今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第40回/巻之四~第381句~390句〕」をご紹介する。
381 谷川(たにがは)や茶袋(ちゃぶくろ)(注1)そゝぐ(注2)秋のくれ 津島 益音(注3)
【意】隠者であろう、谷川で茶袋洗っている / 其の音が、谷川の流れの音に混じり、微かに聞こえ、山中の静寂を際立てている / 秋の夕暮れの寂寥の一情景
【解説】季語:秋の暮=三秋 /
(注1)茶袋:葉茶を茶釜に入れて煎じるための布製の袋
(注2)そそぐ(濯ぐ):洗うこと
(注3)益音(えきおん):人物ついては不明
382 石切(いしきり)の音(おと)も聞(きき)けり秋の暮(くれ) 傘下(注1)
【意】秋の夕暮れの寂寥 / 山中に秋風の音を訪ね来てみたら、石切の音迄にも耳を傾けて仕舞った
【解説】季語:秋の暮=三秋 /
(注1)加藤傘下(かとう さんか)(生没年不詳):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』、『曠野後集』等に入句
383 斧(をの)のねや蝙蝠(かはほり)出(いづ)るあきのくれ 卜枝(注1)
【意】木を伐る斧の音がしたら、なんとコウモリが穴倉から出て空に飛び立った
【解説】季語:あきのくれ=三秋 / 杜甫の「伐木丁々として山更に幽なり」を蝙蝠を登場させた滑稽さに俳諧の妙味がある
(注1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していた伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
384 鹿(しか)の音(ね)に人の貌(かほ)みる夕(ゆふ)べ哉(かな) 一髪(注1)
【意】鹿の鳴き声は、秋のあわれを表すものとして、古来歌に詠まれて来た / 秋の夕暮れに、本当に鹿の鳴き声を聞き、其の時居合わせた人の顔を見たら其の人も顔を此方に向けていた
【解説】季語:鹿の音=三秋 /
(注1)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明
385 田(た)と畑(はた)を獨(ひと)りにたのむ案山子(かがし)哉(かな) 伊予 一泉(注1)
【意】田と畑の境に案山子が立っている /「見張れというのであろう」/ 案山子も楽じゃないよナァ
【解説】季語:案山子=三秋 /
(注1)一泉(いっせん(生年没不詳)):詳細不詳 / 伊予国の人 /『あら野』に入句
386 山賎(やまがつ)(注1)が鹿驚(かがし)作(つく)りて笑(わらひ)けり 重五(注2)
【意】山中の百姓が案山子を作った / 其の案山子の出来栄えに笑って仕舞った / 案山子は誰が作っても何処か可笑しさがある
【解説】季語:鹿驚(かがし)=三秋 /
(注1)山賎(やまがつ):山仕事を生業とする身分の低い人/樵(きこり)や杣人(そまびと(=杣木を切ったり運び出したりする人))等を言った
(注2)加藤重五(かとう じゅうご(1654-1717(享年64歳))):加藤善右衛門 / 尾張名古屋の材木問屋の豪商 / 『冬の日』の同人
387 紅葉(もみぢ)にはたがおしへける酒の間(かん) 其角(注1)
【意】白居易の詩に「林間に酒をあたためて紅葉を焼く」がある / つまり紅葉を焼いて酒に燗をつけるのだが、そのことを誰が紅葉に教えたというのであろう
【解説】季語:紅葉=晩秋、酒の間(かん(=燗))(=温(ぬく)め酒)=晩秋 /「平家物語六・紅葉の事 / 高倉帝の故事 / 野分に散った紅葉を、下部の者がすっかり掃き清めて搔き集め、酒を燗にする薪にして仕舞った / 高倉帝は、落葉の美しさを楽しみにしていたのだが、此れを聞き、「林間に酒を煖めて紅葉を焼く(和漢朗詠集・白楽天)」というが、「其れ等には誰が教えけるぞや」と言って、却って褒めたという / 紅葉自体を酒に酔う人に見立てるのは「貞門俳諧」の常套 /「屈原か紅葉の中の松一木」等の句もある / ‥だから、と宝井其角の句は「紅葉にはたがおしへける酒の間(=燗)」と詠み問うのである
(注1)宝井其角(たからい きかく(寛文元年07月17日(1661.08.11)~宝永04年02月29日(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝
388 しらぬ人と物(もの)いひて見る紅葉(もみぢ)哉(かな) 東順(注1)
【意】紅葉の美しさを愛でる心は、誰の心をも一つにする / 自ずから見知らぬ人とも紅葉の美しさについて言葉を交わすのである
【解説】季語:紅葉=晩秋 /
(注1)榎本東順(えのもと とうじゅん(?-1693.09.28(元禄06年08月29日)):其角の父 / 膳所藩本多侯の侍医 / 元禄6年72歳で死去 /『東順伝』は芭蕉が東順に贈った追悼の句 / 其処には、「市店を山居にかへて、楽しむところ筆をはなたず / 机をさらぬこと十年あまり、其の筆のすさみ、車にこぼるるがごとし」とある / 芭蕉の尊敬の念が込められた一文である
389 藪(やぶ)の中に紅葉(もみぢ)みじかき立枝(たちえ)哉(かな) 林斧(注1)
【意】立枝の紅葉が色づいているが、背丈高く生い茂る薮の雑木の為に折角の紅葉がよく見えない
【解説】季語:紅葉=晩秋 /
(注1)立枝(たちえ):木の徒長枝(とちょうし(=樹木の幹や太い枝から上方に向かって真っ直ぐに長く太く伸びる枝))のこと
(注2)林斧(りんぷ(生没年不詳)):『あら野』などに入句しているが詳細不明
390 どことなく地(ち)にはふ蔦(つた)の哀(あはれ)也(なり) 越水(注1)
【意】蔦の紅葉は美しい / 其の蔦が地を這う姿はみじめに見えて興覚めする
【解説】季語:蔦(つた)=三秋 /
(注1)越水(えつすい):人物について不明
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第41回/第391句~400句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、此れ迄の【2637の会】blogから【07月の想い出=2010年・11年・13年・14年・16年《前編》】」を今回から2回に分けてご紹介する。嘗て《会報》に up した内容なので、ご記憶ある方もいらっしゃるかも‥(笑)
【2010年:07月の想い出】
2010年7月24日(土)【時習26回3-7の会 0300】~〔前略〕「07月02日:Bunkamuraザ・ミュージアム=Musees de Strasbourg 所蔵『語りかける風景』展を見て」「長寿者にみる免疫力を高める生活習慣」
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/07/26-030020102607.html
■さて続いての話題は、掲題・副題にあります様に、【0297】号の《会報》にてご紹介させて頂いた07月02日に訪問した4つの「絵画」展の中から3つ目に訪れた渋谷東急百貨店の横にある Bunkamuraザ・ミュージアムにて07月11日迄開催していたストラスブール美術館(Musees de Strasbourg)所蔵~『語りかける風景〔Le Gout de la Nature〕~コロー、モネ、シスレーからピカソまで』展についてご紹介させて頂く
「オルセー美術館展』2010『ポスト印象派』」展ほどの派手さはなかったが、地味な中にも落ち着きがあって、「何故かホッとする一陣の涼風」の様な心地よい展覧会だった
[01][左上]リュク・ヒューベル『後ろを向いて佇む女性、窓の前』1926年
[左下]モーリス・マリノ『室内、縫い物をするエレーヌ』1904年
[右上]ロタール・フォン・ゼーバッハ『屋外、バルコニーの女性』1905年
[右中]アンリ・マルタン『雪化粧のパリ』1910年頃
[右下]ウジェーヌ・ブーダン『海景』制作年不詳
[02][左上]ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『ヴィル=ダヴレーの池』1860-63年頃
[左下]フェリックス・ヴァロットン『家と葦のある風景』1921-24年頃
[右上]ポール・シニャック『アンティーブ、夕暮れ』1914年
[右中]テオドール・ルソー『木の幹の習作』1833年
[右下]ヴァシリー・カンディンスキー『サン=クルー公園』1906年
. 2010年7月31日 (土)【時習26回3-7の会 0301】~〔前略〕「07月02日:損保ジャパン東郷青児美術館『Maurice Utrillo』展」「07月24日:滝川元雄先生の土曜講座第16回『明治維新後の東三河』から」「07月24日:『大谷康子&大谷康子String Orchestra~Vovaldi Concert』を聴いて」
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■さて今回は、掲題・副題にあります様に、【0297】号の《会報》にてご紹介させて頂いた07月02日に訪問した4つの「絵画」展の中から、最後4つ目に訪れた、西新宿にある損保ジャパン東郷青児美術館にて07月04日まで開催中であった『Maurice Utrillo (1883.12.26-1955.11.05)』展についてご紹介させて頂く
[03][左上]Maurice Utrillo
[左下] Maurice Utrillo『エリゼ・デ・ボザール小路、モンマルトル』1916年
[右上]同『モン=スニ通り、ミミ=パンソンの家、モンマルトル』1917年頃
[右中]同『カルボネルの家、トゥルネル河岸』1920年頃
[右下]同『コブラン路地、パリ』1921年
[04][左上] Maurice Utrillo『城壁』1922年
