今日は、まず最初に残念なお知らせから‥
今夏2020年8月の【時習26回3-7の会】のクラス会は休会とさせて頂きます。
此のクラス会は、2006年から毎年14年間開催して来ていますので、出来ることなら今年も開催すべく此れ迄様子を見ていました。しかし乍ら、皆さんもご承知の通り、コロナウィルス感染症の流行が一向に収まりません。
其れ処か最近は再び増加傾向を示しており、感染リスクが払拭出来ませんので已む無く開催を断念しました。次回は、一年後の来夏8月開催を予定しています。
其れ迄、皆さんも健康に留意してお過ごし下さい。
■今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第39回/巻之四~第371句~380句〕」をご紹介する。
371 ふまれてもなを(=なほ)うつくしや萩の花 舟泉(注1)
【意】山道に咲く萩の花 / 旅人に踏みつけられても尚美しい花をつけている
【解説】季語:萩の花=初秋 /
(注1)永田舟泉(ながた しゅうせん(1654(承応03)(?)-1737.11.19(元文02年10月27日)(享年84歳))):三河国挙母(ころも(現・豊田市挙母町))生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 / 1687(貞亨04)年 蕉門に入門 /『あら野』・『曠野後集』等に入句
372 ひょろひょろと猶露けし(注1)や女郎花(をみはへし) 芭蕉(注1)
[01]女郎花
【解説】季語:女郎花=初秋 / 芭蕉は全体オミナエシに対して感情移入が多い / 尚、『更科紀行真蹟草稿』では「ひよろひよろと転(こ)けて露(つゆ)けし女郎花(をみなへし)」となっている
(注1)露けし:露を大量に浴びた感じを表す言葉
373 棚(たな)作(つく)ルはじめさびしき蒲萄(ぶどう)哉(かな) 作者不知
【意】「【問】店(たな=棚)を開いて初め繁盛しないものは何?→【答】葡萄(ぶどう)棚」
【解説】季語:葡萄=仲秋 /「上五・中七が謎かけ、下五が其の答え」の古俳諧 / 此の句は、当時の謎々(なぞなぞ)に拠る
374 草(くさ)ぼうぼう(=ばうばう)からぬも荷(にな)ふ花野(はなの)哉(かな) 伏見 任口(注1)
【意】花を咲かせて茂る秋の野原 / 其の中を荷物を背負った農夫が行く / 彼は草刈をしている訳ではないが、如何にも草を刈っていくように薙(な)ぎ倒し(=横ざまに払い倒し)ていく
【解説】季語:花野=三秋 /
(注1)任口(にんこう(?-1686.06.03(貞亨03年04月13日))):東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人 / 任口は俳号 / 芭蕉との最初の縁は不詳だが北村季吟入門時での邂逅と推定される /『野ざらし紀行』の旅中伏見で任口上人に会い「わが衣に伏見の桃の雫せよ」と詠んだ
375 もえきれて帋燭(しそく)(注1)をなぐる薄(すすき)哉(かな) 荷兮(注2)
【意】紙燭が燃え尽き指を焦がしそうになったので、投げ捨てた
/ 其の燃え尽きようとする明りの中に薄の白い穂が映った‥
【解説】季語:薄=三秋 /
(注1)帋燭(=紙燭(しそく)):紙をよってそれに油を染み込ませて灯明の代用品
(注2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
376 行人(ゆくひと)や堀(ほり)にはまらんむら薄(すすき)(1) 胡及(注2)
【意】勢いよく茂っている群生した薄が、一帯を覆って、視界を遮(さえぎ)っている / 此の辺りは堀が多く走っている為、土地勘のない旅人は落ちて仕舞わなければよいが‥
【解説】季語:むら薄=三秋 /
(注1)むら薄:群生している薄
(注2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句
宗祇(そうぎ)法師(ほふし)のこと葉(ば)によりて
377 名(な)もしらぬ小草(をぐさ)花咲(はなさく)野菊(のぎく)哉(かな) 素堂(注1)
【意】大輪の菊は、品種改良を重ね、大仰な名迄付いているが、野菊の花は小さくひっそりと咲く / だが、宗祇の言うように此の名もない様(さま)が野菊の良さなのだ
【解説】季語:野菊=仲秋 / 宗祇は、「吾妻問答」で野菊を「名もしらぬ小草花咲く川辺哉」と詠み愛でている
(注1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75歳):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人(云) / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等/ 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表
378 としどしのふる根(ね)に高き薄(すすき)哉(かな) 俊似(注1)
【意】道の辺の薄(ススキ)原が、年年歳歳、薄の根の方が大きく高くなり塀の様になって、道の方が沈んで行く様に見える
【解説】季語:薄=三秋 /
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句
仲秋
379 かれ朶(えだ)に烏(からす)のとまりけり秋の暮 芭蕉
【意】秋の夕暮の景色 / 画題「寒鴉枯木」の世界 / 初出の『東日記』(1681(延宝09)年刊)では、中七「烏のとまりたるや」となっている /
嘱目吟とした時の詠んだ場所や、烏が1羽か複数か、古来より、議論が絶えない一句
【解説】季語:秋の暮=三秋 /延宝8年、37歳の作 / 此の句は、談林俳諧から蕉風俳諧への転換期の作品で、初期の秀句の一つ /
380つくづくと繪(ゑ)を見る秋の扇(あふぎ)哉(かな) 加賀 小春(注1)
【意】暑い夏には扇は実用一本やりで気にも留めなかったが、秋になり、初めて其の扇に描かれている絵をしみじみと見た
【解説】季語:秋の扇=初秋 /
(注1)亀田小春(かめだ しょうしゅん(?-元文05(1740)年02月04日)):加賀国金沢の蕉門 / 薬種商人・宮竹屋 亀田伊右衛門 /『奥の細道』の旅で金沢を通過した折、芭蕉の門人となる
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第40回/第381句~390句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、07月18日(土)に、大垣市守屋多々志美術館/第80回企画展『大和魂-守屋の描く武士-』展→『松坂屋』→らあめん専門店『陣屋』→鞍ヶ池アートサロン『特別感謝展~お客様とともにあゆんだ22年間~』展を巡って来たことについてお伝えする。
処が、今日はいつもと状況が違う展開になった。
其の日は、以下の通り行動した。
03時30分 起床→腹筋2,000回
04時30分 2.5kg木刀素振り60分
05時30分 入浴→朝食→
06時05分 拙宅発→
いつもと違うのは、瀬上の交差点手前で、小生不覚にも左手前の車と接触事故を起こして仕舞ったのだ
06時15分 接触事故を起こす→保険会社と豊橋警察に電話し、警察官に現場検証に来て頂く
07時30分 取り敢えず、手続きを終え、物損処理となる見通しで一安心した / 90分ロスったので、東名高速道路 音羽蒲郡ICから高速にのり名神高速道路大垣IC迄高速道路〔料金1,910円〕を利用した
07時35分 瀬上交差点一般道→3時間05分 119.5km→
09時10分 大垣市守屋多々志美術館近隣駐車場着
09時14分 同館入館
【大垣市守屋多々志美術館/第80回企画展『大和魂-守屋の描く武士-』展】
[02]大垣市守屋多々志美術館 前にて
09時45分 大垣市守屋多々志美術館近隣駐車場発→一般道 100分 45.8km/165.3km→
11時25分 松坂屋名古屋店/北館着「七分袖のワイシャツ1着注文」
12時15分 同所発→一般道 15分 4km/169.3km
12時30分 らあめん専門店『陣屋』着
【らあめん専門店『陣屋』:昼食】
[11]オズモール入口の monument 前にて
12時40分 らあめん専門店『陣屋』発→一般道 6分1.5km/170.8km→
13時00分 N歯科医院着「歯科健診」
14時40分 同所発→一般道→音羽蒲郡IC 東海自動車道87分17.3km/188.1km
16時07分 トヨタ鞍ヶ池記念館駐車場着
16時10分 鞍ヶ池アートサロン着
【鞍ヶ池アートサロン『特別感謝展~お客様とともにあゆんだ22年間~』展】
[14]トヨタ鞍ヶ池記念館前にて
上記[19]本企画展図録と[20]ルノワール『読書』、[21]和田英作 『カーネーション』、[22]モネ『睡蓮』、[23]上村松園 『つれづれ』、[24]小林古径『菖蒲』の postcards 5枚は、当館から来場者への present という粋な計らい!
