2020年6月3日水曜日

【時習26回3−7の会 0814】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第32回/第301句~310句〕」「05月30日:松平郷『松平東照宮』→『高月院』→『上野上村城址/榊原康政生誕之地』→『大久保平八郎忠勝誕生地』→『大樹寺』→『井田城趾/酒井忠次生誕地』→『伊賀八幡宮』を巡って」「小生の昔の想い出写真集『1968年【豊城中学入学】→1973-74年【時習館高校3年7組】→1982-85年【旧行仙台支店(得意先係→1983.11-84.03【融資部事業調査室研修】→融資折衝)】→1986-91【融資部(東京)事業調査室】& Omnibus『1980-82年【堀田支店】・【仙台支店】・【時習26回1年4組クラス会】』」「1986年【「私の提案」で『頭取表彰』受賞】」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0814】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第31回/第301句~310句〕」をご紹介する。
 
301 (たけ)の子()に行燈(あんどん)さげてまはりけり  長虹(1)
 
【意】竹の子が芽吹く頃、携行用灯火の行灯を下げて夜の見回りだ〔←泥棒対策?/ 状況視察?〕
【解説】季語:竹の子=初夏 / 貞門俳諧の「抜くなとの札を竹の子の守(まもり)かな」を踏まえた句か‥
(1)長虹(ちょうこう(生没年不)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺)/ 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.08.15(貞亨050720)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
 
302 (たけのこ)の時(とき)よりしるし弓(ゆみ)の竹(たけ)  去来(1)
 
【意】「栴檀は双葉より芳し」(2)というが、弓になるような優れた竹は、竹の子の時から育ち方に勢いがある
【解説】季語:笋(たけのこ)=初夏 /
(1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
(2)「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)(【意】大成する者は小さい頃から優れているものだ)」でいう【栴檀】は「センダン」ではな「【白檀(ビャクダン)】のこと /「ビャクダン」はビャクダン科の半寄生の熱帯性常緑樹 / 爽やかな甘い芳香が特徴 / 香木として利用される
 
303 (きき)(=)ればたゝくでもなき水鶏(くひな)(1)(かな)  野水(2)
 
【意】水鶏が鳴く声がしたので、「叩(たた)く」と言う鳴き声を聞こうと待っていたが聞こえなかった
【解説】季語:水鶏(くいな)=三夏 / 水鶏(クイナ)が鳴くことを「叩(たた)く」と言う
(1)水鶏(くいな):ツル目クイナ科の鳥の総称 / 日本で古来、クイナの鳴き声を「叩(たた)く」と表現した
(2)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
 
304 五月雨(さみだれ)に柳(やなぎ)きはまる汀(みぎは)かな  大津 一龍(1)
 
【意】降り続く五月雨に川が増水して、岸辺の柳の根方まで水が来た / 最早、柳の運命は窮(きわ)まった
【解説】季語:五月雨=仲夏 / 柳に対して「窮(きわ)まる」と表現した処が此の句の工夫
(1)一龍(いちりゅう(生没年不詳)):近江国大津の人 / 詳細不詳
 
305 この比(ごろ)は小粒(こつぶ)になりぬ五月雨(さつきあめ)  尚白(1)
 
【意】長雨が続く五月雨には閉口する / が、よく眺めてみれば此の頃は雨粒も小さくなって来た
【解説】季語:五月雨=仲夏 / 長雨にうんざりする気分を、慰めになるぬ理由を見つけて慰めにする / 作者の苦笑が窺われる句
(1)江佐尚白(えさ しょうはく(?)-1722.08.30(享保070719)):江左氏 / 千那の親友で1685(貞亨02)年以来の近江蕉門膳所の人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 後年、此の書物の出版をめぐり師弟間が事実上崩壊 / 其の間の事情は、千那宛書簡四 1691.11.17(元禄040928)に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡 1693.06.07(元禄060504)に窺われる / 句集『弧松』・『夏衣』等もある
 
306 五月雨(さみだれ)は傘(かさ)に音()なきを雨間(あまま)(かな)  亀洞(1)
 