[左下]同『ムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル』1922年頃
[右上]同『ブルイユの十字架、アンリ4世の狩りの待合せ場所、ベッスィーヌ・スュル・ガルタンプ』1923年
[右中]同『オルシャン通り、モンマルトル』1925年
[右下]同『古い田舎風のホテルレストラン、ペルージュ』1928年
[下左]同『サン=リュスティック通り、モンマルトル』1948年頃
[下中]同『モンマルトルのパリ祭』1948年頃
[下右]大谷康子(violin solo)『第3回 文化と商業の街 名古屋とヴェネツィアの栄華 Vivaldi の「四季」』leaflet
【2011年:07月の想い出】
. 2011年7月23日 (土)【時習26回3-7の会 0351】~〔前略〕「07月17日:[01]京都市美術館『フェルメールからの love letter 展』を見て [02]『南禅寺』の方丈・三門と二つの塔頭を巡って [03]『鈴木章 Nobel 化学賞受賞記念講演』を聴いて」
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■さて、今日最初の話題です。実は、小生一週間前の07月17日(日)~18(祝月)の二日間、中嶋良行君(旧【3-2】)と京都に行って来ました。〔中略〕
小生、縁あって『鈴木章先生ノーベル化学賞受賞記念講演会』の ticket を2枚入手し、中嶋君を誘った処、「丁度いい。京都方面なら、次回の『時習26回卒業40周年記念旅行』の route & 宿泊候補探しをしよう!」と逆提言を受け一泊二日の旅行になった
小生、縁あって『鈴木章先生ノーベル化学賞受賞記念講演会』の ticket を2枚入手し、中嶋君を誘った処、「丁度いい。京都方面なら、次回の『時習26回卒業40周年記念旅行』の route & 宿泊候補探しをしよう!」と逆提言を受け一泊二日の旅行になった
【旅行第一日目17(日)】
05:00 拙宅発→ 05:25 中嶋宅→〔東名高速〕→ 08:35 京都・岡崎公園地下駐車場→ 08:40 京都市美術館着
【京都市美術館『フェルメールからの love letter』展】 今回は、フェルメール(Johannes Vermeer,1632-1675年)の作品3点が珠玉である。
[06][左上]京都市美術館前にて
[右上]Vermeer『手紙を読む青衣の女』1663-64年
[左下]Vermeer『手紙を書く女』1665年頃
[中下]Vermeer『手紙を書く女と召使い1670年頃
《余談》【小生の見たフェルメールの作品】
小生、これ迄〔2011年07月17日時点〕に4回に亘りVermeer の作品を見ている
全世界に現存する作品が三十数点しかないと言われる Vermeer 作品の三分の一近くを、遡ること僅か4年間に国内に居乍らにして見られる幸せを実感し、そういう力ある国である祖国日本に感謝する
[06][右下]Vermeer『ミルクを注ぐ女』1658-60年‥2007.12.05.国立新美術館《会報》【時習26回3-7の会 0139(3-3)】
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/33_ebe9.html
[07][左上]Vermeer『マルタとマリアの家のキリスト』1655年頃‥2008.11月.06 東京都美術館 2011.11.08付【時習26回3-7の会0210】に掲載
[右上]Vermeer『ディアナとニンフ達』1655-56年頃
[左下]Vermeer『小路』1658-60年頃
[中下]Vermeer『ワイングラスを持つ娘』1659-60年頃
[右下]Vermeer『リュートを調弦する女』1663-65年頃
[08][左上]Vermeer『手紙を書く婦人と召使い』1670年頃
[右上]Vermeer『ヴァージナル(注)の前に座る若い女』1670年頃
(注)ヴァージナル(virginal):チェンバロと同じアクション(=鍵盤を押すとハンマーが弦を打つというピアノの仕組み)を持つ小型撥弦鍵盤楽器
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/11/26-021026351106.html
[08][左下]Vermeer『地理学者』1669年‥2011年06.11-08.28《会報》【0347】に掲載←2011.06.24【2637の会 0347】豊田市美術館
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/06/26-03470619-572.html
2011年07月以降に見たフェルメールの作品は、以下の通り‥
続いては、掲題・副題にあります様に07月05日に仕事で上京した帰途、山種美術館『福田平八郎と日本画モダン』展&東京都美術館『マウリッツハイス美術館 オランダ・フランドル絵画の至宝』展&国立西洋美術館『ベルリン国立美術館 学べるヨーロッパ美術の400年』展と、3つの絵画展覧会を移動時間を含め3時間程、矢継早に見て来ましたので夫々簡単にご紹介させて頂きます
[08][中下]Vermeer『真珠の耳飾りの少女』1665年←2012.07.14【2637の会 0402】東京都美術館
↓ ↓ ↓
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[08][右下]ヨハネス・フェルメール『天文学者(L'astronome ouL'astrologue)』1668年←2015年3月14日(土)【時習26回3-7の会0539】国立新美術館『ルーヴル美術館』展
2019年1月24日(木)【時習26回3-7の会 0741】~
http://si8864.blogspot.com/2019/01/26-0741-35501190123.html?m=1
[09][左上]上野の森美術館『ヨハネス・フェルメール』展看板前にて1
[右上]同上2
[左下]ワイングラス(The Wine Glass)1661‐1662年頃
[右下]リュートを調弦する女(Woman with a Lute)1662-1663年頃‥(2回目)
15時00分~16時30分の時間指定の事前予約制だった
だから15時00分少し前に行けば大丈夫だと思ったことが間違いであることが美術館に到着して解った
何と15時00分からの事前予約者が100m以上も並んでいるのだった
とは言え、15時15分には入館出来てホッとした
『ヨハネス・フェルメール(蘭:Johannes Vermeer 1632.10.31?-1675.12.15?)』展は前から期待していた
期待に違わなぬ名画を堪能出来て嬉しかった
全世界に30数点しかない フェルメールの作品を一挙 9点見られることは本当に有難いことである
[10][左上]マルタとマリアの家のキリスト(Christ in the House of Martha and Mary)1654-1655年頃
[右上]牛乳を注ぐ女(The Milkmaid)1658-1660年頃‥(2回目)
[左下]真珠の首飾りの女(Woman with a Pearl Necklace)1662-1665年頃‥(2回目)
[右下]手紙を書く女(A Lady Writing)1665年頃‥(2回目)
[11][左]手紙を書く婦人と召使い(Woman Writing a Letter, with Her Maid)1670-1671年頃‥(2回目)
[右上]取り持ち女 1656年
[右中]赤い帽子の娘 1665-66年
(注)上記[10][11]の作品のうち、(2回目)は今回で2回目の鑑賞となる作品
2019年1月23日現在、小生はフェルメールの絵画作品を累計18点見ている
15時40分 上野の森美術館発
[11][右下]豊田市美術館『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』看板前にて〜2011.06.24
※ ※ ※ ※ ※
09:35 京都美術館発〔徒歩800mにて東山南禅寺へ〕
京都市美術館を後にした我等が次に向かったのが、美術館の東方約800mの所にある『南禅寺』である
小生にとっては、昭和49年以来37年ぶりの再訪であった
当時は、夕暮れ近くでおカネもなかったので境内の中を歩いただけだった
『南禅寺』は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院で、寺格は京都五山(1.天龍寺2.相国寺3.建仁寺4.東福寺5.萬壽寺)及び鎌倉五山(1.建長寺2.圓覚寺3.壽福寺4.浄智寺5.浄妙寺)の別格上位とされる
開基:亀山法皇。開山:大明国師。1291年創建
【小生comment】
美術館から南禅寺迄徒歩にしたのは、駐車場に駐車出来るか不安だったからであるがこの日に限っては杞憂だった
駐車場がガラ空きなのである。南禅院の受付で訊いて見て合点が行った。実は、この(17)日は「祇園祭の山鉾巡行」だったのである
09:50 金地院着〔拝観:@400円、方丈(本堂)・庭園(特別名勝「鶴亀の庭」)・東照宮拝観〕
【金地院】
1611(慶長16)年、「黒衣の宰相」と言われた、徳川家康の brain 以心(金地院)崇伝(1559-1633.02.28)によって現在地に移転され、今日に至る
此処の「鶴亀の庭」は、崇伝が徳川家光の為に作らせた
小堀遠州が作庭(遠州作の確証資料がある唯一の庭園として有名)
桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園
此の庭園は、現在日本に36ある「特別名勝」の一つ
