2019年2月8日金曜日

【時習26回3-7の会 0743】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之六 ~発句全35句~第7回』」「01月27日:『猿田彦神社』→伊藤小坡美術館『常設展』展→『伊勢神宮 内宮』を巡って」「01月28日:『桶狭間古戦場跡(豊明市)』→『おけはざま山 今川義元本陣跡』→『桶狭間古戦場 田楽坪(名古屋市緑区)』→『井伊直盛陣地跡』→『長福寺〔首検証跡〕』→『瀬名陣所跡』を巡って」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さて、今日も【時習26回3-7の会 0743】号をお届けします。
 今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之六〕「幻住庵記(げんじゅうあんのき)」の末尾近くに「几右日記」と題され掲載されている発句全35句のうちの最後の5つ第26句~30句をご紹介する。
 
  几右日記
 
31 (さと)はいま夕(ゆふ)めしどきのあつさ哉(かな)  何処(1)

【意】此処幻住庵は涼しいが、麓の里は夕飯時で随分と暑いことだろう
【解説】―
(1)何処:何処(かしょ(?-1731))/ 伊勢の人 / 大阪の薬種問屋 /
『奥の細道』の旅の途次、富山から倶梨伽羅峠を越えて金沢に入った芭蕉等と偶然宿を共にして、此の時蕉門に入った

32 (なく)やいとヾ(1)(しほ)にほこりのたまる迄  越人(2)

【意】台所ではイトドが鳴き、塩の入れ物には埃(ほこり)が溜まっている
【解説】―
(1)いとゞ:カマドウマのこと
(2)越人:越智悦人(1656-1739)江戸中期の俳人/ 北越後に生れる/ 通称:十蔵(重蔵)/ 別号:負山子・槿花翁 /
 名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と親交を重ねる /
 松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行 / 宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂とも親交を結ぶ /
 著書に『不猫蛇』/各務支考・沢露川とも論争 / 蕉門十哲の一人に数えられている

  越人と同じく訪合(とひあはせ)

33 (はす)の實()の供(とも)に飛入(とびいる)(いほり)かな  等哉(1)

【意】庭先の蓮田の蓮の実がはじけて庵の中に飛び込む様に、私達二人も一緒に幻住庵に飛び込みます

【気移設】等哉と越人が連れ立って幻住庵を訪れた
(1)等哉:神戸氏 / 福井俳壇の重鎮 / 古く芭蕉に江戸で会い、蕉門に入る /
『奥の細道』で、芭蕉を福井で、敦賀まで見送った /
 洞哉の名は芭蕉が与えたもの / 同文中「等栽」とあるのは、芭蕉の杜撰か文飾と思われる
 
  明年弥生尋旧庵

34 春雨(はるさめ)やあらしも果(はて)ず戸()のひづみ  嵐蘭(1)

【意】春雨が降ってはいる / (幻住庵は)まだ荒れ果てたという程の庵ではないが、雨戸などは歪(ひず)んで動かない
【解説】元禄0403月、嵐蘭は幻住庵を尋ねた
(1)嵐蘭(らんらん):松倉盛教(1647-93) / 江戸時代前期の俳人 / 初期の江戸蕉門 /
 肥前島原藩(長崎県)藩主松倉氏の支族 / はじめ板倉家に仕えた後、致仕後は江戸に住み、松尾芭蕉に師事 /
「桃青門弟独吟二十歌仙」にも載る / 通称は甚兵衛

  同夏

35 涼しさや此(この)(あん)をさへ住(すみ)(すて)し  曾良

【意】翁は、此処(幻住庵)を気に入ってられたのに、矢張り捨てて仕舞われたヨ
【解説】―
 
【小生comment
 今回で『猿蓑』も、最後の巻である「巻之六」も終了した。『猿蓑』も愈々『跋』を残すのみとなった。次号をお楽しみに!
 
