2019年9月22日日曜日

【時習26回3−7の会 0775】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第13回 / 春「のがれたる人の許へ行(ゆく)とて」〕」「09月14日:【柳生の里(『正木坂刀禅道場』『芳徳寺』『柳生家の墓』『天石館神社』『一刀石』『柳生藩陣屋後』)】→【月ヶ瀬】→【伊賀上野城(『高石垣』『(模擬)天守閣』『俳聖殿』『芭蕉翁記念館』】→【芭蕉翁誕生之地】→【蓑虫庵】を巡って」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0775】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第13回 / 春「のがれたる人の許へ行(ゆく)とて」5)〕をお届けする。

  のがれたる人の許(もと)へ行(ゆく)とて
 
01(129) みかへれば白壁(しらかべ)いやし夕(ゆふ)がすみ  越人(1)
 
【意】俗世を捨てて隠棲した人を訪ねる / 振り返ってみると、夕霞の中に白壁の家(or土蔵)がくっきりと浮かび上がっている / 其の鮮明さが、春の夕暮れの靉靆(あいたい)(2)たる空気に不似合に感じられた
【解説】「いやし」は、不釣合いだ、の意 /「のがれたる人」というのは、逃亡者ではなくて、隠棲した人、あるいは家督を譲った隠居ぐらいの意 / 気分としてなんだか不釣合いな感じ
(1)越人:越智越人(1656-) /北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁等 /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /
 『更科紀行』に同行 / その際、江戸迄随行して一月後の作品『芭蕉十三夜』にも登場 /
 芭蕉は、蕉門の門弟 越智越人について、『庭竈集』の中で「尾張の十蔵、越人と号す / 越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ / これ我が友なり〔~「二人見し雪は今年も降りけるか」の【詞書】〕」と、好感を持って評している /『笈の小文』でも、芭蕉が伊良子岬に隠れ住む杜国を尋ねた際にも越人が随行している
(2)靉靆(あいたい):雲の盛んなさま / 曖昧ではっきりしないさま
 
02(130) 古池や蛙(かはづ)(とび)こむ水(みづ)のをと(1)  芭蕉

【意】古池がある / 蛙が晩春のあわれを告げる様に鳴いている / 一瞬の沈黙!/ 何かが水に落ちる音が聞こえた / 実は蛙が古池に飛び込んだ時の音だったのだ /
【解説】季語:蛙=三春 / 1686(貞亨03)年、芭蕉43歳の作 / 彼の作品中一番人口に膾炙した俳句の大傑作 /
 芭蕉は、1686(貞享03)年春、江戸蕉門の門弟多数 を芭蕉庵に集め、「蛙」を主題とする会を催した /
 古来、和歌の世界で「蛙」は、春の川辺に【鳴く】ものとして登場していたのを、芭蕉は、此の発句で初めて【音】として捉えた処が革新だった /
 1686(貞享03)年閏03月、「蛙」の句だけの40句を二句ずつ勝負させた計二十番句合と追加一句 / 各々判詞を付け『蛙合(かはづあはせ(仙化編))』として刊行、芭蕉(1644-94)の「古池や」の句は「第一番左」に、対する「第一番右」が編者 仙化(せんか(?-?))の「いたいけに蛙つくばふ浮葉哉」が掲載され、【判詞】「なし」に /以下、「第二番左」山口素堂(1642-1716)【判詞】左が勝ち、「第三番左」松倉嵐欄(1647-93)【判詞】左が勝ち、「第四番右」中川濁子(なかがわじょくし(?-?))【判詞】「同左」翠紅と引き分け、「第五番右」向井去来(1651-1704)【判詞】右の勝ち、「第十二番左」服部嵐雪(1654-1707) v.s.「第十二番右」小川破笠(おがわはりつ(1663-1747))【判詞】引き分け、「第十八番左」杉山杉風(1647-1732)【判詞】「同右」蚊足と引き分け、「第廿番左」河合曾良(1649-1710) v.s.欄「第廿番右」宝井其角(1661-1707)【判詞】「なし」と錚々たる蕉門の弟子たちが名を連ね、勝負で実力の程を示している /
 又、此の名句は、同年08月に芭蕉七分聚の一つ『春の日』にも収録された  / 今回ご紹介している此の発句である

