2020年9月7日月曜日

【時習26回3−7の会 0828】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之五〔第46回/第441句~450句〕」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第16回〕【小松】」「【08月の想い出 2019】集/【冨安昌也著『続草木虫魚』より幾つか~(1)冨安昌也先生の師『藤島武二』(~「二人の師」より)/(2)『内藤貴美子先生の思い出』/(3)『時習館高等学校の校章誕生の経緯』/(4)『ワイエスと野田弘志』/(5)『風生文庫誕生の経緯』/(6)冨安昌也先生の師『細島昇一先生』(~「二人の師」より)」

 

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0828】号をお届けします。
 

今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第46回/巻之五~第441句~450句〕」をご紹介する。

 

441 (かき)よする馬糞(ばふん)にまじるあられ哉(かな)  林斧(1)

 

【意】街道筋の農家では貴重な肥料である馬糞拾いも貴重な農作業の / 霰が降って馬糞に突き刺さっている

【解説】季語:あられ=三冬 / 此の時代、馬糞は貴重な肥料であった/ 其れをかき集めている様を詠んだ / 馬糞と対比させて、霰の硬さ、冷たさ、清浄な感じを表現した

(1)林斧(りんぷ(生没年不詳)):『あら野』などに入句しているが、人物について詳細不明

 

442 (しば)の戸()をほどく間()にやむ霰(あられ)(かな)  杏雨(1)

 

【意】蔓(つる)で縛っただけの粗末な戸口に、霰に降られた人を招き入れようとする / 其の蔓を解(ほど)き終わった頃には霰は降り止んで仕舞った

【解説】季語:霰=三冬 /

(1)杏雨(きょうう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』等に入句

 

443 いたゞける柴(しば)をおろせば霰(あられ)かな  宗之(1)

 

【意】霰が降って来たので、背負った柴を頭に戴きて歩いて来た / 家に着き其の荷を降ろすと、柴の中から先程降った霰がパラパラと落ちた

【解説】季語:霰=三冬 /

(1)宗之(そうし):人物について詳細不明

 

444 (しも)の朝(あさ)せんだんの實()のこぼれけり  杜國(1)

 

【意】栴檀(センダン)は晩秋に黄色の実(金鈴子(きんれいし))を結び、落葉した後も枝に残り、初冬の青空を彩る / 霜が降りた朝、其の栴檀の実が地面に落ちる /「こぼれけり」が作者杜國の表現の妙

【解説】季語:霜=三冬 /

(1)杜國(とこく):本名 坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人で、師弟間に男色説がある / 杜国は名古屋御薗町の町代 / 富裕な米穀商だったが、空米売買詐欺罪(=延べ取引)に問われ、貞亨02(1685)0819日 領国追放の身となり畠村(現・愛知県田原市福江町)に流刑となった / 爾来、同地の保美(ほみ)に隠棲 / 其の最中に、同地を訪れた芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行 / 一説では、杜国は死罪になったが、第二代尾張藩主徳川光友に撚り罪一等減じ領国追放になったという / 元禄03(1690)0220日、34歳の若さで死去 / 愛知県田原市福江、隣江山潮音寺に墓がある

 

445 水棚(みづだな)(1)の菜()の葉()に見()たる氷(こほり)かな  勝吉(2)

 

【意】台所の水棚に置いた野菜が朝見てみると葉の表面が氷がついている / 一寸した驚きが作者にある

【解説】季語:氷=晩冬 /

(1)水棚(みづだな):台所の流しの所に設けた棚のこと

(2)勝吉(しょうきち(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に2句入句


446
(ふか)き池(いけ)(こほり)のときに覗(のぞ)きけり  俊似(1)

 

【意】普段は怖くて覗いたことなどない深い池だが、今は凍っているので安心して覗いて見られたヨ

【解説】季語:氷=晩冬 /

(1)伊藤俊似(いとうしゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句

 

447 つきはり(=突き割())てまつ葉()かきけり薄氷(うすごほり)  除風(1)

 

【意】地面に落ち散っている松葉を掻き集め燃料にする / 薄氷と共に氷って窪みに溜まっている松葉をも、柄で突き割って採るのである

【解説】季語:薄氷=初春 /

(1)如風(じょふう(1625-1705.11.07(宝永020921(享年80))):尾張国鳴海の如意寺住職 / 文英和尚 / 名古屋蕉門の一人 /『冬の日』同人

 

448 (うち)(=)りて何(なに)ぞにしたき氷柱(つらら)(かな)  夜舟(1)

 

【意】軒端に垂れた大きな氷柱(ツララ)を見ると、何かに使えないものかと思って仕舞う

【解説】季語:氷柱(つらら)=晩冬 /

(1)夜舟(やしゅう):人物について詳細不明

 

  兼題(1)雪舟

 

(1)兼題:以下6句が「雪舟(そり)」を詠む

 

449 (たうげ)より雪舟(そり)(のり)(=)ろす塩木(しほき)(1)(かな)  鼠彈(2)

 

【意】塩試練用の薪をそりに積んで山道を上って峠に着いた / 残りは坂道を一気に滑り下るだけ /

【解説】季語:雪舟(そり(=))=晩冬 / 塩木の薪を苦労して運んだ後の坂道を滑り降りる橇の爽快感を詠む

(1)塩木(しほき):塩の精錬に使う塩釜の薪のこと

(2)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句

 

450 ぬつくりと雪舟(そり)に乗(のり)たるにくさ哉(かな)  荷兮(1)

 

【意】人に橇(そり)を引かせぬくぬく着膨れして乗っている人を見ると頭に来るのは或る意味当然なこと!

