前々《会報》【0629】号、前《会報》【0630】号と3回 series でお伝えして来た、11月22(火)~24(木)の三日間に亘る晩秋の『古都奈良一人旅』も今日が〔三日目〕で最終日となる。
それでは早速今日も暫くの間、小生と共に『古都奈良』の旅をご一緒下さい。
【三日目(11月24日(木))】
08時00分 スーパーホテル奈良・新大宮駅前
発 →〔(南西へ車13km 30分)〕
08時30分 法輪寺
駐車場 着
寺の解説書に法輪寺について以下の通り説明している。
法輪寺の創建は、聖徳太子の御子 山背大兄王が、その子由義王と共に、太子の病気平癒の為に建立されたと伝える。
昭和25年の発掘調査に拠り、当寺が法隆寺式伽藍配置であり、法隆寺西院伽藍の2/3の規模であること等が明らかになった。又、飛鳥時代の薬師如来座像【重文】と虚空蔵菩薩立像【重文】(添付写真[02])を伝えることから、七世紀末頃には寺観が整っていたと考えられ、十一面観音立像【重文】(添付写真[03])等平安仏を多く伝えることから、平安時代には寺勢猶盛んだった様である。
[01]法輪寺 三重塔〔昭和19年消失、昭和50年再建〕
法輪寺が現在の規模になったのは、江戸時代の正保02(1646)年の台風に拠るもので、金堂・講堂を始め諸宇悉く倒壊し、三層目を失った三重塔だけが残ったと伝える。
その後宝暦年間(1751-64年)に三重塔が修理され、金堂・講堂等が再建されたが、昭和19年に至り三重塔は雷火にて消失した。
そして、昭和50年04月三重塔は再建され、現在に至る。
[02]法輪寺【重文】虚空蔵菩薩立像
虚空蔵菩薩立像について、亀井勝一郎は著書『大和古寺風物誌』で法輪寺「虚空蔵菩薩」の項を設け、次の様に紹介している。
ところで飛鳥仏の裡(うち)でも風格をそなえた美しい虚空蔵菩薩立像は〔中略〕何処拠り伝来したみ仏かむろんわからない。
印度仏ともいう。或は聖観音ともいわれる。
すべての飛鳥仏のごとく下ぶくれのゆったりした風貌、茫漠とした表情その儘左手に壺をさげて悠然と直立している。
不動のみ姿であるが、いまにも浮々と遊び出る様な春風駘蕩たる風格も偲ばれる。〔中略〕
千三百年間、ついぞ安定を知らなかった現在迄、こうして佇立しているのである。
不安動揺の人間の悲劇が凝(こご)って、この無比の菩薩像が立ちあらわれたに違いないが、あの駘蕩としてのっぺりした御顔を仰いでいると、「まあ、我慢したまえ。地獄は永久に続くぞよ」と平気で仰有(おっしゃ)っている様にみえる。― 昭和17年秋 ―
[03]法輪寺【重文】十一面観音立像〔←大和路 秀麗 八十八観音の一つ〕
十一面観音立像について、亀井勝一郎は同じく『大和古寺風物誌』~法輪寺「虚空蔵菩薩」の項で次の様に述べている。
また講堂の本尊たる十一面観音立像は、おそらく一丈(【小生注】=約3m)余りもあろうが、大和古寺の諸仏のうちでもこれほど大きな眼をもっている菩薩像を私は知らない。
どうしてあんなに大きい眼玉なのであろう。
08時45分 同所
発 →〔東へ車 0.8km 3分〕
08時50分 法起寺
着
[04]法起寺【国宝】三重塔
[05]法起寺【重文】十一面観音像
本寺は、推古14(606)年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられる。
09時10分 同所
発 →〔南南西へ車1.2km 4分〕
09時15分 法隆寺
夢殿&中宮寺 近隣民営駐車場 着 →〔南へ徒歩300m 5分〕09時20分 法隆寺 夢殿 四脚門 着 →〔北へ曲がり程なく東へ徒歩100m 3分〕
09時25分 中宮寺 着
本寺は、聖徳太子の御母穴穂間人(あなほべのはしひと)皇后のご祈願に拠り、太子の宮居斑鳩宮を中心にした、西の法隆寺と対照的な位置に創建された。
本寺は、何と言っても、実に美しい御仏【国宝】寺伝如意輪観音像(=菩薩半跏像)である。和辻哲郎が著書『古寺巡礼』で、次の様に紹介している。
あの肌の黒いつやは実に不思議である。
この像が木であり乍ら銅と同じ様な強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。
