今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第36回/第341句~351句〕」をご紹介する。
341 河骨(かはほね(こうほね))(注1)に水(みづ)のわれ行(ゆく)ながれ哉(かな) 芙水(注2)
【意】川底に生えている河骨(コウホネ)が確り水を堰き分けているので、其処で川の流れが二分されている
【解説】季語:河骨=仲夏 /
(注1)河骨((=川骨)かはほね・こうほね):睡蓮(スイレン)の一種 / 水生植物 / 根・茎・葉ともに強靭で、晩夏に水上に大きな葉を開き、黄色の花を咲かせる、逞しさを感じさせる植物
[01]河骨〔写真〕
[02]同上〔絵〕
(注2)芙水(ふすい):人物について詳細未詳
342 はらはらとしみづに松の古葉(ふるは)哉(かな) 長虹(注1)
【意】清冽(=水が清く澄んで冷たいこと)に湧き出る清水の流れに、水辺の松葉が誘い込まれる様に散り込む
/ 寿命を終えようとする松の古葉が微妙な力で落ちる様を、清水が湧き出る力と対比させた句
【解説】季語:しみづ=三夏 /
(注1)長虹(ちょうこう(生没年不)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺)/ 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.08.15(貞亨05年07月20日)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
343 すみきりて汐干(しほひ)の沖(おき)の清水(しみづ)哉(かな) 俊似(注1)
【解説】季語:しみづ=三夏 /
(注1)長虹(ちょうこう(生没年不)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺)/ 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.08.15(貞亨05年07月20日)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
343 すみきりて汐干(しほひ)の沖(おき)の清水(しみづ)哉(かな) 俊似(注1)
【意】普段は海底になって見えなかった所が、潮が引き清水が湧き出しているのが見える
/ 其の澄み切った美しさと冷たさが伝わって来る様だ
【解説】季語:清水=三夏 /
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句
344 連(つれ)あまた待(また)せて結(むす)ぶ(注1)し水(みづ)哉(かな) 文潤(注2)
【解説】季語:清水=三夏 /
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句
344 連(つれ)あまた待(また)せて結(むす)ぶ(注1)し水(みづ)哉(かな) 文潤(注2)
【意】余程高貴な人なのだろう
/ 沢山の供を待たせた儘、清水を手に掬って飲んでいる
【解説】季語:清水=三夏 /
(注1)結ぶ:清水に関しては手で掬(すく)って水を飲むこと
(注2)文潤(ぶんじゅん):人物について詳細不明
345 引立(ひきたて)て馬にのまするし水(みづ)哉(かな) 潦月(注1)
【意】冷たく美味しい清水だから、自分だけでなく、愛馬にも飲ませてやりたく思い傍らに連れて行く / しかし、馬が喜んだかどうかは分からない
【解説】季語:し水=三夏 /
(注1)潦月:人物ついて詳細不詳
346 かたびらは浅黄(あさぎ)着(き)て行(ゆく)清水(しみづ)哉(かな) 尚白(注1)
[03]帷子(かたびら)〔写真〕
(注1)江佐尚白(えさ しょうはく(?)-1722.08.30(享保07年07月19日)):江左氏 / 千那の親友で1685(貞亨02)年以来の近江蕉門膳所の人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 後年、此の書物の出版をめぐり師弟間が事実上崩壊 / 其の間の事情は、千那宛書簡四 1691.11.17(元禄04年09月28日)に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡 1693.06.07(元禄06年05月04日)に窺われる / 句集『弧松』・『夏衣』等もある
347 直垂(ひたたれ)(注1)をぬがずに結(むす)ぶ(注2)しみづかな 一髪(注3)
【意】直垂(ひたたれ)を着ているから相応に身分ある武士であろう / 長い袖の直垂を脱がずに清水を手で掬って鮮やかに飲んでいる / 清(すが)しい姿である
【解説】季語:しみづ=三夏 /
(注1)ひたたれ(=直垂):主に武家社会で用いられた男性用衣服
[04]直垂(ひたたれ)〔写真〕
(注2)結ぶ:前掲344に同じ〔←・清水に関しては手ですくって水を飲むこと〕
(注3)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明
348 虫(むし)ぼしや幕(まく)をふるえ(=へ)ばさくら花(ばな) 卜枝(注1)
【意】旧暦6月の土用干し / 干したのは、春の桜の花見に桜木の周りに張り巡らした紅白の幕 / 其れを虫干ししようと振るい広げると干からびた桜の花弁がパラパラと落ちて出て来た
【解説】季語:虫干(むしぼ)し=晩夏 /
(注1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していた伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
349 麻(あさ)の露(つゆ)皆(みな)こぼれけり馬の路(みち) 岐阜 李晨(注1)
[05]麻〔写真〕
【意】馬が通る街道沿いには人の背丈ほどの麻畑
/ 其の街道を馬を引いて通ると朝露が一斉に落ちた / 爽快な晩夏の朝景色‥
【解説】季語:麻=晩夏 / 麻は、夏季2m以上に生長、特徴ある細長い葉を付ける
(注1)李晨(りしん(生没年不詳)):美濃国の人 / 同じ岐阜蕉門の落梧などと親しい /『阿羅野』に2句入集
350 釣鐘草(つりがねぐさ・つりがねそう)(注1)後(のち)に付(つけ)たる名(な)なるべし 越人(注2)
【意】「釣鐘」は仏教伝来以後の所産だから、釣鐘草の名前も仏教伝来以後に付けられたということだナ
【解説】季語:釣鐘草=仲夏 /
(注1) 釣鐘草(つりがねぐさ・つりがねそう):ホタルブクロのこと
[06]釣鐘草(=蛍袋(ホタルブクロ))〔写真〕
(注2)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
351 綿(わた)の花(はな)たまたま蘭(らん)に似(にた)るかな 素堂(注1)
[07]綿の花〔写真〕
【意】木綿の花がランに似ているというは、ホント偶々であろう / 両者は通常似ても似つかないから‥
【解説】季語:綿の花=晩夏 /
(注1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75歳):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人(云) / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等/ 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表
【小生 comment】
いつも10句ずつ紹介しているが、今回は11句ご紹介した。此れで、「巻之三」が丁度終わるからだ。だから、次回は1句減らして9句ご紹介することとする。
即ち、俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第37回/『巻之四』第352句~360句〕をご紹介する。お楽しみに!