【解説】季語:雪舟(そり(=))=晩冬 /「ぬっくりと」は厚着をしてぬくぬくしている様子

(1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 1693(元禄06)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある

 

【小生 comment

 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第47回/巻之五~第451句~460句〕をご紹介する。お楽しみに!

 

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第16回目である。

 前《会報》【0564】でお届けした【金澤】は七月十五日(新暦0829)→七月ニ十四日(新暦0907)朝出立迄お届けした。

 今回お届けする【小松】は、七月ニ十四~六日(新暦090709)「近江屋」に3泊した処である。

 その後【小松】には、八月五~六日(新暦091819)に戻って来ている。

 その間の七月二十七日~八月四日(新暦091017)迄の8日間は、【那谷寺】と温泉地【山中】を巡って来ている。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

【小松】

《原文》

 小松(1)と云(いふ)所にて

 

  しほらしき(2)名や小松吹(ふく)萩すゝき

 

 此(この)所、太田(ただ)の神社(3)に詣(まうづ)。

 実盛(さねもり)(4)が甲(かぶと)・錦の切(きれ)(5)あり。

 往(その)(かみ)、源氏に属(ぞく・しょく)せし時、義朝公(6)より給はらせ給(たまふ)とかや。

 げにも(7)平士(ひらざぶらひ)(8)のものにあらず。

 目庇(まびさし)(9)より吹返(ふきがえ)(10)しまで、菊から草(11)のほりもの金(こがね)をちりばめ(12)、竜頭(たつがしら)(13)に鍬形(くわがた)(14)(うつ)たり(15)

 真盛討死の後、木曾義仲(16)願状(がんじょう)(17)にそへて、此(この)(やしろ)にこめられ侍(はべる)よし(18)、樋口の次郎(19)が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり(20)縁起(21)にみえたり。

 

  むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす(22)

 

《現代語訳》

 【意】「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている

 

  季語「萩すゝき」で秋

 

 小松の地にある多太神社に参詣した。

 此処には斉藤別当実盛の兜と錦の鎧(よろい)直垂(ひたたれ)の切れ端があるのだ。

 その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、源義朝公から下賜なされたものだという。

 成程、普通の武士が着用するものではない。

 目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、其処に金を散りばめ、鉢には龍頭を飾り鍬形が打ってある。

 実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社に奉納した次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたこと等、当時のことが恰も眼前に浮かぶ様に神社の縁起に書かれている。

 

 【意】痛ましいことだナ

    白髪染めの頭に被って奮戦して散った実盛の兜を見ると往時が偲ばれる

    今はその兜の下には実盛の化身だと言われている蟋蟀(コオロギ)が寂しげに鳴き秋の哀れを誘っている

 

  季語「きりぎりす」で秋七月

 【解説】「むざん」=痛ましいこと/「や」「な」はいずれも詠嘆の終助詞

  「むざんやな」は、謡曲『実盛』の一節「樋口まいり、唯(ただ)一目(ひとめ)みて、涙はらゝとながいて、【あなむざんやな】、斎藤別当にて候けるぞや」拠り、芭蕉はこの句にその儘借用した

  但し、初案は「あなむざんや()(かぶと)の下のきりゞす」を推敲して「あな」を削った

 

(1)小松:石川県小松市

  奥細道菅菰抄「小松は、金澤より八里、むかし小松中納言君の在居の地にして、

 今も金澤の出城あり、繁花な所にて、絹を織出す/加賀絹と云て、世人名産とす」

(2)しほらしき:可愛らしい

(3)太田(ただ):現石川県小松市上本折町。多太八幡宮神社。衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)を祭る

