひや闇のむめ(注1)  其角

【意】予(かね)て持っている百八の煩悩/その煩悩の迷いを覚ます為の寺の百八回鳴らす鐘の音が闇夜の梅の香りの中を響いて来ることだ
【解説】「かねて」に「予(かね)て」と「鐘(かね)」を言いかけている、其角らしい技巧の句
(注1)闇のむめ:「春の夜(よ)の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香(か)やはかくるる/大河内躬恒」を踏まえる
 その意は、「闇の帳(とばり)は全てを包み隠して仕舞うものだが、春の闇は中途半端だ/今が盛りの梅花の姿こそ見えないが、香りは隠れてはいないからだ」

16 ひとり寝(ね)も能(よき)宿(やど)とらん初子日(はつねのひ)  去来

【意】ひとり寝(ね)でもよい宿をとって寝るぞ、初子日(はつねのひ(=初寝日))も!
【解説】初子日:新年最初の「子(ね)の日」
 此の日は、「子の日」を「寝(ね)の日」にかけ、譬え一人寝(ひとりね)でもよい宿を取るぞと洒落た旅人としての句

17 野畠(のばたけ)や鴈(がん)追(おひ)のけて摘(つむ)若菜(わかな)  史邦

【意】七日粥の材料の春の七草を摘みに野原に出てみたら雁が追い立てられる様に逃げて飛んで行く
【解説】七日粥は、「五節句の最初『人日(じんじつ)』に若菜を積む「若菜摘み」があった
 中国の前漢時代に「元旦は鶏、2日は狗(=犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、「7日は『人』」、8日は穀」の夫々を占い新年の運勢を見ると共にその対象物を大切にした
 又、唐時代に「『人日の日』に7種類の野菜を入れた汁物『七種菜羹(しちしゅさいこう)』を食べ、無病息災を祈ったという風習があった
 平安時代にこの風習が日本に伝わり、「若菜摘み」と「七種菜羹」が一緒になり『七草粥』となった

18 はつ市(いち)や雪に漕(こぎ)来(く)る若菜船(わかなぶね)  嵐蘭

【意】新年となり初の市が立った/雪が降る中を若菜を積んだ舟が遣って来た
【解説】新年の江戸の街の活気ある一情景を詠んだ句

19 宵(よひ)の月(つき)西(にし)になづな(注1)のきこゆ也(なり)  如行

【意】有明の月が西方の空の端に光っている/台所では、七草粥をつくるナズナを切る時に歌う歌が聞こえて来るヨ
【解説】「宵の月(つき)西(にし)に」で切る/此の句は正月七日の早朝、月が西の端に光っている頃に詠んだ句
 一月六日の夕七つ時と一月七日朝六つ時に七草の菜を俎板に載せ、
 「七草、薺、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に」と唱え乍ら、
 摺子木((=擂粉木)スリコギ)・包丁・杓子(シャクシ)等で叩き囃して災厄を払い防ぐ習わしがある
(注1)なずな:薺/七草〔芹(セリ)・薺(ナズナ)・御形(ゴギョウ)・繁縷(ハコベラ)・仏の座(ホトケノザ)・鈴奈(スズナ)・蘿蔔(=(清白)スズシロ)=春の七草〕

  憶翁之客中(注1)

20 裾(すそ)折(をり)て(注2)菜(な)をつみしらん(注3)草枕(くさまくら)  嵐雪

【意】今日は正月七日/我が師、芭蕉翁は旅行中に正月七日を迎える際には着物の裾を折って若菜を摘んだのだろうか
【解説】―
(注1)前書「憶翁之客中」は「翁(=芭蕉)の客中を憶ふ(=想う)」の意
(注2)裾折て:尻を端折(はしょ)って
(注3)つみしらん:「つみやしつらんとひびく手尓葉也と知るべし」(猿蓑さがし)

21 つみすてゝ蹈(ふみ)付(つけ)がたき若(わか)な哉(かな)  路通

【意】若菜摘みをしてみた/不要な若菜を捨てたがそれを踏みつけることは流石に出来ない
【解説】―

22 七種(ななくさ)(注1)や跡(あと)にうかるゝ朝がらす  其角

【意】七草粥を作る時には、「七草、薺、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に」と唱え囃し立てて作るが、夜が明けてからは鴉がうかれて鳴いているヨ
【解説】―
(注1)七種:七日の朝、七草を叩き囃すことをいう