【解説】季語:清水=三夏 /
(注1)結ぶ:清水に関しては手で掬(すく)って水を飲むこと
(注2)文潤(ぶんじゅん):人物について詳細不明
345 引立(ひきたて)て馬にのまするし水(みづ)哉(かな) 潦月(注1)
【意】冷たく美味しい清水だから、自分だけでなく、愛馬にも飲ませてやりたく思い傍らに連れて行く / しかし、馬が喜んだかどうかは分からない
【解説】季語:し水=三夏 /
(注1)潦月:人物ついて詳細不詳
346 かたびらは浅黄(あさぎ)着(き)て行(ゆく)清水(しみづ)哉(かな) 尚白(注1)
[03]帷子(かたびら)〔写真〕
【意】わざわざ清水を飲みに出かけるとは、土地で有名な清水なのであろうか? 其の人達は浅葱色の帷子(かたびら)を来ている
【解説】季語:かたびら(=帷子)=晩夏、清水=三夏 /(注1)江佐尚白(えさ しょうはく(?)-1722.08.30(享保07年07月19日)):江左氏 / 千那の親友で1685(貞亨02)年以来の近江蕉門膳所の人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 後年、此の書物の出版をめぐり師弟間が事実上崩壊 / 其の間の事情は、千那宛書簡四 1691.11.17(元禄04年09月28日)に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡 1693.06.07(元禄06年05月04日)に窺われる / 句集『弧松』・『夏衣』等もある
347 直垂(ひたたれ)(注1)をぬがずに結(むす)ぶ(注2)しみづかな 一髪(注3)
【意】直垂(ひたたれ)を着ているから相応に身分ある武士であろう / 長い袖の直垂を脱がずに清水を手で掬って鮮やかに飲んでいる / 清(すが)しい姿である
【解説】季語:しみづ=三夏 /
(注1)ひたたれ(=直垂):主に武家社会で用いられた男性用衣服
[04]直垂(ひたたれ)〔写真〕
(注2)結ぶ:前掲344に同じ〔←・清水に関しては手ですくって水を飲むこと〕
(注3)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明
348 虫(むし)ぼしや幕(まく)をふるえ(=へ)ばさくら花(ばな) 卜枝(注1)
【意】旧暦6月の土用干し / 干したのは、春の桜の花見に桜木の周りに張り巡らした紅白の幕 / 其れを虫干ししようと振るい広げると干からびた桜の花弁がパラパラと落ちて出て来た
【解説】季語:虫干(むしぼ)し=晩夏 /
(注1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していた伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
349 麻(あさ)の露(つゆ)皆(みな)こぼれけり馬の路(みち) 岐阜 李晨(注1)
[05]麻〔写真〕
【解説】季語:麻=晩夏 / 麻は、夏季2m以上に生長、特徴ある細長い葉を付ける
(注1)李晨(りしん(生没年不詳)):美濃国の人 / 同じ岐阜蕉門の落梧などと親しい /『阿羅野』に2句入集
350 釣鐘草(つりがねぐさ・つりがねそう)(注1)後(のち)に付(つけ)たる名(な)なるべし 越人(注2)
【意】「釣鐘」は仏教伝来以後の所産だから、釣鐘草の名前も仏教伝来以後に付けられたということだナ
【解説】季語:釣鐘草=仲夏 /
(注1) 釣鐘草(つりがねぐさ・つりがねそう):ホタルブクロのこと
[06]釣鐘草(=蛍袋(ホタルブクロ))〔写真〕
(注2)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
351 綿(わた)の花(はな)たまたま蘭(らん)に似(にた)るかな 素堂(注1)
[07]綿の花〔写真〕
【意】木綿の花がランに似ているというは、ホント偶々であろう / 両者は通常似ても似つかないから‥
【解説】季語:綿の花=晩夏 /
(注1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75歳):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人(云) / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等/ 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表
【小生 comment】
いつも10句ずつ紹介しているが、今回は11句ご紹介した。此れで、「巻之三」が丁度終わるからだ。だから、次回は1句減らして9句ご紹介することとする。
即ち、俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第37回/『巻之四』第352句~360句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、06月27日(土)に、縁あって市内向山にある art-age gallery に行って来たことについてである。
最近迄、画廊を経営されていた I さんの所蔵作品の展示即売会が前日から開催中だった。
[08]橋本明治(1994.08.05-91.03.25)の静物画(lithograph)
[12]堀文子(1918.07.02-2019.02.05)『名もなき草たち』(lithograph)
I さんは、小生の現勤務先と同じ Group の member でもある。
展示作品は、当地の画家の巨匠、旧小坂井町出身の 平川敏夫(1924.10.16-2006.05.14)、豊橋市出身の中村正義(1924.05.13-77.04.16)、豊川市出身の大森運夫(1917.09.23-2016.09.29)、豊橋商業高校校長だった鈴木睦美(1929-2012)や、元日展評議員の木下孝則(1894-1973)や、点描画家 芦田芳生(1925-2010)、北川民次(1894.01.17-1989.04.26)の肉筆画、lithograph では、横山大観(1868.11.02-1958.02.26)、上村松園(1875.04.23-1949.08.27)、上村松篁(1902.11.04-2001.03.11)村、上村淳之 (あつし)(1933.04.12- )、山口蓬春(1893.10.15-1971.05.31)、元日展理事長 中山忠彦(1935.03.20- )、マリー・ローランサン(仏:Marie Laurencin 1883.10.31-1956.06.08)、仏 Paris 生まれのジャン=ピエール・カシニョール(Jean-Pierre Cassigneul(1935.07.13- ) etc. が大変なお値打ち価格で販売されていた。
小生は、lithograph で、日本画家の泰斗、橋本明治(1994.08.05-91.03.25)の静物画(写真[08])を拙宅に、油彩画で、能仲ヤツヲ(1933-2008)『青春』(写真[09])と、米国 New York 生まれの Nate Giorgio(ネイト・ジョルジオ(1961- ))の lithograph (写真[11])を横浜市内に家を建てた愚娘用に、夫々大変なお値打ち価格で手に入れることが出来た。
添付写真の絵は此のほか、lithograph で、堀文子(1918.07.02-2019.02.05)『名もなき草たち』(写真[12])、同じく lithograph で、小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)『寒椿』1981年(写真[13])は、2点共に東京銀座の Gallery で購入した小生の宝。
上記写真を up したら、【時習26回 3-4】の同期生でFacebook のお友達の岩瀬君から以下の様な質問があった。
→・「お宝がだんだんと増えていきますよね.ところで,絵を飾る場合,どのような心境なんですか?鑑賞して心を豊かにする,これならリトでも,印刷でも良いですよね.やはり油で資産として持つのでしょうか?」
此の質問に、小生は以下の通り答えた。
→・「小生の場合、「真・善・美」を全ての物事の価値判断基準にしている。
だから絵を飾る場合の心境は「審美上の『美』」を本能的に求めていることだ。
即ち、美しいものを見ることに拠り「癒し」と「ときめき」を感じ、此等が小生に心の安らぎ、延いては肉体・精神両面に少なからずの『若さ』を与えてくれている。
其の際、其の「美しさ」を発している対象物〔←此の場合は『絵画』〕が「認識上の『真』」、即ち「本物であること」を理想として此れも本能的に求めている。
しかし、本物を手に入れたいと本能は求めているのだが、現実問題として、本物は稀少であり、ましてや名画の肉筆画ともなると大変高価になり、金持ちでない小生には入手はとても困難というのが現実である。
其処で、本物になるべく近い形で価格もお手ごろな lithograph 等の「版画」取得という次善の策が登場する。