【「古池や‥」の句が出来た経緯 】
 芭蕉は、中七・下五の「蛙飛ンだり水の音」 までできたが、上五に悩んでいた。そのことを其角に話したところ、其角は「山吹や」を提案 / しかし「山吹の花のしづえに折知りて啼く蛙」という定型表現からの提案はとらず「古池や」としたとされる / 又、談林風の「蛙飛ンだり」という表現を、「飛びこむ」と日常語に直し、侘(わび)や寂(さび)に繋がる「閑寂な美」や「古びいて品格ある趣」の世界を導き出した / 同趣旨のことを、後掲添付写真[48]「古池や蛙飛びこむ水の音」解説にも記されていた
(1)をと:正しくは「音(おと)
 
03(131) 傘張(かさはり)の睡(ねぶ)リ胡蝶(こてふ)のやどり哉(かな)  重五(1)
 
【意】傘張職人が張った傘を乾かしつつ糊が乾く束の間を居眠りしている / 舞い来った蝶が干した傘にとまり羽を休めている / 傘張りが目を覚まして傘を畳む迄の儚く僅かな時間だ
【解説】「胡蝶」は「胡蝶の夢」の故事から、儚いことの象徴
(1)重五:加藤善右衛門(1654(?)-1717.06.13(享年64))。尾張名古屋の材木問屋の豪商。『冬の日』の同人
 
04(132) (やま)や花(はな)墻根(かきね)かきねの酒(さか=さけ)ばやし  亀洞(1)
 
【意】山は花が咲いたであろうか / そう想像すると、惹かれて歩む路傍の家々の垣根は、新酒が出来た印(しるし)に掲げられる秋の酒ばやしの様にも思われるのだ
【解説】古来、難解な句の一つで、明快な解釈がない
(1)瓶洞:武井亀洞((たけい きどう)-1687) / 尾張名古屋の人。『春の日』に初出 / 越人の弟子(?) /『あら野』『庭竈集』にも入句
 
05(133) 花にうづもれて夢より直(すぐ)に死(しな)んかな  越人
 
【意】西行の辞世歌「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」に拠る
【解釈】季語:花(=桜花)=春 /「花の下にて」を「花にうづもれて」とした処が俳諧
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第14回/春~ 「春野吟」全 3句 &「選別」全 3句~〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、0914()に、以下の行程で「柳生の里 :『正木坂道場』『芳徳寺』=『柳生家の墓』『天石立神社』『一刀石』」「旧柳生藩陣屋跡」「月ヶ瀬」「伊賀上野城 :『高石垣』『天守閣』『俳聖殿』『芭蕉翁記念館』」「芭蕉翁誕生之地」「蓑虫庵 :『古池塚』『蓑虫庵』『芭蕉堂』」と巡って来たことについてお伝えする。
 
〔前日は、2115分に就寝〕
0220  起床腹筋2,000
0305  2.5kgの木刀素振り
0410  入浴朝食
0512  拙宅発一般道234km 3時間59
 
【柳生の里】

 柳生の里は、前々から一度は訪れてみたかったところである
 
0911  柳生の里 奈良市営駐車場着駐車場管理人から柳生の里観光の見所を聴取
0935  柳生の里駐車場発徒歩10
 
[01]市営駐車場から「芳徳寺」へ向かう参道にて

[02]「芳徳寺」「天乃石立神社・一刀石」「柳生陣屋跡」標識
                  

0945分『正木坂道場』着
 
[03]『正木坂道場』前にて1

[04]同上2
                  

0950分『芳徳寺』着
 
【芳徳寺〔臨済宗大徳寺派 / 山号:神護山(じんごさん)〕】

 此の寺は「柳生家」の菩提寺。1638(寛永15)年 徳川i家康・秀忠・家光の3代の将軍に剣術指南役として仕えた、12千石の大名で大目付の柳生藩主柳生宗矩(1571-1646)が開基。
 創建には沢庵宗彭(たくあんそうほう)も関わったとされている。
 初代住職は柳生宗矩の四男(末子) 列堂義仙((れつどうぎせん)1635-1702)
 柳生宗厳(むねよし(1527-1606))は、一時期松永久秀(1508-77)配下で活躍した。
 