【意】今日の雨は差した傘に当たる音がしない程の細かな雨粒だ / 雨降りが続く梅雨時では、此れを「晴れ間」ならぬ「雨間(あまま)」と言うのかな
【解説】季語:五月雨=仲夏 /
(1)武井亀洞(たけい きどう)(?)-1687(貞亨04)11)):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越人の弟子と云われる / 『あら野』・『庭竈集』等に数多く入句
 
  岐阜にて(1)
 
(1)1667(寛文07)年 玉海集追加に「濃州長良河にて十二艘の舟ごとに、をの/\十二羽づゝつかひ侍るをみて」を【詞書】として出る / 十二艘十二羽が当時の常態であった様だ
 
307 おもしろうさうし(1)さばくる(2)鵜縄(うなは)(かな)  貞室(3)
 
【意】鵜飼の面白さは鵜が魚を捕まえる場面なのだが、私は12本の鵜縄を見事に操る鵜匠の縄さばきこそ面白いと思う
【解説】季語:鵜縄=三夏 /岐阜で鵜飼を見たときの句 /
(1)さうし:「三四(そうし)」と書き、鵜匠が持つ縄の数が「三四(3×4)」=12本と洒落た言葉
(2)さばくる:取り扱う
(3)安原貞室(やすはら ていしつ(1610-73.02.07)(享年64)):江戸前期の俳人。名は正章(まさあきら) /号は一嚢軒・腐俳子など / 京都の人で紙商。松永貞徳の高弟 / 松江重頼との論争は有名。貞徳没後はその俳統の相続者のように振舞った / 編著「玉海集」・「正章千句」・「かたこと」など / 芭蕉の師の北村季吟は貞室の門弟から貞徳の門に入った
 
  おなじ所(ところ)にて
 
308 おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)(かな)  芭蕉
 
【意】鵜飼は闇夜に、篝火に魚を集めて獲るので、月が昇れば終了する / 謡曲では、月夜になったことを「かなし」と言っているが、十分に鵜飼の面白さを魅せられた私には「感極まりて哀情多し」(秋風辞/前漢・武帝)(1)の「かなしさ」だ
 
  秋風辞 前漢 武帝〔156B.C.-87B.C.

1】秋風起兮白雲飛 /【2】草木黄落兮雁南歸 /【3】蘭有秀兮菊有芳 /【4】懷佳人兮不能忘
5】泛樓船兮濟汾河 /【6】橫中流兮揚素波 /【7】簫鼓鳴兮發棹歌 /【8】歡樂極兮哀情多
9】少壯幾時兮奈老何
 
1】秋風(しゅうふう)(おこ)て 白雲(はくうん)飛び /【2】草木(そうもく)黄落(こうらく)して 雁(かり) 南に歸る /【3】蘭(らん)に秀(はな)有り 菊(きく)に芳(かほり)有り /【4】佳人(かじん)を懷(おも)ひて 忘るる能(あた)はず
5】樓船(ろうせん)を泛(うか)べて 汾河(ふんが)を濟(わた)り /【6】中流に橫たはりて 素波(そは)を揚()ぐ /【7】簫鼓(しょうこ)鳴りて 棹歌(とうか)を發す /【8】歡樂(かんらく)(きはま)りて 哀情(あいじょう)多し
9】少壯幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん
 
《意》
1】秋風が立って白雲が飛び /【2】草木は黄色く枯れ落ち、雁が南に帰る /【3】蘭(=藤袴(フジバカマ))や菊が香る此の季節 /【4】佳人が思い起こされ忘れることが出来ない
5】樓船(2階建の船)を浮かべて汾河を渡り /【6】中流に横たわり白い波を上げる /【7】船内は笛や太鼓が鳴り響き歓楽が極まる中で /【8】何故か哀しい気持ちが沸き起こって来る
9】若く血気盛んな時代はいつ迄もは続かない、老いていく此の身をどうしようもない
 
