2018年1月21日日曜日

【時習26回3-7の会 0688】~「01月13日:浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩 画業の地平lV~古き日を想う~』→「二俣城址」→「清瀧寺」→「本田宗一郎ものづくり伝承館¥→「メナード美術館『開館30周年記念/コレクション名作展ll』」を巡って」「01月19日:旧行時代の同期会・新年会に参加して」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0688】号をお届けします。

 今日は先ず0113()に、浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩 画業の地平lV~古き日を想う~』& メナード美術館『開館30周年記念/コレクション名作展ll』の2つの美術館、二俣城址、清瀧寺、本田宗一郎ものづくり伝承館を巡って来たことについてご報告する。

08:20 拙宅発→〔一般道 47km 77分〕→
09:40 秋野不矩美術館着

【 浜松市秋野不矩美術館 】
 秋野不矩の作品は、温厚であり乍らも一本芯が通っているという彼女の確りした人柄が絵に表われていて小生は大好きだ。
 日本画家であり乍ら、インドの風景や史跡、人々の暮らしの隅々迄を彼女の originality で絶妙に表現している。

[01]秋野不矩美術館駐車場近くの本企画展看板

[02]同美術館外観1
                  
[03]同美術館内の秋野不矩の写真の前にて

[04]インド滞在時の秋野不矩
                  
[05]秋野不矩『女神ヤクシニー』1980

[06]同『村童』1987
                  
[07]同『女人群像』1988

[08]同『いっすんぼうし』1965 1
                  
[09]2


10:23 同所発→〔一般道 1.5km 5分〕→
10:28 二俣城址入口着
10:33 二俣城址本丸着

【 二俣城址 】
 二俣城址を訪れたのは既に数回に及ぶが、秋野不矩美術館の近くにあるので、同美術館を訪れる際に時間があれば訪ねている。
 徳川家康(1543-1616)の嫡子・長男で、織田信長(1534-82)の長女徳姫の婿であり乍ら、信長の命に拠り切腹させられた松平(岡崎次郎三郎)信康(1559-79)が、此処二俣城にて切腹した。
 時に、天正7(1579)915日、享年21歳。

[10]二俣城址 入口
                  
[11]同 二の丸・本丸入口

[12]同 二の丸
                  
[13]同 本丸1

[14]同 同2
                  
[15]同 同 天守台

[16]同 同 石碑にて
                  
[17]同 案内看板

10:50 同所発→〔一般道 1.1km〕→
11:10 清瀧寺着〔松平信康 廟所〕

【 清瀧寺 】
 当寺には(‥小生は見ることを失念したが‥)信康が二股城にて切腹した時、同城主だった大久保忠世(1532-94)の墓もある。
 忠世は、天正3(1575)年、長篠の戦で活躍、天正10(1582)年、本能寺の変後、信州奉行として小諸城に赴く迄二俣城主を務めた。
 因みに、大久保忠世の弟が「三河物語」を書いた忠教(彦左衛門(1560-1639))である。
 徳川家康は、信康の霊を慰める為に、二俣城近くの清瀧寺を菩提寺として弔った。

[18]清瀧寺(せいりゅうじ) 案内看板
                  
[19]同 本堂1

[20]同 同2
                  
[21]同 松平信康 廟所入口

[22]同 同 廟所にて1
                  
[23]同 同 同2

[24]同 同 廟所
                  
[25]同 井戸櫓

[26]同 青瀧の滝
                  
[27]同 本田宗一郎少年が叩いた鐘

11:28 同所発→〔徒歩 100m 1分〕→
11:30 本田宗一郎ものづくり伝承館着

【 本田宗一郎ものづくり伝承館 】
 本田宗一郎氏の略歴は以下の通り。            
 1906(明治39)1117日 静岡県磐田郡光明(こうみょう)村山東(やまひがし)(現・浜松市天竜区山東)に、鍛冶屋業の本田儀平、みかの長男として出生
 1913(大正02)4月 光明村立山東小学校へ入学
 1919(大正08)4月 二俣町立尋常高等小学校へ入学
 1922(大正11)4月 東京本郷区湯島の自動車修理工場「アート商会」へ入社
 1928(昭和03)4月 アート商会浜松支店設立(浜松市元浜町、従業員1)
 1937(昭和12)年 浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となる
 1939(昭和14)9月 東海精機重工業()へ入社、同社取締役社長に就任
 1946(昭和21)9月 本田技研研究所を浜松市山下町に設立
 1948(昭和23)924日 本田技研工業()を設立(資本金1百万円/従業員20)、取締役社長に就任
 1949(昭和24)10月 藤沢武夫、常務取締役として当社入社
 1950(昭和25)11月 東京工場稼働開始、本格的オートバイ「ドリームD型」生産開始
 1955(昭和30)9月 二輪車生産台数で国内第1位となる
 1958(昭和33)8月 小型多用途バイク「スーパーカブC100型」を発売、大ヒットし、超ロングセラーとなる
 1959(昭和34)7月 米国Los Angelesにアメリカ・ホンダ設立
 1972(昭和47)12CVCCエンジン、マスキー法75年規制値に世界で初めて適合する
 1983(昭和58)10月 取締役退任、終身最高顧問となる
 1989(平成元)10月 日本人として初の米国の自動車殿堂入りを果たす
 1991(平成03)85日 永眠(享年848か月)

[28]本田宗一郎ものづくり伝承館 外観
                  
[29]同 入口

[30]同 本田宗一郎(1906-91)のあゆみ
                  
[31]同 ホンダC 1949

[32]同 ホンダ ジュノオ KA 1954
                  
[33]同 ホンダスーパーカブ(C100) 1958

[34]同 ホンダCVCCエンジン 1973
                  
[35]同 本田宗一郎と藤沢武夫(1910-88)

