今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第37回/第352句~360句〕」をご紹介する。
曠野集 巻之四
初秋
352ちからなや麻(あさ)刈(かる)あとの秋の風 越人(注1)
【意】背丈が2mにもなる麻を刈り採った初秋でのこと‥ / 刈った後は、ガランとして力なく、僅かに初秋の風が感じられるばかりである
【解説】季語:秋の風=三秋
/ 藤原敏行朝臣の歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の俳諧的表現(注1)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
353
梧(きり)の葉(注1)やひとつかぶらん秋の風 圓解(注2)
【意】我国でも、『梧の葉』は、『淮南子』の「一葉知秋」から、「秋到来を告げるsignであり、初秋の寂寥の象徴」である / 和歌では「あぢきなきや梧の一葉の落ちそめて人の秋こそやがて見えぬれ」(為尹千首)と詠まれた / 此の句は俳諧 /「梧の葉は、帽子の様に頭に載せて被るには丁度良い大きさだヨ」とお道化て見せた
【解説】季語:秋の風=三秋
/(注1)梧(きり)の葉:【落一葉而知秋〔一葉(いちよう)落ちて天下の秋を知る〕】:《意》微かな前触れによって未来を察知すること / また、僅かな前兆によって将来の衰退を見抜くこと / 「葉」は、『青桐』の葉 / 掌状の大葉は、晩夏に他の樹木に先駆けて落葉する / まだ「秋の気配が感じられない時期に『青桐』の葉が一枚散り落ちるのを見て、秋の到来を察知する」という意 / 又、「秋は草木が散る季節から、『権勢の衰退を予知』する譬え」にも使う /「一葉知秋(いちよう ちしゅう)」、「桐一葉(きり ひとは)」、「一葉(いちよう)秋を知る」「桐一葉落ちて天下の秋を知る」等とも言う
『淮南子』(えなんじ/わいなんし)は、前漢の武帝の頃、淮南(現・安徽省にあった国)王・劉安(前179-前122)が編纂させた思想書 / 日本では、漢音(わいなんし)より呉音(えなんじ)と呼ばれることの方が一般的 /
劉安(りゅうあん):漢の高祖劉邦の七男の淮南厲王劉長の長男 / 武帝の代に、反乱の計画を密告され、劉安は自害、一族は皆処刑された
(注2)圓解(えんかい(生没年不詳)):美濃国の人 / 人物について詳細不詳
松島雲居(うんご)(注1)の寺にて
(注1)雲居(うんご)希膺(きよう/けよう(1582(天正10)-1659.09.24(万治02.08.08)):江戸時代初期、土佐国出身の臨済宗の僧侶 / 俗姓:小浜氏 / 別号:把不住軒 / 妙心寺153世住持 / 1636(寛永13)年
仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)・忠宗(1600-58)父子に招かれ、松島の青龍山・瑞巌寺を再興(=中興開山) / 此の他、石馬寺の中興開山、大梅寺の開山にもなった
354
一葉(ひとは)散(ちる)音(おと)かしましきばかり也 仙化(注1)
【意】雲居上人が再興した瑞巌寺で坐禅を組んでいると、梧の葉が一枚落ちて来た
/ ただ其れだけで、禅寺の静寂が破られて騒々しいばかりの大きな音に聞こえた
【解説】季語:一葉散=初秋
/(注1)仙化((=仙花)せんか(生没年不詳)):江戸の人 /『蛙合』の編者 /『あら野』、『虚栗』、『続虚栗』等に入句
355かたびら(注1)のちゞむや秋の夕(ゆふ)げしき 津島
方生(注2)
【意】初秋の夕暮れ/
夏の間着用した帷子が、少し縮んだかと思われる / 帷子の袖口や裾の処が肌寒く感じられるのだ / 帷子が実際に縮んだのではない
【解説】季語:秋=三秋
/(注1)かたびら(帷子):当時は、旧暦五月五日~八月末日迄着用するしきたりになっていた
(注2)方生(ほうせい(生没年不詳)):尾張国津島の人
356
男(をとこ)くさき羽織(はおり)を星の手向(たむけ)(注1)哉(かな) 杏雨(注2)
【意】七夕飾りに男児の羽織が供えかけられてある
/ 女子の裁縫の腕前上達を願ってのことだが、如何なものか? / 男児の裁縫の腕前上達を願ったのでもあるまいに‥
【解説】季語:星の手向=初秋
/(注1)星の手向(たむけ):七夕に文房具・絹糸・書籍・衣服等を供える / 衣服については、「貸小袖」とも言う / 女子の裁縫の技の上達を祈る為という
