2017年6月30日金曜日

【時習26回3−7の会 0659】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第5回〕【筑紫高良山の僧正は‥いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる】」「06月24日:メナード美術館『所蔵企画展 花』」「同左:桑山美術館『自然を写す 心を映す』展」「同左:愛知県芸術劇場 concert hall /『ミヒャエル・ザンデルリンク指揮 ドレスデンP. O.演奏会』を聴いて」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0659】をお送りします。
 先ず最初は、『幻住庵記』の今日はその〔第5回〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
  『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
  『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介する‥

貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
               「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
         0825日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
               「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
               「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す 明石夜泊
               「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
               ‥『笈の小文』は此処で終わる
         0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         0816日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         0930日 元禄に改元
元禄02(1689) 0327 (46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
             千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
         0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
         0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
         0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
         0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
         0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
         0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
         0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わ
              「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
         0913日 伊勢神宮内宮参拝
         0922日 伊賀上野へ帰郷
         1122日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
         秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
         12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690) (47) 0103日 膳所から伊賀上野へ帰郷
         03月中旬迄 伊賀上野に滞在
         0401日 石山寺 参詣
     【 ☆ 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
     【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 0619日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 0723日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 0815日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
         0927日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
         1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
         03月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
         03月末 奈良から大津へ移動
         0418日〜0504日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】
《原文》
 さるを(1)、筑紫高良山(かうらさん)の僧正(2)は、賀茂の甲斐何某(なにがし)が厳子(げんし)(3)にて、このたび洛にのぼりいまぞかりけるを(4)、ある人をして額を乞()(5)
 いとやす/\と筆を染めて、幻住庵 の三字を贈らる。
 頓(やが)て草庵の記念(かたみ)となしぬ。
 すべて、山居といひ旅寝といひ、さる器(うつは)たくはふべくもなし(6)
 木曾の檜笠、越の菅蓑(すがみの)(7)ばかり、枕の上の柱に懸()けたり。
 昼は稀々(まれまれ)(とぶら)ふ人々に心を動かし、或(ある)は宮守の翁(おきな)(8)、里の男(をのこ)ども入り來(きた)りて、「猪(ゐのしゝ)の稲(いね)食ひ荒し、兎の豆畑(まめばた)に通ふ」など、我()が聞き知らぬ農談(9)、日既(すで)に山の端()にかかれば、夜座(やざ)(10)静かに月を待ちては影を伴()ひ、燈(ともしび)を取つては罔両(もうりょう)に是非をこらす(11)

 《現代語訳》
 そうではあるのだが、筑紫高良山(こうらさん)の僧正は、賀茂の神官甲斐某の実子で、この度京都に上がって来ていらっしゃる処を、知人を介して(庵の)額を書いてほしいと頼んだ。
 (すると、僧正は) 大変快く引き受けてくれ、「幻住庵」の三文字を贈って下さった。
 直ぐにこの額を草庵の記念とした。
 全て、山の住まいといい、旅寝といい、立派な器など持つ必要は無い。
 木曾産の檜笠と北越産の菅蓑だけ、枕の上の柱に掛けた。
 昼は稀に訪ねて来る人々に心を動かし、或いは八幡神社の宮守の老人や里の男たちが庵に遣って来て、「猪が稲を食い荒し、兎が豆畑に遣って来る」等、私が聞いたことのない農民たちの話を聞いたりして、陽()が既に山の端に掛かれば、夜遅く迄寝ずに座っていると、月を待っては自分の影を伴い、灯火を取っては自分の影法師を相手に物事の善悪について思い巡らせる。

《語句》
(1) さるを:然るを / 動詞「然り」の連体形+接続助詞「を」/ さる→さある→そうある→そうではあるが
(2) 筑紫高良山の僧正:筑後高良山月光院(天台宗)の座主 寂源一如 僧正 /「筑紫高良山」は現・福岡県久留米市にある山
(3) 賀茂の甲斐某が厳子:寂源僧正は賀茂社祠官 藤木甲斐守敦直の次男 /「厳子」は実子の意味の造語
   甲斐守敦直は大師流の書家で、その流派を加茂流 又は 甲斐流という
(4) 洛にのぼりいまぞかりける:京都に上ってきていらっしゃるのを
(5) ある人をして額を乞う:知人を介して幻住庵の額を揮毫してくれる様に頼んだ
(6) さる器たくはふべくもなし:さる器=立派な器 / たくはふ(=蓄(たくは)ふ)=蓄える / 立派な器などは持つ必要はない
(7) 木曾の檜笠、越の菅蓑:木曾産の檜(ひのき)製の笠、北陸産の菅(すげ)の葉を干して作った蓑
(8) 宮守の翁:八幡宮の宮守をしている老人
(9) 農談:農民たちの話
(10) 夜座:やざ / 夜遅く迄寝ずに座っていること
(11) 罔両に是非をこらす:「罔両」は魍魎とも /「荘子/齊物論」拠り / 罔両は景(=)に伴う影 /
   芭蕉は「自分を景」に、「自分の影法師を罔両」に見立て、両者を対峙させ物事の善悪に思いを巡らせている