[21]同 ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 1841.02.25-1919.12.03)『読書』1900年
以下、6点は本企画展図録より‥
[26]和田英作『夏雲』1950年
■今日最後の話題は、07月20日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第9回〕『【1】羽黒山』を up したのでご覧頂きたい。
2015年7月20日(月)付【時習26回3-7の会0557】に掲載されている。
【時習26回3-7の会0557】~〔前略〕「『奥の細道』第9回【出羽三山〔羽黒山・月山・湯殿山〕】~『【1】羽黒山』」〔後略〕
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/260557263769-07.html
元禄二(1689)年 五月二十七日( 同 07月13日)立石寺の宿坊にて1泊した芭蕉一行は、翌28日大石田へ
〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
→・芭蕉は、大石田滞在中に地元俳人達から所望され「五月雨『歌仙』」を興行、その模様を前回ご紹介した『最上川』の前半で記している
六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄の富商〔渋谷風流宅〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
→・2泊した新庄〔渋谷風流宅での句会等〕の模様は『奥の細道』では一言も触れられてない
が、芭蕉一行は18日には渋谷風流の兄 渋谷九郎兵衛(盛信)に招かれ、九兵衛宅で歌仙を巻き歓待されている
因みに、九兵衛宅は風流宅の斜向いで、彼は問屋業を営む出羽国新庄藩6万石の城下一の富商と伝えられる
当時は新庄藩主2代戸沢正誠((まさのぶ)1640-1722)治世下で、最も政治が安定・興隆した時代であった
此の渋谷風流宅での模様が「奥の細道」に載っていないのは、『最上川』で掲載された大石田 高野一栄宅での句会の模様との重複を避けた為だと言われる
→・芭蕉と曽良は、渋谷風流等の配慮で舟に乗ることが出来、新庄から1里半程の所にある本会海(もとあいかい)から最上川を下った
だから、前回ご紹介した『最上川』の文中に出て来た急流の難所「碁点」「隼」は、大石田より上流にあり、芭蕉一行は実際には見ていない
→・新暦07月19日に渋田風流宅を出発して、一里半
[32](渋谷)風流亭跡
此処からの『出羽三山』が今回〔第9回《前編》〕でご紹介する処である。
『出羽三山』に滞在したのは、新暦07月19日~25日迄の計7泊になる。
芭蕉一行が、羽黒山の南谷別院(紫苑寺)に泊った初日は、今から丁度331年前の今時分になる。
其処で今回は、『出羽三山』を執筆順に〔【1】羽黒山〕〔【2】月山・【3】湯殿山〕の2回に分けて〔【1】羽黒山(新暦07月19~21日)〕についてご紹介する。
『出羽三山』7日間の行程は以下の通り‥
同 三~五日/七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に計6泊す
〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/21日 朝の間小雨す、昼より晴れる/23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕
→・芭蕉と曽良は、新暦07月19日 新庄の渋谷風流宅を後にして最上川を下り羽黒山の南谷別院に中一日月山角兵衛小屋に1泊を挟み6泊、同地に計7泊
【出羽三山】
[33]羽黒山 大鳥居
【1】羽黒山
図司(ずし)左吉(さきち)(注2)と云(いふ)者を尋(たずね)て、別当代(べつたうだい)(注3)会覚(えがく)(注4)阿闍利(注5)に謁(えつ)す。
南谷(みなみだに)の別院(注6)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(注7)こまやかにあるじせ(注8)らる。
四日、本坊(注9)にをゐて誹諧興行(こうぎやう)。
有難や 雪をかほらす 南谷
五日、権現(注10)に詣(まうづ)。
【解説】季語:薄=三秋 /
(注1)帋燭(=紙燭(しそく)):紙をよってそれに油を染み込ませて灯明の代用品
(注2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
376 行人(ゆくひと)や堀(ほり)にはまらんむら薄(すすき)(1) 胡及(注2)
【意】勢いよく茂っている群生した薄が、一帯を覆って、視界を遮(さえぎ)っている / 此の辺りは堀が多く走っている為、土地勘のない旅人は落ちて仕舞わなければよいが‥
【解説】季語:むら薄=三秋 /
(注1)むら薄:群生している薄
(注2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句
宗祇(そうぎ)法師(ほふし)のこと葉(ば)によりて
377 名(な)もしらぬ小草(をぐさ)花咲(はなさく)野菊(のぎく)哉(かな) 素堂(注1)
【意】大輪の菊は、品種改良を重ね、大仰な名迄付いているが、野菊の花は小さくひっそりと咲く / だが、宗祇の言うように此の名もない様(さま)が野菊の良さなのだ
【解説】季語:野菊=仲秋 / 宗祇は、「吾妻問答」で野菊を「名もしらぬ小草花咲く川辺哉」と詠み愛でている
(注1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75歳):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人(云) / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等/ 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表
378 としどしのふる根(ね)に高き薄(すすき)哉(かな) 俊似(注1)
【意】道の辺の薄(ススキ)原が、年年歳歳、薄の根の方が大きく高くなり塀の様になって、道の方が沈んで行く様に見える
【解説】季語:薄=三秋 /
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句
仲秋
379 かれ朶(えだ)に烏(からす)のとまりけり秋の暮 芭蕉
【意】秋の夕暮の景色 / 画題「寒鴉枯木」の世界 / 初出の『東日記』(1681(延宝09)年刊)では、中七「烏のとまりたるや」となっている /
嘱目吟とした時の詠んだ場所や、烏が1羽か複数か、古来より、議論が絶えない一句
【解説】季語:秋の暮=三秋 /延宝8年、37歳の作 / 此の句は、談林俳諧から蕉風俳諧への転換期の作品で、初期の秀句の一つ /
380つくづくと繪(ゑ)を見る秋の扇(あふぎ)哉(かな) 加賀 小春(注1)
【意】暑い夏には扇は実用一本やりで気にも留めなかったが、秋になり、初めて其の扇に描かれている絵をしみじみと見た
【解説】季語:秋の扇=初秋 /
(注1)亀田小春(かめだ しょうしゅん(?-元文05(1740)年02月04日)):加賀国金沢の蕉門 / 薬種商人・宮竹屋 亀田伊右衛門 /『奥の細道』の旅で金沢を通過した折、芭蕉の門人となる