1592(文禄元)年 柳生宗厳は入道して石舟斎を名乗る
1594(文禄03)年 石舟斎は徳川家康に拝謁、無刀取りの術技を示し家康から入門の誓詞を受け、剣術師範役に同行していた五男宗矩を推挙
1600(慶長05)年 柳生宗矩は、関ヶ原の戦直前、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う
           其の功績に撚り、戦後、父(宗厳)の代に失領した大和柳生庄2,000石復活
1601(慶長06)年 次期2代将軍 徳川家光(1604-51)の兵法(剣術)指南役に就任 / 同年9 1,000石加増され、3,000石の旗本に
1621(元和07) 3月 次期3代将軍徳川家光(1604-51)の兵法指南役となり、新陰流を伝授
1629(寛永06) 3月 従五位下に叙位、但馬守に任官
1632(寛永09) 10 3,000石を加増(6,000)された後、同年12月 初代の幕府惣目付(のちの大目付)に就任、老中・諸大名の観察を任務とした
1636(寛永13) 8 4,000石加増(→1万石)を受け大名に列し、宗矩は大和国柳生藩を立藩し初代藩主に
1640(寛永17) 9 500石の加増、及び前年に死去した宗矩の次男・友矩(1613-39)の遺領分2,000石の加増と併せ、所領は12,500石に
1646(正保03)年 宗矩の死後、柳生家第二代は長男三厳((みつよし=十兵衛)1607-50)となり 8,300
           同第三代・三男宗冬(1613-1675) 4,000石、四男の六丸(=列堂義仙) 200石と分地され、柳生家は旗本に
1650(慶安03)年 三厳の死後、宗冬が其のの家督と遺領(8,300石を継ぎ、自らの4,000石を幕府に返上)を継いだ
1668(寛文08)年 宗冬は 1,700石を加増され、大名(1万石)に / 爾来、明治維新を迎えた第13代俊益(とします(1851-1927))迄続いた
 
[05]「石舟斎累城址」石碑にて

[06]芳徳寺山門前にて
                  
[07]芳徳寺山門

[08]芳徳寺方丈を back
                  
[09]芳徳寺方丈から中庭を望む

[10]芳徳寺方丈にて
                  
[11]柳生宗矩像

[12]沢庵宗彰像
                  

1020  同所発徒歩4
1024分『柳生家の墓』着
 
[13]芳徳寺方丈から柳生家墓所への道

[14]柳生藩初代藩主柳生宗矩の墓
                  
[15]柳生家累代の墓群


 左下の写真が「柳生宗矩」のお墓。
 
1027分『柳生家の墓』発徒歩24
1051分『天石立神社』&『一刀石』着
 
[16]「天石立神社」鳥居の前にて
                  
[17]「天石立神社」のご神体「四座の神」巨石の前にて

[18]「式内天乃石立神社」由来
                  
[19]「一刀石」

[20]「一刀石」の前にて
                  

1101  同所発徒歩19
1120分『旧柳生藩陣屋跡』着
 
[21]「旧柳生藩陣屋跡」解説板にて

[22]「旧柳生藩陣屋跡」
                  

1130  同所発徒歩5
1140  柳生の里駐車場発一般道28km 59
 
1159  月ヶ瀬 立ち寄り〕
【月ケ橋から名張川遠望】
 
[23]月ヶ瀬橋から名張川を望む1

[24]同上2
                  
[25]月ヶ瀬観光案内図


1239  伊賀上野城駐車場着
〔コンビニにて軽食〕
1311  伊賀上野城着
 
【伊賀上野城】
 
[26]史跡(伊賀)上野城跡石碑にて
                  

1608(慶長13) 8月 伊予国宇和島城から藤堂高虎(1556-1630)が伊賀に入国
 豊臣秀頼の大坂城への備えと、大和国・紀伊国支配にも高虎の力量が必要との家康の判断に拠るものとされる。
1611(慶長16)年 年初より上野城大幅改修に着手、対大坂方に対抗すべく西方面の防御に注力
 
1316分『高石垣』着
 
 高石垣の規模の大きさは著名 / 南側を大手、堀は深く、南に二ノ丸を構築 / 西側に五層の天守閣建築に着手し、東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。
 
[27]高石垣にて1

[28]同上2
                  
[29]高石垣からお濠を望む1

[30]同上2
                  
[31]同上3


1324分『天守閣』着
 
1612(慶長17) 9月 天守は倒壊
1615(慶長20)年 大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡し堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった
 
[32]天守閣を back 1
                  
[33]同上2

[34]同上3
                  
[35]同上4


 外堀の土塁上には、二層櫓が2棟、単層櫓が8棟、計10棟の櫓と、長さ21間、両袖に7間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門が建てられた。
 高虎は大坂の陣後、交通の利便性の高い津城を本城とし、上野城を支城とした。
1615(慶長20) 6月 一国一城令にて上野城は伊賀国の城として存続が認められ、高虎は弟の藤堂隆清(1585-1640)を城代とし、以後、1825(文化8)年 津藩19代藩主藤堂高猷(1813-95)が最後の上野城主となる迄藤堂氏が歴代世襲した