しかし細かなことを言うと、同じ作者が描いた絵の lithograph にも rank があって、作者本人が生前に署名したもの方が、作者の死後、著作権相続者が刷らせた「後刷り」のものより価値がかなり高くなる。
だから、昨日の展示即売会でも、とても綺麗な横山大観の「後刷り」の lithograph が「後刷り」より安価な版木を作り直した「復刻版」並のお手ごろ価格で売り出されていた。
其の時、大観の美しい作品に魅せられ直ぐに触指が動いた小生だが、大観には及ばないものの、日本画が好きな者なら誰でも知っている巨匠の橋本明治が自身で署名した lithograph を紹介され、其の絵が魅力的であったことと相俟って橋本明治自身の署名入りの lithograph を購入することにしたという次第。
此の他、小生が宝として持っている小倉遊亀(1895.03.01-2000.07.23)の lithograph は、彼女の肉筆画の『寒椿』1981年を彼女が亡くなる2000年春に lithograph にして彼女の署名入りで発売されたものであること、堀文子(1918.07.02-2019.02.05)の肉筆画『名もなき草たち』2015年も、彼女が亡くなる3年余り前の肉筆画作成と同じ2015年に lithograph も作成販売された〔←・彼女独特の signature 入り〕ものであること、等に拠り此等2点は相応に資産価値がある旨画廊の owner が教えてくれたことがある。
小生自身は、美しい絵画が純粋に好きなだけで宝にしている訳だが、当該作品群を将来手にするであろう絵画にあまり興味ない子供たちも、資産として換金する価値があると聞けば、多少は大切に扱ってくれるだろう、という観点から、本人に拠る肉筆画や本人署名入りの lithograph を持っている。
尚、本人肉筆画がどんな精緻な lithograph 拠り「認識上の『真』」の点で勝ることは言う迄もありません」、と。
■続いては、06月28日(日)に、『田原市博物館(=田原城趾)』→平野美術館『富士へのあこがれ』展と巡って来たことについてである。
其の日は、朝から雨が降っていたが、昼過ぎ迄以下の通り行動した。
05時30分 起床→腹筋2,000回
06時30分 2.5kg木刀素振り60分
07時45分 入浴→支度→
08時45分 拙宅発→一般道19.3㎞ 47分→
09時32分 田原市博物館駐車場着
【田原市博物館=旧田原城趾】
[22]田原市博物館(境内)入口
田原藩は、戸田尊次(とだ たかつぐ(1565-1615))が初代田原藩主として伊豆国下田より1万石にて入封
第3代藩主戸田忠治(とだ ただはる(1631-99))は、1628年 2万1,850石にて肥後国天草富岡城へ移封
代わって、拳母藩より三宅康勝(1628-87))が1万2千石三宅初代田原藩主に
1827(文政10)年 播磨国姫路藩15万石酒井家第4代藩主酒井忠実(1779-1848)の6男 康直(1811-93)が、田原藩に養子入婿し第11代藩主〔藩主在位1827~50年〕に
因みに、三宅田原藩1万2千石は、遠山苗木藩1万石に次ぎ、石高の少ないNo.2の城持ち大名の中である
猶、第1展示室には、渡辺崋山(1793.10.20-1841.11.23)が自刃した時に使用した【重文】自決脇差〔東播士祐国作〕と「不忠不孝渡邉登」と書かれた「自筆墓表〔複製〕」が展示されていた
[25]戸田氏系譜
10時23分 田原市博物館駐車場発→一般道1時間28分 50.3km /69.6km→
11時51分 平野美術館着
【平野美術館】
[32]平野美術館 同館前の本企画展看板横にて
12時28分 平野美術館発→一般道 54分 37.3km/108.1km
13時22分 帰宅〔了〕
【小生 comment 】
田原市博物館に行く時は流石に雨に見舞われたが、浜松市の平野美術館へ向かう途中から雨があがった。
今日も、田原藩の歴史と渡辺崋山の生涯を復習し、富士山の名画の数々を数時間のうちに鑑賞出来た充実した半日を過ごすことが出来た。
■今日最後の話題は、6月29日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第7回〕を up したので、其れについてお届けする。
『奥の細道』〔第7回〕:2015年7月 5日(日)付【時習26回3-7の会0555】~「今夏【2637の会】クラス会について《続々々報》」「『奥の細道』第7回‥『尿前の関』『尾花沢』‥」「06月27日:浜松市美術館『マリ―・ローランサン』展を見て」「磯田道史著『武士の家計簿』を読み、DVD『同左』を見て」
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/260555263770627.html
前〔第6回〕では、元禄二(1689)年 五月八日(新暦06月24日/「仙台」発)~五月十三日(新暦06月29日/「一関(06/28)」→「平泉(06/29)」→「一関(06/29)」)にかけて六日間の芭蕉一行の話をお伝えした。
今回は、松尾芭蕉 作『奥の細道』の其の第7回目。
元禄二(1689)年 五月十三日(新暦06月29日/「一関」発)~五月十九日(新暦07月05日/
「尾花沢」滞在三日目(注)) にかけて七日間の芭蕉一行の話である。
因みに、芭蕉と曽良は、五月十七日~二十六日(新暦07月03日~12日)迄の10泊を「尾花沢」の豪商鈴木清風宅にて歓待を受けている。
以下に「一関」から「尾花沢」での芭蕉一行の行程を以下に記す。
五月十三日(新暦06月29日) 前日の十ニ日より宿した 一関〔宿記載なし〕を十三日に平泉向けて出発し日帰りで又一関に宿し2泊す
〔‥「平泉」を訪れた日の天候は、【曽良旅日記】では「天記明」とあり、晴天であった‥〕
同 十四日( 同 06月30日) 岩手山〔宿記載なし〕に泊す
〔‥【曽良旅日記】朝天気吉、雷雨ののち晴、又曇って折々小雨する‥〕
同 十五~十六日( 同 07月01~02日) 堺田〔和泉庄屋新右衛門兄宅か?〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】07月01日 小雨/02日 大雨‥〕
同 十七~二十六日( 同 07月03~12日) 尾花沢〔10泊のうち17・21・23日の3泊を鈴木清風宅に、残りの7泊は養和泉寺〕に10泊す
〔‥【曽良旅日記】03日 快晴、大夕立に逢う/04日 小雨す/05日 朝晴る、夕方小雨す/06日 小雨/07~09日 天候の記載なし/10日 十七日(=尾花沢到着の日)より終日晴明の日なし/11日 折々小雨す/12日 小雨す‥〕
同 二十七日( 同 07月13) 立石寺へ向かう〔‥【曽良旅日記】天気能(よし)‥〕
【小生comment】
芭蕉一行が「平泉」を訪れた日から最上の「立石寺」を訪れた五月十三日~二十七日(新暦06月29日~07月13日)の15日間。
この間、「平泉」と「立石寺」を訪れた二日こそ晴天だったが、残りの13日間は一日のうちに必ず雨が降ったと、【曽良旅日記】は記している。
326年前も、現代と同様に雨が降り続く梅雨の季節真っ只中であったのである。
【尿前(しとまえ)の関】
[42]『尿前の関』跡
《原文》
南部道(注1)遙にみやりて、岩手の里(注2)に泊る。
小黒崎・みづの小島(注3)を過て、なるご(注4)の湯より尿前の関(注5)にかゝりて、出羽(では)の国(注6)に越んとす。
此路(このみち)旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
大山(おほやま)(注7)をのぼつて日既暮ければ、封人(ほうじん)(注8)の家を見かけて舎を求む。
三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿(しと)する枕もと
あるじの云(いふ)、是より出羽の国に、大山を隔(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越べきよしを申(もうす)。
さらばと云(いひ)て、人を頼(たのみ)侍れば、究竟(くっきょう)(注9)の若者、反脇指(注10)をよこたえ(=へ)、樫の杖を携(たずさへ)て、我々が先に立て行(ゆく)。
けふこそ必(かならず)あやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひ(注11)をなして後(あと)について行(ゆく)。
あるじの云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)(注12)として一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下闇(やみ)茂りあひて、夜る行(ゆく)がごとし。
雲端(うんたん)につちふる(注13)心地して、篠(しの)(注14)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄(注15)に出づ。
かの案内せしおのこの云(いふ)やう、「此(この)みち必不用(ぶよう)の事有(あり)。恙(つつが)なうを(=お)くりまいらせて仕合(しあはせ)したり」と、よろこびてわかれぬ。
