今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第35回/第331句~340句〕」をご紹介する。
331 簾(すだれ)して涼(すず)しや宿(やど)のはい(=ひ)りぐち 荷兮(注1)
【意】門口に簾をかけた /「簾をかけてある」だけという視覚で涼感を表現している
【解説】季語:簾(すだれ)=三夏、涼しや=三夏 /
(注1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 1693(元禄06)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
332 はき庭(には)(注1)の砂(すな)あつからぬ曇(くもり)哉(かな) 同
【意】夏の曇天の日 / 流石に今日はどんより曇っているから庭の砂も暑くはないヨ
【解説】季語:あつからぬ‥暑し=三夏 /
(注1)はき庭:植木の殆どない砂地・土だけの庭 /
333 おもはずの人(ひと)に逢(あひ)けり夕涼(ゆふすず)み 鳴海 如風(注1)
【意】夕涼み / 夕靄(ゆふもや)の中で思いがけない人に出逢う /「おもはず」の驚きが夕涼みに不思議な impact を与えている
【解説】季語:夕涼み=晩夏 /
(注1)如風(じょふう(1626(?)-1705(宝永02)年09月21日(享年80歳)):尾張国鳴海の如意寺住職 / 文英和尚/ 名古屋蕉門の一人 /『冬の日』同人
334 飛石(とびいし)の石龍(とかげ)や草(くさ)の下涼(したすず)み(注1) 津島俊似(注2)
【意】庭の飛び石の陰からトカゲが這い出して来たかと思うと、一瞬で下草の中に隠れた / トカゲが慌ただしく草の茂み中に隠れた其の様子を「下涼み」と洒落た
【解説】季語:下涼み=晩夏 /
(注1)下涼み:樹木などの陰で涼むこと
(注2)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に多数入句
335 涼(すず)しさや樓(ろう)の下(した)ゆく水(みず)の音(おと) 仝
【意】川辺にある高楼 / 高楼を吹き抜ける川風に清流の音が加わって涼しさが齎される
【解説】季語:涼しさ=三夏 /
336 挑燈(てうちん)のどこやらゆかし涼ミ舟(すずみぶね) 卜枝(注1)
【意】納涼舟 / 屋形の周辺に提灯が幾つか下げてある / 其れ等が川面に映り涼しさがゆかしく伝わって来る
【解説】季語:涼ミ舟(すずみぶね)=晩夏 /
(注1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していた伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
337 すゞしさをわすれてもどる川辺(かはべ)哉(かな) 未學(注1)
【意】川辺の涼み / 最初は涼しさを喜んでいたが、段々寒くなって来て、涼みの喜びを忘れてそそくさと家路を急ぐ
【解説】季語:すゞしさ=三夏 /
(注1)未學(みがく(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』に2句が入句
338 吹(ふき)ちりて水(みず)のうへゆく蓮(はちす)かな 岐阜 秀正(注1)
【意】蓮池を通り過ぎてゆく一陣の風 / その風に蓮(ハス)の花弁が一、二片散って水面に落ちた / 涼しさを感じるヨ
【解説】季語:蓮(はちす)=晩夏 / 肌に感じる涼しさと、宵の水面に白く浮く蓮の花弁の美しさを詠む
(注1)秀正(しゅうせい(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 / 詳細不詳
339 蓮(はちす)みむ日(ひ)にさかやき(注1)はわるゝとも 松坂 晨風(注2)
【意】剃り立ての月代(さかやき)は日射で頭がひび割れるかもしれないが、此の気分が改まった時こそ、美しい蓮の花を見るのに相応しい
【解説】季語:蓮(はちす)=晩夏 /
(注1)さかやき(月代):男子が額から脳天までの毛を剃った髪型で、安土桃山時代から武士に間で流行 / 江戸の入ると庶民までが取り入れたヘアスタイル
(注2)晨風(しんぷう(生没年不詳)):伊勢国松坂の人 /『あら野』に2句が入句
340 笠(かさ)を着(き)てみなみな蓮(はす)に暮(くれ)にけり 古梵(注1)
【意】多勢の人たちが蓮池の蓮の花を愛でて一日が終わり暮れかかっている / 面白いことに見物人は皆日よけの傘を被っている
【解説】季語:蓮(はす)=晩夏 /
(注1)古梵(こぼん(生没年不詳)):尾張国の僧 /『あら野』などに入句
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第36回/第341句~340句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、06月20日(土)に、メナード美術館『画家たちの欧羅巴』展→らあめん専門店『陣屋』→古川美術館『美術のなかのどうぶつたち』展→『松平城址』→『大給城址』と巡って来たことについてお伝えする。
二三日前の天気予報では、今日06月20日(土)は雨天であったが、今日はいい天気になった。
其処で、今日も2つの美術館と城跡を1つ巡って来た。
05時15分 起床→腹筋2,000回→
06時20分 2.5kg木刀素振り60分
07時25分 入浴→朝食→
08時05分 拙宅発→一般道→東名音羽蒲郡IC→小牧IC→1時間40分 89.5km→
09時45分 メナード美術館着
【メナード美術館】
[01]メナード美術館 入口にて1
[02]同 同上2
[03]同 本企画展leaflet
[04]佐藤忠良(1912-2011)『帽子・冬』1979年
[05]中村彝(1887-1924)『婦人像』1913年
[06]佐伯雄三(1898-28)『街角の広告』1927年
[07]海老原喜之助(1904-70)『サーカス(circus)』1927年
[08]安井曾太郎(1888-1955)『卓上静物』1950年
[09]大沼映夫(1933- )『顔・顔・顔』1977~78年
10時00分 メナード美術館へ入館『画家たちの欧羅巴』展
当美術館は、06月05日から展覧会を再開した。
入館に当たっては、入口に男性職員が立っていて入館者に、マスク着用の確認と検温をして異常ない人を入館させた。
入館すると、alcohol消毒をしてから入館手続き。
小生は、年間会員だが、休館期間相当分更新期日を気前よく5箇月延長してくれた。
10時30分 メナード美術館発→一般道10分 4.6km/94.1km→
【芭蕉/春日井市正念寺「來(いざ)與(とも)に 穗麥(ほむげい)喰(くらわ)ん 草枕(草枕)」石碑】
[10]メナード美術館→正念寺「芭蕉/石碑」迄の Google map
[11]正念寺「芭蕉/石碑」にて1
[12]同上2
[13]同「同上」石碑
[14]同「同上」石碑「解説」板
10時45分 正念寺「芭蕉/石碑」着