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第40回/第381句~390句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、07月18日(土)に、大垣市守屋多々志美術館/第80回企画展『大和魂-守屋の描く武士-』展→『松坂屋』→らあめん専門店『陣屋』→鞍ヶ池アートサロン『特別感謝展~お客様とともにあゆんだ22年間~』展を巡って来たことについてお伝えする。
処が、今日はいつもと状況が違う展開になった。
其の日は、以下の通り行動した。
03時30分 起床→腹筋2,000回
04時30分 2.5kg木刀素振り60分
05時30分 入浴→朝食→
06時05分 拙宅発→
いつもと違うのは、瀬上の交差点手前で、小生不覚にも左手前の車と接触事故を起こして仕舞ったのだ
06時15分 接触事故を起こす→保険会社と豊橋警察に電話し、警察官に現場検証に来て頂く
07時30分 取り敢えず、手続きを終え、物損処理となる見通しで一安心した / 90分ロスったので、東名高速道路 音羽蒲郡ICから高速にのり名神高速道路大垣IC迄高速道路〔料金1,910円〕を利用した
07時35分 瀬上交差点一般道→3時間05分 119.5km→
09時10分 大垣市守屋多々志美術館近隣駐車場着
09時14分 同館入館
【大垣市守屋多々志美術館/第80回企画展『大和魂-守屋の描く武士-』展】
[02]大垣市守屋多々志美術館 前にて
[03]同 館内入口にて
[04]本企画展 leaflet
[05]守屋多々志『星と武者』
[06]同『赤穂の灯(浅野内匠頭の妻)』
[07]同『月の宴』
[08]同『無明』
[09]同『夏日』
[10]同『涼風』
09時45分 大垣市守屋多々志美術館近隣駐車場発→一般道 100分 45.8km/165.3km→
11時25分 松坂屋名古屋店/北館着「七分袖のワイシャツ1着注文」
12時15分 同所発→一般道 15分 4km/169.3km
12時30分 らあめん専門店『陣屋』着
【らあめん専門店『陣屋』:昼食】
[11]オズモール入口の monument 前にて
[12]らあめん専門店『陣屋』入口にて
[13]同 小生の超定番 チャーシュー麵
12時40分 らあめん専門店『陣屋』発→一般道 6分1.5km/170.8km→
13時00分 N歯科医院着「歯科健診」
14時40分 同所発→一般道→音羽蒲郡IC 東海自動車道87分17.3km/188.1km
16時07分 トヨタ鞍ヶ池記念館駐車場着
16時10分 鞍ヶ池アートサロン着
【鞍ヶ池アートサロン『特別感謝展~お客様とともにあゆんだ22年間~』展】
[14]トヨタ鞍ヶ池記念館前にて
[15]鞍ヶ池アートサロン 入口近くの本企画展撮影ブースにて
[16]鞍ヶ池アートサロン 入口近くの本企画展看板前にて
[17]同 入口脇にて1
[18]同 同上2
[19]同 同上3
[20]同 本企画展図録
上記[19]本企画展図録と[20]ルノワール『読書』、[21]和田英作 『カーネーション』、[22]モネ『睡蓮』、[23]上村松園 『つれづれ』、[24]小林古径『菖蒲』の postcards 5枚は、当館から来場者への present という粋な計らい!
[21]同 ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 1841.02.25-1919.12.03)『読書』1900年
[22]同 和田英作
(1874.12.23-1959.01.03)『カーネーション』1939年
[23]同 クロード・モネ(仏:Claude
Monet 1840.11.14-1926.12.05)『睡蓮』1897-98年
[24]鞍ヶ池 Art
salon 上村松園 (1875.04.23-1949.08.27)『つれづれ』1940年頃
[25]同 小林古径
(1883.02.11-1957.04.03)『菖蒲』1948年
以下、6点は本企画展図録より‥
[26]和田英作『夏雲』1950年
[27]アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(伊:Amedeo Clemente Modigliani 1884.07.12-1920.01.24)『青い背の娘』1918年
[28]同 モーリス・ドニ(Maurice
Denis 1870.11.25-1943.11.13)『ヴェネツィア、サンジョルジュ・マジョーレの前のオレンジ売り』1908年
[29]同 黒田清輝
(1866.08.09-1924.07.15)『庭の雪』1920年
[30]同 安井曾太郎
(1888.05.17-1955.12.14)『白桃』1936年
[31]同 アルベール・マルケ(仏:Albert Marquet 1875.03.26-1947.06.13)『アルジェ風景』1936年
16時42分 トヨタ鞍ヶ池記念館駐車場発→一般道→東海環状自動車道大垣IC→120分→ Cat dealer 経由→ 70.9㎞/269km→
18時42分 帰宅〔走行距離計 269km〕〔了〕■今日最後の話題は、07月20日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第9回〕『【1】羽黒山』を up したのでご覧頂きたい。
2015年7月20日(月)付【時習26回3-7の会0557】に掲載されている。
【時習26回3-7の会0557】~〔前略〕「『奥の細道』第9回【出羽三山〔羽黒山・月山・湯殿山〕】~『【1】羽黒山』」〔後略〕
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/260557263769-07.html
前回では、元禄二(1689)年五月二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊した頃の話である。
今回は、翌五月二十八日からの話である。元禄二(1689)年 五月二十七日( 同 07月13日)立石寺の宿坊にて1泊した芭蕉一行は、翌28日大石田へ
以下の行程は、〔中略〕再掲し、一部補足する
同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
→・芭蕉は、大石田滞在中に地元俳人達から所望され「五月雨『歌仙』」を興行、その模様を前回ご紹介した『最上川』の前半で記している
六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄の富商〔渋谷風流宅〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
→・2泊した新庄〔渋谷風流宅での句会等〕の模様は『奥の細道』では一言も触れられてない
が、芭蕉一行は18日には渋谷風流の兄 渋谷九郎兵衛(盛信)に招かれ、九兵衛宅で歌仙を巻き歓待されている
因みに、九兵衛宅は風流宅の斜向いで、彼は問屋業を営む出羽国新庄藩6万石の城下一の富商と伝えられる
当時は新庄藩主2代戸沢正誠((まさのぶ)1640-1722)治世下で、最も政治が安定・興隆した時代であった
此の渋谷風流宅での模様が「奥の細道」に載っていないのは、『最上川』で掲載された大石田 高野一栄宅での句会の模様との重複を避けた為だと言われる
→・芭蕉と曽良は、渋谷風流等の配慮で舟に乗ることが出来、新庄から1里半程の所にある本会海(もとあいかい)から最上川を下った
だから、前回ご紹介した『最上川』の文中に出て来た急流の難所「碁点」「隼」は、大石田より上流にあり、芭蕉一行は実際には見ていない