跡(=後)に聞(きき)てさへ胸とヾろくのみ也。
《現代語訳》
南部道(注1)を遥かに見って、道を引き返し、岩出山の里(注2)に泊まる。
此処から、小黒ヶ崎や美豆の小島(注3)を過ぎ、鳴子温泉(注4)から尿前の関(注5)を越え、出羽の国(注6)へ行こうというのである。
処が、この道は滅多に旅人の通らない道である為、関守に怪しまれて中々通してくれない。
漸く通行許可が下りて、中山峠(注7)を越えた頃にはもうすっかり日が暮れて仕舞った。
国境の番人(注8)の家を見つけたので其処に泊めて貰うことにした。
処が、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになって仕舞った。
【意】蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ
この家の主の言うには、此処から出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、その為には誰か道案内をつけなければ無理だという。
其処で人を頼むことにした処、屈強(注9)な若者が来てくれた。見れば、反り脇差し(注10)を腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくし(注11)ながらついて行く。
有路家の主の言ったように、高山は森々(注12)として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。
強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。
篠の藪(注14)を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。
(注1)南部道:盛岡へ通じる南部街道
(注2)岩手(いわで)の里:「岩手」=「歌枕」/
【詞書】前大僧正慈円、ふみにては思ふほどのことも申しつくしがたきよし、
申しつかはして侍りける返事に
みちのくの いはでしのぶは ゑぞ知らぬ 書き尽くしてよ 壺の石碑 / 前右大将(源)頼朝(1147-99)
〔新古今集‥巻第18‥雑歌下‥1785〕
【意】陸奥の歌枕「岩手」や「信夫」、或いは「蝦夷」ではないが、言わずに我慢しているのだと仰るのではお心の程が解りません
すっかり書き尽くして下さい、壺の碑ならぬ文に託して
思へども いはでの山に 年をへて 朽ちやはてなむ 谷のむもれ木 / 左京大夫(藤原)顕輔(1090-1155)
〔千載集 巻第11 恋歌一 651〕
【意】貴女のことを思っても、それを告げることなしに年月を経て、
わが恋は谷の埋れ木の様になって仕舞うのだろうか
(注3) 小黒ヶ崎や美豆の小島:「歌枕」
小黒崎(をぐろざき) 美津(みつ)の小島の 人ならば 都の苞(つと)に いざと言はましを
〔巻第20‥大歌所御歌‥東歌‥陸奥‥1090〕
【意】小黒崎の美津(みつ)小島は実に美しい
もしそれが人であるのならば、京(みやこ)に帰るのに「さぁ、一緒に行こうよ!」と誘って行きたい処だ
(注4)なるご:現在の鳴子温泉
【鳴子の名の由来】一説に、源義経が北行(源頼朝に追われて平泉へ落ちのびる途中)した際の故事に由来する
それは、出羽の国で夫人(=静御前)が子供(亀若丸)を産み、この地に来て産湯をつかわせた
そうした処、呱々の声をあげたこと(=誕生した時の産声)から来る「啼子」説
もう一説は、承和04(837)年に潟山が大爆発し、熱湯が轟音をあげて噴出したことから、村人が「鳴郷の湯」と名付けたとする〔以上、鳴子温泉旅館組合 Homepage より引用〕
(注5)尿前の関:鳴子温泉より西へ2kmにある/仙台領(陸奥)から出羽領へ越す仙台藩の重要な関所
【尿前の由来】については、アイヌ語説を始め諸説あるので此処では触れない
(注6)出羽の国:大体現在の秋田県と山形県に相当する
(注7)大山:鳴子から羽前に出る中山越えの山道
[43]封人の家
(注8)封人:関守(=国境を守る役人)〔←「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とあるが実際は二泊である〕/ 堺田(さかいだ)は海抜354mの山中にある小集落/芭蕉一行が泊めて貰ったのは和泉屋という庄屋の家で、関守と農業を兼務 / 現在、同所は和泉屋氏の有路氏の住居となっている / 芭蕉は、随分むさくるしい所に宿した様に書いているが、庄屋の家であり集落一の大きな家だったと思われる / 同地は、小国郷(おぐにごう)と言い、小柄で精悍な小国駒(おぐにこま)の産地 / 南部の曲屋(まがりや)は、母屋(おもや)と馬小屋が接続してる建築形式で、同地では一般的な家屋である /『奥の細道』では、「歌枕」や名所旧跡・古戦場ばかり詠み込んでいた芭蕉が、此処では「蚤 / 虱 / 馬の尿(しと)」と是迄とは趣が全く違う俳句を詠んだ
山本健吉氏は次の様に解説している。
五月十五日(07月01日)、新右衛門宅に宿泊した芭蕉と曽良は、翌十六日早朝出発する予定だったが、梅雨の時節でもあり、同日は終日のどしゃぶりの為、悪路の峠越えを避け出立を一日順延。
曾良の『旅日記』に「十七日(07月03日) 快晴。堺田を立」とある様に尾花沢へ向かった。
彼等一行は、一日分の遅れを取り戻すべく、幹線の羽州街道ではなく、脇道の、一刎(いちばね)から「山刀伐(なたぎり)峠」を越す近道を選んだ。
此の近道は、「主の云に違はず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし / 雲端に土ふる(=灰の様に細かい土粉が風に煽られ雨の如く降り注ぐ)心地して、篠の中踏分け/\、水を渡り岩に蹶(つまづい)て、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ」と原文で芭蕉が述べている通り難渋した道程だった。
[45]「山刀伐(なたぎり)峠」の石碑
(注11)辛(から)き思ひ:内心ビクビクすること
(注12)森々:木の茂っている様を言う
(注13)雲端(うんたん)につちふる:杜甫の七言律詩「鄭駙馬宅宴洞中」の頸聯第六句‥→
→‥【已入風磴霾雲端 己(すで)に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)】が原典
本作品は、745年 杜甫34歳の作 /
杜甫は仕官活動の一環として鮒馬都尉鄭潜曜の宅にて、夏の暑さを避ける為に洞穴の中で宴をしたことを述べた詩
鄭潜曜は、時の皇帝玄宗と皇甫淑妃との間に生まれた臨晋公主という姫宮を妻とした /
潜曜は杜甫の親友鄭処の甥
鄭駙馬宅宴洞中 杜甫
【5】悞疑茅屋過江麓 /【6】『已入風磴霾雲端』
【7】自是秦樓壓鄭穀 /【8】時聞雜佩聲珊珊
鄭鮒馬が宅にて洞中に宴をする
【3】春酒 盃 濃(こまやか)にして 琥珀 薄く
【4】冰漿(ひょうしょう) 碗 碧にして 瑪瑙(めのう)寒し
【5】悞=(立心偏に呉)誤って疑う 茅堂(ぼうどう) 江麓に過ぎたかと
【6】己に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)
【7】自ら是 秦楼(しんろう) 鄭谷(ていこく)を圧す
【8】時に聞く 雑佩(ぞうはい)の声 珊珊(さんさん)たるを
【意】
【1】公主のお宅には日陰の洞穴に靄や霧の冷気が細かに湧き出ている
【2】其処へ賓客を夏の竹で編んだ筵を敷いてくれていた
〔←・留客=客は杜甫自身 / 簟=竹で編んだ筵(むしろ) / 青瑯玕=青い管(←筵を編んだ竹の色を例える)〕
【3】濃い春酒が薄い琥珀の盃に注がれ
【4】冰漿(=氷の飲料)は瑪瑙の椀の中で冷たく碧玉の様に見える
【5】洞辺の茅堂を過ぎたら、恰も江辺の山麓を通っている様な涼しさがある〔悞=誤〕
【6】『已に風通しの良い石段の路(みち)では雲の端から土粉が降りかかってきた』
〔←・霾=土ふる(=灰の様に細かい土粉が風に煽られ雨の如く降り注ぐ) / 雲端=高所を表象している〕
【7】元来此処には(‥洞穴の邸宅といえば漢代の鄭谷宅であるが‥)それを圧倒するように秦楼(‥という高楼‥)が高く聳えていたのだ
〔←・自是=元より / 秦楼=秦の穆公の女(弄玉)が住んだ楼/鄭谷=漢の鄭撲(字は子兵←賢人として知られた)〕
【8】時々仙女の雜佩の音が珊々とに聞こえて来た
〔←・雑佩=様々の飾玉/珊珊=飾玉の鳴る様を表す擬音語〕
(注14)篠:熊笹(クマザサ)等の背丈の低い竹
(注15)最上の庄:現在の山形県北村山郡一帯/中世の最上氏の所領
【小生comment】
芭蕉の文章には、調べれば調べる程に、「歌枕」や中国の古典となる「漢詩文」に典拠した言葉が随所に出て来る。
脚注でご紹介した杜甫『鄭駙馬宅宴洞中』は、今回調べてみて初めて小生お目にかかった作品である。
如何に芭蕉の古典に対する造詣が深いかを実感し、逆に、小生の浅学さを痛感させられる。
が、毎週こうやって新しい発見があることは、あと2ヶ月余りで還暦を迎える〔←・此の blog 作成の 2015年07月05日(日)時点での記入‥〕歳になるのにワクワクしてとても愉快になる。
小生まだまだ「幼稚だ」ってことかもネッ!(^-';b♪
