2020年4月23日木曜日

【時習26回3−7の会 0807】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第25回/第231句~240句〕」「04月19日:拙宅から戦国・江戸時代への逍遥『二連木城址』→『全久院』→『臨済寺』を巡って」「張若虚(660-720)『春江花月夜』〔第1回〕」「茨城のり子『私が一番きれいだったとき』〔第1回〕」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0807】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第25回/第231句~240句〕」をご紹介する。

231 かれ芝(しば)や若葉たづねて行(ゆく)胡蝶(こてふ)  百歳(1)
 
【意】春にまだ残っていた枯れ野原を蝶が若葉を求めて飛んで行く / 胡蝶に手弱女(たおやめ)の面影を見て、其れに相応しい若者の image を重ね合わせている一句
【解説】季語:胡蝶=三春 /
(1)西島百歳(にしじま ひゃくさい(1668(?)-1705.05.18(宝永020426(享年38))):伊賀国上野の蕉門 / 藤堂新七郎家の五郎左衛門良重の子で蝉吟の甥にあたる /1690.03.16(元禄030206) 芭蕉は百歳亭で「鶯の笠落したる椿かな」を詠んだ
 
   暮春
 
232(なに)の氣()もつかぬに土手(どて)の菫(すみれ)(かな)  忠知(1)
 
【意】誰も気付かない土手の隅(すみ)に菫(スミレ)が咲いている /
【解説】季語:菫(すみれ)=三春 /「隅(すみ)」と「菫(すみれ)」を掛けたことが談林俳諧の妙だが、「片隅に咲く菫の可憐さ」を詠んだ処が評価されて「あら野」には選ばれた様だ
(1)神野忠知(じんの ただとも(1623(?)-1676.12.31(延宝041127)(享年54))):江戸の人 / 通称:長三郎 / 談林俳諧興隆時の俳人 /『佐夜中山集』・『あら野』・『如意宝珠』等に所収 /「白炭や焼かぬ昔の雪の枝」句でに拠り「白炭の忠知」と称された
 
233 ねぶたしと馬(うま)には乗らぬ菫草(すみれぐさ)  荷兮(1)
 
【意】麗らかな春の野路を徒歩で行く / 馬で行くとつい居眠りして落馬する危険があるから‥ / 歩いて行けばこそ董草を目近く会うことも出来た
【解説】季語:菫草=三春 /
(1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
 
234ほうろく(1)の土とる跡(あと)は菫(すみれ)かな  野水(2)
 
【意】陶土を採取した後、其の場所に可愛らしい董草が咲いている
【解説】季語:菫=三春 / 菫の花の可憐さを詠んだ
(1)ほうろく(焙烙):別称=ほうらく / 素焼きの浅い土鍋 / 穀類・茶等を炒ったり蒸焼きにしたりするのに用いる
 
[01]炮烙(ほうろく・ほうらく)


(2)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
 
235 (ひる)ばかり日()のさす洞(ほら)の菫(すみれ)哉  舟泉(1)
 
【意】昼間の少しの時間だけ陽が射すだけの洞穴の入口に菫が咲いている /
【解説】季語:菫=三春 /「『昔見し妹(いも)が垣根は荒れにけりつばな(1)まじりの菫のみして /                 藤原公実(1053-1107)』【意】懐かしさから、昔の恋人の家を訪ねてみが、其の家の垣根は酷く荒れていた / 彼女はもう何処かに引っ越して行った様だ / 其の垣根の傍には、茅花((1)(=チガヤ))の白い花に混じって咲く【菫】の花だけであった」に詠まれて以来、菫花は、「栄華の過去から落魄(らくはく)した今を際立たせる例え」とされて来た / 吉田兼好「徒然草」第二十六段にもこの歌は以下の様に紹介されている