またこのつやが、微妙な肉づけ、微細な面の凹凸を実に鋭敏に生かしている。
その為に顔の表情なども細やかに柔らかに現われてくる。
あのうっとりと閉じた眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際に光っている様に見え、あのかすかにほほえんだ唇のあたりに、この瞬間にひらめいて出た愛の表情が実際に動いて感ぜられるのは、確かにあのつやのおかげだろう。
あの頬の優しい美しさも、その頬に指先をつけた手のふるいつきたい様な形のよさも、腕から肩の清らかな柔らかみも、あのつやを除いては考えられない。〔中略〕
わたくしたちはただうっとりとしてながめた。
心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるという様な気持ちであった。
ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされている。
まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである。〔後略〕
[06]中宮寺 本堂
[07]本尊【国宝】如意輪観音像(=菩薩半跏像)[08]同上 拡大(部分)
【小生comment】
今回の『古都奈良一人旅』の最大目的は、『浄瑠璃寺/吉祥天女像』『興福寺国宝館/阿修羅像』『秋篠寺/伎芸天像』『中宮寺/菩薩半跏像』の4つの美しい仏像を拝むことだった。いずれも甲乙つけがたい美しく素晴らしい仏像だったが、「4つの仏像の中から一つだけ選べ」と言われたら、『阿修羅像』か『菩薩半跏像』悩んだ挙句、最終的には、『中宮寺/菩薩半跏像』を選ぶだろう。
何となれば、美しさだけならば『阿修羅像』が一番だが、和辻哲郎が『古寺巡礼』で『弥勒半跏像』を「優しい愛の涙が、実際に光っている様に見え/慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされ/まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさ」と絶賛していた言葉に尽きるからだ。
09時52分 同所
発 →〔西進み程なく左折し南へ徒歩100m 3分〕
09時55分 法隆寺
夢殿 着
[09]法隆寺【国宝】夢殿
東院伽藍は、聖徳太子の宮殿があった斑鳩宮(いかるがのみや)の旧地で、その中心となる建物が「夢殿」である。
『法隆寺東院縁起』には、天平11(739)年に僧行信(ぎょうしん)の発願に拠って創建され、太子の御影である救世(くぜ)観音が安置されたことが記されている。現在の建物は寛喜(かんぎ)02(1230)年の修理に拠って屋根部分が改造されている。〔「法隆寺ガイド」より〕
10時05分 同所
発
10時10分 法隆寺
中門 着
[10]西院伽藍の西外側から法隆寺五重塔を望む
[11]南大門の南外側より修復中で遮蔽物に覆われた中門を望む
10時35分 法隆寺
夢殿&中宮寺 近隣民営駐車場 発 →〔西北西へ車24km 80分(全て一般道‥暗峠越えが急峻な山道だった‥)〕
11時55分 司馬遼太郎記念館着
当館は2001年11月、東大阪市にある司馬遼太郎の自宅〔書斎〕と隣接地に建つコンクリート打ちっ放しの建物で建築家
安藤忠雄が設計。
地下1階、地上2階(但し2階は事務室)。雑木林風の庭の小径から窓越しに、司馬遼太郎の書斎を見られる。
[12]司馬遼太郎記念館 入口
[13]司馬遼太郎記念館内部の蔵書棚の一部(図録より)
09月18日に北九州市小倉の小倉城内にある松本清張記念館の蔵書も多かったが、司馬遼太郎記念館に陳列された氏の蔵書の多さは圧巻だった。
12時40分 同所
発 →〔北北東へ車44km 1時間35分(全て一般道)〕
14時15分 京都駅八条口 coin parking 着14時30分 美術館「えき」KYOTO 着
【『マリー・ローランサン』展】
マリー・ローランサン(1883-1956)は、20世紀前半のParisで活躍した女流画家。本展はローランサン没後60周年を祈念する企画展。
