2019年8月29日木曜日

【時習26回3−7の会 0772】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第10回〕」「08月24日:『高天神城跡』→『横須賀城跡』→『法多山尊永寺』→『遠江国分寺後』→平野美術館『栗原幸彦』展を巡って見て」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0772】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第10回 / 追加 三月十九日舟泉亭(連句 全6句)〕をお届けする。
 
    追加
 
   三月十九日 舟泉(注1)亭
 
(注1)舟泉(しうせん):(-1737.10.27没(享年84歳))/三河国挙母(コロモ)(現・豊田市挙母町)生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛/1687(貞亨04)年 蕉門に /『あら野』『曠野後集』等に入句
 
01(109) 山吹(やまぶき)のあぶなき岨(そま)のくづれ哉(かな)  越人
 
【意】今にも崩れ落ちそうな柔らかい崖にしがみつく様に山吹の花が咲いている / 崩れかかった崖が、山吹の脆(もろ)さを誘い出すかの様だ   
【解説】発句 / 季語:山吹=春 /
 
02(110)  蝶(てふ)水(みづ)のみにおるゝ岩(いは)はし 舟泉
 
【意】岩場に小さな橋が架かっている / その傍を一羽の蝶が水を飲もうとひらひらと谷川に舞い降りていく
【解説】脇 / 季語:蝶=春 /「のみに」が通俗的表現だが、全体的に絵画的な構成になっている
 
03(111) きさらぎや餅(もち)洒(さら)すべき雪(ゆき)ありて 聴雪(注1)
   
【意】此の山中では二月でもまだ雪が残っている / 此処の住人はその雪の上に餅を晒し、黴(カビ)生えない様にしている
【解説】第三 / 季語:きさらぎ=春 / 前句の絵画的風景を人事のものとして眺め直した付け句
 (注1)聴雪(ちゃうせつ)(生没年不詳):尾張名古屋の人 /『笈の小文』の旅の折、芭蕉を出迎えた人々の一人 /『春の日』に入句

04(112)  行幸(みゆき)のために洗(あら)ふ土器(かはらけ) 螽髭(しゅうし)(注1)

【意】近々、帝の行幸があるというので、村人たちが其の仕度に土器の洗い清めに余念がない
【解説】初表四 / 雑 / 前句を「山中清浄の人里で古来由緒ある土地柄」と見て、帝の行幸まあろうか、と想像して付けた
(注1)螽髭(しゅうし):尾張国の人 / 詳細不詳
   
05(113) 朔日(ついたち)を鷹(たか)もつ鍛冶(かぢ)のいかめしく 荷兮
 
【意】月の朔日はいつも心改めて迎える / が、此の冬は、帝の巡狩(じゅんしゅ)があるという /
 其処で、土地の鍛冶屋で鷹をつかう此の男は行幸がある此の月の朔日を、とくに威儀正して迎えた
【解説】初表五 / 季語:鷹=冬 /
06(114)  月なき空の門はやくあけ 執筆
 
【意】今朝はその鷹狩の朝 / 有明の月も無い暗黒の朝 / 鍛冶屋の男の一行は粛々と出発して行く
【解説】初表六 / 季語:月=秋 / 前句を秋に挙行される鷹狩として付ける
   
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第11回 / 春(発句 全14句)〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、0824日(土)に『高天神城跡』→『横須賀城跡』→『法多山 尊永寺』→『遠江国分寺跡』→平野美術館『栗原幸彦』展と巡って見て来たことについてご紹介する。
 今日も一日を有意義に過ごそうと思い、以下の通り巡って見て来た。

‪03時50分 起床→腹筋2,000回‬
‪04時40分 2.5kg木刀素振り60分‬
‪05時40分 入浴→朝食‬
‪06時28分 拙宅発→一般道76㎞ 1時間32分→‬
‪08時00分 高天神城址(高天神社参道)入口着‬

【高天神城跡】

 戦国時代末期に、武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城。
 城跡内の解説板に書かれた此の城の歴史を簡単に示してみると‥

1564年 小笠原与八郎長忠城主となる
1568年 当城徳川氏に従属す
1571年 03月武田信玄兵二万五千騎来攻包囲す/城兵二千騎籠城す
1574年 05月武田勝頼兵二万騎来攻包囲す/7月2日休戦・長忠降伏す
1576年 此の年、家康、高天神城の対の城として横須賀城を築く
1581年 ‪03月22日‬ 高天神城落城〔以後、高天神城は廃城となる〕
1582年 ‪03月11日‬ 信長に攻められ、勝頼自刃し、武田氏滅亡
     06月2日 信長、本能寺の変で明智光秀に殺される
1590年 07月 元高天神城の城主小笠原長忠殺される