[12][左上]金地院 入口前にて
[左下]同『鶴亀の庭』
10:40 南禅院着〔拝観:@300円、庭園〕& 琵琶湖疎水『水路閣』を観る
【南禅院】
[12][右上]南禅院庭園
【琵琶湖疏水『水路閣』】
歴史を感じさせ、趣があっていい
[12][右中]琵琶湖疏水『水路閣』
10:58 南禅寺・方丈着〔拝観:@500円、方丈・法堂・方丈庭園〕
【南禅寺『方丈庭園』】
[12][右下]南禅寺『方丈庭園』
05:00 拙宅発→ 05:25 中嶋宅→〔東名高速〕→ 08:35 京都・岡崎公園地下駐車場→ 08:40 京都市美術館着
【京都市美術館『フェルメールからの love letter』展】 今回は、フェルメール(Johannes Vermeer,1632-1675年)の作品3点が珠玉である。
[06][左上]京都市美術館前にて
[右上]Vermeer『手紙を読む青衣の女』1663-64年
[左下]Vermeer『手紙を書く女』1665年頃
[中下]Vermeer『手紙を書く女と召使い1670年頃
《余談》【小生の見たフェルメールの作品】
小生、これ迄〔2011年07月17日時点〕に4回に亘りVermeer の作品を見ている
全世界に現存する作品が三十数点しかないと言われる Vermeer 作品の三分の一近くを、遡ること僅か4年間に国内に居乍らにして見られる幸せを実感し、そういう力ある国である祖国日本に感謝する
[06][右下]Vermeer『ミルクを注ぐ女』1658-60年‥2007.12.05.国立新美術館《会報》【時習26回3-7の会 0139(3-3)】
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[07][左上]Vermeer『マルタとマリアの家のキリスト』1655年頃‥2008.11月.06 東京都美術館 2011.11.08付【時習26回3-7の会0210】に掲載
[右上]Vermeer『ディアナとニンフ達』1655-56年頃
[左下]Vermeer『小路』1658-60年頃
[中下]Vermeer『ワイングラスを持つ娘』1659-60年頃
[右下]Vermeer『リュートを調弦する女』1663-65年頃
[08][左上]Vermeer『手紙を書く婦人と召使い』1670年頃
[右上]Vermeer『ヴァージナル(注)の前に座る若い女』1670年頃
(注)ヴァージナル(virginal):チェンバロと同じアクション(=鍵盤を押すとハンマーが弦を打つというピアノの仕組み)を持つ小型撥弦鍵盤楽器
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[08][左下]Vermeer『地理学者』1669年‥2011年06.11-08.28《会報》【0347】に掲載←2011.06.24【2637の会 0347】豊田市美術館
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2011年07月以降に見たフェルメールの作品は、以下の通り‥
続いては、掲題・副題にあります様に07月05日に仕事で上京した帰途、山種美術館『福田平八郎と日本画モダン』展&東京都美術館『マウリッツハイス美術館 オランダ・フランドル絵画の至宝』展&国立西洋美術館『ベルリン国立美術館 学べるヨーロッパ美術の400年』展と、3つの絵画展覧会を移動時間を含め3時間程、矢継早に見て来ましたので夫々簡単にご紹介させて頂きます
次に訪れたのが、上野にある改装なった東京都美術館
06月30日から09月17日迄開催中のマウリッツハイス美術館 オランダ・フランドル絵画の至宝』展[08][中下]Vermeer『真珠の耳飾りの少女』1665年←2012.07.14【2637の会 0402】東京都美術館
↓ ↓ ↓
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本展覧会の超目玉は、Vermeer『真珠の耳飾りの少女(別称:青いturbanの少女)』である
[08][右下]ヨハネス・フェルメール『天文学者(L'astronome ouL'astrologue)』1668年←2015年3月14日(土)【時習26回3-7の会0539】国立新美術館『ルーヴル美術館』展
2019年1月24日(木)【時習26回3-7の会 0741】~
《追補》【上野の森美術館『フェルメール』展】
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[09][左上]上野の森美術館『ヨハネス・フェルメール』展看板前にて1
[右上]同上2
[左下]ワイングラス(The Wine Glass)1661‐1662年頃
[右下]リュートを調弦する女(Woman with a Lute)1662-1663年頃‥(2回目)
15時00分~16時30分の時間指定の事前予約制だった
だから15時00分少し前に行けば大丈夫だと思ったことが間違いであることが美術館に到着して解った
何と15時00分からの事前予約者が100m以上も並んでいるのだった
とは言え、15時15分には入館出来てホッとした
『ヨハネス・フェルメール(蘭:Johannes Vermeer 1632.10.31?-1675.12.15?)』展は前から期待していた
期待に違わなぬ名画を堪能出来て嬉しかった
全世界に30数点しかない フェルメールの作品を一挙 9点見られることは本当に有難いことである
[10][左上]マルタとマリアの家のキリスト(Christ in the House of Martha and Mary)1654-1655年頃
[右上]牛乳を注ぐ女(The Milkmaid)1658-1660年頃‥(2回目)
[左下]真珠の首飾りの女(Woman with a Pearl Necklace)1662-1665年頃‥(2回目)
[右下]手紙を書く女(A Lady Writing)1665年頃‥(2回目)
[11][左]手紙を書く婦人と召使い(Woman Writing a Letter, with Her Maid)1670-1671年頃‥(2回目)
[右上]取り持ち女 1656年
[右中]赤い帽子の娘 1665-66年
(注)上記[10][11]の作品のうち、(2回目)は今回で2回目の鑑賞となる作品
2019年1月23日現在、小生はフェルメールの絵画作品を累計18点見ている
15時40分 上野の森美術館発
[11][右下]豊田市美術館『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』看板前にて〜2011.06.24
※ ※ ※ ※ ※
09:35 京都美術館発〔徒歩800mにて東山南禅寺へ〕
京都市美術館を後にした我等が次に向かったのが、美術館の東方約800mの所にある『南禅寺』である
小生にとっては、昭和49年以来37年ぶりの再訪であった
当時は、夕暮れ近くでおカネもなかったので境内の中を歩いただけだった
『南禅寺』は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院で、寺格は京都五山(1.天龍寺2.相国寺3.建仁寺4.東福寺5.萬壽寺)及び鎌倉五山(1.建長寺2.圓覚寺3.壽福寺4.浄智寺5.浄妙寺)の別格上位とされる
開基:亀山法皇。開山:大明国師。1291年創建
【小生comment】
美術館から南禅寺迄徒歩にしたのは、駐車場に駐車出来るか不安だったからであるがこの日に限っては杞憂だった
駐車場がガラ空きなのである。南禅院の受付で訊いて見て合点が行った。実は、この(17)日は「祇園祭の山鉾巡行」だったのである
09:50 金地院着〔拝観:@400円、方丈(本堂)・庭園(特別名勝「鶴亀の庭」)・東照宮拝観〕
【金地院】
南禅寺関連で最初に訪ねたのは『金地院』
応永年間(1394-1428年)に室町幕府4代将軍足利義持が開基、大業徳基を開山として洛北・鷹ヶ峯に創建1611(慶長16)年、「黒衣の宰相」と言われた、徳川家康の brain 以心(金地院)崇伝(1559-1633.02.28)によって現在地に移転され、今日に至る
此処の「鶴亀の庭」は、崇伝が徳川家光の為に作らせた
小堀遠州が作庭(遠州作の確証資料がある唯一の庭園として有名)
桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園
此の庭園は、現在日本に36ある「特別名勝」の一つ
[12][左上]金地院 入口前にて
10:40 南禅院着〔拝観:@300円、庭園〕& 琵琶湖疎水『水路閣』を観る
【南禅院】
次に向かったのが『南禅院』。ここが「南禅寺」の発祥の地。「南禅院庭園」は、夢窓国師の作庭と伝えられる
[12][右上]南禅院庭園
【琵琶湖疏水『水路閣』】
赤煉瓦の arch を思わせる疏水の道
明治初年、逢坂山と東山に穴を開け琵琶湖の水を京都に引き入れた水の道である歴史を感じさせ、趣があっていい
[12][右中]琵琶湖疏水『水路閣』
10:58 南禅寺・方丈着〔拝観:@500円、方丈・法堂・方丈庭園〕
【南禅寺『方丈庭園』】
禅院式枯山水庭園で、小堀遠州作庭と言われ、巨石の姿から「虎の児渡し」と呼ばれる。借景の山並みとよく調和して品格もある
[12][右下]南禅寺『方丈庭園』
11:25 南禅寺・三門着〔拝観:@500円、楼閣に登り京都市内遠望〕
【南禅寺『三門』】
急な階段を登るとそこが楼上、京都市街を遠望出来る
青い目の若い外人青年が流暢な日本語で「お二人の写真撮りましょうか?」と言ってくれて撮って貰ったのが以下の two shot
[13][左上]南禅寺 三門より京都市内遠望を back に‥