→・新暦07月19日に渋田風流宅を出発して、一里半
[32](渋谷)風流亭跡
此処からの『出羽三山』が今回〔第9回《前編》〕でご紹介する処である。
『出羽三山』に滞在したのは、新暦07月19日~25日迄の計7泊になる。
芭蕉一行が、羽黒山の南谷別院(紫苑寺)に泊った初日は、今から丁度331年前の今時分になる。
其処で今回は、『出羽三山』を執筆順に〔【1】羽黒山〕〔【2】月山・【3】湯殿山〕の2回に分けて〔【1】羽黒山(新暦07月19~21日)〕についてご紹介する。
『出羽三山』7日間の行程は以下の通り‥
同 三~五日/七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に計6泊す
〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/21日 朝の間小雨す、昼より晴れる/23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕
→・芭蕉と曽良は、新暦07月19日 新庄の渋谷風流宅を後にして最上川を下り羽黒山の南谷別院に中一日月山角兵衛小屋に1泊を挟み6泊、同地に計7泊
【出羽三山】
[33]羽黒山 大鳥居
[34]同 map
[35]同 参道
[36]同【国宝】五重塔
[37]同 [左上下]【国宝】五重塔/[右上中]羽黒山
三神合祭殿/[右下] 南谷(別院高陽院紫苑寺跡)芭蕉句碑
【1】羽黒山
《原文》
六月三日、羽黒山(はぐろさん)(注1)に登る。図司(ずし)左吉(さきち)(注2)と云(いふ)者を尋(たずね)て、別当代(べつたうだい)(注3)会覚(えがく)(注4)阿闍利(注5)に謁(えつ)す。
南谷(みなみだに)の別院(注6)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(注7)こまやかにあるじせ(注8)らる。
四日、本坊(注9)にをゐて誹諧興行(こうぎやう)。
有難や 雪をかほらす 南谷
五日、権現(注10)に詣(まうづ)。
当山開闢(かいびやく)(注11)能除(のうぢょ)大師(注12)はいづれの代(よ)の人と云(いふ)事をしらず。
延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」と有(あり)。
書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
「出羽(では)」といへるは、「鳥の毛羽(まうう)(注15)を此国の貢(みつぎ)に献(たてまつ)る」と風土記(注16)に侍(はべる)とやらん。
月山(注17)・湯殿(注18)を合(あはせ)て三山(さんざん)とす。
当寺武江東叡(ぶかうとうえい)(注19)に属(しょく)して天台止観(てんだいしくわん)(注20)の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)(注21)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて(注22)、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎゃうほふ)を励し(注23)、霊山霊地(注24)の験効(けんかう)(注25)、人貴(たふとび)且恐る。
繁栄長(とこしなへ)にして、めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
《現代語訳》
そして南谷(みなみだに)の別院(注6)に宿泊したが、阿闍梨は、思い遣りの心(注7)で、手厚いもてなしを受けた(注8)。
四日、本坊(注9)において俳諧(の連句の会)が催された。
【意】あぁ、この上なく尊く有難いことだ
此処南谷には、この霊山の谷あいから爽やかな薫風が、残雪の香りを漂わせ乍ら吹き寄せている
五日、羽黒権現(注10)に参詣した。
延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」と有(あり)。
書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
「出羽(では)」といへるは、「鳥の毛羽(まうう)(注15)を此国の貢(みつぎ)に献(たてまつ)る」と風土記(注16)に侍(はべる)とやらん。
月山(注17)・湯殿(注18)を合(あはせ)て三山(さんざん)とす。
当寺武江東叡(ぶかうとうえい)(注19)に属(しょく)して天台止観(てんだいしくわん)(注20)の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)(注21)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて(注22)、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎゃうほふ)を励し(注23)、霊山霊地(注24)の験効(けんかう)(注25)、人貴(たふとび)且恐る。
繁栄長(とこしなへ)にして、めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
《現代語訳》
【1】羽黒山
六月三日、羽黒山(注1)に登った。
山麓で図司左吉(注2)という者を訪ね、その案内で羽黒山の別当代(注3) 会覚(えがく)(注4)阿闍梨(注5)にお目にかかった。そして南谷(みなみだに)の別院(注6)に宿泊したが、阿闍梨は、思い遣りの心(注7)で、手厚いもてなしを受けた(注8)。
四日、本坊(注9)において俳諧(の連句の会)が催された。
【意】あぁ、この上なく尊く有難いことだ
此処南谷には、この霊山の谷あいから爽やかな薫風が、残雪の香りを漂わせ乍ら吹き寄せている
五日、羽黒権現(注10)に参詣した。
羽黒山を開山(注11)した能除大師(注12)は、いつの時代の人かは知らない。
延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」とある。
書写した時に、「黒」の字を「里山」と間違えたのだろうか。
それとも、「羽州黒山」の「州」を省いて「羽黒山」と言うのだろうか。
この国を出羽と言うのは、鳥の羽(注15)を国の貢物として朝廷に献上したから、と風土記(注16)に書いてあるということである。
羽黒山に、月山(注17)と湯殿山(注18)を合わせて三山と言う。
この寺は、武蔵国江戸の東叡山寛永寺(注19)に属して、天台宗の止観の教え(注20)が月の光の様に明るく輝き、円頓融通の教え(注21)の法灯を掲げて(注22)、僧坊が幾棟も建ち並び、修験者は修行に励み(注23)、人は、こうした霊山霊地(注24)の御利益(ごりやく)(注25)を貴び乍らも恐れ謹んでいる。
この繁栄は永久に続くと思われ、実に立派なお山と言うことが出来るだろう。
(注1)羽黒山:紀州の熊野に対して東国に於ける修験の中心 羽黒派の本山/山形県東田川郡羽黒町にある
(注2)図司左吉:図司呂丸(露丸)の本名は近藤左吉/呂丸は鶴岡藩士 図司家に生まれた/のち羽黒山手向山村にて修験者の摺衣を染める染谷を業とした
呂丸は、羽黒俳壇の中心人物で、大石田の高野一栄と同様、旅中、芭蕉直伝を受け門弟となった
芭蕉は、その高野一栄から会覚への紹介状を書いて貰い、羽黒へ行ったら呂丸を先ず訪ねる様勧められ訪ねた
呂丸は、芭蕉と初対面だったが、江戸の俳諧の巨匠芭蕉との邂逅を喜び、7日間に亘る羽黒山滞在中懇切・誠実な対応に終始し芭蕉を喜ばせている