[01]高天神城址(高天神社参道)入口にて
[02]高天神城想像図看板前にて
                  
[03]郷社高天神社鳥居前にて
 
[04]史跡 高天神城跡 石碑にて
                  
[05]高天神社掲題略図前にて
 
[06]結構キツイ高天神城跡本丸へ向かう道
                  
[07]本丸と西の丸を繋ぐ井戸曲輪近くの高天神城跡略図看板前にて
 
[08]本丸にて
                  
[09]高天神社本堂手前にある御祭神を示した看板横にて
 
[10]高天神社本殿手前の階段にて
                  
‪09時03分 高天神城跡発→一般道11㎞ 16分 /累計87km→‬
‪09時10分 横須賀城跡着‬

【横須賀城跡】

 此処は、小生2回目の訪問となる。
 横須賀城は、1580(天正08)年 大須賀五郎左衛門尉(さえもんのじょう)康孝が初代藩主。
 爾来、大須賀氏2代(1580-1590)→豊臣政権下の大名が2家、渡瀬氏1代(1590-95)→有馬氏1代(1595-1600)と続き、以後は徳川親藩・譜代6家が明治維新迄‥→松平氏(忠政・忠次)2代(1600-15)→徳川頼信(1615-19)→松平氏(重勝・重忠)2代(1619-21)→井上氏(正就・正利2代(1621-45)→本多氏(利長)1代(1645-82)→西尾氏8代(忠成~忠篤)(3万5千石)‥と続き明治維新を迎えた。
 小生、1年4箇月前の2018年04月に「‪04月22日‬:浜松市秋野不矩美術館『第一回/秋野不矩 美の殿堂』展&浜松市美術館『ウッドワン美術館コレクション/日本洋画150年』展&『浜松城」&平野美術館『木村圭吾』展&『掛川城』&掛川市二の丸美術館『男も女も装身具』展&資生堂アートハウス『ヴィンテージ香水瓶と現代のタピストリー』展&『高天神城跡』&『横須賀城跡』を巡って』を自らのブログ【時習26回3-7の会 702】にて紹介しているので、興味のある方は、以下のURLをご覧下さい。
 https://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmBfkQMqSw70ancf2l7-klwhG7HDXIXCN3eLzy3SlaamgdDSWtqYbx6CCRfGcvW0Hp-r4UsV_i4bcLvlDHBvIJUlbxoV33NZT7kPhyD6kXHSq5H5SynxeZbz6j0C3ef75wW8tejw&postId=6932650813682610395&type=POSThttps://si8864.blogspot.com/b/post-preview?token=APq4FmBfkQMqSw70ancf2l7-klwhG7HDXIXCN3eLzy3SlaamgdDSWtqYbx6CCRfGcvW0Hp-r4UsV_i4bcLvlDHBvIJUlbxoV33NZT7kPhyD6kXHSq5H5SynxeZbz6j0C3ef75wW8tejw&postId=6932650813682610395&type=POST ←此処をclickして下さい
 
[11]国史跡 横須賀城跡 案内看板前にて
[12]南側から見た 横須賀城跡の石垣を back に1
                  
[13]同上2
 
[14]本丸天守台跡にて1
                  
[15]同上2
 
[16]本丸から横須賀城跡の石垣を望む
                  
[17]再び横須賀城跡の案内看板前にて

 
‪09時43分 横須賀城跡発→一般道8㎞ 11分 /累計95km→‬
‪09時54分 法多山(はったさん)駐車場着→徒歩→

‪【法多山尊永寺】
[18]法多山境内案内看板
                  
[19]法多山参道脇の苔むした庭

[20]法多山尊永寺 本堂前にて1
                                
[21]同上2
 
[22]法多山本堂にて
                  
[23]再び法多山尊永寺 本堂前にて
 
‪10時51分 法多山駐車場発→一般道12km 39分 /累計109㎞→‬
‬‪11時30分 遠江国分寺跡着‬

【遠江国分寺跡】

 国分寺は〔中略〕奈良時代(西暦741年)に、聖武天皇の命令によって日本国内60数か所に建てられた。
 遠江国分寺は、往時の偉容をを偲ぶことのできる数少ない寺院跡のひとつ。
 1951(昭和26)年に全国の国分寺調査に先駆けて発掘調査が行われ、1952(昭和27)年に国の特別史跡(国宝と同格)に指定された。
 遠江国分寺の忠臣となる箇所には、南より南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、金堂と中門を方形に巡る廻廊の西外側に(七重)塔があることも確認された。
〔以下略〕
 以上は、「遠江国分寺跡」の説明看板より引用した。
 遠江国分寺跡は、磐田市市役所の西隣にある。
 小生は、今日訪れた史跡4箇所のうち、此の「遠江国分寺跡」は初めての訪問だ。

[24]遠江国分寺跡看板前にて
                  
[25]南大門跡看板前にて
[26]中門跡看板前にて
                  
[27]講堂跡看板前にて
 
[28]築地塀跡看板前にて
                  
[29](七重)塔阯看板前にて
 
[30]廻廊跡看板前にて
                  
[31]特別史跡 遠江国分寺跡看板前にて
 
[32]史跡 遠江国分寺阯 石碑にて
                  
‪11時58分 遠江国分寺阯発→一般道14㎞ 37分 /累計123km‬
‪12時35分 平野美術館着‬

【平野美術館『栗原幸彦』展】

 栗原幸彦は、1951(昭和26)年 浜松市中区北手島町生まれ。
 多摩美術大学日本画科卒業後、日本美術院の前理事長を務めた故・松尾敏男(1926-2016)に師事し、院展を中心活躍して1988年日本美術院・院友。
 本企画展は、作家の初期作品から今日に至る迄の優品約30点が展示された。
 確かな技量に裏打ちされた、栗原幸彦氏の品格ある日本画の幾つかをご紹介する。