「 風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言(こと)の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外(ほか)になりゆくならひこそ、亡なき人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
 されば、白き糸いとの染()まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを嘆く人もありけんかし。堀川院(ほりかはのゐん)の百首の歌の中に、『昔見し妹が墻根(かきね)は荒れにけり茅()(ばな)まじりの菫すみれのみして』さびしきけしき、さる事侍りけん。/【現代語訳】風も吹き過ぎていないのに花の様に変貌するは人の心。其の人の心に慣れて仕舞った年月を思うと、沁々聞いた言葉は忘れないものだが、其の人が自分の生活圏外に離れて行くのが世の慣わしで、此れは死別よりずっと悲しい。故に白い糸が色に染まることを悲しみ、岐路で分かれることを悲しむ人もあったそうだ。堀川院の百首の歌の中に、『昔通じ合った女の家の垣根は荒れ果てているなあ、茅花(つばな)混じりの菫だけが咲いている』と詠んだ時、作者は寂しげな様子だったそうだが、題詠の歌だが、恐らく(作者の)実体験も踏まえているのだろう。」

(1)永田舟泉(ながた しゅうせん(1654(承応03)(?)-1737.11.19(元文021027)(享年84))):三河国挙母(ころも(現・豊田市挙母町))生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 / 1687(貞亨04)年 蕉門に入門 /『あら野』・『曠野後集』等に入句
 
236 (くさ)(かり)て菫(すみれ)(より)()す童(わらは)かな  鴎歩(1)
 
【意】草を刈っている童(わらべ) / 無造作に草刈をしている様に見えたが、刈り終えた場所には菫を取り除けある / 董花だけを取り分ける童の心優しさが伝わって来る
【解説】季語:菫=三春 /
(1)鴎歩(おうほ(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に入句

237 (ゆく)(てふ)のとまり残(のこ)さぬあざみ哉(かな)  燭遊(1)

【意】蝶があちらこちらを一見造作に飛んでいる様に見える / が、よく見るとアザミの花には確り全て止って行ったヨ /
【解説】季語:蝶(てふ)=三春、あざみ()=晩春 /
(1)燭遊(しょくゆう):作者については詳細不詳
 
238 麥畑(むぎはた)の人(ひと)()るはるの塘(つつみ)かな  杜國(1)
 
【意】晩春の青い麦畑の眺望 / 人々は農作業に忙しい / 其の情景を私は堤の上から眺めている / 長閑(のどか)な田園風景である
【解説】季語:はる=春 /
(1)坪井杜國(1657(?)-1690.04.26(元禄030320):本名:坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門有力者の一人 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人で、杜國と師 芭蕉には男色説がある / 杜國は名古屋御薗町町代を務め、米穀商の豪商であったが、幕府禁止の空米売買の詐欺罪(=延取引)に問われ、1685(貞亨02)8月 領国追放となり三河国渥美郡畠村に流刑となり、以後晩年迄の数年を同じく渥美郡保美村に隠棲 / 同地では、南彦左衛門、俳号野人又は野仁と称し、此処にいた時、芭蕉と共に『笈の小文』の旅をした / 一説では、杜国は以前作った、「蓬莱や御国のかざり檜木山(ひのきやま)」の句が、尾張藩を讃えていると、2代藩主徳川光友の記憶にあった為、死罪から罪一等減じられ領国追放になったと云われる / 杜國は、元禄030320日、享年34歳の若さで保美にて死去 / 田原市福江町隣江山・潮音寺に墓がある

239 はげ山や朧(おぼろ)の月のすみ所(どころ)  大坂 式之(1)

【意】朧(おぼろ)月の夜、何処もかしこも朦朧としている中、あの禿山だけはやけにくっきりと見える
【解説】季語:朧の月=三春 /
(1)浜 式之(はま しきし(1672(?)-1732.01.22(享保161225)(享年61)):伊賀国上野藤堂新七郎家家臣 / 浜市右衛門 / 芭蕉真蹟書簡がある /『猿蓑』・『芭蕉庵小文庫』等に入句
 
