さて、今日も最初の話題は、前々回から始まった『猿蓑』〔巻之五〕連句集の今日はその〔第4回〕目で「冬の部」の第4回。
「冬〔初時雨〕→夏〔夏の月〕→秋〔きりぎりす〕→春〔梅若菜〕」の全144句の第13句~16句をお届けする。
では、その4句をご覧頂きたい。
猿蓑集 巻之五
13 吸物は先(まづ)出來(でか)されしすいぜんじ(注1) (芭)蕉
【意】此処は芙蓉の咲く側での接待の宴/吸い物や水前寺海苔がまずいい香りを放っている
13 吸物は先(まづ)出來(でか)されしすいぜんじ(注1) (芭)蕉
【意】此処は芙蓉の咲く側での接待の宴/吸い物や水前寺海苔がまずいい香りを放っている
【解説】前句から蓮見の雅宴を連想して、「饗応の清淡な吸い物の風味もいい」と、客が賞味する挨拶の句
「蓮池の凉しげなる、吸物のもてなし、花のはらはらと散る時の風流にうつりて、さてよのつねの海苔にあらで、水前寺の名の蓮に似合しくて、余情には寺院の夕景色もおもはれ侍る」〔猿蓑付合考〕
(注1)すいぜんじ:水前寺海苔/熊本の水前寺付近の清水より産した一種の川海苔/
「蓮池の凉しげなる、吸物のもてなし、花のはらはらと散る時の風流にうつりて、さてよのつねの海苔にあらで、水前寺の名の蓮に似合しくて、余情には寺院の夕景色もおもはれ侍る」〔猿蓑付合考〕
(注1)すいぜんじ:水前寺海苔/熊本の水前寺付近の清水より産した一種の川海苔/
14 三里(さんり)あまりの道かゝえ(=へ)ける (去)來
【意】(前句で出た)水前寺海苔の吸物をもう一杯頂戴してお暇(いとま)しようと三里余りの道を帰ると致そう
【解説】宴に招待された客が暇する際に詠んだ挨拶句
【意】(前句で出た)水前寺海苔の吸物をもう一杯頂戴してお暇(いとま)しようと三里余りの道を帰ると致そう
【解説】宴に招待された客が暇する際に詠んだ挨拶句
15 この春も盧同(ろどう)(注1)が男(をとこ)居(ゐ)なり(注2)にて (史)邦
【意】(前句の客人下僕は)今年の春も未だ此処で奉公をし続けている様だ
【解説】盧同は唐の時代の隠者/盧同の下男は隠者たちの間の使い走りをしていて、当時の文人の間で知られていたと云う
韓愈(768-824)(韓退之(たいし))の作品に「寄盧同(盧同に寄す)」という以下の詩があり、主人に忠実な下男の話が出ている
此の句では、盧同の下男を例に出して、風流人の忠実な下僕のことを詠んだ
【意】(前句の客人下僕は)今年の春も未だ此処で奉公をし続けている様だ
【解説】盧同は唐の時代の隠者/盧同の下男は隠者たちの間の使い走りをしていて、当時の文人の間で知られていたと云う
韓愈(768-824)(韓退之(たいし))の作品に「寄盧同(盧同に寄す)」という以下の詩があり、主人に忠実な下男の話が出ている
此の句では、盧同の下男を例に出して、風流人の忠実な下僕のことを詠んだ
玉川先生洛城裏
破屋数間而已豈
一奴長鬚不裹頭
一婢赤脚老無歯
〔以下略〕
破屋数間而已豈
一奴長鬚不裹頭
一婢赤脚老無歯
〔以下略〕
玉川先生洛城の裏(うち)
破屋数間のみ
一奴(いちど)は長鬚(ちょうしゅ)にして頭を裹(つつ)まず
一婢(いちひ)は赤脚(せっきゃく)にして老いて歯無し
〔以下略〕
破屋数間のみ
一奴(いちど)は長鬚(ちょうしゅ)にして頭を裹(つつ)まず
一婢(いちひ)は赤脚(せっきゃく)にして老いて歯無し
〔以下略〕
玉川先生は洛陽の城内に住んでいる
住居はあばら屋で僅か数間の広さしかない
唯一人の下男は顎鬚を長くのばして頭をむき出しにしている
唯一人の下女は型通り素足で歯が抜け落ちた老女である
〔以下略〕
(注1)盧同(?-835):中国晩唐の詩人/別号:玉川子
住居はあばら屋で僅か数間の広さしかない
唯一人の下男は顎鬚を長くのばして頭をむき出しにしている
唯一人の下女は型通り素足で歯が抜け落ちた老女である
〔以下略〕
(注1)盧同(?-835):中国晩唐の詩人/別号:玉川子
(注2) 居(ゐ)なり:春の出代わりにも辞めず奉公を続けること