■続いての話題である。
 0127日 伊良湖港から伊勢湾フェリーに乗って、『猿田彦神社』伊藤小坡美術館『常設展』展『伊勢神宮 内宮』『おかげ横丁』を巡って来た模様についてご報告する。
 
0640分 拙宅発一般道45 65
0745分 伊良湖港着
 
[01]伊良湖港に着岸した乗船予定の伊勢湾フェリーをback

[02]伊勢湾フェリー「鳥羽~伊良湖間運航時刻表」と往復乗船切符
                  

0810分 伊良湖港発 伊勢湾フェリーで鳥羽港へ
 
[03]伊勢湾フェリー船内の一情景

[04]同上 売店
                  

0905  鳥羽港着

[05]近鉄 中之郷駅

[06]入線した近鉄 普通 中川行き電車に乗った
                  

0915  近鉄 中之郷 発
0937  五十鈴川駅 着徒歩 20
0957  猿田彦神社 着
 
[07]猿田彦神社の境内 map

[08]同神社脇にある本居宣長 大顕彰碑 の解説板
                  
[09]同上 前にて

[10]猿田彦神社 解説板
                  
[11]同神社 本殿前にて1

[12]同上2
                  

 猿田彦神社の不思議な処は、男神であり乍ら、本殿の屋根にある千木が 外削ぎ ではなく、女神の伊勢神宮 内宮 と同じ 内削ぎ であることだ。
 其処で、御守を購入した時に神社の方に尋ねてみた。
 曰く、此の神社を建築する時、伊勢神宮 内宮 の方のお世話になった関係だと聞いている、との由。

1015  猿田彦神社 発徒歩 04
1018  伊藤小坡美術館 着

 猿田彦神社の次に訪れたのは、伊藤小坡美術館。
 伊藤小坡(1877-1968)は、明治10年 猿田彦神社宮司の宇治土公(うじとこ)家の長女に生まれた。
 京都画壇で 上村松園(1875-1949)と共に女流日本画家として活躍。
 日本画の美人画では、「西の松園、東の清方」と並び称された 上村松園と鏑木清方 (1878-1972)、そして女優 朝丘雪路の父でもある 伊東深水(1898-1972) 3人が圧倒的な人気を博している。
 が、小生は、伊藤小坡を加えた 日本画美人画 Big4 としたい。
 其れ程いい美人画を伊藤小坡は描いている。

[13]伊藤小坡美術館入口にて

[14]伊藤小坡『秋草と宮仕へせる女達』1928
                  
[15]同『秋好中宮図』1929

[16]同『伊賀のつぼね』1930
                  
[17]同『幻想』1930

[18]同『鶴ヶ岡の舞』1956
                  
[19]同『御室の桜』1956()・同『紅葉の頃』1957年頃()

[20]伊藤小坡
                  
[21]御前揮毫の伊藤小坡ら8人の記念写真

 1923(大正12)年 良子女王殿下の御前で絵を描いた日本画家8
 後列左より 都路華香・山元春挙・菊池芳文・竹内栖鳳
 前列左より 伊藤小坡・上村松園・富岡鉄斎・今尾景年

1050  伊藤小坡美術館 発徒歩15
1105  麺処 丼どん亭 にて 伊勢うどん&うまきセット で昼食

 伊勢うどんも鰻巻き(うまき)も美味だった。

[22]12(正午)¥300」という殺し文句の「丼どん亭」看板
                  
[23]「丼どん亭」入口

[24]注文した 伊勢うどん&うまきセット お品書
                  
[25]伊勢うどん&うまきセット の現物


1120  同所発徒歩 5
1127  伊勢神宮 内宮 入口着
 
 伊勢神宮 内宮は、一月最後の日曜日だったこともあり、初詣の参詣者で大変な混雑だった。
 小生、天照大神 様に 心願成就 を確りとお願いして来た。
 伊勢神宮 内宮も、御朱印を貰えた。
 
[26]混雑していた鳥居前
                  
[27]拝殿前も大混雑だった

[28]伊勢神宮内宮の御朱印
                  
[29]同上の御守〔心願成就〕

[30]皇大神宮(こうたいじんぐう(内宮)) 解説板にて
                  

1223  伊勢神宮 内宮 発徒歩 1
1224  おかげ横丁着
 
[31]大混雑の おかげ横丁

[32]同上にて
                  
[33]美味しそうな酒蔵を見つけた

[34]お店推薦の地酒 純米吟醸 白鷹
                  
[35]一合猪口で一杯!

[36]地酒の後は、隣の喫茶店 Cafe カップジュビー へ
                  
[37]トアルコトラジャ&ブラジル

[38]トアルコトラジャを飲む小生
                  
[39]同上の解説

[40]Antique Cafe カップジュビー の店内
                  
[41]おかげ横丁の風景1

[42]同上2
                  
[43]同上3

[44]同上4
                  
[45]近鉄 五十鈴川駅 前にて


1350  近鉄 五十鈴川駅 着
1410  五十鈴川 駅発
1429  中之郷 駅着
 
 レストハウスでフェリーの出発時間迄待つ。

[46]地酒をもう一杯!
                  