此の句碑は、芭蕉が1685(貞享02)年 に詠んだ「野ざらし紀行」の中に見える。
芭蕉が行脚(あんぎゃ)の途次、此の地「正念寺」地近くの農家に一宿した折の吟であると伝えられる。
時は旧暦の四月、何分田舎のこととて、差し上げるものもなく、婆やが思いつく儘に、新麦の穂をとって来て、「青ざし」をこしらえ、此の句を詠んだという。
此の地方には、昔から麦の端境期(はざかいき)になると、空腹しのぎに大麦を青刈りして、穗を石臼で挽き、餅の様に食べる風習があった。〔後略〕
〔同「同上」石碑「解説」板より引用〕
10時52分 正念寺「芭蕉/石碑」発→一般道17分 7.1㎞/101.2km→
11時13分 らあめん専門店『陣屋』駐車場着
【らあめん専門店『陣屋』にて昼食】
[15]正念寺「芭蕉/石碑」→らあめん『陣屋』迄のGoogle map
[16]らあめん陣屋入口にて
[17]らあめん専門店『陣屋』入口にあるalcohol消毒液
[18]小生のVSOPの超定番「味噌チャーシュー麵」
[19]オズモール入口にて
12時00分 あめん専門店『陣屋』駐車場→一般道17分 6km/107.2km→
12時17分 古川美術館駐車場着【古川美術館『美術のなかのどうぶつたち』展】
[20]古川美術館入口前にて
[21]同館内に設置されたalcohol消毒液
[22]同館内入口近くにて
[23]同所にて/ワイズハッシュ、クロード(1927-2014)『曲馬(Circus)』
[24]鈴木紹陶武(つとむ(1979- ))『三日月のゆめ』2007年1【撮影可】
[25]同上2【撮影可】
[26]同『ワニのベンチ』2019年1【撮影可】
[27]同上2【撮影可】
[28]
同『カメの動く家』2019年1【撮影可】
[29]同上2【撮影可】
[30]本企画展leaflet
[31]西村五雲(1877-1938)『霽(は)れ間』制作年不詳
[32]福田平八郎(1892-1974)『鴛鴦』制作年不詳
[33]前田青邨(1885-1977)『木菟』制作年不詳
[34]松田文子(1927- )『イビザ島の日没』1957年
[35]井上覺造(1905-80)『郊外の小径』1973年頃
[36]同『アルプスの猫』制作年不詳
[37]市野龍起(1942-97)『群』1976年
【小生 comment 】
古川美術館も、コロナウィルス感染症対策は確りしていた。
入館時に、検温、マスク着用、alcohol消毒が義務付けられていた。
13時00分 古川美術館駐車場発→一般道 1時間33分 43.9km/151.1km→
【松平城址】
[38]松平城跡 Google map
[39]松平城址 入口
[40]同 縄張図
[41]同「国指定史跡 松平氏遺跡」石碑
郷敷(ごうしき)城と称する。
応永年間(1394-1427)に松平(徳川)氏の始祖親氏の築城と伝わる。
[42]松平城址 解説板
[43]同 主郭
[44]同 主郭に立っていた「松平城址」石碑
[45]同 同所にて1
[46]同 同上2
[47]松平城址「国指定史跡 松平氏遺跡」石碑にて1
[48]同 同上2
[49]同 同所で見つけた「オカトラノオ」1
[50]同 同上2
[51]同 同上3
15時13分 松平城址発→一般道 1時間34分 53㎞→
16時47分 帰宅〔走行距離計 204km〕〔了〕
【小生 comment 】
晴れ男の小生、今日こそは雨を覚悟したが、往路の一部と復路の車移動時間だけ雨だったが、外を歩く時は殆ど傘は不要だった。
今日も一級の歴史文化に触れることが出来、楽しい一日だった。〔了〕
■続いての話題は、翌06月21日:豊橋市美術博物館『コレクション展 ゆったり美術館散歩』を見て来たことについてである。
此の日は【夏至】。
何故か早朝には目覚めず、久しぶりにゆっくりと08時45分に起床した。昨日迄の疲れが残っていた様だ。
09時00分 腹筋2,000回
10時00分 2.5kg木刀素振り90分
11時45分 入浴→ brunch → 清掃・洗濯 →
14時45分 拙宅発→一般道10分 2.7㎞ →
15時00分 豊橋公園駐車場着→徒歩1分→
15時05分 豊橋市美術博物館着
【豊橋市美術博物館『同館collection展/ゆったり美術館散歩』展】
[52]豊橋市美術博物館 入口傍の本企画展看板横にて1
[53]同 館内の本企画展banner前にて
[54]同 本企画展leaflet
[55]高柳淳彦(1898-1957)『半蔵御門の朝』1934年
[56]森 緑翠(1917-99)『こども』1947年
[57]平松礼二(1941- )『路・波の国から』1992年
[58]横堀角次郎(よこぼり
かくじろう(1897-78))『田舎の道』1919年
[59]島田卓二(1885-1946)『桂川附近』1917年
[60]細井文次郎(ほそい
ぶんじろう(1893-1951))『汐川』1929年
[61]鬼頭鍋三郎(1899-1982)『午後』1935年
[62]朝倉勝治(1930- )『小径にて』1976年
朝倉先生は、我等が時習26回生時代の美術科教諭
2018年11月14日 名豊gallery『朝倉勝治』展でお会いした記念写真は次頁のFacebookをご笑覧下さい
[63]森清治郎(1921-2004)『日本の民家』1979年
森清治郎氏も時習館高校の先輩で、東京美術に進まれている
[64]荻須高徳(1901-86)&『黄色い家』1984年
[65]冨安昌也(1918-2013)『ドブロブニクの昼下り』1989年
富安昌也先生は、時習館高校の前身旧制豊橋中学校OBで、東京美術学校で藤島武二教室に入った
此の作品は、ピンぼけの画像しかなくて残念!《余談》=2018年11月14日昼 朝倉勝治先生と名豊galleryにて=
[66]名豊gallery Gallery入口の『朝倉勝治』展看板横にて
[67]同 Gallery内にて先生の作品と共に1
[68]同 同上2
[69]2018年12月04日 朝倉先生から頂戴した名豊gallery来館御礼の葉書
[70]同上 postcard の絵『岩壁に抱かれた聚落』
[71]松井守男(1941- )『もう一つの自然』1986年
[72]中谷隆夫(1918-2006)『カタロニア追想』1979年
[73]三岸節子(1905-99)『グァディスの家』1988年
[74]木村忠太(1917-1987)『ファイアンス』1978年
[75]藪野 健(1943- )『夢想家の部屋』1977年
【小生 comment 】
本企画展は、ホント素晴らしい傑作選だったが、なかでも白眉は、第3展示室「世界を巡る・世界で見出す」だった。
松井画伯は、昨秋11月、小生が今お世話になっている勤務先の文化祭に guest として参加下さっている。
現在、France コルシカ島在住。
2005年の愛知万博では、仏独共同 pavilion の貴賓室を画伯の作品で飾ってあったことを覚えている。
中谷隆夫『カタロニア追想』は、不思議な魅力を持った群像。
又、三岸節子・木村忠太の作品は巨匠の面目躍如たる傑作!
