2021年5月5日水曜日

【時習26回3−7の会 0861】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から員外〔第79回/員外~第771句~780句〕」「04月23日:旧東海道五十三次 「袋井宿」「大池一里塚跡」「掛川城」「葛川一里塚跡」「伊達方一里塚跡」「事任(ことのまま)八幡宮」を巡って」「04月25日:浜松市美術館「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展-」・平野美術館「院展の俊英たち」展・浜松市秋野不矩美術館「第1回所蔵品展【ゼロ発祥の地インドⅠ 〜混沌と目覚め~】」・豊川市桜ヶ丘ミュージアム「東三河の風景」展を見て」「四季派の詩人『立原道造』『伊東静雄』『三木露風』『北原白秋』の名詩と『杉浦民平が語る立原道造の想い出』について」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0861】号をお届けします。
. 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第79回/員外~第771句~780句〕」をご紹介する。    
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.                亀洞(1)
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771 遠浅(とほあさ)や浪にしめ(2)さす蜊(あさり)とり
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【意】遠浅の海では、人々は遥か沖合い迄出てアサリを獲っている / その姿が恰も波間に標識を立てた様だ
【解説】《発句》《春》:蜊とり / 春の潮干狩りの風景
(1)武井亀洞(たけい きどう(?-貞亨04(1687)11):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越智越人の弟子と云われる /『あら野』・『庭竈集』等に入句
(2)しめ:標識
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772  はるの舟間(ふなま)(1)に酒(さけ)のなき里(さと)  荷兮
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【意】春季、風の凪いだ大潮で入船も暫く途絶えて酒が入荷しなくなり、此の里の酒が払底して仕舞った
【解説】《脇》《春》:はる / 前句の「遠浅・しめ」等から、沖合に現れるべき船舶を待望する心境を表現した
(1)舟間:船の入港が途切れている時期のこと
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773 のどけしや早(はや)き泊(とまり)に荷()を解(とき)て  昌碧(1)
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【意】船便に合わせて、日の高いうちから宿をとり、旅荷を解(ほど)いた長閑な春の日 / 聞けば酒もないとか、さて、どうやって時間を過ごそうか
【解説】《第三》《春》:のどけしや /
(注1)昌碧(しょうへき(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 貞亨04(1687)11月『笈の小文』の旅の折、蕉門に入る /『あら野』等に入句
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774  百足(むかで)の懼(おそ)る藥(くすり)たきけり  野水
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【意】部屋には百足(ムカデ)が寄り付かない様に、百足除けの薬(=香木)を焚()いておく
【解説】《初表四》《雑》 / 前句を早く旅館に着き過ぎたので、荷を解いて薬等を取り出した処とみた
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775 夕月(ゆふづき)の雲(くも)の白(しろ)さをうち詠(ながめ)  舟泉(1)

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【意】今宵の夕月夜に、鮮やかな白雲が浮いているのを眺めていると、明日も天気は良さそうだナ
【解説】《初表五》《秋》:夕月 / 当時は雨の気配があるとムカデの出現があると考えられていた様だ

(1)永田舟泉(ながた しゅうせん(1654-1737.11.19(元文021027(享年84))):三河国挙母(ころも(現・豊田市挙母町))生まれの、尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 / 1687(貞亨04)年に蕉門に入る /『あら野』・『曠野後集』等に入句

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776  夜寒(よさむ)の簔(みの)(1)を裾(みの)に引(ひき)きせ  釣雪(2)

【意】(前句を踏まえ)夕月夜の雲の様子から、今宵は冷え込みそうだ / 蓑を足元に引き寄せて寝ることにしよう / 寝所の場面が、旅籠から貧しい苫屋変わったか‥【解説】《初表六》《秋》:夜寒 /

(1)夜寒の蓑:歌語「夜寒の衣」を踏まえて「衣」を「蓑」に変えたもの / 秋半ば過ぎから拠るの肌寒さを覚えるため夜着を重ねること

(2)大橋釣雪(おおはし ちょうせつ(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 通称:左衛門 /『あら野』等に入句

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777 (をぎ)の聲(こゑ)どこともしらぬ所(ところ)ぞや  筆

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【意】前句を、蓑を掛けて寝る処から野外とした / 晩秋の何処とも知れぬ野中泊ることになった / 旅人は、沼地に生えた荻の葉ずれの音を聞き乍ら晩秋の夜寒(よさむ)を肌に感じつつ過ごしている

【解説】《初裏一》《秋》:荻の声 /

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778  一駄(いちだ)(1)(すぐ)して是(これ)も古綿(ふるわた)  亀洞

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【意】(前句の情景を踏まえ‥)荻の野を連なり行く駄馬がいずれも古綿を荷物として積んでいく / 此の道の奥に貧寒の地がある様だ

【解説】《初裏二》《雑》/

(1)一駄:一駄荷 / 馬一頭につき本馬なら40貫目、軽尻(かるじり)なら20貫目を基準とする / 又、其の荷を積む馬のこと

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779 (みち)の邊()に立(たち)(くら)したる宜禰(きね)(1)が麻(あさ)(2)  荷兮

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【意】一日中街道に立って布教活動をするも誰も聞いてくれない / 如何せん、古綿を運ぶ駄馬が通るだけだから‥

【解説】《初裏三》《雑》 /

(1)宜禰((祢宜)きね):神官のこと

(2)(あさ):幣(ぬさ)は、榊と竹で串を作り、麻と紙で「垂・四手(しで)」を作る

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780  楽(らく)する比(ころ)とおもふ年栄(としばへ)(1)  昌碧

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【意】此の祢宜(=神官)は、かなりの高齢で、普通なら楽隠居の身分だろうに、何故又此の様なことをしているのだろう?

【解説】《初裏四》《雑》 /

(1)年栄:年格好 / 年配

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【小生 comment

. 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔80回 / 員外~第781句~790〕をご紹介する。お楽しみに!

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■今日続いての話題は、0423()に、旧東海道五十三次 「袋井宿」→旧東海道「大池一里塚跡」→「掛川城」→「葛川一里塚跡」→「伊達方一里塚跡」→「事任(ことのまま)八幡宮」を踏破したことについてお伝えする

. 今日は、週一回の平日公休日

. 踏破距離22㎞、歩数28,759歩だった

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. 0430分 起床→腹筋2,000

. 0520 2.5kgの木刀素振り50

. 0615分 入浴→朝食

. 0719分 拙宅発→一般道93 63km〔駐車料金:300/日〕→

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. 0852 JR愛野駅近隣駐車場着

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JR愛野駅→旧東海道五十三次風景〔袋井市広岡〕風景】

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[01][左上]JR愛野駅北口前にて1

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[右上]同 同上2

[左下]同 旧東海道〔袋井市広岡〕松並木にて1

[中下]同 同〔同〕同所にて2

[右下]同 同〔同〕風景1 路傍の花

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【旧東海道街並〔袋井市国本・広岡〕風景】

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[02][左上]旧東海道街並〔袋井市国本〕風景1 路傍の花

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[右上]同〔同〕広重/東海道五十三次「袋井宿」

[左下]同〔同〕風景2 松並木1

[中下]同〔同〕風景3 同上2

[右下]同〔袋井市広岡〕風景4 路傍の花

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【旧東海道街並〔袋井市国本〕風景】1

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[03][左上]旧東海道街並〔袋井市国本〕風景5 松並木

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[右上]同〔同〕風景6

[左下]同〔同〕風景7

[中下]同〔同〕同所にて1

[右下]同〔同〕 同所にて2

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【旧東海道街並〔袋井市国本〕風景】2

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[04][左上]旧東海道街並〔袋井市国本〕東海道松並木解説板にて2