南禅寺だけで、拝観料は4件@1,700円となる‥「ウ~ム、高い!」(笑)
11:35 南禅寺発 徒歩で岡崎公園近くにある「グルメ・ナビで調べたラーメン店『一番星』」へ
11:55 昼食〔チャーシューメン大盛 @750円〕‥ soup が美味だった
12:45 昼食後、車で講演会会場の京都大学百周年時計台記念館近くにある京大病院の喫茶cornerにて時間調整
14:10 京都大学百周年時計台記念館着
14:30~16:30 鈴木章北大名誉教授記念講演「ノーベル化学賞を受賞して」を受講
【『鈴木章 Nobel 化学賞受賞記念講演』を聴いて】
[13][左下]京都大学 鈴木章Nobel化学賞受賞記念講演会 poster
[右上]同 百周年時計台記念館前にて
鈴木先生の講演内容の概略を記すと大凡以下の通り
〔1〕最初は、鈴木先生が Nobel 賞を受賞する迄の経緯と、Stockholm での受賞式典の模様等を説明された
〔2〕講演の main は、鈴木先生が受賞された「Suzuki coupling」の中身について、ご本人は「ごく簡単に説明する」と仰っていたのだが、門外漢の小生にはチンプンカンプンであったが‥
素人の浅薄な理解でごく簡単に『鈴木coupling』について言うと‥、
それまで反応が遅く生成率も低かった有機ホウ素化合物を「鈴木coupling」反応によって、大幅に反応速度の迅速化と生成率向上が実現した
此れにより多くの天然物合成に応用され、血液降下薬や農薬の製造に採用されているという
因みに、鈴木先生の「鈴木反応」は特許を取っていないという
‥であるから、先生の研究成果が、世界中で研究・実用化され高い評価を得られたとも言える
〔3〕最後の30分の質疑応答の時間で、先生はとくに聴講に来た若人へ向けてこう述べられた
【南禅寺『三門』】
この三門は、1628(寛永05)年、藤堂高虎が大坂夏の陣の戦没者慰霊の為寄進建立したもの
歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で、石川五右衛門が楼上から「絶景かな、絶景かな、春の詠(なが)めは価(あたい)千金とは小さな例え、この五右衛門の目からは万両‥」と口上を述べる舞台として著名な楼門である急な階段を登るとそこが楼上、京都市街を遠望出来る
青い目の若い外人青年が流暢な日本語で「お二人の写真撮りましょうか?」と言ってくれて撮って貰ったのが以下の two shot
[13][左上]南禅寺 三門より京都市内遠望を back に‥
南禅寺だけで、拝観料は4件@1,700円となる‥「ウ~ム、高い!」(笑)
11:35 南禅寺発 徒歩で岡崎公園近くにある「グルメ・ナビで調べたラーメン店『一番星』」へ
11:55 昼食〔チャーシューメン大盛 @750円〕‥ soup が美味だった
12:45 昼食後、車で講演会会場の京都大学百周年時計台記念館近くにある京大病院の喫茶cornerにて時間調整
14:10 京都大学百周年時計台記念館着
14:30~16:30 鈴木章北大名誉教授記念講演「ノーベル化学賞を受賞して」を受講
【『鈴木章 Nobel 化学賞受賞記念講演』を聴いて】
[13][左下]京都大学 鈴木章Nobel化学賞受賞記念講演会 poster
[右上]同 百周年時計台記念館前にて
鈴木先生の講演内容の概略を記すと大凡以下の通り
〔1〕最初は、鈴木先生が Nobel 賞を受賞する迄の経緯と、Stockholm での受賞式典の模様等を説明された
〔2〕講演の main は、鈴木先生が受賞された「Suzuki coupling」の中身について、ご本人は「ごく簡単に説明する」と仰っていたのだが、門外漢の小生にはチンプンカンプンであったが‥
素人の浅薄な理解でごく簡単に『鈴木coupling』について言うと‥、
それまで反応が遅く生成率も低かった有機ホウ素化合物を「鈴木coupling」反応によって、大幅に反応速度の迅速化と生成率向上が実現した
此れにより多くの天然物合成に応用され、血液降下薬や農薬の製造に採用されているという
因みに、鈴木先生の「鈴木反応」は特許を取っていないという
‥であるから、先生の研究成果が、世界中で研究・実用化され高い評価を得られたとも言える
〔3〕最後の30分の質疑応答の時間で、先生はとくに聴講に来た若人へ向けてこう述べられた
「
日本の歴史は2000年を超えている
私は80歳だけれど、君らとの50歳の違いは日本の歴史から見ればほんの僅かな時間でしかない
私が大学生の頃は戦後間もなくの時代。生きていくことが大変きつい時代だった
あの時代に比べれば、今の日本は大変だと言われるが、まだまだ大丈夫だよ
私が研究者として advice すると「独創的な研究をやれ! 重箱の隅をつつく様な研究ではダメだ
教科書に載る様な仕事をやれ」
確かに大変だが、独創的な仕事をして立派な業績を挙げて欲しい
そして、「自分が何をやるかは、自分で決める」だ
資源のない我国日本は、科学技術とか高付加価値を創造することが重要だ 」
【小生comment】
最後の先生の comment は大変よく解った
「日本が生き残って行くためには、我々が頭を使って高い技術力を創造(create)する」
これしかない!
16:45 講演終了後、駐車場の京大病院へ、そして宿泊場所の大津プリンスホテルへ
17:53 大津ブリンスホテル着、そして check in
[13][右中]大津プリンスホテル36階 restaurant「清水」での中嶋君
[右下]同所から琵琶湖・湖北遠望
00:30 就寝
【小生comment】
兎に角暑かった / 17日京都の最高気温は35.7度Cを記録
京都市美術館や京大病院、京大講堂(記念館)の中は冷房が効き涼しかったが、美術館→南禅寺→岡崎公園地下駐車場、京大病院と京大講堂の往復の「徒歩」は無茶苦茶暑くて堪らなかった(笑)
大津プリンスホテルは、琵琶湖の眺望も素晴らしく食事も良かった
しかし、この hotel には大浴場がない
卒業記念旅行参加者は、相部屋で宿泊するので、各個室の風呂を順番に使用することとなり不便である
同窓会用の宿泊場所としては不適格であるとの結論に達した
琵琶湖の夜景は本当に綺麗だった
【前書】琵琶湖の鳥と言えば「カイツブリ」「鳰(にお)」
琵琶湖は昔から「鳰の海」とも呼ばれている‥
鳰(にほ)の海 君と語らふ 大暑の夜(よ)
【時習26回3-7の会 0352】~〔前略〕「07月18日:京都、洛北・洛西の5つの寺院を巡って」
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/26-035207290718.html
■さて、前日07月17日(日)に続いて、中嶋Y行君との京都旅行の二日目〔18日〕の模様をお伝えする
【旅行第二日目18(祝月)】
06:00 起床→ 06:30 朝食→ 08:00 大津ブリンスホテル発→ 09:05 大徳寺駐車場〔車25台@100円/30分〕
09:15 大徳寺高桐院着〔拝観@400円〕
【大徳寺高桐院】
[14][左上]高桐院 参道にて中嶋君
[左下]同 本堂から庭園を望む
[右上]同 細川忠興(三斎)&ガラシャ夫人の墓〔石灯籠〕
大徳寺の塔頭の一つである「高桐院」は、小生これで4回目の訪問となる
最初がやはり37年前の昭和49年06月
大徳寺の塔頭の中でも『大仙院』が、高校の日本史でも必ず出て来る代表的な枯山水庭園の名所である
が、小生個人的には高桐院の方が好きである
玄関への長い石畳の参道や客殿(本堂)から望む庭園が、初夏には新緑の、晩秋には真っ赤に紅葉した楓に彩られて本当に美しい
当院は、細川藤孝(幽斎)の長男忠興(三斎)により1601(慶長06)年に建立
庭の一角には三斎とガラシャ夫人の墓所〔石灯籠〕がある
ガラシャ夫人と言えば、細川護煕氏が首相辞任の際、引用したことでも有名な辞世の歌がある
散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
細川ガラシャ〔享年38歳〕
09:50 高桐院発
10:20 龍安寺着〔拝観@500円/駐車100台@1時間無料〕
【龍安寺】〔臨済宗・妙心寺派〕
[14][右中]龍安寺 石庭
[右下]同 石庭を back に
次に向かったのは龍安寺 / 此処は、史跡・特別名勝「方丈庭園、所謂『龍安寺の石庭』」が著名
幅22m、奥行10mの敷地に帚(ほうき)目を付けた白砂に15個の石を5箇所に配置した simple な庭園
作庭年代、表現意図共に定かでないが、室町時代末期に優れた禅僧の作庭と伝えられる
此処で「龍安寺」という前書のある名句を一句ご紹介する
寺院の大庇(おおひさし)と蝶の「大・小」、大庇の高みから庭へ舞い降りて来る蝶の「上(→)下」移動、方丈の大庇と舞う蝶の「静・動」。これ等の contrast が秀逸である
実に絵画的な作品である。添付した「龍安寺の石庭」を見乍ら、大庇から石庭へ舞い降りて来る蝶を想像してみて下さい‥「ほらっ、そこに蝶々が‥」
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
10:55 龍安寺発
【仁和寺】〔真言宗・御室(おむろ)派総本山〕
〔勿論、仁和寺に居た僧侶が出かけた先は『石清水八幡宮』であるが‥(笑)〕
そして次に思い浮かべるのは、『宇多天皇(867-931(在位:886-897)年)』
仁和寺の創建は888年で、開基が宇多天皇
宇多天皇は、一度臣籍降下したが藤原基経の計らいで天皇となった
『阿衡(あこう)事件※』で勅書を改作させられた関白藤原基経が死去した891年以降、宇多天皇が親政した寛平年間(889-898年)の政治を理想化し『寛平(かんぴょう)の治』と呼ぶ
基経の死後、宇多天皇は菅原道真を重用。894年道真が遣唐使廃止したことは有名