【小生comment
 松尾芭蕉の『幻住庵記』も、あと残す処1回になって仕舞った。
 この『幻住庵記』を読み進めて来たら、芭蕉の筆致は軽やかで、充実した毎日を過ごしていることが自然に読み手に伝わって来る。
 小生、この作品が『奥の細道』に次いで好きな作品になった。

■さて今日は、0624()に毎月1回歯の検診に行っている名古屋東区の歯科医院へ寄ったついでに、2つの美術館と愛知県芸術劇場concert hallでの演奏会の模様を順次ご紹介する。
 先ず最初に立ち寄ったのは、小牧市にあるメナード美術館『花』展である。
 本展は、当館所蔵の「花」を表現した作品65点が展示されている。
 今日は、その中からの幾つかをご紹介する。

[01]本展leaflet [左上]4つの赤い花を描いた絵は、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol(1928-87))『花(Flowers)1964(今回初公開collection)

[02]Maurice Vlaminck(1876-1958)『花瓶の花(Vase of Flowers)1905-06年頃(今回初公開collection)
                  
[03]Moise Kisling(1891-1953)『花束(Bouquet)1918

[04]熊谷守一(1880-1977)『小菊(Small Chrysanthemum)1956
                  
[05]同『扶桑(Hibiscus)1964

[06]安井曾太郎(1888-1955)『薔薇(Roses)1933
                  
[07]奥村土牛(1889-1990)『牡丹(Peony)1975 or 76

【小生comment
 いずれの作品も画家の個性がよく表れていて、見る者を魅了してやまない。
 Vlaminckも、Kislingも、熊谷守一も、安井曾太郎、奥村土牛も、み~んないい!

■つづいて訪れたのは、名古屋市昭和区山中町にある桑山美術館である。
 企画展『自然を写す こころを映す / 日本画から一句』展が開催されていた。
 本展は、桑山美術館所蔵の日本画の名画の中から、四季折々の自然風景や人々の営み、更に花や鳥といった季語を用いた画題や季語を主題とした作品を紹介してくれる。
 俳人で歌人でもある正岡子規(1967-1902)が俳誌『ホトトギス』で提唱した写生に拠る新しい俳句は、日本画とよく調和する。
 展示作品全30点には近世から現代にかけての俳句の傑作が一句ずつ添えられていた。

[08]桑山美術館入口
                  
[09]当館創始者 桑山清一 氏胸像

[10]本展leaflet
                  
[11]木村武山(1876-1942)『寒牡丹』制作年不詳

[12]川合玉堂(1873-1957)『嶋之春』1937
                  
[13]菱田春草(1874-1911)『曉霧』1902年頃

[14]川合玉堂『松山懸瀑図』1928年頃
                  
[15]入江波光(1887-1948)『若竹と小雀』1945年頃

[16]奥村土牛(1889-1990)『蓮』1958年頃
                  
[17]徳岡神泉(1896-1972)『西瓜』1940年頃

[18]前田青邨(1895-1977)『春暖』1973
                  
[19]上村敦之(1933- )『秋汀』1985

 【小生comment
 日本画は、日本人の琴線に触れるものがある。
 いずれの展示作品にも、名句が添えられていてその句を口ずさみ乍ら名画を見ていると、何とも言えない良い気分になる。
 人口に膾炙した近世から現代にかけての日本画家と俳人の作品である名画をじっくりと眺め、名句を口ずさんだひとときであった。
 僅か30分程度の時間であったが、至福の時間を過ごすことが出来、嬉しかった。

■続いては、0624()最後の訪問地、愛知県芸術劇場concert hallにて開催された、ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ドレスデンP. O. 演奏会を聴いて来たのでその模様をお伝えする。