(4)実盛(さねもり):斉藤別当実盛(1111-83)/初め源義朝に仕える/平治の乱にて義朝が討死後、平宗盛に仕える

 源平合戦では平維盛に従う/北陸で木曽義仲軍と戦い「篠原の合戦」にて手塚太郎光盛に討たれた/享年73歳という

 其時実盛は、高齢を隠す為、白髪を黒く染めていた/平家物語「実盛」や、謡曲「実盛」で知られる

 木曾義仲は、2歳の時、父義賢(よしかた)が討たれた

 その時、実盛の許に世話になり木曽に送られた恩を偲び、討ち死にした実盛を手厚く回向をした伝えられる

(5)錦の切(きれ):「錦」は五色の糸で様々な模様を織り出した、厚く美しい織物

 此処では、錦の鎧直垂(よろいひたたれ)のこと/大将が鎧の下に着る衣装/「切」は、その切れ端のこと

 「この錦の切」については、『平家物語〔巻七〕』と『源平盛衰記〔巻三十〕』に次の様に記されているが、その内容が若干違う

 『平家物語』:実盛が平宗盛の所へ「最後の暇申(いとままを)し」に参った時、

 実盛「故郷へは錦を著()て帰れといふ事の候/錦の直垂御許し候へ」と頼んだ処、

 宗盛「やさしうも申したる者哉(かな)」とて、錦の直垂御免(ゆるし)ありけるとぞ聞(きこ)えし

 ‥〔と、宗盛が「錦の切」の着用を許可した〕

 『源平盛衰記』:「内大臣のわが料(れう)とて秘蔵せられたりけるを、取り出(いだ)して下し給へり」

 ‥〔と、宗盛が「錦の切れ」を下賜した〕

(6)義朝公:源義朝(1123-1160)/為義(1096-1156)の長男

 頼朝(1147-99)や義経(1159-89)の父/尾張国野間にて長田荘司忠致に謀殺された

(7)げにも:前文の「‥とかや」を受け、「本当に、成程‥」の意

(8)平士(ひらざぶらひ):「大将」ではないが、「雑兵」より上格の普通の身分の武士をいう

(9)目庇(まびさし):兜の鉢の前方から庇の様に出て深く額を覆う武具/「眉庇」とも書く

(10)吹返(ふきかえし):兜の眼庇の左右に耳の様に出て、後方に反り返っている部分

(11)菊から草:「唐草」とは、絵・織物・彫刻等の模様で、蔓(つる)草が巻き乍ら伸びる形を表したもの

 菊の花や葉を唐草の様に図案化した模様のこと

(12)ちりばめ:「ちりばむ」は、刻みをつける・彫って金銀珠玉等を嵌め込む

(13)竜頭(たつがしら):兜の前面中央の前立物(装飾の金具)で龍の形をしたもの

(14)鍬形(くわがた):兜の前面左右に、慈姑(くわい)の葉を側面から見た様な形で、二本出ている飾り金具

(15)(うつ)たり:「打つ」は、打ちつける・掲げるの意

(16)木曾義仲:源義仲/源義賢(よしかた(1126?-55))の次男/父 義賢は源為義の次男で、義朝の異母弟

 2歳の時に父 義賢が兄義朝の長男の源義平(よしひら(1140-60))に討たれる

 乳母の夫、中原兼遠(なかはらかねとお)を頼り信濃国へ赴き、同国・木曾の山中で成長した為「木曾義仲」と呼ばれる

 寿永02(1182)年 平維盛軍を倶利伽羅峠に夜襲して破り、平家を西海へ走らせ、自らは入京

 寿永03年征夷大将軍就任し朝日将軍と称したが、同年源範頼・義経軍に破れ、近江国粟津にて戦死(享年31)

 頼朝・義経等に先駆けて反平家の旗を上げるが京都粟田口にて討たれる/平家物語『木曽最期』に詳しい

 芭蕉は木曾義仲への思い入れが強く、義仲と同じ大津膳所の義仲寺に芭蕉の墓もある

 20150501日付

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/26_0086mail_36a4.html ←【2617の会 0086】ご参照

 

[01]義仲寺 入口にて中嶋君【3-2】と20070430

[02]ツヅレサセコオロギ


 

【小生comment

 『平家物語』『源平盛衰記』や、謡曲『実盛』に出て来る、木曾義仲関連の史実として大変有名な場面である。

 芭蕉も、齢73歳という当時としてはかなり高齢の武者「実盛」の壮烈な最後を偲んで詠んでいる。

 七月二十七日(新暦0910)「あなむざんや 甲の下のきりゝす」の形で多田神社に奉納している。

 「むざんやな」という『言葉』

 「古びたる兜」という『視覚』

 「きりゝす〔=蟋蟀〕の「リリり‥」という寂しげな鳴き声」=『聴覚』

 という三面から「実盛の最期」を、この句を詠む者にこの十七文字が強く訴えかけて来る

 山本健吉が、「こういう句を見ると、芭蕉の句の発想の厚みを、ことによく感じ取ることができる」と述べている。

 正に正鵠を射(=)た指摘であると思う。

 

続いての話題は、先ず【08月の想い出】2019年から、豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展の写真を5枚お届けする

 20190821() 【時習26回37の会 0771】~〔前略〕豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展を巡って見て〔後略〕

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 http://si8864.blogspot.com/2019/08/26-077190817-0818-concert-hall-2016-19.html

 

 【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『嶋田卓二、黒田清輝とその周辺』展】

 

[03][左上]豊川市桜ヶ丘ミュージアム入口前にて

[右上]黒田清輝(1866-1924)『湖畔』1897年〔東京国立博物館/黒田清輝記念館蔵〕

[左下]同『婦人肖像』1911-12年〔東京国立博物館/黒田清輝記念館蔵〕

[中下]和田英作(1874-1959)『薔薇』1925年〔刈谷市美術館〕

[右下]昭和9年 第7回豊橋洋画展での主な出品者

 

 本企画展の主人公の一人、嶋田卓二(1886-1946)は、豊川市(旧宝飯郡大木村)生まれの洋画家

 嶋田卓二氏は、我等が母校時習館高校の前身である愛知第四中学校のOB

 略歴は以下の通り

 

1905年 愛知県立第四中学校卒業後、上京

1906 6月 東京美術学校西洋画科受験するも落第、8月頃、黒田清輝の書生となる

1912 10月 第6回文部省美術展覧会(文展)に『放牧』が初入選

 

 後年は、中央画壇とも距離を置き、此れ迄本格的な評価や回顧がなされていなかった画家の為、本展で検証しつつ紹介するという企画展

 

 本企画展のもう一人の主人公の黒田清輝は鹿児島市に生まれた

1884-93年 渡仏し、最初法律を学ぶが途中から西洋画に転向

 

1886年 ラファエル・コラン(1850-1916)に師事

1896年 東京美術学校西洋画科発足に際し教員となる

1898年 同校教授に就任

1917年 養父死去に拠り、子爵を襲爵する

 

 因みに小生、添付写真[03][右上]『湖畔』と [03][左下]『婦人像』は、2016115日に東京の黒田記念館にて見ている

 2016124 ()付【時習26回3-7の会 0584】~「0115日:東京国立博物館/黒田記念館『特別室と黒田記念室』展示作品を見て」〔後略〕

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/26-058401150123.html

 