『阿衡事件』とは、宇多天皇即位後、藤原基経を関白とした時の勅書に「宜以阿衡之任為卿之任」とあったので、基経は、「阿衡は地位だけで職務がない」と言いがかりをつけ、天皇が勅書を改作させられた事件
「金堂」は、1613(慶長18)年建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624-44年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として重要
[15][左上]仁和寺【国宝】金堂
[右上]同 中門にて仁王門を back に
【妙心寺・退蔵院】
退蔵院には、画聖「狩野元信」作庭の方丈庭園(枯山水庭園)と、昭和40年に中野金作作庭の池泉式庭園「余香苑」があるが、いずれも典雅で見る者を魅了する
[15][左下]妙心寺【国宝】『瓢鮎(ひょうねん)図』
[中下]同『退蔵院』門前にて
【広隆寺】
念願叶って初めて拝顔したが、実に美しい半跏思惟像〔=左脚を垂れ、右脚を屈げ左の膝頭に乗せて腰をかけ、右手を頬の辺りに挙げて思考に耽る姿〕である
以前、法隆寺の中宮寺・弥勒菩薩は見たことがある
さて、皆さんはどちらの弥勒菩薩の fan ですか? 小生は『‥ヒ・ミ・ツ‥』です(笑)
車で行って初めて判ったことだが、広隆寺は、正に太秦の映画村の隣りに立地する。
[15][右下]広隆寺【国宝】弥勒菩薩像
11:07 仁和寺前〔駐車500円(時間無制限)〕
11:10~11:50 仁和寺〔境内を散策:仁王門、国宝・金堂、五重塔〕
11:40 仁和寺発 / 南東へ約700m徒歩にて妙心寺北総門へ向かう。
11:50 妙心寺北総門から更に徒歩で南へ400~500m歩く
11:57 妙心寺退蔵院着〔拝観:@500円/駐車料金無料〕~元信の庭園、瓢鮎図~
12:20 妙心寺発
再び徒歩で仁和寺の駐車場迄歩く
12:40 仁和寺駐車場発
13:05 広隆寺着〔拝観@700円/駐車料金無料〕~国宝・弥勒菩薩~
13:30 広隆寺発〔→帰途へ、刈谷SAにて小休止、夕食を〕→ 17:30 中嶋宅着→ 18:00 拙宅着
【小生comment】
二日目は大津プリンスホテルを出発した頃から雲行きが怪しくなり、大徳寺に着いた頃には雨となった
前日の天候と違い雨天なのだが、湿気が多くとにかく暑かった
車の中はエアコンが効いて涼しいのだが、車から出て歩くと直ぐに汗が噴き出て来るのには閉口した
右京区にある龍安寺・仁和寺・妙心寺周辺は、37年前、中嶋君が大学教養部時代に下宿していた場所である
龍安寺の鏡容池の周りを散策している辺りから中嶋君が俄然雄弁になった
昔日の青春時代、勉学に勤しんだ頃の懐かしい思い出が、彼の脳裏を走馬灯の様に駆け巡っているのを感じ取ることが出来た
彼曰く、「昔、よくここを散歩したよ
石庭は数回しか見ていないが、寺の境内は週に何回も散歩したんだ」
仁和寺から妙心寺へ向かう道すがらでは、狭い路地を横切った際、また曰く、
「確かここを曲がるとクリーニング屋があったんだが‥ / あーっ、まだあるよー!」
妙心寺は46もの塔頭がある大寺院だが、北総門から南総門に程近い退蔵院迄の境内数百米を歩き乍ら曰く、「バイトで家庭教師していた時、いつもここを歩いたんだ。でも退蔵院に入ったことはなかったなぁ」
37年前、小生も彼の下宿に一週間以上泊めて貰った時の懐かしい想い出の断片が頭の中を去来した
小生にとっても、龍安寺・仁和寺・妙心寺いずれも37年ぶりの再訪である。実に懐しかった
■今日最後の話題は、2015年07月20日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第10回〕『【2】月山 ・【3】湯殿山』を up したのでご覧頂きたい。
2015年7月23日(木)付【時習26回3-7の会0558】~〔前略〕「『奥の細道』第10回‥【出羽三山〔羽黒山・月山・湯殿山〕】~【2】月山 ・【3】湯殿山」
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/2605582637710-0.html
今回は、翌五月二十八日からの話である。
元禄二(1689)年 五月二十七日( 同 07月13日)立石寺の宿坊にて1泊した芭蕉一行は、翌28日大石田へ
以下の行程は、〔中略〕再掲し、一部補足する
同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
→・芭蕉は、大石田滞在中に地元俳人達から所望され「五月雨『歌仙』」を興行、その模様を前回ご紹介した『最上川』の前半で記している
今回は、『出羽三山』から《後編》の【2】月山と【3】湯殿山をお届けする。
[16][左]芭蕉・曾良の「尾花沢」→「立石寺」→「最上川」→「羽黒山・月山・湯殿山」行程map
[右上]月山1
[右中]月山2
[右下]湯殿山
【出羽三山】
八日、月山にのぼる。
木綿(ゆふ)しめ(注1)身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)(注2)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(がうりき)(注3)と云(いふ)ものに道びかれて、雲霧(うんむ)(注4)山気(さんき)(注5)の中に氷雪(注6)を踏(ふみ)てのぼる事八里(注7)、更に日月(にちぐわつ=じつげつ)行道(ぎやうだう)の雲関(うんくわん)に入(いる)(注8)かとあやしまれ、息絶(たえ)身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待(まつ)。
日出(いで)て雲消(きゆ)れば湯殿に下(くだ)る(注9)。
《現代語訳》
【2】月山
八日(1689年07月24日)、月山に登る。
木綿注連(ゆふしめ)(注1)を首に掛け、宝冠(注2)に頭を包み、強力(注3)という者に先導されて、雲や霧(注4)立ち込めて冷え冷えとした(注5)中を、氷雪(注6)を踏んで八里(注7)ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲間の関所に入って仕舞うかと思う程の山の中に分け入り、息絶え絶えに、身体も冷え切って頂上に到着すると、丁度日も暮れ、月が現れた。
笹を敷き、篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待った。
朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った(注9)。
(注1)木綿注連(ゆうしめ):「注連(しめ)」は不浄を祓う意味のもの/羽黒山では、コヨリか白布で編んだ紐で輪状の注連を作り首にかける / 月山に登る者は、登山前の潔斎(けつさい(後述))中から下山迄、「木綿注連」を修験袈裟(けさ)として掛けるのが習わしであった
(注2)宝冠(ほうかん):頭を包んで巻く白木綿、山伏頭巾の一種
(注3)強力(ごうりき):修験者の弟子で、登拝者の案内や荷物運びをする男
(注4)雲霧(うんむ):山中に発生する靄(もや)・濃霧
(注5)山気(さんき):山中に籠る冷気
(注6)氷雪:氷の様に硬くなった雪
(注7)のぼる事八里:実際は5里20町(=21.8km)程の距離(因みに、1里=3,927.3m/1町(丁)=109.09m)
(注8)日月行道(じつげつ(=にちがつ)ぎょうどう)に入(いる):「日月行道」は太陽や月の通い路にある雲間の関所のこと、雲が掛る高い山に登る様をいう
(注9)湯殿に下(くだ)る:月山山頂より湯殿山神社迄、徒歩約2時間程(約8.5km)かかる
《原文》
【3】湯殿山
谷の傍(かたはら)に鍛治(かぢ)小屋(注1)と云(いふ)有(あり)。
此国の鍛治、霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て爰(ここ)に潔斎(けつさい)(注2)して劔(=剣)を打(うち)、終(つひに)「月山」と銘を切(きつ)て(注3)世に賞せらる。
彼(かの)龍泉(りようせん)(注4)に剣を淬(にらぐ)(注5)とかや。
干将(かんしゃやう)・莫耶(ばくや)のむかし(注6)をしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しふ)(注7)あさからぬ事しられたり。
岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくら(注8)の花の心わりなし(注9)。
炎天の梅花(注10)爰(ここ)にかほるがごとし。
行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ)(注11)も爰(ここ)に思ひ出(いで)て、猶まさりて覚ゆ(注12)。
惣而(そうじて)此(この)山中の微細(みさい)、行者(ぎやうじや)の法式として他言する事を禁ず。
仍(よつ)て筆をとゞめて記さず。
坊に帰れば、阿闍利の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼の句々短冊に書(かく)。
涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峯幾つ崩(くずれ)て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良
《現代語訳》
【3】湯殿山
湯殿山に下る谷の片隅に鍛冶小屋(注1)というのがある。
出羽国の刀鍛冶(=月山)が、霊験灼(あら)たかな水を探し出して此処で身を清め穢れを祓い(注2)剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻み(注3)世の中で高く評価された。