16 さし木(ぎ)つきたる月の朧夜(おぼろよ) (凡)兆
【意】朧月の春の宵に、樹木の挿し木も活著(いきづ)くする時期だ
【解説】前句の下男がした「挿し木が活著(いきつ)いた」ことと、その下男が「居著(いつ)いた=居続けていた」ことをかけている
【意】朧月の春の宵に、樹木の挿し木も活著(いきづ)くする時期だ
【解説】前句の下男がした「挿し木が活著(いきつ)いた」ことと、その下男が「居著(いつ)いた=居続けていた」ことをかけている
【小生comment】
連句は、話題・情景がどんどんと展開していく処が妙であるが、想像力がないと話に付いていけない。なかなか難しいgameだ。
■続いての話題は、05月03日(木)に孝田町と豊川市内の史跡巡りをして来たのでその模様をお伝えする。
1. 額田郡幸田町に十四松平家の一つ深溝(ふこうず)松平氏の菩提寺「本光寺」と
2. 本光寺から程近い「深溝城跡」
3. 豊川市牛久保にある牧野氏の居城「牛久保城跡」
4. 愛知県の無形民俗文化財に指定されている「牛久保の若葉祭」通称「うなごうじまつり」で知られている「牛久保八幡社」
5. 桶狭間の戦いで討死した今川義元の墓所「大聖(だいじょう)寺」
6. 武田信玄の軍師山本勘助の墓所「長谷(ちょうこく)寺」
7.. 越後長岡藩初代藩主牧野忠成(1581-1655)の祖父、忠成の父康成(1555-1610)の父である「牧野成定(1525-66)公廟」
8. 山本勘助養父の「大林勘左衛門貞次屋敷跡」
9.「伊奈城跡」‥此の城は、徳川家康の祖父 松平清康の吉田城攻めに参加し、当城にて凱旋の宴を催した伊奈本多氏第5代正忠、家康の高天神城攻めに参加した第7代忠次、酒井忠次次男で天正08(1580)年本多家に養子となり、下総国小篠、三河国西尾を経て、元和03(1617)年 近江国膳所3万石に入封した第8代康俊(1569-1621)の居城
連句は、話題・情景がどんどんと展開していく処が妙であるが、想像力がないと話に付いていけない。なかなか難しいgameだ。
■続いての話題は、05月03日(木)に孝田町と豊川市内の史跡巡りをして来たのでその模様をお伝えする。
1. 額田郡幸田町に十四松平家の一つ深溝(ふこうず)松平氏の菩提寺「本光寺」と
2. 本光寺から程近い「深溝城跡」
3. 豊川市牛久保にある牧野氏の居城「牛久保城跡」
4. 愛知県の無形民俗文化財に指定されている「牛久保の若葉祭」通称「うなごうじまつり」で知られている「牛久保八幡社」
5. 桶狭間の戦いで討死した今川義元の墓所「大聖(だいじょう)寺」
6. 武田信玄の軍師山本勘助の墓所「長谷(ちょうこく)寺」
7.. 越後長岡藩初代藩主牧野忠成(1581-1655)の祖父、忠成の父康成(1555-1610)の父である「牧野成定(1525-66)公廟」
8. 山本勘助養父の「大林勘左衛門貞次屋敷跡」
9.「伊奈城跡」‥此の城は、徳川家康の祖父 松平清康の吉田城攻めに参加し、当城にて凱旋の宴を催した伊奈本多氏第5代正忠、家康の高天神城攻めに参加した第7代忠次、酒井忠次次男で天正08(1580)年本多家に養子となり、下総国小篠、三河国西尾を経て、元和03(1617)年 近江国膳所3万石に入封した第8代康俊(1569-1621)の居城
07時55分 拙宅発→〔一般道 25㎞ 45分〕→
08時40分 本光寺着
徳川将軍家を支えた十四松平の一つ「深溝松平」は、大永年間(1520年代)から此の地を基盤とし、 祈願所・菩提寺として此の本光寺を建立。
08時40分 本光寺着
徳川将軍家を支えた十四松平の一つ「深溝松平」は、大永年間(1520年代)から此の地を基盤とし、 祈願所・菩提寺として此の本光寺を建立。
初代 松平忠定(生没年不詳)は、三河松平氏
第3代当主 松平信光の七男で 五井松平家の祖 松平忠景の次男。
二代 松平好影(生没年不詳)は、家康の三河平定に従い、幡豆郡の吉良義昭との戦で討死。