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[右上]同〔同〕同解説板

[左下]同〔同〕風景8

[中下]同〔同〕東海道・可睦三尺坊道標

[右下]同〔同〕同所にて1

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1101分「間(あい)の宿 原川」金西寺着

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【旧東海道街並〔袋井市国本・掛川市領家〕風景】

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[05][左上]旧東海道街並〔袋井市国本〕東海道・可睦三尺坊道標にて2

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[右上]同〔同〕同所の「廣重/東海道五十三次「袋井宿/出茶屋ノ図」

[左下]同〔同〕同上にて

[中下]同〔掛川市領家〕金西寺前の案内図

[右下]同〔同〕同所にて

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【旧東海道街並〔掛川市領家「間の宿 原川」・各和〕風景】

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[06][左上]旧東海道街並〔掛川市領家〕金西寺 間(あい)の宿 解説板

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[右上]同〔同〕同 同所にて

[左下]同〔同〕同 金西寺 同所前にて

[中下]同〔掛川市各和〕風景1 松並木1

[右下]同〔同〕風景2 同所にて

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【旧東海道街並〔掛川市各和〕風景】1

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[07][左上]旧東海道街並〔掛川市各和〕旧東海道街並木 解説板

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[右上]同〔掛川市領家〕風景1 同 同所にて

[左下]同〔同〕風景1 松並木

[中下]同〔同〕風景2 同所にて1

[右下]同〔同〕風景3 同上2

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【旧東海道街並〔掛川市各和・領家〕風景】

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[08][左上]旧東海道街並〔掛川市各和〕風景1 松並木

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[右上]同〔同〕風景2同所にて旧東海道街並から田植えを終えた田圃

[左下]同〔掛川市領家〕風景4 松並木

[中下]同〔同〕風景5 同所にて

[右下]同〔同〕風景6 松並木

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【旧東海道街並〔掛川市岡津〕風景「仲道寺」】

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[09][左上]旧東海道街並〔掛川市岡津〕仲道寺 解説板

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[右上]同〔同〕風景1 仲道寺 山門と本殿

[左下]同〔同〕風景2 同 本殿前にて

[中下]同〔同〕風景3 同 本殿から山門を望む

[右下]同〔同〕風景4 同 山門前にて

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【旧東海道街並〔掛川市領家・沢田〕風景】

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[10][左上]旧東海道街並〔掛川市領家〕風景7

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[右上]同〔掛川市領家〕風景8 路傍の花
[左下]同〔掛川市沢田〕風景1
[中下]同〔同〕風景2 同所にて
[右下]同〔同〕風景3
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【旧東海道街並〔掛川市細田・長谷〕風景「大池一里塚跡」】
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[11][左上] 旧東海道街並〔掛川市細田〕風景1
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[右上]同〔同〕
[左下]同〔掛川市長谷〕風景1
[中下]同〔同〕大池一里塚跡
[右下]同〔同〕同所にて1
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【旧東海道街並〔掛川市長谷・大池・肴町〕風景「大池一里塚跡」】

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[12][左上]旧東海道街並〔掛川市長谷〕大池一里塚跡にて2

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[右上]同〔同〕同所にて3

[左下]同〔掛川市大池〕風景1

[中下]同〔同〕風景2

[右下]同〔掛川市肴町〕「陽春」像 同所にて1

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1356分 掛川城天守閣が見える城下着

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【旧東海道街並〔掛川市肴町・城下〕「陽春」像→「掛川城」】

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[13][左上]旧東海道街並〔掛川市肴町〕「陽春」像にて2

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[右上]同〔同〕同所にて3

[左下]同〔同〕同像の台座「松田裕康 2000年作/2003年設置」

[中下]同〔同〕同所にて4

[右下]同〔掛川市城下〕掛川城を back 1

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【旧東海道街並〔掛川市城下〕風景「掛川城」】

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[14][左上]同〔掛川市城下〕「掛川城を」back 2

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[右上]同〔同〕同上3

[左下]同〔同〕同上4

[中下]同〔同〕同上5

[右下]同〔同〕同上6

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1430分 旧東海道「葛川一里塚跡」着

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【旧東海道街並〔掛川市城下・葛川〕風景「掛川城」→「葛川一里塚跡」】

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[15][左上]「掛川城」〔掛川市城下〕風景1 掛川城1

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[右上]同〔同〕風景2 同上2

[左下]同〔同〕風景3

[中下]同〔同〕風景4

[右下]旧東海道街並〔掛川市葛川〕風景1「葛川一里塚跡」にて1

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【旧東海道街並〔掛川市葛川〕風景「葛川一里塚跡」「常夜燈」】

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[16][左上]旧東海道街並〔掛川市葛川〕風景2「葛川一里塚跡」にて2

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[右上]同〔同〕風景3 同所にて3

[左下]同〔同〕風景4 葛川一里塚跡に隣接した「常夜燈」にて1

[中下]同〔同〕風景5 同上2

[右下]同〔同〕風景6 同所にあった「掛川市内(史跡・文教施設)案内図」

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1436分「葛川一里塚跡」発

1522分 掛川市千羽通過

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【旧東海道街並〔掛川市葛川・千羽〕風景】

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. 千羽の街並の路傍の花々が可憐で魅力的だった

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[17][左上]旧東海道街並〔掛川市葛川〕風景7「新緑と青空」の爽快な美しさ

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[右上]同〔掛川市千羽〕風景1 路傍の花「菖蒲(あやめ)の美しい紫色」

[左下]同〔同〕風景2 同 可憐な「ロベリア」の花

[中下]同〔同〕風景3

[右下]同〔同〕風景4 路傍の花 此れも可憐な「アルストロメリア」

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【旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景】

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[18][左上]旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景1 街道沿いの家の手入れされた素晴らしい庭

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[右上]同〔同〕風景2

[左下]同〔同〕風景3

[中下]同〔同〕風景4 路傍の花 此れも可憐な「菖蒲(あやめ)

. 小生、1年通った幼稚園のクラスが「あやめ組」の所為か美しい高貴な色、紫色の「菖蒲(あやめ)」が大好きだ!

[右下]同〔同〕風景5 同 いつ見ても郷愁を感じさせる可憐な花「マーガレット」!

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【旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景「伊達方一里塚跡」】

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[19][左上]旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景6 路傍の花「紫蘭(シラン)

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. 一寸地味だけど、路傍に咲く赤紫色の紫蘭は、清純で凛とした美しさが魅力的で小生大好きな花である

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【拙句】風かほる 清き乙女の 紫蘭かな 悟空

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[右上]同〔同〕風景7「伊達方一里塚跡」1

[左下]同〔同〕風景8 同所にて1

[中下]同〔同〕風景9 同所にて2

[右下]同〔同〕府警10 同所にて3

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【旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景「伊達方一里塚跡」・八坂】

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[20][左上]旧東海道街並〔掛川市伊達方〕風景11「伊達方一里塚跡」にて4

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[右上]同〔同〕「伊達方一里塚」解説板

[左下]同〔同〕同所にて

[中下]同〔同〕風景12

[右下]同〔掛川市八坂〕風景1

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景→「事任八幡宮」】

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[21][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景2

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[右上]同〔同〕風景3 街道脇にあった「塩井神社」鳥居

[左下]同〔同〕風景4 新緑の若楓の葉が瑞々しい

[中下]同〔同〕風景5 旧東海道から「事任(ことのまま)八幡宮」への入口

[右下]同〔同〕風景6「事任八幡宮」鳥居1

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】1

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[22][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景7「事任八幡宮」鳥居2

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[右上]同〔同〕風景8 同所にて1

[左下]同〔同〕「御由緒」解説板 同所にて1

[中下]同〔同〕同

[右下]同〔同〕風景9「事任八幡宮」鳥居にて2

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】2

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[23][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景10「事任八幡宮」鳥居にて3