(注2)杏雨(きょうう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』等に入句
357
朝貌(あさがほ)は酒盛(さかもり)しらぬさかりかな 芭蕉
【意】いま私達は『更科紀行』の旅に出発する
/ 多くの門人が集まって別れを惜しみ盃を重ねている / 朝顔はそんな俗事に我関せずと今を盛りと咲く
【解説】季語:朝貌=初秋
/ 貞亨05(1688)年08月11日 /『更科紀行』の出発に際して美濃国岐阜にての留別吟四句の一 / 同じsituationで「草いろいろおのおの花の手柄かな」、「送られつ別れつ果ては木曽の秋」がある
/ 此の句は『笈日記』にも載る
358
蕣(あさがほ)や垣(かき)ほのまゝのじだらくさ 文鱗(注1)
【意】朝顔は、美しく花は咲かせるが、蔓の伸ばし方は垣根次第だ
/ 自立出来ない自堕落(=だらしのない様)さこそが特徴なのだ
【解説】季語:蕣(あさがほ)=初秋 /(注1)鳥居文鱗(とりい ぶんりん(生没年不詳)):和泉国堺の人 / 虚無斎とも /『続の原句会』・『あら野』・『初懐紙評註』などに入句 / 文鱗は、天和03年、芭蕉が第二次芭蕉庵に入った頃に、出山の釈迦像を贈った / 芭蕉はこれを大事に手許に置き、大坂で死ぬ時には、此れを支考に与えると遺書に書き留める程であった
359
あさがほの白(しろ)きは露(つゆ)も見えぬ也(なり) 荷兮(注1)
【意】朝顔に置く露は、儚い無常を教えてくれる
/ が、白い朝顔に置く露は気付かずに済むので、朝顔の美しさに集中して賞美出来る処が喜ばしい
【解説】季語:あさがほ=初秋
/(注1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 1693(元禄06)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
子を守るものにいひし詞(ことば)の句になりて
360
朝顔(あさがほ)をその子(こ)にやるなくらふもの 同
【意】子守よ、其の幼子に朝顔を渡すでないぞ
/ 直ぐ口へ持っていくだろうから
【解説】季語:朝顔=初秋
/
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から巻之四〔第38回/『巻之四』第361句~370句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、07月04日(土)に、一週間前に購入した米国New York生まれのネイト・ジョルジオ(Nate Giorgio(1961- ))(写真[07]の絵)の修理(←作者署名欄が確り見えなかったものを見える様に‥)が終わったので、展示即売会会場の Gallery Art-age に行って来た。
先週来訪時に、綺麗だナァと思っていた上村松篁 (1902.11.04-2001.03.11)・上村淳之((あつし)1933.04.12- )父子と、山口蓬春 (1893.10.15-1971.05.31)、栗原幸彦(1951- (多摩美大日本画科卒))の花鳥図が強く印象に残り、此れ等のうちのいずれか1枚を今日追加購入しようと考えて訪れた。
[01]上村淳之『小禽』〔木版画〕
[02]上村松篁『双鳩』〔lithograph〕
[03]栗原幸(ゆき)彦『鳥』〔lithograph〕
[04]山口蓬春『緑芝』〔木版画〕
即売会主催者の I さんに、木版画と lithograph の違い等を尋ねた話の中で、小生が「巨匠の山口蓬春 、上村松篁、敦之程の知名度はないけれど、綺麗な日本画の花鳥図栗原幸彦『鳥』もいいですネェ」とお話したら、I さんは「彼は、浜松出身で、私より10歳若いから69歳かな、いい絵を画きますヨ」と言って控室に展示していなかった作品を取りに行き戻って来て、「此れは、日本画家栗原幸彦さんの肉筆画で、昔、私が個人的に所蔵していたものですが、良かったらどうぞ!」と見せてくれたのが、写真[05]の絵だ。
一目で、写真[05]の絵の「美しい色合い」と「構図の balance の良さ」に、恋人に巡り合えた時の様な『ときめき』を感じ、I さんが、「(lithograph の)『鳥』と同価格でいいですヨ」と仰っられたので、「肉筆画は天下に此の1枚だけだ‥」という希少価値にも魅せられて即購入を決めた! 〔←・とてもお値打ち価格だった〕