23 我事(わがこと)と鯲(どぜう(=どぢゃう))のにげし根芹(ねぜり)哉(かな)  丈艸

【意】根芹(ネセリ)を摘もうと小川で採っていたら、ドジョウが自分が捕まえられるかと思い逃げて行った
【解説】―

24 うすらひ(注1)やわづかに咲(さけ)る芹(せり)の花  其角

【意】川端に薄氷がついている/川の中の芹に花が微(かす)かについている
【解説】芹の花は夏の季語/此処では単に萌え出た芹を言ったものと解したい
 『五元集』頭書に「河州八尾娵(よめ)そしり」とあり、『よめそしり』河内にある堤の名(俚稱)であるが、何か寓意がある句か
(注1)うすらい:薄氷のこと

25 朧(おぼろ)とは松のくろさに月夜(つきよ)かな  同

【意】松は黒々として他は月夜であるのが朧夜の勝景である
【解説】其角著『雑談集』(元禄05年刊)に、此の句をあげ、「光広卿(注1)、はるの月の嵐に霞まぬ心をよませ給ひて、かうよみごと(ママ)はよめども、春月の本意は朧々とかすみたる躰がよき也と仰られけり」と記している
 其角の涅槃会の句に「仏とはさくらの花に月夜かな」(其便)ともある
 芭蕉の名句「辛崎の松は花より朧にて」の句が念頭にあるか
(注1)光弘卿:烏丸光弘(からすまる みつひろ(1579-1638))/江戸時代前期の公卿・歌人・能書家/正二位権大納言/二条派

【小生comment】
 春の七草は、「セリ・ナズナ/ゴギョウ・ハコベラ/ホトケノザ // スズナ・スズシロ/春の七草」という三十一文字で覚えている。
 因みに、秋の七草も、「萩・桔梗/葛・女郎花/藤袴 // 尾花(=薄)・撫子/秋の七草」と、此れも三十一文字(みそひともじ)で覚えられる。

■続いての話題は、去る02月10日(土)に、三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/名所江戸百景/冬・春』展→瀬戸市美術館『加藤孝爾陶芸』展→鞍ヶ池アートサロン『春、明日へのいぶき』展→刈谷市美術館『没後20年/星野眞吾』展→野間大坊〔大御堂寺〕→碧南市藤井達吉現代美術館『應仁寺と三河の蓮如上人』展と、5つの美術館・貨幣資料館と1寺院を巡って来たことについてご報告する。

 前夜の02月09日、愚娘が孫2人を連れて帰省。
 小生、3歳の孫娘を含めた女性陣3人と生後8か月の孫息子の4人と対峙する恰好となった。
 俄かに邪魔者みたいになった小生、翌02月10日(土) 独りで5つの美術館&貨幣資料館と野間大坊を巡って来ることにした。

07:45 拙宅発→豊川IC〔→東名→〕名古屋IC→
09:10 三菱東京UFJ銀行貨幣資料館着

【三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/名所江戸百景/冬・春』展】
 最初に訪れた赤塚交差点近くにある三菱東京UFJ銀行貨幣資料館『広重/名所江戸百景』を先月01月06日(土)に続いて2度目になるが見て来た。
同館から頂いた案内葉書を前回持参するのを失念したので、今回持参して postcard「上野(寛永寺)清水堂 不忍池」をpresentして貰う為だ。
〔添付写真[04]ご参照〕

[01]三菱東京UFJ銀行貨幣資料館入口にて1

[02]同2
                  
[03]本企画展leaflet

[04]広重『上野 (寛永寺) 清水堂 不忍池』
                  
[05]当貨幣資料館から自宅宛に送られてきたpostcardで貰えるのはこの絵葉書&栞一覧


【小生comment】
 本企画展来館記念に貰える postcard と栞はこれら添付写真[05]にある4枚のうちから1枚だけだったので、choice するのに結構迷って仕舞った。
 最終的には、明るく綺麗な postcard という基準で、添付写真[04]『上野 清水堂 不忍池』を選んだ。