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[右上]旧東海道街並〔同〕「御由緒」解説板 同所にて2

[左下]同〔同〕風景11 拝殿への参道

[中下]同〔同〕風景12 拝殿前にて1

[右下]同〔同〕風景13 同上2

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】3

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[24][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景14 拝殿にて1

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[右上]同〔同〕風景15 同上2

[左下]同〔同〕風景16 本殿を望む

[中下]「事任拝殿」御守()と御朱印()

[右下]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景17「事任八幡宮」境内の大杉1

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】4

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[25][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景18「事任八幡宮」境内の大杉2

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[右上]同〔同〕同上3

[左下]同〔同〕大杉の解説板

[中下]同〔同〕風景19 大杉の前にて1

[右下]同〔同〕風景20 同所にて2

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】5

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[26][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景21 拝殿()と大杉()

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[右上]風景22 拝殿側から境内を見下ろす1

[左下]同〔同〕風景23 同上2

[中下]同〔同〕風景24 拝殿1

[右下]同〔同〕風景25 同上2

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1722分 バス停「八幡宮前(事任八幡宮)」発→

1754分 バス停「掛川駅前」着

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【旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景「事任八幡宮」】

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[27][左上]旧東海道街並〔掛川市八坂〕風景26 鳥居前にて

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[右上]同〔同〕バス停「八幡宮前(事任八幡宮)」にて

[左下]同〔同〕バス停・旧東海道側の鳥居前にて1

[中下]同〔同〕同上近くの「事任八幡宮」解説板にて

[右下]同〔同〕バス停・旧東海道側の鳥居前にて2

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1757 JR掛川駅着

1815分 同駅発→東海道本線普通→

1819 JR愛野駅着

1828分 同所発→一般道69 63km/126km

1937分 帰宅〔走行距離計126km 歩行距離22 28,759歩〕

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【「事任八幡宮」→「JR掛川駅前」→「JR愛野駅」】

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[28][左上]バス停「八幡宮前(事任八幡宮)」に到着した1722分発の掛川駅ゆきbus

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[右上]JR掛川駅 同駅前にて

[左下] platform にて

[中下]JR愛野駅前にて

[右下]此の日の walking 踏破距離22km と 歩数 28,759

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【小生 commemt

. 今日も天候に恵まれ、爽快な22 walking だった

. 次回からは、暫く鉄道と離れるのでマイカーの往復か、時間を計算した本数が限られる bus の活用となる

. そんなことをあれこれ考えることも又一興!()

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■続いては、0425()に、天気も良かったので4つの美術館巡りをして来たことについてお伝えする

. 浜松市美術館「みほとけのキセキ‥遠州・三河の寺宝展‥」→平野美術館「院展の俊英たち」展→浜松市秋野不矩美術館「第1回所蔵品展【ゼロ発祥の地インドⅠ 〜混沌と目覚め~】」→豊川市桜ヶ丘ミュージアム「東三河の風景」展の4つだ

. 走行距離総計は128㎞だった

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. 0530分 起床→腹筋2,000

. 0630 2.5kgの木刀素振り60

. 0730分 入浴→朝食

. 0832分 拙宅発→一般道93 40km

. 0922分 浜松市役所駐車場着〔浜松市美術館使用の為2時間以内無料〕

. 0927分 浜松城着

. 0930分 浜松市美術館着

. 企画展最終日に付き、当日券購入の為15分程待った

. 0945分 浜松市美術館「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展-」

. 1007分 同美術館発→徒歩12分→

. 1022分 浜松市役所駐車場発→一般道5 1.2㎞→

. 1027分 平野美術館着

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【浜松城→浜松市美術館「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展-」1 】〔本企画展はフラッシュなしの撮影可〕

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[29][左上]浜松城天守閣を back

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[右上]摩訶耶寺(まかやじ(三ヶ日町摩訶耶421))【重文】「千手観音立像」1

[左下]同【重文】「同」解説

[中下]同【重文】「同」2

[右下]應賀寺(湖西市新居町中之郷68-1)【静岡県指定文化財】「阿弥陀如来坐像」1

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【浜松市美術館「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展-」2

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[30][左上] 應賀寺(湖西市新居町中之郷68-1)【静岡県指定文化財】「阿弥陀如来坐像」2

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[右上]同【同】「同」解説

[左下]普門寺(豊橋市雲谷町ナベ山下7)【重文】「釈迦如坐像」

[中下]同【重文】「阿弥陀如来坐像」

[右下]同【重文】「釈迦如坐像()」「阿弥陀如来坐像()」解説

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【浜松市美術館「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展-」3

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[31][左上]方広寺(浜松市北区引佐町奥山1577-1)【重文】「釈迦如来坐像」

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[右上]同【重文】「普賢菩薩坐像()」・【重文】「釈迦如来坐像()」・【重文】「文殊菩薩坐像()1

[左下]同【重文】「同」・【重文】「同」・【重文】「同」2

[中下]同【重文】「同」・【重文】「同」・【重文】「同」解説

[右下]浜松市美術館 本企画展 leaflet

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【平野美術館「院展の俊英たち」展】1

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[32][左上]平野美術館前「院展の俊英たち」展看板前にて

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[右上]同 館内入口にて

[左下]同 本企画展 leaflet

[中下]横山大観(1868-1958)「皓月」1905年頃

[右下]同「怒濤」1899年頃

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【平野美術館「院展の俊英たち」展】2

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[33][左上]冨田渓仙(1879-1936)「石山秋月」1935年頃

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[右上]松本高明(1945- )「花王図」1992

[左下]松尾敏男(1926-2016)「花王」昭和後期

[中下]倉島重友(1944- )「虹」1986

[右下]伊藤髟耳(いとうほうじ(1938- ))「富士」1999

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1102分 浜松市美術館発→一般道28 21km/62km

1130分 浜松市秋野不矩美術館着

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【浜松市秋野不矩美術館「第1回所蔵品展【ゼロ発祥の地インドⅠ 唐混沌と目覚め~】」1

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[34][左上]浜松市秋野不矩美術館 本企画展 案内看板前にて

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[右上]秋野不矩美術館 本企画展 leaflet

[左下]秋野不矩(1908-2001)「廃墟Ⅰ」1989

[右下]同「海辺のコッテージ」1984

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【浜松市秋野不矩美術館「第1回所蔵品展【ゼロ発祥の地インドⅠ 唐混沌と目覚め~】」2

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[35][]秋野不矩美術館前にて1

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[左下]同美術館駐車場脇にあった高名電気鉄道「二俣駅」駅名板

[中下]同「渡河」1992

[右下]同「ガンガー」2000

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【浜松市秋野不矩美術館「第1回所蔵品展【ゼロ発祥の地インドⅠ 唐混沌と目覚め~】」3

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[36][左上]秋野不矩美術館前にて2

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[右上]同「坐す」1953

[左下]同「朝の祈り」1988

[右下]同「三菩薩像」1986

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1156分 秋野不矩美術館発→一般道→浜松浜北IC→新東名→東名→豊川IC(料金900)→一般道 40 55km/117km

1236分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム着

1256分 同所発→一般道→昼食休憩→

1400分 帰宅〔了〕

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【豊川市桜ヶ丘ミュージアム「美術常設展Ⅰ 東三河の風景 1

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[37][左上]豊川市桜ヶ丘ミュージアム 同館入口 本企画展看板前にて

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[右上]同 本企画展 leaflet

[左下]伊與田 正「音羽川の桜」1983

[右下]島田卓二「道」1927

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【豊川市桜ヶ丘ミュージアム「美術常設展Ⅰ 東三河の風景 2

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[38][左上]豊川市桜ヶ丘ミュージアム 館内常設展corner入口にて

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[右上]斎藤吾朗「市田の火まつり」1999

[左下]松井和弘「駒場の池」1999

[右下]道家珍彦「伊良湖岬」1991

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【小生 comment

. 浜松市美術館の企画展で、三河と遠州の古刹にある【重文】クラスの仏像の数々を改めて見ることが出来、心が癒されることが実感出来た

. 企画展の最終日だったが、普段簡単に拝顔出来ない貴重な仏像の数々を確り拝見出来て本当に良かった

. 諸仏の高貴で凛々しい御尊顔をご覧になられた皆さんもきっと小生同様心洗われる思いをされたことと思う

. 又、平野美術館・浜松市秋野不矩美術館・豊川市桜ヶ丘ミュージアムの名画も良かった

. 名画って、ほんといいですネェ!