[05]栗原幸彦『春の景』〔日本画肉筆画〕
[06]同上の絵を back に、拙宅にて
[07]ネイト・ジョルジオ(Nate
Giorgio(1961- ))の絵〔lithograph〕
[08]同上(=写真[07])の絵を back に、拙宅にて
[09]渡辺直人「静物画」の横にて〔油彩画〕
〔←・渡辺氏は、湖西市在住の中学校の校長先生を務め上げられた油彩画家(亡父の浜松師範学校以来の親友)〕
[10]梅原龍三郎
(1888.03.09-1986.01.16)『富士』〔lithograph〕
[11]中村清治(1935- )『横向きの婦人像』〔lithograph〕
[12]鬼頭鍋三郎(1899-1982)『舞妓・春』〔lithograph〕
[13]ジョアン・ミロ(西(カタルーニャ語): Joan Miró i Ferrà 1893.04.20-1983.12.25)『Maeght editeur』〔lithograph〕
[14]上村松園
(1875.04.23-1949.08.27)『夕暮れ』〔lithograph〕
【小生 comment 】
美しい名画は、見る者に癒しとときめきをくれるから大好きだ。
■続いての話題は、07月05日(日)に、『大給城址』→『足助(真弓山)城跡』→『豊田市足助資料館』→刈谷市美術館『ヒグチユウコ』展と巡って来たことについてである。
其の日は、以下の通り行動した。
05時15分 起床→腹筋2,000回
06時10分 2.5kg木刀素振り60分07時15分 入浴→朝食→
08時08分 拙宅発→一般道→東名・豊川IC→豊田JCT→東海環状→松平IC→一般道 54分 60.5km→
09時02分 大給城址駐車場着→徒歩03分→
09時08分 大給城址参道入口着
【大給(おぎゅう)城址】
[15]大給城址 航空写真map
[16]大給城址へ向かう入口にて
[17]主郭(=本丸)へ向かう途上にあった「松平氏遺跡/大給城跡」石碑にて1
[18]同上2
[19]大給城址 主郭
[20]主郭にある「大給城址」解説板
[21]同「同」石碑
[22]同「同」石碑前にて1
[23]同上2
[24]「大給城址」主郭からの九久平遠望
ホトトギスの鳴き声が聞こえていた
[25]松平乗元の墓1
[26]同上2
[27]同 前にて
[28]同 解説版
[29]同 同所にて
大給城址は、西の眼下に九久平(くぎゅうだいら)集落を見下ろす標高204mの急峻な山上に築かれている。
九久平は、足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上運送との中継地であるという交通の要衝であった。〔中略〕本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家第三代信光が攻略し、三男親忠((ちかただ)松平宗家第四代)に与えた。
親忠は、細川城(岡崎市)と共に本城を次男乗元((のりもと)1446-1537)に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。〔中略〕
初代乗元→2代乗正→3代乗勝→4代親乗→5代真乗を経て第6代家乗の時、徳川家康の関東移封に従い、上野国那波(なわ)藩1万石に移封となり、大給城は廃城となった。〔←・以上「大給城址縄張図」より引用〕
10時18分 大給城址駐車場発→一般道 29分 18.8km/78.3km→
10時47分 足助城跡着
【足助城址】
足助城の歴史は、源平時代迄遡る。治承(1177-81)年間に堀切尾張源氏系の足助重長築城と伝わる。以後、150年余り足助氏の居城だった。
しかし、南北朝時代、足助氏第7代重範は南朝方に付いた為、足利尊氏の天下となった興国(1340-42)年間に東国に去り、足助城は取壊された。戦国時代になると、西三河山間部の豪族 鈴木氏が足助城跡に入り、真弓山山頂に連郭式の山城を再構築。
鈴木氏は、初代忠親、2代重政、3代重直、4代信重、5代康重迄、足助城を中心に6つの支城を築き、「足助七城」と呼ばれた。
1571(元亀02)年 鈴木氏は武田信玄の支配下に入るも、1575(天正03)年 勝頼が長篠の戦いで大敗後は、徳川家康の軍門に降った。
1590(天正18)年 鈴木康重は、徳川家康の関東移封に従い、足助城を去るが、程なく浪人したと伝わる。