[36]俳聖殿手前の赤鳥居の前にて
                  

1340分『俳聖殿』着
 
[37]【重文】俳聖殿の前にて1

[38]同上2
                  
[39]「俳聖殿」解説板

[40]堂内に安置されている芭蕉座像
                  

1350分『芭蕉翁記念館』着
 
[41]芭蕉翁記念館前にて


1403  同所発徒歩10
1414分『芭蕉翁誕生之地』着
 
[42]史跡芭蕉翁誕生之地石碑にて1
                  
[43]同上2

[44]芭蕉翁生家
                  

1423  同所発徒歩18
1447  蓑虫庵着
 
[45]「蓑虫庵」入口前にて


1456分『古池塚』
 
【松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔春「のがれたる人の許へ行(ゆく)とて」5)〕】
 
  古池や 蛙(かはづ)(とび)こむ 水(みづ)のをと(1)  芭蕉
 
【意】古池がある / 蛙が晩春のあわれを告げる様に鳴いている / 一瞬の沈黙!/ 何かが水に落ちる音が聞こえた / 実は蛙が古池に飛び込んだ時の音だったのだ /
【解説】季語:蛙=三春 / 1686(貞亨03)年、芭蕉43歳の作 / 彼の作品中一番人口に膾炙した俳句の大傑作 /
 芭蕉は、1686(貞享03)年春、江戸蕉門の門弟多数 を芭蕉庵に集め、「蛙」を主題とする会を催した /
 古来、和歌の世界で「蛙」は、春の川辺に【鳴く】ものとして登場していたのを、芭蕉は、此の発句で初めて【音】として捉えた処が革新だった /
 1686(貞享03)年閏03月、「蛙」の句だけの40句を二句ずつ勝負させた計二十番句合と追加一句。
 各々判詞を付け『蛙合(かはづあはせ(仙化編))』として刊行。
 芭蕉(1644-94)の「古池や」の句は「第一番左」に、対する「第一番右」が編者 仙化(せんか(?-?))の「いたいけに蛙つくばふ浮葉哉」が掲載され、【判詞】は「なし」に、
 以下、「第二番左」山口素堂(1642-1716)【判詞】左が勝ち、
 「第三番左」松倉嵐欄(1647-93)【判詞】左が勝ち、
 「第四番右」中川濁子(なかがわじょくし(?-?))【判詞】「同左」翠紅と引き分け、
 「第五番右」向井去来(1651-1704)【判詞】右の勝ち、
 「第十二番左」服部嵐雪(1654-1707) v.s.「第十二番右」小川破笠(おがわはりつ(1663-1747))【判詞】引き分け、
 「第十八番左」杉山杉風(1647-1732)【判詞】「同右」蚊足と引き分け、
 「第廿番左」河合曾良(1649-1710) v.s.欄「第廿番右」宝井其角(1661-1707)【判詞】「なし」、と錚々たる蕉門の弟子が名を連ね、勝負の実力の程を示している。
 又、此の名句は、同年08月に芭蕉七分聚の一つ『春の日』にも収録された 。
 今回ご紹介している此の「古池や‥」の発句である。

【「古池や‥」の句が出来た経緯 】
 芭蕉は、中七・下五の「蛙飛ンだり水の音」 迄出来たが、上五に悩んでいた。 そのことを其角に話したところ、其角は「山吹や」を提案。
 しかし「山吹の花のしづえに折知りて啼く蛙」という定型表現からの提案はとらず「古池や」としたとされる。
 談林風の「蛙飛ンだり」という表現を、「飛びこむ」と日常語に直し、侘(わび)や寂(さび)に繋がる「閑寂な美」や「古びいて品格ある趣」の世界を導き出した。
 同趣旨のことは、添付写真の「古池塚」の「解説板」にも記されていた。
(1)をと:正しくは「音(おと)
 
[46]古池塚にて1
                  
[47]同上2

[48]「古池や蛙飛びこむ水の音」解説
                  
[49]古池塚

[50]古池塚に刻まれた蛙〔拡大写真〕
                  

1505分『蓑虫庵』
1505分『蓑虫庵』
 
【蓑虫庵】

【『野ざらし紀行』の原文】

 水口(みなくち)にて廿年(にじゅうねん)を経()し古人(こじん)に逢(あふ)