【解説】季語:鵜舟=三夏 / 1688(貞亨0506(45))岐阜にての作品 / 殆ど謡曲『鵜飼』を下地にした句 / 其れだけに作為を感じるが、此の句に深みがあるのは、上記の前漢・武帝「秋風辞」を踏まえていることも大きい / 芭蕉作品中の最高傑作の一つとも言われている / 又、前句、松永貞徳の「おもしろうさうしさばくる鵜縄哉」の影響下にもある
 
  おなじく

309 ()のつらに篝(かがり)こぼれて憐(あはれ)(なり)  荷兮(1)

【意】水中に潜り喉一杯に鮎を呑み込んだ鵜が船端に帰って来た / 舳先(へさき)に焚いた篝火が鵜の顔を照らし出す / 其の律儀な顔つきを見ると何故か鮎の一所懸命さに心が揺さぶられる

【解説】季語:鵜=三夏 /
(1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
 
  同
 
310 (こゑ)あらば鮎(あゆ)も鳴(なく)らん鵜飼舟(うかひぶね)  越人(1)
 
【意】(前句を受けて‥) 過酷なのは鵜ばかりではない / 鵜飼に拠って塩焼きにされて仕舞う鮎も可哀想なものだ / もし鮎に声が出せたらきっと大声で泣くことだろうヨ
【解説】季語:鵜飼舟=三夏 /
(1)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第33回/第311句~320句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いては、0530()に、徳川家康(1543-1616)Roots松平郷『松平東照宮』→同左『高月院』→徳川四天王『榊原康政(1548-1606)生誕之地/〔上野上村城址〕』→徳川四天王『大久保平八郎忠勝(1548-1610)誕生地』→徳川氏菩提寺『大樹寺』→徳川四天王『酒井忠次(1527-96)生誕地〔井田城趾〕』→徳川家累代の祈願所『伊賀八幡宮』を巡って来たことについてお伝えする。
 其の日はいつもよりゆっくり起きた
 
0700分 腹筋2000
0800 2.5kg木刀素振り60
0905分 入浴→朝食→
0943分 拙宅発→一般道→豊川IC→東名高速→豊田JCT→東海環状自→豊田松平IC 7264.2km
1055分 松平郷駐車場着
 
[01]松平郷駐車場の松平郷史跡観光案内図の前にて


【松平東照宮】
 
[02]松平東照宮鳥居前にて
                  
[03]同宮 本殿前にて1

[04]同宮 石碑前にて
                  
[05]同宮 由緒書横にて

[06]同宮 本殿前にて2
                  

【松平東照宮から高月院への逍遥】

[07]国指定史跡「松平氏遺跡」案内板

[08]松平親氏像前にて
                  
[09]松平親氏像の横顔

[10]散策路の美しい花木〔空木(うつぎ)の花〕
                  
[11]同上にて

[12]散策路の菖蒲(あやめ)
                  
[13]同上にて1

[14]同上2
                  
[15]散策路の築地塀の際に咲く山法師の花

[16]散策路の新緑と細流(せせらぎ)
                  

【高月院】
 
[17]高月院 山門前にて1

[18]同 同上2
                  
[19]同 解説板

[20]同 山門を入って本堂を望む
                  
[21]同 本堂前にて


1213分 松平郷駐車場発→一般道 17.4km 32分→
1245分 徳川四天王『榊原康政生誕之地』着
 
【上野上村(うえのかみむら)城址】
 
[22]『榊原康政生誕之地碑』前にて
                  
[23]上野城絵図

[24]上野城址(上野上村城址)解説板
                  
[25]同所にて

[26]【榊原康政生誕之地碑】としてGoogle Mapにある
                  

 徳川四天王の一人【榊原康政生誕之地】として知られる。
 現在の上野上村城址は、上郷護国神社となっている。
 城址の一角には「城山稲荷社」もある。
 榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護を務めた仁木義長の子孫。松平氏譜代家臣で上野上村城主酒井忠尚(酒井忠次の叔父)に仕える陪臣。
 