[47]伊良湖ゆき徒歩客乗船ゲート1

[48]同上2
                  
[49]渥美半島・伊良湖行のりば


1520  鳥羽港 発
1557  神島 の近くを通過
 
 三島由紀夫の 潮騒 の舞台となった島 神島!

[50]フェリーの右手に見えた神島1
                  
[51]同上2

[52]左手に渥美半島が近づいて来る
                  

1615  伊良湖港 着
1632  伊良湖ビューホテル近くへ

[53]伊良湖岬の風景1

[54]同上2
                  
[55]同上をback


【前書】黄昏の伊良湖岬の絶景に触発されて拙句を一句‥
 
  暮れなずむ 冬の伊良湖や 黄金色(こがねいろ)  悟空
 
1750  帰宅  総走行距離90km〔了〕

■今日最後の話題は、0128日に名古屋へ仕事に行った帰り、『桶狭間古戦場跡(豊明市)『おけはざま山 今川義元本陣跡』『桶狭間古戦場 田楽坪(名古屋市緑区)『井伊直盛陣地跡』『長福寺〔首検証跡〕』→『瀬名陣所跡』と巡って来た模様についてご報告する。

1541分 名鉄・金山駅発名鉄本線・準急
1602分 中京競馬場前下車徒歩 1
 
[56]中京競馬場前駅構内に掲示されていた「桶狭間古戦場・伝説地」看板
                  
[57]同駅南口前にあった「国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地」案内看板にて


1608分「国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地」着
 
 此処「桶狭間古戦場 伝説地」が、桶狭間古戦場 豊明市説 の地.
 
[58]今川治部太輔(じぶだゆう)義元(1519-60)の墓1
                  
[59]同上2

[60]桶狭間古戦場阯石碑にて〔豊明市〕
                  
[61]桶狭間古戦場(豊明市)石碑配置図


1615分 桶狭間古戦場伝説地 発徒歩17
1632分 おけはざま山 今川義元本陣跡
 
[62]今川義元本陣跡
                  
[63]同所にて

[64]同所の解説板
                  

 本陣跡の標識の直ぐ後ろが民間の住宅であるのは、致し方ないとは言え、やゝ興ざめて仕舞った。
 
1638分 桶狭間古戦場公園〔田楽坪〕着
 
 此処「桶狭間古戦場公園〔田楽坪〕」が、桶狭間古戦場 名古屋市緑区説 の地。
 
[65]桶狭間古戦場公園〔田楽坪〕石碑
  

 昭和八年五月 陸軍大将 松井石根 揮毫。
 此の碑の解説には以下の様に書かれていた。

「今川軍の先陣 松井左衛門宗信(遠州 二俣城主)の子孫 松井石根氏が昭和八(1933)年五月に古戦場跡を訪れた時に揮毫したもの」
 因みに、松井石根大将(1878-1948)は、東京裁判で日中戦争時代、上海方面軍司令官として南京大虐殺等の責任を問われ、死刑判決を受けた人物。
 小生、詳細を述べることは避けるが、松井氏が人格者であったことは彼を知る人の多くが認めていることを申し添えておく。
 彼が人格者だからこそ、当時其の方面の最高責任者として潔く戦争責任を背負ったとも言われている。

[66]桶狭間古戦場跡(名古屋市緑区)跡 解説板
                  
[67]義元公 首洗いの泉 にて

[68]同上 解説板
                  
[69]織田信長()&今川義元() 両像の横にて

[70]桶狭間の戦い 案内図
                  
[71]同上 解説板

[72]有松桶狭間めぐり看板
                  
[73]今川義元戦死の地 石碑


1643分 桶狭間古戦場公園 発徒歩 7
1650分 井伊直盛 陣地跡
 
[74]井伊直盛陣地跡にて
                  
[75]同上 解説板


 永禄三(1560)年「桶狭間の戦い」の時、今川軍の先陣として、井伊直盛隊(一千余名)が人を張った場所。
 此の戦いで井伊直盛は戦死。
 此の一帯は戦いの時、織田軍に取り巻かれたことから「巻山」と名付けられたと伝わる。
〔以上、同上解説板より転記〕
 
 井伊直盛は、一昨日訪れた龍潭寺が菩提寺の井伊家第22代当主。
 井伊直盛の娘が、女城主 井伊直虎で、直盛の養子が第23代当主 井伊直親、そして、直親の息子が第24代当主 井伊直政である。