足助の地は尾張、三河の両国から信濃に通じる飯田街道の要衝にある為、江戸時代には幕府直轄の天領となり、明治維新を迎えた。〔←・以上「豊田市 Home page」 より引用〕
[30]足助城跡 航空写真map
[31]足助(真弓山)城跡 入口の看板
[32]同 leaflet
[33]同 入口近くから足助城跡を望む
[34]同 西 物見櫓前にて
[35]同 南の丸の櫓内にて
[36]足助城跡 本丸 長屋から高櫓
[37]同 同 同上を back
に
[38]同 同 同から足助の街遠望
[39]同 同 高櫓内部にて
[40]同 同 境内の一郭に咲く薊(あざみ)の花
11時28分 足助城跡駐車場発→一般道12分 2.2㎞/80.5km→
11時40分 豊田市足助資料館着
【豊田市足助資料館】
[41]豊田市足助資料館 航空写真map
[42]豊田市足助資料館 前にて
[43]同 第1資料室にて
[44]同 第2資料室内入口にある足助次郎重範像前にて
[45]同 足助次郎重範 解説板
[46]同 足助氏系譜
足助次郎重範は、我等が母校時習館高校の学生時代、秋の文化祭の camp fire に定番で歌った『三河男児の歌』の第3番冒頭に出て来る。
因みに『三河男児の歌』は、全部で10番迄あるが、時習館高校で歌ったのは1番~5番と、7番と10番を6番、7番として歌った。
今でも思い出すのは、【1】番の全部と、【3】番の「見よや足助の『重範(しげのり)』は/建武の帝(みかど)の大勅(おおみこと)」、【5】番の「大久保・酒井・伊井・本多」だ。
歌詞は、彦坂幸太郎氏の作。氏の略歴は以下の通り‥
1873(明治06)年 愛知県渥美郡高根村(現・豊橋市西七根町)に生まれ、高師本郷の彦坂家の養子に
1895(明治28)年 愛知県第一師範学校(現・愛知教育大学)卒業後、豊橋市内の小学校教員に
1905(明治38)年 東京高等師範学校(現・筑波大学)に学び、卒業後は、母校愛知県第一師範学校の教員に /『三河男児の歌』は、其の頃、即ち氏30歳前半の頃の作品
古いが、格調あり好きな歌である。
【三河男児】 志賀重昂 作
【1】雲に聳ゆる段戸山 / 波は静けき渥美湾
外に万里の海を見て / 内に沃野の富を占め流れも清き豊川や / 矢作大平澪長し
【2】嗚呼山川の秀麗は / 凝りて偉人を生ずるか
発して感化を与うるか / 三河の国は昔より益良武夫(ますらたけお)ならびいで / 勲(いさお)立てたる機(はた)多し
【3】見よや足助の重範は / 建武の帝の大勅(おおみこと)
拝すや義旗を押立てて / 黒白(あやめ)もわかず奮闘し笠置の難に従いし / 誉(ほまれ)は山より猶(なお)高し
【4】四海の波は治まらで / 天泣き人やなやむ時
起って天下を一統し / 三百余年太平の基(もとい)定めし東照公 / 恵は海より猶深し
【5】嗚呼慶元のその昔 / 大久保・酒井・伊井・本多
千古の名将 雲の如 / 此の地に起こり大八州(おおやしま)六十四州に振るいてし /三河の当時思い見よ
【6】辺海風は吹きすさび / 攘夷の大波荒るる時
崋山の大人(うし)は開港や / 海防論に身を捧げ天下の心を導けり / たれか功(いさお)を仰がざる
【7】星もうつろい物変わり / 元気漸くひそみしか
維新此の方三河人 / 絶えてその名を知られずて荒(すさ)れのみまさる竜が城 / 誰(たれ)か涙を注がざる
【8】さあれ満韓二度の役 / 元山平壌ふみ破り
遼陽奉天取りひしぎ / 勇名世界にかくれなき豊橋十八連隊ぞ / やがて三河の健児なる
【9】嗚呼誠実を守りとし / 勤倹尚武を旨として
徳をば修め智を磨き / 忠と孝とを尽くすべし百折(ひゃくとう)撓(たゆ)まぬ丹心ぞ / やがて三河の元気なる
【10】いでや三河の人々よ / 段戸の山は裂けぬとも
矢作の水は枯れぬとも
/ 此の元気をば失わで国に誠を致すべし / 家の風をも起こすべし
12時02分 豊田市足助資料館発→一般道72分33km/113.5km→
13時14分 刈谷市美術館着
【刈谷市美術館『ヒグチユウコ展 CIRCUS』】
写真の様に、美術館前は長蛇の列だったので、【3密】を避けている小生、入館を断念した。
刈谷市美術館の前で記念撮影をして早々に帰宅の途に就いた。
[47]刈谷市美術館 前にて
[48]同 前近くの本企画展看板
[49]同 同上前にて
[50]SNSより「『ヒグチユウコ』展入口」
[51]SNSより ヒグチユウコ作品のいくつか
14時57分 帰宅(走行距離計 177.7km)〔了〕