藪野 健の『夢想家の部屋』は、早稲田大学理工学部建築学科出身者らしい計算し尽くされた幾何学的作品で、シュールレアリスム(surrealisme)の旗手の一人ジョルジョ・デ・キリコ(伊:Giorgio de Chirico 1888.07.10-1978.11.20)の作品を up-to-date した様な洗練された美しさがある傑作だ。
【拙宅近隣のK北公園の清楚で綺麗なアガパンサス】
[76]拙宅近隣のK北公園のアガパンサス1
[77]同上2
[78]拙宅にて今日掲載した『豊橋美術館所蔵作品/絵画名品』&『中谷孝夫』図録
16時10分 豊橋市美術博物館発→一般道10分 3km→
16時25分 帰宅〔走行距離計 7.2km〕
■今日最後の話題は、06月19日、Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第6回〕を up したので、其れについてお届けする。
『奥の細道』〔第6回〕:2015年06月28日(日)付【時習26回3-7の会0554】~「今夏【2637の会】クラス会について《続々報》」「『奥の細道』第6回‥『末の松山』『鹽竈(しおがま)』『松島』『石巻』『平泉』‥」「06月13日:愛知県美術館『片岡球子』展を見て」「06月13日:愛知県芸術劇場concert
hall『ロッシーニ作曲/歌劇 セビリアの理髪師』を見て聴いて」「06月14日:ライフポートとよはしconcert hall『秋山和義指揮/豊橋交響楽団
第116回 定期演奏会』を聴いて」「06月26日:ミニミ二【1-4】クラス会開催報告」
↓↓
此処を click して下さいhttp://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/260554263760613.html
元禄二(1689)年 五月八日(新暦06月24日/「仙台」発)~五月十三日(新暦06月29日/「一関(06/28)」→「平泉(06/29)」→「一関(06/29)」)にかけて六日間の芭蕉一行の話である。
※ ※ ※ ※ ※
五月八日(新暦06月24日) 仙台 国分町 大崎庄左衛門宅を出発して東北東へ14km程の所にある多賀城の『壺碑(つぼのいしぶみ)』を見た
其処から、南南東へ4km余りの『沖の石』、そして其処から北へ数百mの所にある『末の松山』を訪れた
ついで、芭蕉一行は、更に東北東へ6km余りの所にある鹽竈(塩竈)の塩竈浦へ
その日は塩竈の〔治兵衛宅〕に泊す
五月九日( 同 06月25日) 松島〔久之助宅〕に泊す
五月十日( 同 06月26日) 石巻〔四兵衛宅〕に泊す
五月十一日( 同 06月27日) 登米(とよま)〔検断庄左衛門宅か?〕に泊す
五月十二~十三日( 同 06月28~29日) 一関〔宿記載なし〕に2泊す
前《会報》の『奥の細道』第5回にて『壺碑(つぼのいしぶみ)』迄お伝えした。
従って、今回の第6回は『末の松山』からお伝えするが、本紀行文の流れとしては、『壺碑』から『末の松山』にかけては一緒にお話すべきだった。両所とも多賀城市内の近くにあるからだ。
[79]沖の石(おきのいし)〔興井(おきのい)〕
[80]「末の松山」のある寶國寺
[81]末の松山
【末の松山(すえのまつやま)】(注1)
《原文》
それより野田の玉川(注2)・沖の石(注3)を尋ぬ。末の松山は寺を造(つくり)て末松山(まつしょうざん)といふ。
松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契(注4)の末も、終(つひに)はかくのごときと、悲しさも増(まさ)りて、塩がまの浦に入相(いりあひ)のかね(注5)を聞(きく)。
《現代語訳》
それから野田の玉川(注2)・沖の石(注3)など「歌枕」の地を訪ねた。
末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。
松の合間合間はみな墓の並ぶ原で、(白居易(772-846)の)長恨歌(注4)に翅を交し枝を連ねと詠んだ男女の契りの末もこの様になるのかと、悲しさがこみ上げて来た。
塩竈の浦では入相の鐘(注5)が聞こえた。
(注1)末の松山:「歌枕」/「沖の石」のある場所から北へ数百mの所にある寶國寺の境内にある
君を置きて 仇(あだ)し心を 我が持たば 末の松山 波も越えなむ
(古今集
大歌所御歌(おおうたどころおんうた))
【意】あなたを指し置いて他人に心を移す様なことがあったなら、末の松山を波も越えて仕舞うでしょう
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは
清原元輔(908-990)(後拾遺集)〔小倉百人一首42〕
【意】約束しましたネ /
互いに涙で濡らした袖を絞りつつ、末の松山を波が越さない如く二人の心も変わることはないと‥【小生comment】
この元輔の歌で思い出すのは「【千年に一度大津波の‥】東日本大震災」である。
この歌が詠まれる前の貞観11(869)年 陸奧国で大地震が発生、多賀城国府近く迄大津波が襲って来た。
日本三代実録(10世紀初刊行)によると、当時、多賀城国府の建物や街は地震と津波の為に1千人以上が犠牲になった。
が、『末の松山』は、標高10m程の小山乍ら、津波に飲み込まれなかった。
これが都人に伝わり、『末の松山』は、「波が越さない場所=破ることのない堅い約束‥→男女の契り」を表す『歌枕』になった。
事程左用に、故事は教訓を正しく伝えてくれていることも多いと痛感する。
(注2)野田の玉川:「歌枕」/壺碑より東へ2km、多賀城市と塩竈市の境を流れる小川
夕されば 汐風こして みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり 能因法師 (新古今集)
【意】夕方になって潮風が越してくると、千鳥が鳴くという、みちのくの野田の玉川だ
(注3)沖の石:「歌枕」/
多賀城市八幡にある/野田の玉川と共に仙台藩第4代藩主 伊達綱村 時代に整備された
我が袖は 汐干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし
二条院讃岐(千載集)〔小倉百人一首92〕
【意】私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖の石の様に、
人は知らないでしょうが、涙に濡れて乾く間もないのですよ(注4)長恨歌:前漢の武帝の名を借りた唐の玄宗皇帝の治世後半に起きた安史の乱等の一連の事件を描く
玄宗皇帝と楊貴妃とのラブロマンスを主題に描いた120句840字に及ぶ七言古詩
白居易(=楽天)作 / 芭蕉が引用したのは、長恨歌の117句と118句
在天願作比翼鳥 / 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
在地願為連理枝 / 地に在りては願わくは連理の枝とならんと
【意】大空にあっては、翼(つばさ)を並べた比翼の鳥となろう
地上にあっては、木目の続いた連理の枝となろう
※比翼の鳥:雌雄が共に一目一翼で、恒に一体になって飛ぶ空想上の鳥
※連理の枝:左右の木の枝が合して、理(=木目)が連結した木
「比翼鳥」「連理枝」共に、愛情深い夫婦に例えている
(注5)入相の鐘:日没時に寺々で慣らす時の鐘
【鹽竈(しおがま)】
[82]籬(まがき)が島
[83]塩釜(鹽竈)神社
[84]塩釜神社の宝燈火〔文治三年 和泉三郎(藤原忠衡)寄進〕
《原文》
〔鹽竈(しほがま)〕
五月雨の空聊(いささか)はれて、夕月夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、籬(まがき)が嶋(注1)もほど近し。
蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀(あはれ)也(なり)。
其夜(そのよ)、目盲(めくら)法師の琵琶をならして奥上(=浄)るり(注2)と云(いふ)ものをかたる。
平家にもあらず、舞(注3)にもあらず。
ひなびたる調子うち上(あげ)て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝に覚(おぼえ)らる。
〔鹽竈明神〕
早朝(そうてう)鹽がまの明神(注4)に詣(まうづ)。
国守(こくしゅ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きうじん)(注5)に重(かさな)り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。
かゝる道の果(はて)、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、吾(わが)国の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。
神前に古き宝燈(ほうとう)有(あり)。
かねの戸びらの面(おもて)に文治三年和泉三郎奇(=寄)進と有(あり)。