 添付写真[03][右上][左下]の美しい女性は、黒田清輝の2人目の妻、照子夫人である

 彼は、留学先の France から帰国後、伯父で養父の子爵黒田清綱(1830-1917)の紹介で結婚したが、程なく離婚

 添付写真[03][右上][左下]の絵の model である照子と結婚したが、入籍は養父の死後だという

 

 添付写真[24]には、嶋田卓二のほか、我等時習26回生時代の美術科教諭朝倉勝治先生の前任美術科教諭だった冨安昌也先生の旧豊橋中学校(我等が時習館高等学校の前身)在学中時代(17-18歳頃)の顔もある〔了〕

 

2008/03/15 【時習2637の会 0162】~〔前略〕「19日:『藤島武二』命日」 「冨安昌也先生の師『藤島武二』」

 

[04][左上] 藤島武二 (1867.10.15-1943.03.19)【重文】『天平の面影』1902年/石橋美術館

[右上]同【重文】『黒扇』1908-09年/ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)」

 

http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/26_0162151920_0f03.html

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【冨安昌也先生の師『藤島武二』(冨安昌也著『続草木虫魚』~「二人の師」より抜粋(平成12.08.01 「豊橋文化」に掲載))】

 

[04][左下]晩年の富安昌也先生

[右下]富安昌也『モスタルの道具屋(ユーゴスラビア)1991年/豊橋市美術博物館

 (冨安昌也著『続草木虫魚』より‥

 運命といえば、私の生涯で最も大きな影響を受けた二人の良き師に巡り会えたことである。

 私は小学校時代から絵が好きだった。(【筆者注】この後、冨安先生は豊橋中学に入学し、一人目の師である美術科教師細嶋昇一先生に出会うが省略する)

 昭和十二年四月、東京美術学校に入学できた時の上野の桜の美しかったことが忘れられない。

 美校では予科一年を過ごすと、本科が四年あって、自分が希望する教授の教室を選ぶことになる。

 私は文句なしに憧れの藤島武二教室を選んだ。

 先生は週二回、火、金の二日教室へ来られた。寡黙でしゃべらない。それだけに先生の一挙手一投足に注意し、生徒の絵を直す先生の筆先を見据えたものだ。

 筆はどんなものがいいか、絵具は何を使ったらいいか何も言われない。

 そんな抹消なことよりも、「絵かきは正直でなければいかん」といった。

 何故か。自然が如何に美しくとも、絵かきの心が曲がっていれば曲がって映る。だから心を磨けと云うことだ。その時は真意が悟れなかった。

 

 【筆者comment】添付写真の藤島武二の絵画作品のうち、『天平の面影』と『黒扇』が国の重要文化財に指定されている傑作である / 此のうち、『黒扇』を先日東京の「ブリヂストン美術館」で観たことは会報【0149】号でご案内済であるが、感動ものの、本当に素晴らしい絵であった

 

 2008/09/09【時習2637の会 0200】~〔前略〕「冨安昌也先生による『内藤貴美子先生の思い出』

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 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/26-0200-mail99-.html

 

[05][左上]冨安昌也著『草木虫魚』

[右上]冨安昌也『ラ・アルベルカの路地(スペイン)1997

[左下]同『ユーゴー像と書籍』1999

[右下]同『立春』2000

此の絵は、我等が母校 時習館高等学校の職員室前の庭に咲いた山茶花の花

 

■さて続いては、「冨安風生」とくれば、氏の長兄の孫、「冨安昌也」先生についてである。 風生氏と昌也先生の続柄については《会報》【0163号】にてご紹介済だ。

 久し振りに冨安昌也先生の著書「続 草木虫魚」を読み返してみました。

 するとその本の中に、副題にお示ししました様に「内藤貴美子先生を悼む」という随筆に目が留まりました。

 懐かしく思い、ご紹介させて頂きます。

 内藤貴美子先生(通称『ポケット』先生‥失礼しました!())は、我々も、芸術を「音楽」専攻した者は全員お世話になった方ですね。

 平成125月、時習第1回卒と26回卒合同幹事による時習館高校同窓会総会の時は、大変お元気でいらしたことを覚えています。

 その当時の記憶が間違っていなければ、確か、内藤先生の指揮、【2637の会】member林K子さんのピアノ伴奏で、校歌他を合唱したと思います。

 その同窓会総会の二年後の春4月に内藤先生はご逝去されたのですね‥。

 小生、当時は地元に居なかったので先生の訃報を知ったのは、それから三年後、豊橋に戻って来てからでした。

 それでは、冨安昌也先生の随筆「内藤貴美子先生を悼む」をご覧下さい‥

 

 内藤貴美子先生が(【筆者注】平成十四年)四月三日に亡くなられた。

 時習館の音楽教師として、43年間も勤められたから、教え子はじめ知人は多い。

 私は54年の長い付合いで、本当に惜しい人を亡くしたと思っている。

 私が、時習館の前身豊橋中学校へ赴任したのは昭和22年だった。

 音楽の教師が退職した直後で、学校長は私を美術担当として採用すると同時に、音楽の教師を探してくるようにと示唆があった。

 当時は教育委員会などはなく、教師の補充は学校長の責任でやったのだろうか。

 何れにしても私はそのことが常に頭にあり、各方面に口をかけていた。

 そして或る日、当時豊橋音楽教会の会長をしていたドクターの鈴木博先生から、いい人を紹介するというご連絡があった。

 そこではじめて内藤さんにお目にかかった。

 率直に豊橋中学の音楽教師としてのお願いをしたら、言下に断られた。

 その筈で当時の世情は戦争直後で今と全く異なり男女は画然と区別され、特に男子中学校は女人禁制の感があった。

 今では想像できない事で職員でも女性は一人も居なかった。

 そこへの話だから断るのは当然のこと。

 