芭蕉と呂丸の親交はこの後も続き、呂丸が元禄05年08月江戸に赴き3年振りに芭蕉に再会を果たしている
呂丸は、その後、美濃・伊勢と旅を続け、翌元禄06年01月向井去来を訪ねたが、病に倒れ02月02日京都に客死した(享年40歳未満)
(注3)別当代:一山の寺務を統括する別当は、東叡山の僧が任ぜられ、羽黒にはその代理(=別当代)が置かれた
(注4)会覚:京都の人/和合院/貞享04(1687)年~元禄04(1691)年迄別当代を務めた
(注5)阿闍利:天台宗・真言宗の僧官の名称/真言密教に通じ、後進の僧を教授するのに相応しい人に与えられる称号/此処では会覚への敬称
(注6)別院:羽黒山参道三の坂下附近にあった別当寺の別院高陽院紫苑寺(しおんじ)
(注7)憐愍の情:憐みの気持ち、思い遣りの心
(注8)あるじす:ご馳走する、饗応するの意
(注9)本坊:一山の支配者としての別当の住む坊舎で、寺領の支配や宗務を司る事務局を兼ねる
若王寺(じゃっこうじ)寶前院(当時)のこと羽黒山中腹のニの坂と三の坂の間の西側にあった
(注10)権現:「権現」とは、仏が衆生済度(しゅじょうさいど)の為化身して現世に神として出現すること、又は、その出現した神のこと
元は式内の伊で(=氏の下に一)波(いでは)神社/神仏混淆に拠り、本地(ほんじ)仏は正(しょう)観音/「羽黒権現」と呼ばれた
(注11)開闢:山を初めて開くこと、又は開いた人
(注12)能除大師:正しくは「能除太子」/崇峻天皇(553-592)の第三皇子の蜂子(はちこ)皇子
(注13)延喜式:宮中の年中儀式・百官の儀・臨時の作法・国々の恒式等を漢文で記述した書物、50巻
醍醐天皇の延喜05(905)年に藤原時平・紀長谷雄(きのはせお)・三善清行等が勅命に拠り、時平没後は弟藤原忠平が引継ぎ、延長05(927)年撰進した
但し、「延喜式」に羽黒山の記載はない/尚、『東鑑』に「出羽国里山ノ衆徒群参ス(承元03(1209)年)」とある
(注14)羽州里山の神社:「『東鑑』に出羽国里山の衆徒とあり/里は黒の誤にして、羽黒は出羽黒山の略にや」(出羽国風土略記)
(注15)鳥の毛羽:不玉編『継尾(つぎお)集』(元禄05(1692)年刊)の呂丸序に、「昔より風土記には、この鳥の毛羽、この国の貢物と記したれば‥」とある
(注16)風土記:元明天皇の和銅06(713)年に歴史編纂資料として各国に命じて朝廷に提出させた地誌
国の地名の由来、土地の肥痩・産物・古老の伝承等が記述されている
(注17)月山:出羽三山の最高峰(海抜1980m)/頂上に「月読命(つきよみのみこと)」を祭神とする月山権現が鎮座/本尊は阿弥陀如来/暮礼山月山寺と号した
(注18)湯殿:湯殿山(海抜1504m)/山全体が神体
湯殿山中腹に大山祇命(おおやまつみのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀る湯殿山権現がある/本尊は大日如来/湯殿山日月寺と号した
(注19)武江東叡:現・東京上野の寛永寺のこと/天海大僧正が寛永年間の創建/天台宗の関東に於ける総本山/徳川家の菩提寺/羽黒山が東叡山の支配下に入ったのは、第50代別当宥誉が寛永18(1641)年天海大僧正の弟子となり天宥と改号してからで、真言宗から天台宗に改宗
(注20)天台止観:天台宗の根本教義である「止観」の行法
「止観」は、散乱する妄念を制止し、心を静寂にし、明智を以て諸仏の実相を観照識別すること
(注21)円頓融通:「円頓」は天台宗の用語で、「円満頓足〔=今此処に持ち合わせている心に、全ての物事を欠けることなく円満に備え、即、悟り成仏する〕」の意
「融通(ゆづう)」は、異なった別々のものが融け合って障りのないこと、諸法を観ずるに滞らないこと
「円頓融通」は、円満な心をもって速やかに悟りの境地に入り、滞りなく諸法を観ずること
(注22)法の灯かゝげそひて:「法の灯」は、仏法を闇夜を照らす灯に例えて言う語/仏法相伝の命脈・法統
(注23)修験行法を励し:修験者の仏道修行に励むこと/「励(はげま)し」と他動詞表現にしたのは、「僧坊棟を並べ」と対句表現にした為
(注24)霊山霊地:神聖な山と土地/神社仏閣のある山や土地に言う語
(注25)験効:有難い御利益(ごりやく)の現れ
延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」とある。
書写した時に、「黒」の字を「里山」と間違えたのだろうか。
それとも、「羽州黒山」の「州」を省いて「羽黒山」と言うのだろうか。
この国を出羽と言うのは、鳥の羽(注15)を国の貢物として朝廷に献上したから、と風土記(注16)に書いてあるということである。
羽黒山に、月山(注17)と湯殿山(注18)を合わせて三山と言う。
この寺は、武蔵国江戸の東叡山寛永寺(注19)に属して、天台宗の止観の教え(注20)が月の光の様に明るく輝き、円頓融通の教え(注21)の法灯を掲げて(注22)、僧坊が幾棟も建ち並び、修験者は修行に励み(注23)、人は、こうした霊山霊地(注24)の御利益(ごりやく)(注25)を貴び乍らも恐れ謹んでいる。
この繁栄は永久に続くと思われ、実に立派なお山と言うことが出来るだろう。
(注1)羽黒山:紀州の熊野に対して東国に於ける修験の中心 羽黒派の本山/山形県東田川郡羽黒町にある
(注2)図司左吉:図司呂丸(露丸)の本名は近藤左吉/呂丸は鶴岡藩士 図司家に生まれた/のち羽黒山手向山村にて修験者の摺衣を染める染谷を業とした
呂丸は、羽黒俳壇の中心人物で、大石田の高野一栄と同様、旅中、芭蕉直伝を受け門弟となった
芭蕉は、その高野一栄から会覚への紹介状を書いて貰い、羽黒へ行ったら呂丸を先ず訪ねる様勧められ訪ねた
呂丸は、芭蕉と初対面だったが、江戸の俳諧の巨匠芭蕉との邂逅を喜び、7日間に亘る羽黒山滞在中懇切・誠実な対応に終始し芭蕉を喜ばせている
芭蕉と呂丸の親交はこの後も続き、呂丸が元禄05年08月江戸に赴き3年振りに芭蕉に再会を果たしている
呂丸は、その後、美濃・伊勢と旅を続け、翌元禄06年01月向井去来を訪ねたが、病に倒れ02月02日京都に客死した(享年40歳未満)
(注3)別当代:一山の寺務を統括する別当は、東叡山の僧が任ぜられ、羽黒にはその代理(=別当代)が置かれた
(注4)会覚:京都の人/和合院/貞享04(1687)年~元禄04(1691)年迄別当代を務めた
(注5)阿闍利:天台宗・真言宗の僧官の名称/真言密教に通じ、後進の僧を教授するのに相応しい人に与えられる称号/此処では会覚への敬称
(注6)別院:羽黒山参道三の坂下附近にあった別当寺の別院高陽院紫苑寺(しおんじ)
(注7)憐愍の情:憐みの気持ち、思い遣りの心
(注8)あるじす:ご馳走する、饗応するの意
(注9)本坊:一山の支配者としての別当の住む坊舎で、寺領の支配や宗務を司る事務局を兼ねる
若王寺(じゃっこうじ)寶前院(当時)のこと羽黒山中腹のニの坂と三の坂の間の西側にあった
(注10)権現:「権現」とは、仏が衆生済度(しゅじょうさいど)の為化身して現世に神として出現すること、又は、その出現した神のこと
元は式内の伊で(=氏の下に一)波(いでは)神社/神仏混淆に拠り、本地(ほんじ)仏は正(しょう)観音/「羽黒権現」と呼ばれた
(注11)開闢:山を初めて開くこと、又は開いた人
(注12)能除大師:正しくは「能除太子」/崇峻天皇(553-592)の第三皇子の蜂子(はちこ)皇子
(注13)延喜式:宮中の年中儀式・百官の儀・臨時の作法・国々の恒式等を漢文で記述した書物、50巻