これは、中国のかの龍泉の水(注4)で鍛錬した(注5)という謂れに通じるものだろうか。
その昔、名剣を作り上げた「干将と妻の莫耶の故事(注6)」を慕うものである。
その道に熟達した技を身につけた(注7)者の、その道への執心が一通りでないことがよく解るのであった。
岩に腰かけて暫く休んでいると、三尺ばかりの桜が、蕾(つぼみ)を半分程開きかけているのを見つけた。
降り積もった雪の下に埋まり乍らも、春の到来を忘れずに花を開こうとする遅ざくら(注8)の花の心は実に殊勝である(注9)。
所謂「炎天の梅花(注10)」が、此処に花の香を放っている様である。
行尊僧正の「もろともにあはれと思へ山桜‥」と詠んだ趣深い歌(注11)も思い出され、一層沁み々々と情緒深く感じられた(注12)。
一般に、湯殿山中の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。
従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。
南谷の宿坊に帰ると、阿闍梨の求めに応じて、出羽三山順礼の発句を短冊に書いた。
【意】[説1] 如何にも涼しく快いことだ
‥ 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を(南谷の坊から)見ていると
[説2] 同上
‥ 三日月が鬱蒼とした木立の隙間から仄かに見える(この羽黒山の山中に)居ると
季語:涼しさ=夏
其の賽銭を踏みつつお参りに上がると、思わず有難い気持ちで涙が零(こぼ)れるのである
季語:湯殿行=夏
(注1)鍛治(かぢ)小屋:月山山頂から300m程下った所にあった行者小屋
此処で刀鍛冶「月山」が名剣『月山』を鍛え造ったと伝えられる
芭蕉が訪ねた時、其処は修験者の宿泊小屋になっていた
(注2)潔斎(けつさい):水浴に拠り穢れをとる神事
(注3)銘を切る:刀剣の製作者の名を刀身の柄に刻み込むこと
(注4)彼(かの)龍泉(りようせん):「彼の」=世間によく知られているの意
龍泉:中国湖南省汝南郡西平県にあったという、刀剣を鍛えるに適した水の出る泉
(注5)淬(にらぐ):刀剣を鍛える時、刀身を焼いて水に入れ鋼(はがね)の質を硬くすること
(注6)干将(かんしゃう)・莫耶(ばくや)のむかし:古代中国「周」の時代の刀鍛冶「干将」とその妻「莫耶」の故事 /『太平記』巻13「兵部卿(ノ)宮(=護良(もりよしorもりなが)親王(1308-35))薨御(ノ)事(ニ)付(キ)干将莫耶(ガ)事」に由来する / 護良親王は、1334年冬、父 後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕えられ、身柄を鎌倉将軍府にあった足利直義の監視下に置かれた / 翌1335年 北条時行の中先代の乱が起きると、時行に奉じられると懸念した直義の命を受けた淵辺(ふちべ)義博(?-1335)により殺害された / (尚、北条時行(?-1352)は鎌倉第14代執権北条高時の次男) / 義博は牢の中で護良親王を殺害する際に、刀の鋒(ほこさき)を噛み折られる等苦戦する / 牢外へ出て首をみると、生きた様に両眼を見開き睨みつけるので、義博は「中国の干将・莫耶の故事」を踏まえ、近くの藪の中に首を打ち捨てた
「楚王は、夫人が産んだ鉄丸を「金鉄の精霊」と思い、刀鍛冶「干将」にこの鉄で宝剣の作成を命じた / 干将は、妻の莫耶と共に呉山に行き「龍泉の水」に入れ鍛えて、3年の内に雌雄2振りの剣を完成 / 完成した剣を見た莫耶は干将に /「これは怨敵を滅ぼす聖霊が宿る剣の様だ / 丁度いま私は妊娠したが、生まれる子供はきっと激しく勇敢な男に違いない / 故に、2振りの剣のうち1振りは隠し置いて我子に与えて欲しい」と頼み、干将も莫耶の願いを聞き入れ1振りを隠し置いた / 後日、もう1振りの剣が隠されていることを知った楚王は激怒し、干将を出頭させ、彼の首を刎ねた / 莫耶が出産した子は、その名を眉間尺という / 眉間尺は居丈高に育ち、15歳の時父が隠し置いた剣を手にすると、楚王を討ち取ることを誓い、紆余曲折を経て果たした」
(注7)堪能(かんのう)の執(しふ):「堪能」=深く物事に達して上手なこと、又、その人/「執」=物事を遣り遂げようとする心
(注8)遅ざくら:月山の桜は、高山植物タカネザクラ(俗称:タケザクラ)/芭蕉が見た時は丁度その開花時期であった
(注9)わりなし:殊勝である/健気(けなげ)である
(注10)炎天の梅花:『禅林句集』所載の「雪裏(せつり)(ノ)芭蕉摩詰(まきつ)(ガ)画/炎天(ノ)梅蕊(ばいずい)簡斎詩」に拠る /「摩詰」=唐の官僚・詩人・南画の祖と言われるの王維(699-759)/「簡斎」=南宋代の官僚・詩人、陳与義(1091-1139) /「雪裏ノ芭蕉」「炎天ノ梅蕊(=梅花のこと)」共に現実には有り得ない情景で、「実際に有り得ない」→「季節に囚われない」ことを述べている
(注11)行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ):「行尊(1055-1135)」=天台宗寺門派の僧・歌人 / 平等院大僧正 / 三条天皇の曾孫 / 1123年 天台座主 / 1125大僧正 /「哥の哀」は、『金曜和歌集』(1124年頃)雑 556〔小倉百人一首66番〕
【詞書】大峰(おおみね)にて思ひかけず桜の花を見て詠める
もろともに あはれと思へ 山桜 花より外(ほか)に 知る人もなし 前大僧正行尊
【意】私がお前を愛しく思う様に一緒に愛しいと思っておくれ、山桜ヨ
この山中では山桜花のお前以外に知る人(=心の通い合う人)もいないのだから
(注12)猶まさりて覚ゆ:眼前に見える遅桜から受ける感銘が、行尊の歌を思い重ねることで一層優って感じられる、の意
私は80歳だけれど、君らとの50歳の違いは日本の歴史から見ればほんの僅かな時間でしかない
私が大学生の頃は戦後間もなくの時代。生きていくことが大変きつい時代だった
あの時代に比べれば、今の日本は大変だと言われるが、まだまだ大丈夫だよ
私が研究者として advice すると「独創的な研究をやれ! 重箱の隅をつつく様な研究ではダメだ
教科書に載る様な仕事をやれ」
確かに大変だが、独創的な仕事をして立派な業績を挙げて欲しい
そして、「自分が何をやるかは、自分で決める」だ
資源のない我国日本は、科学技術とか高付加価値を創造することが重要だ 」
【小生comment】
最後の先生の comment は大変よく解った
「日本が生き残って行くためには、我々が頭を使って高い技術力を創造(create)する」
これしかない!
16:45 講演終了後、駐車場の京大病院へ、そして宿泊場所の大津プリンスホテルへ
17:53 大津ブリンスホテル着、そして check in
夕食をとった和食 restaurant「清水(36階)」や、spirits を嗜んだ「sky lounge "The top of
Otsu"(38階)」は眺望も絶景で良かった
[13][右中]大津プリンスホテル36階 restaurant「清水」での中嶋君
[右下]同所から琵琶湖・湖北遠望
00:30 就寝
【小生comment】
兎に角暑かった / 17日京都の最高気温は35.7度Cを記録
京都市美術館や京大病院、京大講堂(記念館)の中は冷房が効き涼しかったが、美術館→南禅寺→岡崎公園地下駐車場、京大病院と京大講堂の往復の「徒歩」は無茶苦茶暑くて堪らなかった(笑)
大津プリンスホテルは、琵琶湖の眺望も素晴らしく食事も良かった
しかし、この hotel には大浴場がない
卒業記念旅行参加者は、相部屋で宿泊するので、各個室の風呂を順番に使用することとなり不便である
同窓会用の宿泊場所としては不適格であるとの結論に達した
琵琶湖の夜景は本当に綺麗だった
【前書】琵琶湖の鳥と言えば「カイツブリ」「鳰(にお)」
琵琶湖は昔から「鳰の海」とも呼ばれている‥
鳰(にほ)の海 君と語らふ 大暑の夜(よ)
【時習26回3-7の会 0352】~〔前略〕「07月18日:京都、洛北・洛西の5つの寺院を巡って」
↓ ↓ ↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/26-035207290718.html
■さて、前日07月17日(日)に続いて、中嶋Y行君との京都旅行の二日目〔18日〕の模様をお伝えする
【旅行第二日目18(祝月)】
06:00 起床→ 06:30 朝食→ 08:00 大津ブリンスホテル発→ 09:05 大徳寺駐車場〔車25台@100円/30分〕
09:15 大徳寺高桐院着〔拝観@400円〕
【大徳寺高桐院】
[14][左上]高桐院 参道にて中嶋君
[左下]同 本堂から庭園を望む
大徳寺の塔頭の一つである「高桐院」は、小生これで4回目の訪問となる
最初がやはり37年前の昭和49年06月
大徳寺の塔頭の中でも『大仙院』が、高校の日本史でも必ず出て来る代表的な枯山水庭園の名所である
が、小生個人的には高桐院の方が好きである
玄関への長い石畳の参道や客殿(本堂)から望む庭園が、初夏には新緑の、晩秋には真っ赤に紅葉した楓に彩られて本当に美しい
当院は、細川藤孝(幽斎)の長男忠興(三斎)により1601(慶長06)年に建立
庭の一角には三斎とガラシャ夫人の墓所〔石灯籠〕がある
ガラシャ夫人と言えば、細川護煕氏が首相辞任の際、引用したことでも有名な辞世の歌がある
散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
細川ガラシャ〔享年38歳〕
09:50 高桐院発
10:20 龍安寺着〔拝観@500円/駐車100台@1時間無料〕
【龍安寺】〔臨済宗・妙心寺派〕