《ミヒャエル・ザンデルリンク(Michael Sanderling) 略歴》
 1967年 ドイツ・Berlinに生まれる
 1987 (20) クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウスO. cellistとしてdebut
 1994 (27) 2006(39)迄 ベルリン放送響でcellistを務める傍ら、soloistとしてBoston S. O. Paris O. 他多くの管弦楽団と客演
 2000 (33) ベルリン室内O. concert で初めて指揮台に立つ
 2006 (39) ポツダム・カンマ―アカデミーの芸術監督兼首席指揮者に就任
 2011 (44) ドレスデン・フィルハーモニー(Dresdner Philharmonie)主席指揮者就任(~現任)
 2013 (46) ドイツ弦楽フィルハーモニーの首席指揮者就任(2013年迄)

《ドレスデン・フィルハーモニー》
 ザクセン州の州都ドレスデンのorchestra
 1870年 創立 / 当初は当時の演奏会場を冠してゲヴェルベハウス管弦楽団(Gewerbehausorchester)と呼ばれた。
 1915年 現在の名称となる / 歴代指揮者にクルト・マズア、ギュンター・ヘルビッヒ、ヘルベルト・ケーゲル等がいる
 2004年 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが首席指揮者兼芸術監督に就任
 2011年 ミヒャエル・ザンデルリングが首席指揮者に就任(=現任)

 演奏曲目は、J. Brahms(1833-97)の交響曲第4番 ホ短調 Op.98 と 同第1番 ハ短調 Op.68 2
 Encore曲は、同じくBrahmsHungary舞曲第5番 嬰ヘ短調
 1700分 本場ドイツのBrahmsの交響曲の4番に始まり1番で締め、Hungary舞曲第5番をオマケにしたBrahms Zyklus(チクルス)soiree(ソワレ)
 20分間の休憩を挟み、1900分に終演となった。

[20]愛知県芸術劇場concert hall入口にて
                  
[21]本演奏会leaflet

[22]ドレスデン・フィルハーモニー(本演奏会program)
                  
【小生comment
 指揮者ミヒャエル・ザンデルリンクの父親は、旧東ドイツの名指揮者 クルト・ザンデルリンク(1912-2011)
 小生は、学生時代からクルト・ザンデルリンクのBrahmsLP(→最近はCD)の交響曲全集が大好きで是迄に何十回も聴いている。
 本演奏会では、第1番の終楽章のclimaxは、本当に感動的で痺れて仕舞った。

 【後記】日本棋院の最年少プロ棋士、藤井聡太君(2002.07.19- )1410か月(今日現在))が、プロdebut後負けなしの29連勝という偉業を達成した。
 本当に凄い記録である。
 藤井君のプロとしての戦歴は以下の通り。
 20161001日 プロ棋士である四段に昇進 / 加藤一二三九段が1954年に樹立した[1]「プロ棋士最年少記録」147か月を62年ぶりに更新
 20161224日 プロdebut戦となる加藤一二三九段との竜王戦6組ランキング戦で対局し初戦発勝利を挙げる
 20170414 11連勝(無敗)[2]「デビュー後連勝記録」を20年ぶりに更新
 20170626[3]「連勝記録29(無敗)」とし、神谷広志八段(1961- )19870817日に樹立した28連勝を約30年ぶりに更新
 若干14歳の中学生棋士が[1] [2] [3]の日本棋院の記録更新するという大記録を樹立した。
 実は、0624()は、昼食を先日0602日付【時習26回3-7の会 0655】にてご紹介した陣屋〔ラーメン屋(名古屋市北区大曽根2丁目)〕で食した。
 その陣屋のカウンター席に座り正面の壁を見て吃驚した。
 其処にはラーメン屋のご主人と女将さんに挟まれて藤井聡太君が写った写真が飾ってあり、その上に、藤井君の自署で超難易度の27手詰将棋の碁盤が書かれた色紙が彼の署名入りで飾ってあったのだ。
 女将さんにその経緯(いきさつ)を尋ねてみた。
 上の詰将棋の色紙は、藤井君がプロdebut戦を加藤一二三九段と対局した昨(2016)12月と同じ月に作成して貰ったもの。
 そして、3人のthree shotの写真は、プロ入り11連勝(無敗)を記録した半月後の今(2017)0429日に撮影したものだそうだ。
 名鉄森下駅近くに道場があって、藤井君はよく来ているそうで、麺類好きの彼は陣屋(ラーメン)の常連客であるというのが事の次第であった。
 お陰で、陣屋の人気は従来にも増していて、来客は店の外に立って並ぶ程の盛況ぶり。
 24日は、結局小生もラーメンにありつける迄約1時間待ちの状態であった。

[23]0626 29連勝を達成した直後の藤井聡太君

 では、また‥〔了〕

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