醍醐天皇の延喜05(905)年に藤原時平・紀長谷雄(きのはせお)・三善清行等が勅命に拠り、時平没後は弟藤原忠平が引継ぎ、延長05(927)年撰進した
但し、「延喜式」に羽黒山の記載はない/尚、『東鑑』に「出羽国里山ノ衆徒群参ス(承元03(1209)年)」とある
(注14)羽州里山の神社:「『東鑑』に出羽国里山の衆徒とあり/里は黒の誤にして、羽黒は出羽黒山の略にや」(出羽国風土略記)
(注15)鳥の毛羽:不玉編『継尾(つぎお)集』(元禄05(1692)年刊)の呂丸序に、「昔より風土記には、この鳥の毛羽、この国の貢物と記したれば‥」とある
(注16)風土記:元明天皇の和銅06(713)年に歴史編纂資料として各国に命じて朝廷に提出させた地誌
国の地名の由来、土地の肥痩・産物・古老の伝承等が記述されている
(注17)月山:出羽三山の最高峰(海抜1980m)/頂上に「月読命(つきよみのみこと)」を祭神とする月山権現が鎮座/本尊は阿弥陀如来/暮礼山月山寺と号した
(注18)湯殿:湯殿山(海抜1504m)/山全体が神体
湯殿山中腹に大山祇命(おおやまつみのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀る湯殿山権現がある/本尊は大日如来/湯殿山日月寺と号した
(注19)武江東叡:現・東京上野の寛永寺のこと/天海大僧正が寛永年間の創建/天台宗の関東に於ける総本山/徳川家の菩提寺/羽黒山が東叡山の支配下に入ったのは、第50代別当宥誉が寛永18(1641)年天海大僧正の弟子となり天宥と改号してからで、真言宗から天台宗に改宗
(注20)天台止観:天台宗の根本教義である「止観」の行法
「止観」は、散乱する妄念を制止し、心を静寂にし、明智を以て諸仏の実相を観照識別すること
(注21)円頓融通:「円頓」は天台宗の用語で、「円満頓足〔=今此処に持ち合わせている心に、全ての物事を欠けることなく円満に備え、即、悟り成仏する〕」の意
「融通(ゆづう)」は、異なった別々のものが融け合って障りのないこと、諸法を観ずるに滞らないこと
「円頓融通」は、円満な心をもって速やかに悟りの境地に入り、滞りなく諸法を観ずること
(注22)法の灯かゝげそひて:「法の灯」は、仏法を闇夜を照らす灯に例えて言う語/仏法相伝の命脈・法統
(注23)修験行法を励し:修験者の仏道修行に励むこと/「励(はげま)し」と他動詞表現にしたのは、「僧坊棟を並べ」と対句表現にした為
(注24)霊山霊地:神聖な山と土地/神社仏閣のある山や土地に言う語
(注25)験効:有難い御利益(ごりやく)の現れ
【解説】芭蕉一行の『奥の細道』の旅は、出羽越えする迄は、「歌枕」と「義経主従」の足跡を辿ることが中心であった。
が、出羽国に入った途端「歌仙」「連句」の会へと様相が一変する。〔以下の暦は新暦〕
・07月03~12日『尾花沢』の鈴木清風宅〔・07月13日‥立石寺の宿坊に1泊す‥〕
・07月14~16日『最上川』の前段「大石田」の高野一栄宅〔芭蕉の門人になる〕
・07月17~18日『最上川』下りをclause upさせる為に割愛されたのであろう渋田風流宅
・07月19~25日『出羽三山』〔南谷別院3泊×2回と月山角兵衛小屋1泊〕の7日間は、羽黒俳諧の宗匠図司呂丸(近藤左吉)が世話をし芭蕉の門人となる
又、清風・一栄・風流・呂丸の当地の俳人達も、「貞門」「談林」の旧来の俳諧からの脱皮を模索していたらしく、芭蕉と曽良の心から歓待している。
【小生comment】
芭蕉は、現役時代から「超」がつく売れっ子の俳人だったことが、『奥の細道』を読んでいく程に実感される。
それにしても、「羽黒山」の文は僅か260字余りに対して、脚注が25もある。
即ち、何の歴史や文化の知識なしに『奥の細道』を読んでみても、作者松尾芭蕉の真意を読みとることは出来ない。
読み始める前は、松尾芭蕉は元禄時代の人なので、古文と言っても近世であり、きっと読み易いと思っていた。
実際、「源氏物語」や「枕草子」の様な平安時代の作品よりはずっと読み易い筈である。
しかし、芭蕉は当時かなりhigh-levelの知識人・教養人であることが解った。
この為、『奥の細道』を作者の真意迄読み取ろうとすると、読み手も相応に知識と教養が必要になるのである。
通訳を例にすれば、Native English を話す通訳でも、専門用語が頻出する学会で通訳が全く役に立たないのと同じである。
【後記】今日は、最近 Facebook に up した5つの話題についてお届けして締め括りとする。
[38][左上]2018/06/10撮影/[右上]2019/06/16 撮影/[左中右下]2020/07/15 撮影
2.【白洲正子『かくれ里』~「久々利の里」】
[39]左上から時計周りに‥[左上]白洲正子(1910-98)著『かくれ里』(文庫本P.227-240)とNHKのDVD『かくれ里』
[右上]新婚当時の白洲次郎(1902.02.17-1985.11.28)と正子
[右下][中下]白洲正子1
[左下]祖父の伯爵 樺山資紀(かばやま すけのり(1837.12.09-1922.02.08))と一緒の正子
が、出羽国に入った途端「歌仙」「連句」の会へと様相が一変する。〔以下の暦は新暦〕
・07月03~12日『尾花沢』の鈴木清風宅〔・07月13日‥立石寺の宿坊に1泊す‥〕
・07月14~16日『最上川』の前段「大石田」の高野一栄宅〔芭蕉の門人になる〕
・07月17~18日『最上川』下りをclause upさせる為に割愛されたのであろう渋田風流宅
・07月19~25日『出羽三山』〔南谷別院3泊×2回と月山角兵衛小屋1泊〕の7日間は、羽黒俳諧の宗匠図司呂丸(近藤左吉)が世話をし芭蕉の門人となる
以上の様に、清風宅に着いた07月03日からの全23日間のうち、07月13日の一日(←「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と絶唱した句を作った場所)を除いて残り22日は、「連句の会」が絡んだ宿泊となっている。
即ち、江戸から上方にかけて人気が浸透して居た「蕉風俳諧」を北国の出羽国に伝えて行こうという芭蕉の意欲が伺える。又、清風・一栄・風流・呂丸の当地の俳人達も、「貞門」「談林」の旧来の俳諧からの脱皮を模索していたらしく、芭蕉と曽良の心から歓待している。
【小生comment】
芭蕉は、現役時代から「超」がつく売れっ子の俳人だったことが、『奥の細道』を読んでいく程に実感される。
それにしても、「羽黒山」の文は僅か260字余りに対して、脚注が25もある。
即ち、何の歴史や文化の知識なしに『奥の細道』を読んでみても、作者松尾芭蕉の真意を読みとることは出来ない。
読み始める前は、松尾芭蕉は元禄時代の人なので、古文と言っても近世であり、きっと読み易いと思っていた。
実際、「源氏物語」や「枕草子」の様な平安時代の作品よりはずっと読み易い筈である。
しかし、芭蕉は当時かなりhigh-levelの知識人・教養人であることが解った。
この為、『奥の細道』を作者の真意迄読み取ろうとすると、読み手も相応に知識と教養が必要になるのである。
通訳を例にすれば、Native English を話す通訳でも、専門用語が頻出する学会で通訳が全く役に立たないのと同じである。
【後記】今日は、最近 Facebook に up した5つの話題についてお届けして締め括りとする。
1.【拙宅中庭の紫陽花 2018/2019/2020 3年間の変遷】
[38][左上]2018/06/10撮影/[右上]2019/06/16 撮影/[左中右下]2020/07/15 撮影
[中下]紫陽花の花とクマゼミの抜け殻
/ 今年は不作で、紫陽花の花は此の一輪だけだった!