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■今日も最後は、四季派の詩人「立原道造」「伊東静雄」「三木露風」「北原白秋」4人の名詩と「杉浦民平が語る立原道造の想い出」についてご紹介して締め括ることとする

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【 立原道造「のちのおもひに」「やがて秋‥」】

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. 四季派を立ち上げた丸山薫(1899-1974)、三好達治(1900-1964)、堀辰雄(1904-53)の一回り年少に立原道造(1914-39)がいるので、今日は、立原道造の作品についてご紹介してみたい

. 猶、其の立原道造と東大時代、親交を結んだ友人として地元田原市の文人、杉浦民平(1913-2001)がいる

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[39][左上]立原道造

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[右上]水引草

[左下]草雲雀

[右下]立原道造画『二匹の魚』

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. 夭折の抒情詩人『立原道造』のの略年譜を示すと以下の通り

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1914(大正03) 0730日 旧東京市日本橋橘町に生まれる / 立原家の先祖は水戸藩の儒者と言われる

1927(昭和02)(13) 04月 府立第三中学校(現・両国高校)に入学

1931(昭和06)(17) 03月 府立第三中学校4年修了 /04月 第一高等学校理科甲類に入学 / 11月頃、生涯兄事することとなる堀辰雄の面識を得る

1934(昭和09)(20) 03月 第一高等学校卒業 / 04月東京帝国大学工学部建築学科に入学 / 06月 沢西健らと同人雑誌「偽画」を創刊 / 07月 軽井沢や信濃追分に滞在、軽井沢では室生犀星を識()る / 10月 三好達治、堀辰雄、丸山薫、津村信夫らと共に、第二次「四季」を創刊 / 11月「四季」に初めて詩「村ぐらし」「詩は」を発表

1935(昭和10) (21) 05月 小住宅の設計で辰野賞(()東京帝国大学建築学科が明治10年に発足した時の最初の卒業生である辰野金吾先生を記念して、優績者に授与される)を受賞 / 寺田透らと同人雑誌「未成年」を創刊 / 此の頃、ソネット形式の抒情詩を確立する / 08月 信濃追分滞在中に深沢紅子、今井春枝、横田ケイ子らを識り、また初めて浅間山の噴火を体験

1936(昭和11)(22) 03月 再び辰野賞を受賞 / 12月萩原朔太郎を囲む座談会に出席 / 卒業論文「方法論」を提出

1937(昭和12)(23) 03月 卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出、辰野賞を受賞/ 石本建築事務所に就職 / 7月 第一詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す()』刊行 / 大森の室生犀星宅から事務所に出勤 / 10月、肋膜炎を発症 / 12月『暁と夕の歌』刊行

1938(昭和13)(24) 01月 銀座で『暁と夕の歌』出版記念会 / 07月 設計事務所を病気休職 / 08月 追分に滞在 / 年末にかけて東北、関西、九州などに旅行/ 12月 長崎で喀血

1939(昭和14)(24) 02月 第一回中原中也賞の受賞が決定 / 0329日 血啖による喀啖不能のため死去 /享年満248ヶ月

1940(昭和15) 02月 丸山薫編『暁と夕の歌』が河出書房から刊行

1997(平成09) 0329日 東京都文京区弥生に立原道三記念館が開館

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. 立原道造と同じ「四季」派の三好達治は「詩を読む人のために」にて彼を以下の様に紹介している

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.  のちのおもひに (『萱草に寄す』から)

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. 夢はいつもかへつて行つた 山の麓(ふもと)のさびしい村に

. 水引草に風が立ち([右上]水引草)

. 草びばりのうたひやまない([左下]草雲雀)

. しづまりかへつた午(ひる)さがりの林道を

.

. うららかに青い空には陽()がてり 火山は眠ってゐた

. ― そして私は

. 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

. だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた‥‥

.

. 夢は そのさきには もうゆかない

. なにもかも 忘れ果てようとおもひ

. 忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

.

. 夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう

. そして それは戸をあけて 寂寥のなかに

. 星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

.

. 三好達治は、〔 立原の詩にはいつも、孤独な若者らしい愛情とその青春の絶望とが、ないまぜになって美しい彼の歌を支えている

. 若者は求めるところが大きいから、彼はともすれば傷つきやすく、ともすれば孤独の闇につき放される

. その嘆かいは愚かしく、痛ましく、美しい

. 愚かしさ、―― その単純な、ひたむきな、一本木な勇気こそ、歌の支えでなくて何であろう

. 「のちのおもひに」はそういう若者の心理を、その歌において細緻に写しとっている

. 「―― そして私は 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた‥‥」彼はそれをそのようにいう

. そしてまた「夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう」という

. 彼はやさしげに、弱々しげに、実は圭角(()玉のとがったかど 転じて、言語・行動のかどだって、円満でないさま)を少しも表さないでしかし凛然とそれを歌い放つ〕と、賞賛する

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. 詩人で評論・翻訳家の鮎川信夫(1920-86)は「近代詩から現代詩へ~明治、大正、昭和の詩人~(詩の森文庫)」にて、次の様に述べている

. 〔 立原道造は、中原中也(1907-37)とともに昭和十年代の青春を代表する夭折詩人の双璧と言われる

. しかし、ダダイズムから出発した中原が、青春の放肆(ほうし(()放恣 / 我儘でしまりがないこと))や倦怠や虚無を、様々な形式を用いて奔放にうたったのに対し、立原は青春の美しさ、優しさ、虔(つつま)しさといった感情を、行儀のよいソネット形式でうたい、およそ中原とは対照的な詩風を示している〕

.

.  Ⅱやがて秋‥‥ ~ 『暁と夕の詩』より ~ 

.

. やがて 秋が 来るだらう

. 夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

. 樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

. あらはなかげをくらく夜の方に投げ

.

. すべてが不確かにゆらいでゐる

. かへつてしづかなあさい吐息にやうに‥‥

.   (昨日でないばかりに それは明日)

. 僕らのおもひは ささやきかはすであらう

.

. ―― 秋が かうして かへつて来た

. さうして 秋がまた たたずむ と

. ゆるしを乞ふ人のやうに‥‥

.

. やがて忘れなかつたことのかたみに

. しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

. 秋は‥‥さうして‥‥ふたたびある夕ぐれに ――

. 

. 立原は、現実の人生から独立した美意識を持って詩的イデアを追求した様で、その結果、古典的で優雅な表現形態を完成することができた

. 三好達治とは違った、もっと自然な意味で、最も「四季」的な詩人と言えよう

. 彼は、昭和14年、いわば四季派の最盛期に第1回中原中也賞を受賞後間もなく、24歳の若さで病没した〔了〕

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【筆者comment

. 三好達治が、「立原の詩にはいつも、孤独な若者らしい愛情とその青春の絶望とが、ないまぜになって美しい彼の歌を支えている」と、又鮎川信人が、「立原は青春の美しさ、優しさ、虔(つつま)しさといった感情を、行儀のよいソネット形式でうたい、およそ中原とは対照的な詩風を示している」と評している様に、立原道造の詩には小生が求め続けている「美しさ」が、「愛情」にも「絶望」にも通底して読む者に自然に伝わって来る不思議な魅力を有している

. 印象派の絵画の美しい光と影が、彼の整ったソネット形式の14行詩から溢れて来る様で素晴らしい

. 彼が描いたパステル画(写真[39][右下])も 

. それにつけても、彼の才能を考えると24歳での人生の終焉は早過ぎる

. 惜しまれてならないが、此れも又彼の定められた人生だったのだ

. 立原には、夭逝というカタストロフィ( catastrophe =「悲劇的結末」)があるから、彼の詩が一層輝いて見える!