2012年02月19日付【時習26回3-7の会 0381】~「02月11日:一宮市三岸節子記念美術館『マリー・ローランサンとその時代〔巴里に魅せられた画家たち〕展』」でも、マリー・ローランサンの作品を数多く見ていて、その時見たものと同じ絵を今回幾つか見た。
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/26-038101270211.html ←ここをclick願います
[14]美術館「えき」KYOTO『マリー・ローランサン』展入口
[15]本展leaflet/右上の絵は
マリー・ローランサン『バラの女』1930年
[16] マリー・ローランサン『二人の女と犬』1928年頃
[17] 同『ジェリア』1937年
[18] 同『三人の乙女』1938年
[19] 同『女道化師』1940年
[20] 同『シュザンヌ・モロー(青い服)』1940年
[21] 同『子供のシェヘラザ―ド』制作年不詳
【小生comment】
1920年代後半以降のマリー・ローランサンが描く女性像は実にcharmingで美しく、いつ見ても心が癒される。
15時15分 同館
発
15時50分 京都駅八条口
付近駐車場 coin parking 発 →〔東へ車201km 3時間15分(SAで夕食30分休憩含む)〕19時10分 拙宅 着〔了〕
【小生comment】
今回のニ泊三日の『古都奈良一人旅』は、総走行距離524km〔徒歩の移動距離は除く〕。古都奈良に於ける『日本文化の粋』を心ゆくまで堪能出来た旅であった。
又、そう遠くない将来、『大和路 秀麗 八十八面観音巡礼』で、今回見る予定で見られなかった『法華寺/十一面観音立像』を拝顔に訪れようと思う。
■続いての話題は、11月29日に公用で名古屋へ行った際、用を済ませた後見た名古屋ボストン美術館『江戸時代から髑髏(スカル)好き‥俺たちの国芳 わたしの国貞』展についてである。
米国の医師ウィリアム・スタージス・ビゲロ―(1850-1926)が7年間の日本在住を経て、1889年にBostonに帰郷した時、彼は5万点を超えるあらゆる種類の日本美術の壮大なcollectionを携えていた。其処には、絵画・彫刻・刀剣・甲冑・能面・根付・染織・漆器、そして中でも最も数の多い『浮世絵木版画』が含まれていた。
数万点の「浮世絵木版画」の中でも、群を抜いて多数の作品を占める二人の絵師が、本展の主題となる『国芳』と『国貞』である。
ビゲロ―のcollectionは1911年に正式にBoston美術館に寄贈されたが、その後の寄贈に拠って歌川広重の作品が多くなり、いまや『広重』の点数は『国芳』を追い越して第2位となっている。
今日、Boston美術館の日本美術collectionは10万点を超える物品があり、それは美術館の総所蔵品のほぼ1/4に当たる。〔以上、本展図録より引用〕
以下、添付写真[23] Boston美術館に1千枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師一覧 を参照されたい。
[22]名古屋ボストン美術館入口の本展案内看板
[23]Boston美術館に1千枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師一覧
[24]歌川国芳『国芳もやう正札附(しょうふだつき)現金男野晒(のざらし)悟助(ごすけ)』弘化02(1845)年頃
[25]歌川国貞『大当(おおあたり)狂言ノ内 梶原源太 三代目坂東三津五郎』文化11or12(1814or15)年
[26]歌川国貞『「楽屋錦絵二編 十枚之内」「瀬川路考」「瀬川銀次郎」「瀬川吉之助」「瀬川濱次郎」』文化09(1812)年
[27]歌川国貞『当世三十弐相 あづまのお客もうき相』文政04 05(1821 22)年頃
[28]歌川国芳『山海(さんかい)愛度(めでたい)図絵(ずえ) 七 ヲゝ(おお)いたい 越中滑川(なめりかわ)大蛸(おおだこ)』嘉永05(1853)年
[29]歌川国芳『当世商人(あきんど)日斗計(ひどけい) 日九時(ひここのつのとき)』文政04-06(1821-23)年
【小生comment】