五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。
渠(かれ)は勇義忠孝の士也。
佳命(=名)今に至りてしたはずといふ事なし。
誠(まことに)「人能(よく)道を勤(つとめ)、義を守(まもる)べし。
名もまた是にしたがふ(注7)」と云り。
日既(すでに)午(ご)にちかし。
船をかりて松嶋にわたる。
其間(そのかん)二里餘(あまり)、雄嶋(を)の磯につく。
《現代語訳》
〔塩竈〕
五月雨の空も少しは晴れて来て、夕月が微かに見えており、籬(まがき)が島(注1)も湾内のほど近い所に見える。
漁師の小舟が沖から漕ぎ連れて帰って来て、魚を分ける声を聞いていると、古人が「綱手哀しも」と詠んだ哀切の心も推し量られて、実に感慨深い。
その夜、盲目の法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃(注2)というものを語るのを聞いた。
平家琵琶とも幸若舞(こうわかまい)(注3)とも違う。
本土から遠く離れたひなびた感じだ。
鄙びた調子を張り上げ語るから、枕許では一寸喧(やかま)しかったが、流石に奥州辺土に残る遺風を忘れず伝えていると、殊勝なことに思われて来た。
〔塩竈明神〕
早朝、塩竃神社(注4)に参詣した。
領主(伊達政宗)が(慶長12(1607)年に)再建した寺で、柱が堂々と立ち並び、彩色した垂木(=屋根を支える木材)が煌びやかに光り、石段は遥か(注5)に連なり、朝日が差して朱にそめた玉垣(=かきね)を輝かせていた。
この様な奥州という辺境の地の果て迄、神の恵みが行き渡り崇められていることこそ我国の美風だと、大変尊く感じ入った。
神殿の前に古い宝燈があった。
金属製の扉の表面に、「文治三(1187)年和泉三郎寄進(注6)」と刻んである。
奥州藤原秀衡の次男で、父の遺言に従い最後まで義経を守って戦った藤原忠衡(ただひら)である。
義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、たいへん有難く思った。
俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。
その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。
「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる(注7)」というが、本当にその通りだ。
もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。
(注1)籬が島:塩竈の浦の海中〔現・塩竈町1丁目/仙石線 東塩釜駅より南東300m〕にある/古来より古歌に詠まれる
我(わが)背子を みやこにやりて 塩がまの籬(まがき)の島に まつぞわびしき
〔大歌所御歌(古今集)〕
【意味】愛する夫を都に遣って、此処塩竈の籬の島で帰りを待つ身の私は辛く哀しい
(注2)奥浄瑠璃:古浄瑠璃やそれを模して作った浄瑠璃を仙台特有の曲節で語ったもの / 御国浄瑠璃、仙台浄瑠璃ともいう
(注3)舞=幸若舞:室町時代後期に桃井直詮(幼名:幸若丸)の始めた舞/曲舞(くせまい)とも呼ばれる
(注4)鹽竈明神:塩竈神社/祭神は鹽土老翁(しおつちのおじ)
(注5)九仞:長さの単位で、一仞は周代の七尺(22.5cm×7=157.5cm)/従って九仞は頗る高い様をいう
(注6)文治三年和泉三郎寄進:銘には「奉寄進 文治三年七月十日 和泉三郎忠衡敬白」とある
(注7)「人能道を勤務‥したがふ」:出典は、中唐詩人 韓愈(768-824)「動而得謗/名亦随之」に拠る
【松島】
[85]雄島が磯の「雄島」
[86]瑞巌寺 参道の石碑(2018.10.28撮影)
[87]同 本堂
[88]同 本堂内の 孔雀の間
[89]同 五大堂にて(2018.10.28撮影)
〔松島湾〕
抑(そもそも)ことふりにたれど(注1)、松嶋は扶桑(ふさう)(注2)第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖(せいこ)(注2)を恥(はぢ)ず。
東南より海を入て、江の中(うち)三里、浙江(せっかう)の潮(うしほ)(注3)をたゝふ。
島々の数を尽(つく)して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。
あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳みて、左にわかれ右につらなる。
負(おへ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし(注4)。
松の緑こまやかに、枝葉(しえふ)汐風に吹(ふき)たは(=わ)めて、屈曲を(=お)のづからためたるがごとし。
其気色、窅然(えうぜん)(注5)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。
ちはや振(ぶる)(注6)神のむかし、大山ず(=づ)みのなせるわざにや。
造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。
〔雄島が磯〕
雄島(をじま)が磯は地つゞきて海に出たる島也。
雲居(うんご)禅師の別室の跡、坐禅石など有(あり)。
将(はた)、松の木陰(こかげ)に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見え侍りて、落穂・松笠など打(うち)けふりたる草の菴(いほり)閑に住(すみ)なし。
いかなる人とはしられずながら、先(まづ)なつかしく立寄(たちよる)ほどに、月海(つきうみ)にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
江上(かうしゃう)に帰りて宿を求(もとむ)れば、窓をひらき二階を作(つくり)て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず(注7)。
旧庵をわかるゝ時、素堂(注8)松嶋の詩あり。
原安適(はら あんてき)(注9)松がうらしま(注10)の和歌を贈らる。
袋(注11)を解(とき)て、こよひの友とす。
且、杉風(注12)・濁子(ぢょくし)(注13)が発句あり。
〔瑞巌寺〕
十一日、瑞岩(=巌)寺(注14)に詣(まうづ)。
当寺(たうじ)三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐(につたう)(注15)、帰朝(きてう)の後(のち)開山す。
其後に雲居禅師(注16)の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、金壁(こんぺき)荘厳(しょうごん)光を輝(かがやかし)、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
彼(かの)見仏聖(けんぶつひじり)(注17)の寺はいづくにやとしたはる。
《現代語訳》
〔松島湾〕
まあ古くから言われていて今さら言うことでもないのだが(注1)、松島は日本一景色のよい所だ。
中国で絶景として名高い洞庭・西湖(注2)と比べても見劣りがしないだろう。
湾内に東南の方角から海が流れ込んでいて、その周囲は三里、中国の浙江(注3)を思わせる景色をつくり、潮が満ちている。
湾内には無数の島々があり、そそり立つ島は天を指差す様で、臥すものは波に腹這う様に見える。
あるものは二重・三重に重なり、左に分かれ右に連なっている。
小島を背負っている様に見えるものや、抱いている様な島もあり、恰も親が子や孫を抱き愛撫している様だ(注4)。
松の緑はビッシリと濃く、枝葉は汐風に吹き撓(たわ)められて、その曲がった枝ぶりは、人が見栄え良い様に矯(た)めた様に見える。
(‥蘇東坡の詩の中で、西湖の景色を絶世の美人、西施が美しく化粧した様子に例えているが‥)松嶋の風情も深い憂いを湛え(注5)、美人が化粧した様に美しい。
神代(注6)の昔、山の神「大山祇(おおやまつみ)」の仕業だろうか。
自然の手による芸術品であるこの景色は、誰か筆をふるい言葉を尽くしても、上手く語れるものではない。
〔雄島が磯〕
雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。
(‥瑞巌寺中興の祖である‥)雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。
又、松の木蔭に出家隠生している人の姿も稀に見え、落穂や松笠を焼く煙が見える草庵の静かな暮らしぶりである。
どういう来歴の人かは解らない乍ら、先ず懐かしく思われて立ち寄ると、月は海に映り、昼の眺めとは又違う趣であった。
入江畔に帰って宿を借りると、窓を開くと二階作りになっていて、自然の風景の中に旅寝することで、表現し難い程霊妙な気持ちになって来るのだった。