09:30 同所発→〔一般道〕→

続いて向かったのが瀬戸市美術館の『加藤孝爾 陶芸展』を見る為だ

10:05 瀬戸市美術館着

【瀬戸市美術館『加藤孝爾陶芸』展】
 本展は、事前にInternetで調べて、油滴天目茶碗を眼前で見られるということで訪れてみた。

[06]瀬戸市美術館入口前にて
                  
[07]同美術館入口近くに掲示されていた本企画展の看板

[08]本企画展leaflet と 展示作品一覧
                  
[09]展示室入口に案内されていた撮影OKの案内

[10]加藤孝爾氏略歴
                  
[11]加藤孝爾『油滴天目茶碗』2016年

[12]同『油滴天目茶碗』2017年
                  
[13]同『釣窯盌』2017年

[14]同『蓼冷汁鉢』2017年
                  
[15]同『粉青瓷盤』2015年

[16]同『月白花器』2012年
                  

【小生comment】
 加藤孝爾氏の「油滴天目茶碗」3点(=leafletの写真と小生撮影2点)と釣窯盌(きんようわん)が特に気に入った。
 今回の main 作品の作成者である加藤氏の作品だけは撮影OKという粋な計らいに感謝したい。
此れで拝観料300円は納得!(笑)

10:35 同所発→せと品野IC〔東海環状〕鞍ヶ池PA/SIC→

 続いて向かったのがトヨタ鞍ヶ池記念館・鞍ヶ池アートサロン!/『春、明日へのいぶき』展を見る為だ

11:00 トヨタ鞍ヶ池記念館/鞍ヶ池アートサロン着

【鞍ヶ池アートサロン『春、明日へのいぶき』展】
 流石は天下のトヨタ自動車が保有する欧露人12人・日本人洋画家12人に拠る正真正銘の名画24点だった!
 展示作品は、以下の24人に拠る24作品。

[17]トヨタ鞍ヶ池記念館入口にて

[18]鞍ヶ池アートサロン入口近くにて
                  
[19]本企画展leaflet


01ドービニー(1817-78)(仏)『河畔』1874年‥バルビゾン派
02ロマジン(1903-87)(露)『春寒』1973年
03ピカピア(1879-1953)(仏)『ロワン河のほとり、霧の情景』1904年
04 ★[20]シスレー(1839-99)(英→仏)『春の朝・ロワンの運河』1897年
                  
05ルノワール(1841-1919)(仏)『ルイ・プラ婦人の肖像』1913年
06 ★[21]ピサロ(1830-1903)(仏)『エラニ―の牧場』1885年

07ボナール(1867-1947)(仏)『馬のいる牧場』1919年‥ナビ派
08シャガール(1887-1985)(白露)『騎士と音楽家たち』1975年
09 ★[22]ヴラマンク(1876-1958)(仏)『花瓶の花』1930年代‥野獣派
                  
10イレール(1916-2004)(仏)『りんごの木』1980年代
11テイレセク(1948- )(チェコ)『春』2006年
12アイズピリ(1919- 2016)(仏)『不思議な花束<ベージュ>』1980年代
13岡田三郎助(1869-1939)『信州【安茂里】』1935年
14藤島武二(1867-1943)『鳥羽の海』1930年
15金山平三(1883-1964)『林檎の花』1952年
16 ★[23]萬鐵五郎(1885-1927)『春』1912年

17梅原龍三郎(1888-1986)『薔薇』1975年
18中川一政(1893-1991)『マジョリカ坪二つの』1983年
19田崎広助(1898-1984)『春の阿蘇山』1970年代
20朝井閑右衛門(1901-83)『薔薇』1977年
21小磯良平(1903-88)『大原女』1968年
22北川民次(1894-1989)『四月の花』1973年
23辻永(1884-1974)『桐咲く頃 室津にて』1960年代頃
24鬼頭鍋三郎(1899-1982)『舞妓』1967年
                                                                                                                                                                                