1548(天文17)年 榊原長政の次男として三河国上野郷(現・豊田市上郷町)に生まれる
康政は幼くして松平元康(後の家康)の小姓となる
  三河一向一揆平定に従軍、家康から武功を賞されて「康」の字を与えらる
1566(永禄09) 19歳で元服 / 同年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢される
  以後家康の側近にあり、旗本部隊の将として活躍
  姉川、三方ヶ原、長篠と幾多の合戦で戦功を上げた
1582(天正10)年 本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行
1584(天正12)年 小牧長久手の戦で秀吉の甥秀次の軍勢をほぼ壊滅に、森長可、池田恒興を討死させた
1590(天正18)年 小田原の役で徳川軍の先手を務める
同年、家康が関東に移封に伴い上野国館林城(群馬県館林市)に入封
  彼は、本多忠勝と共に家臣中第2位の10万石を与えられる
1600(慶長05)年 関ヶ原の戦では主力徳川秀忠軍に軍監として従軍
1606(慶長11) 0514日に館林にて死去 / 家督は三男康勝が継ぐ
 
1303分 徳川四天王『榊原康政生誕地』発→一般道 174.7km
1320分 徳川四天王『本多平八郎忠勝誕生地』着

【本多平八郎忠勝誕生地】

[27]『本多平八郎忠勝誕生地』石碑前にて1


[28]同上2
                  
[29]『本多平八郎忠勝誕生地』解説板

[30]『本多平八郎忠勝誕生地』所在地を示す Google Map
                  

 本当に民家の庭の一角に石碑が立ててあった。
 其のお宅のご夫婦が庭に出ていたので、記念写真撮影の了解を頂戴して撮った写真が上記のものである。
 石碑傍らの岡崎市史跡指定文化財の解説板(添付写真[29])には、次の様に記されてあった。
〔昭和370615日指定〕
 
「〔前略〕本多氏は松平二代康親(ママ)に仕えて以来、代々殊功をあげた。祖父忠豊、父忠高の時代には蔵前に居住し、天文17(1548)年ここで生まれたとされている。
〔中略〕生涯で57回の合戦に出陣したが、ただの一度も負傷しなかったといわれている。家康の家臣の中でも抜群の戦上手であり、桶狭間の合戦から大阪冬の陣まで家康と共に全ての戦を戦い抜き、開幕時には桑名10万石が与えられた。以後子孫は、姫路藩、浜田藩等を経て、明和06(1769)年、岡崎藩に封じられ、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地を治めた〔後略〕」
 
1332分『本多平八郎忠勝誕生地』発→一般道 102.1km
1342分 大樹寺駐車場着
 
【大樹寺】
 
[31]大樹寺 山門前にて1

[32]同 眺望ライン解説板〔大樹寺の「山門」→「総門」(現・大樹寺小学校南門)→「岡崎城天守閣」が見える〕
                  
[33]同 山門前にて2

[34]同 山門から総門越しに岡崎城天守閣が見える1
                  
[35]同上 拡大(zoom up)写真

[36]大樹寺 本堂前にて1
                  
[37]同 同上2

[38]同 沿革 解説板
                  
[39]同【重文】多宝塔

[40]同 同上を back
                  

 文明07(1475)年、松平四代親忠(ちかただ)が、勢誉愚(せいよぐ)上人を開山に創建した、松平家と徳川将軍家菩提寺である。
 境内に入り、「本堂前から後ろを振り返ると「山門→総門」越しに『岡崎城』が見える」と言われていたので、実際にそうしてみたらその通りお城が見えた。〔添付写真[34][35]参照〕
 本堂から墓地を通り抜け北に行った所に『松平八代廟所』がある。
 先述の四代親忠が大樹寺創建時に先祖三代〔[1]親氏 [2]泰親 [3]信光〕を移祭したのが始まり。
 徳川二代将軍秀忠が、家康公一周忌に〔[4]親忠 [5]長親 [6]信忠 [7]清康 [8]広忠、の墓を加え〕先祖松平八代の廟所を再建。
 昭和44年、岡崎市民により家康公の遺品を納めた墓と顕彰碑が建立された。
 また、境内の南西方角に大樹寺の中で最も古く品格ある建物『多宝塔』(天文04(1532)年清康が建立)がある。
 