【尾花沢】
[48]芭蕉清風歴史資料館1
かれは富(とめ)るもの(注3)なれども志(こころざし)いやしからず。
都(注4)にも折々かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知たれば、日比(ひごろ)とヾめて、長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる(注5)也
《現代語訳》
尾花沢(注1)では紅花問屋 島田屋の鈴木清風(注2)を訪ねた。
清風は、金持ち(注3)だが、その心持ちの清々しい男である。
都(注4)にも屡々行き、それ故に旅の情をも良く心得ている。
数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、また様々に供応してくれた。
【意】この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるように寛(くつろ)げる(注5)のだ
‥→他人の家であることを忘れ、涼しさを一人占めして、のんびりと寛ぐことであるの意
〔この句は清風への挨拶の句である〕
【意】飼屋(かひや(=蚕室))(注6)の下で蟇蛙(ヒキガエル)(注7)の声がしている
どうか蟇蛙よ、出て来て手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ
‥→蚕室の床下で蟇蛙の低い鳴き声が聞こえるを踏まえ詠んだ句
芭蕉が訪れた時の清風邸では、丁度養蚕と紅花摘みで超多忙だった
この繁忙期にノンビリ訪れた自分を顧みて、同じくノッソリとした蟇蛙に向かって、自分の話相手に出て来いよ、と呼びかけたのである
【意】尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃き(注8)を想像させる艷(あで)やかさを感じる
‥→紅花は花も葉も薊(アザミ)に似て、半夏生(ハンゲショウズ(例年07月02日))の頃から咲き始める
芭蕉はこの尾花沢に新暦07月03日に着いて、07月12日迄滞在した
滞在中は、紅花盛りで、花の色は黄金色だが、それが赤みを帯びた頃、まだ露のある日の出前に摘み取る
古名は(‥【小生補足】源氏物語第六帖の巻名にもある‥)「末摘花(すえつむはな)」
この花の様から、芭蕉は化粧用の眉掃きを連想した
更に又、紅の原料ということが女性への連想を誘うのだ
〔以上、山本健吉ビジュアル版 日本の古典に親しむ‥『奥の細道』‥尾花沢 より引用」〕
蚕飼は春の季語だが此処は夏蚕とみる
(注1)尾花沢:山形県尾花沢市
(注2)鈴木清風:鈴木道祐 / 紅花問屋 島田屋 / 金融業を経営した豪商 / 芭蕉・曽良とは貞享02(1685)年以来江戸で交渉があった / 当時39歳
(注3)富めるもの:「昔より、賢き人は富めるは稀なり」〔徒然草18〕を踏まえた文
(注4)都:「心の花の都にも二年三年とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ」〔おくれ双六、清風自序〕
(注5)ねまる:同地の方言で、「寛いで座る」の意
(注6)かひや:飼屋=蚕室
(注7)ひき:蟇蛙(ヒキガエル)
(注8)眉掃(まゆはき):「五寸許竹管両頭挟白兎毛」/白粉を付けた後 眉を払うのに用いる
【小生comment】
山本健吉氏が氏の著書『奥の細道』序説三で、「芭蕉の句境を高みに押し上げた種は、この『奥の細道』の旅に於ける深い人生的、又、文学的経験にあった」と述べている。
小生もその通りだと思う。
芭蕉のこの『奥の細道』は、読み込めば読み込む程、芭蕉の文学的senseの奥深さ、高尚さを実感する。
芭蕉の俳人としての人生に大きく影響した『奥の細道』の位置付けについて山本氏が解り易く端的に述べているのでご紹介したい。
細道の旅を思い立った動機に、西行・能因のあとを追って、みちのくの歌枕を訪ねるということがあった。
その為に曽良は名勝備忘録を用意したし、途中では少しの廻り道など厭わないで、さして見所もない様な歌枕を丹念に見て廻っている。
だが白河を過ぎた奥州路に入って、みちのくでは、義経伝説が強く庶民の間に浸透しているのを知った。
そしてその頂点が平泉高館での、夏草を藉(し)いての歴史回顧だった。
歌枕を巡ることから言えば、松嶋と象潟とが一応の目標地点だった。
だが日本海側に廻ると、彼の歌枕熱は漸く冷めて、風土風景に触れての感動を直接言い取ろうとする傾向が出て来ている。
歌枕を介しての間接的な表現では、物足りなくなった様だ。
この旅の途中、恐らく陸奥から出羽への山越えを境に、芭蕉の心中に徐々に俳諧観の変革が萌していた。
それは恐らく、芭蕉が知悉した上方・江戸・東海道筋の人情風俗とは違った。
東北の素朴な風土色に触れたことがきっかけになっていよう。
句の風体が「かるみ」を帯びる様になった。
芭蕉の晩年の句境を、あれほどの高みに押し上げた種は、細道の旅に於ける深い人生的又文学的経験にあったのである。
一人の詩人にどの様にして見事な灯が燈ったか、それを知る為にも、気候『奥の細道』は大事な作品であった。〔『太陽』昭和53年1月 より〕
では、また‥〔了〕
*
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最近迄、画廊を経営されていた I さんの所蔵作品の展示即売会が前日から開催中だった。
[08]橋本明治(1994.08.05-91.03.25)の静物画(lithograph)
[09]能仲ヤツヲ(1933-2008)『青春』(油彩画)
[10]上記2作品をbackに
[11]Nate
Giorgio(ネイト・ジョルジオ(1961- ))(lithograph)
[12]堀文子(1918.07.02-2019.02.05)『名もなき草たち』(lithograph)
[13]小倉遊亀
(1895.03.01-2000.07.23)『寒椿』1981年(lithograph)
[14]木下孝則(1894-1973)の風景画(油彩画)
[15]芦田芳生(1925-2010)の風景画(油彩画)
[16]中山忠彦(1935.03.20-
)の夫人像(lithograph)
[17]鈴木睦美(1929-2012)の静物画(油彩画)
[18]大森運夫(1917.09.23-2016.09.29)の群像(肉筆画)
[19]平川敏夫(1924.10.16-2006.05.14)の風景画(肉筆画)
[20]ジャン=ピエール・カシニョール(Jean-Pierre Cassigneul(1935.07.13- )の婦人像(lithograph)
[21]同上2(lithograph)
I さんは、小生の現勤務先と同じ Group の member でもある。
展示作品は、当地の画家の巨匠、旧小坂井町出身の 平川敏夫(1924.10.16-2006.05.14)、豊橋市出身の中村正義(1924.05.13-77.04.16)、豊川市出身の大森運夫(1917.09.23-2016.09.29)、豊橋商業高校校長だった鈴木睦美(1929-2012)や、元日展評議員の木下孝則(1894-1973)や、点描画家 芦田芳生(1925-2010)、北川民次(1894.01.17-1989.04.26)の肉筆画、lithograph では、横山大観(1868.11.02-1958.02.26)、上村松園(1875.04.23-1949.08.27)、上村松篁(1902.11.04-2001.03.11)村、上村淳之 (あつし)(1933.04.12- )、山口蓬春(1893.10.15-1971.05.31)、元日展理事長 中山忠彦(1935.03.20- )、マリー・ローランサン(仏:Marie Laurencin 1883.10.31-1956.06.08)、仏 Paris 生まれのジャン=ピエール・カシニョール(Jean-Pierre Cassigneul(1935.07.13- ) etc. が大変なお値打ち価格で販売されていた。
小生は、lithograph で、日本画家の泰斗、橋本明治(1994.08.05-91.03.25)の静物画(写真[08])を拙宅に、油彩画で、能仲ヤツヲ(1933-2008)『青春』(写真[09])と、米国 New York 生まれの Nate Giorgio(ネイト・ジョルジオ(1961- ))の lithograph (写真[11])を横浜市内に家を建てた愚娘用に、夫々大変なお値打ち価格で手に入れることが出来た。
添付写真の絵は此のほか、lithograph で、堀文子(1918.07.02-2019.02.05)『名もなき草たち』(写真[12])、同じく lithograph で、小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)『寒椿』1981年(写真[13])は、2点共に東京銀座の Gallery で購入した小生の宝。
上記写真を up したら、【時習26回 3-4】の同期生でFacebook のお友達の岩瀬君から以下の様な質問があった。