【意味】此処【松】島ではその絶景に相応しく白い【鶴】の姿に身を借りて鳴いて渡ってくれ、杜鵑よ
私は句が浮かばず、眠ろうとしても寝られない(注7)。
深川の旧庵を出る時、山口素堂(1642-1716)(注8)が松嶋の詩を、原安適(生没年不詳)(注9)が松が浦島(注10)を詠んだ和歌を餞別してくれた。
それらを頭陀(ずだ)袋(注11)から取り出し、今夜一晩を楽しむよすがとする。
また、杉風(注12)・濁子(注13)の発句もあった。
〔瑞巌寺〕
十一日、瑞巌寺(注14)に参詣する。
この寺は創始者の慈覚大師から数えて三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐(←正しくは入宋(注15))して、帰朝の後開山した。
その後、雲居禅師(注16)が立派な徳によって多くの人々を仏の道に導いた、これによって七堂すべて改築され、金色の壁はおごそかな光を放ち、極楽浄土が地上にあらわれたかと思える立派な伽藍が完成した。
かの名僧見仏聖(注17)の寺はどこだろうと慕わしく思われた。
(注1)抑ことふりにたれど:抑(=其も其も)=元来、ことふりたれど(=事旧りたれど)=古くから云われて来たこと(で言うまでもないこと)だが
(注2)洞庭・西湖:洞庭湖=中国湖南省にある中国第2位の広さを持つ湖で、「瀟湘八景」の景勝地は、琵琶湖周辺の「近江八景」のmodel
西湖=中国浙江省杭州市にある湖「西湖十景」、いずれも古来より知られる中国の景勝地
(注3)折江:銭塘江(せんとうこう)/中国浙江省を流れる河川で杭州湾に注ぐ /
別名も浙江、折江、曲江、之江、羅刹江と多数
満潮時に海水が河口より逆流して奇観を呈する「海嘯(かいしょう)」という現象が有名
(注4)児孫愛すがごとし:盛唐の詩人 杜甫の七言律詩「望嶽(嶽に望む)」
(758年秋、華州に赴任する時、途中華山を望み詠んだ作品)が原典
首聯第二句「諸峰羅立似兒孫」からの引用
西嶽崚嶒竦處尊 / 諸峰羅立似兒孫
安得仙人九節杖 / 拄到玉女洗頭盆
車箱入谷無歸路 / 箭栝通天有一門
稍待秋風涼冷後 / 高尋白帝問真源
西岳崚嶒(りょうそう)として竦處(しょうしょ)すること尊し / 諸峰羅立して児孫(じそん)に似たり
安んぞ仙人の九節の杖を得て / 拄((←手偏 に 圭 )ささ)えられて到らん玉女の洗頭盆
車箱(しゃそう)谷に入れば帰路無く / 箭栝((←木偏 舌 )せんかつ)天に通ずる一門有り
稍(ようや)く秋風の涼冷なる後を待ちて / 高く白帝(はくてい)を尋ねて真源を問わん
【意】五岳の西岳である華山は高く険しく、その聳えて居座っている様は尊い /
それに比して他の諸峰は連なっているが華山の児供か孫達の様である
崋山は仙人の山なので、私は何とか仙人が持つ九節の竹杖を得て /
その杖に身体を支え貰い頂上の玉女の洗頭盆の辺り迄行ってみたい
この山はその重箱形をした谷へ入ると戻る道はなく /
矢筈(=矢の先端)の様な狭く細い天へ通じる路が一門あるだけだ
漸く秋風が涼冷になるのを待って / 白帝の鎮座するこの山を訪ねて仙道の本源を問い糺してみたい
(注5)窅(←穴冠 に 目)然(ようぜん):奥深く物静かな美しさ/cf.「窅」は、陰があって暗いさま
(注6)ちはや振(=千早振る(ちはやぶる)):「神」に掛かる「枕詞」
(注7)予は口をとぢて眠らんとしていねられず:服部土芳(1657-1730)編『蕉翁文集』には「島々や 千々にくだけて 夏の海」が収められている
しかし、芭蕉はこの句に満足出来ず捨てたものとみられる/服部土芳は、伊賀上野の藤堂藩士、蕉門と同郷の後輩、蕉門十哲に数えられることもある
(注8)素堂(=山口素堂):甲州の人/山口信章/江戸に出て芭蕉と親交を重ねる/葛飾派の祖/目には青葉山ほととぎす初鰹 の作者として有名
(注9)原安適:深川在住の医者/歌人で芭蕉の友人
(注10)松がうらしま:「歌枕」/現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町
(注11)袋(=頭陀袋):仏教の僧侶が行う修行「頭陀行・乞食の行」が携行した袋が語源
(注12)杉風(=杉山杉風(1647-1732)):家業は幕府に魚を納める御納屋/芭蕉の弟子で支援者でもある/蕉門十哲の一人
(注13)濁子(=中村甚五兵衛):大垣藩士で江戸勤番
(注14)瑞巌寺:天長05(828)年 慈覚大師(圓仁(794-864))に拠り天台宗 青龍山延福寺として創建
鎌倉時代に法心((=真壁平四郎(1189-1273))寺伝に法身)を開山として臨済宗となる/伊達政宗が堂宇を造営し松嶋青龍山瑞巌円福禅寺と改称
(注15)入唐:法身(俗名 真壁平四郎)の存命時代、中国は南宋(1127-1279)の時代/従って、正しくは「入宋」
(注16)雲居(うんご)禅師(1582-1659):土佐出身/伊達政宗・忠宗に瑞巌寺に招かれ、七堂伽藍を整えた
(注17)見仏聖:松嶋の雄島の妙覚寺(見仏堂)に住した僧/法華経6千巻を読破し神通力を持ったという/西行法師が彼を慕い、当地を訪れたと伝わる
【石巻(いしのまき)】
[90]姉歯(あねは)の松
[91]緒絶(をだえ)の橋
《原文》
十二日、平和泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松(注1)・緒(を)だえの橋(注2)など聞伝て、人跡(じんせき)稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)(注3)の往(ゆき)かふ道そこともわかず、終(つひ)に路(みち)ふみたがえて、石の巻(注4)といふ湊に出(いづ)。「こがね花咲(さく)(注5)」とよみて奉たる金花山(きんくわざん)(注6)、海上(かいしやう)に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かもど)の煙立(た)つゞけたり。
思ひがけず斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。
漸(やうやう)まどしき小家に一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよひ行(ゆく)。
袖のわたり(注7)・尾ぶちの牧(注8)・まのゝ萱はら(注9)などよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆく)。
心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)(注10)と云(いふ)所に一宿して、平泉に到る。
其間廿余里ほどゝ(=と)おぼゆ。
《現代語訳》
十二日、平泉へと志し、姉歯(あねは)の松(注1)・緒絶(おだえ)の橋(注2)など「歌枕」の地があると聞いていたので、人通りも乏しい獣道を、不案内な中進んでいくが、終に道を間違い、石巻という港に出て仕舞った。
大伴家持が「こがね花咲く(注5)」と詠んで聖武天皇に献上した金花山(注6)を海上に見渡し、数百の廻船(=人や荷物を運ぶ商業船)が入江に集まり、人家が犇(ひしめ)く様に建ち並び、(炊事する)竈の煙が盛んに立ち上っている。
思いがけずこんな所に来たものだと、宿を借りようとしたが、全く借りられない。
漸く貧しげな小家に一夜を明かして、翌朝又知らない道を迷い乍ら進んだ。
袖の渡り(注7)・尾駁(おぶち)の牧(注8)・真野の萱原(注9)など歌枕の地が近くにあるらしいのを、よそ目に見て、遥かに続く川の堤を歩いて行った。
どこまで続くのか心細くなる様な長沼という沼沿いに進み、戸伊摩(注10)というところで一泊して、平泉に到着した。
その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。
(注1)姉歯(あねは)の松:宮城県栗原郡金成(かんなり)町姉歯にある/「歌枕」
栗原の 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いざといはましを〔伊勢物語 第十四段〕
【意】(貴女が)栗原にある姉歯の松の様に人並み以上に美しい人だったら、
都の土産に「さぁ、一緒に行こうよ」と誘うのだけど‥
(注2)緒絶(おだえ)の橋:宮城県古川市にある/「歌枕」
みちのくの 緒絶の橋や これならむ 踏みみ踏まずみ 心惑わす
左京大夫(藤原)道雅(992-1054)〔後拾遺集〕
【意】陸奥にある緒絶の橋とはこれのことだったのか /
手紙(=文(ふみ))を貰えたり貰えなかったり、その度に心を惑わせることよ‥←貴女との関係が途絶えて仕舞わないかな、と /
恰も今にも崩れ落ちそうな橋を、踏んだり踏まなかったり、恐る恐る渡る様なものだ
白玉の 緒絶の橋の 名も辛し 砕けて落つる 袖の涙に 藤原定家〔続後撰集〕
【意】悲しさに袖を涙に濡らしているとき、緒絶の橋という名を聞くのは辛くて悲しい
(注3)雉兎蒭蕘(ちとすうじょう):樵(木こり)、猟人等のこと
(注4)石の巻:宮城県石巻市
(注5)こがね花咲:聖武天皇天平21年、金華山の磯辺で砂金が算出され朝廷に献上された