三代 松平伊忠(これただ(1537-75)は、家康の四天王酒井忠次の組下、各地で戦い、長篠の戦で織田・徳川軍中、武将格で唯一の戦死者。
四代 松平家忠(1555-1600)は、天正十八(1590)年 武蔵国忍(おし) 1万石、翌天正十九(1591)年 下総国小見川(おみがわ) 1万石に入封。
家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、関ヶ原の戦前哨戦の伏見城の戦いで戦死。
五代 松平忠利(1582-1632)は、慶長十七(1612)年 三河国吉田藩3万石に加増移封。
六代 松平忠房(1619-1700)は、寛永九(1632)年 家督相続後刈谷藩3万石に移封。
慶安二(1649)年 2月 4万5千石で丹波福知山に加増移封。
寛文九(1669)年 肥前国島原藩に6万5千900石に加増移封。
以後、1749~74年の一時期 下野国宇都宮藩に移封の後、島原藩に戻り明治維新を迎える。
此の様に、深溝松平家は、三河国吉田藩主になって以降、肥前国藩主として明治維新を迎える迄、廟所は此処本光寺とした。
二代 松平好影(生没年不詳)は、家康の三河平定に従い、幡豆郡の吉良義昭との戦で討死。
三代 松平伊忠(これただ(1537-75)は、家康の四天王酒井忠次の組下、各地で戦い、長篠の戦で織田・徳川軍中、武将格で唯一の戦死者。
四代 松平家忠(1555-1600)は、天正十八(1590)年 武蔵国忍(おし) 1万石、翌天正十九(1591)年 下総国小見川(おみがわ) 1万石に入封。
家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、関ヶ原の戦前哨戦の伏見城の戦いで戦死。
五代 松平忠利(1582-1632)は、慶長十七(1612)年 三河国吉田藩3万石に加増移封。
六代 松平忠房(1619-1700)は、寛永九(1632)年 家督相続後刈谷藩3万石に移封。
慶安二(1649)年 2月 4万5千石で丹波福知山に加増移封。
寛文九(1669)年 肥前国島原藩に6万5千900石に加増移封。
以後、1749~74年の一時期 下野国宇都宮藩に移封の後、島原藩に戻り明治維新を迎える。
此の様に、深溝松平家は、三河国吉田藩主になって以降、肥前国藩主として明治維新を迎える迄、廟所は此処本光寺とした。
[01]瑞雲山 本光寺入口にて
[02]同寺山門に到る参道にて
[03]同寺山門にて
[04]同寺由緒と深溝松平初代~四代御廟所解説
[02]同寺山門に到る参道にて
[03]同寺山門にて
[04]同寺由緒と深溝松平初代~四代御廟所解説
[05]同寺境内図
[06]同寺本堂1
[07]同上2
[08]深溝松平第五代忠利(1582-1632)が建立した肖影堂解説
[09]肖影堂前にて
[10]肖影堂内にある「願掛け亀」解説
[11]同「願掛け亀」
[12]深溝松平初代~四代墓所前にて
[13]同上解説
[14]本光寺山門前にて1
09時50分 深溝城跡
[16]深溝(ふこうず)城跡
[17]同城跡解説
[18]深溝城跡石碑にて
10時01分 深溝城跡発→〔一般道 24㎞ 55分〕→
[16]深溝(ふこうず)城跡
[17]同城跡解説
[18]深溝城跡石碑にて
10時01分 深溝城跡発→〔一般道 24㎞ 55分〕→
10時01分 深溝城跡発→〔一般道 24㎞ 55分〕→
10時58分 牛久保城跡着
10時58分 牛久保城跡着
牛久保城は、JR飯田線牛久保駅東側直ぐの所にあった。
同城は、享禄二(1529)年 一式城主牧野成勝(しげかつ)が、今橋城主(のちの吉田城主)の牧野信成(のぶしげ)の命を受け築城したと云われる。
江戸時代に入り、牛久保は幕府天領になり、元禄十三(1700)年 廃城となった。
同城は、享禄二(1529)年 一式城主牧野成勝(しげかつ)が、今橋城主(のちの吉田城主)の牧野信成(のぶしげ)の命を受け築城したと云われる。