→・「お宝がだんだんと増えていきますよね.ところで,絵を飾る場合,どのような心境なんですか?鑑賞して心を豊かにする,これならリトでも,印刷でも良いですよね.やはり油で資産として持つのでしょうか?」
此の質問に、小生は以下の通り答えた。
→・「小生の場合、「真・善・美」を全ての物事の価値判断基準にしている。
だから絵を飾る場合の心境は「審美上の『美』」を本能的に求めていることだ。
即ち、美しいものを見ることに拠り「癒し」と「ときめき」を感じ、此等が小生に心の安らぎ、延いては肉体・精神両面に少なからずの『若さ』を与えてくれている。
其の際、其の「美しさ」を発している対象物〔←此の場合は『絵画』〕が「認識上の『真』」、即ち「本物であること」を理想として此れも本能的に求めている。
しかし、本物を手に入れたいと本能は求めているのだが、現実問題として、本物は稀少であり、ましてや名画の肉筆画ともなると大変高価になり、金持ちでない小生には入手はとても困難というのが現実である。
其処で、本物になるべく近い形で価格もお手ごろな lithograph 等の「版画」取得という次善の策が登場する。
しかし細かなことを言うと、同じ作者が描いた絵の lithograph にも rank があって、作者本人が生前に署名したもの方が、作者の死後、著作権相続者が刷らせた「後刷り」のものより価値がかなり高くなる。
だから、昨日の展示即売会でも、とても綺麗な横山大観の「後刷り」の lithograph が「後刷り」より安価な版木を作り直した「復刻版」並のお手ごろ価格で売り出されていた。
其の時、大観の美しい作品に魅せられ直ぐに触指が動いた小生だが、大観には及ばないものの、日本画が好きな者なら誰でも知っている巨匠の橋本明治が自身で署名した lithograph を紹介され、其の絵が魅力的であったことと相俟って橋本明治自身の署名入りの lithograph を購入することにしたという次第。
此の他、小生が宝として持っている小倉遊亀(1895.03.01-2000.07.23)の lithograph は、彼女の肉筆画の『寒椿』1981年を彼女が亡くなる2000年春に lithograph にして彼女の署名入りで発売されたものであること、堀文子(1918.07.02-2019.02.05)の肉筆画『名もなき草たち』2015年も、彼女が亡くなる3年余り前の肉筆画作成と同じ2015年に lithograph も作成販売された〔←・彼女独特の signature 入り〕ものであること、等に拠り此等2点は相応に資産価値がある旨画廊の owner が教えてくれたことがある。
小生自身は、美しい絵画が純粋に好きなだけで宝にしている訳だが、当該作品群を将来手にするであろう絵画にあまり興味ない子供たちも、資産として換金する価値があると聞けば、多少は大切に扱ってくれるだろう、という観点から、本人に拠る肉筆画や本人署名入りの lithograph を持っている。
尚、本人肉筆画がどんな精緻な lithograph 拠り「認識上の『真』」の点で勝ることは言う迄もありません」、と。
■続いては、06月28日(日)に、『田原市博物館(=田原城趾)』→平野美術館『富士へのあこがれ』展と巡って来たことについてである。
其の日は、朝から雨が降っていたが、昼過ぎ迄以下の通り行動した。
05時30分 起床→腹筋2,000回
06時30分 2.5kg木刀素振り60分
07時45分 入浴→支度→
08時45分 拙宅発→一般道19.3㎞ 47分→
09時32分 田原市博物館駐車場着
【田原市博物館=旧田原城趾】
[22]田原市博物館(境内)入口
[23]同所にて
[24]田原市博物館入口にて
田原藩は、戸田尊次(とだ たかつぐ(1565-1615))が初代田原藩主として伊豆国下田より1万石にて入封
第3代藩主戸田忠治(とだ ただはる(1631-99))は、1628年 2万1,850石にて肥後国天草富岡城へ移封
代わって、拳母藩より三宅康勝(1628-87))が1万2千石三宅初代田原藩主に
1827(文政10)年 播磨国姫路藩15万石酒井家第4代藩主酒井忠実(1779-1848)の6男 康直(1811-93)が、田原藩に養子入婿し第11代藩主〔藩主在位1827~50年〕に
因みに、三宅田原藩1万2千石は、遠山苗木藩1万石に次ぎ、石高の少ないNo.2の城持ち大名の中である
猶、第1展示室には、渡辺崋山(1793.10.20-1841.11.23)が自刃した時に使用した【重文】自決脇差〔東播士祐国作〕と「不忠不孝渡邉登」と書かれた「自筆墓表〔複製〕」が展示されていた
[25]戸田氏系譜
[26]歴代田原城主一覧
[27]三宅氏系譜
[28]三河国田原藩地領目録
[29]田原藩第11代藩主三宅康直筆「五字書」
[30]田原城趾「桜門」前にて
[31]田原城跡解説板
10時23分 田原市博物館駐車場発→一般道1時間28分 50.3km /69.6km→
11時51分 平野美術館着
【平野美術館】
[32]平野美術館 同館前の本企画展看板横にて
[33]同 同館入口にて
[34]同 同館創業者 平野素芸(ひらの
そうん)『東海神秀』1955年
[35]同 本企画展leaflet
[36]渓斎英泉(けいさい
えいせん(1791-1848.08.20))『諸國富士尽 駿河之不二 丸海老屋内 玉川』1815-42年
[37]横山大観(1868-1958.02.26)『霊峰』制作年不明
[38]平川敏夫(1924.10.16-2006.05.14))『冨嶽涛風』1995年
[39]伊藤髟耳(ほうじ(1938- ))『富士』1999年
[40]桑原巨守(くわはら
ひろもり(1927-1993.08.26))『讃太陽』
[41]同上の銅像前にて
13時22分 帰宅〔了〕
【小生 comment 】
田原市博物館に行く時は流石に雨に見舞われたが、浜松市の平野美術館へ向かう途中から雨があがった。
今日も、田原藩の歴史と渡辺崋山の生涯を復習し、富士山の名画の数々を数時間のうちに鑑賞出来た充実した半日を過ごすことが出来た。
■今日最後の話題は、6月29日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第7回〕を up したので、其れについてお届けする。
『奥の細道』〔第7回〕:2015年7月 5日(日)付【時習26回3-7の会0555】~「今夏【2637の会】クラス会について《続々々報》」「『奥の細道』第7回‥『尿前の関』『尾花沢』‥」「06月27日:浜松市美術館『マリ―・ローランサン』展を見て」「磯田道史著『武士の家計簿』を読み、DVD『同左』を見て」
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前〔第6回〕では、元禄二(1689)年 五月八日(新暦06月24日/「仙台」発)~五月十三日(新暦06月29日/「一関(06/28)」→「平泉(06/29)」→「一関(06/29)」)にかけて六日間の芭蕉一行の話をお伝えした。
今回は、松尾芭蕉 作『奥の細道』の其の第7回目。
元禄二(1689)年 五月十三日(新暦06月29日/「一関」発)~五月十九日(新暦07月05日/
「尾花沢」滞在三日目(注)) にかけて七日間の芭蕉一行の話である。
因みに、芭蕉と曽良は、五月十七日~二十六日(新暦07月03日~12日)迄の10泊を「尾花沢」の豪商鈴木清風宅にて歓待を受けている。
以下に「一関」から「尾花沢」での芭蕉一行の行程を以下に記す。
五月十三日(新暦06月29日) 前日の十ニ日より宿した 一関〔宿記載なし〕を十三日に平泉向けて出発し日帰りで又一関に宿し2泊す
〔‥「平泉」を訪れた日の天候は、【曽良旅日記】では「天記明」とあり、晴天であった‥〕
同 十四日( 同 06月30日) 岩手山〔宿記載なし〕に泊す
〔‥【曽良旅日記】朝天気吉、雷雨ののち晴、又曇って折々小雨する‥〕
同 十五~十六日( 同 07月01~02日) 堺田〔和泉庄屋新右衛門兄宅か?〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】07月01日 小雨/02日 大雨‥〕
同 十七~二十六日( 同 07月03~12日) 尾花沢〔10泊のうち17・21・23日の3泊を鈴木清風宅に、残りの7泊は養和泉寺〕に10泊す
〔‥【曽良旅日記】03日 快晴、大夕立に逢う/04日 小雨す/05日 朝晴る、夕方小雨す/06日 小雨/07~09日 天候の記載なし/10日 十七日(=尾花沢到着の日)より終日晴明の日なし/11日 折々小雨す/12日 小雨す‥〕
同 二十七日( 同 07月13) 立石寺へ向かう〔‥【曽良旅日記】天気能(よし)‥〕
【小生comment】
芭蕉一行が「平泉」を訪れた日から最上の「立石寺」を訪れた五月十三日~二十七日(新暦06月29日~07月13日)の15日間。
この間、「平泉」と「立石寺」を訪れた二日こそ晴天だったが、残りの13日間は一日のうちに必ず雨が降ったと、【曽良旅日記】は記している。
326年前も、現代と同様に雨が降り続く梅雨の季節真っ只中であったのである。
【尿前(しとまえ)の関】
[42]『尿前の関』跡
《原文》
南部道(注1)遙にみやりて、岩手の里(注2)に泊る。