【小生comment】
 名画を見るって本当に至福のひとときだ!
 次に訪れたのが刈谷市美術館の常設展『没後20年/星野眞吾』展。

11:25 同所発→鞍ヶ池PA/SIC〔東海環状→伊勢湾岸〕豊田南IC→
12:05 刈谷市美術館着

【刈谷市美術館『没後20年/星野眞吾』展】
[24]刈谷市美術館前にて
                  
[25]星野眞吾展が開催されている特別展示室入口近くにて

[26]特別展示室入口の星野眞吾展の案内
                  
[27]本展展示作品一覧

[28]星野眞吾『赤い影』1974年
                  

【小生comment】
 豊橋出身で豊川で育ち、高畑郁子氏の夫君である星野眞吾氏の展覧会。
 星野氏の作品は豊橋美術博物館で何回かみているが、何回見ても星野氏の精緻で写実的な日本画には感動を覚える。
 上記写真[24]~[27]の写真を Facebook に up したら、時習26回の同期生、青木M晴【3-4】君が以下のcommentをくれた。
 (注)( )内は小生補足
 僕(=青木)は向山小4年のころ、向山保育園でご夫婦の絵画教室に入り直接ご教授いただきました。
 (星野)眞吾先生はめちゃくちゃカッコよく、郁子先生はとても美人でした。
 そして6年ほど前、NHK文化教室で郁子先生が講座を持たれていたので1年ほど受講しました。
 他の受講生には「私が最も古いから、一番弟子だ」と言っていました(絵は一番へたでしたが)。
 いつも年末に実家が作っているカレンダーを持っていきます。
 この年末にも持っていきました。
 先生は多少足腰が弱くなっていますが、まだまだお元気でした。

 続いて向かったのが、野間大坊(大御堂寺)

12:35 同所発→東浦知多IC〔知多自動車道〕美浜IC→
13:20 野間大坊着

【野間大坊〔大御堂寺〕】
 此処には平治の乱で朝敵となった源義朝(1123-60)の墓がある。
 源義朝が家人長田忠致(ただむぬ)・景致(かげむね)父子に風呂で切られた際、「無念/我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん」と言って絶命した。
 源義朝の墓の傍には、織田信長の嫡男 織田信孝の墓、池禅尼(いけのぜんに)の塚、鎌田政家と妻の墓が一緒にあった。

[29]大御堂寺(野間大坊)案内図

[30]鐘楼堂前にて
                  
[31]本堂前にて

[32]源義朝墓所前にて
                  
[33]源義朝の墓

[34]贈内大臣正二位源義朝公御廟所の石碑
                  
[35]織田信孝の墓

[36]池禅尼(いけのぜんに)の塚
                  
[37]鎌田政家と妻の墓

[38]大門前にて
                  
[39]大御堂寺(おおみどうじ)五重塔跡

[40]境内食事処「まどか」で食した「かけそば」
                  

13:55 同所発→美浜IC〔知多自動車道〕半田IC→
14:35 碧南市藤井達吉現代美術館着

 続いて向かったのが碧南市藤井達吉現代美術館/『應仁寺と三河の蓮如上人』展

【碧南市藤井達吉現代美術館『應仁寺と三河の蓮如上人』展を巡って】

[41]碧南市藤井達吉現代美術館内部の一情景

[42]同館1階展示室入口前にて1
                  
[43]同2

[44]同館2階展示室入口前にて1
                  
[45]同2

[46]同館1階藤井達吉常設展corner案内看板
                  
[47]藤井達吉『水・火(左隻)』1954年

[48]同『水・火(右隻)』1954年
                  

【小生comment】
 徳川家康が若い時代、三河一向一揆(1563-64)に手を焼いたが、此の一向衆の礎をつくったのは蓮如上人なのかもしれない。

15:10 同所発→〔一般道 45㎞〕→
16:50 拙宅着〔了〕

■今日最後の話題は、最近読んだ臨済宗相国寺は大本山相国寺・金閣寺・銀閣寺住職 有馬頼底(ありま らいてい(1933- ))著『60歳からヘタれない生き方』について、ご紹介する。
 本書の題目と、帯に書かれていた「考えすぎるな/臆病になるな/人は、本来無一物」「なにもないところにすべてがある」という言葉に惹かれて読んでみた。
 大変に簡潔であり乍ら含蓄ある話が四章46話書かれている。
 先ずそのindexをご紹介する。