江戸時代に入り、牛久保は幕府天領になり、元禄十三(1700)年 廃城となった。
[19]牛久保城跡石碑にて
[20]牛久保城跡解説
11時05分 牛久保城跡発→〔一般道 0.2km 5分〕→
[20]牛久保城跡解説
11時05分 牛久保城跡発→〔一般道 0.2km 5分〕→
11時10分 牛久保八幡社着
此の神社は、天正三(1575)年 織田信長・徳川家康が「長篠合戦」出陣の際、八幡社にて武運を祈願。
此の神社は、天正三(1575)年 織田信長・徳川家康が「長篠合戦」出陣の際、八幡社にて武運を祈願。
江戸時代は旗本米津氏の知行所/明治05年郷社となった。
「若葉祭(うなごうじ祭)」が有名。
「若葉祭(うなごうじ祭)」が有名。
[21]牛久保八幡社の情景1
[22]同八幡社にて1
[23]同2
11時20分 牛久保八幡社発→〔徒歩 200m〕→
11時25分 大聖(だいじょう)寺着
[22]同八幡社にて1
[23]同2
11時20分 牛久保八幡社発→〔徒歩 200m〕→
11時25分 大聖(だいじょう)寺着
永禄三(1560)年 桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討死した際、首をとられた今川義元の胴体をこの地に埋葬。
永禄六(1563)年 今川義元の嫡子氏真が、義元の三回忌を此の寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵。
[24]今川義元公の墓
[25]同墓所にて
[26]同墓所解説
11時45分 大聖寺発→〔徒歩 700m 〕→
12時00分 長谷寺(ちょうこくじ)着
永禄六(1563)年 今川義元の嫡子氏真が、義元の三回忌を此の寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵。
[24]今川義元公の墓
[25]同墓所にて
[26]同墓所解説
11時45分 大聖寺発→〔徒歩 700m 〕→
12時00分 長谷寺(ちょうこくじ)着
[27]長谷寺入口
[28]摩利支天像と山本勘助・長谷寺の解説
[29]山本勘助の墓
12時08分 長谷寺発→〔徒歩 500m〕→
12時15分 牧野成定公廟 着
[28]摩利支天像と山本勘助・長谷寺の解説
[29]山本勘助の墓
[30]同所解説
[31]同所にて
12時08分 長谷寺発→〔徒歩 500m〕→
12時15分 牧野成定公廟 着
牧野成定(なりさだ(1525-66))は、三河国宝飯郡牛久保城の城主。
牛久保城主牧野貞成の養子となり、牛久保城主を継ぐ。
初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父。
牛久保城主牧野貞成の養子となり、牛久保城主を継ぐ。
初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父。
[32]牧野成定公廟前にて
[33]同上解説
12時25分 牧野成定公廟発→〔徒歩700m 10分〕→
[33]同上解説
12時25分 牧野成定公廟発→〔徒歩700m 10分〕→
12時50分 山本勘助の養父 大林勘左衛門貞次屋敷跡着
[34]大林勘左衛門貞次屋敷跡碑〔寺町公園〕
12時55分 寺町公園発→〔徒歩600m 7分〕→
12時55分 寺町公園発→〔徒歩600m 7分〕→
13時05分 牛久保八幡社着
13時10分 牛久保八幡社発→〔一般道 7㎞ 25分〕→
13時40分 伊奈城址公園着
[34]大林勘左衛門貞次屋敷跡碑〔寺町公園〕
12時55分 寺町公園発→〔徒歩600m 7分〕→
12時55分 寺町公園発→〔徒歩600m 7分〕→
13時05分 牛久保八幡社着
13時10分 牛久保八幡社発→〔一般道 7㎞ 25分〕→
13時40分 伊奈城址公園着