 2008/09/09 【時習2637の会 0200】~〔前略〕「冨安昌也先生による『内藤貴美子先生の思い出』2-2()〔後略〕

 

[06][左上]20190409日 名豊Gallery 『所蔵品展/冨安昌也』展入口にて

[右上]冨安昌也『中国 敦煌 莫高窟』

 

 『中国 敦煌 莫高窟』へは、冨安昌也先生の水彩画の弟子で運転手も担当していた小生の叔父貴 今泉勇が随行している

更に余談である‥

冨安昌也先生、小生の叔父貴今泉勇と共に日本水彩画会豊橋支部の幹部に、我等が時習26回生同期の 大竹良夫君【3-10】がいる

 

[06][左下]同『家族』1988

[右下]同『ドブロブニクの昼下がり』1989

 

 私は再三再四お願いに上がった

 鈴木先生も「女だから勤まる、きっと勤まる」と強く促され、内藤さんも大決心で遂に腰を上げた

 校長も喜び直ちに音楽の教師を迎える準備にかかった。 戦後のことでピアノも中々見当らず、岡崎の楽器店に立型が一台あることをつきとめ、現金をバッグに入れ、トラックに乗って受け取りに行った

 教室の黒板も五線譜が書けるように塗り替え、五月初めから出勤することに決った

 その日は大変だった

 内藤さんが銘仙(【筆者注】熨斗(のし)糸、玉糸、絹諸撚糸系または紡績絹糸で織った絹織物)の着物に紺の袴を腰高にしめて校門を入ってくると、既に待ち構えていた生徒達が、本館二階の窓という窓に鈴なりになってわいわいの大騒ぎ。

 開闢以来の歓迎だろう

 授業になると更に大変

 廊下は勿論、教室の外も一杯の有様

 黒板に譜を書いて生徒に背を向ければ、後の方から焼薯(やきいも)が飛んでくる

 この日のことを後で「来るんじゃなかった」と述懐されたが、これも束の間、生徒達の珍しがりも時は過ぎた

 内藤さんは躾は厳しい方で、気も強い性格だったから、生徒の掌握は早かった

 合唱指導で、男子生徒が小さい声で歌おうものなら、

 「明日からスカートを履いてらっしゃい」ときつく注意する程になった

 よい家庭に育ったという雰囲気は常にあり、身の廻りの好みも何となく品があった

 女性でありながら、ぐずぐず云ったり、挙措(きょそ:【筆者注】立ち居振る舞い)不明瞭な態度は大嫌いで、善悪ははっきりし、昔風の律儀なところがあった

 入院して亡くなるまでの間の小康を得た日に、諸々のことを澤山メモして残された

 親戚縁者は少なく、全くの一人住まいで、後々のことは全くメモによってその通りにした

 残った物の行先や、法要、追悼音楽会のことまで書いてあり、頭の下がる思いであった

             (平成14.04.15 豊橋文化)

 【筆者comment

 我々が内藤先生にお世話になったのは高校12年の時だから、昭和464月~483月。今〔200809月現在〕から356年も昔のことになるのですね‥(合掌)

 

2020/08/22追記 / 小生 comment

ホント、冨安昌也先生の絵は、極めて写実的で気品がある極上の絵だ

だから、小生冨安昌也先生の絵は大好きだ

 

 20191017()【時習26回37の会 0779】~〔前略〕「ホトトギス派俳人・富安風生&母校・時習館高校美術科恩師・冨安昌也先生について」

 ↓  ↓  ↓

 http://si8864.blogspot.com/2019/10/26-17-5-10-13-26-17-5-01156-1-1-02157.html

【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から4-1

 

 今日も昨日に続き、冨安昌也(1918-2013) 先生の著書『続・草木虫魚』から「随筆三篇」と「オマケ1つ」をご紹介する

 冨安先生の略歴は、以下の通り‥

 

《冨安昌也先生の略歴》

1918 1107日 豊橋市関屋町に生まる

1941年 東京美術学校油画科卒業(藤島教室)

1951年 第39回日本水彩展三宅氏賞 / 日本水彩画会会員推挙

1979年 豊橋市美術博物館協議会委員

1990年 豊橋文化協会副会長

1991年 『モスタルの道具屋』で、第79回日本水彩展内閣総理大臣賞

1992年 日本水彩画会評議員

1993年 豊橋文化賞

1994年 日本水彩画会理事

2013 10月 逝去(享年94)

 

 冨安先生は、小生が去年6月迄勤務していた会社の関係で、亡くなられた2013年迄三河港の産業基地・建築審査会の座長を長年務められていた

 小生も其の審査会の委員を務めていたので、其の関係から冨安先生と仕事上のお付き合いをさせて頂いた

 更には、冨安先生が此れも長年日本水彩画会豊橋支部の支部長を務められていた関係から、先生の晩年の水彩画の愛弟子が小生の叔父貴であることもあって叔父兄経由でのご縁も頂いた

 そんなご縁から或る時、先生から平成187月に上梓されたご著書『続・草木虫魚』を頂戴した

 此の本は、小生の蔵書の1冊になっている

 因みに、此の後順次ご紹介するが、冨安先生は我等が母校・時習館高等学校の徽章(写真[92]()ご参照)を発案された方でもある

 

[07][]母校・愛知県立時習館高校 東門近くに掲示されている「校名と徽章(=校章)