  命二つの中に活(いき)たる桜哉(かな)  芭蕉
 
【『蓑虫庵』の由来】
 「近江水口にて、二十年をへて故人にあふ」の故人とは芭蕉の故郷 伊賀上野から会いに来た服部土芳
 伊賀における蕉門の第一人者(‥蕉門十哲に数えられることもある‥)
1657(明暦03)年 土芳は伊賀上野生まれの藤堂藩士で槍手。通称:服部半左衛門。
1665(寛文05)年 土芳は若干9歳で藤堂藩侍大将藤堂良清の三男藤堂良忠主催の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」で名声を博したのを機に迎えた芭蕉(=当時は松尾宗房と名乗り22)の第1号弟子となった。
 水口での芭蕉と土芳の再会の模様は『芭蕉翁全傳』に次の様にある。
 「些中庵土芳その頃蘆馬と称す。此春播磨にありて帰る頃、翁ははや此国を出られければ、跡を慕ひて京に上る。同じ旅ねの夜すがら語りあかすとて「命二つの中に活きたる桜かな」。翌日中村柳軒というふ医のもとに招かれ、此句にて二十年来の旧友二人に同じ句を以って挨拶しあたりと一興。其里の蓮華寺、伊賀の大仙寺巌州各四五日対話、歌仙などあり」
1685(貞享02)年『野ざらし紀行』の旅の折に芭蕉と20年ぶりの再会を果たした。
1688(貞享05)034 土芳は当地伊賀上野に些中庵(さちゅうあん)を開く。芭蕉の発句「蓑虫(みのむし)の音()を聞()きに来()よ草(くさ)の庵(いほ)(1)から「蓑虫庵(みのむしあん)」と改名した。
(1)此の句は、1687(貞享04)年作。芭蕉は、此の句で秋の虫の音を聴く会を開催すべく芭蕉庵へ誘った
 翌1688(貞享05)0304 伊賀上野で服部土芳は些中庵を開いたが、同月11日 芭蕉が『笈の小文』の途上、同庵に立ち寄り句会を開いた。
 其の時、芭蕉は一枚の俳画を土芳に贈ったが、その画讃にこの句があったので、師の蕉翁の了解を得て「蓑虫庵」に改名したという。
 又、別説では、此の句会の發句が此の句であったから、とも。
 
[51]蓑虫庵の縁側にて1

[52]同上2
                  
[53]同上3

[54]蓑虫庵の内部1
                  
[55]蓑虫庵の内部と縁側

[56]蓑虫庵の内部2
                  
[57]同上3

[58]蓑虫庵の外観1
                  
[59]同上2

[60]蓑虫庵入口にて
                  
[61]芭蕉堂

[62]蓑虫庵庭内の若菜塚
                  
[63]若菜塚「句意」解説

 
【小生comment
 「蓑虫庵」は、伊賀の芭蕉翁五庵のうち現存する唯一の草庵。
 些細なことだが、此の庵は、庵の入口の説明看板には、「服部土崩が(30)致仕後、元禄元(1688)年 城下町はずれに結んだ草庵で些中庵と名付けた」とあった。
 が、元禄元年は16880930日から始まったので厳密に言えば、庵を開いた168834はまだ貞享05年である。
 いずれにしても、此の「蓑虫庵」は二度目の訪問であるが、「蓑虫庵」といい、「古池塚」といい、芭蕉ファンにとっては外せない史跡である。

1511分『芭蕉堂』
1520  同所発一般道164km→
1914  帰宅/走行距離計427km〔了〕

                   
 
【後記】20年ぶりに弟子の服部土芳に再会した際詠んだ此の名句は感動的な傑作だ。
 『野ざらし紀行』の旅にあった芭蕉は、1685(貞享02)03月、東海道水口宿で20年ぶりに服部土芳と再会した。
 句はこの時の感動を伝えている。土芳の著述とされる芭蕉伝に次のように記されている。
 「是ハ水口ニテ土芳ニ玉ル句也。土芳、此年ハ播磨ニ有テ帰ル頃ハ、ハヤ此里ヲ出ラレ侍ル。
 ナヲ跡ヲシタヒ、水口越ニ京へ登ルニ、横田川ニテ思ハズ行逢ヒ、水口ノ駅ニ一夜昔ヲ語シ夜ノ事也。
 明の日ヨリ中村柳軒ト云医ノモトニ招レテ、又此句ヲ出シ、廿年ノ旧友二人挨拶シタリ、ト笑ワレ侍る」(『伝土芳筆全伝』)
 
  命二つ の中に活(いき)たる 桜哉(かな)  芭蕉

【意】20年ぶりに郷里の友との再会の喜びに浸っている二人の目で見上げると、眼前に満開の桜が一際(ひときわ)生き生きと二人の目に映った
【解説】桜花という自然の情景に作者芭蕉の旧友と再会を果たした感動を反映させた、しみじみとして印象鮮やかな名句である
 
 では、また‥〔了〕

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