享禄二年(1529)年 家康の祖父、松平清康が吉田城(現・豊橋市)へ迫った際、伊奈城主本多正忠は清康に従い吉田城攻略に活躍。
清康は吉田城を落として直ぐ田原城攻略に向かい、田原城主戸田宗光は不戦で清康に降伏。
清康は田原城から吉田城への凱旋の途次、伊奈城に立ち寄り勝利の宴を開いた際の逸話が残っている。
それは、本多正忠は城内の池の水葵(ジュンサイ)の葉に肴を盛って差出したという。
清康は喜び、「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」と本多家の立葵紋を所望。
爾来、「立葵紋」は松平家の紋となり、更に、家康の代に「三ツ葉葵紋」となった。
清康は吉田城を落として直ぐ田原城攻略に向かい、田原城主戸田宗光は不戦で清康に降伏。
清康は田原城から吉田城への凱旋の途次、伊奈城に立ち寄り勝利の宴を開いた際の逸話が残っている。
それは、本多正忠は城内の池の水葵(ジュンサイ)の葉に肴を盛って差出したという。
清康は喜び、「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」と本多家の立葵紋を所望。
爾来、「立葵紋」は松平家の紋となり、更に、家康の代に「三ツ葉葵紋」となった。
[35]伊奈城址公園入口にて
[36]伊奈城概説と伊奈本多氏略系譜図前にて
[37]「葵の紋」発祥ゆかりの地解説
此の日訪れた、牛久保城主の牧野氏、伊奈城主の本田氏の両家は、戦国時代から幾つかの家系に分かれていて、系譜を覚えることは甚だ難しい。
ただ、牛久保城主だった牧野成定の孫が、越後国長岡藩初代藩主牧野忠成(1581-1655)で、幕末に家老河合継之助(1827-68)を輩出した主筋。
又、田原の戸田氏の一族が、戦国時代に現・豊橋市多米町を領有していた戸田一西(かずあき(1543-1604))で、近江国膳所藩の初代藩主。
その膳所藩二代藩主が一西の嫡子氏鐵(1576-1655)で、摂津国尼崎藩主を経て、美濃国大垣藩初代藩主。
戸田氏鐵の後、膳所藩3万石の藩主となったのが、伊奈本多氏第八代当主本多康俊(1569-1621)、その嫡子俊次(1595-1668)。
その後、一時期、菅沼家、石川家が藩主を務めた後、本多俊次の次男で長兄の逝去で嫡子となった康将(1622-91)が本多泰俊系宗家第三代となり、膳所藩7万石藩主に。
爾来、膳所藩は第13代康穣迄続き、明治維新を迎えた。
事程左様に、戦国から江戸時代にかけての譜代大名家は、複雑だが結構狭い世界で絡み合っている。
[36]伊奈城概説と伊奈本多氏略系譜図前にて
[37]「葵の紋」発祥ゆかりの地解説
[38]伊奈城址公園にて
[39]伊奈城址石碑前にて
[40]同石碑横にて
[41]伊奈城址土塁
此の日訪れた、牛久保城主の牧野氏、伊奈城主の本田氏の両家は、戦国時代から幾つかの家系に分かれていて、系譜を覚えることは甚だ難しい。
ただ、牛久保城主だった牧野成定の孫が、越後国長岡藩初代藩主牧野忠成(1581-1655)で、幕末に家老河合継之助(1827-68)を輩出した主筋。
又、田原の戸田氏の一族が、戦国時代に現・豊橋市多米町を領有していた戸田一西(かずあき(1543-1604))で、近江国膳所藩の初代藩主。
その膳所藩二代藩主が一西の嫡子氏鐵(1576-1655)で、摂津国尼崎藩主を経て、美濃国大垣藩初代藩主。
戸田氏鐵の後、膳所藩3万石の藩主となったのが、伊奈本多氏第八代当主本多康俊(1569-1621)、その嫡子俊次(1595-1668)。
その後、一時期、菅沼家、石川家が藩主を務めた後、本多俊次の次男で長兄の逝去で嫡子となった康将(1622-91)が本多泰俊系宗家第三代となり、膳所藩7万石藩主に。
爾来、膳所藩は第13代康穣迄続き、明治維新を迎えた。
事程左様に、戦国から江戸時代にかけての譜代大名家は、複雑だが結構狭い世界で絡み合っている。
14時10分 伊奈城址公園発→帰途へ〔了〕
※ ※ ※ ※ ※
その日、帰宅後に拙宅の紫陽花の蕾の状況を観察した。