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【立原道造の淡い Love Romance と 盟友「杉浦民平」】

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. 今日の締め括りは、立原道造の淡いLove Romanceと盟友となった杉浦民平との逸話についてである

. 先ずは、杉浦民平(1913-2001)の略歴から‥

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1913(大正02)年 愛知県渥美郡福江村(現 田原市折立町)に小地主兼雑貨商の長男として生まれる

. 父 太平は、1963(昭和38)年~67(昭和42)年に死去する迄渥美町長を務めた

1926(大正15)年 愛知県豊橋中学校(現 愛知県立時習館高等学校)を四年生修了、第一高等学校へ進学

1936(昭和11)年 東京帝国大学文学部国文学科卒業 / 一年下の後輩、立原道造と一高の短歌会で知り合う

. 共に1935(昭和10)年 同人誌「未成年」発行/同人に寺田透、猪野謙二がいた

. 立原道造は、杉浦の郷里渥美の伊良湖を訪れた

1939(昭和14)年 立原道造(享年24)死去

1940(昭和15)年 堀辰雄・生田勉等と『立原道造全集』(3巻 山本書店)を編纂、立原所有の蔵書整理を行う

. 杉浦は、大学卒業後、出版社等に勤め乍ら、伊 renaissanceの研究を続けた

. 其の成果は著書『ルネッサンス文学の研究』他、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』、『ルネサンス巷談集』、『ミケランジェロの手紙』翻訳、児童文学『ピノッキオの冒険』、『チポリーノの冒険』、『クオレ』等の訳著を著す

1945(昭和20) 04月 帰郷後、25畝の農に親しみ乍ら作家生活を送る

1946(昭和21)年 郷里で短歌会の指導を開始

1947(昭和22)年 野間宏、丸山眞男、生田勉、寺田透、猪野謙二、瓜生忠夫等と「未来の会」を作り、翌年雑誌「未来」発行

1949(昭和24)年 野間宏らの推薦により日本共産党に入党

1952(昭和27)年)から福江町の公選教育委員

1955(昭和30)年 渥美町町議会議員(当選2回、1963年引退)

. 杉浦は、現代、記録文学の実質的創始者として、『台風十三号始末記』(岩波新書 1955年刊(1953年の台風13号による被害と、その災害復興をめぐる騒動を扱った作品))著す

1956(昭和31)年「台風騒動記(山本薩夫監督)」として映画化

1961(昭和36)年 第8回党大会に際し、野間宏・安部公房等と共に党方針に背く声明を出したとして党員権停止の処分に

1971(昭和46)年~72(昭和47)年『杉浦明平記録文学選集』刊行

. 渡辺崋山についても『わたしの崋山』、『崋山探索』、『小説 渡辺崋山』(毎日出版文化賞)、『崋山と長英』、多く著作を刊行

1988(昭和63)年 杉浦は『立原道造詩集』(岩波文庫)を編集刊行

2001(平成13) 0314日 脳梗塞のため死去 / 戒名:文光院釈明道

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. 今日も先ずご紹介するのは、杉浦民平と東大在学時代からの数年間親交を結んだ、中原とほぼ同時代に中原より更に若くしてこの世を去った抒情詩人『立原道造(19140730-19390329)』の作品から‥

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[40][左上]立花道造

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[右上]水戸部アサイ

[左下]夕菅の花

[中下]杉浦民平:大学時代の杉浦()

[右下]「立原道造と杉浦民平~往復書簡を中心として~」leaflet〔立原道造記念館刊〕

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. 添付写真[左上]をご覧ください / 立原道造23歳の時の写真である / 銀座ニュー・トーキョウでの一齣とある

. 旧行融資部(東京)事業調査室時代、東京大手町に勤務していた小生には馴染みがある「ニュー・トーキョー」であり、懐かしく感じられる

. 立原は、何処となく「さだまさし」風の、やさしい雰囲気をもった若者

. 先ずは、彼の情感ある美しい『詩』をご覧下さい

. ソネット形式(14行詩)の素晴らしい詩である

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.    はじめてのものに

.

. ささやかな地異は そのかたみに

. 灰を降らした この村に ひとしきり

. 灰はかなしい追憶のように 音立てて

. 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

.

. その夜 月は明かつたが 私はひとと

. 窓に凭(もた)れて 語りあった(その窓からは山の姿が見えた)

. 部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

. よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

.

. ― 人の心を知ることは‥‥人の心とは‥‥

. 私は そのひとが 蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

. 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

.

. いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

. 火の山の物語と‥‥また幾夜さかは 果たして夢に

. その夜習ったエリーザベトの物語を織った

.

【訳】今朝、浅間の爆発に初めて立ち会った ほんの些細な地球の異変はそのなごりとして灰を降らした

. この村里(信濃追分)に、ひとしきり

. さらさらと軽やかに、その火山灰は ― 遠い日の悲しい過去を思い出させる様なひそやかにかわいた音を立てて

. 山麓の樹木の梢に、家々の屋根に 降りしきった

.

. 旅の私は身に染み入る様な想いで その音を聞いていた その夜は月が明るかった ― 私はある人と楽しい思い出

. 夜の窓に凭(もた)れて、お互いに話し合っていた

. 高原の夜は水の様に澄んで(その窓からは浅間の山容が夜目にしろく見えた)

. しーんとして暗い山中の寂しさにひきかえ、私の部屋一箇所だけ華やぎ、まるでお伽(とぎ)の谷の底にある一軒家の様に部屋の隅々まで暖かい電灯の輝きと

. 若々しく弾んだ笑い声とが満ち溢れていた ― 私は限りない幸福感に包まれていた

. 

. それにしても、人の心を知るということは ― なんと難しく、人の心とは―なんとはかりがたいものなのであろう

. そのときに、私は、その人が ― ちょうどそのときに暗闇から灯を慕って飛んできた蛾を追い払う手つきを ― それとは反対にあれは蛾をとらえようとするのだろうか ― とも思い、その意味がくみ取れなかった ― その夜の私を訪ね、さりげなくふるまっていたその人は心の中で何を思っていたのだろう

. 情熱を追い払おうとしたのか それとも情熱をもとめていたのか 私はただいぶかっていただけだった

.

. いったい、いつの日に浅間は噴きはじめたのだろう その人との楽しい語らいに、その夜はじめて私の胸の中にもそのような異変が起こったが、この山麓には昔からいろいろ悲しい物語が秘められているのであろう

. 火の山の悲しい物語と、果たして―その晩予感したはかなく切ない慕情を繰り広げた

. エリーザベトの物語とがまた幾夜続けて見た夢に織り成されていた

.

【小生comment】此の「はじめてのものに」をはじめ、彼の作品はソネット形式の詩が多く、詠んでいると何処か、ほのかに甘く切ないものが多い

. それが彼の作品の魅力の一つでもあると思う

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【立原道造の「友への手紙」(田中一三あて)】

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. 建築家は、文学家のやうに恵まれた条件ではない条件の下で、仕事をしなくてはならないが、決して良心を失つてはならないと信じます。

. これは僕の半身です。僕の分身は、かうして日夜、ひとりの僕が文学の道に生きてゐるとき、おなじ熱情で、建築の道に生きてゐます。

. 熱情だけはあるが、懶惰がすきなので、寝そべりながら建築の幻想ばかりして、紙の上にする建築も、寡い作品しか持つてゐません。

. そのふたつの分身のすべてをあはせても、もうひとつの大きな分身には及ばない、それは、青年である分身です。この分身だけがほんたうで、あとはディレッタント(()しろうと芸の好事家)だと考へるのかもしれません。

. 実は、この文章書きながら、あまりディレッタント風な思考にいやきがさしてゐるのです。

. 思考といふもの自身が、僕の身にとつてはディレッタントの感慨にすぎないのかも知れません。

. 僕にあるのは、歌と憧憬と遍歴と願望だけで、その他の場所で僕は死に絶えてゐるのかも知れません。

. そして人生にさへ僕は憧憬によつてしか触れてゐなかつたにちがひありません。

. 人生はとほくにしかないものだと! 