[49] 有馬頼底『60歳からヘタれない生き方』


はじめに‥P.3
第一章/行動することで逆境を乗り越える
・向き合い方を変えればつらい状況も楽になる/
・両親の離婚で訪れた逆境→天皇陛下の学友から寺の小僧へ/
・どんなにいじめられても人格だけは傷つかない/
・学歴は逆境ではない→いつでも勉強はできる/
・理不尽なことには立ち向かう→その勇気が状況を好転させる/
・知恵を絞って長嶋茂雄さんを招く/
・障がいがある人も、ない人も仏の前では平等/
・好事も無きに如(し)かず→順調な時程気をつけなさい/
・定年はゴールではない→此処からが人生の勝負/
・転じる力が強い女性→体を動かして若さを保つ/
・「余りの生」なんか、何処にもありはしません/・自ら行動することで、状況を転じていく/

第二章/主人公として生きれば幸せになれる
・「おーい、主人公→しっかりやっているか?」/
・自由とは自らに由(よ)ること→主人公でないと自由になれない/
・それが何処の国であろうと、対話を閉ざしてはいけない/
・本物の実感を得るために現地、現場に足を運ぶ/
・自分で掴んだものだけが本当の宝物になる/
・厳しい修行を体験して全てが新鮮に見えた瞬間/
・主体性を持って生きれば、すべてが真実となる/
・頼るべきものは自分以外にない→その時分に執着してもいけない/
・生まれ乍らにして仏さん、生まれ乍らにして心は清浄/
・その儘の自分が本当の自分→外に求めても見つからない/
・いま、其処にあなたが存在している→それ以上に有難いことはない/

第三章/煩悩を捨てる勇気を持てば楽になれる
・苦しかったり、悩んだりするのは心が何かにとらわれているから/
・「自分が一番エラい」と思っていませんか?/
・過去の名利(みょうり)を捨て切れずに自分を不幸にする人/・何もないところにすべてがある/
・過ぎ去った時間は取り戻せない/・欲を捨てると勘が冴え、勝負運も開けてくる/
・常識や固定観念を一度、疑ってみる/・他人と比べる心をなくせば満ち足りた気持ちになれる/
・「足るを知る」ことで心は満たされる/・死ぬことが怖いのは失うことが怖いから/
・生涯の師と仰いだ老師の「死にたくない」というひとこと/
・死に特別な意味はない→押しつぶされてはいけない/

第四章/一日一日を定年に暮らす生き方
・質素な食事が無上の食事に変わる/・特別なことは必要ない→日々の暮らしを恙(つつが)なく/
・工夫は不要→計らいの心は捨て去る/・信心よりも掃除が大事!?/
・日常生活の当たり前こそ、一大事なり/・明日が来るかどうか、本当は解らない/
・どんな日であっても、それは「よい日」/・一杯のお茶を楽しむ心のゆとりが欲しい/
・何のためでもない→見返りは求めない/
・先が丸くなった錐(キリ)として柳の様にしなやかに生きる/
・山あり谷ありの人生をしっかり生き切る/

 以上の中から、「主体性を持って生きれば、すべてが真実となる」「どんな日であっても、それは「よい日」」「山あり谷ありの人生をしっかり生き切る」をご紹介したい。
 
※主体性を持って生きれば、すべてが真実となる‥P. 86
 主人公(=本来の自分)として生きるということに関して、「随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり」をご紹介したい。
 意味は「如何なる場所、どんな環境にあっても、主人公たることを見失わず、主体性を持って生きれば、今いる場所が、その人にとって全て真実になる」だ。
 唐代の禅僧で臨済宗の開祖、臨済義玄(ぎげん)禅寺の言行録『臨済録』にある有名な言葉である。〔中略〕
 自分という軸が確りしていなければならない。それがなければ、どうしたって人の意見に影響されたり、世間の常識や空気に追随することになりがち。〔中略〕
 自分以外の誰かを灯火として頼りにして生きていると、その誰かがいなくなって明かりが消えたら、その人は真っ暗闇の中を彷徨うことになる。
 それではいけない。自分自身を灯火とし、自分自身を拠り所にする。これこそが正に主人公として生きる、に他ならない。