[下左]在りし日・晩年の冨安昌也先生

[下右]冨安昌也著『続・草木虫魚』

 

 其処で先ず「随筆1篇」目は‥【校章】(平成1011) ‥である

 

「〔前略〕学校には校章がある。此れは必ず生徒が、体の何処かに付けているものだからなければならない

 新しい学校でも出来て、校章を決めるとなると大変だ

 一見して其の学校と解るものという先入観があって、其れを絵や文字で証言しようとするから、ややこしくなる〔中略〕

 徽章は単なる符号である。其れが見た目に感じよければ、今でいう design 的に出来ていればそれでいい

 私は経験がある

 私は1947(昭和22)01(小生【注】:冨安先生28(当時))に豊橋中学校(現・時習館高校)の教師になった

 当時は、「愛知県豊橋中学校」という校名だったが、翌2304月、学校教育法施行に伴い「愛知県立豊橋高等学校」と改称した

 さて困ったのは、生徒の徽章である。今迄は昔から使っていた「中学」という徽章を帽子につけていたが、学校が高等学校になっていて、中学の徽章はおかしいということで、早速新しい徽章を考えることになった

 一般募集することにして、職員、生徒から公募した。

 沢山集まったが中々いいのがない。職員の私たちも考えた

 結果絞り込んで、二つの傾向に要約された

 一つは、昔から徽章というものは、symmetry な形に決っている。例えば一高(=旧制第一高等学校)〔中略〕は桑の葉、高等師範は桐の葉っぱだという説と、私をはじめ若い連中は、豊橋高等学校ならトヨハシのトとヨを綺麗に形良く組み合わせて(= monogram 2つの文字や書記素を組み合わせた記号)単なる mark とすればいい、という此の二派に分かれた〔中略〕

 投票で決を採ることになり、347 で、私の design に賛成多数という今の徽章に決定した。

 「こんなものがどこの学校か解るか」

 という年配の教師もいたが、私は千人の生徒が此れを帽子に付けて」、街の中を歩けば、三日もすれば徹底しますよと言った

 珍しい、斬新な design だと言ってくれる市民が多かった

 其の後、県条例が縷々変って、校名が愛知県立豊橋時習館高等学校から愛知県立時習館高等学校になったが、誰も徽章の変更を言う人はなかった〔了〕

 

【小生 comment

 我等が母校・時習館高等学校の校章が決まったいきさつについて、製作者本人である冨安先生が思い出話としてお話しして下さったので確り理解出来た

 冨安先生が亡くなられる迄の数年間、先生にお近づき出来て小生、大変光栄で嬉しかった

 

【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-2

 

 「随筆2篇」目に入る前に「オマケ1つ」をお伝えする

 其れは、冨安昌也先生が、晩年の愛弟子として可愛がった小生の叔父貴 今泉勇(1930- )が小生にしてくれた episode

 叔父貴は、先生が「富士山が見たい」と言えば、先生を車に乗せて富士山に連れて行き一緒に絵を描き、「中国・敦煌の莫高窟の絵を描きたい」と仰れば一緒に敦煌迄随行する、と言った具合だった

 其の叔父貴が、或る時、小生に話してくれた冨安先生との思い出話を一つ‥

 19952or 3月に、名古屋市の愛知県美術館にて開催された『アンドリュー・ワイエス』展に冨安先生と二人で見に行った時の話は次の様だった。

 「先生が「ワイエスの絵はいい、こういう絵を描かなきゃいかんゾ。(時習館高校の)教え子は沢山いるが、俺を越えたのは野田弘志(1936.06.11- )だけだ!」と言っていたナァ」と

 

[08][上左]アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth (1917.07.12-2009.01.16))

[上右]ワイエス『亡霊(The Revenant)1949

[左下]野田弘志『娘の和香子』1983年‥加賀乙彦著「湿原」の挿画

[中下]同『掌を組む』

[右下]同『アナスタシア』

 

【小生 comment

 野田弘志の絵画技術力の高さを証明している Super Realism の絵は、写真と見紛う極めて精緻な絵画であるので、小生いつも見る度に驚かされる

 

【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-3

 

 続いて冨安昌也著『続・草木虫魚』「随筆2篇」目は‥【「風生文庫」について】(平成1251) ‥である

 

[09][]【富安風生文庫】(愛知県立時習館高等学校内)

[右上]晩年の富安風生

[右下]風生句碑「松の芯 若ささながら 立ちそろふ」(時習館高等学校の一隅)

 

 「萬歳の三河の国へ帰省かな 風生」と刻まれた此の句碑は、昭和5111月、文協が主唱して豊橋公園の内堀の横に建立したものだ

 此の吉田城趾から北を見ると、豊川を臨み遠く弓張山系や風生の郷里の照山や本宮山も見える

 先年先生も此処に来られて所縁(ゆかり)の此の地に句碑の建つのを大変楽しみにしておられた〔中略〕

 昭和535月に、時習館の庭に「松の芯若ささながら立ちそろふ 風生」(小生【注】:添付写真[11])の句碑も建立された〔中略〕

 私は、晩年の先生にお目にかヽる機会は数多くあった

 そんな或る時先生から「昌也君、僕の蔵書を時習館で貰ってくれるかね」

 と相談を持ち掛けられた。私は躊躇することなく即断で

 「是非お願いします。願ってもない」とお応えした〔中略〕

 時を限定せずに私たちが運びますよということにした。

 時習館の朝倉君や同窓会の三浦君にも手伝って貰って、豊橋と東京を自分達の車で往復した〔中略〕

 結果〔中略〕計五回戴(いただき)に上った。冊数は〔中略〕2,501冊になった

 此れを「時習館創立80周年記念事業」の一環として創設した「時習文庫」の中の corner に、新たに『風生文庫』として置くことにした。

 処が昨(平成11)年秋、池袋のご遺族から電話があって、〔中略〕「一部の著作物を除いて残り一切を時習館に譲りたい」というお申出があった

 亡くなられてから既に20年経つが、本は相当量あった〔中略〕

 最晩年迄手元に置かれた豪華本や珍貴なもの、此れが全部俳句に関するものばかりだから凄い。特に俳人たちの出された本は、私家版で部数が限定されているから他に探してもないだろう〔中略〕