. 事実、これが人生だと知つたのは、つい近頃でした。人生とはとほくにはない、いつも僕といつしよにしかゐないのだと!

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. このころの読んでゐる本は、ノヴァリスです。

. 「青い花」のはじめの方をよんでゐます。うつくしい本です。

. 先夜、リリイ・クラウスとゴオルトベルクの演奏でクロイツェルソナタをきき、きらひだつたベエトオヴヹンに親しみを感じました。

. 明夜、フォイアマンがバッハやモツァルトやストラヴィンスキイを奏きます。

. お金の都合がついたら聞きに行きます。

. バッハといへば、ブランデンブルグのいいレコードが出ましたね。

. トラムペットを吹いてゐる美しい部分涙がながれました。

. ピカソの回顧展が、この間小画廊でありました。

. 写真が、年代順に並べられ、そのなかにまざつて、珠玉のやうな版画がありました。

. それを見た日のいろいろな出来事が哀しい人生に触れてゐたため、あのピカソの展覧会はいつまでもきびしい熱い記憶になるでせう。

. またあとでおたよりします。けふはをはり。さよなら。

.

()

1. この「友への手紙」は、昭和11422日、田中一三(かずみ)あてのもの。

2. (1) オオカッサンとニコレット Aucassin et Nicolette 13世紀フランスの作者不明の歌物語

(2)「青い花」Heinrich von OfterdingenDie Blaue Blume1802

(3)フォイアマン Emanuel Feuermann ……アメリカのチェリスト / 晩年のカザルス・トリオに参加

(4)ブランデンブルグ……協奏曲第2番ヘ長調。演奏は、アドルフ・ブッシュ指揮、ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)

3. 田中一三 : 立原の一高時代の友人で、当時京都大学仏文科に在学中 / 田中は昭和13(1938)01月に召集され、昭和1512月、ソ満国境で自決した由

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【筆者comment】この田中一三への「友への手紙」を読み、彼の教養の高さに敬服した

. が、昭和11(1936)年という、今から71年以上も昔ながら、ベートーベンのヴァイオリンソナタをリリー・クラウスとゴルトベルクで聞いたとか、バッハのブランデンブルク協奏曲第二番をブッシュとゼルキンの演奏をレコードで聴いたとか、将又、ピカソの回顧展を「あのピカソの展覧会はいつまでもきびしい熱い記憶になるでせう」と感激している立原は、当時としては飛びぬけて先進的なセンスを持っていたのだと改めて感心した次第である

.

【立原道造の最期と果たされぬ『愛』】

. 三ヶ月の水戸部アサイの献身的な看護に見守られる中で、第一回中原中也賞の受賞を喜び、一度ずつでお仕舞いになる小さな缶詰や五月のそよ風をゼリーにして食べたいと言っていた立原は、

. 「三月に僕は親しかった人はみな死んでゐる / 僕も三月に死ねばいい」

. とメリメの歌について語った処で書いた其の儘に、329日午前220分江古田の東京市立療養所で息を引き取った / 享年24

. 四月六日、自宅で告別式 / 戒名「温恭院紫雲道範清信士」/ 墓所は谷中の多宝院

. 一月後、429日は中原の誕生日で、中也賞発表開催の日であったが、発表と立原追悼とを兼ねた四季社主催の会合が開かれた

.

. 立原の死後、19才のアサイは立原をめぐる文壇の知己達のもとから、一切姿を消してしまう

. 一度だけ、信濃追分の駅のホームに、ひとり佇むアサイの後姿を、立原道造記念館館長の中村真一郎は当時目撃したという

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【筆者comment

. 立原の美しい抒情詩の背景には、水戸部アサイへの熱い想いが少なからずあったものと思う〔了〕

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【杉浦明平が語る立原道造との思い出話】

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[41]立原道造の写真の数々

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. 今日は、杉浦明平が立原道造との思い出話をしている文章を記録してあったので、其れをご紹介して締め括ることとする

. 先日会報にて「『立原道造』と『杉浦明平』」の話をさせて頂きましたが、その後、杉浦氏が「立原」との学生時代のこぼれ話を回想しているのを見つけましたので、今日はまず、「『立原道造』と『杉浦明平』その2」として、これからご紹介します / では、どうぞ‥

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.  * * * * *

.

. 一方、立原道造は生まれつき詩人であった

. 一・七〇メートルで四〇キロそこそこのからだには肉らしい盛上りがなく、皮膚も灰色で、赤い血液が通っていないみたいだった

. そういう体のせいか、はじめからわたしたちのような肉欲とか食欲とか権力欲とかいう世俗的な欲望をほとんどもっていないようだった

. 一しょに上野や浅草や池袋の古本屋を歩きまわったあと、わたしたちは食べもののことでいつも衝突した

. わたしは焼鳥と称する豚の腸とか牛丼とかを食べたいのに、立原はおしるこか蜜豆を食べようと主張した

. むろんアルコール類は一滴もやらない

. それが晩飯なのである

. だから蜜豆屋に入ると、ぜんざいを三杯も食べた

. わたしは辛抱して田舎じるこ一杯をつついているより仕方なかった

. もし食堂に入っても、甘いケチャップをかけたハンバーグステーキか、せいぜいチキンライスくらいしか食べない

.  「何だい、女学生みたいに」とわたしは腹を立ててののしることが多かった

. が、今にしておもうと、譲歩したのは、たいていわたしの方だった

. 杉浦明平「立原道造」昭和398

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【筆者comment

. 杉浦氏の回顧談によれば、立原は所謂「食が細い」人物であった様だ

. 小生、従前の職業柄、沢山の人間と接し、会食する機会を持ったが、卒寿(90)以上の健常者の皆さんは、総じて「食が太い」

. 大食漢とまでは行かないが、確り咀嚼し、偏食せず適量をキッチリ食する

. 見ていて見事なほどに「成程」と頷かせる「高齢者健常者の皆さんの『共通点』」である

. ここら辺りに「健康で長生きする『秘訣』」があるのではないかと思われる〔了〕

.

.   ※  ※  ※  ※  ※

.

. 今日は、此れ迄にご紹介した、丸山薫、立原道造と同じ四季派詩人「伊東静雄(1906.12.10-1953.3.12)」をご紹介したい

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【伊東静雄『わがひとに與ふる哀歌』】

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[42][]逢坂山から琵琶湖遠望

. 

[左下][中下][右下] 伊東静雄

.

. 代表作「わがひとに與ふる哀歌」は、詠めば詠むほど味が出る、正に素晴らしさが実感できる傑作である

. 先ずは詩を詠んでみて下さい

.

.   「わがひとに與ふる哀歌」

.

. 太陽は美しく輝き

. あるひは 太陽の美しく輝くことを希(ねが)

. 手をかたくくみあはせ

. しづかに私たちは歩いて行つた

.

. かく誘ふものの何であらうとも

. 私たちの内(うち)

. 誘はるる清らかさを私は信ずる

. 無縁のひとはたとへ

. 鳥々は恒(つね)に変らず鳴き

. 草木の囁(ささや)きは時をわかたずとするとも

. いま私たちは聴く

. 私たちの意志の姿勢で

. それらの無辺な広大の讃歌を

.