240 ほろほろと山吹(やまぶき)ちるか瀧(たき)の音(おと)  芭蕉
 
【意】滝の水が岩に激しく当たり乍ら音を響かせている / 其の岸辺に咲く山吹の花は、盛りを過ぎたのか、大滝の響きに打ち負かされた様にほろほろと毀(こぼ)れ散っている
【解説】季語:山吹=晩春 / 32223日頃の作 / 紀貫之の歌「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり」(古今集)を引いている / 吉野は桜だけでなく、山吹でも有名だった /
「 【笈の小文(西河)(1)】/「蜻螐が瀧」(2)
  布留の瀧は布留の宮(3)より二十五丁山の奥也
津の国幾田の川上に有(4)/ 大和 / 布引の瀧 / 箕面の瀧 / 勝尾寺へ越る道に有 」
(1)西河:<にしこう>と読む。吉野川の急流で滝のように水が流れるところから吉野大滝ともいう。
(2)蜻螐が滝:蜻螟(せいめい)が滝 / ト書だけを書いて句が無い〔←此の版が未完成であることの証拠〕
(3)布留の宮:<ふるのみや>奈良県天理市も石上<いそのかみ>神宮。
(4)津の国幾田の川上に有り:此のphrase以降の記述は芭蕉のmemoが残ったもので本文とは直接関係ない
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第26回/第241句~250句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いては、0419()に実施した walking の話題である。
 コロナウィルス禍の影響は甚大である。
 小生も、勤務の関係から休日である昨日・今日の土日も自宅待機を余儀なくされた。
 とは言え、ずっと家の中に居るのは健康にも良くないので、今日は13時半過ぎから15時過ぎ迄、自宅から北西方面へ6㎞弱の walking をした。
 
1325分 拙宅発→徒歩→
 
 【拙宅玄関前から二連木城址への路傍で咲いていた花々】
 
[02]拙宅の玄関前
                  
[03]路傍の花‥ハナミズキ〔アメリカ山法師〕

[04]同上‥紫蘭
                  
[05]同上‥不明1

[06]同上2
                  

【前書】道すがらの家の庭に咲いていたハナミズキが白く輝いて綺麗だった
 
  ハナミズキ 白き四片に 伊吹き載せ  悟空
 
【前書】今の時節、紫蘭の紫色の花が翠葉に映えて、見る者の眼に突き刺さる様に美しさを披露する
 
  初夏招く 一足先の 紫蘭かな  悟空
 
1356分 二連木城址着
 
【二連木城址】
 
 築城したのは1493(明応02)年 戸田氏中興の祖戸田宗光(全久(1439(?)-1508)
 
1508(永正05)年 戸田宗光は没し、嫡子 憲光が二連木城の近くに全久院を建立。
1590(天正18)年 二連木城主戸田康長((1562-1633)戸田宗家16代当主/信濃国松本藩主/戸田松平家の祖/十八松平の一つ)は武蔵国東方藩に移封となり、二連木城は無城主となった/同年、総石高152000石で入封した池田照政((1565-1613)播磨国姫路城へ移封時、輝政に改名)は吉田城を拠点とした為、二連木城は廃城になった。