小黒崎・みづの小島(注3)を過て、なるご(注4)の湯より尿前の関(注5)にかゝりて、出羽(では)の国(注6)に越んとす。
此路(このみち)旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
大山(おほやま)(注7)をのぼつて日既暮ければ、封人(ほうじん)(注8)の家を見かけて舎を求む。
三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿(しと)する枕もと
あるじの云(いふ)、是より出羽の国に、大山を隔(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越べきよしを申(もうす)。
さらばと云(いひ)て、人を頼(たのみ)侍れば、究竟(くっきょう)(注9)の若者、反脇指(注10)をよこたえ(=へ)、樫の杖を携(たずさへ)て、我々が先に立て行(ゆく)。
けふこそ必(かならず)あやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひ(注11)をなして後(あと)について行(ゆく)。
あるじの云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)(注12)として一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下闇(やみ)茂りあひて、夜る行(ゆく)がごとし。
雲端(うんたん)につちふる(注13)心地して、篠(しの)(注14)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄(注15)に出づ。
かの案内せしおのこの云(いふ)やう、「此(この)みち必不用(ぶよう)の事有(あり)。恙(つつが)なうを(=お)くりまいらせて仕合(しあはせ)したり」と、よろこびてわかれぬ。
跡(=後)に聞(きき)てさへ胸とヾろくのみ也。
《現代語訳》
南部道(注1)を遥かに見って、道を引き返し、岩出山の里(注2)に泊まる。
此処から、小黒ヶ崎や美豆の小島(注3)を過ぎ、鳴子温泉(注4)から尿前の関(注5)を越え、出羽の国(注6)へ行こうというのである。
処が、この道は滅多に旅人の通らない道である為、関守に怪しまれて中々通してくれない。
漸く通行許可が下りて、中山峠(注7)を越えた頃にはもうすっかり日が暮れて仕舞った。
国境の番人(注8)の家を見つけたので其処に泊めて貰うことにした。
処が、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになって仕舞った。
【意】蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ
この家の主の言うには、此処から出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、その為には誰か道案内をつけなければ無理だという。
其処で人を頼むことにした処、屈強(注9)な若者が来てくれた。見れば、反り脇差し(注10)を腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくし(注11)ながらついて行く。
有路家の主の言ったように、高山は森々(注12)として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。
強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。
篠の藪(注14)を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。
(注1)南部道:盛岡へ通じる南部街道
(注2)岩手(いわで)の里:「岩手」=「歌枕」/
【詞書】前大僧正慈円、ふみにては思ふほどのことも申しつくしがたきよし、
申しつかはして侍りける返事に
みちのくの いはでしのぶは ゑぞ知らぬ 書き尽くしてよ 壺の石碑 / 前右大将(源)頼朝(1147-99)
〔新古今集‥巻第18‥雑歌下‥1785〕
【意】陸奥の歌枕「岩手」や「信夫」、或いは「蝦夷」ではないが、言わずに我慢しているのだと仰るのではお心の程が解りません
すっかり書き尽くして下さい、壺の碑ならぬ文に託して
思へども いはでの山に 年をへて 朽ちやはてなむ 谷のむもれ木 / 左京大夫(藤原)顕輔(1090-1155)
〔千載集 巻第11 恋歌一 651〕
【意】貴女のことを思っても、それを告げることなしに年月を経て、
わが恋は谷の埋れ木の様になって仕舞うのだろうか
(注3) 小黒ヶ崎や美豆の小島:「歌枕」
小黒崎(をぐろざき) 美津(みつ)の小島の 人ならば 都の苞(つと)に いざと言はましを
〔巻第20‥大歌所御歌‥東歌‥陸奥‥1090〕
【意】小黒崎の美津(みつ)小島は実に美しい
もしそれが人であるのならば、京(みやこ)に帰るのに「さぁ、一緒に行こうよ!」と誘って行きたい処だ
(注4)なるご:現在の鳴子温泉
【鳴子の名の由来】一説に、源義経が北行(源頼朝に追われて平泉へ落ちのびる途中)した際の故事に由来する
それは、出羽の国で夫人(=静御前)が子供(亀若丸)を産み、この地に来て産湯をつかわせた
そうした処、呱々の声をあげたこと(=誕生した時の産声)から来る「啼子」説
もう一説は、承和04(837)年に潟山が大爆発し、熱湯が轟音をあげて噴出したことから、村人が「鳴郷の湯」と名付けたとする〔以上、鳴子温泉旅館組合 Homepage より引用〕
(注5)尿前の関:鳴子温泉より西へ2kmにある/仙台領(陸奥)から出羽領へ越す仙台藩の重要な関所
【尿前の由来】については、アイヌ語説を始め諸説あるので此処では触れない
(注6)出羽の国:大体現在の秋田県と山形県に相当する
(注7)大山:鳴子から羽前に出る中山越えの山道
[43]封人の家
[44]法人の家の一郭にある馬小屋
(注8)封人:関守(=国境を守る役人)〔←「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とあるが実際は二泊である〕/ 堺田(さかいだ)は海抜354mの山中にある小集落/芭蕉一行が泊めて貰ったのは和泉屋という庄屋の家で、関守と農業を兼務 / 現在、同所は和泉屋氏の有路氏の住居となっている / 芭蕉は、随分むさくるしい所に宿した様に書いているが、庄屋の家であり集落一の大きな家だったと思われる / 同地は、小国郷(おぐにごう)と言い、小柄で精悍な小国駒(おぐにこま)の産地 / 南部の曲屋(まがりや)は、母屋(おもや)と馬小屋が接続してる建築形式で、同地では一般的な家屋である /『奥の細道』では、「歌枕」や名所旧跡・古戦場ばかり詠み込んでいた芭蕉が、此処では「蚤 / 虱 / 馬の尿(しと)」と是迄とは趣が全く違う俳句を詠んだ
山本健吉氏は次の様に解説している。
【‥「蚤虱」の句の、はじめの形は、第二句が「馬の尿(=ばり)こく」であった。恐らく、和泉屋の家の人が言ったひなびた言葉を面白がって、その儘、句の中に取り入れたのだろう。「ばりこく」は凄まじい迄の音の感じと、作者の笑いとがある。あと「尿(=しと)しる」と言い和らげたが、さっき越えたばかりの「尿前(しとまえ)」の地名も、幾らか響いいているのであろう‥】
そう言う全く異なった観点から詠んだ俳句であり、これも矢張り印象に残る名句(笑)と言っていいのではなかろうか。五月十五日(07月01日)、新右衛門宅に宿泊した芭蕉と曽良は、翌十六日早朝出発する予定だったが、梅雨の時節でもあり、同日は終日のどしゃぶりの為、悪路の峠越えを避け出立を一日順延。
曾良の『旅日記』に「十七日(07月03日) 快晴。堺田を立」とある様に尾花沢へ向かった。
彼等一行は、一日分の遅れを取り戻すべく、幹線の羽州街道ではなく、脇道の、一刎(いちばね)から「山刀伐(なたぎり)峠」を越す近道を選んだ。
此の近道は、「主の云に違はず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし / 雲端に土ふる(=灰の様に細かい土粉が風に煽られ雨の如く降り注ぐ)心地して、篠の中踏分け/\、水を渡り岩に蹶(つまづい)て、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ」と原文で芭蕉が述べている通り難渋した道程だった。
[45]「山刀伐(なたぎり)峠」の石碑
[46]「山刀伐(なたぎり)峠」の一情景
[47]高嶋祥光(1894-1987)『芭蕉
山刀伐(なたぎり)峠越えの図』〔部分〕
(注9)究竟(=屈強):非常に力が強いこと
(注10)反脇指:刀身にそりのある脇差/脇差は一般に大刀に対して小刀を指し、刃渡り30cm以上60cm未満の物とされる(注11)辛(から)き思ひ:内心ビクビクすること
(注12)森々:木の茂っている様を言う
(注13)雲端(うんたん)につちふる:杜甫の七言律詩「鄭駙馬宅宴洞中」の頸聯第六句‥→