【大樹寺/松平八代墓】
 
[41]大樹寺「史跡 松平八代墓 八基」解説板

[42]同 同所を back
                  
[43]同「松平八代墓」初代親氏公墓所横にて

[44]同「家康公の墓碑建立の趣意」碑
                  
[45]同「松平八代墓」初代家康公墓碑横にて


1502分 大樹寺発→一般道 101.6km
1512分 井田城趾/徳川四天王『酒井忠次生誕地』着

【井田城趾/徳川四天王『酒井忠次生誕地』】
 
[46]井田城趾にある「白山稲荷」鳥居前にて
                  
[47]井田城趾碑前にて1

[48]同上2
                  
[49]井田城趾/晴明白龍大神縁起碑

[50]同所にて
                  

 酒井忠次について「岡崎史跡と文化財めぐり」(同左編集委員会編)で次の様に説明している。
「松平初代親氏は、松平太郎左衛門信重の女(むすめ)婿になる前に酒井広親をもうけ、酒井家はそれ以来松平氏・徳川家の最も古い譜代となった。広親の子より「左衛門尉家」「歌楽頭」の二流にわかれ、「左衛門尉家」は三代信光の岩津進出と共に、広親の子氏忠・忠勝・康忠・忠親、更に家康四天王の忠次まで五代の居城となった。

 忠次は大永07(1527)年井田城内で出生、松平広忠の妹碓井(うすい)姫を妻とし、家康の惣先手(そうさきて)大将として武勇を轟かせた。慶長元(1596)年京都で没した。〔後略〕」
 
1523分 井田城址発→一般道 121.5km
1535分 伊賀八幡宮駐車場着
 
【伊賀八幡宮】
 
[51]伊賀八幡宮「略記」板横にて

[52]同 随神門を back
                  
[53]同【重文】「神橋」(手前)&【重文】「随神門」()

[54]同【重文】「随神門」
                  
[55]同「拝殿」を back


 社伝によれば、後土御門天皇の文明02(1470)年、松平四代親忠が松平家の氏神として、武運長久、子孫繁栄を祈願する為、社を伊賀より三河国額田郡井田村(現在地)へ移したのに始まる。
 伊賀に因み伊賀八幡宮と呼び、地名を伊賀と改めた。
 永禄09(1566)年家康は、徳川復姓の許しと三河守に任ぜられたことを喜び、社殿を造営し、神殿の戸帳にその姓名を自筆して献納した。〔中略〕
 寛永13(1636)年、三代将軍家光が〔中略〕造営したのが今の社殿である。〔後略〕
 余談だが、伊賀八幡宮に国の【重要文化財】(=本殿・幣殿・拝殿・附宮殿1基・棟札4枚・透塀・御供所・随神門・神橋・鳥居etc.)が多い。
 
1604分 伊賀八幡宮駐車場発→一般道 6136.2km
1705分 帰宅〔走行距離計 127.7㎞〕〔了〕
 
【小生 comment
 上記記事を読んだ大学弓道部時代の同期のFacebook のお友達が次の様にcommentをくれた。
「岡崎で生まれ育ったのに、行ったことのない地もあれば、行ったことは覚えていても、あまり記憶に残っていない所もあるものだなあと思っています。自分の行動範囲が狭かったのですね。豊橋に来てから、もう岡崎時代の倍の年月を過ごしています。その豊橋でも、まだまだ面白い所が沢山あるはずなのに、行けてない。外出自粛も緩和されたし、どこかへ行ってみようかな」と。
 此れに対し、小生は以下の様に回答した。
「一度しかない人生、豊富な経験は、セレンディピティ(serendipity(=素敵な偶然との遭遇))もあって、視野が広がり判断力がより付き楽しくなると positive に考えて行きましょう!
 小生の場合は、昔からあった「好奇心」「知識欲(←特に歴史)」「健康長寿志向」「(芸術文化への)美的探究心」が、半世紀近い銀行員(資金係・得意先・融資折衝・業界調査マン・MOF&日銀考査P/T・秘書室員(内外役員対応・高級料亭宴席準備)・小中大夫々の規模の営業店経営(120人を超えるパートさん管理やほぼ毎日発生した苦情処理etc.)時代やホテルマン(出向)・旧第三セクターの企業経営、等々の経験を経て、乏しかった行動力が否が応でも醸成されて来たのかも‥ネッ」