是を東大寺大仏建立の金箔代に使用されたと「続日本記」にある
しかし、金を産出した「陸奥山」は金華山ではない/実際に金を産出したのは遠田郡涌谷町字金箔である
天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)榮へむ と東(あづま)なる
陸奥(みちのく)の山に 黄金(こがね)花咲く
大伴家持〔萬葉集18巻4097〕
【意】天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲くよ
(注6)金花山(=金華山):牡鹿半島の先端にある島/実際には、石巻から金華山は見えない
(注7)袖の渡り:「歌枕」/石巻市住吉町にある「北上川の渡し」
みちのくの 袖のわたりの 涙がは 心のうちに 流れてぞすむ
相模(生没年不詳)〔新後拾遺集〕
(注8)尾駁(おぶち)の牧:「歌枕」/石巻市の東、北上川の対岸にある牧山
【詞書】「男の、はじめ如何に思へるさまに有りけむ、
女の気色(けしき)も心解けぬを見て、「あやしく思はぬさまなること」と言ひ侍ければ
陸奥の をぶちの駒も 野飼(のが)ふには 荒(あ)れこそ勝(まさ)れ なつくものかは
読人知らず〔後撰集〕
【意】陸奥の尾駁の駒(=若い馬)も、野で飼う場合には荒れることが一段とあるものです
でも、私たちの場合もあまり嫌がられると、親しく出来なくなって仕舞いますよ
(注9)真野の萱原:「歌枕」/石巻市の東北にある稲井町真野
【笠女郎が大伴宿禰家持に贈る三首の第二首】
まだ見ねば おもかげもなし なにしかも 真野の萱原 露乱るらむ
(注10)戸伊摩:宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町
芭蕉は、『奥の細道』「序章」で「『白川(=白河)の関』こえんと」「『松島の月』先(まづ)心にかかりて」と、又「日光」で(曾良と)「『松しま』・『象潟』の眺(ながめ)共にせん事を悦び」と書いているが、『平泉』については書いていない。
陸奥の「歌枕」を巡っているうちに、陸奥の人々が源義経に強い敬慕の念を持ち続けていることに心を打たれ、『平泉』の訪問思い立ったのかもしれない。
山本健吉は、著書『奥の細道を読む』の「人生の旅を見つめる〔三〕」で次の様に書いている。
簱宿の宿はずれにある「庄司もどし」の遺跡については、奥の細道には記されていないが、曾良の随行日記に「【小生補足】簱ノ宿ハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也」(と)書きとめておいてくれた。
これは奥州路へ入るや否や、芭蕉主従は義経伝説の一こまに触れたことを物語る。
奥の細道の前半の頂点は、平泉の高館(たかだち)の件(くだり)である。
それは義経主従最期の地であり、同時に平泉藤原氏の三代の栄華の終焉でもあった。
芭蕉の筆は、平泉の地を踏んで、高館の悲史を回顧する件で、異様な高まりを見せている。
そして其処に到達する迄の間に、彼の義経伝説への関心は、徐々に高まって行ったことが、奥の細道の本文を読んでも納得出来るのである。
【平泉】
[92]高館より北上川を望む
《原文》
三代(注1)の栄耀(えいえう)一睡(注2)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有(あり)。
秀衡が跡(注3)は田野に成(なり)(注4)て、金鶏山(注5)のみ形を残す。
先(まづ)、高館(たかだち)(注6)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川(注7)は、和泉が城(注8)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。
泰衡(注9)等が舊跡(きゅうせき)は、衣が関(注10)を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
国破れて(注11)山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良
兼(かね)て耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。
経堂(きゃうだう)(注12)は三将(注13)の像をのこし、光堂(注14)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。
七寶(注15)散(ちり)うせて、珠の扉(とびら)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚の叢と成(なる)べきを、四面(注16)新に圍(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おほひ)て雨風を凌(しのぐ)。
暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂
《現代語訳》
藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代(注1)の栄華も、邯鄲一炊の夢の故事(注2)のように儚く消え、廃墟と化した南大門の跡は此処から直ぐ一里のばかりの距離にある。
秀衡の館(注3)の跡は田野となり(注4)、その名残すら無く、ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという金鶏山(注5)だけが、形を残している。
まず義経の館のあった高台、高舘(注6)に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。
衣川(注7)は秀衡の三男和泉三郎の居城跡(注8)をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。
嫡男泰衡(注9)の居城跡は、衣が関(注10)を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。
それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。
国は滅びて(注11)跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。
杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。
夏草や 兵どもが 夢の跡
【意】奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。
卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良
【意】白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)
かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂(注12)には三将(注13)の像、光堂(注14)にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。
奥州藤原氏の所有していた宝物の数々(注15)は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。
今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面(注16)に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
【意】全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ
(注1)奥州藤原氏三代:清衡(藤原氏→清原氏→奥州藤原氏(1056-1128))・基衡(1105?-1157)・秀衡(1122?-1187)
(注2)一睡:中国の故事「邯鄲の夢」‥中国 趙 の都 邯鄲 で、盧生(ろせい)という貧しい青年が、茶店で呂翁(りょおう)という道士から不思議な枕を借りて寝た処、立身出世して50余年の栄華を極め、一生を終わる夢を見た/処が、目覚めてみると、茶店の主人が焼いていた黄梁(こうりょう=大粟(おおあわ))がまだ煮え切らない、ごく短い間のことだった‥という故事から「人の世や人の一生の栄枯盛衰が夢の様に儚いことの例え」
(注3)秀衡の跡:居館「伽羅御所」
(注4)田野に成(なり)て:中国「文選」の古詩に「古墓は犂(す)かれて田と為し/松栢は催(くだかれ)て薪と為す」
中国 初唐 の詩人 劉希夷(651-679)の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代る)」の中第七句と八句に「已(すで)に見る松柏の催かれて薪となるを/更に聞く桑田(そうでん)の変じて海と成るを」の様に、世の変転の激しさ を言う