※ ※ ※ ※ ※
その日、帰宅後に拙宅の紫陽花の蕾の状況を観察した。
今年は、昨年と違って蕾が沢山。
浅葱色の紫陽花の開花時期が楽しみだ。
浅葱色の紫陽花の開花時期が楽しみだ。
[42]拙宅の紫陽花の蕾の横にて
[43]拙宅の紫陽花の蕾
参考に、臨済宗建長寺派 明月院 の浅葱色の紫陽花の花 を3枚目に up してみた。
[43]拙宅の紫陽花の蕾
参考に、臨済宗建長寺派 明月院 の浅葱色の紫陽花の花 を3枚目に up してみた。
[44]臨済宗建長寺派 明月院 の浅葱色の紫陽花の花
紫陽花の 浅葱が如き 貴女かな 悟空〔了〕
紫陽花の 浅葱が如き 貴女かな 悟空〔了〕
■今日最後の話題は、05月05日の話題である。
此の日は、庭の花々、新緑の樹々を見ていたら、多米町にある 源頼朝 所縁の 鞍掛神社 に行きたくなった。
14: 20 拙宅発→〔東へ徒歩 3.3km 50分〕→
此の日は、庭の花々、新緑の樹々を見ていたら、多米町にある 源頼朝 所縁の 鞍掛神社 に行きたくなった。
14: 20 拙宅発→〔東へ徒歩 3.3km 50分〕→
鞍掛神社は、創立年代不詳。
以下の様な 源頼朝伝説 がある。
源頼朝が京へ上る途中、ここに鞍を奉納して武運長久を祈願したことから鞍掛神社と改めた、と云う。
鞍掛神社近くにある「駒止めの桜」は、鞍を奉納したときに頼朝がこの桜の木に自分の馬を繋いだことからこう呼ばれる。
因みに、バス停は「駒止」という。
以下の様な 源頼朝伝説 がある。
源頼朝が京へ上る途中、ここに鞍を奉納して武運長久を祈願したことから鞍掛神社と改めた、と云う。
鞍掛神社近くにある「駒止めの桜」は、鞍を奉納したときに頼朝がこの桜の木に自分の馬を繋いだことからこう呼ばれる。
因みに、バス停は「駒止」という。
15:10 鞍掛神社着
[45]鞍掛神社 鳥居前にて
[46]鞍掛神社拝殿前にて
15:35 鞍掛神社 発→〔1.5km 30分〕→
[49]戸田宣光の墓があると思しき繁み
田原城は碧海郡上野荘より移った 戸田宗光によって築城。
戸田氏は、三条家庶流と伝わる。
田原に居住した宗光は、この地の守護代一色氏の没落後、大津(老津)から伊良湖岬までが宗光の勢力となる。
宗光は今川義忠の庇護を受けここまで成長したが、文明十一年 塩買坂の合戦で今川義忠が戦死。
すると、今川氏がその相続の内紛に紛糾する隙に田原を子の憲光に譲り、吉田に二連木城を築き移る。
明応八年 今川方の舟形山城を攻略したが失敗、此の戦いで宗光は討死。
宗光死後は、憲光が継ぐも今川氏の傘下に入る。
仁連木城に程近い牧野古白の居城 吉田城を今川氏親と共に攻略。
戸田宗光-憲光-政光に-康光-宣光-尭光(たかみつ)と続き、尭光の時、今川氏に人質として送られる 松平竹千代(=徳川家康)を強奪し、織田氏に送ってしまう事件を起こす。
怒った今川氏は田原城を攻撃、戸田氏は没落し、渥美半島-知多半島の所領も失う。
尭光の弟 二連木 戸田宣光 は、今川氏に属していた為此のこの難を逃れ、宣光-忠重-康長(1562-1633)と続く。
康長は 1590年 徳川家康江戸移封に従い、
二連木城から武蔵国東方に1万石→
〔慶長5(1600)年 関ヶ原の戦で水野勝成らと共に大垣城を攻略し、その功に拠り‥〕→
[45]鞍掛神社 鳥居前にて
[46]鞍掛神社拝殿前にて
[47]鞍掛神社の扁額
[48]「駒止」のバス停
15:35 鞍掛神社 発→〔1.5km 30分〕→
[49]戸田宣光の墓があると思しき繁み
田原城は碧海郡上野荘より移った 戸田宗光によって築城。
戸田氏は、三条家庶流と伝わる。
田原に居住した宗光は、この地の守護代一色氏の没落後、大津(老津)から伊良湖岬までが宗光の勢力となる。
宗光は今川義忠の庇護を受けここまで成長したが、文明十一年 塩買坂の合戦で今川義忠が戦死。
すると、今川氏がその相続の内紛に紛糾する隙に田原を子の憲光に譲り、吉田に二連木城を築き移る。