. あゝ わがひと

. 輝くこの日光の中に忍びこんでゐる

. 音なき空虚を

. 歴然と見わくる目の発明の

. 何にならう

.

. 如()かない 人気(ひとけ)ない山に上(のぼ)

. 切に希はれた太陽をして

. 殆(ほとん)ど死した湖の一面に遍照(へんじょう)さするのに

.

【筆者comment

. 一読しただけだと、なんか堅苦しい詩で、女性のことを歌っているんだろうが、何を言いたいのか良く解らないですよね

. でも、この詩を「作者が頭の中で、理想の彼女(その人)と二人で、慎ましやかに琵琶湖近くの山上(『逢坂山』辺り)に上っていく

. 太陽や鳥たち、草木の森羅万象が二人を祝福する様に存在する

.  「二人の愛もこうあって欲しい」と願いつつ、(作者は)彼女の面影を胸に抱き、幸福を実感しつつも微かな将来の不吉を予感し乍ら、琵琶湖の見える方に歩いて行った

. これも若かりし昔日のこと」と想像してみると、状況が目に浮かび、この詩の素晴らしさが段々と解ってきませんか?

.

【訳】

. (其の時、逢坂山の山上に)

. 太陽は美しく輝いて(いた / いや、)

. 或いは太陽の美しく輝くことを願って(いた為)

. 太陽が美しく輝いていた様に

. (思い出されるかもしれない)

. (何ものかに祈りたい様な慎ましい心になって)

. (幻のあなたと)

. 手を固く組み合わせ(‥湖の見える方へ‥)

. 静かに私たちは歩いていった(そういう時)

.

. この様に誘うものが何であろうとも

. 私たちの心の中から(‥自然と)

. 誘い出される清らかなものを私は信ずる

. (清らかな愛は生かされなければならない)

. (ものがあるべき様にあるということは何と好ましいことだろう)

. (全てに満たされて心に痛みを感じない人、こうした祈る様な願いに)

. 関わりを持たない人は、例え ‥太陽が美しく輝き色々な鳥が絶えず鳴いており

. そよ風に草木が囁き交わしていても

. (何とも思いはしないだろう)

. (彼等は例えそうであっても、ままならぬ)

. (私たちにはそれが稀有のことに思われるのだ)

. それらを広大無辺な自然の賛歌として

. 私たちは心から耳を傾けて聞こうとする

.

. ああ わが人(‥永遠の女性よ)

. 輝くこの日光を(‥分析して)

. その中から(‥結局は何の反響もない)

. 空虚に過ぎないものを

. ありありと検出して見せたところ何になろう

.

. それよりも人気(ひとけ)のない山に上り 

.  (‥あなたと唯二人その姿の現れることを)

. 心から願っていた太陽に(‥自分たちの行く手にかげって暗く沈み)

. 殆ど死んでいた様になっていた湖面を一面

.  (明るく生き生きと、まるで蘇った様に)

. 隈なく照らして貰うのが、何よりなのだ

.  (太陽は本来、美しく輝くべきなのだ)

.  (そm其の様に清らかな愛は生かさるべきなのだ)

.  (ああ 切にねがわれた太陽よ、わが愛よ、若かりし日よ)

.

【小生 comment

. 伊東静雄の代表作「わがひとに與ふる哀歌」は、色々なところで紹介されている

. 其処で此れから此の歌の【解説】から幾つかご紹介したい

. まず、保坂弘司・海野哲次郎共著「声で読む入門現代詩」から‥

.

【解説】

.  「伊東静雄の制作年と年齢」

. 第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年刊)

. 詩集の題名となった作品。昭和9(29)「コギト」11月号に発表

. 伊東は大阪府立住吉中学校の国語教師として堺市に在住

.  「わがひと」とは、この詩集を出版した時に

.  「私の詩はいろんな事実を隠して書いておりますので、他人は詠みにくいと存じますが、百合子さんは詠みにくくない筈です

. あなたにもわからなかったら、もう私の詩もおしまいです」(昭和1012日書翰)と書かれているその人で、「その人」の中に「永遠の女性」を見ている

. 作者は幾度か逢坂山を越えて琵琶湖に降りたことがあり、その回想と「わが人」に対する幻想とが錯綜してこの作品を生んだ

.  「感動の中心」

.  「太陽は美しく輝」くべきであり、「鳥々は恒に変わらず鳴き」、清らかな愛は自然に結ばれるべきである

.  「ものが本来あるべき様にある」ことはなんと美しく、願わしいことだろう

. その時、太陽はあるべき様に美しく輝き、鳥々はあるべき様に鳴いていた

. その山上を「二人の『愛』もかくあらむことを切に願いつつ」、「その人」の面影を胸に抱いて、その限りない幸福の行く手に幽(かす)かな不吉を予感しながら、(琵琶)湖の見える方に歩いて行った若かりし日よ

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. 続いては、中西進著「詩をよむ歓び」から‥‥

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. この作者の詩は、つねに敬虔な心を内包した強い意志によって書かれます

. 詩はどこまでも静かで、読む者に生きる力をあたえてくれます

. この詩もそうした詩群の一つです

. 主人公のまわりには太陽が美しく輝き、また輝くことが期待される太陽があります

. これと呼応する最終行も御覧下さい

. 人気に毒されていない山上で湖に遍照する太陽を二人は希っています

. 一編は対立するものを否定しつつ、自らを肯定する形をとります

. たとえば誘うものよりも誘われる清らかさを信ずるとか、鳥や草木は無縁の人には平凡に映るだろうが、われわれには広大無辺の賛歌と聞こえるとかです

. 日光の中の空虚を見るより遍照の光を見たいというのも、その一つです

. ですから一編には強く意志が貫いています

. その中で固く手をくみ合わせた二人の歩みがあります

. 他人の一人とは「わが人」です

. ですから「わがひとに与ふる哀歌」といいながら、けっして悲哀の歌ではありません

. 本当の、物の真実を知ることの悲しみでしょうか

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. 清らかさといい、広大無辺といい(これはよく仏の慈眼についていわれます)、遍照といい(これも仏徳の特徴です)、宗教的な厳粛さも漂っています

. 私はこよなく、この虔(つつま)しい光への希求を尊びます

. そのような意志をもって、宇宙に対していきたいものです

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. 次は、高橋順子編著「日本の現代詩101」から‥‥

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. 最初の7行はいましも厳かな婚礼の式を挙げ、「手をかたくくみあはせ」たカップルの様だ

. だが、8行目「無縁のひとはたとへ」という謎めいて孤立した一行が幸福感に水を差す

. この一行は「無縁のひとはたとへ信ぜずとも」と動詞を補ってみてはどうだろう

. 詩人はそう記すのが堪えがたく、言葉がつまってしまったのではないか

.