(注5)金鶏山:秀衡が平泉鎮護の為富士山に擬して築いた小山で、金鶏を山頂に埋めた
(注6)高館:源義経の居館
(注7)衣川:「歌枕」/平泉の北を東流し、北上川に合流
(注8)和泉三郎の居城跡:秀衡の三男 忠衡 の居城/忠衡は、秀衡の遺命で義経に従い討死する
(注9)泰衡:秀衡の嫡子((=次男)1155(or65?)-89)/泰衡には庶子の兄(国衡(長男)(?-1189))がいたが、国衡は奥州合戦で頼朝軍に破れ討死
泰衡は、同合戦後逃亡するも郎党河田次郎に裏切られ討たれた/
河田次郎は泰衡の首を頼朝に献上/頼朝は泰衡の首実検の後不忠を理由に河田次郎を斬罪に処した
(注10)衣が関:「歌枕」/中尊寺表参道入口の北の田圃の辺り
(注11)国破れて山河あり、城春にして:杜甫(712-70)の代表的な五言律詩『春望』
春望 杜甫
烽火連三月 / 家書抵萬金
白頭掻更短 / 渾欲不勝簪
国破れて山河在り / 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を沃ぐ濺(そそ)ぎ / 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり / 家書 万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く / 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
【意】国都長安の街は、安禄山の賊軍(=安史の乱(755-63))にすっかり破壊されて、あとには山河が昔の儘変わらずにある
荒れ果てた街にも春が遣って来て、草木が青々と茂っている
この戦乱の嘆かわしい時節を思うと、咲いている花を見ても涙を溢れ
家族との別れを悲しんでは、鳥が鳴声にも心が痛む想いがする
戦いの狼煙(のろし)何箇月も続き
家族からの手紙は中々来ないので、万金にも値する程貴重だ
度重なる心労の為、白髪の頭を掻けば、髪は抜け落ち
全く冠をとめるピン(=簪(かんざし))も挿せなくなって仕舞った様だ
(注12)経堂:清衡が伽藍として創建/建武04(1337)年 上層を消失/現在、2,724巻の一切経を蔵す
(注13)三将:清平・基衡・秀衡の像はなく、文殊菩薩・優填(うでん)王・善財童子の像
(注14)光堂:金色堂/堂内外に金箔を押す/光堂は近世以降の俗称
(注15)七寶:1.金輪宝 2.白象宝 3.紺馬宝 4.神珠宝 5.玉女宝 6.居士宝 7.主兵宝
又或る説には 1.瑠璃 2.玻璃(はり=水晶) 3. 硨磲(しやこ=貝)
4.瑪瑙(めのう) 5.珊瑚 6.琥珀 7.真珠 更に、上記 7.真珠に代えて 金銀とする説もある
(注16)四面:覆(さや)堂は金色堂建立後間もなく設けられた/芭蕉当時のものは南北朝末の建設
【小生comment】
既にお話した通り、小生の旧銀行時代の昭和57年05月~61年04月の4年間に、仙台を訪れた両親・友人達に案内した観光名所に、松島と平泉は欠かさなかった。
それ程、日本三景の筆頭と言っても良い「松島」と、中尊寺金色堂に代表される「平泉」は人気が高かった。
それは、326年前も一緒だっただろう。
芭蕉と曾良は、326年前の今日五月十二日(新暦06月28日)夕刻一関に着き、翌日13日(同06月29日)に平泉を訪れている。
芭蕉が、義経の居所があった高館で詠んだ「夏草や‥」と曾良の「卯の花に‥」を山本健吉の著書「ビジュアル版 日本の古典に親しむ 奥の細道」で次の様に述べている。
此れで、本号の「奥の細道」の締め括りとしたい。」
義経主従の伝説は東北の庶民達の間に続いて来た心の伝承だから、芭蕉は自分を東北の庶民と同じ場に立たせて、(「夏草や」という)追懐と慰霊の一句を作った。
細道の前文と合わせてこの一句はこの紀行の頂点であった。
「卯の花」の句は同じ時の咲くである。
兼房は義経の北の方の乳人(ちちうど)増尾(ますお)十郎権頭(ごんのかみ)兼房で、白い直垂(ひたたれ)に褐染(かちんぞめ)の袴を着、白髪交じりの髻(もとどり)を引き見出し、兜巾(ときん)をうち着て、義経の北国落ちに従い、高館では義経夫妻の最期を見届けた後、館に火を放ち、火中に入って、壮烈な戦死を遂げた。
この句は、折から白く咲いている卯の花を取り合わせて兼房の最期の奮戦の様を思い描き、その乱れた白髪を瞼に浮かべているのである。
卯の花の白を白髪に思い寄せたのは昔から卯の花を白髪に例えた和歌の伝統があるからであろう。
「兼房みゆる」と言ったのは曾良も芭蕉の義経熱が感染して『義経記』や幸若舞の高館最期の情景を必死に思い浮かべているのである。〔後略〕
【後記】今日は、本文が長文なので「後記」は省略する。
では、また‥〔了〕
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【笠女郎が大伴宿禰家持に贈る三首の第二首】
みちのくの
真野の萱原(=草原) 遠けども おもかげにして 見ゆとふものを
笠女郎(かさのいらつめ(生没年不明))〔萬葉集〕
陸奥之
真野乃草原 雖遠(とほけども) 面影為而(おもかげにして) 所見云物乎(みゆといふものを)
〔←萬葉仮名〕
【意】陸奥の国の 真野の萱原は 遠くても 面影として 見えると言いますのに
まだ見ねば おもかげもなし なにしかも 真野の萱原 露乱るらむ
権大納言顕朝〔続古今集〕
(注10)戸伊摩:宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町
芭蕉は、『奥の細道』「序章」で「『白川(=白河)の関』こえんと」「『松島の月』先(まづ)心にかかりて」と、又「日光」で(曾良と)「『松しま』・『象潟』の眺(ながめ)共にせん事を悦び」と書いているが、『平泉』については書いていない。
陸奥の「歌枕」を巡っているうちに、陸奥の人々が源義経に強い敬慕の念を持ち続けていることに心を打たれ、『平泉』の訪問思い立ったのかもしれない。
山本健吉は、著書『奥の細道を読む』の「人生の旅を見つめる〔三〕」で次の様に書いている。
簱宿の宿はずれにある「庄司もどし」の遺跡については、奥の細道には記されていないが、曾良の随行日記に「【小生補足】簱ノ宿ハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也」(と)書きとめておいてくれた。
これは奥州路へ入るや否や、芭蕉主従は義経伝説の一こまに触れたことを物語る。
奥の細道の前半の頂点は、平泉の高館(たかだち)の件(くだり)である。
それは義経主従最期の地であり、同時に平泉藤原氏の三代の栄華の終焉でもあった。
芭蕉の筆は、平泉の地を踏んで、高館の悲史を回顧する件で、異様な高まりを見せている。
そして其処に到達する迄の間に、彼の義経伝説への関心は、徐々に高まって行ったことが、奥の細道の本文を読んでも納得出来るのである。
【平泉】
[92]高館より北上川を望む
[93]卯の花
[94]中尊寺 境内の芭蕉像横にて(2018.10.28撮影)
[95]同 金色堂(=光堂)周辺の紅葉(同上)
[96]中尊寺 金色堂(=光堂) 横の紅葉を back に(2018.10.28撮影)
[97]同 金色堂覆堂内部にて(同上)
[98]中尊寺 金色堂(=光堂)参道にて(同上)
[99]同 弁慶堂前にて(同上)
[100]同 金色堂(=光堂)
《原文》
三代(注1)の栄耀(えいえう)一睡(注2)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有(あり)。
秀衡が跡(注3)は田野に成(なり)(注4)て、金鶏山(注5)のみ形を残す。
先(まづ)、高館(たかだち)(注6)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川(注7)は、和泉が城(注8)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。
泰衡(注9)等が舊跡(きゅうせき)は、衣が関(注10)を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
国破れて(注11)山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良
兼(かね)て耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。
経堂(きゃうだう)(注12)は三将(注13)の像をのこし、光堂(注14)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。
七寶(注15)散(ちり)うせて、珠の扉(とびら)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚の叢と成(なる)べきを、四面(注16)新に圍(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おほひ)て雨風を凌(しのぐ)。
暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂
《現代語訳》
藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代(注1)の栄華も、邯鄲一炊の夢の故事(注2)のように儚く消え、廃墟と化した南大門の跡は此処から直ぐ一里のばかりの距離にある。
秀衡の館(注3)の跡は田野となり(注4)、その名残すら無く、ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという金鶏山(注5)だけが、形を残している。
まず義経の館のあった高台、高舘(注6)に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。
衣川(注7)は秀衡の三男和泉三郎の居城跡(注8)をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。
嫡男泰衡(注9)の居城跡は、衣が関(注10)を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。
それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。
国は滅びて(注11)跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。
杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。
夏草や 兵どもが 夢の跡
【意】奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。
卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良
【意】白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)
かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂(注12)には三将(注13)の像、光堂(注14)にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。
奥州藤原氏の所有していた宝物の数々(注15)は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。
今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面(注16)に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
【意】全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ
(注1)奥州藤原氏三代:清衡(藤原氏→清原氏→奥州藤原氏(1056-1128))・基衡(1105?-1157)・秀衡(1122?-1187)
(注2)一睡:中国の故事「邯鄲の夢」‥中国 趙 の都 邯鄲 で、盧生(ろせい)という貧しい青年が、茶店で呂翁(りょおう)という道士から不思議な枕を借りて寝た処、立身出世して50余年の栄華を極め、一生を終わる夢を見た/処が、目覚めてみると、茶店の主人が焼いていた黄梁(こうりょう=大粟(おおあわ))がまだ煮え切らない、ごく短い間のことだった‥という故事から「人の世や人の一生の栄枯盛衰が夢の様に儚いことの例え」
(注3)秀衡の跡:居館「伽羅御所」
(注4)田野に成(なり)て:中国「文選」の古詩に「古墓は犂(す)かれて田と為し/松栢は催(くだかれ)て薪と為す」
中国 初唐 の詩人 劉希夷(651-679)の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代る)」の中第七句と八句に「已(すで)に見る松柏の催かれて薪となるを/更に聞く桑田(そうでん)の変じて海と成るを」の様に、世の変転の激しさ を言う
(注5)金鶏山:秀衡が平泉鎮護の為富士山に擬して築いた小山で、金鶏を山頂に埋めた
(注6)高館:源義経の居館
(注7)衣川:「歌枕」/平泉の北を東流し、北上川に合流
(注8)和泉三郎の居城跡:秀衡の三男 忠衡 の居城/忠衡は、秀衡の遺命で義経に従い討死する
(注9)泰衡:秀衡の嫡子((=次男)1155(or65?)-89)/泰衡には庶子の兄(国衡(長男)(?-1189))がいたが、国衡は奥州合戦で頼朝軍に破れ討死
泰衡は、同合戦後逃亡するも郎党河田次郎に裏切られ討たれた/
河田次郎は泰衡の首を頼朝に献上/頼朝は泰衡の首実検の後不忠を理由に河田次郎を斬罪に処した
(注10)衣が関:「歌枕」/中尊寺表参道入口の北の田圃の辺り
(注11)国破れて山河あり、城春にして:杜甫(712-70)の代表的な五言律詩『春望』
春望 杜甫
國破山河在
/ 城春草木深
感時花濺涙
/ 恨別鳥驚心烽火連三月 / 家書抵萬金
白頭掻更短 / 渾欲不勝簪
国破れて山河在り / 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を沃ぐ濺(そそ)ぎ / 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり / 家書 万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く / 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
【意】国都長安の街は、安禄山の賊軍(=安史の乱(755-63))にすっかり破壊されて、あとには山河が昔の儘変わらずにある
荒れ果てた街にも春が遣って来て、草木が青々と茂っている
この戦乱の嘆かわしい時節を思うと、咲いている花を見ても涙を溢れ
家族との別れを悲しんでは、鳥が鳴声にも心が痛む想いがする
戦いの狼煙(のろし)何箇月も続き
家族からの手紙は中々来ないので、万金にも値する程貴重だ
度重なる心労の為、白髪の頭を掻けば、髪は抜け落ち
全く冠をとめるピン(=簪(かんざし))も挿せなくなって仕舞った様だ
(注12)経堂:清衡が伽藍として創建/建武04(1337)年 上層を消失/現在、2,724巻の一切経を蔵す
(注13)三将:清平・基衡・秀衡の像はなく、文殊菩薩・優填(うでん)王・善財童子の像
(注14)光堂:金色堂/堂内外に金箔を押す/光堂は近世以降の俗称
(注15)七寶:1.金輪宝 2.白象宝 3.紺馬宝 4.神珠宝 5.玉女宝 6.居士宝 7.主兵宝
又或る説には 1.瑠璃 2.玻璃(はり=水晶) 3. 硨磲(しやこ=貝)
4.瑪瑙(めのう) 5.珊瑚 6.琥珀 7.真珠 更に、上記 7.真珠に代えて 金銀とする説もある
(注16)四面:覆(さや)堂は金色堂建立後間もなく設けられた/芭蕉当時のものは南北朝末の建設
【小生comment】
既にお話した通り、小生の旧銀行時代の昭和57年05月~61年04月の4年間に、仙台を訪れた両親・友人達に案内した観光名所に、松島と平泉は欠かさなかった。
それ程、日本三景の筆頭と言っても良い「松島」と、中尊寺金色堂に代表される「平泉」は人気が高かった。
それは、326年前も一緒だっただろう。
芭蕉と曾良は、326年前の今日五月十二日(新暦06月28日)夕刻一関に着き、翌日13日(同06月29日)に平泉を訪れている。
芭蕉が、義経の居所があった高館で詠んだ「夏草や‥」と曾良の「卯の花に‥」を山本健吉の著書「ビジュアル版 日本の古典に親しむ 奥の細道」で次の様に述べている。
此れで、本号の「奥の細道」の締め括りとしたい。」
義経主従の伝説は東北の庶民達の間に続いて来た心の伝承だから、芭蕉は自分を東北の庶民と同じ場に立たせて、(「夏草や」という)追懐と慰霊の一句を作った。
細道の前文と合わせてこの一句はこの紀行の頂点であった。
「卯の花」の句は同じ時の咲くである。
兼房は義経の北の方の乳人(ちちうど)増尾(ますお)十郎権頭(ごんのかみ)兼房で、白い直垂(ひたたれ)に褐染(かちんぞめ)の袴を着、白髪交じりの髻(もとどり)を引き見出し、兜巾(ときん)をうち着て、義経の北国落ちに従い、高館では義経夫妻の最期を見届けた後、館に火を放ち、火中に入って、壮烈な戦死を遂げた。
この句は、折から白く咲いている卯の花を取り合わせて兼房の最期の奮戦の様を思い描き、その乱れた白髪を瞼に浮かべているのである。
卯の花の白を白髪に思い寄せたのは昔から卯の花を白髪に例えた和歌の伝統があるからであろう。
「兼房みゆる」と言ったのは曾良も芭蕉の義経熱が感染して『義経記』や幸若舞の高館最期の情景を必死に思い浮かべているのである。〔後略〕
【後記】今日は、本文が長文なので「後記」は省略する。
では、また‥〔了〕
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