 現在、城跡は大口公園(おおぐちこうえん(添付写真[07][12]参照))となっている。

1911年 豊橋市初代市長・衆議院議員 大口喜六(1870-1957)が購入し私有地とした
1961年 豊橋市が買収し、大口公園として現在に至る
 
[07]二連木城址入口にて

[08]二連木城のある大口公園解説碑にて
                  
[09]同上 大口公園解説碑

[10]二連木城址内にて
                  
[11]同上 城址記念石碑にて

[12]同上 城址石碑と落下した椿花2
                  
[13]同上 掘割にて


【前書】二連木城址の記念石碑にて往時の戸田全久を想ひて一句‥
 
  行く春や 戸田全久の 夢の跡  悟空
 
1410分 二連木城址発→徒歩→
1418分 全久院着
 
【全久院】
 
[14]全久院への道すがら咲いていた椿花
                  
[15]全久院前にて1

[16]同上2
                  
[17]全久院にある国の重要文化財解説板

【前書】全久院にて、戸田全久を思ひ浮かべ一句‥
 
  全久の 足跡偲ぶ 春の午後  悟空
 
 全久院(ぜんきゅういん)は、豊橋市にある曹洞宗の寺院 / 山号は仙壽山(仙寿山)
 戸田全久入道(=宗光)や、戸田(松平)康長の正室松姫(徳川家康の異父妹(=久光氏):二柱は信州松本神社の祭神)の菩提寺。本尊:釈迦如来坐像。
 
1590(天正18)年 家康関東移封の際、戸田康長は、三河を去る際、牛久保全久院を現在地(豊橋市東郷町)に移転
1871(明治04)年 戸田宗家で松本藩第9代藩主(1884年 子爵叙爵)の戸田(松平)光則(1828-1892)が神道を重んじて松本城下の全久院を破却、同院の什宝や古文書を豊橋の全久院へ引き継いだ
 
 因みに、現在の全久院は、檀家1千家を抱える大寺院で、我が今泉の本家も此の全久院の檀家で、拙宅も其の末席を汚している。
 
1423分 全久院発→徒歩→
1431分 臨済寺着
 
【臨済寺】

【前書】臨済寺にて亀山住職を思ひ出し一句‥

  臨済寺に 時習の絆 想ふ春  悟空

[18]臨済寺 山門前にて1

                                    
[19]同上2

[20]同 山門
                  
[21]201406月開催の時習26回卒業40周年記念旅行&懇親会 in 京都2014DVD~亀山琢道氏1

[22]同上2
                  
[23]同上3


 臨済寺(りんざいじ)は、愛知県豊橋市東田町にある臨済宗東福寺派の寺院。

1645(正保02)年 吉田藩主となった小笠原忠知(1599-1663)が、帰依していた宗玄寺を吉田に移した事に拠る。
1664(寛文04)年 吉田藩主小笠原忠知が現在の地を選び萬年山臨済禅寺と改め、京都五山大本山東福寺第240世虎伯大宣禅師を勧請し、創立
 
 当院には、歴代吉田城主の 小笠原忠知公・長矩公・長祐公・長重公四代の廟所があり「殿様寺」と称せられていた。
 
1655(明暦元)年 吉田城に招かれた茶道宗流の始祖 山田宗徧(1627-1708)は、当寺で参禅得道し、茶亭・楓樹・竹林・枯山水の名庭を設けた
 
 添付写真[21][22][23]は、20140607()-08()開催の【時習26回生卒業40周年記念懇親会&旅行 in 京都2014】で訪問した東福寺でお世話になった宗務総長(当時)で、時習18回生の亀山琢道先輩への手紙と写真。
 亀山琢道先輩は、此の臨済寺の住職である。
 