[14][右中]龍安寺 石庭
[右下]同 石庭を back に
次に向かったのは龍安寺 / 此処は、史跡・特別名勝「方丈庭園、所謂『龍安寺の石庭』」が著名
幅22m、奥行10mの敷地に帚(ほうき)目を付けた白砂に15個の石を5箇所に配置した simple な庭園
作庭年代、表現意図共に定かでないが、室町時代末期に優れた禅僧の作庭と伝えられる
此処で「龍安寺」という前書のある名句を一句ご紹介する
寺院の大庇(おおひさし)と蝶の「大・小」、大庇の高みから庭へ舞い降りて来る蝶の「上(→)下」移動、方丈の大庇と舞う蝶の「静・動」。これ等の contrast が秀逸である
実に絵画的な作品である。添付した「龍安寺の石庭」を見乍ら、大庇から石庭へ舞い降りて来る蝶を想像してみて下さい‥「ほらっ、そこに蝶々が‥」
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
10:55 龍安寺発
【仁和寺】〔真言宗・御室(おむろ)派総本山〕
『仁和寺』と言えば、まず思い出すのが高校時代の古文の時間
吉田兼好の徒然草第52段「仁和寺にある法師」である〔勿論、仁和寺に居た僧侶が出かけた先は『石清水八幡宮』であるが‥(笑)〕
そして次に思い浮かべるのは、『宇多天皇(867-931(在位:886-897)年)』
仁和寺の創建は888年で、開基が宇多天皇
宇多天皇は、一度臣籍降下したが藤原基経の計らいで天皇となった
『阿衡(あこう)事件※』で勅書を改作させられた関白藤原基経が死去した891年以降、宇多天皇が親政した寛平年間(889-898年)の政治を理想化し『寛平(かんぴょう)の治』と呼ぶ
基経の死後、宇多天皇は菅原道真を重用。894年道真が遣唐使廃止したことは有名
『阿衡事件』とは、宇多天皇即位後、藤原基経を関白とした時の勅書に「宜以阿衡之任為卿之任」とあったので、基経は、「阿衡は地位だけで職務がない」と言いがかりをつけ、天皇が勅書を改作させられた事件
「金堂」は、1613(慶長18)年建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624-44年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として重要
[15][左上]仁和寺【国宝】金堂
[右上]同 中門にて仁王門を back に
【妙心寺・退蔵院】
此の塔頭は、応永11(1404)年創建。足利4代将軍義持の命で如拙(じょせつ)が描いた水墨画、国宝『瓢鮎(ひょうねん)図』(1415年以前の作)が著名
「瓢箪で鮎(なまず)」を押さえるという禅の「公案」を描く。因みにナマズは、今は「鯰」と書くがこれは国字。中国由来は「鮎」を使う退蔵院には、画聖「狩野元信」作庭の方丈庭園(枯山水庭園)と、昭和40年に中野金作作庭の池泉式庭園「余香苑」があるが、いずれも典雅で見る者を魅了する
[15][左下]妙心寺【国宝】『瓢鮎(ひょうねん)図』
[中下]同『退蔵院』門前にて
【広隆寺】
小生、前々から日本の国宝第1号の廣隆寺の弥勒菩薩を見てみたかったのである
制作時期は7世紀とされるが、制作地は日本、朝鮮渡来等、定まっていない念願叶って初めて拝顔したが、実に美しい半跏思惟像〔=左脚を垂れ、右脚を屈げ左の膝頭に乗せて腰をかけ、右手を頬の辺りに挙げて思考に耽る姿〕である
以前、法隆寺の中宮寺・弥勒菩薩は見たことがある
さて、皆さんはどちらの弥勒菩薩の fan ですか? 小生は『‥ヒ・ミ・ツ‥』です(笑)
車で行って初めて判ったことだが、広隆寺は、正に太秦の映画村の隣りに立地する。
[15][右下]広隆寺【国宝】弥勒菩薩像
11:07 仁和寺前〔駐車500円(時間無制限)〕
11:10~11:50 仁和寺〔境内を散策:仁王門、国宝・金堂、五重塔〕
11:40 仁和寺発 / 南東へ約700m徒歩にて妙心寺北総門へ向かう。
11:50 妙心寺北総門から更に徒歩で南へ400~500m歩く
11:57 妙心寺退蔵院着〔拝観:@500円/駐車料金無料〕~元信の庭園、瓢鮎図~
12:20 妙心寺発
再び徒歩で仁和寺の駐車場迄歩く
12:40 仁和寺駐車場発
13:05 広隆寺着〔拝観@700円/駐車料金無料〕~国宝・弥勒菩薩~
13:30 広隆寺発〔→帰途へ、刈谷SAにて小休止、夕食を〕→ 17:30 中嶋宅着→ 18:00 拙宅着
【小生comment】
二日目は大津プリンスホテルを出発した頃から雲行きが怪しくなり、大徳寺に着いた頃には雨となった
前日の天候と違い雨天なのだが、湿気が多くとにかく暑かった
車の中はエアコンが効いて涼しいのだが、車から出て歩くと直ぐに汗が噴き出て来るのには閉口した
右京区にある龍安寺・仁和寺・妙心寺周辺は、37年前、中嶋君が大学教養部時代に下宿していた場所である
龍安寺の鏡容池の周りを散策している辺りから中嶋君が俄然雄弁になった
昔日の青春時代、勉学に勤しんだ頃の懐かしい思い出が、彼の脳裏を走馬灯の様に駆け巡っているのを感じ取ることが出来た
彼曰く、「昔、よくここを散歩したよ
石庭は数回しか見ていないが、寺の境内は週に何回も散歩したんだ」
仁和寺から妙心寺へ向かう道すがらでは、狭い路地を横切った際、また曰く、
「確かここを曲がるとクリーニング屋があったんだが‥ / あーっ、まだあるよー!」
妙心寺は46もの塔頭がある大寺院だが、北総門から南総門に程近い退蔵院迄の境内数百米を歩き乍ら曰く、「バイトで家庭教師していた時、いつもここを歩いたんだ。でも退蔵院に入ったことはなかったなぁ」
37年前、小生も彼の下宿に一週間以上泊めて貰った時の懐かしい想い出の断片が頭の中を去来した
小生にとっても、龍安寺・仁和寺・妙心寺いずれも37年ぶりの再訪である。実に懐しかった
■今日最後の話題は、2015年07月20日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第10回〕『【2】月山 ・【3】湯殿山』を up したのでご覧頂きたい。
2015年7月23日(木)付【時習26回3-7の会0558】~〔前略〕「『奥の細道』第10回‥【出羽三山〔羽黒山・月山・湯殿山〕】~【2】月山 ・【3】湯殿山」
↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/2605582637710-0.html
今回は、翌五月二十八日からの話である。
元禄二(1689)年 五月二十七日( 同 07月13日)立石寺の宿坊にて1泊した芭蕉一行は、翌28日大石田へ
以下の行程は、〔中略〕再掲し、一部補足する
同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
→・芭蕉は、大石田滞在中に地元俳人達から所望され「五月雨『歌仙』」を興行、その模様を前回ご紹介した『最上川』の前半で記している
今回は、『出羽三山』から《後編》の【2】月山と【3】湯殿山をお届けする。
[16][左]芭蕉・曾良の「尾花沢」→「立石寺」→「最上川」→「羽黒山・月山・湯殿山」行程map
[右上]月山1
[右中]月山2
[右下]湯殿山
【出羽三山】
《原文》
【2】月山八日、月山にのぼる。
木綿(ゆふ)しめ(注1)身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)(注2)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(がうりき)(注3)と云(いふ)ものに道びかれて、雲霧(うんむ)(注4)山気(さんき)(注5)の中に氷雪(注6)を踏(ふみ)てのぼる事八里(注7)、更に日月(にちぐわつ=じつげつ)行道(ぎやうだう)の雲関(うんくわん)に入(いる)(注8)かとあやしまれ、息絶(たえ)身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待(まつ)。
日出(いで)て雲消(きゆ)れば湯殿に下(くだ)る(注9)。
《現代語訳》
【2】月山
八日(1689年07月24日)、月山に登る。
木綿注連(ゆふしめ)(注1)を首に掛け、宝冠(注2)に頭を包み、強力(注3)という者に先導されて、雲や霧(注4)立ち込めて冷え冷えとした(注5)中を、氷雪(注6)を踏んで八里(注7)ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲間の関所に入って仕舞うかと思う程の山の中に分け入り、息絶え絶えに、身体も冷え切って頂上に到着すると、丁度日も暮れ、月が現れた。
笹を敷き、篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待った。
朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った(注9)。
(注1)木綿注連(ゆうしめ):「注連(しめ)」は不浄を祓う意味のもの/羽黒山では、コヨリか白布で編んだ紐で輪状の注連を作り首にかける / 月山に登る者は、登山前の潔斎(けつさい(後述))中から下山迄、「木綿注連」を修験袈裟(けさ)として掛けるのが習わしであった
(注2)宝冠(ほうかん):頭を包んで巻く白木綿、山伏頭巾の一種
(注3)強力(ごうりき):修験者の弟子で、登拝者の案内や荷物運びをする男
(注4)雲霧(うんむ):山中に発生する靄(もや)・濃霧
(注5)山気(さんき):山中に籠る冷気
(注6)氷雪:氷の様に硬くなった雪
(注7)のぼる事八里:実際は5里20町(=21.8km)程の距離(因みに、1里=3,927.3m/1町(丁)=109.09m)
(注8)日月行道(じつげつ(=にちがつ)ぎょうどう)に入(いる):「日月行道」は太陽や月の通い路にある雲間の関所のこと、雲が掛る高い山に登る様をいう