明応八年 今川方の舟形山城を攻略したが失敗、此の戦いで宗光は討死。
宗光死後は、憲光が継ぐも今川氏の傘下に入る。
仁連木城に程近い牧野古白の居城 吉田城を今川氏親と共に攻略。
戸田宗光-憲光-政光に-康光-宣光-尭光(たかみつ)と続き、尭光の時、今川氏に人質として送られる 松平竹千代(=徳川家康)を強奪し、織田氏に送ってしまう事件を起こす。
怒った今川氏は田原城を攻撃、戸田氏は没落し、渥美半島-知多半島の所領も失う。
尭光の弟 二連木 戸田宣光 は、今川氏に属していた為此のこの難を逃れ、宣光-忠重-康長(1562-1633)と続く。
康長は 1590年 徳川家康江戸移封に従い、
二連木城から武蔵国東方に1万石→
〔慶長5(1600)年 関ヶ原の戦で水野勝成らと共に大垣城を攻略し、その功に拠り‥〕→
1601年 上野国白井藩 →
1602年 下総国古河藩 →
1612年 常陸国笠間藩 →
〔大坂の陣 冬夏2度従軍〕→
1616年 上野国高崎藩5万石 →
1617(元和3)年 信濃松本藩7万石に加増移封 →
1602年 下総国古河藩 →
1612年 常陸国笠間藩 →
〔大坂の陣 冬夏2度従軍〕→
1616年 上野国高崎藩5万石 →
1617(元和3)年 信濃松本藩7万石に加増移封 →
康長-忠光-光重-光永-光煕-光慈(みつちか(1712-32))の代に再び 信濃国松本藩6万石で入封→9代 光則(みつのり(1828-92))で明治維新を迎えた。
16:20 多米春日神社 着
[50]多米春日神社 鳥居の前にて
[51]多米春日神社 本殿前にて1
[52]同上2
16:20 多米春日神社 着
[50]多米春日神社 鳥居の前にて
[51]多米春日神社 本殿前にて1
[52]同上2
[53]多米春日神社 のマキ
[54]同上 解説板
16:40 多米春日神社 発→〔1.2km
20分〕→
16:48 民俗資料収蔵室 着
多米春日神社 に続いて向かったのは、映画「早咲きの花」のロケ地となった 旧多米小学校校舎の 民俗資料収蔵室。
16:48 民俗資料収蔵室 着
多米春日神社 に続いて向かったのは、映画「早咲きの花」のロケ地となった 旧多米小学校校舎の 民俗資料収蔵室。
既に閉館時間だったが、憧憬〔nostalgie〕いっぱいの Time slip したひとときだった。
[55]豊橋市民俗資料収蔵室の案内看板
[56]同上 外観(西側)
[57]同上 同(中央)
17:00 豊橋市民俗資料収蔵室 発→〔3.6km 1時間05分〕→
[56]同上 外観(西側)
[57]同上 同(中央)
[58]同上 同(東側)
[59]同上 入口からガラス越しに内部を望む
17:00 豊橋市民俗資料収蔵室 発→〔3.6km 1時間05分〕→
帰り道に「朝倉川遊歩道」を通ってみた。
情緒があってなかなかいい。
路傍の花々が可憐で美しかった。
今日から二十四節気でいう『立夏』だ。
「朝倉川遊歩道」を歩いてたら拙句が浮かんだ。
情緒があってなかなかいい。
路傍の花々が可憐で美しかった。
今日から二十四節気でいう『立夏』だ。
「朝倉川遊歩道」を歩いてたら拙句が浮かんだ。
緑なす 朝倉川に 夏は来ぬ 悟空
[60]「朝倉川遊歩道」にて
[61]「同上」の情景1
[60]「朝倉川遊歩道」にて
[61]「同上」の情景1
[62]同上2
[63]多米町の田園風景1
[64]同上2
多米町は、字が示す通りお米が沢山穫れる。
大河はないが、赤石山系山麓の地の利から清水が多く湧き、美田が多い。
[65]同上3
此の田圃では田植えが終わっていた/早稲種なのかな?
18:06 帰宅
全Walking route 9.6km
所要時間 3時間45分〔了〕
全Walking route 9.6km
所要時間 3時間45分〔了〕
では、また‥〔了〕
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