→‥【已入風磴霾雲端 己(すで)に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)】が原典
本作品は、745年 杜甫34歳の作 /
杜甫は仕官活動の一環として鮒馬都尉鄭潜曜の宅にて、夏の暑さを避ける為に洞穴の中で宴をしたことを述べた詩
鄭潜曜は、時の皇帝玄宗と皇甫淑妃との間に生まれた臨晋公主という姫宮を妻とした /
潜曜は杜甫の親友鄭処の甥
鄭駙馬宅宴洞中 杜甫
【1】主家陰洞細煙霧 /【2】留客夏簟青瑯玕
【3】春酒杯濃琥珀薄 /【4】冰漿碗碧瑪瑙寒【5】悞疑茅屋過江麓 /【6】『已入風磴霾雲端』
【7】自是秦樓壓鄭穀 /【8】時聞雜佩聲珊珊
鄭鮒馬が宅にて洞中に宴をする
【1】主家の陰洞(いんどう) 煙霧
細やかなり
【2】客を留める夏簟(かてん)は青瑯玕(せいろうかん)‥玕=(王偏に干)【3】春酒 盃 濃(こまやか)にして 琥珀 薄く
【4】冰漿(ひょうしょう) 碗 碧にして 瑪瑙(めのう)寒し
【5】悞=(立心偏に呉)誤って疑う 茅堂(ぼうどう) 江麓に過ぎたかと
【6】己に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)
【7】自ら是 秦楼(しんろう) 鄭谷(ていこく)を圧す
【8】時に聞く 雑佩(ぞうはい)の声 珊珊(さんさん)たるを
【意】
【1】公主のお宅には日陰の洞穴に靄や霧の冷気が細かに湧き出ている
【2】其処へ賓客を夏の竹で編んだ筵を敷いてくれていた
〔←・留客=客は杜甫自身 / 簟=竹で編んだ筵(むしろ) / 青瑯玕=青い管(←筵を編んだ竹の色を例える)〕
【3】濃い春酒が薄い琥珀の盃に注がれ
【4】冰漿(=氷の飲料)は瑪瑙の椀の中で冷たく碧玉の様に見える
【5】洞辺の茅堂を過ぎたら、恰も江辺の山麓を通っている様な涼しさがある〔悞=誤〕
【6】『已に風通しの良い石段の路(みち)では雲の端から土粉が降りかかってきた』
〔←・霾=土ふる(=灰の様に細かい土粉が風に煽られ雨の如く降り注ぐ) / 雲端=高所を表象している〕
【7】元来此処には(‥洞穴の邸宅といえば漢代の鄭谷宅であるが‥)それを圧倒するように秦楼(‥という高楼‥)が高く聳えていたのだ
〔←・自是=元より / 秦楼=秦の穆公の女(弄玉)が住んだ楼/鄭谷=漢の鄭撲(字は子兵←賢人として知られた)〕
【8】時々仙女の雜佩の音が珊々とに聞こえて来た
〔←・雑佩=様々の飾玉/珊珊=飾玉の鳴る様を表す擬音語〕
(注14)篠:熊笹(クマザサ)等の背丈の低い竹
(注15)最上の庄:現在の山形県北村山郡一帯/中世の最上氏の所領
【小生comment】
芭蕉の文章には、調べれば調べる程に、「歌枕」や中国の古典となる「漢詩文」に典拠した言葉が随所に出て来る。
脚注でご紹介した杜甫『鄭駙馬宅宴洞中』は、今回調べてみて初めて小生お目にかかった作品である。
如何に芭蕉の古典に対する造詣が深いかを実感し、逆に、小生の浅学さを痛感させられる。
が、毎週こうやって新しい発見があることは、あと2ヶ月余りで還暦を迎える〔←・此の blog 作成の 2015年07月05日(日)時点での記入‥〕歳になるのにワクワクしてとても愉快になる。
小生まだまだ「幼稚だ」ってことかもネッ!(^-';b♪
【尾花沢】
[48]芭蕉清風歴史資料館1
[49]同上2
[50]同上の内部
[51]宮木薫『芭蕉と清風』〔部分〕
[52]紅花
[53]半夏生(ハンゲショウ)
《原文》
尾花沢(おはなざは)(注1)にて清風(せいふう)(注2)と云者(いふもの)を尋(たづ)ぬ。かれは富(とめ)るもの(注3)なれども志(こころざし)いやしからず。
都(注4)にも折々かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知たれば、日比(ひごろ)とヾめて、長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる(注5)也
這出(はひいで)よ かひや(注6)が下の ひき(注7)の声
まゆはき(注8)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
蚕飼(こがひ)する人は 古代のすがた哉(かな) 曾良
《現代語訳》
尾花沢(注1)では紅花問屋 島田屋の鈴木清風(注2)を訪ねた。
清風は、金持ち(注3)だが、その心持ちの清々しい男である。
都(注4)にも屡々行き、それ故に旅の情をも良く心得ている。
数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、また様々に供応してくれた。
【意】この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるように寛(くつろ)げる(注5)のだ
‥→他人の家であることを忘れ、涼しさを一人占めして、のんびりと寛ぐことであるの意
〔この句は清風への挨拶の句である〕
【意】飼屋(かひや(=蚕室))(注6)の下で蟇蛙(ヒキガエル)(注7)の声がしている
どうか蟇蛙よ、出て来て手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ
‥→蚕室の床下で蟇蛙の低い鳴き声が聞こえるを踏まえ詠んだ句
芭蕉が訪れた時の清風邸では、丁度養蚕と紅花摘みで超多忙だった
この繁忙期にノンビリ訪れた自分を顧みて、同じくノッソリとした蟇蛙に向かって、自分の話相手に出て来いよ、と呼びかけたのである
【意】尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃き(注8)を想像させる艷(あで)やかさを感じる
‥→紅花は花も葉も薊(アザミ)に似て、半夏生(ハンゲショウズ(例年07月02日))の頃から咲き始める
芭蕉はこの尾花沢に新暦07月03日に着いて、07月12日迄滞在した
滞在中は、紅花盛りで、花の色は黄金色だが、それが赤みを帯びた頃、まだ露のある日の出前に摘み取る
古名は(‥【小生補足】源氏物語第六帖の巻名にもある‥)「末摘花(すえつむはな)」
この花の様から、芭蕉は化粧用の眉掃きを連想した
更に又、紅の原料ということが女性への連想を誘うのだ
〔以上、山本健吉ビジュアル版 日本の古典に親しむ‥『奥の細道』‥尾花沢 より引用」〕
【意】養蚕する人たちのもんぺ姿は、神代の昔もこうだったろうと思わせる素朴なものだ
‥→養蚕する人々の清浄を旨とした素朴な服装に古代人の姿を感じ取った吟蚕飼は春の季語だが此処は夏蚕とみる
(注1)尾花沢:山形県尾花沢市
(注2)鈴木清風:鈴木道祐 / 紅花問屋 島田屋 / 金融業を経営した豪商 / 芭蕉・曽良とは貞享02(1685)年以来江戸で交渉があった / 当時39歳
(注3)富めるもの:「昔より、賢き人は富めるは稀なり」〔徒然草18〕を踏まえた文
(注4)都:「心の花の都にも二年三年とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ」〔おくれ双六、清風自序〕
(注5)ねまる:同地の方言で、「寛いで座る」の意
(注6)かひや:飼屋=蚕室
(注7)ひき:蟇蛙(ヒキガエル)
(注8)眉掃(まゆはき):「五寸許竹管両頭挟白兎毛」/白粉を付けた後 眉を払うのに用いる
【小生comment】
山本健吉氏が氏の著書『奥の細道』序説三で、「芭蕉の句境を高みに押し上げた種は、この『奥の細道』の旅に於ける深い人生的、又、文学的経験にあった」と述べている。
小生もその通りだと思う。
芭蕉のこの『奥の細道』は、読み込めば読み込む程、芭蕉の文学的senseの奥深さ、高尚さを実感する。
芭蕉の俳人としての人生に大きく影響した『奥の細道』の位置付けについて山本氏が解り易く端的に述べているのでご紹介したい。
細道の旅を思い立った動機に、西行・能因のあとを追って、みちのくの歌枕を訪ねるということがあった。
その為に曽良は名勝備忘録を用意したし、途中では少しの廻り道など厭わないで、さして見所もない様な歌枕を丹念に見て廻っている。
だが白河を過ぎた奥州路に入って、みちのくでは、義経伝説が強く庶民の間に浸透しているのを知った。
そしてその頂点が平泉高館での、夏草を藉(し)いての歴史回顧だった。
歌枕を巡ることから言えば、松嶋と象潟とが一応の目標地点だった。
だが日本海側に廻ると、彼の歌枕熱は漸く冷めて、風土風景に触れての感動を直接言い取ろうとする傾向が出て来ている。
歌枕を介しての間接的な表現では、物足りなくなった様だ。
この旅の途中、恐らく陸奥から出羽への山越えを境に、芭蕉の心中に徐々に俳諧観の変革が萌していた。
それは恐らく、芭蕉が知悉した上方・江戸・東海道筋の人情風俗とは違った。
東北の素朴な風土色に触れたことがきっかけになっていよう。
句の風体が「かるみ」を帯びる様になった。
芭蕉の晩年の句境を、あれほどの高みに押し上げた種は、細道の旅に於ける深い人生的又文学的経験にあったのである。
一人の詩人にどの様にして見事な灯が燈ったか、それを知る為にも、気候『奥の細道』は大事な作品であった。〔『太陽』昭和53年1月 より〕
では、また‥〔了〕
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