 神君家康公所縁の地を巡り、彼の素晴らしい霊力で以て新型コロナウィルスを一日も早く退散させ、安全で安心して暮らせる日が到来する様に、「松平東照宮」「高月院」「大樹寺」「伊賀八幡宮」に祈って来た〔了〕

■今日最後の話題は、「小生の昔の想い出写真集『1968年【豊城中学入学】→1973-74年【時習館高校37組】→1982-85年【旧行仙台支店(得意先係→1983.11-84.03【融資部事業調査室研修】→融資折衝)】→1986-91【融資部(東京)事業調査室】& Omnibus1986年【頭取表彰】・1980-82年【堀田支店】・【仙台支店】・【時習2614組同窓会】』」をお届けする。

 0527日、勤務先から帰宅したら、学生時代の写真が見たくなり、Album を紐解いてみた。
 
【学生時代の思い出の写真】
 
[56]19684月 豊城中1年入学の頃の小生
                  
[57]19734月 時習館高等学校【3-7 Classmates 一覧

[58]1973年春 同 名古屋・東山公園にて
                  
[59]同上 担任の故・鉄三先生(当時30歳前後)

[60]【左】19741月大学受験用に撮影
                  
↑↑【右】19743月大学入学手続用に撮影

 此の背広姿の写真を入学手続用に提出したら、N大学の受付係の女性が「失礼なことを伺いますが、あなた(=小生)は本当に18歳ですか?」と尋ねられて言葉がなかった!
 小生「じゃあ、幾つに見えますか?」と尋ねたら、受付嬢「申し上げていいですか? 25歳」、小生「絶句!」
 
【馬上少年過ぐ / 旧行仙台支店時代〔得意先担当時代の小生〕】
 
[61](左上)1982年当時の旧行仙台支店在勤時代に撮影した仙台駅青葉通口 pedestrian deck から青葉通りの旧東海銀行仙台支店周辺

 ↑↑写真5枚は、(左上)1】仙台駅 pedestrian deck から時計回りに、(右上 )2】旧・東海銀行仙台支店、(右下)3】旧東海銀行仙台支店、(左下)4】仙台駅 pedestrian deck から青葉通りを望む、(左中)5】青葉通りの北側から旧・東海銀行仙台支店がある方面を望む
 ↑↑(右上)上記[61]の写真【2】の現在の写真(Google Mapから転写)
 ↑↑(右下)上記[01]の写真【3】の現在の写真(同上)
 ↑↑(左下)19825月に旧行仙台支店着任後、間もない頃、青葉城跡の伊達政宗像の前にて
   ↑↑得意先担当当時、毎週()()()に、青葉城本丸会館に集金訪問していた頃、休暇に撮影
 
 此の頃は、まだ伊達政宗が作った此の「馬上少年過ぐ」を知らなかった。
 
 馬上少年過 / 世平白髪多
 残躯天所赦 / 不楽是如何
 
 馬上少年過ぐ / 世平らかにして白髪多し
 残躯(ざんく)(てん)の赦す所 / 楽しまずして是を如何にせん
 
《意》
 馬上で戦場を駆け巡った若かった青春時代は遠く昔日のこととなった
 今や天下泰平 / 私もすっかり白髪頭になって仕舞った
 残りの人生も少なくなった吾が身の処し方くらい、天も許して下さる
 楽しまないでどうしようというのだ
 
【小生 comment
 此の名句の意味が、最近実感できる年代になった様な気がする
 
 小生、仙台支店着任後の経歴は‥
11982.05-83.11 仙台支店得意先係〔担当area : 仙台市南部〜福島県境〕
21983.11-84.03 【 融資部(東京)事業調査室研修(仙台支店所属の儘)