. 「私たち」というのは「無縁のひと」と私ということである

. 「私たち」とは言いながら、実際には詩人は一人で、いや別れた恋人の面影と一緒に歩いていったのである

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. 伊東の佐賀高校以来の思慕の対象は、同郷の英文学教授の令嬢((小生注)酒井百合子)だったが、1932年、負債付きの家督を相続したことから恋を断念することになる

. 伊東は負債返済に協力することを約束してくれた女学校教師と結婚し、家長としての義務を果たしたのだった

. このことが伊東の詩に悲哀感と、特異な受動態の使われ方、禁欲的な骨格を与えたものと言われる

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. この詩には第一行から太陽が輝いている

. 鳥たちは鳴き、草木は囁き、「無辺な広大の讃歌」をうたっている

. しかし詩人の心は楽しまず、「無縁のひと」を側に感じている

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. 太陽の光は熱くない

. 「輝くこの日光の中に忍び込んでゐる

. 音なき空虚」とは、太陽の光を喜ばぬ、虚無感の様なものが自分の中にあるということだろうか

. 自分の目ははっきりと見分けてしまうが、それが何になろう、と嘆くのである

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. 最終三行、「如かない‥‥ / ‥‥太陽をして/ ‥‥遍照さするのに」という語法は変わっている

. 漢詩文調であり、翻訳調である

. 意味は、太陽をあまねく照らさせるにこしたことはない、ということだが、もちろん自分が太陽をどうにかできるとは考えていない

. むしろ太陽があまねく照りわたしますように、という祈りがこめられている

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. 詩人は山上で「殆ど死した湖の一面に」日が差すのを待っている

. 終末論的風景であるが、美しい

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. 「近代詩から現代詩へ」の著者鮎川信夫は次の様に言っている

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. 『わがひとに與ふる哀歌』に、まず絶大の賛辞を贈ったのは萩原朔太郎であった

. 彼は、「伊東君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない

. たしかにそこには、藤村氏を思はせる様な若さとリリシズムが流れてゐる

. だがその<若さ>は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に固く踏みつけられ、ねじ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである」と述べ、伊東の詩の発想の特異さにふれている

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【年譜】

. 伊東静雄の略歴をごく簡単に記す

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1906(明治39) 1210日 長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)船越名427番地に生まれる

1929(大正08) (12) 04月 長崎県立大村中学校入学

1923(大正12) (16) 03月 大村中学校4年終了 / 4月 佐賀高等学校文科乙類入学

1925(大正15) (19) 04月 京都帝国大学文学部国文学科入学 / 07月帰省の際、姫路の酒井家を訪問 / 次女酒井百合子17

1929(昭和04) (22) 03月 卒業論文「子規の俳論」首席通過 / 04月 大阪府立住吉中学校に就職

1932(昭和07) (25) 02月 父惣吉死去 / 約1万円の父の負債と共々家督相続  03月 保田與重郎、田中克己ら「コギト」創刊 / 04月 山本花子と結婚

1934(昭和09) (27) 10月 堀辰雄、三好達治ら「四季」創刊 / 11月「コギト」に発表した「わがひとに與ふる哀歌」に萩原朔太郎が賞賛の手紙を寄せる

1935(昭和10) (28) 10月『わがひとに與ふる哀歌』をコギト発行所より300部刊行 / 11月 東京新宿で出版記念会開催 / 散会後、中原中也宅に一泊して帰阪

1936(昭和11) (29) 03月『わがひとに與ふる哀歌』第二回文芸汎論賞受賞

1939(昭和14) 03月下旬上京 / 萩原朔太郎を訪問 / この上京中、立原道造の死に会う

1941(昭和16) (34) 01月「四季」同人となる

1944(昭和19) (37) 05月 三島由紀夫、伊東を住吉中学校に訪問 /「花ざかりの森」をめぐって歓談

1949(昭和24 (42) 06月 肺結核を発病 / 10月入院

1953(昭和28) (46) 02月 突然大喀血、急遽衰弱し、312日午後742分永眠 / 諫早の広福寺に葬る

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【小生 comment

. 小生、此の伊東静雄の此の『わがひとに與ふる哀歌』が大好きで、何度となく読んだものだ

. 名詩は、ホントいいですネェ!〔了〕

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. 今日は、三木露風の赤とんぼをご紹介したい

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[43][左上][右上]赤とんぼ

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[左下]三木露風の故郷たつの市の龍野城跡

[中下]三木露風

[右下]三木露風の故郷、たつの市の街並

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. 小生が思うに、白秋以上に、山田耕筰と日本の童謡の傑作沢山創作した三木露風の作品から、殆ど全てと言って過言でない程日本人に「日本人」である矜恃と郷愁を、高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「故郷」と共に呼び起こさせる作品「赤とんぼ」をご紹介する

. 三木露風(1889.06.23-1964.12.29)は兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市、現在のたつの市)出身の詩人

. 本名は三木操(みき みさお)

. 早稲田・慶応の文科をともに中退した

. 相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成

. 詩集『誌園』が、北原白秋の『邪宗門』と並び称され「白露時代」を現出

. 童謡は「赤とんぼ」のほか、「かっこう」「十五夜」「春が来た」などがある

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.     * * *

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.  「赤とんぼ」(三木露風作詞、山田耕筰作曲)

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. 夕焼小焼の赤とんぼ

. 負われて見たのは、いつの日か

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. 山の畑の桑の実を

. 小籠に摘んだは まぼろしか

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. 十五で姐やは、嫁に行き

. お里のたよりも、絶えはてた

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. 夕焼小焼の赤とんぼ

. とまっているよ、竿(さお)の先

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【解説】

. 母と祖父、露風はこの二人から大きな影響を受け成長していく

. 母が家を出て行ったのは、露風が7歳の時

. 原因は父が仕事をせずにだらしがない生活

. 両親は離婚し、露風は祖父の家に引き取られる

. この出来事は、生涯、露風のトラウマとなった

.  「母」への想いはつのるばかりだったが、母は二度と帰っては来なかった

.  「赤とんぼ」は、そんな露風のさびしい幼年時代を歌った詞だ

. 見霽(みは)るかす平野に無数の赤とんぼが飛ぶ夕暮れ

. 母が去った後、露風をかわいがってくれた姐や

. 此の歌はこうした実体験から生まれたものであった

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.  「赤とんぼの思ひ出」で三木露風は、次の様に述懐している‥‥

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.     * * * * *

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. 私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた

. それは童話の題材として適当であると思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである

. その私の思ひ出は、実に深いものである

. ふりかへって見て、幼い時の自己をいとほしむといふ気持であった

. まことに真実であり、感情を含めたものであった

. 思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう

. 幼年の時故郷にいない者は稀である

. 幼年と故郷、それは結合している

. であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである

. 私は多くの思ひ出を持っている

. 「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった

. 「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである

. 私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた

. その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである

. 「赤とんぼ」を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である

. さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすることである

. それらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである

. (日本童謡全集 昭和12年 日本蓄音器商会より)

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【小生 comment

. 名詩って、ホントいいですネェ‼️〔了〕

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.   ※  ※  ※  ※  ※

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【北原白秋(1885.01.25-1942.11.02)「この道」他】

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. 白秋というと、山田耕筰との童謡に数多くの名曲を残している

. 今日は、その中から「この道」をご紹介する

. 此の詩は、北原白秋が40歳の1925(大正14)年 仲間と旅行した北海道札幌の思い出(1-2)の道に、1904(明治37)年 上京して早稲田大学英文科予科に入学する前迄の幼少〜学生時代を過ごした故郷、福岡県柳川時代の思い出(3-4)の道の image を重ね合わせ 1926(大正15)年に書かれた作品

. 郷愁を感じさせる名詩・名曲である

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.  この道  (北原白秋作詞、山田耕筰作曲)

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. この道はいつか來た道

. ああ、さうだよ。

. あかしやの花が咲いてる。

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. あの丘はいつか見た丘

. ああ、さうだよ。

. 白い時計臺だよ。

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. この道はいつか來た道

. ああ、さうだよ。

. お母さまと馬車で行ったよ。

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. あの雲もいつか見た雲

. ああ、さうだよ。

. 山査子(サンザシ)の枝も垂れてる。

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[44][左上]あかしや の花

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[右上]山査子 の花

[左下]拙宅の庭の片隅に咲くドクダミの花

[右下]「青みて迫る 君がまなざし」の image 写真

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.  どくだみの 花のにほひを 思ふとき

.   青みて迫る 君がまなざし

.               北原白秋『桐の花』

.           (1913(大正02)0125日刊)

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. 小生、北原白秋が28歳の時に詠んだ此の妖艶な歌にいつも酔わされる

. 因みに、白秋のいう「君」は思いを寄せていた人妻の俊子のこと

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. 名詩や名歌は、歳月が経っても色褪せない!〔了〕

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. では、また‥〔了〕

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