※どんな日であっても、それは「よい日」‥P. 174
 よく知られた禅語「日日(にちにち)是好日(これこうじつ)」とは「毎日がよい日である」という意味。
 唐代の雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉である。
 (臨済宗中興の祖)白隠(慧鶴(はくいん えかく))禅師(1686-1769)をして、「実に容易ならざる一語である」と賛嘆させた程、深い意味合いが隠されている。
 毎日がよい日、などと言い切れる人が、果たしてどれだけいるだろうか。〔中略〕
 人の一生は「苦」であるとお釈迦様も仰っている。だから、「日日是好日」とは、覚悟の問題。
 辛さや逆境は、自分を磨き、成長させてくれる経験だと捉える。
 そう思えば、例えどんな日であっても、それはよい日である。
 ただ己の足元を見て、「日日是好日」と思い直して、今という瞬間、今日という日常を充実させていけばよい。〔後略〕

※山あり谷ありの人生をしっかり生き切る‥P. 189
 〔前略〕捨てるということは、より充実した人生に向けて一歩を踏み出すことであり、転じるということは、逆境を乗り越える為に考え方や行動を変えることである。
 主人公として生きるということは、物事に主体的に関わっていくということであり、丁寧に生きる為には、自らを働かせなければならない。これ等は全て「動く」に繋がる。
 仏教ではよく「諸行無常」と言われる。全ての物事でおよそ常なる(=変わらない)ものはない、ということである。
 人も又同じ。本来無一物として裸で生まれ、本欄無一物として裸で死んでいく人間にとって、日常とは変化の繰り返しに他ならない。
 動くということは、変わるということ。
 禅語を集めた『禅林句集』に「ただ渓回(たにめぐ)り路(みち)転ずるを見て、知らず身の桃源に在ることを」という言葉がある。
 只管(ひたすら)歩いて(=動いて)いるうちに、いつの間にか桃源郷に辿り着いている。
 しかし、そのことすらも意識にないということである。
 例え、今が苦しくても、歩みを止めてはいけない、動くことをやめてはいけない。
 歩き続けること、動き続けることだ。
 時にそれは退屈で、平凡な日々かもしれない。
 しかし、その日々を確りと生き切ることに拠って、人はいつしか桃源郷に立っている自分に気付く筈である。〔中略〕
 辛く、苦しい時こそ、其処から逃げることなく、日常を確りと生き切る。人生に山や谷があることは当たり前。
 それを受け止めることが出来れば、全ては「人間の好時節」になるのである。〔了〕

【小生comment】
 有馬禅師は、「丁寧に生きることも、殊更に何もする必要はない。日々の暮らしのありふれたことを、ただ心を込めて、丁寧に行えばいい」と述べている。
 もし辛く苦しいと感じた時にも、「辛さや逆境は、自分を磨き成長させてくれる経験だと捉える」。此れが「日日是好日」なのだとも仰る。
 此れなら小生も「ヘタれない生き方をしていく」ことが出来るゾッ!

【後記】田原市は、小生の前職である旧行時代、最後の勤務地だった。
先日、Facebook の仲間の一人で時習26回の同期生、今泉(伴野)Y子【3-6】さんが菜の花の写真を up したので、小生、以下の文をcomment覧に載せた。

[50]渥美半島の菜の花
                  

 菜の花と言うと、我が高校(=旧愛知第四中学校)の大先輩でホトトギス派同人 富安風生 の此の名句を思い出す。
 風生氏は、本名冨安謙次(1885-1979)。
 美術科の朝倉先生の前任 冨安昌也先生の大叔父にあたる。
 早く暖かな春が来て欲しいですネ。

  菜の花といふ平凡を愛しけり  風生

【前書】青空と黄色が眩しい美しき風景に魅せられて拙句を一句‥

  青天に黄金(こがね)輝く菜の花や  悟空

 渥美半島(伊良湖岬) & 俳人 というと、笈の小文 で松尾芭蕉(1644-94)が連れ立った坪井杜國(?-1696)の墓、種田山頭火 (1882-1940)石碑が福江町の潮音寺にある。
 2人が伊良湖岬と渥美半島で詠んだ二句は、共に美しい情景が浮かぶ名句だと思う。

  鷹一つ見付てうれしいらご崎  芭蕉〔笈の小文〕

【前書】渥美半島

  まがると風が海近い豌豆(えんどう)畑  山頭火〔草木塔〕

 では、また‥〔了〕

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