 段ボールに59梱包あった

 今回分の冊数は1,906冊、前回分2,501冊を合計すると4,407

 此れが時習館図書館で保管する『風生文庫』の全容である

 

【小生 comennt

 小生、恥ずかし乍ら、「萬歳の三河の国へ帰省かな 風生」「松の芯若ささながら立ちそろふ 風生」のいずれの句碑もまだ見ていない

 是非訪ねて直(じか)に見てみたい

 

【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-4()

 

. 続いて冨安昌也著『続・草木虫魚』今回最後の「随筆3篇」目は‥【二人の師】(平成1281) ‥についてである

 

[10]豊橋中学校の絵画同好会「ヴァ―デュア画会」

 写真中列中央が細島昇一先生、そして細島先生の一人置いて左が富安昌也氏、後列左から4人目が森清治郎氏

 

 〔前略〕運命と言えば、私の生涯で最も大きな影響を受けた二人の良き師に巡り合えたことである

 此のことが私の今日を決定づけた

 私は小学校時代から絵が好きだった

 絵の選手として学校から色々な競技会へ出された

 不景気のドン底の昭和06年、私は豊橋中学校に入り、一年の甲組だったが、其の甲組の担任が細島昇一(1895-1961)先生だった〔中略〕

 先生から教わったことは絵に関することは云う迄もないが、一般常識的な広い分野様々な人間としての在り方だった

 吸収力の強い柔らかな頭脳は骨の髄迄感化を受けた

 例を挙げれば先生の字の書き方迄真似をしたものだった

 三年頃進学の話が出たが、先生は具体的には何も云われなかった

 家で父に美術学校へゆきたい希望を打ち明けた時、父は反対も賛成もせず「ふーん」と云っただけだった

 父は開業医で、男の子は私だけ

 父は今迄の私の育ってきた状況や、自分が養子で医者になったのも、岳父((=冨安昌也)の祖父)の云われる儘で自分の意に反したことなどひっくるめての全ての結論で、半ば諦めていたのかも知れない

 1936(昭和11)年豊中を卒業して東京美術学校を受験したが、勿論 straight では入れなかったので川端画学校へ入った

 此処での厳しい訓練で朝から晩迄毎日木炭で画く石膏 dessin を叩き込まれた

 此れはどの画学生も通る宿命みたいな道で本当に此れは身の為になった

 翌1937(昭和12)04月、入学出来た時の上野の桜の美しかったことは忘れられない

 美校では予科一年を過すと本科四年があって、自分が希望する教授の教室を選ぶことになる

 私は文句なしに憧れの藤島武二(1867.10.15-1943.03.19)教室を選んだ

 先生は週二回、火、金の二日教室に来られた

 寡黙でしゃべらない

 それだけに先生の一挙手一投足に注意し、生徒の絵を直す先生の筆先を見据えたものだ

 筆はどんなものがいいか、絵具は何を使ったらいいか何も云われない

 そんな抹消なことよりも、「絵描きは正直でなければいかん」と言った

 何故か

 自然が如何に美しくとも、絵描きの心が曲がっていれば曲がって映る

 だから心を磨けと云うことだ

 何故其の時は真意が悟れなかった

 

【小生 comment

 画家の道を選び、悔いのない生涯を全うされた冨安昌也先生が語られた、先生の人生の出発点である青春期の思い出を強い共感をもって通読した

 謹厳実直なお人柄は、冨安家のご両親の躾だけでなく、東京美術学校の藤島武二教授からの薫陶もあったことを従前此の本を読んで知った

 因みに藤島武二は、日本画家で京都画壇の雄 竹内栖鳳 (1864.12.20-1942.08.23)、同じく日本画家で日本美術院の第一人者で巨匠の 横山大観(1868.11.02-1958.02.26)、藤島武二と同じ東京美術学校教授で肥前国佐賀出身の西洋画家の泰斗 岡田三郎助 (1869.01.22-1939.09.23)3人と一緒に、1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受賞した日本の洋画界草創期の巨匠で、小生も大好きな洋画家である

 因みに、藤島は、黒田清輝 (1866.08.09-1924.07.15)より一年年少で、二人は共に薩摩国鹿児島出身

 冨安先生は、更に篤実で humor を持った心根の温かな人格者でもいらっしゃった

 其の事は、昨日ご紹介した先生の作品 『家族』や『立春』をご覧頂ければ実感頂けると思う

 

■今日最後の話題は、去る0829()に、『三河国瓶時跡』→『三河国分尼寺跡』→『三河天平の里資料館』→『西明寺』を巡って来たことについてお伝えする

 行程は以下の通り‥

 

0500分 起床→腹筋2,000回→

0600 2.5kg木刀素振り60分→

0715分 入浴→朝食→

0814分 拙宅発→一般道 27 14km

0841分 三河国分寺跡駐車場着

 

【三河国分寺跡】

 