[33]平野美術館『栗原幸彦』展看板前にて
 
[34]館内入口『栗原幸彦』展看板前にて1
                  
[35]同上2
 
[36]栗原幸彦『俺達(おれたち)ボルゾイ』2016年の絵の横にて
                  
[37]同上の絵
 
 館内から会場2階へ向かう階段踊り場に掲示されていた。
 本作品のみ撮影可だったので撮影させて貰った。

[38]本企画展leaflet(右の絵は、栗原幸彦『秋日和』2001年)
                  
 以下、本企画展leafletに掲示された展示作品を転写した。

[39]栗原幸彦『田植え前』1995年(浜松市美術館蔵)
 
[40]同『秋草図』1995年
                  
[41]同『幽玄』2006年
 
[42]同『緑陰』2014年
                  
[43]同『初冠雪不二』2016年
 
‪13時04分 平野美術館発→一般道41km 56分 /累計164km‬
‪14時00分 帰宅〔了〕
【後記】先は、「処暑」の次の時節「白露」に関連した「露」の名句を 2句紹介し、先ず飯田蛇笏の句についてご紹介した。
 今日は、もう一人の川端茅舎(1897.08.17-1941.07.17)の作品についてご紹介してみたい。

  金剛の露ひとつぶや石の上    茅舎

 俳人草間時彦(1920-2003)著「俳句十二か月」の九月の処で草間氏は次の様に紹介している。

「川端茅舎は露の茅舎と呼ばれた。露の句が多かったし、また、その句はすべて、名作だったからである。
 昭和八年刊の『川端茅舎句集』の四季別の秋の部の冒頭には露の句が26句並んでいる。
 この「金剛の露ひとつぶや石の上」の句はその中の一句で、しかも、露の句の代表作というべき句である。〔中略〕
 石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉のごとくに見た。〔中略〕
 金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である。〔中略〕
 儚い散りやすい露の玉を金剛不壊(ふえ)と見た茅舎の眼にはその露が生きているもののように見えたのだった。〔中略〕
 (俳人)石田波郷(1913-69)はこの句の短冊を書斎の柱に掛け「時に心迷ふとき、この短冊を見てゐると、迷の雲はうちはれてくる思ひがする」と述べている。〔後略〕」

 「白露」では、次の作品も彼の代表作だ。

  白露に阿吽(あうん)の旭(あさひ)さしにけり  茅舎

 (俳人)秋元不死男(1901-77)は、著書「俳句入門」で‥
 「‥「阿吽の旭」という表現に思いをこらせば、此の句のもつ、みなぎった自然のエネルギーが、はずみのある声調のなかでうたいあげられている力強さと緊張感を覚えずにはいられないはずである。〔中略〕
 白露も精気に満ち、朝日も精気にあふれ〔中略〕いいようもない天地一瞬の、接触の気合いが、「阿吽の旭」のなかにある〔後略〕」
 と述べている。

 川端茅舎の略歴を以下に記す。
 彼は、日本画家の泰斗 川端龍子(1885-1966)の異母弟。
 若い頃、藤島武二 (1867-1943)絵画研究所に通い、更に岸田劉生 (1891-1929)に弟子入し、のち茅舎自身の作品が春陽会に入選するなど西洋絵画の腕前も確かであった。
 しかし師の岸田の死後は、茅舎自身が結核(=脊椎カリエス)に罹患した病弱な身であった為、仏道に傾注すると共に俳句の道に本格的に入って行った。
 「ホトトギス」への投句で雑詠の巻頭句選ばれる様になり、1934年に同人となった。
 彼は、阿波野青畝 (1899-1992)、高野素十 (1893-1976)、水原秋桜子 (1892-1981)、山口誓子 (1901-1994)等 4S の後、松本たかし (1906-1956)、中村草田男 (1901-83)と並び称された「ホトトギス」の代表的俳人である。
 高浜虚子は、茅舎を「花鳥諷詠真骨頂漢」と高く評価している。
 1941年07月 肺患の悪化に拠り死去。〔享年43歳〕

 川端茅舎は、師・虚子が「花鳥諷詠真骨頂漢」と評した鋭い観察眼を持つ一方、仏道の仏教用語や「‥の如く」を使った比喩の句の名句を数多く残している。
 ご紹介した二句から茅舎の鋭い感性と、名句が表す高い芸術性や精神性を感じ取って頂ければ、と思う。

[44]2019年08月28日に Facebookに up した「露」の写真
               
 
 では、また‥〔了〕
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