【小生 comment 】
刈谷市美術館の『ヒグチユウコ』展は、人気があってご覧の様に、美術館前に長蛇の列が出来ていた。が、小生、内心は「ホッ」とした。
何か、ヒグチユウコ氏の作品は「美しいものが好き」な小生にとっては、看板で見た作品のケバさに違和感を直感的に感じ取ったのだ。
■今日最後の話題は、07月03日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第8回〕から《前編》の『立石寺』を up したのでご覧頂きたい。
写真は、3枚が小生が旧行仙台支店在勤中に山寺『立石寺』を訪れた時の記念写真。
[52]1983年6月に『立石寺』を訪れた時の snap shots
[53]1984年6月24日:旧行仙台支店の店内旅行で山形を旅行した際、『山寺』駅前にて1
[54]同上2
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/260556263758070.html
前〔第7回〕では、元禄二(1689)年 五月十三日(新暦06月29日/「一関」発)~五月十九日(新暦07月05日/「尾花沢」滞在三日目(注)) にかけて七日間の芭蕉一行の話についてお伝えした。
今回の〔第8回《前編》〕『立石寺』は、芭蕉一行が「尾花沢」の豪商鈴木清風から歓待された、五月十七日~二十六日(新暦07月03日~12日)迄の10泊のうち、まだお伝えしていない4日目の五月廿日以降、立石寺を訪れた五月二十七日(新暦07月13日)迄の話である。尚、【2637の会 0556】では、松尾芭蕉『奥の細道』〔第8回〕は、『最上川』も up しているが、芭蕉と曾良が『最上川』を舟で下ったのは、六月三日(新暦07月19日)、即ち『立石寺』参詣から6日後の話なので、次回《会報》にて〔第8回《後編》〕をお伝えすることとする。
五月二十七日( 同 07月13日) (尾花沢 鈴木清風宅を出発して) 立石寺へ向かう
〔‥【曽良旅日記】天気能(よし)‥〕同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄〔渋谷風流宅〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
同 三~五日・七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に計6泊す
〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/21日 朝の間小雨す、昼より晴れる/23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕
芭蕉の『奥の細道』も前回の『尿前の関〔=出羽越え〕』から後半に入った。
『尿前の関』から険しい山路の旅を続けて来た芭蕉にとって、尾花沢の豪商鈴木清風宅での歓待は大変嬉しいものであった。五月十七日(新暦07月03日)の昼過ぎに清風宅に到着した芭蕉一行は、翌十八日に近くの養泉寺に移り、以後、二十三日の清風宅泊を除き同寺に泊した。
連日尾花沢の俳人達との交歓会が催され、二十七日(新暦07月13日←‥即ち、326年前〔←・2015.07.12付【2637の会 0556】を up した時点での換算年数〕の明日‥)に『立石寺』へ出発している。
尾花沢の人々に奨められての立石寺参詣であった。
「一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて」と明記して、尾花沢の人々への謝意を表している。
【立石寺】
[55]『立石寺』
[56]同 納経堂(左)と開山堂(右)
[57]同 根本中堂
[58]堂 五大堂からの遠望
[59]芭蕉の俳句の最高傑作と呼ばれる「閑さや岩にしみ入(いる)蝉の声」の蝉、ニイニイゼミ1
[60]同上2
[61]ニイニイゼミたち
山形領に立石寺(りふしやくじ)(注1)と云(いふ)山寺あり。
慈覚大師(注2)の開基にして、殊(ことに)清閑の地なり。一見すべきよし、人々のすゝむるに依(より)て、尾花沢よりとつて返し(注3)、その間七里ばかりなり。
日いまだ暮れず。
麓(ふもと)の坊に宿借り置(おき)て、山上の堂(注4)に登る。