2.【白洲正子『かくれ里』~「久々利の里」】
[39]左上から時計周りに‥[左上]白洲正子(1910-98)著『かくれ里』(文庫本P.227-240)とNHKのDVD『かくれ里』
[右上]新婚当時の白洲次郎(1902.02.17-1985.11.28)と正子
[右下][中下]白洲正子1
[左下]祖父の伯爵 樺山資紀(かばやま すけのり(1837.12.09-1922.02.08))と一緒の正子
前《会報》にて、07月12日(日)に「虎渓山永保寺」と「久々利」城跡を訪れたことをお伝えしたが、実は、此れには伏線があった。
十年程前、白洲正子(1910.01.07-98.12.26)著『かくれ里』(文庫本P.227-240)とNHKのDVD『かくれ里』を手に入れ以来、「久々利の里」の章は数回詠み返していて、今回久しぶりに訪ねてみたくなったからだ。
其の「久々利の里」は次の様に始まっている。
陶芸家の荒川豊三(1894-85)氏ほど、生活を楽しんでいる人お私は知らない。〔中略〕
久しぶりに荒川さんのお住居を訪ねたいと思った。岐阜県可児町久々利といっても、知る人は少ないと思うが、多治見から北の山奥へ入ったところで、お家はそのまた奥の大萱という字(あざ)にある。〔中略〕
中央線に乗り換え、多治見で降りる。と、思いがけなく荒川さんが迎えに出ていて下さった。見せたい処があるというのである。〔中略〕私はだまってついて行くことにした。
それは虎渓山(永保寺)という禅宗のお寺であった。〔中略〕現在でも七十町歩はあるというから、よほど大きな寺なのであろう。
青葉の中を行くこと十分あまり、やがて山門に到着する。山門の前を流れるのは土岐川で、水が白いのは陶土のためであるという。〔中略〕
鎌倉時代にこのあたりを統べた土岐氏の名も、はじめは「土器」から出たものに違いない。
この寺も、足利尊氏(1305-58)の本願により、土岐氏が建てたもので、夢窓国師(1275-1351)が嵯峨へうつる前に住んでいた。
【詞書】濃州虎渓と云山中に栖(すみ)侍(はべり)ける頃、一筋の道だにもつたへぬ山の奥なれど、参学の志あるたぐひ訪(とひ)来(き)けるをいとひ侍りて、
世のうさにかへたる山の淋(さびし)さを 訪(と)はぬぞ人の情(なさけ)なりける 夢窓国師
とある様に、今も当時の面影を残している幽邃(ゆうすい)な禅寺である。京都あたりの寺と違い、規模が大きく、庭も自然の儘にあまり手が入っていないのが気持いい。〔後略〕
3.【07月16日:史上最年少 title 保持者・藤井聡太棋聖誕生!】
ホント、素晴らしい快挙だ!
小生が毎月訪れ、超定番チャーシュー麺を食べているらあめん『陣屋』は藤井聡太新棋聖も行きつけの店だ。
【らあめん専門店『陣屋』】
[40]左上から時計回りに‥[左上]藤井七段が棋聖戦 title を獲得した速報ニュース
[右上]藤井聡太君と陣屋店主川浦さんご夫妻
[右下]小学一年生当時の藤井聡太君!
[中下][左下]店主夫人の川浦S子さん
4.2015年07月19日付【豊橋祇園祭&時習26回生同窓会の想い出】
十年程前、白洲正子(1910.01.07-98.12.26)著『かくれ里』(文庫本P.227-240)とNHKのDVD『かくれ里』を手に入れ以来、「久々利の里」の章は数回詠み返していて、今回久しぶりに訪ねてみたくなったからだ。
其の「久々利の里」は次の様に始まっている。
陶芸家の荒川豊三(1894-85)氏ほど、生活を楽しんでいる人お私は知らない。〔中略〕
久しぶりに荒川さんのお住居を訪ねたいと思った。岐阜県可児町久々利といっても、知る人は少ないと思うが、多治見から北の山奥へ入ったところで、お家はそのまた奥の大萱という字(あざ)にある。〔中略〕
中央線に乗り換え、多治見で降りる。と、思いがけなく荒川さんが迎えに出ていて下さった。見せたい処があるというのである。〔中略〕私はだまってついて行くことにした。
それは虎渓山(永保寺)という禅宗のお寺であった。〔中略〕現在でも七十町歩はあるというから、よほど大きな寺なのであろう。
青葉の中を行くこと十分あまり、やがて山門に到着する。山門の前を流れるのは土岐川で、水が白いのは陶土のためであるという。〔中略〕
鎌倉時代にこのあたりを統べた土岐氏の名も、はじめは「土器」から出たものに違いない。
この寺も、足利尊氏(1305-58)の本願により、土岐氏が建てたもので、夢窓国師(1275-1351)が嵯峨へうつる前に住んでいた。
【詞書】濃州虎渓と云山中に栖(すみ)侍(はべり)ける頃、一筋の道だにもつたへぬ山の奥なれど、参学の志あるたぐひ訪(とひ)来(き)けるをいとひ侍りて、
世のうさにかへたる山の淋(さびし)さを 訪(と)はぬぞ人の情(なさけ)なりける 夢窓国師
とある様に、今も当時の面影を残している幽邃(ゆうすい)な禅寺である。京都あたりの寺と違い、規模が大きく、庭も自然の儘にあまり手が入っていないのが気持いい。〔後略〕
3.【07月16日:史上最年少 title 保持者・藤井聡太棋聖誕生!】
ホント、素晴らしい快挙だ!
小生が毎月訪れ、超定番チャーシュー麺を食べているらあめん『陣屋』は藤井聡太新棋聖も行きつけの店だ。
【らあめん専門店『陣屋』】
[40]左上から時計回りに‥[左上]藤井七段が棋聖戦 title を獲得した速報ニュース
[右上]藤井聡太君と陣屋店主川浦さんご夫妻
[右下]小学一年生当時の藤井聡太君!