(注9)湯殿に下(くだ)る:月山山頂より湯殿山神社迄、徒歩約2時間程(約8.5km)かかる
《原文》
【3】湯殿山
谷の傍(かたはら)に鍛治(かぢ)小屋(注1)と云(いふ)有(あり)。
此国の鍛治、霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て爰(ここ)に潔斎(けつさい)(注2)して劔(=剣)を打(うち)、終(つひに)「月山」と銘を切(きつ)て(注3)世に賞せらる。
彼(かの)龍泉(りようせん)(注4)に剣を淬(にらぐ)(注5)とかや。
干将(かんしゃやう)・莫耶(ばくや)のむかし(注6)をしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しふ)(注7)あさからぬ事しられたり。
岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくら(注8)の花の心わりなし(注9)。
炎天の梅花(注10)爰(ここ)にかほるがごとし。
行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ)(注11)も爰(ここ)に思ひ出(いで)て、猶まさりて覚ゆ(注12)。
惣而(そうじて)此(この)山中の微細(みさい)、行者(ぎやうじや)の法式として他言する事を禁ず。
仍(よつ)て筆をとゞめて記さず。
坊に帰れば、阿闍利の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼の句々短冊に書(かく)。
涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峯幾つ崩(くずれ)て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良
《現代語訳》
【3】湯殿山
湯殿山に下る谷の片隅に鍛冶小屋(注1)というのがある。
出羽国の刀鍛冶(=月山)が、霊験灼(あら)たかな水を探し出して此処で身を清め穢れを祓い(注2)剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻み(注3)世の中で高く評価された。
これは、中国のかの龍泉の水(注4)で鍛錬した(注5)という謂れに通じるものだろうか。
その昔、名剣を作り上げた「干将と妻の莫耶の故事(注6)」を慕うものである。
その道に熟達した技を身につけた(注7)者の、その道への執心が一通りでないことがよく解るのであった。
岩に腰かけて暫く休んでいると、三尺ばかりの桜が、蕾(つぼみ)を半分程開きかけているのを見つけた。
降り積もった雪の下に埋まり乍らも、春の到来を忘れずに花を開こうとする遅ざくら(注8)の花の心は実に殊勝である(注9)。
所謂「炎天の梅花(注10)」が、此処に花の香を放っている様である。
行尊僧正の「もろともにあはれと思へ山桜‥」と詠んだ趣深い歌(注11)も思い出され、一層沁み々々と情緒深く感じられた(注12)。
一般に、湯殿山中の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。
従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。
南谷の宿坊に帰ると、阿闍梨の求めに応じて、出羽三山順礼の発句を短冊に書いた。
【意】[説1] 如何にも涼しく快いことだ
‥ 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を(南谷の坊から)見ていると
[説2] 同上
‥ 三日月が鬱蒼とした木立の隙間から仄かに見える(この羽黒山の山中に)居ると
季語:涼しさ=夏
【意】昼間猛々しく屹立していた雲の峰(=入道雲)はいつしか崩れ、今は、月明かりに照らされた月山が眼前にその姿見せてくれている
季語:雲の峰=夏
【意】湯殿山の神秘は昔から他人に語ることが許されないからこそ、この霊場から受けた感動も一入(ひとしお)で、感涙に袂(たもと)を濡らして仕舞った
季語:湯殿行=夏
【意】湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている
だからであろう、参道には賽銭が沢山散らばっている其の賽銭を踏みつつお参りに上がると、思わず有難い気持ちで涙が零(こぼ)れるのである
季語:湯殿行=夏
(注1)鍛治(かぢ)小屋:月山山頂から300m程下った所にあった行者小屋
此処で刀鍛冶「月山」が名剣『月山』を鍛え造ったと伝えられる
芭蕉が訪ねた時、其処は修験者の宿泊小屋になっていた
(注2)潔斎(けつさい):水浴に拠り穢れをとる神事
(注3)銘を切る:刀剣の製作者の名を刀身の柄に刻み込むこと
(注4)彼(かの)龍泉(りようせん):「彼の」=世間によく知られているの意
龍泉:中国湖南省汝南郡西平県にあったという、刀剣を鍛えるに適した水の出る泉
(注5)淬(にらぐ):刀剣を鍛える時、刀身を焼いて水に入れ鋼(はがね)の質を硬くすること
(注6)干将(かんしゃう)・莫耶(ばくや)のむかし:古代中国「周」の時代の刀鍛冶「干将」とその妻「莫耶」の故事 /『太平記』巻13「兵部卿(ノ)宮(=護良(もりよしorもりなが)親王(1308-35))薨御(ノ)事(ニ)付(キ)干将莫耶(ガ)事」に由来する / 護良親王は、1334年冬、父 後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕えられ、身柄を鎌倉将軍府にあった足利直義の監視下に置かれた / 翌1335年 北条時行の中先代の乱が起きると、時行に奉じられると懸念した直義の命を受けた淵辺(ふちべ)義博(?-1335)により殺害された / (尚、北条時行(?-1352)は鎌倉第14代執権北条高時の次男) / 義博は牢の中で護良親王を殺害する際に、刀の鋒(ほこさき)を噛み折られる等苦戦する / 牢外へ出て首をみると、生きた様に両眼を見開き睨みつけるので、義博は「中国の干将・莫耶の故事」を踏まえ、近くの藪の中に首を打ち捨てた
【干将・莫耶の故事】
例え話が長くなるので要点を以下に記すと‥「楚王は、夫人が産んだ鉄丸を「金鉄の精霊」と思い、刀鍛冶「干将」にこの鉄で宝剣の作成を命じた / 干将は、妻の莫耶と共に呉山に行き「龍泉の水」に入れ鍛えて、3年の内に雌雄2振りの剣を完成 / 完成した剣を見た莫耶は干将に /「これは怨敵を滅ぼす聖霊が宿る剣の様だ / 丁度いま私は妊娠したが、生まれる子供はきっと激しく勇敢な男に違いない / 故に、2振りの剣のうち1振りは隠し置いて我子に与えて欲しい」と頼み、干将も莫耶の願いを聞き入れ1振りを隠し置いた / 後日、もう1振りの剣が隠されていることを知った楚王は激怒し、干将を出頭させ、彼の首を刎ねた / 莫耶が出産した子は、その名を眉間尺という / 眉間尺は居丈高に育ち、15歳の時父が隠し置いた剣を手にすると、楚王を討ち取ることを誓い、紆余曲折を経て果たした」
(注7)堪能(かんのう)の執(しふ):「堪能」=深く物事に達して上手なこと、又、その人/「執」=物事を遣り遂げようとする心
(注8)遅ざくら:月山の桜は、高山植物タカネザクラ(俗称:タケザクラ)/芭蕉が見た時は丁度その開花時期であった
(注9)わりなし:殊勝である/健気(けなげ)である
(注10)炎天の梅花:『禅林句集』所載の「雪裏(せつり)(ノ)芭蕉摩詰(まきつ)(ガ)画/炎天(ノ)梅蕊(ばいずい)簡斎詩」に拠る /「摩詰」=唐の官僚・詩人・南画の祖と言われるの王維(699-759)/「簡斎」=南宋代の官僚・詩人、陳与義(1091-1139) /「雪裏ノ芭蕉」「炎天ノ梅蕊(=梅花のこと)」共に現実には有り得ない情景で、「実際に有り得ない」→「季節に囚われない」ことを述べている
(注11)行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ):「行尊(1055-1135)」=天台宗寺門派の僧・歌人 / 平等院大僧正 / 三条天皇の曾孫 / 1123年 天台座主 / 1125大僧正 /「哥の哀」は、『金曜和歌集』(1124年頃)雑 556〔小倉百人一首66番〕
【詞書】大峰(おおみね)にて思ひかけず桜の花を見て詠める
もろともに あはれと思へ 山桜 花より外(ほか)に 知る人もなし 前大僧正行尊
【意】私がお前を愛しく思う様に一緒に愛しいと思っておくれ、山桜ヨ
この山中では山桜花のお前以外に知る人(=心の通い合う人)もいないのだから
(注12)猶まさりて覚ゆ:眼前に見える遅桜から受ける感銘が、行尊の歌を思い重ねることで一層優って感じられる、の意
【小生comment】
南谷の坊で詠んだ4句は、「南谷別院」で「羽黒山」を望んで読んだとすれば、第一句の「羽黒山」の解釈は[説①]となる
一方、「羽黒山」「月山」「湯殿山」と登山した順に時系列に詠んだとすれば、第一句「羽黒山」は[説2]となる
[説1]と[説2]のいずれにしても不自然ではないが、小生は時系列に詠んだ「説②」を支持したい
では、また‥〔了〕
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南谷の坊で詠んだ4句は、「南谷別院」で「羽黒山」を望んで読んだとすれば、第一句の「羽黒山」の解釈は[説①]となる
一方、「羽黒山」「月山」「湯殿山」と登山した順に時系列に詠んだとすれば、第一句「羽黒山」は[説2]となる
[説1]と[説2]のいずれにしても不自然ではないが、小生は時系列に詠んだ「説②」を支持したい
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