[11][左上]三河国分寺跡 航空map

[右上]三河国分寺 塔跡 遠望

[左下]同 同 石碑

[中下]同 同上にて1

[右下]同 同上2

 

0852分 三河国分寺 塔跡発→東進80m 徒歩2分→

0854分 三河国分寺跡山門入口着

 

[12][左上]三河国分寺跡 参道入口 石碑にて1

[右上]同 同 同上2

[左下]同【重文】無銘「梵鐘」前にて

[中下]同「国分寺」解説板と【重文】無銘「梵鐘」

[右下]同【重文】無銘「梵鐘」

 

0900分「梵鐘」に隣接する三河国分寺跡「本堂」へ

0901分 三河国分寺跡「本堂」

 

[13][左上]三河国分寺跡「山門」と後方に「本堂」

[右上]同「山門」前にて1

[左下]同 同上2

[中下]同「本堂」前にて

[右下]同 南大門跡

 

0947分 三河国分寺跡駐車場発→3 600m/15㎞→

0951分 三河国分尼寺跡(「三河天平の里資料館」)駐車場着

 

【三河国分尼寺跡】

[14][左上]三河国分尼寺跡 前にて1

[右上]同 同上2

[左下]同 南大門前にて

[中下]同 解説

[右下]同 南大門から金堂跡・講堂跡を望む

 

[15][左上]三河国分尼寺跡 金堂跡から南大門を望む

[右上]同 講堂跡から金堂跡→南大門遠望

[左下]同 伽藍北側から講堂跡・金堂跡・南大門を back 1

[中下]同 同上2

[右下]同 同上3

 

1025分 三河天平の里資料館発→南隣の「三河天平の里資料館」

 

【三河天平の里資料館】

 

 入館無料の此の資料館に入った時は、小生唯一人

 マスクして、alcohol消毒して、受付に備え付けられていたいずれも豊川市教育委員会編の「よみがえる天平の遺産 @200円」「と豊川の歴史散歩 @500円」を購入

 そうしたら、受付の女性が「『三河国分寺と三河国分尼寺のDVD』をご覧になりますか?」と訊かれたので、「収録時間はどれくらいですか?」と尋ねたら「15分」というので直ぐにお願いした

 以下の添付写真[26][30]の画像がDVDの画面の一部である

 

[16][左上]国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」という

 国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」というそうだ

[左下]「三河国分寺」想像図

[右上]「白鳥遺跡」「三河国分寺跡」「三河国分尼寺跡」の所在地を示す航空写真

[右中]「三河国分寺跡」と「三河国分尼寺跡」の航空写真

[右下]「三河国分尼寺」想像図

 

【三河天平の里資料館】→【西明寺】へ

 

[17][左上]「三河天平の里資料館」入口前にて

[右上]お別れに、駐車場から「三河国分尼寺跡」伽藍を望む

[左下]「三河国分寺跡」「三河国分尼寺跡」「三河天平の里資料館」航空map

[中下]「三河国分寺跡・三河国分寺跡」から「西明寺」を望む航空map

[右下]荘厳な趣の西明寺『山門』から『本堂』を望む

 

1048分「三河天平の里資料館」駐車場発→一般道15 2.7km/18km

1103分 西明寺駐車場着

 

【西明寺】

 

[18][左上]西明寺 本堂前にて

[右上]同 本堂内部の一部

[左下]同 本堂脇の庭

[中下]同 本堂北側の池泉回遊式庭園1

[右下]同 同上2

 

[19][左上]西明寺 本堂北側の池泉回遊式庭園1

[左下]同 同上2

[右上]同 同上3

[右中]同 同所の庭を back 1

[右下]同 同上2

 

[20][左上]西明寺 開放的な庫裏内部

[右上]同 山門前にて1

[左下]同 同上2

[中下]同 山門脇の「西明寺」解説板横にて

[右下]同 同上解説

 

1131分 西明寺駐車場発→36 14/32㎞→

1207分 帰宅〔走行距離計 32km〕〔了〕

 

【後記】今日のお別れは2つ‥一つ目は、相田みつをの名句である

 

 【ただいるだけで】

 

 0829日、西明寺から帰宅後、拙宅の Dining Room に飾ってある「相田みつを【ただいるだけで】」が目に入った‥

 小生の一番好きなみつをさんの言葉だ!

 

「あなたがそこに ただいるだけで

 その場の空気が あかるくなる

 あなたがそこに ただいるだけで

 みんなのこころが やすらぐ

 そんな あなたに わたしもなりたい

                  みつを」

 

 そういう「あなた」をめざして生きていきたい!

      

[21]あいだみつを【ただいるだけで】



 2つ目は、0905()、或る方から、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻卒業の Pianist 井垣壮太君の Piano Recital leaflet を頂戴した

 彼は、我等が時習26回生の同期生の井垣君【3-3】の御子息だそうだ

 

 20201006() 19:00〜 ¥3,000

 穂の国とよはし芸術劇場 PLAT アートスペース

 

 曲目はご覧の様に聴き易い名曲ばかりだ

 時間に余裕のある方は、秋の“ ソワレ(soiree) ”で brilliant なひとときを如何ですか?

 

 (1) Schubert の即興曲 Op.90

 (2) J. S. Bach フランス組曲第5番 ト長調 BWV 816

 (3) Beethoven エロイカ変奏曲 他

 

[22][]井垣壮太 Piano Recital leaflet()


 [右上] ()井垣壮太

 [右中]()同 略歴

 [右下]20130519日 京都東福寺臥雲橋にて井垣君【3-3】と

 

では、また‥〔了〕

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