[62]198312月 事業調査室研修時代のChristmas会にて
                  

 Christmas会は都内の銀座にて、融資部(東京)企画 Group & 同部()事業調査室員の皆さんと開催
 定期券は、研修時代の4ヶ月間寝泊りした旧行下高井戸単身寮から大手町の東京本部迄の都営新宿線と地下鉄東西線の定期券( 59: 昭和59年のこと!)
 研修は、企業財務分析〔‥(1作目)有価証券報告書を用いた上場会社2社比較分析、(2作目)取引先個別企業の企業分析(業界動向・財務分析・当該企業訪問 hearing⇨当該企業信用判定発表会(=事業調査室長以下室員全員の前にて発表講評)‥〕
31984.03-86.05 仙台支店融資係融資折衝

 研修終了後に転勤と思いきや、原店復帰だった。
41986.04-91.02 融資部(東京)事業調査室〔1988年に事業調査室にて役付となった〕
1986.04-88.05 石油・石油化学・医薬品、各業界調査担当
1988.05-89.05 鐵、非鉄金属・ノンバンク、各業界調査担当
1989.05-91.02 建設・不動産業界調査担当
 Bubble の真っ最中から崩壊する頃にかけての企業分析は、営業店から審査 section に上がってきた稟議書に、審査役が判断する根拠となる事業調査室に拠る「信用判定」意見を付す作業に没頭した。
 今だから言えるが、寸暇を惜しんでの作業は、大手町の本部に7回程、完全徹夜した経験がある。
 
1982-86年:旧行仙台支店 融資折衝時代の小生】
 
 撮影場所は、勤務先の旧行仙台支店の中で‥
 
[63]融資折衝席にて

[64]融資・ローン折衝席の面々〔後ろから2人目が小生〕
                  
[65]198514日 仙台支店にて融資係の皆さんと

[66]1984年 仙台支店皆さんと
                  

【旧行融資部(東京)事業調査室時代〔1986-92〕】
 
[67]東京大手町にあった旧行融資部(東京)事業調査室時代の小生               


 同部企画 Group Fさんと、我々の左手奥には、お世話になった今は亡きH事業調査室次長

[68]事業調査室の隣の島にあった融資部(東京)企画 Group と事業調査室の皆さんとの snap shot
                  

 1991.02 融資部(東京)事業調査室から係替えで、融資部(名古屋本部)企画 Group 所属 大蔵省(当時)検査部検査〔通称 : MOF(モフケン)〕対応 貸出資産査定対策 project teamTV drama『半沢直樹』の世界‼〕の発令を受けて名古屋へ。
 
Omnibus20歳代の想い出】
 
 一昨日から、昔の銀行員時代の思い出の写真をテーマ別にお届けして来た。
 其の結果、捨てがたい思い出の写真が5枚残って仕舞ったので無理矢理 Omnibus にしてご紹介する。
 
[69]小生の「20歳代の想い出」写真

↑↑【1(左上) 堀田支店時代(1980-82)の店内旅行『余興/二人羽織』
↑↑【2(左下) 同上の snap shot / Facebook お友達Yさんも
↑↑【3(右上) 仙台支店(1982-86)の取引先を招いての麻雀大会にて
↑↑【4(右中) 仙台支店時代に生まれた長男と、蔵王遠刈田温泉の絶景の紅葉を back
↑↑【5(右下) 時習2614組クラス会にて〔←正確な撮影年月は不明〕
 写真【5】の右端は、担任の広田先生
 東京教育大学卒の先生は、碩学で授業も wit と洞察力に優れてなかなか面白い話をして下さった
 
1986年:「私の提案」で『頭取表彰』受賞】
 
[70]「私の提案」頭取表彰式での記念写真
                  

 もう既に東京本部の融資部事業調査室に勤務していた1986(昭和61)年だったと思うが、仙台支店在勤時代に「私の提案」制度に応募して受賞した際、名古屋本部の頭取室にて受賞式が開催された。
 写真は、受賞者が、加藤頭取(前列中央)、小林副頭取(同左)、佐治取締役融資部長(同右)と一緒に記念撮影した時のもの。
 小生は、凄く緊張して頭取と佐治部長の間の後方に立っている。
 此の時は勿論、其の日から数えて6年後(1992(平成0411)に此の頭取室のある秘書室勤務となるとは夢にも思っていなかった‥
 では、また‥〔了〕

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