岩に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石老(おい)て苔滑(なめらか)に、岩上(がんしやう)の院々(注5)扉(とびら)を閉(とぢ)て、物の音きこえず。
岸(注6)を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(注7)として心澄みゆくのみおぼゆ。
閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声
《現代語訳》
山形領内に、立石寺(注1)という山寺がある。
慈覚大師(注2)が開いた寺で、とりわけ清らかで静かな土地である。
「一度は見てみたほうが良い」と人々に奨められたので、尾花沢から引き返して(注3)立石寺へ行ったが、その間の距離は七里程である。
日はまだ暮れていない。
山の麓の宿坊に宿を借りて置いて、山上にあるお堂(注4)に登ってみた。
岩に巌が重なって山となり、松や柏は年を経た老木で、土や石も古びて苔が滑らかに覆い、岩の上に建てられたお堂(注5)のどれも扉は閉じられていて、物音一つ聞こえない。
崖(注6)を廻り、岩を這う様にして登って仏殿を参詣したが、素晴らしい景色は静寂(注7)に包まれ、自分の心が澄切っていく様な感じがするばかりだった。
【意】立石寺は全山ひっそりと静まり返っている
その静寂の中で蝉の鳴き声だけが岩に沁み入るように透き通って聞こえて来る
【解説】季語は「蝉の声」で夏六月。
この句は、「山寺や石にしみつく蝉の声」(曽良旅日記)が初案、次いで「さびしさや岩ににしみ込む蝉の声」(『初蝉』『泊船集』)を経て「閑さや岩に沁み入る蝉の声」となった。「佳景寂莫」たる立石寺境内に蝉の声を聞き、一層の静寂を実感した様(さま)が、本文の「清閑」の言葉が詞書のkeywordの様に効果的に詠まれている。
写実的な句というよりも、ずっと精神的に高みにある。
『奥の細道』で歌われる俳句の中でも絶唱と言っていい傑作である。
(注1)立石寺:正しい読み方は「りふしやくじ(りゅうしゃくじ)」。「りっしゃくじ」は土地の呼び方であったが、現在では此の呼称が一般的
山形市山寺にあり、俗称「山寺」/ 貞観02(860)年 清和天皇の勅願に拠り慈覚大師が創建 / 寶珠山立石寺と称する天台宗寺院(注2)慈覚大師:円仁(えんにん(794-864)) / 下野国(現・栃木県)都賀郡出身 / 承和05(838)年入唐、同14(847)年帰朝 / 仁寿04(854)年 第3世天台座主
(注3)とつて返し:「あとへ引き返す」の意 / しかし、此処では尾花沢から予定進行方向の大石田へ直行せず、南下して立石寺に廻り道したことをいう
(注4)山上の堂:如法堂、釈迦堂、開山堂、五大堂等
(注5)岩上の院々:観明院、性相院(しょうそういん)等、山上の十二院
(注6)岸:崖(がけ)のこと
(注7)寂寞(じゃくまく):ひっそりと静まり返っている様(さま)
【小生comment】
「閑さや岩に沁み入る【蝉】の声」の「蝉」は、1925年から2年余りに亘る、斎藤茂吉(1882-1953)「アブラゼミ」v.s.小宮豊隆(1884-1966)「ニイニイゼミ」論争が有名である。本論争では、この句が詠まれた時期(=旧暦五月二十七日(新暦07月13日)の立石寺ではアブラゼミが鳴く時期としては尚早であることが判明した。
後に斎藤茂吉が現地調査して「芭蕉がこの句を詠んだ新暦07月13日にはアブラゼミもいるがニイニイゼミが多いことを発見」して自説の誤りを認めている。
因みに、小宮豊隆は、日本の独文学者、文芸評論家、演劇評論家、日本学士院会員。夏目漱石の門下生で、漱石の『三四郎』の model として知られる。1925年 東北帝国大学法文学部教授。1946年 同大学教授定年退官。其の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学)校長、国語審議会委を歴任。1950年3月 学習院女子短期大学の初代学長就任(~1957年)。1951年に学士院会員。
最近、豊橋及び其の周辺の平地で聞く蝉の声と言えば、あのうるさい「シャ―シャ―」と鳴く「クマゼミ」と、そのクマゼミが鳴き止(や)んだ後に遠慮がちに「ジジジ‥‥」と鳴いている「アブラゼミ」位である。
ニイニイゼミも、ツクツクボウシも殆ど聞かなくなって久しい。
では、また‥〔了〕
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