1657分 戦評の松 着

[76]戦評の松
                  

桶狭間の戦いの折、今川方の将 瀬名(せな)伊予守氏俊(うじとし)が、嘗て此処にあった松の根元に部将を集め、戦の評議をしたと伝わる。

[77]桶狭間古戦場案内図(名古屋市緑区 桶狭間)


1703分 長福寺着
 
[78]長福寺山門
                  
[79]同上 解説

[80]長福寺略縁起
                  
[81]長福寺境内


 此の寺は、天文07(1538)年 善空南立(ぜんくうなんりゅう)上人の中興開山。
 寺伝に拠ると、当山は今川義元に仕える林阿弥(りんあみ)が、今川方部将の首検証を命じられた所。
 境内には、其の「首検証跡」がある。

[82]長福寺 首検証跡
                  
[83]同上 解説板

[84]同上 「今川義元公首実検証之跡」解説石碑
                  
[85]同所にて


1709分 瀬名陣所跡 着
 
[86]瀬名陣所跡にて
                  
[87]同所 解説


 永禄03(1560)0517日 今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣。
 瀬名隊は、木村(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が19日に昼食する時の本陣の設営を担当。
〔瀬名陣所跡解説より引用〕

 桶狭間古戦場(名古屋市緑区)から名鉄有松駅に向かい歩き出したら、眼前に可憐な白い樹花が現われた。

[88]可憐な白い樹花
                  

1711分 同所発徒歩28
1739分 名鉄・有松駅着〔了〕
 
【小生comment
 桶狭間古戦場は、以前から訪れて見たかった史跡である。
 名古屋在住時代からいつでも訪れることが出来ると思いつつ実現されずに来たので、実現出来て嬉しかった。
 
【後記】0127日に伊勢湾フェリーに乗った際、船上から神島が近く見えたら、三島由紀夫『潮騒』を想い出した。
 此の小説は以下の書き出しで始まっている。
 
 歌島(うたじま)は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
 歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社である。
 ここからは、島がその湾口に位いしている伊勢海の周辺が隈なく見える。北には知多半島が迫り、東から北へと渥美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している。〔以下略〕
 
 東大名誉教授で文芸評論家の佐伯彰一(1922-2016)は、解説「『潮騒』について」で次の様に述べている。

 (前略)『潮騒』はいささかも難解な小説ではない。(中略)
 昭和28年、刊行の前年3月に、三島は三重県の伊勢湾入口にある神島(かみしま)に旅行しており、同年8月にも又同所に出かけている。
『潮騒』は、此の年の9月、神島再訪の直後から書き始められたらしい。(中略)
『潮騒』の舞台は、ほぼ丸ごと此の神島であると言い切っていい様だ。(中略)
 新治と初江という恋人同士は、(中略)結婚に至る迄、純潔を守り抜くのである。(中略)
 (【小生注】純粋無垢な男女の恋愛を取り上げた‥)ギリシャの小説『ダフニスとクロエ』という古典をなぞり乍ら(三島は)自分の小説的世界を作り上げようとした。(中略)
『潮騒』を書き出す前年には(三島は)ギリシャに旅行して『アポロの杯』という本を書いている。
 古典期ギリシャへの憧れは、三島において、(中略)彼をギリシャへの旅へと駆り立てた誘因であったというべきであろうが、『潮騒』が「アポロの杯」でくもうとしたギリシャの泉の賜であったことだけは疑えない。
 そして、古い原型にのっとり、その源泉から汲み上げようという三島の態度、方法は、実は最後の四部作『豊饒の海』に迄尾を引き、繋がっている。
 一見孤立して見える『潮騒』は、矢張り三島的想像力の正系の嫡子であった。
〔昭和4812月 文芸評論家〕
 
【小生comment
 小生、三島由紀夫27歳の作品『アポロの杯』も割腹自殺した日に脱稿した『豊饒の海』も読んだことがないので、佐伯氏の解説についてcomment出来る立場にないが、一見純粋な恋愛小説の様に見える『潮騒』が、実は三島の最晩年の作品に迄繋がっている、という説明に驚きを感じた。
 写真は、久しぶりに読み返した『潮騒』と、この際読んでみようと一昨日購入した『豊饒の海/()春の雪 & ()奔馬』。
 
[89]三島由紀夫『潮騒』

[90]同『豊饒の海/()春の雪』『同/()奔馬』
                  

 では、また‥〔了〕

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