1435分 臨済寺発→徒歩→
1517分 帰宅:歩行歩数7,557歩 / 5.8km 264kcal
 
【拙宅玄関前にて他】
 
[24]帰宅した自宅玄関前にて
                  
[25]Walking 実績

[26]Walking course一覧地図
                  
[27]航空地図:二連木城址

[28]同:全久院
                  
[29]同:臨済寺


■今日も、『春に因んだ唐詩』の張若虚(660-720)『春江花月夜』をお伝えする。
 少々長い詩であるが、初唐の詩人、張若虚(660-720)『春江花月夜』をお伝えする。
 此の七言古詩は、同じく初唐の詩人、劉希夷(641-79)『代悲白頭翁』と並ぶ傑作である。
 36252字と、劉希夷『代悲白頭翁』より更に70字多いが、難しい語句はなく、叙景的であり、且つ情緒もある。
 だから、『代悲白頭翁』と同様、此の詩に触れた人は悉く其の魅力に魅せられ、一気呵成に読み進めることが出来る。
 小生、此の詩も大好きである。
 ただ、Volume が多いので、4句ずつ9本に分けて、312句ずつ3seriesにしてご紹介する。
 第1回の今回は、此の詩の「白文」36252字全文と、第1句から4句ずつ「書き下し文」・「現代語訳」・「句を image した画像」を記したものを全9本作成したうち、第1回目の今回は、「【01】~【04】」「【05】~【08】」「【09】~【12】」をご紹介する。
 
 【 春江花月夜 / 張若虚】〔七言古詩〕】
 
01】春江潮水連海平 /【02】海上明月共潮生
03】灩灩隨波千萬里 /【04】何處春江無月明

05】江流宛轉遶芳甸 /【06】月照花林皆似霰
07】空裏流霜不覺飛 /【08】汀上白沙看不見

09】江天一色無纖塵 /【10】皎皎空中孤月輪
11】江畔何人初見月 /【12】江月何年初照人

13】人生代代無窮已 /【14】江月年年祗相似
15】不知江月待何人 /【16】但見長江送流水 

17】白雲一片去悠悠 /【18】青楓浦上不勝愁
19】誰家今夜扁舟子 /【20】何處相思明月樓

21】可憐樓上月裴回 /【22】應照離人妝鏡臺
23】玉戸簾中卷不去 /【24】擣衣砧上拂還來

25】此時相望不相聞 /【26】願逐月華流照君
27】鴻雁長飛光不度 /【28】魚龍潛躍水成文

29】昨夜閒潭夢落花 /【30】可憐春半不還家
31】江水流春去欲盡 /【32】江潭落月復西斜
 
33】斜月沈沈藏海霧 /【34】碣石瀟湘無限路
35】不知乘月幾人歸 /【36】落月搖情滿江樹

 【 春江花月夜 / 張若虚(660-720)】〔七言古詩〕9-1

01】春江潮水連海平 /【02】海上明月共潮生
03】灩灩隨波千萬里 /【04】何處春江無月明

【 春江(しゅんこう)花月(かげつ)の夜() / 張若虚(660-720)(1) 】9-1

01】春江の潮水(ちょうすい) 海に連(つら)なって平(たひ)らかなり
02】海上の明月(めいげつ) 潮(うしほ)と共に生ず

03】灩灩(えんえん)(2)として 波に隨(したがふ)こと千萬里(せんばんり)
04】何處(いづこ)の春江か 月明(げつめい)()からん

《意》
01】春の夜の長江に満ちて来る潮は、海に迄連なって平らかに広がる
02】海上に明月が、潮が満ちて来るのと共に出て来た
03】月の光で波が光って連なり続くこと千万里
04】此の春の大河に、月明かりが隈なく輝き渡っている

《語句》
(1)張若虚(ちょう じゃくきょ):初唐の詩人 / 揚州の人 /「呉中の四士(賀知章、張旭、包融)」の一人
(2)灩灩(えんえん):水の揺れ動く様(さま) / 此処では月光が水面に映じて水波と共に揺れる様(さま)
 
[30]張若虚『春江花月夜』第【01】句~第【04】句を image した画像

                  
↑↑上記添付写真は、左上【01】から時計回りに【02】【03】【04】の順
01】「春江潮水連海平」を image した画像
02】「海上明月共潮生」を image した画像
03】「灩灩隨波千萬里」を image した画像
04】「何處春江無月明」を image した画像
 