[36]同 本田宗一郎直筆絵画1
                  
[37]同 同2

[38]同 同3
                  
[39]同 同4

[40]同 本田宗一郎愛用のドラフター(製図台)
                  
[41]同 日本将棋連盟から本田宗一郎に授与された 五段 免許状

[42]同 本田宗一郎の episode
                  
[43]同 本田宗一郎の マン島TTレース 出場宣言文 1954


【小生comment
 本田宗一郎氏の絵画の技量には脱帽した。
 添付写真をご覧の通り、素人とは思えない筆致である。
 天は二物を与えず、どころか、ニ物も三物与えるのだナァ!()
 本田宗一郎氏は、Panasonic の創業者の松下幸之助氏と共に、零細企業から世界トップ級の企業に育て上げた今太閤である。
 モノづくりを通して偉大な企業経営者となった豊田佐吉と本田宗一郎の2人が、豊橋に隣接する湖西市と浜松市(天竜区)に生まれた。
 豊橋とは直接関係はないが、直ぐ近くで生まれたことを鑑み、何か縁の様なモノを感じるから不思議だ。

11:55 同所発→〔浜松浜北IC→新東名→東名・名神→小牧IC〕→
13:12 メナード美術館着

【 メナード美術館『開館30周年記念/コレクション名作展ll』 】
 本展は、20171029日付【時習26回3-7の会 0676】にて「コレクション名作展l」に続いての第2弾である。
 コレクション展lは URLhttp://si8864.blogspot.jp/2017/10/ clickしてご覧下さい。

[44]メナード美術館前にて
                  
[45]同 本企画展 leaflet

[46]中村彝(1887-1924)『婦人像』1913年頃
                  
[47]ワシリー・カンディンスキー(露:Wassily Kandinsky 1866.12.04-1944.12.13)『切片』1929

[48]ジョアン・ミロ(西(カタルーニャ語): Joan Miró i Ferrà  1893.04.20-1983.12.25)『絵画』1930
                  
[49]ゲルハルト・リヒター(1932.02.09- )Abstract Painting 1992

[50]横山大観(1868-1958)『霊峰不二山』制作年不詳
                  
[51]同『砂丘に聳ゆ』制作年不詳

[52]安田靫彦(1884-1978)『富士秋霽』制作年不詳
                  
 
14:30 同所発→〔小牧IC→名神・東名→豊川IC〕→帰宅へ

【小生comment
 珠玉の作品群は、何度見ても飽きが来ない。

■さて、今日最後にお届けするのは、名古屋・金山で開催された旧行時代の同期の仲間たちとの新年会だ。
 ホント、53の会(=昭和534月入行)の仲間たちって、気の置けない生涯の友達だ。
 いつもの様に、小生が cameraman になって参加者全員のsnap shots を撮影した。
 ご照覧頂きたい。

[53]全体写真1

[54]2
                  
[55]参加者一人ひとりのsnap shot 1

[56]2
                  
[57]3

[58]4
                  

【後記】最後に雑感をお届けしてお別れする。

【前書】0119日の旧行時代の同期との新年会(18:30-20:40)は、本当に楽しいひとときだった。
 その日は、23時過ぎに帰宅した。
 その時小生の心に去来したのは、正直な処、同期の仲間たちに会えた満足感ばかりではなかった。
  「僕らは、あと何年、健康寿命を全う出来るのだろうか?」という、漠然とした寂寥感が心を襲って来たのだった。
 そうしたら、詩聖と呼ばれている盛唐の詩人 杜甫 が亡くなる三年前に詠んだ七言律詩の最高傑作として名高い『登高』が浮かんだ。

  登高      杜甫
 風急天高猿嘯哀
 渚清沙白鳥飛廻
 無邊落木蕭蕭下
 不盡長江滾滾來
 萬里悲秋常作客
 百年多病獨登臺
 艱難苦恨繁霜鬢
 潦倒新停濁酒杯

 風急に天高くして 猿嘯(えんしょう)哀し
 渚(なぎさ)清く 沙白くして 鳥飛び廻る
 無辺(むへん)の落木 蕭蕭(しょう/\)として下り
 不尽(ふじん)の長江 滾滾(こんこん)として来る
 万里(ばんり)悲秋(ひしゅう) 常に客となり
 百年多病 独り台に登る
 艱難 苦(はなは)だ恨む 繁霜(はんそう)の鬢(びん)
 潦倒(ろうとう) 新たに停(とど)む 濁酒(だくしゅ)の杯

【訳】
 風は激しく吹き、天は抜ける様に高く、猿の啼き声が悲しげに響いて来る
 渚は清らかで砂は白く鳥が飛び廻っている
 落ち葉は際限なく悲しげに散り落ち
 長江(ちょうこう)の流れは尽きせず滾滾と迫ってくる
 故郷(=)を去って万里、毎年旅人の身で悲しい秋を迎える
 生涯、病気を多く抱えるこの身、そんな身で独り台に登る
 長年の苦労に拠り恨めしいことに、鬢の毛はすっかり白くなって仕舞った
 落ちぶれ果てたこの身は(好きな)酒さえ、やめることになった

 杜甫の名詩『登高』に魅せられて、拙歌を一首作ってみた

【詞書】
 六十路を過ぎてからの旧行時代の同期の仲間たちとの新年会は損得抜きに楽しい。
 僕らの課題は、あと残された人生を如何に元気に全う出来るかどうかだ。

  残された 人生に向け 意を決す 永遠(とわ)に続けむ 濁酒の杯を  悟空

[59]中国・長江の流れ

[60]拙宅の食卓tableの一情景
                  

 では、また‥〔了〕

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