[中下][左下]店主夫人の川浦S子さん
[41]らあめん『陣屋』/ カウンター1~3
4.2015年07月19日付【豊橋祇園祭&時習26回生同窓会の想い出】
5年前の2015年7月23日(木)付の小生の blog【時習26回3-7の会0558】~「07月19日:『時習26回生
祝還暦 打上花火&二次会』に参加して」が up されていたので、其の中から写真を19枚 upします
上記 blog は、以下の URL をご笑覧下さい。
↓↓ 此処を click して下さい上記 blog は、以下の URL をご笑覧下さい。
[42]打ち上げ花火1~5
[43]二次会にて1:4枚
[45]同上3:全体記念写真2枚
此の同窓会に参加した5年前には元気に写真に映っている同期生安田(旧姓加藤)陽子【3-6】さんと平井邦生君【3-7】の二人はもういない。(涙)
ホント、此れからは健康で明るく元気に生きていけるだけで Happy だと思える年代になった。
毎日/\を大切に有意義に生きていきたいものだ。
だって、みんな今年から高齢者人口の対象者だもんネッ!
処で今から7〜8年前の統計だが、人間、六十路を迎える前に 5%が亡くなる。
そして、卒寿を迎えてもピンシャンに元気な人が11%いる。
『人生百寿が当たり前』の時代になりつつある。
[46]時習26回生桟敷席での同期生の面々3枚
[上]同上1:当該写真の中、左手前の青と白の柄のワンピースの女性が今は亡き安田(旧姓加藤)さん
[右下]同上2:同じく、右上、白いシャツ姿の竹内【3-7】君が屈みこんで話しかけている右側の男性が今は亡き元気な往時の平井君【3-7】
[左下]同上3
5.【TVドラマ『半沢直樹』が再び始まったネッ!】
[43]二次会にて1:4枚
[44]同上2:5枚
[45]同上3:全体記念写真2枚
此の同窓会に参加した5年前には元気に写真に映っている同期生安田(旧姓加藤)陽子【3-6】さんと平井邦生君【3-7】の二人はもういない。(涙)
ホント、此れからは健康で明るく元気に生きていけるだけで Happy だと思える年代になった。
毎日/\を大切に有意義に生きていきたいものだ。
だって、みんな今年から高齢者人口の対象者だもんネッ!
処で今から7〜8年前の統計だが、人間、六十路を迎える前に 5%が亡くなる。
そして、卒寿を迎えてもピンシャンに元気な人が11%いる。
『人生百寿が当たり前』の時代になりつつある。
[46]時習26回生桟敷席での同期生の面々3枚
[上]同上1:当該写真の中、左手前の青と白の柄のワンピースの女性が今は亡き安田(旧姓加藤)さん
[右下]同上2:同じく、右上、白いシャツ姿の竹内【3-7】君が屈みこんで話しかけている右側の男性が今は亡き元気な往時の平井君【3-7】
[左下]同上3
5.【TVドラマ『半沢直樹』が再び始まったネッ!】
[47]TVドラマ『半沢直樹』より
其れにしても微妙な「東京セントラル証券」と言う名前だ。
どうしても、旧行の関係会社や親密会社の 、東海東京証券、セントラル抵当証券、セントラルファイナンス、セントラルリースの名前が浮かんで来て仕舞う!
小生、旧行融資部(東京)事業調査室時代の1991年02月、融資部企画 Group 大蔵省(=当時)検査部検査貸出資産対策 project team( P/T ) の一員としての辞令を拝命した。
因みに、Facebook のお友達で旧行時代の同期の重原君も名古屋本部での発令で、一緒に project team( P/T )の一員に任命された。
4年先輩になるK主任調査役(←半沢次長の役割を担当)をP/Tの head に、石井さんや重ちゃん、武山君等数名が、月月火水木金金の約1年に亘る hard だったが、遣り甲斐ある1年を過ごした。
貸出資産の健全性を証明する為に本店営業部(=名古屋)・東京営業部・大阪支店の3母店をはじめ、全国の営業店に指導に回った。
大蔵省は多数の検査官を受検銀行に派遣し、銀行の貸出資産が不良債権化していないか、営業店長(=3母店は営業課長)に面談して説明させた。
大蔵省は、貸出資産の健全性を、4つに分類して不良債権額が水準以上に多いと、最悪の場合、銀行に業務停止命令等の厳しい penalty が課せられたから、銀行としてはそうならない様に懸命に対処した。
苦労した所為か、貸出資産対策 project team( P/T ) の一員だった小生、4つの分類債権の定義を今も諳んじることが出来る。
第I分類 : 健全な(貸出)債権→ 不良債権額は 0
第Ⅱ分類 : 信用上何らかの疑義があって、回収にかなりの長期を要する(貸出)債権→ 期間損益が2期連続赤字先で「【長期】貸出債権額−税引後償却(引当)前経常利益×7年」を返済不能と判定し不良債権額とする
第Ⅲ分類 : 破綻は避けられないが、(破綻)金額が確定しない(貸出)債権→ 貸出債権額の50%が不良債権額
第Ⅳ分類 : 貸出債権全額(100%)が不良債権額
P/T は、如何にⅡ・Ⅲ・Ⅳ分類額を減らすかが mission なので、事実上第Ⅱ分類額を減らすかに最大限知恵を絞り懸命に働いた。
では、また‥〔了〕
*
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
*
其れにしても微妙な「東京セントラル証券」と言う名前だ。
どうしても、旧行の関係会社や親密会社の 、東海東京証券、セントラル抵当証券、セントラルファイナンス、セントラルリースの名前が浮かんで来て仕舞う!
小生、旧行融資部(東京)事業調査室時代の1991年02月、融資部企画 Group 大蔵省(=当時)検査部検査貸出資産対策 project team( P/T ) の一員としての辞令を拝命した。
因みに、Facebook のお友達で旧行時代の同期の重原君も名古屋本部での発令で、一緒に project team( P/T )の一員に任命された。
4年先輩になるK主任調査役(←半沢次長の役割を担当)をP/Tの head に、石井さんや重ちゃん、武山君等数名が、月月火水木金金の約1年に亘る hard だったが、遣り甲斐ある1年を過ごした。
貸出資産の健全性を証明する為に本店営業部(=名古屋)・東京営業部・大阪支店の3母店をはじめ、全国の営業店に指導に回った。
大蔵省は多数の検査官を受検銀行に派遣し、銀行の貸出資産が不良債権化していないか、営業店長(=3母店は営業課長)に面談して説明させた。
大蔵省は、貸出資産の健全性を、4つに分類して不良債権額が水準以上に多いと、最悪の場合、銀行に業務停止命令等の厳しい penalty が課せられたから、銀行としてはそうならない様に懸命に対処した。
苦労した所為か、貸出資産対策 project team( P/T ) の一員だった小生、4つの分類債権の定義を今も諳んじることが出来る。
第I分類 : 健全な(貸出)債権→ 不良債権額は 0
第Ⅱ分類 : 信用上何らかの疑義があって、回収にかなりの長期を要する(貸出)債権→ 期間損益が2期連続赤字先で「【長期】貸出債権額−税引後償却(引当)前経常利益×7年」を返済不能と判定し不良債権額とする
第Ⅲ分類 : 破綻は避けられないが、(破綻)金額が確定しない(貸出)債権→ 貸出債権額の50%が不良債権額
第Ⅳ分類 : 貸出債権全額(100%)が不良債権額
P/T は、如何にⅡ・Ⅲ・Ⅳ分類額を減らすかが mission なので、事実上第Ⅱ分類額を減らすかに最大限知恵を絞り懸命に働いた。
では、また‥〔了〕
*
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
*
0 件のコメント:
コメントを投稿