【 春江花月夜 / 張若虚】〔七言古詩〕9-2

05】江流宛轉遶芳甸 /【06】月照花林皆似霰
07】空裏流霜不覺飛 /【08】汀上白沙看不見
 
05】江流(かうりう)は宛轉(ゑんてん)(3)として 芳甸(はうでん)(4)を遶(めぐ)
06】月は花林を照らして 皆(みな) (あられ)に似たり
07】空裏(くうり)の流霜(りうさう)(5) 飛ぶを覺(おぼ)えず
08】汀上(ていじゃう)の白沙(はくさ) ()れども見えず

《意》
05】川の流れは、曲がりくねって匂い立つ野原を遶(めぐ)
06】月の光は、花咲く林を照らして、霰(あられ)の様に輝き散っている
07】空中を飛ぶ(と云われる)霜が飛んでいることに気付かなくて
08】汀(なぎさ)の白砂は、(月光の白さか、砂の白さが、共に白く輝いて)看ようとしても見えない

《語句》
(3)宛轉(ゑんてん):緩(ゆる)やかに曲がり遶(めぐ)る様(さま)
(4)芳甸(はうでん):花の香(かぐわ)しい春の郊外
(5)流霜(りうさう):空中に飛ぶ霜 / 当時、空中に飛ぶ霜が降って地上の霜となる(と考えられていた)

[31]張若虚『春江花月夜』第05句~第08句を image した画像

↑↑上記添付写真は、左上【05】から時計回りに【06】【07】【08】の順

05】「江流宛轉遶芳甸」を image した画像
06】「月照花林皆似霰」を image した画像
07】「空裏流霜不覺飛」を image した画像
08】「汀上白沙看不見」を image した画像
 
 【 春江花月夜 / 張若虚】〔七言古詩〕9-3

09】江天一色無纖塵 /【10】皎皎空中孤月輪
11】江畔何人初見月 /【12】江月何年初照人

09】江天(かうてん)一色(いっしょく) 纖塵(せんぢん)無く
10】皎皎(けうけう(=きょうきょう))(6)たり 空中の孤月輪(こげつりん)
11】江畔(かうはん) (いづれ)の人か 初めて月を見()
12】江月(かうげつ) (いづれ)の年か 初めて人を照らせる

《意》
09】川の上空は一色(いっしょく)で、細(こま)かな塵(ちり)は無く
10】空に白く冴え返る月影は、ぽつんと一つだけある
11(思えば、)河畔で誰が初めて月を見たのだろうか?
12】河辺を照らす月は、何時(いつ)頃、初めて人を照らしたのだろうか?

《語句》
(6)皎皎(けうけう(=きょうきょう)):明るく光る様(さま) / 白い様(さま)
 
[32]張若虚『春江花月夜』第句09~第12句を image した画像
                  
↑↑上記添付写真は、左上【09】から時計回りに【10】【11】【12】の順
09】「江天一色無纖塵」を image した画像
10】「皎皎空中孤月輪」を image した画像
11】「江畔何人初見月」を image した画像
12】「江月何年初照人」を image した画像

【後記】今日最後にお届けするのは詩人 茨城のり子作品である。
 0414()、勤め先帰りに食品スンパー・サンヨネに beer を買いに立ち寄った時のこと‥。
 サンヨネの駐車場に入ろうとした時、異変に気づいた。
 いつも満車に近い駐車場が、半分くらいしか埋まっていないのだ。
 コロナウィルス禍で愛知県が緊急事態宣言を出した影響に拠るものに違いない。
 其の時、現代女流詩人茨木のり子(1926-2006)の名詩「わたしが一番きれいだったとき」が浮かんだ。
 茨木のり子が詠んだ第二次世界大戦直後の詩の時代と今が不思議と重なり合う感じがしたからだ
 
  わたしが一番きれいだったとき
                 茨木のり子
 
 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがら崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした
 
 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達が沢山死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった
 
 わたしが一番きれいだったとき
 だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
 男たちは挙手の礼しか知らなくて
 きれいな眼差だけを残して皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで

 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った
 
 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた

 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた

 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ

 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように
                ね
 
[33]茨城のり子


では、また‥〔了〕

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