Boston美術館が、これ等日本の美術品を所蔵してくれているお蔭で、現代でも間近に「浮世絵木版画」の傑作選を間近に見ることが出来る訳だ。少し複雑な気持ちだが、有難いことであると、Boston美術館関係者の尽力に感謝申し上げたい。
■続いては、これも12月07位効用にて名古屋へ出かけた帰り、愛知県美術館にて開催中の同美術館collection企画『日本で洋画、どこまで洋画』を見て来たので、その模様をお伝えする。
以下に、本展開催の趣旨を、leafletに記載された caption を引用してご紹介する。明治期の半ばに「日本画」と対になる様にして(日本人の手に拠る)『洋画』が生まれた。
『洋画』はその後、西洋の新しい動向の影響を強く受け乍らも、日本の独自性を追求する等、複雑な展開を見せる。
一方、近年では若手作家達が油彩で描いた絵画が「現代Art」として高く評価されている。
この様な作品は『洋画』とはどの様に違うのだろうか。
本展では近現代日本における油彩に拠る具象絵画に焦点を当てて、『洋画』の世界に迫る。
[30]愛知県芸術文化センター内の愛知県美術館 本展案内看板
[31]本展leaflet/右絵は、奈良美智(よしとも)『Girl From the
North Country』2014年
[32]Pierre Bonnard『にぎやかな風景』1913年頃
[33]Paul Klee『回心した女の堕落』1939年
[34]大沢鉦一郎(せいいちろう)『大曽根風景』1919年
[35]熊谷守一『雨水』1959年
[36]熊谷守一『ゼラニュームに揚葉蝶』制作年不詳
[37]熊谷守一『かけすに紅葉』1965年
[38]島田章三『石庭女人図』1976年
【小生comment】
愛知県美術館の所蔵品展なので、入館料も1coin(=500円)とreasonableな企画展。同美術館が所有する内外の優れた絵画が180点程と、volume感も十分あった。
■今日最後の話題は、最近読んだ、青山俊菫『泥があるから、花が咲く』についてである。
本書の中から、第三章/変えてゆくことができる~地獄・極楽は自分の心一つに開いてゆく世界〔P.92〕の一部をご紹介する。
〔前略〕相田みつをさんの詩に、
あなたがそこに/ただいるだけで
その場の空気が/あかるくなるあなたがそこに/ただいるだけで
みんなのこころが/やすらぐ
そんな/あなたにわたしもなりたい
というのがあります。
その方がそこに一緒にいてくださるというだけで、その方のお姿を見たというだけで、その場の空気があかるくなったり、あたたかくなったり、その場に居あわせた人々の心を安らかにしたりする人がおられるものです。〔中略〕反対に、その方が部屋へ入ってきただけで、部屋の空気が暗くなる。
その方の声を聞いたり、顔を見ただけでイライラしてくる。
そんなお方もあるものです。
思うに地獄、極楽は向こうにあるのではなく、私の心一つ、生き方一つで自ら展開してゆくものであったということに気づきました。
村の中に 森の中に
はた海に はた陸(おか)にこころあるもの 住みとどまらんに
なべてみな 楽土なり 『法句経』
とお釈迦様は説いておられます。
行く先々がうまくいかないのは、原因が向こうに在るのではなく、私自身の心の持ち方、生き方にあったのだな、と気づかせていただかねばならないと思ったことです。〔了〕
[39]青山俊菫『泥があるから、花が咲く』
【後記】上記の相田みつを(1924-91)の詩は、拙宅のDKに額に入れて(添付写真[40])飾ってあり、時々読んでいる。
2012年02月10日、小生、仕事で上京の折、東京駅丸の内南口から程近くにある東京国際フォーラム地下1階の相田みつを美術館を訪れた時、気に入って色紙を購入したのである。
2012年2月12日 (日)【時習26回3-7の会 0380】~「02月10日:『相田みつを美術館』を訪れて」
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/26-038001201202.html ←此処をclick願います
[40]相田みつを『ただいるだけで』
ではまた‥。(了)
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